ダンワイ |
(?〜209) |
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字は忠明《後漢書董卓伝集解》。武威郡の人《賈詡伝》。 初平元年(一九〇)三月、董卓は洛陽の宮殿・人家を焼いて天子を長安に遷したが、このとき東中郎将董越を弘農郡黽池に、中郎将段煨は同郡華陰に、中郎将牛輔を河東郡安邑に、その他の中郎将・校尉も諸県に駐屯させて山東の義兵を防がせた《後漢書董卓伝》。段煨は農業に力を入れて略奪を働かなかった《賈詡伝》。学者董遇や楽士李堅らが段煨に身を寄せている《王朗伝・晋書楽志》。 董卓が誅殺されると、李傕・郭汜らが天子を脅して政権を握ったが、仲違いしてせめぎ合った。興平二年(一九五)七月、天子の御車が長安を出立して洛陽に向かう途中、郭汜が天子を脅迫して郿に連れて行こうと企てた。楊定・楊奉・董承が反対したので、郭汜は李傕と手を結んだ《後漢書董卓伝》。 御車が華陰に到着すると、寧輯将軍段煨は天子に御服を献上し、公卿以下に物資を援助し、わが陣営に遷座されよと天子に請願した。ところが段煨は馬上で手綱をとったままで下馬しようとしなかった。そこでもともと段煨と仲が悪かった楊定は彼が謀叛を企てていると誣告した。天子が「段煨はわざわざ迎えにきてくれたのに、どうして謀叛などというのか」と問うと、楊定と親しかった侍中种輯は「御前にいたっても下馬せず、顔色が尋常ではありません。必ずや異心を抱いておりましょう」と答えた。大尉楊彪が「段煨が叛逆しないことを臣らは死をもって保証いたします。御車を彼の陣営に幸なされませ」と擁護した《後漢書董卓伝》。 そのころ李傕・郭汜は天子を東方にやったことを後悔し、段煨を支援するという名目で接近し、内心では天子を誘拐して西方に連れて行こうと企てていた。天子が段煨の心中を計りかねていると、董承・楊定は「いま郭汜が七百騎を率いて段煨の陣営に入りました」と言上した。こうして天子は楊定らを信じ、段煨の陣営を避けて弘農の東の谷間で露営した。李傕・郭汜は天子の軍勢を襲撃し、楊奉・董承と仲が悪かった張済も李傕らに同調した。楊定は李傕の仲間であるとして、段煨の陣営を十日余りにわたって攻撃した。それでも段煨は天子のために御膳を奉献し、百官に資金援助して二心を抱くことはなかった《後漢書董卓伝》。 李傕に仕えていた賈詡は、彼から受けた宣義将軍の印綬を朝廷に返還し、同郡出身の段煨に身を寄せて華陰に行った。賈詡にはもともと名声があり、軍中でも期待の的となった。段煨は軍勢を奪われてしまうのではないかと内心恐れたが、表面では賈詡に敬意を払って礼遇をきわめて篤くした。賈詡が南陽に駐屯していた張繡に招かれて立ち去ると、彼が張繡と自分とのあいだを取り持ってくれるのではないかと期待し、彼の家族を手厚く世話した《賈詡伝》。 建安三年(一九八)四月、謁者裴茂に従って李傕を討伐し、三族皆殺しとした《後漢書献帝紀》。その功績によって安南将軍・闅郷侯(闅郷亭侯とも)となった《後漢書董卓伝》。そののち鎮遠将軍・領北地太守となったようである《後漢書董卓伝集解》。 段煨は中央に召されて大鴻臚・光禄大夫となり、同十四年、病にかかって卒去した《賈詡伝・後漢書董卓伝》。 【参照】賈詡 / 郭汜 / 牛輔 / 种輯 / 張済 / 張繡 / 董越 / 董遇 / 董承 / 董卓 / 裴茂 / 楊定 / 楊彪 / 楊奉 / 李傕 / 李堅 / 劉協(天子) / 安邑県 / 華陰県 / 河東郡 / 弘農郡 / 山東 / 長安県 / 南陽郡 / 郿県 / 闅郷 / 武威郡 / 黽池 / 北地郡 / 洛陽県 / 安南将軍 / 謁者 / 郷侯 / 校尉 / 公卿 / 光禄大夫 / 侍中 / 宣義将軍 / 大尉 / 大鴻臚 / 太守 / 中郎将 / 鎮遠将軍 / 亭侯 / 東中郎将 / 寧輯将軍 / 夷(三族皆殺し) / 印綬 / 学者 / 楽人 / 領 |
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チリョ |
(?〜?) |
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字は鴻予。山陽高平の人《武帝紀》。 誤って「郄慮」とも書かれる。『晋書』では玄孫の郗鑑を高平金郷の人とする。 若いころは鄭玄に師事していた《武帝紀・後漢書鄭玄伝》。名を知られたのち、荀彧に召し寄せられ《荀彧伝》、建安年間(一九六〜二二〇)の初め、侍中に任じられる《武帝紀》。同六年、郗慮は尚書令荀彧・司隷校尉鍾繇とともに禁裏に入り、天子のお側に付いて講義を行った《後漢紀》。 少府孔融は「鴻予どのの名声は実力に裏打ちされており、鄭玄門下生として儒学に熟達している上、『司馬法』にも明るい人物だ」としきりに誉め、郗慮の方でもまた「文挙どの(孔融)は類まれな博識であり、現代において匹敵する者はない」と称えていた《後漢書孔融伝》。 帝があるとき郗慮と少府孔融だけを特別に招き、孔融に「鴻予はどんなところに優れておるか?」と訊ねると、孔融は「ともに道を行くべきも、未だともに計るべからず」と答えた。郗慮は笏を振り上げながら「孔融はむかし北海を治めておりましたが、でたらめな政治のために民衆は流浪いたしました。どこに計りごととやらがございましたか!」と言い、孔融と互いの優劣を競い合い、とうとう仲違いするに至った《武帝紀》。 孔融は、曹操が次第に野心を現してきたのを見てとり、しばしば正論でもって彼に楯突いた。曹操は寛容なそぶりを見せつつも内心では孔融の剛直ぶりを疎ましく思っていた。郗慮はその気持ちを察知し、微罪でもって孔融を免職すべきだと上奏した《後漢書孔融伝》。 郗慮と孔融の仲違いが表面化すると、曹操は孔融に手紙を書いて「むかし国家が東方に遷都したばかりのとき、ご両人は互いに褒めあっていたではないか。孤(わたし)は文挙どのと馴染みがあったわけではないし、鴻予どのと付き合いがあったわけではない。ただご両人が互いを尊重され、傷付けあうことのないようにと願っておるのだ」と述べて二人を和解させようとしたが、孔融は聞き入れなかった《武帝紀・後漢書孔融伝》。一年余りが経ち、孔融は太中大夫に左遷された《後漢書孔融伝》。 『後漢紀』によると孔融は建安九年九月の時点ですでに太中大夫として見える。郗慮との仲違いは建安八年ごろのことだろうか。なお太中大夫は光禄勲の属官である。 建安十三年正月、司徒趙温が曹操の子曹丕を召し出そうすると、曹操は「趙温は臣(わたくし)の子弟を召し出しましたが、縁故ばかりを選抜して実力を軽視しております」と上表し、癸未、侍中守光禄勲郗慮を持節として趙温を免官させた《文帝紀・後漢紀》。 同年八月丁未、郗慮は光禄勲から御史大夫へ異動になった《後漢書献帝紀・後漢紀》。曹操はもともと孔融に恨みを募らせていたし、そのうえ郗慮が孔融の罪をでっち上げたのを利用し、丞相軍謀祭酒の路粋に命じて無実の孔融を弾劾上奏させた。そのため、同月壬子、孔融は処刑された《後漢書孔融伝・後漢紀》。 『後漢紀』が郗慮を光禄大夫から御史大夫へ異動させた、とするのはおそらく誤りだろう。 十八年五月丙申、天子は御史大夫郗慮を持節として曹操を魏公に任命した《武帝紀・後漢紀》。 十九年十一月、伏皇后が父伏完に曹操殺害を要請していたことが発覚し、帝は曹操に脅迫されて皇后廃位の詔勅を出した。御史大夫郗慮は持節として詔勅を携え、伏后から璽綬を取り上げ、宮殿から追い出して別邸に移した。尚書令華歆が郗慮の副官として軍勢を率いて宮殿に入り、伏后を逮捕した。帝は離宮にいて郗慮とともに座っていたが、伏后が引き据えられたのを見ると、郗慮の方を振り返って「郗公よ、こんなことがあってよいものか」と言った《武帝紀・後漢書伏皇后紀》。丁卯、伏皇后は殺された《後漢書献帝紀》。 郗慮は劉劭を召し出そうとしたが、ちょうど同じころ郗慮は罷免された《劉劭伝》。 【参照】華歆 / 孔融 / 荀彧 / 鍾繇 / 曹操 / 曹丕 / 趙温 / 鄭玄 / 伏完 / 伏皇后 / 劉協(天子・帝・国家) / 劉劭 / 路粋 / 魏 / 高平侯国 / 山陽郡 / 北海国 / 御史大夫 / 軍謀祭酒 / 公 / 光禄勲 / 光禄大夫 / 侍中 / 司徒 / 丞相 / 尚書令 / 少府 / 司隷校尉 / 太中大夫 / 司馬法 / 璽綬 / 持節 / 笏 / 守 |
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チョウイツ |
(?〜193) |
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初平四年(一九三)十月、大司馬・幽州牧の劉虞が公孫瓚に殺されそうになると、故の常山相の孫瑾、掾の張瓚らとともに忠義の怒りを起こし、そろって劉虞のもとへ駆けつけた。口を極めて公孫瓚を罵倒し、そして劉虞とともに死んだ《公孫瓚伝》。 史書はただ掾と記すだけだが、劉虞に殉じたところをみると孫瑾の掾ではなく、劉虞の大司馬掾ということだろう。 |
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チョウイン |
(?〜?) |
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蔡瑁の外甥《後漢書劉表伝》。蔡瑁の伯母が太尉張温に嫁いでいる《後漢書集解》。張允はその孫だろうか。 荊州牧劉表には劉琦・劉琮という二人の子がいたが、蔡氏は前妻の子劉琦を憎み、張允も蔡氏の弟蔡瑁とともに劉琮と仲が良かった《後漢書劉表伝》。蔡氏は寝室で劉琮の美貌を劉表に訴え、張允・蔡瑁は外にいて劉琮の人徳を感歎してみせた《劉表伝集解》。こうして劉表は劉琮を愛するようになり、長子劉琦を外に出して江夏太守にした《劉表伝》。 建安十三年(二〇八)、曹操が劉表討伐の軍を起こした矢先、劉表は病にかかった。それを聞いた劉琦が任地から戻ってきたが、張允は父子の情愛によって彼が後継者になるのではないかと心配し、蔡瑁とともに戸外で彼を追い返している《劉表伝》。こうして劉表が没したのち劉琮が跡を継ぐことになり、劉琮はそのまま曹操に降服した《劉表伝》。 【参照】蔡氏(劉表妻) / 蔡瑁 / 曹操 / 張温 / 劉琦 / 劉琮 / 劉表 / 荊州 / 江夏郡 / 大尉 / 太守 / 牧 |
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チョウイン |
(?〜?) |
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呉郡呉の人。張温の父《張温伝》。 張允は財貨を軽んじて士を重んじ、名声は州郡に高らかだった。 許貢は呉郡太守を称して高岱の母を人質に取った。高岱は友人の張允・沈〓に船を準備させて許貢に会いに行き、母を返してもらって船に乗った。許貢は気が変わって追っ手を差し向けたが、追い付くことができなかった《討逆伝》。 張允は孫権の東曹掾になり、亡くなった。のちに顧雍がその子張温を評価して「現代において張温に比肩する者はおりませぬ」と述べたところ、孫権は「ならば張允が死んでいないのと同じことだな」と答えている《張温伝》。 張允が東曹掾に任用されたとき、孫権がどの将軍位に就いていたのか分からない。その役職から開府が条件になるかとも思うが、孫権は討虜将軍の当時すでに開府していたらしい《陸遜伝》。本伝の記述が正しければ、張温が出仕したのは孫権が呉王に封ぜられて以降のことで、二十九歳かそれ以上だったことになる。もし父張允が亡くなったのが討虜将軍の時代であれば、張温はもっと早く登用されていたはずだ。ここでは驃騎将軍の東曹掾だったとしておきたい。 |
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チョウエイ |
(?〜215) |
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張魯の弟《張魯伝》。張魯には張衛のほか、劉璋に殺された弟がいる《張魯伝》。 建安二十年(二一五)、曹操が軍勢を催して陽平関に攻め寄せたとき、兄張魯は使者を出して降服の意志を示したが、張衛は独断で軍勢を率いて関所を固守し、楊昂らとともに山々に防衛線を張った。陽平山頂にも陣営を連ねており、これを攻撃した曹操軍は多くの死傷者を出した。曹操はすっかり意気阻喪し、撤退を決意、夏侯惇・許褚を使者として山上の軍勢を引き揚げさせた《武帝紀・張魯伝》。 張衛らは曹操軍が撤退しようとしているのを見て警戒を解いた《武帝紀》。夜中、数千頭の大鹿の群れが飛び込んできたので、張衛軍は胆を冷やした《張魯伝》。曹操軍本営の先鋒解〓・高祚も引き揚げようとしたが、夜中のことで、知らず知らず張衛の陣営に迷い込んでしまった《武帝紀・張魯伝》。 『武帝紀』では、張衛が警戒を解いたのを見て、曹操が高祚らを山伝いに進めて夜襲をかけたとしている。しかし高祚が陣中に迷い込んだため張衛軍が自壊したとするのは董昭・楊曁らの上奏文であり、事実に反して先帝の名誉を損ねることはあり得ない。董昭らの説を採用すべきと考えられる。大鹿の群れは山中の高祚軍に驚いて逃げ出してきたものだろう。敵伏兵の接近を暗示している《孫子》。 高祚らは手勢が少なく、軍鼓を激しく打ち鳴らして味方を呼んだため、張衛軍は夜襲だと思って混乱に陥った《張魯伝》。曹操軍の殿軍を努めていた劉曄は、この騒動に乗ずれば勝利できると考え、曹操に攻撃を勧めた《劉曄伝》。そこで曹操軍は引き返して張衛軍を攻撃し、敵将楊任を斬った《武帝紀》。張衛は逃走したが、追いつめられて降服し《武帝紀・張魯伝》、のち斬首された《後漢書劉焉伝》。 |
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チョウエキ |
(?〜?) |
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南陽郡の人。張羨の子。 父張羨は長沙・零陵・桂陽の三郡をもって曹操に呼応し、数年にわたって劉表の攻撃を受けていた。張羨がその最中に病没すると、長沙郡の人々は張懌を立てて指導者とした。しかし張懌は防ぐことができず、長沙城は陥落した《劉表伝》。 |
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チョウエン |
(?〜206) |
