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翻訳・校訂
1  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 09:59
1 名前: IMAGINE 投稿日: 2003/06/25(水) 19:17 [ /MmrDGdg ]

【IMAGINE】に掲載する漢籍日本語訳テキストに関するスレッド。
誤訳を指摘したり、みんなで訳文を考えたり。
2  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 09:59
2 名前: むじん@IMAGINE 投稿日: 2003/06/28(土) 15:22 [ /MmrDGdg ]

【IMAGINE】掲載分に限定する必要はないですね。
漢文の読解や翻訳に関することならなんでも構いません。
ただし、むじん@IMAGINEは漢文のシロートなのでお力にはなれないと思いますが(^^;
3  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 09:59
3 名前: むじん@IMAGINE★ 投稿日: 2003/07/18(金) 07:06 [ /MmrDGdg ]

とにかく楽しむこと。自分のために。




自分には漢文力がないからといって迷う必要はありません。
世界で一番、漢文力がないと自信をもって言える人だけが参加の資格を失います。
しかし世界で二番目くらいかな、という人は、自分より読めない人のために参加してください。
ほかでもない、むじんがその程度のかるい気持ちで『三国志』を訳しています。
もし訳を間違っても、誰かが気付いて直してくれるから心配いりません。
ヘタでもヘタなりにやっていけばいいし、
間違いを指摘されることがあっても、その経験の積み重ねが宝物になっていきます。

「何不為也!」
これが少しでも読めたような気がした人は、私たちと一緒に体験してみませんか。
4  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:00
4 名前: むじん@IMAGINE★ 投稿日: 2003/07/18(金) 07:13 [ /MmrDGdg ]

なにも『論語』一冊まるごと翻訳しろ、とは言いません。
ただ1つの行でも、1つの語句でもかまわないんですよ。
あまり難しく考える必要はないんじゃないかな…。
5  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:00
5 名前: むじん 投稿日: 2003/07/31(木) 17:27 [ /MmrDGdg ]

…わかんないところは他人まかせ。

「但以地処函夏人伝正朔度長n短魏実居多.」
たぶん、漢民族の土地を支配し、暦・度量衡を伝えたのは魏…というような意味かと。

「盍更張,豈真揶揄陳寿哉!」
なんぞ「更張」せざる?陳寿うんぬんは文意が理解できず。

「是書之有紀伝,不必他徴一翻.」
これも意味不明。

「因附列己名参用官本,是書一準王書列名之例.」
官本を参照したらしいけど…。他は?
6  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:00
6 名前: ツ?ツ?ツ? 投稿日: 2003/08/01(金) 16:30 [ /MmrDGdg ]

「迄於両漢名実相允,今古共伝降及曹氏祖名多濫,必無慚徳其惟武王.」
「自晋已還竊号者非.一或承家之僻王,或亡国之庸主,猶曰祖宗.孰云其可.」
「由後比較,而言読者,無以辞害意.」
「使陳寿不美於春秋・遷・固之罪.」
「不託始於魏文,而託始於曹操,実不及魏書,序紀之得体.」
今回はむずかしいです。
7  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:01
7 名前: むじん 投稿日: 2003/08/02(土) 18:13 [ /MmrDGdg ]

今回のナゾ。
「疑以伝疑省多少,呂政牛睿穢汙緗素也.」

今まで以上に意味不明。手がかりさえ掴めず…むぅ。
8  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:01
8 名前: suite 投稿日: 2003/08/03(日) 18:45 [ tWsIOzSo ]

 主語に当たる文字さえわかればと思ったのですが、後文の「呂政」でしょうか?
 だとしたらおそらく始皇帝を指すと思うのですが・・・。
 「睿(=叡)」は、「聡明さ」「聡明なさま」「天子の言動・事物に用いる敬語」
 「穢」は、「よごれた、荒れた」「雑草、よごれ、悪人、邪悪な行為」
 「汙(=汚)+名詞」は、「汚れを洗い落とす」
 「緗素」は、、、訳せません(汗)

 手がかりがつかめたら、またメールします。
9  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:01
9 名前: むじん 投稿日: 2003/08/03(日) 19:06 [ /MmrDGdg ]

おお、なるほど。呂不韋の血筋を引いているから呂政というのですか。
「睿」というのが天子の言動を修飾する敬語以外の使われ方を知らなかったんですが、
かといって穢汚という言葉に付くとも思えず、どうにもならなかったのですが、
呂政の解をお聞きして、ああ、これは東晋の司馬睿のことだと理解できました。
司馬睿は魏将牛金の血を引いていると言われているんです。
「緗」は桑の若葉、または浅黄色の絹のことのようですね。
呂政・牛睿が素絹をけがした、と。…で、いいのかな(^−^
10  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:01
10 名前: KJ 投稿日: 2003/08/13(水) 01:17 [ 3ZIGl9Fs ]

官職・称号でつまずいています。アドバイスをお願いいたします。

「秦州.案禹貢本雍州之域,魏始分隴右置焉,刺史領護羌校尉,中間暫廃.」

秦州。『禹貢』によるともともと雍州の領域であった。
魏の始め、隴右を分けてここに置き、〜〜 暫定的に廃止した。

「刺史領護羌校尉、中間」の部分どう解釈したらいいでしょうか。
刺史|領|護羌校尉、  刺史領|護羌校尉、  刺史|領護羌校尉、
単語の切り分けができません。そのため中間も意味がわかりません。
どうかよろしくお願いいたします。
11  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:01
11 名前: suite 投稿日: 2003/08/13(水) 05:49 [ C9O6rWcU ]

 KJさん、コツコツと「職官志」を訳しているsuiteです。官職関係となるとつい瞳が輝いてしまいます♪
 ところで、このような便利なサイトがあります。
 中華民国台湾のサイトなので、大陸でのみ使われている漢字が採用されていたりと厄介なところはありますが、たいへん有益なサイトです。

 http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/
 http://china.ic.daito.ac.jp/cgi-bin/handy/ftmsw3

 刺史|領|護羌校尉 でいいと思います。

 隴右ヲ分カチテ焉ヲ置ク、刺史ヲシテ護羌校尉ヲ領セシム(かな?)
  → 隴右を分けてこれを置き、刺史には護羌校尉を兼任させた

 という意味だと思います。
12  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:02
12 名前: むじん 投稿日: 2003/08/13(水) 07:45 [ /MmrDGdg ]

KJさん、こんにちは〜。suiteさんもおつかれさまです。

おおよそsuiteさんのおっしゃる通りで、領・守・行・兼はみな兼任という意味のようです。
「焉」はコレ・ココと読みますが、もしかしたら日本語では読まない「置き字」の可能性も…。
「始」はハジメテと読むのではないでしょうか。
「初」と「始」は日本語での使い分けと少し違うようなので戸惑うことがあります(^^;
「中間」はナカゴロかな?魏の時代の中期という意味でしょうか。たんに「途中」でいいかも。

がんばってください〜♪
13  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:02
13 名前: suite 投稿日: 2003/08/13(水) 10:10 [ C9O6rWcU ]

あら、ほんとだ。。。「焉」は読まなくとも通じますね。
「隴右を分かちて置く」→「隴右を分けて置いた」「隴右地方を分割して設置した」


「初」と「始」のちがいは熟語にしてみればわかりやすかと思います。
  「最初」「初年」→さいしょ
  「開始」「始業式」→はじまり


『晋書』巻二十四「職官志」に、

 「護羌、夷、蠻等校尉,
 案武帝(司馬炎)置南蠻校尉於襄陽,西戎校尉於長安,南夷校尉於寧州。
 元康中(291〜299),護羌校尉爲涼州刺史,西戎校尉爲雍州刺史,南蠻校尉爲荊州刺史」

とあります。このことを指すのでしょうか。

それにしても短時間集中レスですね(⌒▽⌒)у
14  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:02
14 名前: むじん 投稿日: 2003/08/13(水) 11:04 [ /MmrDGdg ]

