三国志人名事典 蜀志13

黄権Huang Quan

コウケン
(クワウケン)

(?〜240)
蜀鎮北将軍
魏車騎将軍・儀同三司・益州刺史・育陽景侯

字は公衡。巴西郡閬中県の人。

若いころ郡吏に取り立てられ、のち益州牧劉璋により主簿となる。別駕従事張松が荊州から劉備を迎えて漢中の張魯と戦わせようと主張したとき、「左将軍(劉備)を部将として待遇すれば不満を抱かせ、賓客として待遇すれば君主が二人いる状態になってしまいます」と諫めた。しかし劉璋は聞き入れず、彼を広漢県長に左遷した。劉備が益州侵略を始めると郡県の多くが降伏したが、黄権は城門を閉ざして屈服しようとしなかった。劉璋が降伏すると初めて劉備のもとに出頭した。劉備は彼の忠義を認めて偏将軍に任じた。

張魯が曹操に敗れたと聞くと、黄権は漢中進出を進言した。劉備は黄権を護軍に任じて張魯を出向かせたが、張魯は曹操に帰服したあとだった。のちに劉備が夏侯淵を撃破して漢中攻略を進めたのは、黄権の進言に沿ったものである。劉備が漢中王に上ると益州治中従事に任じられた。

劉備が呉を討たんと東征しようとしたとき、黄権は彼を案じて「長江の流れを下るとなれば進むのは容易ですが退くのは困難になります。私が先鋒を務めますので陛下(劉備)は後からお出まし下さい」と諫めたが、劉備は黄権を鎮北将軍に任じて魏に当たらせ、みずから長江を下っていった。東征軍が敗北すると黄権は退路を断たれ、配下を連れて魏に降伏した。劉備は「朕が黄権を裏切ったのだ」と述べ、黄権の家族を以前同様に手厚く庇護した。黄権もまた蜀で家族を殺されたという噂を信じなかった。

魏の皇帝曹丕は「君は陳平・韓信に倣って正義に就いたのか」と問うたが、黄権は「私は蜀で厚遇を得ておりましたが、敗戦のため止むを得ず魏に帰順したのです。死を免れる一心でしたので古人に倣うほど余裕はありませんでした」と答えた。曹丕は大層感心し、彼を侍中・鎮南将軍・育陽侯として側近くに仕えさせた。劉備が崩じたとの知らせが入ると魏の人々は曹丕に祝賀を捧げたが、黄権だけは参加しなかった。曹丕は彼を驚かしてやろうと考え、黄権に出頭命令を出して何度も繰り返して使者をやったが、黄権の顔色や態度はいつもどおりだった。

のちに益州刺史を領して河南に移った。大将軍司馬懿は諸葛亮に手紙を送ったとき「黄権殿は快男子です。いつも貴方を話題にして賛美しております」と述べている。景初三年(二三九)に車騎将軍・儀同三司(大臣待遇)となったが、翌年に亡くなって景侯と諡された。

【参照】夏侯淵 / 韓信 / 司馬懿 / 諸葛亮 / 曹操 / 曹丕 / 張松 / 張魯 / 陳平 / 劉璋 / 劉備 / 育陽県 / 益州 / 河南尹 / 漢中郡 / 魏 / 荊州 / 呉 / 広漢県 / 蜀 / 長江 / 巴西郡 / 閬中県 / 王 / 儀同三司 / 景侯 / 県長 / 侯 / 護軍 / 左将軍 / 刺史 / 侍中 / 車騎将軍 / 主簿 / 大将軍 / 治中従事 / 鎮南将軍 / 鎮北将軍 / 別駕従事 / 偏将軍 / 牧 / 諡

李恢Li Hui

リカイ
(リクワイ)

(?〜231)
蜀安漢将軍・庲降都督・使持節・建寧太守・漢興亭侯

字は徳昂。建寧郡愈元の人。

はじめ建寧郡の督郵となった。叔母の夫の建伶県長爨習に違法行為があったが、益州太守董和は爨習が有力豪族だったため不問に付し、李恢は連座を免れている。推挙を受けて州に赴く途中、劉備が益州攻撃を開始すると聞くと、劉備の勝利を予見して緜竹に行って会見を求めた。劉備は彼を漢中に派遣して馬超を味方に引き入れさせた。成都城が陥落すると益州の功曹書佐主簿に任じられる。のちにある者が李恢は謀叛を企てていると讒訴したが、劉備は彼の無実を証明してやって別駕従事に昇進させた。