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弘農郡の人《張既伝》。 建安十年(二〇五)八月、幷州刺史高幹が叛逆すると、張琰も兵を挙げて呼応しようとした。澠池県令賈逵はその計画を知らずに彼に会いに行ったが、変事が起きていることを知り、任地に引き返そうとも思ったが拘束されるのではないかと心配された。そこで賈逵は張琰の味方をして計画してやり、あたかも同調者であるかのように振る舞った。張琰は彼を信用し、澠池県城の守りが薄かったので、彼の要請を聞き入れて修築のために軍勢を貸してやった。賈逵は城の修築が終わると張琰を拒絶した《賈逵伝》。 高幹の叛乱には張琰のほか衛固・張白騎らが呼応して、おのおの河東郡に入り、太守杜畿の楯籠る張辟を攻撃したが陥落させることができなかった。そこへ曹操の大軍が到着して、張琰・衛固は誅殺され、高幹・張白騎は敗走した《杜畿伝》。叛乱に加わった者たちは、みなあけすけに計画を賈逵に話していたので、張琰が敗北したのち全て誅殺された《賈逵伝》。 【参照】衛固 / 賈逵 / 高幹 / 曹操 / 張白騎 / 杜畿 / 河東郡 / 弘農郡 / 張辟 / 幷州 / 黽池県(澠池) / 蠡城(澠池県城) / 県令 / 刺史 / 太守 |
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チョウオウ |
(?〜?) |
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建安十六年(二一一)春、司隷校尉鍾繇が漢中征討の軍を催したとき、自分たちに矛先を向けられることを恐れ、馬超・韓遂・楊秋・李堪・成宜らとともに挙兵した。しかし諸将の間で不和が生じ、曹操に前後から挟撃されて大敗した《武帝紀・馬超伝》。 |
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チョウオン |
(?〜191) |
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字は伯慎。南陽郡穣の人《後漢書董卓・竇武伝》。張敞の兄《後漢書竇武伝》、蔡諷の姉婿《劉表伝集解》。 中常侍曹騰の推挙によって取り立てられた《後漢書曹騰伝》。延熹年間(一五八〜一六七)、尚書郎の官にあって桓帝の竟陵行幸に随行した。雲夢を通過して沔水に到達したが、百姓のうち見物に来ない者はなかった。ただ一人、田を耕して手を止めようとしない老父がいた。張温は不思議に思って、使者をやって訊ねさせた。「人はみな見物に来ているのに、老父だけが手を止めないのは何故かね」。老父は笑うばかりで答えなかった《後漢書逸民伝》。 張温は馬を降りて百歩先まで行き、自分で老父に訊ねた。老父「我は野人でして、お言葉を理解することができません。お訊ねいたしますが、天下が乱れたから天子を立てたのでしょうか、それとも治まったから天子を立てたのでしょうか?天子を立てるのは天下に父として仕えるためですか、それとも天下を働かせて天子に奉仕させるためですか?むかし聖王が世を治めていたころ、粗末な堀立て小屋にお住まいになり、万民は安寧に暮らしました。いま子(あなた)のご主君は人をこきつかって自分勝手なことをし、遊びほうけて恥じる様子もない。吾は子のために恥ずかしく思いますが、子はどうして屈辱に耐えてまで人を見物に誘うのですか!」。張温は大変恥ずかしく思い、老父に姓名を訊ねたが、彼はなにも語らずに去っていった《後漢書逸民伝》。 京師では趙瑤・賈彪・荀爽・李燮らと友人として付き合っていた。張温は潁川太守に任じられると荀爽に会い、賈彪も同席して論争したが、京師ではそれを話題にして優劣を言い立てた。張温は趙瑤に訊ねた。「徳公(李燮)はなんと言ってるんだい?」、趙瑤「無言だったよ」。張温は慨嘆して言った。「徳公のようにならんとなぁ。こわっぱどもを無闇に沸き立たせることもないか」。荀爽のほうも目が覚めて、心を入れ替えた《華陽国志》。 のちに尚書令となり、特別に上表して楊璇を推薦し、彼を尚書僕射にしてもらった《後漢書楊璇伝》。光和七年(一八四)夏四月、司空張済が罷免されたので大司農から司空に昇進した《後漢書霊帝紀》。張温は段熲・樊陵・崔烈らとともに功績・名誉があったが、それでも三公になるために財貨を支払わなければならなかった《後漢書崔駰伝》。 南陽の黄巾賊張曼成が挙兵し、彼が攻め殺されると趙弘が軍勢を率いて宛城に楯籠った。鎮賊中郎将朱儁は宛城を包囲したが、六月から八月にかけて陥落させることができなかったので、担当役人が中央に召し返すように上奏した。張温は「秦は白起を用い、燕は楽毅を任じましたが、いずれも年を越してようやく敵に勝つことができたのです。開戦目前にして将軍を交代させるのは兵家の嫌うところです。その成功失敗によって責任を取らせましょう」と上疏した。そこで霊帝は朱儁の召し返しを中止し、朱儁は趙弘を斬ることができた《後漢書朱儁伝》。 その年の冬、北地郡の先零羌と枹罕・河間の盗賊どもが叛逆し、湟中義従の北宮伯玉・李文侯らを擁立して将軍とした。さらに金城の辺章・韓遂を誘拐して、彼らに軍政を専任させた。北宮伯玉らは護羌校尉泠徴・金城太守陳懿らを殺害し、州郡を攻撃した。翌中平二年(一八五)になると数万騎を率いて三輔地方に侵攻した《後漢書董卓伝》。左車騎将軍皇甫嵩・中郎将董卓らが討伐にあたったが、皇甫嵩は同年七月に解任され、翌八月には張温が左車騎将軍・仮節となり、執金吾袁滂が副将となって北宮伯玉の討伐にあたった。董卓は破虜将軍となり、盪寇将軍周慎とともに張温に属した《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。 張温は諸郡から歩騎十万を集め、美陽に駐屯した《後漢書董卓伝》。朝廷に要請して議郎趙岐を長史に、議郎陶謙を司馬にしてもらい、やはり要請して別部司馬孫堅を陶謙とともに軍事に参画させた《後漢書趙岐伝・同陶謙伝・破虜伝》。公孫瓚も烏桓突騎の監督として従軍したが、烏桓族が叛逆したため幽州に帰国している《後漢書公孫瓚伝》。 かつて張温が司空を務めていたとき、礼をもってたびたび張玄を招いたものの断られていたことがあった。このとき出征するにあたって、張玄が夜着に帯だけを巻いて田の庵から出てきて、張温を説得した。「天下に雲のごとく賊が湧き起こっているのは、黄門・常侍の無道のせいではありませんか。明公(とのさま)は天下を総轄して威光は重く、官軍の要を掌握しておられます。もし金鼓を鳴らして布陣を整え、軍正を呼んで罪人どもを逮捕・誅殺し、軍勢を率いて都に駐屯して順番にそって宦官を取り除けば、天下の逆さ吊り状態は解決し、海内の恨みは晴らされます。そののち隠棲している忠義公正の士を登用するならば、辺章のような輩なぞ掌の上のようなものですぞ」。それを聞いた張温はわなわなと震えて答えることができなかった《後漢書張霸伝》。 しばらくして口を開き「子(あなた)の言葉が嬉しくないわけではないが、自分を顧みるととてもできそうにない。どうかね」と言った。張玄は歎息して「それをすれば幸福となりますが、しなければ謀叛人です。いま公とは永久のお別れになりました」と言って、薬を仰いで飲もうとした。張温は走っていって彼の手を止めた。「子は我に対して忠義だったが、我は用いることができなかった。これは私の罪であるのに、どうしてそのようなことをするのだ。それに口から出て耳に入った言葉は、いま誰も知らないのだから」。張玄は出奔して魯陽の山中に潜み住んだ《後漢書張霸伝》。 張温は勅命によって董卓を呼び戻したが、彼はしばらく経ってからようやくやって来た。張温は董卓を詰問したが、彼の応対は不遜なものであった。座にあった孫堅が進み出て耳打ちした。孫堅「董卓は罪をも恐れず、威張って大言壮語しております。すぐさまお召しに応じなかった罪により、軍法を述べて斬刑に処すべきです」、張温「董卓には昔から隴・蜀一帯で威名があり、今日彼を殺せば西方平定の拠り所がなくなってしまう」、孫堅「明公は親しく天子の軍勢を率い、威信は天下を震わせておられます。どうして董卓を頼ろうとなさるのですか?董卓の言葉を観察しましたが、明公を見下したうえ、お上を軽んじて無礼でありました。これが第一の罪です。辺章・韓遂は年をまたいで跳梁跋扈しておりますが、時期をみて討伐すべきだったのに、董卓はまだだめだと言って軍勢を意気沮喪させて惑わせました。これが第二の罪です。董卓は任務を受けたのに功績がなく、お召しに応じるのも先延ばしにしましたが、そのくせ意気軒昂として思い上がっています。これが第三の罪です。古の名将は鉞を手にして軍勢に臨み、断罪して威令を示さなかった者はありません。それゆえ司馬穰苴は荘賈を斬り、魏絳は楊干(の御者)を殺したのです。いま明公が董卓の言いなりになって誅伐を加えなければ、威信・刑罰はここに失われるのです」。張温は決断することができず、「君はひとまず帰りなさい。董卓に疑われることになるぞ」と言ったので、孫堅は退出した《破虜伝》。 十一月、美陽で北宮伯玉を撃破した《後漢書霊帝紀》。張温は趙岐に別働隊を率いさせて安定に駐屯させ《後漢書趙岐伝》、周慎は追撃して金城郡楡中で辺章・韓遂を包囲したが、董卓は状勢からみて彼が勝てないことを悟り、張温に「配下の軍勢をまわして後詰めをすべきです」と告げたが、張温は聞き入れず、彼に先零羌を討伐させた。やむをえず董卓は別部司馬劉靖に歩騎四千を率いさせ、安定に駐屯させて牽制をかけさせた。先零羌は軍勢を引き返して董卓の退路を断ちきろうとしたが、安定に数万の軍勢がいると思いこんでいたので、董卓が少し攻撃しただけで道を空けた。一方、周慎も孫堅の進言を斥け、自ら金城を包囲して外壁を破壊した。ところが賊軍は葵園峡に進出して退路を断ったので、周慎は輜重を棄てて敗走した《破虜伝》。結局いずれも勝つことができなかった《後漢書霊帝紀》。 翌三年二月、大尉張延が罷免された。霊帝は長安に使者をやって張温を大尉に昇進させた《後漢書霊帝紀》。三公が朝廷の外にいるのは、この張温が初めてのことである。その年の冬、張温は京師(みやこ)に帰還した。辺章・北宮伯玉・李文侯は韓遂に殺害され、皇甫嵩が左将軍に復帰して董卓とともに韓遂を討伐した《後漢書董卓伝》。このころであろうか、張温は互郷侯に封ぜられている《後漢書竇武伝》。 翌四年四月、大尉の官職を罷免されて崔烈が後任となったが《後漢書霊帝紀》、また司隷校尉に復職した。のちに討虜校尉蓋勲が宗正劉虞・佐軍校尉袁紹らとともに宦官誅滅の計画を進めていたときのこと、このとき張温は上奏文をたてまつって蓋勲を京兆尹に推挙している。霊帝は蓋勲をお側近くに置いておきたいと思ったが、宦官の蹇碩らは内心で蓋勲を恐れ憚っていたので、張温の上奏を認めるように勧めた。こうして蓋勲は京兆尹となった《後漢書蓋勲伝》。 のちに衛尉に異動した。董卓が朝廷の実権を握り、太師を自称したときのこと。張温は司徒王允とともに董卓暗殺を計画していたが、そのころ太史が気を観察して「大臣のうち刑死するものがありましょう」と言上した。かつて張温が董卓誅殺を孫堅から進言されたことを恨んでいた董卓は、人をやって「張温が袁術と内通している」と誣告させた。張温は市場で笞で打たれて殺害された《後漢書董卓伝》。初平二年(一九一)十月壬戌のことであった《後漢書献帝紀》。 【参照】袁術 / 袁紹 / 袁滂 / 王允 / 賈彪 / 蓋勲 / 楽毅 / 韓遂 / 魏絳 / 蹇碩 / 公孫瓚 / 皇甫嵩 / 崔烈 / 蔡諷 / 司馬穰苴 / 朱儁 / 周慎 / 荀爽 / 荘賈 / 曹騰 / 孫堅 / 段熲 / 張延 / 張玄 / 張済 / 張敞 / 張曼成 / 趙岐 / 趙弘 / 趙瑤 / 陳懿 / 陶謙 / 董卓 / 白起 / 樊陵 / 辺章 / 北宮伯玉 / 楊干 / 楊璇 / 李燮 / 李文侯 / 劉虞 / 劉宏(霊帝) / 劉志(桓帝) / 劉靖 / 泠徴 / 安定郡 / 雲夢 / 潁川郡 / 燕 / 宛県 / 河間 / 葵園峡 / 竟陵県 / 金城郡 / 湟中 / 互郷 / 三輔 / 穣県 / 蜀 / 司隷 / 秦 / 先零 / 長安県 / 南陽郡 / 美陽県 / 枹罕 / 北地郡 / 沔水 / 幽州 / 楡中県 / 隴 / 魯陽 / 衛尉 / 仮節 / 郷侯 / 議郎 / 軍正 / 京兆尹 / 黄門 / 護羌校尉 / 佐軍校尉 / 左車騎将軍 / 左将軍 / 三公 / 司空 / 執金吾 / 司徒 / 司馬 / 常侍 / 尚書僕射 / 尚書令 / 尚書郎 / 司隷校尉 / 宗正 / 大尉 / 太史 / 太師 / 大司農 / 太守 / 中常侍 / 中郎将 / 長史 / 鎮賊中郎将 / 盪寇将軍 / 討虜校尉 / 破虜将軍 / 別部司馬 / 烏桓 / 烏桓突騎 / 鉞 / 宦官 / 黄巾賊 / 湟中義従 / 先零羌 / 望気(気を観察) |
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チョウキ |
(?〜?) |
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甘陵郡の人。もとの楽浪太守《公孫瓚伝》。 初平二年(一九一)、冀州刺史韓馥・勃海太守袁紹および山東の諸将は、大司馬劉虞を皇帝に擁立せんと協議し、故の楽浪太守である張岐を劉虞のもとに遣わしてそれを報告した。しかし劉虞は血相を変えて「諸君らはおのおの州郡に拠り、協力して王室に尽力せねばならんのに、かえって叛逆を企んでいるのか」と叱りつけ、固く断っている《後漢書劉虞伝》。 『武帝紀』ではこのときの使者を故の任長畢瑜だと言っている。 【参照】袁紹 / 韓馥 / 劉虞 / 清河国(甘陵国) / 冀州 / 山東 / 勃海郡 / 楽浪郡 / 刺史 / 大司馬 / 太守 |
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チョウギ |
(?〜?) |
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袁尚の将《袁紹伝》。 建安九年(二〇四)二月、袁尚は審配・蘇由を鄴の守備に残し、自ら平原の袁譚を討伐した。その留守を衝いて曹操が鄴城を包囲したため、七月、袁尚は鄴の城外まで引き返したが、曹操の逆包囲を恐れて逃走する。このとき曹操が追撃しようとすると、張顗は矛を交える寸前、馬延・陰夔・郭昭らとともに降服した。そのため袁尚軍は大潰滅する《武帝紀・袁紹伝・檄呉将校部曲文》。 |
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チョウキュウ |
(?〜?) |
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蜀の雲南太守。漢嘉郡の人《華陽国志》。 建興三年(二二五)春、蜀の丞相諸葛亮は軍勢を率いて南征し、同年秋、南中四郡をことごとく平定、建寧・越巂郡を分割して雲南郡を立て、呂凱を雲南太守とした《華陽国志》。呂凱はほどなく夷族の叛乱で殺され《呂凱伝》、のちに張休が雲南太守になった《華陽国志》。 『華陽国志』は蜀漢時代の漢嘉郡出身者として張休を王謀とともに列記する。同書は忠孝貞烈の士女を好んで載せており、馬謖とともに誅殺された張休とは同名異人だろう。呂凱の直接の後任であったのか、別に太守を挟んで後任したのかは分からない。 【参照】諸葛亮 / 呂凱 / 雲南郡 / 越巂郡 / 漢嘉郡 / 建寧郡 / 蜀 / 南中 / 丞相 / 太守 / 夷族 |