なんというか、厄介なことで。
魏が隴右から分割設置したというのは一体なにを指しているのでしょうか。
秦州かな?でも『三国志』には魏の時代に秦州が存在したという記述がないんですよね。
おそらく『禹貢』の文を承けて、雍州を指していると思われます。
そうすると後に続く刺史は雍州刺史ということになります。
しかし『三国志』に温恢や徐バクが涼州刺史・領護羌校尉となったことは見えますが、
雍州刺史・領護羌校尉については記載がありません。
suiteさんご紹介の「職官志」でも(後の時代です)、涼州刺史が護羌校尉を兼務したことになっていますね。
魏朝最後の雍州刺史は鍾会とともに蜀を攻略した諸葛諸でしょうか。
蜀攻略が263年冬、雍州を秦州と改めたのが晋朝建国を挟んで269年ですから、
「中間尋廃」したのは雍州のことではなく、刺史と護羌校尉の兼任のことでしょうね。
ああ、ややこしい…ほんと。
15  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:02
15 名前: KJ 投稿日: 2003/08/13(水) 23:44 [ PihvCcGY ]

ご丁寧な、そして早速なアドバイスありがとうございます!

刺史|領|護羌校尉 ですか!なるほど、それに領は兼任ですか。
これはありがたい!一歩前進しました!
IMAGINEはこういう使い方もあるんですねー!

それと魏が秦州を置いた話ですが、
同じ地理志上の雍州志では、
「魏文帝即位,分河西為涼州,分隴右為秦州,改京兆尹為太守,
馮翊、扶風各除左右,…」
とあります。晋書地理志だけで見ると、
魏の始めに(が始まってから)、秦州を置いたようです。

suiteさん、むじんさん、どうもありがとうございました。
また利用させていただきますねー!
16  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:03
16 名前: むじん 投稿日: 2003/08/14(木) 00:06 [ /MmrDGdg ]

この掲示板も少しお役に立てたようで嬉しいです。
それにしても、新事実発覚ですね。
なんと魏文の時代にすでに秦州があったとは思っても見ませんでした。
『三国志』を読んだだけでは三国時代を理解することはできないんですね。
17  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:03
17 名前: KJ 投稿日: 2003/08/21(木) 00:19 [ KpkB4SgU ]

訳す上で知識として知っておきたいことがあります。
蜀郡属国都尉など、郡の属国都尉についてです。

「安帝又以諸道置蜀、廣漢、ケン為三郡屬國都尉,」

意味は、「安帝はまたもや蜀、廣漢、ケン為の三郡に諸道を置いた」
ことと、「三郡それぞれには、屬國都尉が置かれた」
ということだと思います。

「属国」は異民族を支配するときなどに置かれる植民地のようなもの
だと思います。都尉は軍事職によくつけられるので、
属国都尉は、その属国を統治する軍事職だと思います。

上記の原文を見て、名詞と動詞に注意しながら読むと
実は間違って理解しているのではないかと心配になりましたので、
実際はどうなのかを確認をしたいと思っております。
よろしくお願いいたします。
18  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:03
18 名前: むじん 投稿日: 2003/08/21(木) 01:41 [ /MmrDGdg ]

どもです、こんにちは〜!
そうですね、この属国都尉もなかなか難しいところがありますね。
広漢郡の領域は広いため太守一人では治めにくいということで、
はじめ郡北部の統治を担当する出張所を設けました。それが広漢郡北部都尉です。
それは陰平道・甸テイ道・剛テイ道の3道で構成されていました。
のちに北部都尉を格上げして郡と同格にしたのが、広漢属国都尉です。
広漢属国という名前ですが、実は直接益州に属していて広漢郡からは独立しています。
ただ郡と呼べるほどの規模ではないので、属国都尉と呼ぶことにしたわけですね。
その職名も武官だからというだけでなく、太守に準ずるものという意識があると思います。
同じく蜀郡西部都尉、ケン為南部都尉が昇格されて属国都尉になりました。
さらに時代が下って広漢属国は陰平郡、蜀郡属国は漢嘉郡、ケン為属国は朱提郡になります。
ですから、郡中に都尉が置かれたというよりは、
郡を二つに分けて、一方に太守ならぬ都尉を置いたという感じでしょうか。

こういう説明でいいのか、はなはだ疑問ではありますが…(^^;
19  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:03
19 名前: KJ 投稿日: 2003/08/21(木) 02:18 [ KpkB4SgU ]

うおおお!そそる話ですね〜。

>のちに北部都尉を格上げして郡と同格にしたのが、広漢属国都尉です。
くどい質問します。すみません。
「広漢郡北部都尉」は出張所という行政単位でもあり、
同時にそこを治める職(名)でもある、ということでしょうか。

言葉だけでは難しいので表を補足でつけます。

郡−太守
属国−属国都尉
北部都尉−北部都尉
20  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:03
20 名前: KJ 投稿日: 2003/08/21(木) 02:24 [ KpkB4SgU ]

引用部分間違えました。訂正します。
>はじめ郡北部の統治を担当する出張所を設けました。それが広漢郡北部都尉です。
21  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
21 名前: suite 投稿日: 2003/08/21(木) 03:35 [ 2nt4YauQ ]

 おお、またもや官職が。

>「安帝又以酷ケ置蜀、廣漢、ケン爲三郡屬國寤ム」

 「安帝は又た香Xの道を以て蜀、廣漢、ケン爲三郡に屬國都尉を置く」
   →安帝はまた諸々の道(異民族が多く住んでいる区域・・・であったと思います)をもって、
    蜀・広漢・ケン爲の三郡に属国都尉を設置した。

 『晋書』志第四「地理上」益州の条でしょうか?
 どこからの引用か記していただけると調べやすいのですが。さいしょ『後漢書』を見てしまいました。

 で、『後漢書』の記述ですが。
 『後漢書』志第二十三「郡国志」(中華書局本だと12冊目3515ページ前後)に、

 「廣漢屬國故北部寤ム,屬廣漢郡,安帝時以爲屬國寤ム,別領三城」
 安帝の在位は、西暦106〜125年。

 「蜀郡屬國故屬西部寤ム,延光元年以爲屬國寤ム,別領四城」
 延光元年は、西暦122年。

 「ケン爲屬國故郡南部寤ム,永初元年以爲屬國寤ム,別領二城」
 永初元年は、西暦107年。

 とあります。

 広漢郡に話をしぼりますと、

 「広漢属国は元々は北部都尉であり、広漢郡に属していた。
 安帝の時代、属国都尉として、〔広漢郡とは〕別に三城を統治させた」

 広漢北部都尉(広漢郡の一部。担当者は広漢北部都尉)→ 広漢属国(広漢郡より独立。統治者は広漢属国都尉)
 でしょう。


 高島俊男さん著『三国志 きらめく群像』(121ページ)によると、

  ・・・属国は、郡レヴェルだが郡よりは面積・規模はやや小さい。属国の長官は属国都尉という。(大意)

 とのことです。
22  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
22 名前: むじん 投稿日: 2003/08/21(木) 10:08 [ /MmrDGdg ]

『後漢書』では「広漢属国都尉」「蜀郡属国」「ケン為属国」と項目を立てています。
で、集解が広漢属国都尉の「都尉」は衍字だろうと言っています。
普通に考えれば、地名なら「北部」「属国」だけで充分だろうと思うのですが、
suiteさんが引用したように、「属国=旧都尉」になってますので、
都尉という官名がそのまま彼の支配する地域の地名にもなっているわけですね。
司隷校尉や京兆尹、左内史などと同じです。
そうすると広漢属国都尉を地名とするのも、あながち間違いではないかも知れない…。

ちなみに益州の3つの属国都尉のほかにも、京兆尹の虎牙都尉(劉勲)や、
会稽郡の東部都尉(張紘)、汝南郡の陽安都尉(李通)などがありますね。
23  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
23 名前: MM2 投稿日: 2003/08/22(金) 23:11 [ 90LmTkfA ]