章武元年(二二一)、庲降都督鄧方が亡くなると、劉備は李恢に後任に誰が相応しいか尋ねた。李恢は「むかし趙充国は『私に勝る者はおりません』と言いました」と自薦したので、劉備は彼を庲降都督・使持節・交州刺史に任じた。

丞相諸葛亮が高定・雍闓・朱褒らの叛乱鎮圧を開始すると、李恢は道を尋ねながら建寧に向かった。しかし賊軍は互いに集まって昆明にて李恢軍を包囲した。李恢は諸葛亮との連絡も取れず二倍の敵軍に囲まれたため、彼らを欺いて言った。「官軍は兵糧が底をついたので撤退しようとしている。私は故郷に帰ってきたのだから、君たちと力を合わせたいと思う」と。賊はこれを信じて包囲を解いたため、李恢は追撃を加えて大いに撃破した。逃げる敵を追って南の槃江に進んで東の牂牁に迫った。こうして諸葛亮と連絡を取り合って戦功を立てたので、安漢将軍を加官のうえ漢興亭侯に封じられた。

官軍が凱旋したのち南方人が再び叛乱を起こしたが、李恢が討伐にあたり、蛮族の酋長を捕えて成都に移住させ、耕牛・軍馬・金銀・犀皮などを貢物として納入させたので軍資金は大いに潤った。

建興七年(二二九)、交州が呉の領有となったので建寧太守に移る。のち漢中に移り住んだが、同九年に亡くなる。

【参照】高定元高定) / 爨習 / 朱褒 / 諸葛亮 / 趙充国 / 鄧方 / 董和 / 馬超 / 雍闓 / 劉備 / 益州 / 漢興亭 / 漢中郡 / 益州郡(建寧郡) / 建伶県 / 呉 / 交州 / 成都県 / 牂牁郡 / 槃江 / 緜竹県 / 愈元県 / 庲降 / 安漢将軍 / 県長 / 功曹 / 刺史 / 主簿 / 丞相 / 書佐 / 太守 / 亭侯 / 督郵 / 別駕従事 / 庲降都督 / 使持節 / 推挙 / 連座

呂凱Lu Kai

リョガイ

(?〜?)
蜀雲南太守・陽遷亭侯

字は季平。永昌郡不韋県の人。

郡に出仕して五官掾功曹従事を務めた。このころ雍闓らが中央に従わなくなったので、中都護李厳は六通の手紙を送って服従を求めたが、雍闓は「『天に二日なく地に二君なし』と言います。いま三つの国が並び立っており、誰に帰服すべきかわからないのです」と言った。やがて雍闓は呉に降伏して呉の永昌太守に任じられた。

呂凱は府丞王伉と協力しあい、国境を封鎖して雍闓の侵入を阻んだ。雍闓は何度も永昌郡に檄文を送って国境封鎖の解除を求めたが、呂凱は手紙を返して「貴方の御先祖雍歯様は高祖(劉邦)に恨まれなが らも侯に封じられました。なぜ漢王室の御恩と御先祖の忠義を裏切ろうとなさるのでしょうか」と言った。

丞相諸葛亮が雍闓討伐の軍を発すると、雍闓は高定の部下に殺された。諸葛亮は皇帝に上表して「永昌郡吏の呂凱と府丞王伉は絶縁の地で忠節を貫くこと十年余りに及び、彼らは道義を守って雍闓・高定の軍事的圧力にも屈しませんでした。私は永昌郡の人々がこれほど誠実かつ正直だとは思いませんでした」と呂凱らを褒め称えた。呂凱は雲南太守・陽遷亭侯となり、王伉も永昌太守・亭侯となった。しかし、のちに呂凱は蛮族の叛乱によって殺害された。

【参照】王伉 / 高定元高定) / 諸葛亮 / 雍闓 / 雍歯 / 李厳 / 劉邦 / 雲南郡 / 永昌郡 / 呉 / 不韋県 / 陽遷亭 / 侯 / 功曹従事 / 五官掾 / 丞相 / 太守 / 中都護 / 亭侯 / 府丞