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チョウクン |
(?〜?) |
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袁術の大将《袁術伝》。 袁術が揚州刺史陳温を殺して揚州を占拠したとき、張勲は橋蕤とともに大将に取り立てられた《袁術伝》。孫策が袁術のもとに身を寄せたとき、張勲・橋蕤は心を傾けて彼を尊敬したという《討逆伝》。 建安二年(一九七)、袁術は天命が下されたと称して、帝号を僭称して「仲家」国を建てた。韓胤を使者として呂布の女を皇子妃にしようとしたが、呂布は韓胤を捕縛して許に送り飛ばしてしまった。袁術は激怒し、大将張勲と橋蕤・韓暹・楊奉らに歩騎数万人を授け、七つの道から呂布を攻撃させた《後漢書袁術・同呂布伝》。 呂布は兵士三千人と騎馬四百匹を持つばかりであったが、陳珪が「韓暹・楊奉と袁術は、にわか集めの軍勢に過ぎません。倅陳登の計略を用いて彼らの仲を裂きましょう」と言うのを採用し、韓暹・楊奉に手紙を送った。「二将軍は御車をお導きし、呂布は自ら董卓を殺しました。ご一緒に功名を立てて史書に名を連ねるはずでしたが、いま袁術の叛逆を討つべきなのに、どうして呂布を伐とうとなさるのですか?」。同時に袁術軍を破ったのちは戦利品を全て与えようと約束した《後漢書呂布伝》。韓暹・楊奉は喜び、下邳まで来たところで寝返り、呂布軍と挟撃して袁術軍を大破した。張勲らの軍勢は潰走し、ほとんどの者が水に落ちて死んだ《後漢書呂布伝》。 秋九月、袁術は陳国を攻撃して陳王劉寵および陳国相駱俊を殺したが、曹操が自らそれを征討しようとしたので、袁術は大いに驚いてすぐさま淮水を渡って逃走した。張勲は橋蕤らとともに蘄県に残って曹操を防ごうとしたが、橋蕤・李豊・梁綱・楽就らが斬られたので張勲は敗走した《武帝紀・後漢書袁術伝》。 同四年に袁術が病死すると、張勲は長史楊弘らとともに袁術軍の残党を引き連れて孫策に身を寄せようとした。ところが廬江太守劉勲が待ち伏せしており、すっかり生け捕りにされ、袁術の珍宝も奪い上げられてしまった。劉勲が孫策にそそのかされて出征したとき、孫策は廬江を乗っ取っている《討逆伝》。張勲らの身柄も孫策のもとに移送されたのだろう。 【参照】袁術 / 楽就 / 韓胤 / 韓暹 / 橋蕤 / 孫策 / 陳温 / 陳珪 / 陳登 / 董卓 / 楊弘 / 楊奉 / 駱俊 / 李豊 / 劉勲 / 劉寵 / 呂布 / 梁綱 / 下邳国 / 蘄県 / 許県 / 仲(仲家) / 陳国 / 揚州 / 廬江郡 / 淮水 / 王 / 刺史 / 相 / 太守 / 大将 / 長史 |
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チョウコ |
(?〜?) |
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建安二十三年(二一八)、陸渾の県長であった張固は、人夫を徴発せよとの命令を受け、彼らを漢中に送ることになった。しかし百姓たちは遠方での苦役を嫌がり、領民の孫狼を中心として叛乱を起こし、関羽と手を結んだ。張固が十人余りの役人を連れて胡昭という者に身を寄せ、残りの領民を呼び集めて社稷を回復しようとした。孫狼らは「胡居士(胡昭)は賢者である」と言って、それ以上の侵害をしなかった《管寧伝》。 |
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チョウコウ |
(?〜?) |
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字は嗣宗。張魯の次子《張魯伝集解》。 父張魯は漢寧太守であったが、建安二十年(二一五)に曹操に帰服して閬中侯に封ぜられた。張広ら、張魯の子供たちはまだ成人していなかったが、曹操は中使(非公式の使者)を派遣して全員に官職・爵位を授けた《張魯伝集解》。 |
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チョウコウ |
(?〜?) |
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字は霊真《張魯伝集解》。沛国豊の人。張陵の子、張魯の父《張魯伝》。 京師で出生したという。ただならぬ才覚の持ち主だったので、詔勅によって黄門侍郎に徴し出されたが、世を避けて陽平山に隠居した。忠孝を誓って民衆を導き、見識ある人々は「かの人は宗門を継承されてから、俗人を受け入れて善行を推奨した功績がある」と称えている《張魯伝集解》。 熹平年間(一七二〜一七八)末期、父張陵が大蛇に呑み込まれたので、駆けずりまわって亡骸を探したが見つからず、崖の上に石を置いて目印とし、霊験を現して鶴に変化したのだと言った。光和二年(一七九)、父張陵が「正月七日に昇天いたすゆえ、張衡が天師を継承せよ」という遺書を残し、雲に乗って昇天したので、張衡が教団を引き継いだ《張魯伝集解》。 張衡が亡くなると、子の張魯が引き継いだ《張魯伝》。張衡の妻は色香があり、巫術師として劉焉の家に通っていたという《後漢書劉焉伝》。 【参照】張陵 / 張魯 / 張魯母(張衡の妻) / 劉焉 / 沛国 / 豊県 / 陽平山 / 雒陽県(京師) / 黄門侍郎 / 鬼道(巫術) / 天師 |
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チョウサン |
(?〜193) |
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初平四年(一九三)十月、大司馬・幽州牧の劉虞が公孫瓚に殺されそうになると、故の常山相の孫瑾、掾の張逸らとともに忠義の怒りを起こし、そろって劉虞のもとへ駆けつけた。口を極めて公孫瓚を罵倒し、そして劉虞とともに死んだ《公孫瓚伝》。 史書はただ掾と記すだけだが、劉虞に殉じたところをみると孫瑾の掾ではなく、劉虞の大司馬掾ということだろう。 |
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チョウシュウ |
(?〜?) |
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巴郡巫の人、巫術師《後漢書霊帝紀》。「張修」とも書かれる《張魯伝・後漢書霊帝紀》。裴松之が張衡とすべきというのは誤りだろう《張魯伝集解》。 光和年間(一七八〜一八四)、漢中で「五斗米道」を広めた人物である。それは病人を静かな部屋で過ちを反省させる、姦令祭酒なる役職を置いて『老子』を教えさせ、鬼吏なる役職を置いて病気治癒を祈祷させる、その方法は、病人の姓名と謝罪文をしたためた「三官手書」と名付ける三通の手紙を、一つは山上に置いて天に捧げ、一つは地中に埋め、一つは川に沈める、病人を出した家には五斗の米を納めさせるというものであった《張魯伝》。 中平元年(一八四)七月、黄巾賊の張角に呼応するように挙兵し、近隣の郡県を陥落させたが《後漢書霊帝紀》、張角が誅伐されると、張脩もやはり没落した《張魯伝》。 五年六月、益州牧劉焉が督義司馬張魯を派遣して漢中を攻略させたとき、張脩も別部司馬として従軍している《張魯伝》。漢中太守蘇固は城郭を乗り越えて脱出したが、張脩は彼を追跡して殺害した。その主簿であった趙嵩が剣を片手に張脩本営に飛び込み、十数人を殺して張脩を捕まえようとしたが、戦死した。また門下掾の陳調が食客百人余りを集めて攻撃をかけ、張脩軍が崩れたところ、さらに突き進んで本営を攻撃したが、負傷して死んだ《華陽国志》。 のちに張魯が張脩を殺し、彼の軍勢を我が物とした《張魯伝》。 【参照】蘇固 / 張角 / 張衡 / 張魯 / 趙嵩 / 陳調 / 裴松之 / 劉焉 / 益州 / 漢中郡 / 巴東郡(巴郡) / 巫県 / 姦令祭酒 / 鬼吏 / 主簿従事 / 太守 / 督義司馬 / 別部司馬 / 牧 / 門下掾 / 老子 / 黄巾賊 / 五斗米道 / 三官手書 / 妖巫(巫術師) |
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チョウショウ |
(?〜212) |
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字は子喬《華陽国志》。蜀郡成都の人。張粛の弟、張表の父《華陽国志》。あるいは張表の叔父とも《先主伝》。 兄張粛は威儀があり容貌は非常に偉大であったが、張松の人となりは低劣であり放蕩無頼で節操が悪かった。しかし知識理論に精通して才幹があった《先主伝》。法正は故郷を離れて益州牧劉璋のもとで閑却されていたが、張松は彼と仲良く付き合った《法正伝》。 建安十三年(二〇八)、曹操が荊州征討のため軍を起こしたとき、劉璋は陰溥を使者として曹操に敬意を伝えて振威将軍に任じられていた。そこで今度は別駕従事張粛を使者に立て、叟兵三百人ともろもろの器物を献上すると、曹操は張粛を丞相掾・広漢太守に任命した。劉璋は張粛に代わって張松を別駕従事とし、さらに曹操のもとに派遣したが、曹操はすでに荊州を平定してしまっていたので、張松に比蘇県令の官職しか与えず冷たくあしらった。これによって張松は恨みを抱くようになった《劉璋伝・後漢書劉焉伝・華陽国志》。 曹操の主簿楊脩は彼を高く評価し、召し抱えるよう言上したが曹操は聞き入れなかった。楊脩が曹操の著した兵書(『孫子』の注釈書か)を見せると、張松は宴会の合間に一目見ただけですぐさま暗唱してみせたので、楊脩はますます彼を立派だと思った《先主伝》。 同年、曹操が赤壁で敗北し、さらに疫病に苦しんだのを見て、張松は益州に帰還し、曹操の悪口を言って絶交することを勧め、ついでに「劉予州(劉備)は使君(ちじどの)とは肉親であります。交わりを結ぶべきですぞ」と説得した。劉璋はその通りだと思い、法正を派遣して劉備と手を組み、法正・孟達に命じて兵数千を送り、劉備を支援する守備兵にしてやった《劉璋伝》。法正が帰国して劉備が雄略の持ち主であることを打ち明けたので、張松は法正とともに彼を推戴しようと密議を練ったが、きっかけをつかめないでいた《法正伝》。 十六年、曹操が鍾繇らを派遣して張魯を征討しようとしていると聞いて、劉璋が恐怖を抱いていたので、張松は劉璋を説得して言った。「曹公の軍勢は強力で天下無敵です。もし張魯が彼に協力したならば誰が防ぐことができましょう?」、劉璋「吾(わたし)はもともとそれを心配していたのだが、計略が浮かばないのだ」、張松「劉予州は使君の宗室であり曹公とは宿敵です。用兵が巧みですから、彼に張魯を討伐させれば必ず破ることができ、張魯が敗れれば益州は強力になります。曹公がやってきてもどうにもならないでしょう」《先主伝》。さらに言った。「いま州内では龐羲・李異らが功績を誇って傲慢に振る舞い、外部に心を寄せております。予州を味方にしなければ、敵軍は外側から攻めてくるでしょうし、領民は内側から攻めてくるでしょう。必敗の道ですぞ!」《劉璋伝》。 劉璋はまたこれを受け入れて、法正に兵四千人を与えて劉備を呼び寄せた。張松・法正は益州の地形・兵力などの軍事機密を全て劉備に打ち明けてしまった。劉璋が道筋に命令を出して劉備を出迎えさせたので、劉備はまるで帰郷するかのように入国することができた《先主・劉璋伝》。劉備が涪城に到着すると、劉璋は歩騎三万人余りを率いて涪城に赴き、彼と会見した《劉璋伝》。張松は法正を通じ、「今この機会を利用して劉璋を生け捕りにすべきです。さすれば将軍は軍勢を動かす労なく、いながらにして一州を平定できますぞ!」と劉備に勧めたが、劉備は忍びがたく手を下せなかった《後漢書劉焉伝・華陽国志》。 百日余りも続いた宴会のすえ、劉備は張魯に対抗するため軍勢を葭萌に移し《劉璋・先主伝》、翌十七年、孫権を救援するといって東に向かうふりをした。張松は(驚いて)劉備・法正に「今にも大事が成功しようとしているのに、どうしてここを去ってしまわれるのか?」と手紙を送った。張松の兄張粛は禍が自分の身に降りかかることを恐れ、張松の企みを劉璋に告げた。そのため張松は逮捕され、斬刑に処せられた《先主伝》。 【参照】陰溥 / 鍾繇 / 曹操 / 孫権 / 張粛 / 張表 / 張魯 / 法正 / 龐羲 / 孟達 / 楊脩 / 李異 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 葭萌県 / 荊州 / 広漢郡 / 蜀郡 / 成都県 / 赤壁 / 比蘇県 / 涪県 / 予州 / 県令 / 丞相掾 / 丞相主簿 / 振威将軍 / 太守 / 別駕従事 / 牧 / 孫子 / 叟族 |
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チョウジン |
(?〜214?) |
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劉璋の従事。蜀郡の人《先主伝》。 張氏は代々にわたる寒門であったが、張任は若いころより胆力と勇気、大志と節義を備えていた。州に仕えて従事となった《先主伝》。 建安十七年(二一二)に劉備が涪城を占拠すると、翌十八年、張任は劉璋の命により劉璝・冷苞・鄧賢・呉懿らとともに涪におもむいて劉備を防いだ。しかし、みな敗退して緜竹に立てこもり、呉懿は劉備に降伏した。緜竹の諸将を監督すべく、劉璋はさらに李厳・費観を派遣したが、二人はともに軍勢をあげて投降した《先主伝・華陽国志》。 張任は雒城に逃げこみ、劉璋の子劉循とともに城を守った。張任が手勢を率いて雁橋に出撃すると、またも敗戦となり、張任は生け捕りとされる。劉備は張任の忠勇を聞き知っていたので、張任を降伏させよと軍中に命じていたが、張任は声音を荒げて「老臣は決して二君に仕えるつもりはありませぬ」と言うので、そこで殺害した。劉備はため息をついて哀惜した《先主伝》。 【参照】呉壱(呉懿) / 鄧賢 / 費観 / 李厳 / 劉璝 / 劉循 / 劉璋 / 劉備 / 冷苞 / 益州 / 雁橋 / 蜀郡 / 涪県 / 緜竹県 / 雒県 / 従事 |
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チョウセイ |
(?〜196) |