どうも。

[糸相]素…
古人の写本の多くに[糸兼]素を用い、浅黄色に染めたものをこう呼んだそうです。
転じて書籍を意味するらしいです。
24  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
24 名前: KJ 投稿日: 2003/08/22(金) 23:38 [ G9hSHWtQ ]

ご丁寧な回答ありがとうございます。お二方のおっしゃるとおり、
官職名がそのまま地名となった…。そう考えるのも不思議ではないですね。
京兆尹の尹もおかしいなぁと思っていたのでなるほどと思いました。
具体的な解説のおかげで分かりやすく、収穫もあり、よく整理できましたので、
今後の訳につなげていきます。
むじんさん、suiteさんありがとうございました。

PS:失礼致しました、原文の出典書くようにします。
25  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
25 名前: むじん 投稿日: 2003/08/23(土) 01:44 [ /MmrDGdg ]

おおっと〜!「?素」は書籍ですか!これはウチの漢和辞典には載ってない意味ですよ。
「名を竹帛に垂る」と言うときの帛と同じような意味ですね。
そうすると「呂政・牛睿が史書を汚すことを減らす」と読めばいいでしょうか。
おかげさまでやっと訳文ができそうです。ありがとうございました。
26  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
26 名前: むじん 投稿日: 2003/08/23(土) 01:49 [ /MmrDGdg ]

京兆尹や司隷校尉は始め戸惑いますよねっ。
『職官志』や『郡国志』を読んでやっと理解の手がかりがつかめました。
今後の翻訳に期待しております〜♪
27  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:05
27 名前: suite 投稿日: 2003/08/25(月) 11:10 [ szAGDuvA ]

 いづれは訳すと心に誓っている『後漢書』袁術伝についてなのですが、
 下調べのために『三国志』のほうと見比べていたら、どうもわからない点があるので、
 お知恵を拝借しようと思って書き込みました。

 袁術は即位するに及んで、九江太守を淮南尹と改称していますが、、、

 ならばなぜ劉備や孫権は帝位につくにあたって尹と改称しなかったのでしょうか。
 蜀尹とか丹陽尹とか、、、

 ふとした疑問なのですが、アドヴァイスお願いします。
28  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:05
28 名前: むじん 投稿日: 2003/08/25(月) 18:14 [ /MmrDGdg ]

うーん、これは難しい問題ですね。どなたかhelpお願いします。
呉の丹陽太守に諸葛恪・李衡・沈瑩・呂範・聶友・滕胤がいるようですが、
丹陽尹が現れるのは東晋以降でした。
蜀が蜀郡尹を置かなかったのは、彼らの意識に京師は長安・雒陽とあったからでしょうか。
29  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:05
29 名前: むじん 投稿日: 2003/08/25(月) 18:26 [ /MmrDGdg ]

おーっとと。司馬睿の実父は牛金ではなかったですね。
司馬懿は牛金を毒殺しましたが、小役人の牛氏と密通した夏侯銅環が司馬睿を生んだのでした。
「おそらくは伝の疑わしい部分を削除し、呂政・牛睿が史書を穢したようなことを加減した…」
ということでしょうか。まだまだ疑問は残ります。
30  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:05
30 名前: むじん 投稿日: 2003/08/25(月) 18:28 [ /MmrDGdg ]

ああ、史書じゃなくて系図ですね。
31  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:05
31 名前: むじん 投稿日: 2003/08/26(火) 11:08 [ /MmrDGdg ]

以前、耿武のことを書いたときも迷ったのですが、これがよく分からない…。
「別駕従事耿武等排閤伏子恵上,願幷見斬,得不死,作徒,被赭衣,埽除宮門外.」

「三国志列伝抄」では、「劉子恵を出し抜いて自分が上に立つことを嫌がり」としましたが、これは疑問です。
斬罪になるのなら上に立つも何もないですし、何より構文として不自然です。

今回「武帝紀訳」では「別駕従事耿武らは押し入って劉子恵に平伏し、上疏した」としました。
これも非常に疑問です。劉子恵に平伏した?うーん…。
32  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:06
32 名前: suite 投稿日: 2003/08/28(木) 06:43 [ szAGDuvA ]

 むじんさんへ。
 蜀漢および呉が「尹」を置かなかったことについて、三国志サポート掲示板というところに書き込んでみてもいいでしょうか。

 『集解』のように近代の人によって編纂された書籍について、漢和辞典で理解できない箇所は、現代の辞典で引くと解決することがあるようです。
 大東文化大学文学部が制作した「中国語大辞典」がすぐれているそうです。

 http://www.daito.ac.jp/gakubu/gaikoku/chinese/#jiten
 http://www.cuc.ac.jp/~zhao/cidian.htm

 こ、この値段は、、、んむぅ、、(自壊)
 任乃強『華陽国志校補図注』でもわからない点があるので、いづれは買うことになるんだろうな、と思っていたのですが、、、
33  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:06
33 名前: むじん 投稿日: 2003/08/28(木) 10:27 [ /MmrDGdg ]

あい、どちらへでもお尋ねになってください〜。なにか分かったらこちらにも教えてくださいね。
『中国語大辞典』って、うわー高い!でも魅力的だなぁ。
34  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:06
34 名前: HARUAKI 投稿日: 2003/09/01(月) 13:22 [ qk4OJynw ]

私はフィールドがやや異なるのですが、『三國志集解』(一九三六年、民國の廬弼撰、藝文印書館)に興味を持ち始めました。簡単に入手できるものと思っていたのですが、私の検索力が足りないのか、ネットの書店で見つからないです。当然のことながら自己責任で購入しますので、購入方法をお教え願えないでしょうか?
35  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:06
35 名前: おばら 投稿日: 2003/09/01(月) 15:04 [ Lush6zBE ]

どもはじめまして。真・漢楚軍談のおばらと申します。
私は琳琅閣書店http://www.rinrokaku.jp/で注文しましたよ。
入荷待ちで二ヶ月待ちましたけど。後漢書と三国志の集解を購入しました。

他にもネット上で簡単に待たずに購入できるところがあるかもしれません。
36  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:06
36 名前: suite 投稿日: 2003/09/01(月) 19:59 [ 0Q9hem6w ]

 HARUAKIさん、はじめまして。すぐ手に入れたいとのことでしたら、
 北九州中国書店 http://www.chugoku-shoten.com/ があります。
 新品で値段は6000円ほどです。リーズナブルなほうだと思います。
 私は違うところで購入したのですが、9000円ほどでした(X_X)
37  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:07
37 名前: HARUAKI 投稿日: 2003/09/01(月) 23:17 [ TUY1oUks ]

おばらさん、こんにちは。スイスイことHARUAKIでございます(^^ゞ
あちこちでお世話になって恐縮です。范増に伝がないとは意外でした…
suiteさん、はじめまして。HARUAKIと申します。
捜神記、大好きです。演義では九十九歳まで生きられたそうですが…
【ヴァレンタイン組曲】第二楽章とは、どういう意味なのでしょう?(余計な質問)

書店のご紹介、ありがとうございます。調べましたところ、
北九州中国書店では、在庫目録一覧で、
三国志集解(精)(注疏本二十五史)/年/ TW芸文 6160円
とあり、東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/ では、取り寄せで、
二十五史 7 三國志集解 台北 藝文印書館 105158 1996年 6,930円 精装 1,218p 27cm ISBN
というのが、ありました。
どこか違いがあるのでしょうか?
細かいことを言って、さらにお騒がせして申し訳ありません。
38  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:07
38 名前: suite 投稿日: 2003/09/02(火) 01:32 [ 0Q9hem6w ]