馬忠Ma Zhong

バチュウ

(?〜249)
蜀鎮南将軍・庲降都督・監軍・彭郷亭侯

字は徳信。巴西郡閬中県の人。

もともと母の実家で養われ、姓名を狐篤といったが、のちに復して馬忠と改めた。はじめ郡吏となり、建安末年に孝廉に推挙されて漢昌県長に任じられた。

劉備が夷陵の戦いに敗れたとき、巴西太守閻芝は馬忠に統率させて郡兵五千人を援軍として前線に送った。劉備はすでに永安宮まで下がっていたが、馬忠と対面すると尚書令劉巴に向かって「黄権を失ったかわりに馬忠を得たぞ」と言った。

建興元年(二二三)に丞相諸葛亮の門下督となり、同三年に南中が制圧されると牂牁太守に任命された。牂牁郡丞の朱褒が叛乱したばかりだったが、慈悲と愛情をもって統治し、大層威厳と恩徳を兼ね備えていた。

同八年になって丞相参軍に召し出され、長史蔣琬の補佐役として事務を取り仕切った。また益州の治中従事を兼任した。翌年に諸葛亮が祁山に出陣すると、これに従って軍の事務を司る。軍が帰還したのち、張嶷らを率いて汶山郡の羌族を征伐した。同十一年、蛮族の酋長劉冑が叛乱を起こしたので、張翼に代わって庲降都督となり、劉冑を斬って南方を平定した。監軍・奮威将軍の官を加えられ、博陽亭侯に封じられた。

むかし益州郡は、郡民が太守正昂を殺害したり、その後任の張裔を縛りあげて呉に送り飛ばしたりしたので、庲降都督の前任者は安全な平夷県に役所を置いたが、馬忠が庲降都督になると奥深い味県に役所を移転した。また越巂郡でも多くの土地が失われていたので、太守張嶷を引き連れて奪い返した。これらの功績によって安南将軍を加えられ、彭郷亭侯に封じられる。

延煕五年(二四二)に中央に召し返され、のち漢中の蔣琬に詔勅を伝えて帰ったとき鎮南将軍を加えられる。同七年に大将軍費禕が魏の攻撃を防いださいは、成都に留まって尚書の仕事を代行した。費禕が帰還すると再び南方に赴任する。

延煕十二年(二四九)に亡くなった。馬忠は思いやりがあって気前がよく、冗談を言って大笑いすることはあっても怒りを露わにすることはなかった。いざとなればよく決断し、威光と恩恵を兼ね備えていた。だから蛮人たちも彼を畏れながらも敬愛したのだった。彼が没すると人々は涙を流して哀悼し、彼の御廟を建てた。

【参照】閻芝 / 黄権 / 朱褒 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 正昂 / 張裔 / 張嶷 / 張翼 / 費禕 / 劉冑 / 劉巴 / 劉備 / 夷陵県 / 永安宮 / 益州 / 益州郡 / 越巂郡 / 漢昌県 / 漢中郡 / 祁山 / 呉 / 牂牁郡 / 南中 / 博陽亭 / 巴西郡 / 汶山郡 / 平夷県 / 彭郷亭 / 味県 / 庲降 / 閬中県 / 安南将軍 / 監軍 / 県長 / 郡丞 / 孝廉 / 参軍 / 丞相 / 尚書令 / 太守 / 大将軍 / 治中従事 / 長史 / 鎮南将軍 / 亭侯 / 奮威将軍 / 門下督 / 庲降都督 / 羌族 / 推挙

王平Wang Ping

オウヘイ
(ワウヘイ)

(?〜248)
蜀前監軍・鎮北大将軍・漢中太守・安漢侯

字は子均。巴西郡宕渠県の人。

はじめ母方の何氏に養われて何平といったが、のち王氏に復した。杜濩・朴胡に従って洛陽に上り、曹操から校尉の官に着けられた。曹操の漢中遠征に随行したが、劉備に降伏して牙門将軍、のち裨将軍に任じられる。