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武威郡祖厲県の人。張繡の族父にあたる《張繡伝》。 はじめ董卓に仕えて校尉となり、董卓の女婿の中郎将牛輔に属して陝に駐屯していた。牛輔の命により、校尉李傕・郭汜らとともに歩騎数万人を率い、河南尹朱儁を中牟県で撃破し、陳留・潁川郡を攻略した《董卓伝・後漢書董卓伝》。 初平三年(一九二)四月、董卓が司徒王允に誅殺されると、牛輔は部下の攴胡の赤児らに殺された。張済らが陝に帰還すると、長安では涼州人を皆殺しにする計画があるとの風聞が流れていた。張済らは軍を解散して故郷に帰ろうと図ったが、賈詡の計略を受け入れて、李傕・郭汜・樊稠らとともに長安を攻めることにした。同年六月、長安城を陥落させて王允を殺し、奮武将軍呂布を敗走させた《董卓伝》。九月、李傕・郭汜・樊稠は自ら将軍を称して朝政に与り、張済は鎮東将軍・平陽侯となって弘農に駐屯した《董卓伝・後漢書献帝紀》。 翌四年正月になると、李傕と郭汜は仲違いして、互いに攻撃しあった。六月、張済は陝から上京して、李傕・郭汜を和睦させた《董卓伝・後漢書献帝紀》。七月、天子の御車が長安を出発すると、楊奉・董承らが御車を守り、張済は驃騎将軍に任じられて陝に帰還した《後漢書献帝紀》。十月になると、張済は楊奉・董承と仲が悪かったのでまた叛逆し、李傕・郭汜と一緒になって御車を追撃した《後漢書献帝紀》。 建安元年(一九六)秋になって曹操が御車を迎えて、都を許県に遷した《武帝紀》。張済は飢餓に苦しみ、南陽郡の穰城を攻めたが、流れ矢に当たって戦死した《董卓伝》。彼の軍勢は族子張繡が継いだ《張繡伝》。 【参照】王允 / 賈詡 / 郭汜 / 牛輔 / 朱儁 / 赤児 / 曹操 / 張繡 / 董承 / 董卓 / 樊稠 / 楊奉 / 李傕 / 呂布 / 河南尹 / 陝県 / 潁川郡 / 許県 / 弘農郡 / 穣県 / 祖厲県 / 中牟県 / 長安県 / 陳留郡 / 南陽郡 / 武威郡 / 平陽侯国 / 涼州 / 尹 / 侯 / 校尉 / 司徒 / 中郎将 / 鎮東将軍 / 驃騎将軍 / 奮武将軍 / 族父 / 族子 / 攴胡 |
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チョウセイ |
(?〜?) |
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字は元宗。張魯の子《張魯伝集解》。五人兄弟の何番目にあたるかは分からない。 父張魯は漢寧太守であったが、建安二十年(二一五)に曹操に帰服して閬中侯に封ぜられた。曹操は張盛を都亭侯に封じようとしたが、張盛は受けず、漢中を出て龍虎山に移り住んだ《張魯伝集解》。龍虎山は張陵が修行した場所と伝えられ、張氏の子孫は清代に至るまで、この地で大いに繁栄した《張魯伝集解》。 |
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チョウセン |
(?〜?) |
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南陽郡の人。張懌の父。 はじめ零陵・桂陽太守(あるいは県長)を務め、長江・湘水流域の民心を大層つかんでいた。ただ性格的に強情で負けず嫌いだったので、荊州牧劉表は彼の人となりを軽蔑し、非常に無礼な対応をした。そのため張羨は劉表に対して恨みを抱いていた《後漢書劉表伝》。のちに長沙太守となった《劉表伝》。 建安三年(一九八)《後漢書劉表伝》、張羨は長沙・零陵・桂陽の三郡を合わせて劉表に叛逆した。劉表はこれを包囲したが、何年かかっても陥落させることはできなかった《劉表伝》。 五年春、袁紹が官渡において曹操と対峙すると、劉表は州を挙げて袁紹に呼応した。故(もと)の功曹桓階は張羨に告げた。「そもそも事業を行うにあたって、義を根本とせずに敗北しなかった者はありません。それゆえ斉の桓公は諸侯を率先して周王朝を奉り、晋の文公は叔帯を追放して周王を迎え入れたのです。いま袁氏が叛逆して劉表が呼応しておりますが、禍への道を取ったというべきです。明府(知事どの)が功名を立てて節義を明らかにし、幸福を守って災禍を遠ざけたいとお考えならば、彼らに同調してはなりません」《桓階伝》。 張羨「ならば、どちらに向けばよいのだろう」、桓階「曹公は劣勢とはいえ、義によって立ち上がっているのです。朝廷の危急を救い、王命を奉じて罪人どもを討伐するのですから、あえて逆らう必要がありましょうか。今もし四郡をこぞって三江を守り、彼が到来するのを待って内応してやれば、良いことではないですか!」、張羨「素晴らしい」。張羨が曹操のもとに使者を送ると、曹操は大いに喜んだ《桓階伝》。 劉表が張羨を攻撃したが、曹操は袁紹と連戦していて南方に来ることができなかった。劉表の攻撃は急激だったが、張羨はその最中に病没した。長沙郡では張羨の子張懌を立て、劉表に対して抵抗を続けた《劉表・桓階伝》。 【参照】袁紹 / 桓階 / 周王 / 叔帯 / 晋文公 / 斉桓公 / 曹操 / 張懌 / 劉表 / 官渡 / 荊州 / 桂陽郡 / 三江 / 周 / 湘水 / 晋 / 斉 / 長江 / 長沙郡 / 南陽郡 / 零陵郡 / 県長 / 功曹 / 太守 / 牧 |
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チョウチョウ |
(?〜195) |
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東平国寿張の人。張邈の弟《呂布伝》。河間郡の張超とは別人である。 中平年間(一八四〜一八九)末期、張超は広陵太守となり、臧洪を召し出して功曹に任じた。当時、董卓が少帝劉弁を弘農王に降位して殺害し、政治の実権を握っていた。そこで臧洪は張超に進言した。「明府(ちじ)は代々ご恩を受け、兄弟そろって大郡の太守になられました。いま王室は危険に遭遇し、まだ賊臣の首は晒されておりません。これは真に天下の義士烈士がご恩に報いて命を投げ出すときなのです。いま郡境はなお完全であり、官吏人民は富み栄えておりますから、もし太鼓を叩けば二万人を集めることができましょう。これこそ国賊を誅殺して天下のために率先する義挙の偉大なものであります」《臧洪伝》。 張超は袁綏に広陵郡の事務を取り仕切らせ《陸瑁伝》、臧洪とともに西方に行って陳留太守の兄張邈と計画を練った《臧洪伝》。初平元年(一九〇)、酸棗において張邈・兗州刺史劉岱・予州刺史孔伷・東郡太守橋瑁らと盟約を結んだ《臧洪伝》。のちに臧洪を大司馬劉虞のもとに派遣して、彼を天子に推戴する計画を練らせた《臧洪伝》。 興平元年(一九四)、兗州牧曹操は徐州に出兵して陶謙を討伐した。張超は曹操の将軍陳宮・従事中郎許汜・同王楷とともに曹操に対して叛逆を企てた。陳宮は張邈を説得して、曹操が国許を空けているすきに呂布を迎え入れるべきだと言った。張邈が呂布を推戴して兗州牧とすると、諸郡県はみな呼応した《呂布伝》。 翌二年春、曹操が定陶を攻撃すると、呂布はしばしば兵を出して救援したが、鉅野で敗北して徐州の劉備のもとに走った。張邈は張超に家族を預けて雍丘を守らせた。八月、曹操が雍丘を包囲すると、張超は数ヶ月にわたって固守したが、十二月、雍丘は陥落して張超は自害した。曹操は張邈の三族を皆殺しにした《武帝紀・呂布伝》。 張超は曹操に包囲されたとき、「臧洪だけが頼みだ。吾(わたし)を助けに来るだろう。彼は天下の義士だから根本に背くことはないが、ただ拘束されて到着できないことだけが心配だ」と言っていた。臧洪は袁紹によって東郡太守に任命されていたが、袁紹に張超救援を懇願しても許可されなかった。張超が敗死したと聞き、臧洪は袁紹と絶交した。袁紹は軍勢を率いて東郡を包囲陥落させ、臧洪を殺害した《臧洪伝》。 【参照】袁紹 / 袁綏 / 王楷 / 許汜 / 橋瑁 / 孔伷 / 曹操 / 臧洪 / 張超(河間の人) / 張邈 / 陳宮 / 陶謙 / 董卓 / 劉虞 / 劉岱 / 劉備 / 劉弁(少帝・弘農王) / 呂布 / 兗州 / 鉅野県 / 広陵郡 / 酸棗県 / 寿張県 / 徐州 / 陳留郡 / 定陶県 / 東郡 / 東平国 / 予州 / 雍丘県 / 功曹 / 刺史 / 従事中郎 / 将軍 / 大司馬 / 太守 / 牧 / 夷(皆殺し) |
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チョウドウ |
(?〜?) |
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字は景明。河内郡修武の人。鉅鹿太守《水経注》。 光和三年(一八〇)、鉅鹿太守となる。漳水が渡し場で氾濫して農作ができなくなったとき、張導は地図を開いて水の流れる方向や屈曲を調べ、郡丞彭参・郡掾馬道嵩らとともに堤防を築いて流れを正した。その成果は民衆に役立つもので、張導のことは漳河の神壇碑にも記されている《水経注・臧洪伝集解》。 原文「建和」とあるのを『臧洪伝集解』に従って「光和」と改める。中平元年(一八四)の鉅鹿太守は郭典だったとあり《皇甫嵩伝》、張導はそれ以前に転任していたようだ。 初平元年(一九〇)に山東で義兵が起こると、張導が盟約を結ぶ儀式として壇上に登って血をすすった。袁紹の命令を受けて奔走し、韓馥に冀州牧の印綬を袁紹に譲らせたのも張導の功績である。しかし朝廷に敬意を表して爵位を賜ったことを袁紹に咎められ、一族皆殺しにされた《臧洪伝》。 袁紹の罪を数えたものに公孫瓚の上表文、臧洪の陳琳宛て書簡の二つがあるが、初平二年(一九一)冬に書かれた公孫瓚の上表文は張導のことを記さない。臧洪は、興平二年(一九五)十二月に張超が見殺しにされたため袁紹と絶交し、その包囲を受けたまま建安元年(一九六)を迎えたという。陳琳宛て書簡はそのとき書かれたものだが、文中に「臧洪は長安の名分を奉る」とあって、すでに献帝が長安を出立していたことを知らなかったようである。張導が殺されたのは初平二年冬から興平二年十二月までの間のことではなかろうか。 【参照】袁紹 / 韓馥 / 馬道嵩 / 彭参 / 河内郡 / 冀州 / 鉅鹿郡 / 山東 / 修武県 / 漳水 / 郡掾 / 郡丞 / 太守 / 牧 |
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チョウナン |
(?〜?) |
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袁煕の大将《武帝紀》。 建安十年(二〇五)正月、張南・焦触は袁煕・袁尚に叛いて攻撃、彼らを遼西に追放したのち曹操に降服した。曹操は彼らを列侯に封ずる《武帝紀・袁紹伝》。 |
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チョウナン |
(?〜222) |
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字は文進《楊戯伝》。 先主(劉備)に従って荊州から蜀へと入った。章武元年(二二一)七月、劉備は大軍を催して西進し、巫峡・建平から夷陵に至るまで数十もの陣営を連ね、馮習を大督、張南を前部とし、輔匡・趙融・廖化・傅肜らをそれぞれ別働隊とした。しかし馮習は敵軍を軽んじたため、翌年六月、猇亭において陸遜に大敗を喫し、張南は馮習とともに討死した《楊戯・陸遜伝》。 【参照】趙融 / 傅肜 / 馮習 / 輔匡 / 陸遜 / 劉備 / 廖化 / 夷陵県 / 猇亭 / 荊州 / 建平郡 / 蜀 / 巫峡 / 前部 / 大督 |
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チョウバク |
(?〜195) |
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字は孟卓。東平国寿張の人。張超の兄である《呂布伝》。「八廚」の一人《後漢書党錮伝》。 若いころ任侠者としての評判を轟かし、困窮した人があれば、家財を傾けることも惜しまず助けたりしたので、多くの人物が彼になついた《呂布伝》。そのため度尚・王考・劉儒・胡毋班・秦周・蕃嚮・王章とともに「八廚」と称された《後漢書党錮伝》。袁紹・何顒・呉子卿・許攸・伍徳瑜(伍孚?伍瓊?)とは奔走の友の間柄で《袁紹伝》、曹操とも友人であった《呂布伝》。三公の府(役所)から高第に推挙され、騎都尉の官職を拝命した《呂布伝》。 董卓が政権を掌握すると、尚書周毖・城門校尉伍瓊らの計らいによって陳留太守に昇進した《董卓伝》。張邈は弟の張超と一緒に董卓打倒を語り合ったとき、「弟が郡守になったとき、臧洪という者に統治を委ねていると聞いた。臧洪とはいかなる人物か」と尋ね、張超の紹介で臧洪に会うと、張邈は彼を高く評価した《臧洪伝》。 初平元年(一九〇)正月、曹操・袁紹らとともに反董卓の義兵を挙げた《武帝紀》。軍中には司馬趙寵・兵士典韋らがいた《典韋伝》。張邈は諸将とともに酸棗に集結し、兗州刺史劉岱・予州刺史孔伷・東郡太守橋瑁、および弟の広陵太守張超とともに盟約を結び、臧洪にその儀式を取り仕切らせた《臧洪伝》。曹操が滎陽の汴水に出陣したとき、張邈は部下の衛茲に軍勢を与えて曹操に協力させた《呂布伝》。袁紹が冀州牧韓馥の地位を奪うと、張邈は韓馥を迎え入れて庇護を加えている《袁紹伝》。 呂布が袁紹の元を去って張邈に身を寄せ、さらに張楊を頼って行こうとしたとき、張邈は別れに臨んで呂布と手を取り合って誓いを結んだ《呂布伝》。袁紹は同盟軍の盟主になってから驕慢になっていったので、張邈は正論をもって彼を責めた《呂布伝》。袁紹は彼が呂布と親しくしていたことを知っていたので《後漢書呂布伝》、曹操をそそのかして彼を殺させようとしたが、曹操は承知せず、むしろ袁紹を責めた。「孟卓(張邈)は親友ですし、善悪からいっても容赦すべきです。いま天下は未だ定まっておらず、互いに傷付け合うのは宜しくありませぬ」。張邈はそれを聞いてますます曹操に感謝した《呂布伝》。 初平四年(一九三)秋、徐州牧陶謙が泰山・任城を侵犯したので、曹操は征伐に赴いた。そのとき曹操は「我(わたし)がもし帰ってこなければ、孟卓を頼っていけ」と家族に語っていた。曹操は陶謙征伐から帰還すると、張邈に会って涙を流した。曹操との親密さはこのような有様であった《呂布伝》。 興平元年(一九四)、曹操は部将陳宮に兵士を預けて東郡を守らせ、二度目の陶謙討伐に出征した。陳宮は従事中郎許汜・王楷とともに曹操に叛逆し、張邈の弟張超を抱き込んだ《呂布伝》。 陳宮は張邈を説得した。「君は千里四方の土地から軍勢を集め、四方に敵を抱える土地を抑えておられます。