 HARUAKIさん、こんにちは。

 『捜神記』はおもしろいですよね。あといくつかアップしようと思っていますが、かなり先のことになりそうです。

 『三国志集解』については、、、
 おそらく正式名称が「注疏本二十五史 7 三國志集解」で、TWはTAIWANのことと思われます。
 出版元は中華民国台湾の藝文印書館ですので、まったく同じものでしょう。
 輸入本なので、値段には多少の上下があります。
 6000円台ですか、、、私には9000円近く出した記憶が、、、いいなぁ。


 そしてサイト名についてですが、ホームページをつくろうと思ったとき、

 1.KEEFについてのサイト
 2.三国志のサイト
 3.手塚治虫のBLACK JACKのサイト
   (チャンピオン掲載時、単行本収録時、作者逝去後における書き換え箇所についての指摘)
 4.友人の日記サイト
   (なぜか私が管理をする)

 以上の4つをつくろうと思いまして、平行してつくっていたのですが、、、

 1は、情報量の少なさから断念せざるを得なくなり、、、
 3は、掲載当時の週刊少年チャンピオンを全て集め、初版の単行本をすべて集めるのは無理だと悟り、、、
 4は、その友人の個人的事情によってやめになり、、、

 結果的に三国志サイトだけが残っているわけです。

 http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/index.htm

 本来はこれがサイトのトップ画面で、このアルバムジャケットをデザインしたのがKEEFという人です。1970年前後に活躍したフォトグラファー/デザイナーなのですが、この人の本名がわかったのが数年前というほどの情報量の少なさです。有名どころでは、BLACK SABBATH の初期2枚や、DAVID BOWIE の『世界を売った男』などを手がけていますが、ご存知でしょうか。

 4つのサイトをいっぺんにつくっていたので、なんとなく組曲のようだと思い、それぞれ第一楽章、第二楽章、第三楽章、第四楽章などとつけていたのですが、いま残っているのは一つだけです。中途半端な組曲です(笑)、、、(汗)
 いま考えると無茶なことをしたものです(X-X)
39  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:07
39 名前: むじん 投稿日: 2003/09/02(火) 01:58 [ /MmrDGdg ]

わー、少し目を離したあいだに情報いっぱいですね。
『三国志集解』は標点本が出てなかったと思います。全部白文ですね。
在庫状況は分かりませんが、みなさんご紹介の書店以外に以下サイトが手がかりになりますよ。
私は【日本の古本屋】経由で花島書店から購入しました。

【日本の古本屋】http://www.kosho.or.jp/kosho/user/index.asp
【本の街神田】http://www.book-kanda.or.jp/index.htm
【書虫】http://www.frelax.com/sc/
40  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:07
40 名前: HARUAKI 投稿日: 2003/09/02(火) 15:40 [ lkbUlqjk ]

私は、
【睡人亭】http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~tyv07679/index-j.html
の中国書籍販売店DBを参考にさせていただきました。
おばらさま、suiteさま、むじんさま、皆様のご協力に感謝いたします。
余談ですが、
【HINE's Treasure House】http://www.pure.cc/~hine/
において、
http://www.pure.cc/~hine/RockerRoom/Keef.html
を発見しました。クラシック専門だからなのか、知らなかったです…
宮城谷昌光氏は水彩画・写真に興味を持ち、あれほど色彩豊かな小説を描いているのを読むと、人生に無駄はないなあ、と生意気にも考えてしまっています。
スレッドと全く異なる話題と非営利目的の個人サイトを勝手にリンクをしていますこと、毎度のことながら管理人さんにご迷惑をおかけします。
41  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
41 名前: むじん 投稿日: 2003/09/03(水) 18:30 [ /MmrDGdg ]

なるほど、【睡人亭】もありましたね。
中国の本をどうやって入手するかは、多くのみなさんの関心ごとだと思います。
こうした情報についても引き続き募集します。
42  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
42 名前: suite 投稿日: 2003/09/08(月) 04:45 [ cSzrZBYc ]

 『後漢書』儒林列伝第六十九上「宋登伝」で、javascriptとstylesheetというのを使ってみたのですが、
 「名前をつけて保存」をすると、「<!-- saved from url=」が2つも表示されます。
 私のパソコン(OSはXP、IEは6)から見ると、原文が旧字体になっていて、自分ではとてもうまくいったと思っているのですが、これでいいのでしょうか。
43  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
43 名前: suite 投稿日: 2003/09/08(月) 05:29 [ cSzrZBYc ]

 すみません。「<!-- saved from url=」を一つにできました。
 よくわからないものを使うのは難しいですX_X;
44  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
44 名前: むじん 投稿日: 2003/09/08(月) 15:32 [ /MmrDGdg ]

その程度のことなら、私でもなんとか分かりますよー。
メールでもくだされ〜。
45  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
45 名前: むじん 投稿日: 2003/09/08(月) 18:58 [ /MmrDGdg ]

「その程度」って変だな…。
「それなら私にもなんとか分かる範囲です」でいいかな。
46  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
46 名前: suite 投稿日: 2003/09/20(土) 19:08 [ cSzrZBYc ]

 わからない箇所があるので、教えてください。

 『後漢書』儒林列伝第六十九下「高[言羽]伝」の最後のところ
 「賜錢及冢田」がいまひとつわかりません。

 訳としては、「金銭および墓と耕作地を下賜された」?

 「冢(塚)」は、大きく盛り土をして植樹したお墓
 「田」は、穀物を植える耕作地

 それとも、「冢田」で一つの単語なのでしょうか。
47  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
47 名前: むじん 投稿日: 2003/09/21(日) 02:58 [ /MmrDGdg ]

こちらの辞書にも載ってないので推測だけでお答えしますが、
「冢田」というのは、墓守に食べさせるための田地ではないでしょうか。
数人の墓守たちが、この田地から上がる収入で生活し、
農作業の合間に墓を整備するというのを想像してみました。
48  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:09
48 名前: NOB 投稿日: 2003/09/21(日) 04:15 [ TYzOjydA ]

suiteさん、むじんさん、お世話になっております。
たまたま発見できたので、ご報告をば。

漢文解読にかなりスタンダードに使われる(らしい)『漢語大詞典』という辞書があるのですが、そこには「冢田=墓地」とありました。用例や出典は不明でしたが、問題の文章については「亡くなったので、葬儀を営むためのお金と墓地を賜った」と素直に解して問題はないだろうと思います。

なお、嬉しいことに『漢語大詞典』はオンラインでの(一部)利用が可能なんです。
http://www.unihan.com.cn/hydcd/hdhome.htmへアクセスし、「漢語大詞典」をクリックすると認証を求められますが、ゲスト用のIDとパスワードはデフォルトでフォームに書かれていますので、そのまま「登録」を押すとログインできます。
これほどの辞書だと家に置くわけにもいかず(そもそも高すぎる!)、いちいち図書館にいくのも面倒なので、オンラインで調べられるのは本当に便利です。
49  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:09
49 名前: suite 投稿日: 2003/09/21(日) 15:17 [ cSzrZBYc ]

 むじんさん、NOBさん、ありがとうございます。早速修正しました。
 『漢語大詞典』は簡体字なので敬遠していましたが、ちゃんと読まないといけませんね(汗)

 サイトの歴史が浅いので少しでも新規公開しようと、とりあえず短い伝を選んでいるために最近は三国時代とはあまり関係ない人物が中心となっています。時代背景を把握していないので難しいです。
 これからも宜しくお願いします。

 NOBさん。
 『晋書』のほうは、正規に公開されたら僕のサイトのほうは削除するということでよろしいでしょうか?
50  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:09
50 名前: むじん 投稿日: 2003/09/21(日) 23:05 [ /MmrDGdg ]

おお、NOBさんありがとうございます!
なるほど、墓地でよかったのですね。
51  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:09
51 名前: suite 投稿日: 2003/09/26(金) 03:05 [ cSzrZBYc ]

 雑談スレッドが欲しいなぁ、と思いながら書き込みます^^;