『華陽国志』では杜濩らが略陽に移住したとあり、おそらく洛陽とするのは誤り。

建興六年(二二八)、参軍馬謖の先鋒に所属して街亭に出陣。馬謖は山の上に布陣しようとしたが、王平は何度も諫め、結局馬謖は魏の包囲に大敗することになった。ただ王平の部隊千人だけは陣太鼓を打ちながら踏み止まったので、魏の大将張郃は伏兵を疑って追撃できなかった。王平は諸部隊の敗残兵を拾い集めながら帰還した。丞相諸葛亮は馬謖・張休・李盛を死刑に処し、将軍黄襲らの兵を没収する一方、王平を高く評価し、彼を参軍に任官して五つの部隊を預け、討寇将軍・亭侯とした。

同九年に諸葛亮が出陣して祁山を包囲すると、王平は分かれて南側に陣営を置いた。魏の司馬懿が諸葛亮を攻め、張郃が王平を攻撃したが、王平の堅い守りのため張郃は勝利することができなかった。同十二年に諸葛亮が五丈原で陣没したとき魏延が叛乱を起こしたが、彼がただ一戦で滅んだのは王平の手柄であった。後典軍・安漢将軍に昇進、漢中太守を兼任し、車騎将軍呉壱の副将として漢中に駐留する。同十五年に呉壱が没すると、安漢侯に封じられて漢中の軍事を司った。

延煕元年(二三八)に大将軍蔣琬が沔陽に駐屯したさい、王平は前護軍となり大将軍の役所の事務を取り仕切った。同六年、蔣琬が病を発して涪城に任地替えとなると、前監軍・鎮北大将軍に任じられて漢中を采配した。

翌七年、魏の大将軍曹爽が歩騎十余万を率いて漢中に押し寄せると、漢中の軍勢が三万しかなかったため諸将は動転して「涪城から援軍が来るまで迎撃をせず、関城(漢中城)を棄てて漢城・楽城に籠城しましょう」と言ったが、王平は「敵が関城に入ると大事だ。護軍劉敏・参軍杜祺に興勢山を守らせ、私が後方で支援に当たるのがよい。敵が軍勢を分けて黄金谷に来たら私が兵千人で防ぐ。そうするうち涪城から援軍が到着するだろう」と言い、劉敏も賛成した。はたして涪城の援軍と成都から大将軍費禕が到着して魏の軍勢は撤退した。

王平は戦場で育ったのでただ十字足らずしか字を知らず、文書作成のときは口述したものを人に書き取らせたが、全て筋道が通っていた。また『史記』『漢書』を朗読させ、その大筋を記憶していて、両書について論評するときも本質を外したことはなかった。法律や規則の遵守を自分に課し、一日中正座して冗談を口にしなかったので軍人らしくは見えなかった。ただ心が狭く疑り深い性格で、また軽はずみなところもあった。延煕十一年(二四八)に亡くなった。

【参照】魏延 / 呉壱 / 黄襲 / 司馬懿 / 諸葛亮 / 曹爽 / 曹操 / 張休 / 張郃 / 杜祺 / 杜濩 / 馬謖 / 費禕 / 朴胡 / 李盛 / 劉備 / 劉敏 / 安漢県 / (街泉亭街亭 / 楽城 / 漢城 / 関城 / 漢中郡 / 魏 / 祁山 / 黄金谷 / 興勢山 / 五丈原 / 成都県 / 宕渠県 / 巴西郡 / 涪県 / 洛陽県 / 安漢将軍 / 牙門将軍 / 侯 / 校尉 / 護軍 / 後典軍 / 参軍 / 車騎将軍 / 将軍 / 丞相 / 太守 / 大将軍 / 鎮北大将軍 / 亭侯 / 討寇将軍 / 裨将軍 / 漢書 / 史記

張嶷Zhang Ni

チョウギョク
(チヤウギヨク)

(?〜254)
蜀盪寇将軍・関内侯

字は伯岐。巴西郡南充国の人。

二十歳のとき県の功曹従事となる。劉備が益州を平定したころ山賊たちが県を襲撃する事件があった。県長は家族を棄てて逃亡したが、張嶷は白刃をかいくぐり県長夫人を背負って助け出す。これが評判となり、州の従事に任命された。当時巴西郡には龔禄・姚伷という二千石身分の名士がいたが、みな張嶷と親しく付き合った。

建興五年(二二七)に丞相諸葛亮が漢中に駐屯したさい、広漢・緜竹の山賊張慕らは軍需物資を略奪し、官民を強制連行して部下に組み入れたりした。張嶷は都尉の官にあったが、賊が四方に逃げ散ってしまうと張慕を逮捕できないと考え、まず偽りの和睦を結んで彼らを酒宴に招いた。その最中に張嶷は側近たちとともに首謀者五十人余りを斬り捨て、残党を追撃して十日間のうちに滅ぼした。