剣を押さえて振り返るだけで英雄としての資格は充分なのに、かえって他人の制御を受けておられる。いま兗州軍は東征にあたっており、その地は空虚になっております。呂布は壮士であり、その戦闘力は敵う者無しです。もし彼を迎え入れて一緒に兗州牧となり、天下の形勢を観望しながら時事の変化を待つならば、それもまた縦横家としての好機でありましょう」《呂布伝》。 張邈は陳宮の言葉を受け入れた。陳宮が預かった兵士をやって呂布を出迎え、彼を兗州牧とした。張邈が劉翊を使者として「呂将軍が救援してくれるので軍糧を提供して欲しい」と荀彧に告げさせたため、荀彧は変事が起こっていることを知り、夏侯惇らとともに守備を固めた《荀彧伝》。州内の諸郡県は、ただ三つの城を残し、ことごとく呂布に呼応した《呂布伝》。張邈は別駕従事畢諶の家族を人質に取り、彼を味方に引き入れた《武帝紀》。 そののち張邈は呂布に付き従って転戦していたが、翌年夏、曹操が定陶城を奪回すると、呂布は逃走して徐州の劉備に身を寄せ、張邈は弟張超に家族を委ねて雍丘を守らせ、自身で袁術に救援を求めようとしたが、部下の兵士に殺害された《武帝紀・呂布伝》。雍丘が四ヶ月の籠城のすえ陥落すると、張超は自殺し、曹操は張邈の三族を皆殺しにした《武帝紀》。 かつて、李膺の子李瓚は死に臨んで我が子にこう語っていた。「いまに動乱が起こるだろうが、天下の英雄は曹操以外に存在しない。張孟卓は吾(わたし)と親しく、袁本初(袁紹)は汝(おまえ)の妻の実家だが、だからといって彼らを頼りにしてはならぬ。必ず曹氏に身をよせるようにな」《後漢書李膺伝》。 【参照】衛茲 / 袁術 / 袁紹 / 王楷 / 王考 / 王章 / 何顒 / 夏侯惇 / 韓馥 / 許汜 / 許攸 / 橋瑁 / 胡毋班 / 呉子卿 / 伍瓊(伍徳瑜) / 伍孚(伍徳瑜) / 孔伷 / 周珌(周毖) / 荀彧 / 秦周 / 曹操 / 臧洪 / 張超 / 張楊 / 趙寵 / 陳宮 / 典韋 / 度尚 / 陶謙 / 董卓 / 蕃嚮 / 畢諶 / 李瓚 / 李膺 / 劉儒 / 劉岱 / 劉備 / 劉翊 / 呂布 / 兗州 / 冀州 / 滎陽県 / 広陵郡 / 酸棗県 / 寿張県 / 徐州 / 任城国 / 泰山郡 / 陳留郡 / 定陶県 / 東郡 / 東平国 / 汴水 / 雍丘県 / 予州 / 騎都尉 / 高第 / 三公 / 刺史 / 司馬 / 従事中郎 / 尚書 / 城門校尉 / 太守 / 別駕従事 / 牧 / 夷(皆殺し) / 八廚 / 府 |
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チョウハッキ |
(?〜?) |
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黒山の賊。河内郡の人《張既伝》。 黄巾賊が蜂起してからというもの、河内郡朝歌県の黒山の谷間にも数え切れないほど多くの賊徒が蜂起し、多い者では二・三万、少ない者でも六・七千人の軍勢を集めていた。張白騎はその一人である。元の名を張晟といったが、白馬に騎乗したので仲間から 張白騎と呼ばれたのである《張燕伝・後漢書朱儁伝》。 のちに張白騎は一万人余りの軍勢を抱えて誰にも属さず、弘農郡の殽山・澠池のあたりを荒らしまわり、南方の劉表に通じた《張既・杜畿伝》。 建安十年(二〇五)八月、幷州刺史高幹が叛逆すると、河東郡では衛固が呼応し、上党郡の諸県では長吏が殺害され、弘農郡では太守が誘拐された。高幹が濩沢に軍を進めて河東郡を窺うと、張白騎もこれに応じて黄河を北に渡って東垣に進出した。河東太守杜畿はわずか数十騎を率いて張辟に楯籠ったが、官吏・民衆が彼に協力したので四千人余りの軍勢になった。張白騎は高幹・衛固とともに張辟を攻撃したが陥落させることができず、諸県で略奪を働こうとしたものの何も得られなかった。 翌十一年春、夏侯惇の大軍が到着したため、衛固は殺害され、高幹・張白騎は敗走した《杜畿伝》。弘農の戦線では馬騰が鎮圧軍に参加しており、配下の将龐悳が武功を挙げている《龐悳伝》。 【参照】衛固 / 夏侯惇 / 高幹 / 杜畿 / 馬騰 / 龐悳 / 劉表 / 垣県(東垣) / 濩沢侯国 / 河内郡 / 河東郡 / 黄河 / 殽山 / 弘農郡 / 黒山 / 上党郡 / 朝歌県 / 張辟 / 幷州 / 黽池県(澠池) / 刺史 / 太守 / 黄巾賊 / 黒山賊 / 長吏 |
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チョウビ |
(?〜?) |
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字は建興《華陽国志》。犍為郡武陽の人。張翼の子《張翼伝》。 若いころ同郡の費緝、蜀郡の寿良とともに名を知られた。真心に厚く、学問を好み、官位は広漢太守まで昇った《華陽国志》。 永康元年(三〇〇)、趙廞は叛逆して大将軍を自称すると張微を軍祭酒に任じたが、翌永寧元年、趙廞の部下李特らが背いて成都城に迫ると、張微は常美・李苾らとともに夜中、城門を切って脱走した。太安元年(三〇二)、晋朝は張微を徳陽に駐屯させて広漢太守に復職させた《華陽国志》。 【参照】寿良 / 常美 / 張翼 / 趙廞 / 費緝 / 李特 / 李苾 / 犍為郡 / 広漢郡 / 蜀郡 / 晋 / 成都県 / 徳陽県 / 武陽県 / 軍祭酒 / 太守 / 大将軍 |
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チョウフウ |
(?〜?) |
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張魯の子《張魯伝》。五人兄弟の何番目にあたるかは分からない。 父張魯は漢寧太守であったが、建安二十年(二一五)に曹操に帰服して閬中侯に封ぜられた。食邑は一万戸である。張魯が亡くなったとき、その食邑を継いだのが張富である《張魯伝》。 |
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チョウリョウ |
(34?〜179?) |
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字は輔漢《張魯伝集解》。沛国豊の人。張魯の祖父、張衡の父《張魯伝》。「天師」「張道陵」とも称される《張魯伝集解》。 建武十年(三四)、呉の天目山で生まれたという。さまざまな書物を習い、もともとは大儒学者であった。直言して諫めたため、江州県令に左遷された。官を棄てて洛陽北邙山に隠れ住み、煉形術を修得した。章帝が博士の官職を用意して彼を招いたが、張陵は赴かず、和帝が即位したとき太傅・冀侯に取り立てようとしたが、やはり拝受しなかった《張魯伝集解》。 淮水を渡って鄱陽に入り、龍虎山に登って天の精気を一身に集めた。神秘の源を探して西方に行き、壁魯洞において「制命五岳摂召万霊及神虎の秘文」を発見し、そこで嵩山の石室に行き、『黄帝九鼎丹経』を手に入れた《張魯伝集解》。 そうして道術を極めたが、巴蜀に名山が多く、また病気が流行して人々が苦しんでいると聞き、順帝の御代、蜀に仮住まいした《張魯伝集解・後漢書劉焉伝》。初めは陽平山に居を構えたが、のちに鶴鳴山に移り、そこで玄元老君(老子)の神秘的な声を聞いて、経典の奥義を授かった《張魯伝集解》。 『三国志』張魯伝では「鵠鳴山」とあるが、『後漢書』『水経注』では「鶴鳴山」、『太平御覧』では「鳴鵠山」とする《張魯伝集解》。 こうして身体を分解して変化を現し、『道書』二十余篇を著述して「天師」を自称した。蜀の古老が「むかし漢の高祖は二十四気に対応する二十四の祭壇を作ったので、王となって天下を領有できたのだ」と語るのを聞いて、その二十四の祭壇で牛をつぶして祭祀を行い、土の祭壇と草の屋根を設けて「二十四治」と称する治療所を作り、さらに四つ増やして二十八宿と対応させた。そのため病気は減っていった。塩水の湧く井戸を発掘したり、城に住む鬼を退治したといった話は数え切れない《張魯伝集解》。 永寿二年(一五六)、また渠亭山に住まいを移し、「三五斬邪雌雄剣」を見付けだした。陽平の治では(?)、彼の度重なる功績を評価し、「天師衡使」の印を授け、代々受け継がせることにした《張魯伝集解》。 熹平年間(一七二〜一七八)の末期、張陵は大蛇に呑み込まれて姿を消した。子の張衡は駆けずりまわって父の亡骸を探したが見付けることができず、そこで霊験を現して鶴に変化したのだと言い、崖の上に石を置いて目印とした。光和二年(一七九)、「正月七日に昇天いたすゆえ、張衡が天師を継承せよ」との遺書を残し、張陵は雲に乗って昇天した。齢百二十であった《張魯伝集解》。 建武十年に生まれ、光和二年に昇天したというから百四十六歳になるはずで、計算が合わない。それを指摘する盧弼も百五十七歳と誤っている《張魯伝集解》。 彼が百姓たちを惑わす際、信奉する者に五斗の米を提出させた。それゆえ米賊と呼ばれているのである《張魯伝・後漢書劉焉伝》。 【参照】張衡 / 張魯 / 劉炟(章帝) / 劉肇(和帝) / 劉邦(高祖) / 劉保(順帝) / 老子(玄元老君) / 呉 / 江州県 / 鶴鳴山(鵠鳴山・鳴鵠山) / 漢 / 冀県 / 渠亭山 / 蜀 / 嵩山 / 沛国 / 巴蜀 / 鄱陽県 / 壁魯洞 / 豊県 / 北邙山 / 陽平 / 雒陽県(洛陽県) / 龍虎山 / 淮水 / 県令 / 侯 / 太傅 / 博士 / 黄帝九鼎丹経 / 制命五岳摂召万霊及神虎秘文 / 道書 / 三五斬邪雌雄剣 / 治(治療所) / 天師 / 米賊 / 煉形術 |
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チョウユウ |
(?〜219?) |
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字は南和。蜀郡の人《周羣伝》。 天体の運行や気象を見て、未来を予知する能力を持っており、その才能は周羣を上まわっていた《周羣伝》。また人相見の能力もあり、鄧芝には「七十歳を過ぎて大将軍となり、侯に封ぜられるだろう」と告げている《鄧芝伝》。 益州の従事となって劉璋の側に仕えていたが、劉璋が劉備を招き入れて涪城で会見した際、劉備が張裕の鬚をからかって、「むかし涿郡に住んでいたころ毛という姓の者が多く、東西南北みんな毛氏であった。県令はそれを『毛が涿(=啄。くち)を囲んでいる』と言ったものだ」と言った。張裕もすかさず「上党郡潞県長から涿県令に栄転した者があって、のちに官を去って家に帰りました。ある人が彼に手紙を出すとき、宛名を『潞(=露。あらわ)涿君』と記しました」と、劉備に鬚がないことをあげつらった《周羣伝》。 のち劉備が益州を平定すると、張裕は益州の後部司馬となったが、密かに人に語った。「庚子の年(二二〇)、劉氏の治世は終わる。益州を手に入れて九年後、寅年(二二二)から卯年(二二三)の間にまた失ってしまうだろう」《周羣伝》。 劉備が漢中に軍を派遣しようとしたとき、周羣は「土地を手に入れても住民を手に入れることはできません。それでも出兵されるなら、小部隊を出すことなく慎重に進めるべきです」と諫めた。張裕も「漢中の覇権を争えば必ず負けます」と言上した《周羣伝》。劉備は諫言を聞き入れず出兵し、夏侯淵を破って戦闘に勝利した《先主・黄忠・法正・夏侯淵伝》。しかし、すでに漢中の住民は北方に移されており、住民を手に入れることはできなかった《杜襲伝》。また呉蘭・雷銅らに武都郡を攻略させたが、全滅してしまった《先主・周羣伝》。 劉備はかつて侮辱を受けたことを根に持っており、また張裕の予言が当たらなかったので、彼を投獄した。諸葛亮の減刑嘆願も受け入れられず、張裕は市場で処刑された。張裕は生前、自分に刑死の相があるのを見るたび、鏡を地に叩き付けていた《周羣伝》。 【参照】夏侯淵 / 呉蘭 / 周羣 / 諸葛亮 / 鄧芝 / 雷銅 / 劉璋 / 益州 / 漢中郡 / 蜀郡 / 上党郡 / 涿郡 / 涪県 / 武都郡 / 潞県 / 県長 / 県令 / 侯 / 後部司馬 / 従事 / 大将軍 |
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チョウイ |
(?〜201) |
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巴西郡安漢の人《華陽国志》。一名を趙穎ともいう《華陽国志》。 はじめ中央で太倉令の官を務めていたが、官を棄てて益州牧劉焉に従って益州帳下司馬となり、劉焉が没すると、治中従事王商らと計って劉璋を擁立した。朝廷では劉璋を監軍使者・領益州牧に、趙韙を征東中郎将に任じて荊州牧劉表を討伐させた《劉焉伝》。興平二年(一九五)、巴郡を三分割して新たに固陵郡・永寧郡を立てることを進言《華陽国志》。 益州には南陽郡・三輔地方の人々が数万戸も流れ込んでいて、劉璋は彼らから兵士を徴募して東州兵と名付けていたが、東州兵が益州の人々を害すことがあっても取り締まることができなかった。趙韙が人々の心をつかんでいたので、劉璋は彼に東州兵の問題を委ねた《劉璋伝》。建安五年(二〇〇)、趙韙はしばしば劉璋に進言したものの容れられず、そうした恨みから劉璋に叛逆する《華陽国志》。趙韙は荊州牧劉表と結び、州内の豪族らを率いて都合数万人の軍勢を擁し、蜀郡・広漢・犍為が彼に呼応した。劉璋は成都城に籠って防戦し、東州兵も必死になって反撃し、江州まで進んで趙韙を攻撃した。翌六年、趙韙の部下龐楽・李異らが裏切って、趙韙を斬殺した《劉璋伝》。 【参照】王商 / 龐楽 / 李異 / 劉焉 / 劉璋 / 劉表 / 安漢県 / 永寧郡 / 益州 / 荊州 / 犍為郡 / 広漢郡 / 江州県 / 固陵郡 / 三輔 / 蜀郡 / 成都県 / 南陽郡 / 巴郡 / 巴西郡 / 監軍使者 / 征東中郎将 / 太倉令 / 治中従事 / 帳下司馬 / 牧 / 東州兵 / 領 |
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チョウイク |
(?〜193?) |