 気になるのは、呉班が驃騎将軍に任ぜられたのはいつか、ということです。

 「李厳伝」注によると、驃騎将軍李厳が廃された231年当時の上位将軍の面々は、

 車騎将軍 劉エン
 征西大将軍 魏延
 前将軍 袁リン
 左将軍 呉壱
 右将軍 高翔
 後将軍 呉班

 ・・・そして、揚威将軍がトウ芝とあります。

 ちくま訳本には「呉壱に次ぐ」とあるので(原文省略。以下同じ)、呉壱が車騎将軍に任ぜられた234年ではないはずです。
 個人的には、トウ芝が車騎将軍に任ぜられた243年ではと思っていますが、推測の域を出ません。

 やりきれないのが、231年から234年の間に、驃騎・車騎・征西大の3名が相次いでいなくなってしまったことです。しかも、いずれも病卒ではなく・・・(悲)
 234年には、袁リンが驃騎将軍に任ぜられた可能性がありますが、『華陽国志』にも記されていないことを考えると、231〜234の間に卒したのでしょうか。
 同様に、234年には呉壱か高翔のいずれかが征西大将軍に任ぜられた可能性がありますが、、、これもどこにも記されていません。生没年が不明な高翔はともかくも、234年に確実に生存していた呉班の官位がわからないとは・・・。ただ言えることは、「呉班は諸葛亮卒去後はどうやらいくさには参加しなかった」でしょうか。
 将軍というのはいくさに出ないと名前が史書に残りにくいということでしょうか。漢中やライ降はまだしも、巴東郡のことは殆どなにもわかっていませんし・・・。

 結論としては、
 234年、呉班はとりあえず前左右後将軍よりは上位の将軍であった。(征西大将軍?)
 上位将軍であるから、どこか要所を守備していた可能性大である。(巴東?)
 最終的には驃騎将軍に任ぜられた。(243年?)
52  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:09
52 名前: suite 投稿日: 2003/09/26(金) 03:55 [ cSzrZBYc ]

 つづきです。

 となると、次は胡済の件なのですが、『華陽国志』に、248年に驃騎将軍に任ぜられたと明記されています。守備地は漢中。「董和伝」注と付き合わせると、中監軍・前将軍からの昇進のようです。「右」とあるので、「左」はおそらく呉班でしょう。呉班は少なくとも248年には生きていたようです。
 胡済は231年当時には中参軍であり、諸葛亮卒去時の官位で考察すると、長史の楊儀・ショウエン、司馬の費イに次ぐ官位でした。王平なきあとの漢中を守備したことといい、蜀漢でもっとも再評価されるべき人物と思います。

 「歴代補任表」ですが、私も前に似たようなものを作っておりましたので(『漢書』を手本に手書きでルーズリーフに書き込んで、今は部屋の隅に眠っています)、完成されることを祈っています。
53  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:10
53 名前: suite 投稿日: 2003/09/26(金) 03:58 [ cSzrZBYc ]

 51の書き込みですが、正しくは「揚武将軍がトウ芝」です。すみません。
54  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:10
54 名前: むじん 投稿日: 2003/09/26(金) 11:09 [ /MmrDGdg ]

雑談なら「こんにちは!」スレッドがあるし、まあ新設しなくてもいいかなぁと思ってまふ。
呉班が驃騎将軍に任じられた時期ですか。
そうですね、呉壱の車騎将軍在職が確認される237年以前ではありませんし、
四方将軍着任が遅かった搦ナの車騎将軍任官以後でもないでしょうね。
やはり243年が妥当なところでしょうか。
この年は国内で大規模な政変が起こったらしく、蔣琬が職権を失い、
費禕・姜維・王平・馬忠が一斉に昇進しています。
呉班もこの騒ぎに連動して驃騎将軍に昇進した可能性はかなり高いと思います。
ただ、下位にあった王平が、呉壱の死の直後から督漢中の職務に就いているので、
呉班は漢中以外の方面を担当したということになりそうです。
なるほど胡済の右驃騎将軍は呉班と対をなすものですか。気が付かなかったです。
胡済の官途は姜維・張翼とからめれば考えられそうですね。
256年の時点で張翼が鎮南大将軍、胡済が鎮西大将軍だったのは確実ですから、
259年に張翼が車騎将軍になったのと同時期に驃騎将軍になったとも考えられます。
そうすると呉班は259年まで生存していた可能性も…。
55  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:10
55 名前: suite 投稿日: 2003/09/26(金) 21:58 [ cSzrZBYc ]

 胡済は2人いるようなのです。
 248年に驃騎将軍になった督漢中の胡済(「董和伝」注と「李厳伝」注などに記述有り)と、
 256年の時点で鎮西大将軍であった胡済です。

 劉巴も2人いるようなので(尚書令と征南将軍)、わずらわしいですね。

 というか、私が早く『華陽國志』を訳せばいいという話も、、、^^
56  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:10
56 名前: むじん 投稿日: 2003/09/28(日) 05:20 [ /MmrDGdg ]

ええ、『集解』でも別人ではなかろうかと書いてましたが、
いかんせん論拠が書かれてなかったのでスルーしました。
『華陽国志』の方になにか記載ありましたか。
57  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:11
57 名前: suite 投稿日: 2003/10/04(土) 20:18 [ Vdwf6Aa6 ]

 胡済の話と変わりますが、「後主志」の街亭の戦いの後の記述で、

 「亮抜將西縣千餘家還漢中,戮謖及沐、盛以謝衆,奪襲兵,貶雲秩。」とある次の

 「長史向ト以不時臧否,免罷」

 が訳せないので教えてください。

 諸葛亮は西県の千家余りを移住させて漢中に帰還すると、馬謖および張沐・李盛を誅殺して兵士に謝罪し、黄襲の兵を奪い、趙雲の官位を下げた。
 〔丞相〕長史の向朗はそのとき善悪を判定できなかったので、罷免となった(?)。

 でしょうか。「以不時臧否」の訓読ができずにつまづいてます。
58  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:11
58 名前: suite 投稿日: 2003/10/04(土) 22:18 [ Vdwf6Aa6 ]

 「西県の千家余りを率いて」のほうがいいですね。すみません。
59  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:11
59 名前: むじん 投稿日: 2003/10/05(日) 00:41 [ n2rIJIJc ]

うーん、これはどうなんでしょう?
不時は予期しないこと。臧否は善悪のこと、あるいは善悪をつけること。
「不時をもって臧否した」なのか、それとも「不時の臧否をしたことをもって」なのか…。
どちらにしても意味が読みとりにくいですね〜。どなたかのご教示を待ちましょう。
60  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:11
60 名前: 酒匂貴市 投稿日: 2003/10/09(木) 18:22 [ FIGqaxqU ]

I think; therefore I am!!
http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/の酒匂です
背後関係をよく知らないので信用ならないのですが
「長史向ト時あらざるを以て、臧否せられ免罷す」
"長史の向朗は時宜よろしきを得ることができなかったので、人物を評論され、罷免された。"
ではないかと愚考します。
61  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:11
61 名前: むじん 投稿日: 2003/10/10(金) 02:33 [ n2rIJIJc ]

酒匂さん、こんにちはっ。
背後関係といえば誰も知らない…向朗ってそういう人だから…。
なるほど、向朗は臧否の対象になるのですか。
史書の記述が充分でないばかりに、解読にさえ支障を来すものなんですね。
62  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
62 名前: むじん 投稿日: 2003/10/10(金) 03:51 [ n2rIJIJc ]