張嶷は重病に罹ってしまったが、もともと貧しかったため治療することができなかった。ただ長年疎遠になっていた広漢太守何祗が博愛で評判だったので、彼のもとを訪ねて病気を治してくれるように懇願した。何祗は家の財産を注ぎ込んで彼の病気治療に当てたので、張嶷は数年のうちに完治した。

牙門将軍に任じられて馬忠に属す。汶山郡の羌族が叛乱すると馬忠の別働隊として鎮圧に向かい、他里村の攻略にあたった。他里村では賊が山上の要害に石門を設け、その門の上には石を積み上げて通過しようとする者に落とす手筈を整えていた。張嶷はこれを観察して攻撃を中止し、彼らを「お前たちは叛乱して人々に害を与えている。わしは陛下より逆賊討伐の命を受けてきたが、お前たちが服従して官軍を迎え入れ、兵糧・物資を提供するならば百倍にもなって報われるだろう。しかし従わないのならば容赦はしない。雷電が下るがごとくお前たちを滅ぼし尽くすだろう」と説得した。他里村の酋長は出頭して物資を提供した。他里村が帰服したと聞いて他の部族たちは動揺し、ある者は服従し、ある者は山谷に隠れ去った。張嶷はこれらを攻撃して勝利を収めた。

南方で劉冑が叛乱を起こすと、庲降都督となった馬忠に従って叛乱者鎮圧にあたった。全軍のうち第一の手柄を立て、劉冑を斬り殺し、南方は平定された。のち牂牁郡興古県の獠族が叛乱したので、馬忠から諸部隊を預かって討伐し、降伏した者二千人を漢中に送った。

建興十四年(二三六)に氐族王苻健が帰服を願い出たことがあった。しかし約束の日になっても到着せず、大将軍蔣琬は彼の真意を疑った。しかし張嶷は「苻健の弟は狡猾な人物で、また氐族のうちには苻健に同調しない者があるので遅れているのでしょう」と言上した。数日後に連絡が入り、苻健の弟が部族四百戸を率いて魏に降り、ただ苻健一人だけが蜀に来ることが伝えられた。

延煕三年(二四〇)に越巂太守となる。越巂郡ではしばしば叟族が叛乱し、かつて太守龔禄・焦璜を殺害していた。後任の太守は赴任することができず八百里も離れた安上県に留まり、名ばかりの郡になっていた。人々は越巂郡の復興を強く望んでいたが、張嶷は太守となると恩愛と信義によって多くの蛮族を心服させた。また北方の捉馬族は勇猛で知られていて蜀の統治を受け入れなかった。張嶷は彼らを征伐し、指導者魏狼を生け捕りにした。張嶷は魏狼を教え諭して釈放し、彼の仲間を帰順させた。魏狼を邑侯に推薦してやって部族三千戸をその土地に移住させると、他の部族も多くが帰服してきた。これらの功績によって関内侯に列せられる。

一度は蜀に帰順していた蘇祁の酋長冬逢が叛乱したので張嶷は冬逢を殺した。その弟隗渠は非常に勇気があって諸部族から畏れられており、また側近二人を張嶷のもとに潜入させて機密情報を得ていた。これを見抜いた張嶷は二人を買収して隗渠を暗殺させた。すると諸部族は従順になった。むかし越巂太守龔禄を殺害した斯都の頭目李求承に懸賞金を出して逮捕し、これを処刑した。はじめ張嶷が越巂太守に赴任したとき城郭が破壊されていたので小さな砦を築いていた。三年間砦にいたのち元の城郭を再建することにしたが、蛮族の男女はみな労働力を提供した。

定莋・台登・卑水の三県は郡都から三百里離れたところにあり塩・鉄・漆を産出したが、蛮族たちが生産物を横領していた。張嶷が生産物管理を取り返すため定莋に進軍すると、定莋の頭目狼岑は腹を立てて迎えに来なかった。張嶷は勇士数十人を派遣して彼を逮捕させ、鞭で打ち殺して死体を送り返した。そして狼岑の悪事を暴き、恩賞をやって服従を迫ると、蛮民たちは自分を後手に縛って罪を詫びた。そこで牛を潰して彼らに振る舞い、恩徳と信義を説き、塩や鉄の権利を取り戻した。