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字は元達。琅邪国の人《後漢書陶謙伝》。 趙昱が十三歳のころ、母が三ヶ月ものあいだ病床に伏せっていたことがあった。趙昱は悲しみのあまり痩せおとろえ、まばたきもせず、粟粒を握って(生死を)占い、血の涙を流して祈祷をした。郷里の人々はその孝行ぶりを称えた《陶謙伝》。 処士である東莞の綦毋君に『公羊伝』を学び、さまざまな学問を手広くつかんだ。何年ものあいだ大志を秘めて田畑を顧みることなく、親友でさえ滅多に顔を合わせることができなかった。ときどき父母の部屋に入って朝晩の挨拶をしたが、すぐに帰っていった。高潔にして廉直、礼儀を弁えた態度であり、清明にして謙虚、その大志に干渉できる者はない。善行を表彰して教化を興し、悪行を糾弾して風俗を正した《陶謙伝》。 趙昱は彭城の張昭、東海の王朗とともに名を知られ、互いに友誼を結んだ《張昭伝》。身を清めて悪を憎み、人となりは耳に邪悪を聞かず、目に虚妄を見ないという様子であった《後漢書陶謙伝》。州郡からお召しがあっても、つねづね病気だと言って応じなかった。琅邪相の檀謨・陳遵らが召しだしても応じず、なかには激怒する者もあったが、決して意志を枉げることはなかった《陶謙伝》。 太常の种払が推挙して方正となった《後漢書陶謙伝》。そのころ、三署の郎から県長が選任されることになっていて、趙昱が莒、劉繇が下邑、王朗が菑丘、臧洪が即丘の県長となった《臧洪伝》。県長となってからは五教を宣言し、統治ぶりは国の模範となった《陶謙伝》。 『三国志』陶謙伝の注に引く『謝承書』では孝廉に推挙されたとあるが、『後漢書』は推挙者を明らかにしており、科目を方正とするこちらを採用すべきかと思われる。原文に「太僕种払」とあるのは「太常种払」の誤りという《後漢書集解》。种払が太常となったのは初平二年(一九一)のことであり、また方正を推挙する権限も持たないので、ここでは後年の官職を言っているのである。 黄巾党が反乱を起こして(徐州の)五つの郡で跳梁跋扈すると、郡県は兵士を動員したが、(莒の趙昱が)その先鞭を付けたのである。徐州刺史巴祇が勲功第一として上表し、栄転と恩賞を授かる運びとなったが、趙昱はそれをいたく恥ずかしく思い、官職を捨てて家に帰っていった《陶謙伝》。 徐州牧陶謙がはじめ別駕従事に召しだしたとき、趙昱は病気を口実に辞退した。陶謙は揚州従事である会稽の呉範に命じ、改めて意思を伝えさせたが、趙昱が意志を守って心変わりしないので、刑罰でもって脅そうとした。趙昱はようやく起ちあがり、茂才に推挙された《陶謙伝》。しかしながら、趙昱は忠実正直であったため、陶謙に疎まれることになった《陶謙伝》。 陶謙は張昭を茂才に推挙したが、張昭が応じなかったため、陶謙は自分が軽んじられていると思い、張昭を拘禁した。張昭が助かったのは、趙昱が命を投げだして救出に奔走したからである《張昭伝》。 そのころ漢帝は長安にあって関東では義兵が立ちあがっていた。趙昱は治中従事の王朗とともに陶謙を説得した。「いま天子は西京におわしますので、使者を遣して王命を奉るべきかと存じます。」陶謙はそこで趙昱を使者として長安へ手紙を伝えさせた。天子はその気持ちを評価し、陶謙を安東将軍、趙昱を広陵太守、王朗を会稽太守とした《王朗伝》。 趙昱が広陵太守に出向したのは、陶謙の使者を務めたことで天子に評価されたからであり、『後漢書』陶謙伝が「忠実正直であるのを陶謙に疎まれたため、広陵太守への出向を命じられた」とするのは誤り。 曹操が陶謙を攻撃したとき、徐州は騒動となり、下邳相である笮融は男女一万人・馬三千匹を連れて広陵に逃れてきた。趙昱は賓客の礼でもって待遇したが、笮融は広陵の資産に目をつけて、酒宴が酣になったとき趙昱を殺害、兵士どもを放って略奪を働かせた《後漢書陶謙伝》。 『三国志』陶謙伝では「広陵の軍隊に目をつけて」とするが、後文に続けて「略奪を働かせた」とあるのと符合しないため採用しない。また『謝承書』では「賊徒の笮融が臨淮から駆逐され、郡境に侵入してきたので、趙昱は軍隊を率いて防戦したが、敗北して殺された」としている。趙昱が殺されたのは、李傕秉政から孫策渡江までのあいだで、初平四年(一九三)ごろかと思われる。 趙昱の孝廉であった張紘は、激しく怒り悲しんだが、仇討ちをする実力がなかった。後年、会稽東部都尉になったとき、主簿を琅邪へ遣して祭壇を設け、親戚中から跡継ぎを探しださせた。また琅邪相の臧宣(臧霸か?)に依頼の手紙を送ると、臧宣は趙氏の五歳の子供に趙昱の祭祀を行わせた《張紘伝》。 【参照】王朗 / 綦毋君 / 呉範 / 笮融 / 曹操 / 臧宣(臧霸) / 臧洪 / 檀謨 / 种払 / 張紘 / 張昭 / 陳遵 / 陶謙 / 巴祇 / 劉協(漢帝・天子) / 劉繇 / 会稽郡 / 会稽東部 / 下邳国 / 下邑県 / 関東 / 莒県 / 広陵郡 / 菑丘県 / 徐州 / 即丘侯国(即丘県) / 長安県(西京) / 東海国 / 東莞県 / 彭城国 / 揚州 / 琅邪国 / 安東将軍 / 県長 / 孝廉 / 三署郎 / 刺史 / 従事 / 主簿 / 相 / 処士 / 太守 / 太常 / 治中従事 / 東部都尉 / 別駕従事 / 方正 / 牧 / 茂才 / 公羊伝 / 黄巾党 / 五教 |
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チョウエイ |
(?〜200) |
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袁紹の臣、騎督《武帝紀》。 建安五年(二〇〇)十月、袁紹は官渡において曹操軍と対峙していたが、淳于瓊らの五将に軍勢一万人を授け、北方からの輜重車を護送させることにした。淳于瓊が北方へ四十里行った烏巣で宿営をしたところ、曹操が歩騎五千人を率いて夜襲をかけてきた。趙叡はこの戦いで眭元進・韓莒子・呂威璜とともに曹操軍に斬られている《武帝紀・後漢書袁紹伝》。 |
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チョウサク |
(?〜?) |
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劉璋の巴郡太守。巴西郡の人《華陽国志》。「趙莋」とも作る《先主伝》。 建安十八年(二一三)、諸葛亮・張飛・趙雲が荊州から長江を遡って巴郡に侵入すると、将軍厳顔とともにこれを拒んだが、張飛のために敗北を喫した《華陽国志》。のちに益州別駕従事となり、同二十五年、劉備に帝位に即くよう言上している《先主伝》。 【参照】厳顔 / 諸葛亮 / 張飛 / 趙雲 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 荊州 / 長江 / 巴郡 / 巴西郡 / 太守 / 別駕従事 |
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チョウショ |
(?〜?) |
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呂布の将《徐晃伝》。 曹操が呂布を征討したとき、徐晃は別働隊として趙庶・李鄒を降服させた《徐晃伝》。 徐晃が曹操に帰参したのは建安元年、それから同三年の呂布滅亡まで曹操と呂布の兵が矛を交えたことはない。趙庶らが投降したのは同年であることは間違いないだろう。 【参照】曹操 / 李鄒 / 呂布 |
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チョウスウ |
(?〜188?) |
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字は伯高。漢中郡南鄭の人《華陽国志》。漢中郡の主簿である《華陽国志》。 中平五年(一八八)六月、益州牧劉焉は督義司馬張魯・別部司馬張脩をやって漢中を攻撃させた。漢中太守蘇固は城壁を飛び越えて趙嵩の元に身を寄せた。趙嵩は蘇固を連れて逃走したが、彼をかくまう場所を探すため蘇固と別行動を取った。ところが戻ってみると、蘇固はすでに張脩の手兵に殺されていた。趙嵩は怒り悲しみ、剣を片手に張脩軍の本陣に飛び込んで十人余りを殺し、張脩を捕まえる寸前、戦死した《華陽国志》。妻の張氏は病気だと言い、ついに再婚することはなかった《華陽国志》。 【参照】劉焉 / 蘇固 / 張氏 / 張脩 / 張魯 / 益州 / 漢中郡 / 南鄭県 / 太守 / 督義司馬 / 別部司馬 / 牧 |
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チョウトク |
(?〜205) |
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涿郡故安の人《武帝紀》。 建安十年(二〇五)四月、霍奴とともに幽州刺史・涿郡太守を殺害、その年の八月、曹操に斬られた《武帝紀》。 このとき殺された幽州刺史は焦触ではないようである。名は伝わっていない。 |
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チョウハン |
(?〜?) |
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建安十三年(二〇八)十二月、劉備は周瑜とともに赤壁で曹操の水軍を撃破したのち、劉表の子劉琦を荊州刺史に任じるよう上表し、桂陽太守趙範を武陵太守金旋・長沙太守韓玄・零陵太守劉度とともに降服させた《先主伝》。 新たに劉備の将趙雲が桂陽太守となったが、趙範は嫂(あによめ)樊氏を趙雲に嫁がせようとした。樊氏は国を傾けるほどの色香があった。しかし趙雲は「お互い同姓なのだから、卿(あなた)の兄は我(わたし)の兄でもある」と言って固辞した。のちにある人が縁組みを受け入れるように勧めると、趙雲は「趙範は追い詰められて降服したのであって本心は測り知れない。天下に女は少なくないのだから」と飽くまで取らなかった。結局、趙範はあとになって逃走した《趙雲伝》。 『演義』では趙雲との関係を強調するため趙範を常山郡真定の人だといっている。趙範は桂陽太守に赴任するにあたって一族を故郷に残しているはずで、もし北方の人であるなら、趙雲と結縁したことが知られれば一族が危険にさらされかねない。趙範は南方の人と見るべきだろう。『後漢書南蛮伝』は言う。「交阯の西に噉人の国がある。初めて子供が生まれるとすぐさま潰して食べてしまい、それを弟のためだと言っている。味のよいものは君主に献上するが、君主は喜んで父親に褒美をとらせる。妻を娶ったとき美人であれば兄に譲る。いまの烏滸の人がこれである」。趙範自身が烏滸の民であったとは思えないが、その影響を受けた文化圏の出身であったとは考えられる。 【参照】韓玄 / 金旋 / 周瑜 / 曹操 / 趙雲 / 樊氏 / 劉琦 / 劉度 / 劉備 / 劉表 / 荊州 / 桂陽郡 / 赤壁 / 長沙郡 / 武陵郡 / 零陵郡 / 刺史 / 太守 |
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チョウフ |
(?〜?) |
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初平元年(一九〇)正月、関東で反董卓の義兵が起こると、冀州牧韓馥もこれに呼応した。韓馥は都督従事趙浮・程奐の二人に強弩兵一万人・軍船数百艘を授けて孟津に進出させ、黄河を挟んで董卓軍と対峙させた《袁紹伝》。 翌年七月、勃海太守袁紹は黄河を下って延津に軍勢を引き返す一方、高幹・荀諶らを派遣して韓馥に冀州牧の地位を譲るよう脅迫した。韓馥は臆病な性質であったため恐怖を抱き、彼の言いなりになろうとした。趙浮らはこれを聞くと孟津を引き上げ、夜中、朝歌県清水口の袁紹軍の側を軍鼓を打ち鳴らしながら通過した。袁紹はそれを非常に憎んだ。こうして趙浮らは韓馥のもとに到着した《袁紹伝》。 趙浮らは韓馥を説得して言った。「袁本初には一升の兵糧すらなく、各自が離散してしまい、張楊・於夫羅が新しく味方になったとはいえ、まだ使い物にはなっておらず(我が軍の)敵ではありません。従事らは自ら兵を統率して奴らを防ぎたいと思います。十日のあいだには必ずや土崩瓦解させてみせましょう。明将軍はただ門を開き枕を高くしておられればよろしい。何も恐れ憂うことはありませんぞ」。韓馥は聞き入れず州牧の地位を退いた《袁紹伝》。 【参照】袁紹 / 於夫羅 / 韓馥 / 高幹 / 荀諶 / 張楊 / 程奐 / 董卓 / 延津 / 関東 / 冀州 / 黄河 / 清水口 / 朝歌県 / 勃海郡 / 孟津 / 太守 / 都督従事 / 牧 / 強弩 |
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チョウヘイ |
(?〜?) |
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字は公阿。東陽郡の人。越方(越地方の方術)に巧みであった《後漢書徐登伝》。 「趙昞」とも書く。東陽郡は呉の孫晧が会稽郡を分割して立てたもの。ここでは後世の記録に拠っているため呉の地名で称されている《後漢書徐登伝集解》。 趙炳が気でもって人に「禁」をかけると、その人は立つこともできなくなり、虎に「禁」をかけると、虎は地に伏して頭を下げ、目を閉じるので、たやすく縛り上げることができた。柱へ一尺ばかり打ち込んだ大釘に「気」を吹きかけると、釘はその瞬間に躍り出て、飛び去ったが、まるで弓弩の矢が発射されたかのようだった《後漢書徐登伝》。 ときに兵乱や疫病の盛んな時期であったが、趙炳は烏傷の渓水のほとりで徐登なる者と遭遇した。この徐登もまた巫術に通じていたので、それぞれの技術を用いて病人の治療に当たろうと誓い合った《後漢書徐登伝》。 二人は「いま志を同じくしたからには、おのおのの能力を試してみようではないか」と言い合い、まず徐登が渓水に「禁」をかけると、渓水の流れは止まった。続いて趙炳が枯れ木に「禁」をかけると、木は生き返って花を咲かせた。二人は互いに顔を見合わせて笑った。一緒にその道を修めることにして、徐登が年長であったので趙炳は彼に師事した《後漢書徐登伝》。 清廉倹約な生き方を尊重し、神を祭るときは東流する川の水だけをお供えし、桑の木の皮を削って干し肉代わりのご供物とした。禁術を施しただけで、診療してもらった者たちはみな回復した《後漢書徐登伝》。 のちに徐登が物故すると、趙炳は東行して章安に入ったが、百姓たちは彼が何人であるかをまだ知らなかった。趙炳はそこで人目を引きつつ茅葺きの小屋に昇り、鼎を仕掛けて飯を炊いた。小屋の主人が慌てふためくのを見ても、趙炳は笑って取り合わない。すっかり炊きあがったが、屋根には損傷したところも異常なところも全くなかった《後漢書徐登伝》。 またあるとき川に出くわし、渡し船を出すよう要求しても船頭が承知しなかった。趙炳はそこで笠を浮かべ、その中に座って長嘯し、風を呼び、流れを変えて、対岸に渡った。それを百姓たちは神業だと思って心服し、故郷へ帰るような気持ちで服従した《後漢書徐登伝》。 章安の県令は、趙炳が人々を惑わせているのを憎悪し、彼を逮捕して処刑した。人々は彼のために永康県に祠堂を立たが、今に至るまで蚊が入ったことはない。江南では今なお趙炳の禁術を伝えており、それによって病気の治療をしている《後漢書徐登伝》。 【参照】徐登 / 烏傷県 / 永康県 / 渓水 / 江南 / 章安県 / 東陽郡 / 県令 / 越方 / 禁術 / 巫術 |