典韋の出身地は己吾(きご)なのか已吾(いご)なのか…。
『典韋伝』では已吾、『武帝紀』では己吾になってます。困ったなぁ。

『後漢書集解』にヒントがあるのですが、読み方がわからない。
「永元十一年陳王削地以大棘郷直陽郷自隠隷之命以嘉名曰己吾猶有陳楚之俗焉」
陳王劉鈞が減封されたときのことを言っているようなのですが、
「嘉名を以て命(なづ)け己吾と曰ふ」って言われても、
己吾と読んでも已吾と読んでも、どこがどうして嘉名なんだか…。
結局どっちなのかがよくわからないんですよね。
63  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
63 名前: suite 投稿日: 2003/10/12(日) 07:36 [ Vdwf6Aa6 ]

 酒匂貴市さん、むじんさん、ありがとうございます。
 流れとしては、街亭の戦いの後、尚朗が馬謖関連でなんらかの不祥事をはたらいたので免官された、という感じです。

 「時あらざるを以て」でしょうか。
 そのように読んで訳すことにします。ありがとうございました。
64  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
64 名前: むじん 投稿日: 2003/10/13(月) 16:17 [ n2rIJIJc ]

まだ疑問は残るものの、ひとまず落着でしょうか。
向朗は馬良兄弟と親しく、おそらくそのためにこの事件を起こしますが、
のちに左将軍に復帰して行丞相府事になったりと、謎の多い人物です。
65  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
65 名前: KJ 投稿日: 2003/10/20(月) 00:06 [ RTtnIJZk ]

久しぶりに質問致します。
『晋書』袁宏伝で、袁宏の死んだ年を調べています。

「太元初,卒於東陽,時年四十九.」

この太元初の初は、太元の元年と解釈するべきでしょうか。
それとも初期と解釈するべきなのでしょうか。
(個人的には元年であってほしいのですが…)
66  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
66 名前: むじん 投稿日: 2003/10/20(月) 01:36 [ n2rIJIJc ]

うーむ、ふつう初年と言えば第一ヶ年と見ていいと思いますが、
この場合もそう読んでいいものかどうかはちょっと微妙ですねぇ。
どうなんでしょ^^?
67  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
67 名前: NOB 投稿日: 2003/10/20(月) 16:39 [ 97oRSdtU ]

KJさんはじめまして、むじんさんこんにちは。
「太元初」について、横から失礼します。

素人の個人的見解なのですが、経験上「太元初/太元末」というのは「太元年間の初期/末期」と解釈することが多いように思います。
初年を表したいときは、ほとんどが「太元元年」のように書かれており、「初」を使う場合でも第一ヶ年の意味では「初年」と記されているようでした。
太元年間が短かったら良かったのですが、太元年間は不幸にも(?)およそ20年も続いているんですよね。これだと「初期」というのを元年と解釈するのは、ちょっと勇気がいりそうです。
以上、当てにならない素人の見解でした。
Googleで袁宏を検索してみると、"約328〜約376"のようにうまく誤魔化しているところがありましたね。

余談ですが、自分の場合「太元中」のように書かれていると「太元の中ごろ」なのか「太元年間」なのか、ちょっと悩んでしまいます。


それから、ついでのようで申し訳ないのですが、ずっと前の投稿にレスをし忘れていたことに気付きました。
>suiteさん
>>49の「『晋書』のほうは、正規に公開されたら僕のサイトのほうは削除するということでよろしいでしょうか?」ですが、前に菅原さんもおっしゃっていた通り遠慮なく公開なさって構わないんじゃないかと思いますよ。
遅くなり、本当に申し訳ありません…m(_ _)m
68  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:13
68 名前: KJ 投稿日: 2003/10/20(月) 22:53 [ eCrSrPs. ]

むじんさん、NOBさんありがとうございます。
NOBさん初めまして。

お二人の意見を聞いて私もそう思うようになりました。
原文に「元年」や「初年」と書かれている箇所があることを考えると、
「初」だけの記述は初期という意味ではないかと思います。

そこで。ちくまの三国志ですが、いくつか訳をピックアップしてみました。

孫叔然伝「及建安初,」→「建安の初めになって」
孫叔然伝(賈洪)「建安初,」→「建安の初め」
諸葛誕伝「正始初,」→「正始の初年」
法正伝 「建安初,」→「建安の初年」
馬超伝 「建安之初,」→「建安の初年」
諸葛亮伝「以建安初」→「建安初期」

結局のところ、著者がどちらの意味として書いたかを知ることが正しい解釈の近道ですよね。三国志に限らず、どの史書の著者もそろって同様に「初年」と「初期」を分けて著そうとしたならば、ちくまのこれに関する解釈はいいかげんだと思います。

原文の著者たちは意識的に区別していたのでしょうか。その辺りのことが当時の文献として残っていれば解決ですね。

※原文は、私は本を持っていないため、電子漢籍文献から持ってきました。
69  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:13
69 名前: むじん 投稿日: 2003/10/21(火) 01:23 [ n2rIJIJc ]

NOBさん、ご教示ありがとうございます。
やはり第一ヶ年ではなく、もっと広い範囲を指すと見た方がいいのでしょうかねぇ。
同じ事件なのに「建安初」とも書き「建安元年」とは書かない例などがあれば参考になるかも。
どこかで見た覚えがあるのに、それがどこだったか…(^^;
70  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:13
70 名前: suite 投稿日: 2003/10/21(火) 11:28 [ Vdwf6Aa6 ]

 こんにちは。
 「建安初」を読み下すと「建安の初め」で、訳すときには「建安の初年」「建安の初期」などと別れるのは仕方のないことでしょうね。訳者によって表現は変わりますし。
 例えば「建安の初年」でしたら、だいたい1ケタ年(196〜204)というふうに解釈すれば問題ないかと思います。
 時代背景がわかれば、だいたいこのくらいかな、とわかることもありますしね。

 文帝紀注に引く典論
 「建安初,上南征荊州,至宛,張繡降」

 杜襲伝
 「建安初,太祖迎天子都許」
71  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:13
71 名前: むじん 投稿日: 2003/10/21(火) 17:50 [ n2rIJIJc ]

なるほど、やはり歳をまたがっている例ありましたね。
ということは結局ケースバイケースで判断するしかないということになりますね。
落ち着くところに落ち着いたという感じでしょうか(^^
72  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:13
72 名前: KJ 投稿日: 2003/10/21(火) 22:58 [ c2yHV74U ]

なるほど…。私はつい白黒はっきりさせたがるクセがありまして、
もっと現実的に考えなければならないなぁと反省しました。
しかも「初年」と「元年」を同じ意味だと思っていましたが、
むしろ「初年」と「初め」のほうが同じ意味のようですね。
もっと腰を落ち着けてことに当ろうと思います。
みなさんありがとうございました。
73  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:14
73 名前: むじん 投稿日: 2003/10/24(金) 18:18 [ n2rIJIJc ]

「初」をどう訳したらいいか、この言葉が出るたび迷うところですね。

『三国志』今日の更新分に「玉海引元魏江式曰…」とありましたが、どういう意味でしょうか。
北魏の『江式表』…と言ってるんじゃないかと思うのですが、いまいち確証がつかめず…。
74  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:14
74 名前: KJ 投稿日: 2003/10/28(火) 00:21 [ jfYHR20M ]

「玉海引」は「『玉海』を引いて」と読めませんか。
そもそも『玉海』という漢籍があるかどうかは分かりませんが、
Googleで
玉海巻第四十四 浚儀王応麟伯厚甫
玉海巻一一六「景徳考試新格」
というのが見つかったので、もしかしたらと思いました。
違ってたらごめんなさい。
75  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:14
75 名前: KJ 投稿日: 2003/10/28(火) 00:45 [ jfYHR20M ]

齊の明帝の時代の張融という人が『玉海』を著したようなことが
『南齊書』の張融伝に載っていました(電子漢籍より)。
やっぱりあるのかな…
76  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:14
76 名前: suite@後漢紀 投稿日: 2003/10/31(金) 01:45 [ yDtJXiTM ]