漢嘉郡の境には旄牛族四千戸が住んでいて、その指導者狼路は冬逢の妻の甥であったので、叔父の離という者に冬逢の部下を預けて敵討ちを企てていた。張嶷は使者をやって離を呼び、牛や酒を振る舞って冬逢の妻に会わせた。離は姉に会って大喜びし、部下たちを引き連れて張嶷に帰服した。越巂郡から成都に向かう道は旄牛族の土地を通っていたが、百年も前から旄牛族が服従しなかったので遠回りしなければならなかった。張嶷は狼路に貨幣を与えて冬逢の妻に説得させると、狼路は兄弟妻子を残らず連れて張嶷のもとにやってきた。張嶷は彼と誓いを結んで、旧街道を開いて宿場を復活させた。狼路を旄牛句毗王に封じるよう朝廷に推薦し、彼を朝貢させた。張嶷は撫戎将軍に任命される。

張嶷は費禕が大将軍の地位にありながら降伏者を信頼しすぎることを心配し、むかし岑彭・来歙が刺客によって殺害されたことを例にとって諫めた。しかし費禕は聞かず、魏から降伏してきた郭脩に殺されてしまった。また呉の大傅諸葛恪は魏を撃ち破ったばかりで、またもや大軍を動員して魏を攻略しようと企てていたので、張嶷は彼の従弟諸葛瞻に手紙を送って、彼が慎重に行動するよう忠告すべきだと述べた。はたして諸葛恪は人心を失って一族皆殺しとされた。

越巂太守を務めること十五年で郡はすっかり安定した。たびたび帰還を願い出たのを認められて中央に召された。蛮民たちは彼を恋い慕って馬車にすがりついて泣いた。旄牛を通過するときも村長が子供を背負って迎えに出て、そのまま郡境まで付いて来た。彼に従って都に朝貢した蛮族の頭目は百余人に上る。帰還すると盪寇将軍に任じられた。彼は激烈な気概を持っていて士人の多くが彼を尊敬した。ただ気ままに振る舞って礼を無視したので悪口されることもあった。

延煕十七年(二五四)、魏の狄道県長李簡が密かに降伏を願い出たとき、人々は彼の本心を疑ったが張嶷は彼を信頼できると主張し、衛将軍姜維に従って隴西に進軍した。このとき張嶷はひどく重い病気に罹っていたが、敵地で一命を投げ打ちたいと願って出陣したのである。李簡は住民を率いて迎え入れ、魏の将軍徐質との合戦には大勝利を収めたが、張嶷はその陣中で亡くなった。越巂郡の蛮民たちは彼の死を知ると涙を流して悲しみ、彼の廟所を建てて四季ごとに祭り、また洪水・旱魃のあるごとに祭った。

【参照】何祗 / 隗渠 / 郭脩 / 魏狼 / 姜維 / 龔禄 / 徐質 / 諸葛恪 / 諸葛瞻 / 諸葛亮 / 焦璜 / 蔣琬 / 岑彭 / 張慕 / 冬逢 / 馬忠 / 費禕 / 苻健 / 姚伷 / 来歙 / 離 / 李簡 / 李求承 / 劉冑 / 劉備 / 狼岑 / 狼路 / 安上県 / 益州 / 越巂郡 / 漢嘉郡 / 漢中郡 / 魏 / 呉 / 広漢県 / 広漢郡 / 興古県 / 斯都 / 蜀 / 成都県 / 牂牁郡 / 蘇祁県 / 台登県 / 他里村 / 定莋県 / 狄道県 / 南充国 / 巴西郡 / 卑水県 / 汶山郡 / 緜竹県 / 庲降 / 隴西郡 / 衛将軍 / 牙門将軍 / 関内侯 / 句毗王 / 県長 / 功曹従事 / 従事 / 将軍 / 丞相 / 太守 / 大将軍 / 大傅 / 都尉 / 盪寇将軍 / 撫戎将軍 / 邑侯 / 庲降都督 / 漆 / 塩鉄 / 羌族 / 叟族 / 捉馬族 / 氐族 / 二千石 / 旄牛族 / 獠族