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チョウルイ |
(?〜219?) |
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関羽の都督。建安二十四年(二一九)十二月、章郷において、呉将潘璋の司馬馬忠により関羽・関平らとともに捕らえられる《孫権・潘璋伝》。 |
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チンウ |
(?〜?) |
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字は公瑋。下邳国淮浦の人《袁術伝・後漢書陳球伝》。陳球の子、陳珪の従弟にあたる《討逆伝・後漢書陳球伝》。 孝廉に推挙されて三公の府(役所)に召され、洛陽市長になり、のちに太尉府に招かれたが赴かなかった。永漢元年(一八九)に議郎を拝命したが、呉郡太守への辞令を受けても着任しなかった《後漢書陳球伝》。 揚州刺史陳温(陳禕)が病没し、袁紹が派遣した袁遺が敗戦のため揚州を去ると、袁術の命により揚州刺史(または揚州牧)となる《袁術伝・呂範伝》。 初平四年(一九三)春、袁術が陳留郡封丘で曹操に敗れて揚州に逃れてくると《武帝紀》、南方の者たちは袁術に呼応したが、陳瑀はこれを拒んだ《呂範伝》。袁術は陰陵に駐屯し、巧みな言葉でへりくだった態度を取ると、陳瑀は知略を知らず臆病でもあったので袁術を攻撃しなかった。袁術は淮水北岸で兵を集めて寿春城に迫ると、陳瑀は恐ろしくなり、弟陳琮を使者に立てて袁術に和を請うた。袁術が弟を捕縛して軍を進めてきたので、陳瑀は下邳に逃走した《呂範・袁術伝》。 建安二年(一九七)夏、袁術を討伐すべしとの詔勅が呂布・孫策・陳瑀に下された《討逆伝》。陳瑀は広陵郡海西に駐屯していたが、孫策の領地を奪取せんと企て、彼が銭塘に出てくると、都尉万演を長江南岸に派遣し、丹陽・宣城・涇・陵陽・始安・黟・歙などの県の大帥祖郎、焦已、また呉郡烏程の厳白虎らに官印を授け、孫策の留守を襲わせようとした。しかし、それに気付いた孫策は呂範・徐逸を海西にやって陳瑀を攻撃させた。陳瑀は大敗し、大将陳牧は呂範に討たれ、軍民合わせて四千人あまりを孫策に奪われた《討逆・呂範伝》。陳瑀が単身冀州に亡命して袁紹を頼ると、袁紹は彼を故安の都尉に任じた《討逆伝》。 広陵太守陳登は叔父の恥辱をすすがんと考え、厳白虎の残党に印綬を贈って孫策の後方を攪乱させた。孫策は陳登討伐の軍を起こしたが、その道中で狩りを楽しんでいる最中、許貢の食客に殺された《討逆伝》。 【参照】袁遺 / 袁術 / 袁紹 / 許貢 / 厳白虎 / 徐逸 / 焦已 / 曹操 / 孫策 / 祖郎 / 陳温(陳禕) / 陳球 / 陳珪 / 陳琮 / 陳登 / 陳牧 / 万演 / 呂範 / 呂布 / 黟県 / 陰陵 / 烏程県 / 下邳国 / 海西県 / 冀州 / 涇県 / 呉郡 / 故安 / 広陵郡 / 始安県 / 寿春県 / 歙県 / 宣城県 / 銭塘県 / 丹楊県(丹陽) / 長江 / 陳留郡 / 封丘県 / 揚州 / 洛陽県 / 陵陽県 / 淮水 / 淮浦県 / 議郎 / 孝廉 / 三公 / 刺史 / 市長 / 太尉 / 太守 / 都尉 / 牧 / 大帥 / 府 |
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チンキ |
(?〜?) |
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袁術の将。丹楊郡の人《討逆伝》。 袁術ははじめ九江太守の地位を孫策に約束していたが、太守周昂を撃ち破ると、陳紀を任用して孫策を落胆させている《討逆・破虜伝》。のちに袁術が帝号を僭称したとき、九江太守は淮南尹と改称された《袁術伝》。 袁術の僭号のさい、孫策の従兄孫賁へ九江太守の辞令が下ったが、孫賁は妻子を棄てて江南に出奔している《孫賁伝》。陳紀が引き続きその任にあたったのではないだろうか。 【参照】袁術 / 周昂 / 孫策 / 九江郡 / 淮南郡 / 尹 / 太守 |
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チンキュウ |
(?〜198) |
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字は公台。東郡武陽の人《後漢書呂布伝》。 陳宮は剛直壮烈、若くして海内の知名の士はみな交友を結んだ。天下が混乱すると太祖(曹操)に随身した《呂布伝》。 陳宮は東郡の人であるから、曹操が東郡太守になったとき配下に加わったのだろう。 初平三年(一九二)、黄巾賊の闖入により兗州刺史劉岱が戦死すると、陳宮は太祖に告げた。「州にはいま君主なく、そのうえ王命は断絶しております。陳宮は州内を説得したいと存じます。明府(知事どの)はすみやかに赴いてこれを牧(統治)しなされ。それを元手に天下を収めること、これぞ霸王の業であります」。陳宮が別駕・治中を「いま天下は分裂し、州には君主なき有様。曹東郡(曹操)は命世の才をお持ちです。州牧に迎え入れれば、きっと民衆を安心させることができましょう」と説得すると、済北の相鮑信らもまたその通りだと言った《武帝紀》。 興平元年(一九四)夏、太祖は再び陶謙を征伐した。陳留太守張邈の弟張超は、太祖の将陳宮、従事中郎許汜・王楷と共謀して太祖に叛逆した。陳宮は張邈を説得した。「いま豪傑が並び立って天下は崩壊しており、貴君は十万の軍勢を擁して四戦の土地に臨まれ、剣を押さえて振り返るだけでも諸人の総帥となるには充分、それなのに他人の制御を受けておられるとは卑屈なことではありますまいか!いま州兵は東征して本拠地はがら空き、呂布は勇者であり、遮る者もなき戦いぶりです。もし彼を一時的に迎え入れて兗州を共同統治し、天下の形勢を見つつ時勢の変化を待たれるならば、それもまた合従連衡の機会かと存じまする」《呂布伝・後漢書同伝》。 太祖はもともと陳宮に軍勢を率いて東郡に駐留させていたが、張邈は張超・陳宮とともにその軍勢を率いて東方へ向かい、呂布を兗州牧に迎え入れて濮陽を拠点とした。郡県はみな呼応し、太祖のために固守したのは鄄城・東阿・范のみであった《呂布伝》。陳宮はみずから軍勢を率いて東阿を攻略し、汎嶷には范城を攻略させたが、汎嶷は范の県令靳允に謀殺され、陳宮は倉亭津が程昱に遮断されていたため渡ることができなかった《程昱伝》。 東阿を攻めるため倉亭津を渡ろうとしたというのだから、陳宮は黄河北岸に駐屯していたのである。郷里の東武陽であろうか。 太祖は徐州から引き返すと、呂布の将李封・薛蘭を撃破した。ここで陶謙の死を聞き、先に徐州を平定してから呂布と戦おうと思ったが、荀彧が「むかし高祖は関中、光武は河内を拠点にいたしましたが、兗州は将軍にとっての関中・河内です。軍勢を分けて東方にいる陳宮を攻撃し、その隙に西方の食糧を確保なさいませ。一挙にして呂布を打ち破ることもできましょうぞ」と諫めたので、(徐州攻略を)取り止めた《荀彧伝》。 『武帝紀』に興平二年夏、李封・薛蘭を撃破したとある。陶謙が死んだのは興平元年だが、李封・薛蘭を撃破したあとで訃報を受け取ったのかもしれない。 二年夏、呂布は東緡から陳宮と合流し、一万人余りを率いて太祖を攻撃した。太祖の軍勢は少なかったので、伏兵を設け、奇兵を放って攻撃し、彼らを大破した《武帝紀》。太祖が定陶を陥落させたので、呂布は東方へ行き(徐州の)劉備のもとに出奔した《武帝紀》。 建安元年(一九六)六月、夜中に郝萌が反乱を起こした。郝萌の将曹性は郝萌を見限り、高順とともに郝萌を斬った。呂布が質問すると、曹性は「郝萌は袁術と通謀しておりました。陳宮が共謀者です」と供述した。陳宮は座中にあって赤面し、側にいた人はみなそれに気付いたが、呂布は陳宮が大将であったため不問に付した《呂布伝》。 三年九月、公は呂布を東征した。十月、彭城を屠り、その相の侯諧を捕らえた《武帝紀》。陳宮は「迎撃すべきです。逸をもって労を撃つのですから、勝てないはずがありません」と主張したが、呂布は「奴らが来るのを待って泗水に追い詰めるに越したことはないさ」と聞き入れなかった《呂布伝》。 太祖が城下に到着して呂布に手紙を送り、利害を説得すると、呂布は白門楼の上から「貴卿らは苦しめないでくれたまえ。我は明公(との)に自首するのだから」と(太祖の)兵士たちに言った。陳宮は自分の罪の深さを思い、呂布の降服を阻止した。「逆賊曹操のどこが明公なんだ!今さら降服しても、卵に石を投げ付けるようなもので、安全でいられるわけがない!」《呂布伝》 陳宮は言った。「曹公は遠くから来ておりますので、状況からいって長くは持ちません。将軍が歩騎を率いて城外で気勢を挙げ、陳宮が残りの軍勢を率いて城内を固めることにして、もし(敵が)将軍に向かえば陳宮が背後を攻撃し、もし城郭を攻めれば将軍が城外から救援する。(敵軍は)十日もせぬうちに食糧は尽き果てるでしょう。それを攻撃すれば打ち破ることができます」。呂布もその通りだと思ったが、彼の妻が「公台は曹操から赤子のように待遇されたのに、それを捨てて来たのですよ。かねてより高順とも仲が悪く、もし変事が起こったなら、妾(わたし)は将軍の妻ではいられません!」と言うので、呂布は取り止めた《呂布伝》。 太祖は攻撃しても陥落させられず、何度も続く戦いで士卒が疲労していたので、引き揚げようとした。荀攸と郭嘉が「呂布は勇猛ですが無謀で、三度戦ってみな敗北し、鋭気は衰えております。陳宮は智慧者ですが(計略をまとめるのが)遅く、陳宮の計略が定まらぬうちに急襲をかければ、呂布を攻略することができます」と説得したので、沂水・泗水を引いて城を水攻めにした《荀攸伝》。 それから一ヶ月余りすると、君臣の心はばらばらになり、呂布の将侯成・宋憲・魏続らは陳宮を縛りあげ、その軍勢を連れて降服した。呂布も白門楼から下りて降服した《武帝紀・呂布伝》。 陳宮が兵士に連れられてくると、曹操は平生のごとく語りかけた。「公台よ、貴卿は日ごろ智略が有り余っているのを自負しておったが、今でもそう思うかね?」、陳宮は呂布を指差して「この者が陳宮の言葉を聞かなかったからここまで落ちぶれたのだ。聞き入れられておれば絶対に捕虜になることはなかった」。《呂布伝》 太祖は笑って「今日の事態はどう説明するのか?」、陳宮「臣として不忠、子として不孝、死ぬのが我が務めだ」、太祖「貴卿はそれでよかろうが、貴卿の老母はどうしよう?」、陳宮「孝をもって天下を治める者は他人の親を傷付けぬものと聞いております。老母の生死は明公次第です」、太祖「貴卿の妻子はどうだ?」、陳宮「天下に仁政を施す者は他人の祭祀を絶やさぬものと聞いております。妻子の生死はやはり明公次第です」《呂布伝》。 太祖が再び口を開こうとしたとき、陳宮は「処刑して軍法を明らかにしてくだされ」と(刑場へ)走り出て、制止することもできなかった。太祖は泣きながら見送ったが、陳宮が振り返ることはなかった。太祖は彼の家族を昔以上に手厚く待遇し、その母を死ぬまで養い、女を縁付けてやった《呂布伝》。 【参照】袁術 / 王楷 / 郭嘉 / 郝萌 / 魏続 / 許汜 / 靳允 / 侯諧 / 侯成 / 高順 / 荀彧 / 荀攸 / 薛蘭 / 宋憲 / 曹性 / 曹操(太祖) / 張超 / 張邈 / 程昱 / 陶謙 / 汎嶷 / 鮑信 / 李封 / 劉秀(光武) / 劉岱 / 劉備 / 劉邦(高祖) / 呂布 / 兗州 / 河内郡 / 関中 / 沂水 / 鄄城県 / 泗水 / 徐州 / 済北国 / 倉亭津 / 陳留郡 / 定陶県 / 東郡 / 東阿県 / 東緡県 / 東武陽県(武陽県) / 白門楼 / 范県 / 彭城国 / 濮陽県 / 県令 / 刺史 / 従事中郎 / 相 / 太守 / 治中従事 / 別駕従事 / 牧 / 黄巾賊 |
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チンシ |
(?〜258) |
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字は奉宗。汝南郡の人。許靖の兄の外孫である《董允伝》。 幼いとき両親を失って、許靖の家で養育された。二十歳で名を知られ、次第に昇進して選曹郎になったが、性格は謹厳で容姿には威厳があり、占術など多芸に通じていたので、費禕は非常に高く評価していた。董允が亡くなると侍中の官を継ぎ、呂乂が亡くなると尚書令の官を兼務し、さらに鎮軍将軍の官を加えられた《董允伝》。 後主劉禅の気持ちに取り入り、黄門令黄皓と親しくしたので、席次では姜維の下であったが、政治の実権では姜維より大きかった。景耀元年(二五八)に卒した。劉禅は言葉を発するたびに涙を流して悲しみ、彼に忠侯と諡した《董允伝》。 龐統の子龐宏は強情な性質で、人物批評の能力を持っていたが、陳祗を軽蔑して不遜な態度を取ったため出世を妨害され、涪陵太守で亡くなった《龐統伝》。 また北伐について譙周と語り合ったが、譙周はその議論をまとめて「よく人民をいたわって敵の自壊を待つべきで、武力を用いるべきでない」と論文を著した《譙周伝》。 【参照】許靖 / 姜維 / 黄皓 / 譙周 / 董允 / 費禕 / 龐統 / 龐宏 / 劉禅 / 呂乂 / 汝南郡 / 涪陵郡 / 黄門令 / 侍中 / 尚書令 / 選曹郎 / 太守 / 鎮軍将軍 / 諡 / 後主 |
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チンタン |
(?〜?) |
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字は子正。広陵郡の人《張紘伝》。 張昭・張紘・秦松らとともに孫策の謀主となったが、早くに亡くなった《討逆・張紘伝》。 |
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チンチョウ |
(?〜188?) |
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字は元化。漢中郡成固の人。弘農太守陳綱の孫にあたる《華陽国志》。 陳調は若いころから遊侠を好み、兵法を学んでいた。蘇固という人が漢中太守になると、陳調は門下掾に任じられた《華陽国志》。 中平五年(一八八)六月、益州牧劉焉が督義司馬張魯・別部司馬張脩に命じて漢中を攻撃させたとき、陳調は敵を防ぐ作戦を立てて蘇固に進言した。しかし蘇固は聞き入れることができず、塀を乗り越えて逃亡し、その途中で張脩の手兵に殺害された。陳調は賓客百人余りをかき集め、張脩軍を攻撃して大いに撃破した。さらに突き進んで張脩軍本陣を攻めたが、戦いのすえ負傷して死んだ《華陽国志》。 【参照】蘇固 / 張脩 / 張魯 / 陳綱 / 劉焉 / 益州 / 漢中郡 / 弘農郡 / 成固県 / 太守 / 督義司馬 / 別部司馬 / 牧 / 門下掾 |