 『後漢紀』巻第二十九「孝献皇帝紀」建安十一年(206)の条です。
 短いので、次回の更新はこの箇所になりそうです。

 十一年春正月,有星孛于北斗。占曰,「人主易位。」
 曹操征高幹,斬之。
 己丑,&舞并前三萬戸,食柘城、陽夏四縣,比昶Z、呉漢故事。

 十一年(206)春正月、彗星が北斗星に流れた。占いでは、「人主たるもの(皇帝)が地位を代える」ということであった。
 曹操が高幹を征討し、これを斬った。
 己丑の日、曹操の封地を増やして前と合わせて三万戸、柘城・陽夏ら四県を食邑とし(?)、昶Z・呉漢の故事になぞらえた。

 このような感じでいいのでしょうか。
 これが終わったら、『華陽国志』劉後主志(パート1)を終わらせます。

 漢籍公開 乞御期待
 奇妙奇天烈 摩訶不思議
77  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:14
77 名前: むじん 投稿日: 2003/11/05(水) 16:30 [ 7eJsAdVM ]

語順から言うと、『玉海』は○○を引用して…ということになりそうです。
ただ「元魏江式」というのが分からないのです。
北魏の時代に『江式表』というのがあるらしく(内容は知らない)、
「元魏」は北魏を指していると思われますが、ちと確証なし。

柘城・陽夏四県を食む、の件。
『武帝紀』建安十五年の注に、曹操は武平・陽夏・柘・苦の四県を食んでいたとあります。
曹操は献帝を奉迎したとき武平を領しています。
この記事は、柘城・陽夏の二県を加増され、合わせて四県になったという意味ではないでしょうか。
探してみれば、これ以前に苦城を賜ったとの記事があるかも知れません。
78  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:15
78 名前: むじん 投稿日: 2003/11/05(水) 16:46 [ 7eJsAdVM ]

『于禁伝』に記載する曹操の于禁評。
ちくま訳「わしが于禁を知ってから三十年になる。危機を前にし困難にあって、
 かえって龐悳に及ばなかったとは思いもよらなかった。」
原文「吾知禁三十年,何意臨危處難,反不如龐悳邪!」

ついでに『演義』立間訳。(于禁従孤三十年,何期臨危反不如龐徳也!)
「于禁は三十年もわしに仕えてきたのに、わからぬものじゃのう。
 いざとなっては、龐徳にもおよばぬとは。」

原文を見てみると、ちくま訳のように「于禁は龐悳に及ばない、意外だ!」と、
彼に失望したようにも読めるし、『演義』などもその解釈に則っているようですが、
一方「やはり于禁が龐悳に劣るわけがないのだ!」と解することもでき、
むしろ断固たる意志をもって彼への信頼を貫こうとしているようにも見えます。
曹操と于禁との関係を考えれば、こちらの方が妥当に思われますが…?

拙訳「吾は于禁を知ること三十年になる。危機に臨んで困難に処するにあたり、
 まさか龐悳にも及ばぬなどと、どうして思えたものだろうか!」
どうとでも読めるように案配してみました。
79  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:15
79 名前: 光璧 投稿日: 2003/11/05(水) 19:07 [ SUWmMgwM ]

どうも、初めまして。【解體晉書】の会員の光璧です。

『集解』も『玉海』も見ていないので、どのような文章か分かりませんが、
『玉海』は南宋の王応麟が著した類書のことと見て間違いないと思います。
その中に「元魏江式曰云々」という文があるのでしょう。

北魏の皇室は拓跋氏ですが、後に漢人風に元氏を名乗っていますので、
北魏のことを「元魏」と言ったりもします。
江式はたぶん、『魏書』巻91に伝のある人物のことではないでしょうか?
そこに「求撰集古今文字表」という文章があります。
ただ、『魏書』ではなく、わざわざ『玉海』から引いている
ところからすると、この文章ではない可能性が高いですけど……
80  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:15
80 名前: suite 投稿日: 2003/11/06(木) 05:29 [ Oy9I6sH6 ]

 むじんさん、ありがとうございました。早速公開しました。
 次は『華陽国志』パート1を完成させます。今年中にパート2(西暦231〜243)に入れるようにしたいです。

 光璧さん、来てくださってありがとうございます。
 中国史を愛する方々みんなで盛り上げていけたら、と思います。

 みなさまのこれからのご活躍をお祈りします!
81  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:16
81 名前: むじん 投稿日: 2003/11/06(木) 15:44 [ DBesovEY ]

光璧さん、はじめまして。
【解體晉書】【虎渓の橋】でお世話になっております。

なるほど、拓跋氏が元氏を称していたのですか。
拓跋魏、北魏、後魏という呼び名は知ってますが、元魏というのは初耳でした。
これでやっと問題が一つ解決しました。ありがとうございます。

【寒泉】を引くと、江式の名は『四庫総目提要』に何ヶ所か見えますが、
彼の著作として引かれるのは『古今文字表』ではなく『論書表』というものです。
どうやら『総目提要』のような内容の書で、すでに散佚していたようです。
『三国志集解』に引かれているのは、『三蒼』という書物の説明のためなので、
やはりこの『論書表』のことなのだろうと思います。

suiteさん、こんにちは。更新分拝見しました。
『華陽国志』も楽しみです。諸葛亮の死をはさんで体制入れ替わりの時期にあたりますね。
この交代期は蜀漢の歴史のなかでもかなり重要だと思っているので、しっかり拝見しておきたいです。
82  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:16
82 名前: むじん 投稿日: 2003/11/11(火) 17:55 [ PTiOfxRo ]

『三国志』徐晃伝。朱霊の注に朱霊の子朱術なんてのが出てきました。
あれ?と思ったのは、ちくま訳と同様【中央研究院漢籍電子文献】でも脱落していること。
両者ともに宋本をベースにしているらしく、おそらく宋本に「子術嗣」の三字が欠けているのでしょう。
盧弼集解ではその異同に触れられず、中央研究院もちくまも校勘漏れしているのが面白いですね。
83  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:16
83 名前: むじん 投稿日: 2003/11/11(火) 17:58 [ PTiOfxRo ]

『三国志』張コウ伝。「張コウが征西車騎将軍になった」とあります。
この官職は未見。『斉王芳紀』では車騎将軍とあるので「征西」の二字は衍字と思われます。
集解でも指摘されず、中央研究院もちくまもマヽ踏襲しています。
84  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:16
84 名前: suite 投稿日: 2003/11/11(火) 22:56 [ Oy9I6sH6 ]

 こんにちは。官職関係ということで目の色が変わっているsuiteです。
 征西車騎将軍とは、悩ませる官職名ですよね。いくつか考えられるものを記してみます。

 1.「征西、車騎将軍」の誤りである。(洪飴孫『三国職官表』の「征西将軍」の項には、「太和元年由左将軍遷,是年転車騎将軍」とあり、「車騎将軍」の項には、「太和元年由征西将軍遷」とあります。張コウは諸葛亮侵攻に対する防衛軍として指揮を執っていますから、征西将軍であっても不思議はないと思います)

 2.「征西車騎将軍」なる官職名が一時的に存在した。(『華陽国志』劉後主志に、「(西暦230年)秋,魏大將軍司馬宣王由西城,征西車騎將軍張コウ由子午,大司馬曹眞由斜谷,三道將攻漢中」とあります。『晋書』景帝紀の最後の部分にも、「宜依霍光故事,追加大司馬之號以冠大將軍」とあり、「大司馬大将軍」なる官職がありました。・・・ただ、車騎将軍が征西将軍的任務を兼任するときには、都督××(隴西・関中など)諸軍事などを加官されることが一般的な気がします。「斉王芳紀」で「車騎将軍」と書かれているのは、品位の上の将軍名のみを採用したのでしょうか)