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チンラン |
(?〜209) |
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廬江郡灊県の豪族か。「陳簡」とも伝わる《後漢書》。 はじめ袁術に属し、雷薄とともに廬江郡の灊山に駐屯していたが、袁術が曹操に敗れて没落すると、彼がやって来ても拒絶して受け入れなかった《袁術伝》。 建安四年(一九九)、孫策は廬江太守劉勲を追放して李術(李述)を太守に任命していたが《討逆伝》、翌五年に孫策が亡くなると、李術は揚州刺史厳象を殺害した《呉主伝》。陳蘭は雷緒・梅乾らとともに李術に呼応し、数万の手勢を集めて長江・淮水流域の郡県を破壊した《劉馥伝》。 同十四年十二月《張遼伝集解》、梅成とともに廬江郡灊県・六県を上げて叛乱を起こし、梅成が于禁・臧霸に降伏を偽って逃れてくると、彼とともに灊山の頂上に砦を築いて抵抗したが、狭く急峻な山道を張遼が登って来たので、敗北して斬首された《張遼伝》。孫権は将軍韓当を派遣して陳蘭を助けようとしたが、臧霸が舒に駐屯していたので果たせなかった《臧霸伝》。 【参照】于禁 / 袁術 / 韓当 / 厳象 / 曹操 / 臧霸 / 孫権 / 孫策 / 張遼 / 梅乾 / 梅成 / 雷緒 / 雷薄 / 李術 / 劉勲 / 舒 / 潜県(灊) / 灊山 / 長江 / 揚州 / 六県 / 廬江郡 / 淮水 / 刺史 / 太守 |
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テイカン |
(?〜?) |
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初平元年(一九〇)正月、冀州牧韓馥は董卓討伐の義兵を起こし、都督従事趙浮・程奐に強弩兵一万人・軍船数百艘を授け、孟津で黄河対岸の董卓と対峙させた。しかし翌年七月に勃海太守袁紹の軍勢が黄河を下って延津に転進し、それに恐怖した韓馥が冀州牧の地位を彼に譲ろうとしていると聞いて、程奐らは軍勢を引き上げ、夜間、朝歌県清水口の袁紹陣営の側を軍鼓を鳴らしながら通過、韓馥のもとに帰還した。程奐は趙浮とともに「軍勢を率いて袁紹を防ぎたく存じます」と言上したが、韓馥は聞き入れず州牧の地位を退いた《袁紹伝》。 【参照】袁紹 / 韓馥 / 趙浮 / 董卓 / 延津 / 冀州 / 黄河 / 清水口 / 朝歌県 / 勃海郡 / 孟津 / 太守 / 都督従事 / 牧 / 強弩 |
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テイキ |
(?〜?) |
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字は申伯《杜畿伝》。 太和六年(二三二)、田予が汝南太守の任務を担当したまま督青州になると、青州刺史程喜はそれを不満に思い、軍事行動を起こすときも意見の食い違いが多かった。そこで密かに上奏して「田予は多くの兵器・真珠・黄金を戦利品としましたが、放棄してしまって官府に納めておりません」と告げたので、もともと真珠を愛好していた明帝曹叡は、田予の功績を取り上げなくなった《田予伝》。 北海郡の隠者管寧は文帝曹丕・明帝曹叡から相継いで招聘されていたが、固辞して応じようとしなかった。曹叡は程喜に詔勅を下して管寧を出仕させるよう命じ、そのなかで「管寧は自分を尊大に思っているのか」と訊ねた。程喜は言上して「臣(わたし)が彼の気持ちを推し量ると、一人暮らしを長く続け、年老いて智慧も衰えたので、隠棲して慎み深い態度を取っているのでしょう。自分を尊大に思っているわけではないと存じます」と弁護している《管寧伝》。 のちに征北将軍に昇進して薊に駐屯した。杜恕が幽州刺史になったとき、尚書袁侃は杜恕に忠告している。「程申伯は先帝(曹叡)の御代、青州で田国譲(田予)を陥れたことがある。足下(あなた)は彼と一緒に一つの城に入るのだから、よくよく気を付けて彼を待遇すべきだぞ」。しかし杜恕は程喜に取り入ろうとしなかった。司馬の宋権は程喜の意を受けて杜恕に手紙を出したが、杜恕は厳しく突っぱねた《杜畿伝》。 嘉平元年(二四九)、鮮卑族の長老の子息が幽州の役所へ直接参上し、規定通りに関所を通らなかった事件があり、刺史杜恕はそれを上奏することなく、彼が連れてきた子供一人を斬刑に処した。そこで程喜が彼を弾劾し、杜恕は庶民に下された《杜畿伝》。 かつて朱建平に人相を見てもらったことがあるが、適中しなかったという《朱建平伝》。 【参照】袁侃 / 管寧 / 朱建平 / 宋権 / 曹叡 / 曹丕 / 田予 / 杜恕 / 薊県 / 汝南郡 / 青州 / 北海郡 / 幽州 / 刺史 / 司馬 / 尚書 / 征北将軍 / 太守 / 都督(督) / 鮮卑族 / 相術(人相見) |
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テイショ |
(?〜193) |
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代郡の人。劉虞の従事《後漢書劉虞伝》。幽州の従事だろうか。 初平四年(一九三)冬、幽州牧劉虞はみずから諸将の軍勢十万人を糾合して公孫瓚を討とうとした。出発を目前にして、程緒が兜を脱いで進みでて言った。「公孫瓚に悪事過失があるとはいえ処罰の名目が定まっておりませぬ。明公はまず訓戒して行いを改めさせようとはせず、領内で軍兵を起こしておられます。国家の利益にはならぬ上、しかも勝敗の見通しも立っていないのです。軍兵を留め、武威を示すに越したことはございますまい。公孫瓚は必ずや悔悟して謝罪するでありましょう。いわゆる戦わずして人を屈服させるというものです。」劉虞は決起直前に士気を阻喪させたとして、程緒を斬首した《後漢書劉虞伝》。 |
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テイエキオン |
(170?〜196?) |
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名を益、字を益恩という《後漢書鄭玄伝集解》。鄭玄の子、鄭小同の父。兄弟はなかった《後漢書鄭玄伝》。 建安年間(一九六〜二二〇)、鄭玄は病気にかかると益恩に手紙を送って遺訓を伝えた。「今年でもう七十歳になり、随分と前から老いぼれて失敗ばかりするようになった。礼典を調べると家業を継がせる時期とある。いま爾(おまえ)に家業を託し、我は静かに余生を送りつつ死について想いをめぐらそうと思う。家業については、大なり小なり汝が全てを継承してくれ。」《後漢書鄭玄伝》 「さあ君子の道を追求し、止むことなく研鑽して威儀を整え、有徳者に近付くのだ。仲間たちの評判を勝ち取り、志を貫いて徳行を打ち立てるのだ。もし名声を馳せて豊かな暮らしを手に入れても、気を抜いてはならぬぞ!いま我が家は昔とは違っておるが、野良仕事に精を出し、飢えや寒さに負けることなく、飲食は粗末なもので済ませ、衣服は薄くするのだ。吾に心配させないでくれよ。もしそれを忘れてしまうようなら、もうおしまいだぞ!」《後漢書鄭玄伝》 鄭益恩が二十三歳のとき、北海国の相孔融は彼を孝廉に推挙した。のちに袁譚が北海を包囲したとき、益恩は危険を顧みずに駆けつけ、落命した。ときに二十七歳《後漢書鄭玄伝・同集解》。 「袁譚」は原文「黄巾」とする。『集解』に引く周寿昌説にいう。「孔融が黄巾賊管亥に包囲され、太史慈・劉備に救援を求めたのは初平二年(一九一)のことであり、このとき鄭玄は六十五歳だったのだ。建安年間に鄭玄が七十歳になったと言っているのはおかしい。しかし益恩に与えた手紙では、『曲礼』に『七十歳を老人といい、家事を継がせる』とあるのを引用しているので、年齢の書き間違いとは考えられない。『孔融伝』に建安元年(一九六)、孔融が袁譚に城を攻められたとあるので、益恩が落命したのはこのときのことではないか。范曄が『袁譚』の二字を『黄巾』と誤ったのである。」そうすると鄭玄が病気にかかり遺訓を垂れたのは建安元年ということになる。なお鄭玄の死は、それ以後、建安五年のことである。 |
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テイゲンキン |
(?〜?) |
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潁川郡の人。鄭子羣の子《晋書礼志》。 父鄭子羣は正妻陳氏と生き別れになったので蔡氏を後妻に迎え、鄭子羣を生んだ。のちに陳氏が帰ってきたため、鄭子羣は二人の正妻を持つことになってしまった。鄭元釁は陳氏が亡くなると嫡母の礼をもって服喪し、陳氏の従兄陳羣に対しては舅としての礼を取った。族兄の鄭宗伯は「自分の肉親を貶めるのかね」と咎めたが、郷里の先輩たちは鄭元釁の態度の方がよいと評した《晋書礼志》。 |
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テイシグン |
(?〜?) |
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潁川郡の人。鄭元釁の父、陳羣の従妹の婿《晋書礼志》。 鄭子羣はもともと陳羣の従妹を正妻に迎えていたが、のちに呂布の乱に遭って陳氏と生き別れになった。改めて同郷の蔡氏から後妻を迎えて子の鄭元釁を儲けたが、徐州が平定されると陳氏も帰ってきて、正妻が二人いる状態になってしまった《晋書礼志》。 これは中書監荀勖の上奏した言葉から。荀勖は彼を「郷里の鄭子羣」と呼んでいる。 |
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テイショウドウ |
(196?〜?) |
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字は子真《高貴郷公紀集解》。北海国高密の人、鄭益恩の子《高貴郷公紀・後漢書鄭玄伝》。 父鄭益恩が死んだとき、鄭小同はまだ母の胎内にいた。祖父鄭玄は丁卯の歳の生まれだったが、彼が生まれたのもまた丁卯の日で、手のひらの皺の様子も祖父と同じだった。そこで鄭玄は彼を「小同」と名付けたのである《高貴郷公紀・後漢書鄭玄伝》。 両脚に障害を抱えていて、何年ものあいだ(官職を?)授からなかったが、晩年になって鍼灸を用い、同時にさまざまな祈祷も合わせて行い、百日ほどですっかり快癒した《高貴郷公紀集解》。若いころから性質がよく、六種の経典を総合的に学び、徳行は郷里でも顕著であったので、海岱の人々のうち称賛せぬ者はなかった《高貴郷公紀》。 文帝曹丕が過去の賢者を顕彰したとき、鄭小同は「儒宗」鄭玄の嫡孫であるということで郎中に任命された。その後もしばらくは実家にいて出仕しなかった《高貴郷公紀》。三十歳を越えたころ、太尉華歆が鄭小同を推挙した《高貴郷公紀》。 華歆の上奏文に「文皇帝」との記述があり、この推挙が明帝の時代に行われたことが分かる。明帝即位は黄初七年(二二六)、華歆薨去は太和五年(二三一)のことである。もし鄭小同の生年が初平二年(一九一)であれば、このときすでに三十六から四十一歳になっていたはずで、華歆の上奏文に「鄭小同は三十歳を越えた」とする記述から大きく乖離する。鄭益恩が死に、鄭小同が生まれたのはやはり建安元年(一九六)なのであろう。鄭益恩の解を参照されたい。 嘉平六年(二五四)二月に李豊・張緝・夏侯玄らの謀叛が発覚したのを承け、皇帝曹芳は淫乱であり為政者として不適格であるとして、九月、大将軍司馬師が皇太后から廃位の宣旨を引き出した。このとき侍中であった鄭小同は司馬師以下四十五人と連名で曹芳の悪行を上奏し、斉王への降格を提言している《斉王紀》。 曹髦が即位すると、司空鄭沖らとともに『尚書』の教授役を務め、正元二年(二五五)九月庚子、講義を終えたので、帝はそれぞれに恩賜の品を下した《高貴郷公紀》。甘露三年(二五八)八月、詔勅によって司隷校尉・関内侯王祥が三老、侍中・関内侯鄭小同が五更に任じられた《高貴郷公紀》。 司馬昭は機密文書を書いている途中、廁へ立った。そこへ鄭小同が訪ねてきたが、密書にはまだ封をしていなかった。司馬昭は廁から戻ると鄭小同に「吾の手紙を読みましたか?」と訊き、鄭小同が「いいえ」と答えてもまだ信じられなかった。司馬昭は「我が卿に背くことはあっても、卿を我には背かせまいぞ」と言い、鴆毒を飲ませて鄭小同を殺した《高貴郷公紀・後漢書鄭玄伝》。 【参照】王祥 / 夏侯玄 / 華歆 / 郭皇后(皇太后) / 司馬師 / 司馬昭 / 曹丕 / 曹芳 / 曹髦 / 張緝 / 鄭益恩 / 鄭玄 / 鄭沖 / 李豊 / 海岱 / 高密侯国 / 斉国 / 北海国 / 王 / 関内侯 / 五更 / 三老 / 司空 / 侍中 / 司隷校尉 / 太尉 / 大将軍 / 郎中 / 尚書 / 六経 / 儒宗 / 鍼灸 / 鴆毒 |
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テイソウハク |
(?〜?) |
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潁川郡の人。鄭元釁の族兄《晋書礼志》。 族弟鄭元釁の実母蔡氏は正室であったが、やはり正室であった前妻陳氏が戻ってきたので、鄭元釁は陳氏が亡くなると嫡母の礼をもって服喪し、その従兄陳羣に対しては舅としての礼を取った。鄭宗伯は「自分の肉親を貶めるのかね」と鄭元釁を咎めたが、郷里の先輩たちは鄭元釁の態度の方がよいと評した《晋書礼志》。 |
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テイタ |
(?〜?) |
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蜀将。 太和二年(二二八)正月、新城太守孟達が謀叛の罪により司馬懿に斬られたとき、姚静とともに軍勢七千人余りを連れて降服した《晋書宣帝紀》。 |
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テイタク |