 私は「1」だと考えますが、どうでしょうか。
85  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:16
85 名前: むじん 投稿日: 2003/11/12(水) 19:41 [ VvX2WbH6 ]

suiteさん、こんにちは。
うーん、これはなかなか難しい問題ですね。どの立場を採るにしろ傍証不足は免れない…。

(1)私もこれを考えてみたのですが、すでに諸葛亮が撤退したところで征西将軍とし、
まだ功績を重ねずして追って車騎将軍に昇任するのは、今ひとつ必然性がないというか…。
出陣前ならまだ納得できるのですが…。うむぅ。
戦捷後の任官であること、功績を挙げないまま次の任官があること。問題点は二つ。

(2)改めて調べてみると、実は司馬昭が「行征西安東将軍」になってるんですよね。
西なのか東なのかはっきりせい!というところですが(^^
それはともかく、征西将軍の職務を代行する安東将軍ということなんでしょう。
張コウの「征西車騎将軍」もおそらくこういうことなのかも知れません。
この場合でもやはり戦捷後の任官ということで問題が出てくるのですが…。
こちらでは一度の任官ということで、問題点は一つ少ないです。

二度の任命があったとすると、張コウは征西将軍府を関中に建設し、
まだそれが完成しないうちに召し返され、洛陽に車騎将軍府を建設しなければならず、
未完の征西将軍府は破棄されることになります。(もちろん夏侯淵や郭淮との引き継ぎでしょうが)
そんなに慌ただしい詔勅があったかどうか、これも(1)の疑問です。
86  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:17
86 名前: むじん 投稿日: 2003/11/20(木) 18:02 [ H2T3sD9A ]

『三国志』李典伝。原文「会尚遣魏郡太守高蕃将兵屯河上,絶水道」
この「河上」って、やっぱり「黄河のほとり」でいいんでしょうか。
水面に軍船を浮かべて…、ということもありえるのかな?
黄河上流ということではないと思いますが…。はてさて。
87  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:17
87 名前: MM2 投稿日: 2003/11/30(日) 18:21 [ .9Vk7KPA ]

「河上」ですが、『日本書紀』では「上流」という意味で使っている箇所があるようです。
水を堰き止めるのだったら「上流」でもいいような気がしますが、ちくま版では「ほとり」になってますね。
88  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:17
88 名前: むじん 投稿日: 2003/12/01(月) 19:18 [ 6PopCmTI ]

ありがとうございます、MM2さん。
水上交通を遮断するなら陸上より水上の方がいいのかな、と思って、
その可能性を疑ってみたんです。やはり「ほとり」でしたか。
他の箇所と同じようにした方がいいようですね。
89  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:17
89 名前: MM2 投稿日: 2003/12/23(火) 02:16 [ .9Vk7KPA ]

こちらでは結構ご無沙汰のMM2です。

かなり前のレスになりますが、己吾について。
魏王朝は土徳ですから己(つちのと)に通じます。已は巳(=へび)に通じるそうで巳は五行だと火徳になるそうです。
なので「己(已)吾」が嘉名なら「己吾」の方で合ってるんじゃないかと。
90  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
90 名前: むじん 投稿日: 2003/12/23(火) 17:58 [ XYO68Ovc ]

なるほど〜五行説でしたか!
そうなると陳王劉鈞との関係はどうなるのかな…。
まだ少しすっきりしない部分がありますね。
91  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
91 名前: MM2 投稿日: 2003/12/23(火) 22:22 [ .9Vk7KPA ]

なんか変なこと書いてましたね。訂正します。
「已吾」の方ですね、すみません。

>陳王劉鈞
調べてみたのですが…
陳敬王伝によると劉羨(劉鈞の父)は一旦西平王(汝南郡八県が封邑)になってお国替えで最終的な封邑は陳国(当時は淮陽郡)らしいですね。
そして子の鈞の代に西華・項・新陽の三県(郡国志によればどれも汝南に属しています)が削減されてます。
郡国志によると陳留郡の圉県・扶溝県は淮陽に属していたとあり、己(已)吾自体も汝南郡に属しているとあります。
…といったように封邑と削地との異同があるように見えて結構混乱しています。(ひょっとして汝南八県+陳国が封邑なのでしょうか?)
92  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
92 名前: むじん 投稿日: 2003/12/24(水) 20:09 [ biq5azsA ]

おお、わざわざ調べてくださってありがとうございます。
この陳王についての記述は複雑で、なかなか結論を出すことができないですよね。
いま「吾=虞」と読む可能性を考えているんですが、それが陳王の事件とどうつながるか…。
またよろしくお願いします。
93  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
93 名前: KJ 投稿日: 2003/12/26(金) 02:03 [ p4ZjBA/w ]

周魴の孫「周キ」のキという漢字を調べて頂きたいです。ちくまでは[王巳]となっていますが、三国志原文ではどのようになっていますでしょうか。中央研究院電子漢籍では潰れていました。中華書局の晋書では[王己]でした。どなたかよろしくお願い致します。

三国志:巻六十 呉書十五 周魴伝の最後のほう(ちくま7巻389P)
晋書 :巻五十八 列傳第二十八 周キ伝(中華書局5冊目1572P)
94  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
94 名前: 辰田 投稿日: 2003/12/27(土) 02:31 [ wiKrNc6E ]

はじめまして、こそっと漢籍の訳出とか挑戦している辰田と申します。

大学図書館で調べてみましたが、中華書局版、汲古書院和刻本ともに
三国志では[王巳]、晋書では[王己]になっていました。
大漢和には見出しは立っていませんでした。
(汲古書院和刻版三国志は[王已]のようにも見えましたが……。
 急いで見ただけなので記憶違いがあれば申し訳ありません)
95  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
95 名前: むじん 投稿日: 2003/12/27(土) 04:09 [ /nUDkRYA ]

こんにちは。中華書局の標点本は「巳」、同社の集解も「巳」でした。
ただ全体的に「巳」「已」「己」の書き分けはそれほど厳密でもなさそうです。
>>94 辰田さん
はじめまして、よろしくお願いします。訳文をweb上に公表してみませんか?
96  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:19
96 名前: むじん 投稿日: 2003/12/27(土) 04:13 [ /nUDkRYA ]

ああ、書き忘れ…。
康煕字典では已(イ)になっています。
しかし音は起と同じとありますから、やはり音符は己なのでしょう。
97  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:19
97 名前: KJ 投稿日: 2003/12/28(日) 20:09 [ VObY7HXY ]

辰田さん、むじんさん、ありがとうございます。
三国志と晋書では違うのですね。本を持っていないので助かりました。
また「巳」「已」「己」は別の漢字ですが実際は厳密に書き分けていない模様と。
それでも音に従うと「己」ではないかと。以上とても参考になりました。
まずは晋書のほうを採りたいと思います。ありがとうございました。
>>94辰田さん
はじめまして。よろしくお願い致します。
98  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:19
98 名前: 辰田 投稿日: 2003/12/28(日) 22:47 [ wiKrNc6E ]

ちなみに大漢和では[土己」と[土巳]がそれぞれ別の字として挙がっていた気がします。
……中華書局の人名索引はどうなってるのか確かめれば良かったですね。
図書館が来年まで開かないので、ちらっと見た記憶でしか確認ができません(汗)
99  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:19
99 名前: むじん 投稿日: 2003/12/29(月) 00:50 [ 3teq4ZZI ]

でも起の方は巳なんですよね…康煕字典。
それと関連しますが三国志集解では郭氾について、シとハンの読み二通りの説を載せています。
諸橋大漢和では二つとも載せてますか。
それは異体字として?それとも全くの別字としてですか?
100  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:19
100 名前: NAGAICHI Naoto 投稿日: 2003/12/29(月) 21:12 [ NHnMDv0s ]

ちょうど『通鑑』でそのへんやってるもので、興味深く読ませていただきました。
『資治通鑑』中華書局版では[王巳]に近い[王已]の字になってます。
微妙にくっついてない。(笑)
うちのテキストでは「周玘」と処理してます。
というかユニコードじゃこれしかないんだもん。
sage  pre  等幅 書き込み後もこのスレッドに留まる
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