三国志人名事典 蜀志14

蔣琬Jiang Wan

ショウエン
(シヤウヱン)

(?〜246)
蜀大司馬・録尚書事・益州刺史・安陽亭恭侯

字は公琰。零陵郡湘郷県の人。

二十歳のとき外弟劉敏とともに有名になった。荊州の書佐となり、劉備の益州攻略に従軍して広都県長に任命される。たまたま劉備が遊覧のついでに広都県に立ち寄ったとき、蔣琬が仕事を放置したまま泥酔していたので、劉備は大いに立腹して処罰しようとした。諸葛亮が「蔣琬は国家を担うべき人物ですが、百里四方を治めるような人物ではありません。彼は住民を安心させることを基本としていて、見栄えを気にしないのです」と彼を庇ったので、罷免されただけで済んだ。その日の夜、牛の頭が一つ門前に転がっていて血を流している夢を見た。夢占いの趙直を呼んで尋ねると「血は政治の能力があることを意味し、牛の角と鼻を合わせると『公』という字になります。あなたは公卿になるでしょう」とのことであった。

ほどなく什邡県令に復帰し、劉備が漢中王になると中央に入って尚書郎に任じられた。建興元年(二二三)、丞相諸葛亮が役所を開くと丞相の東曹掾に任命される。また茂才に推挙されたが、劉邕・陰化・龐延・廖化に譲って受け取ろうとしなかった。やがて参軍に昇進する。同五年に諸葛亮が漢中に駐留したとき、長史張裔とともに丞相の役所の事務を取り仕切った。同八年、張裔が没すると長史の官を引き継ぎ、撫軍将軍を加官された。諸葛亮が遠征するにあたっては兵糧・軍兵の補充に従事し、諸葛亮は彼を高く評価して「もし私に不幸があれば蔣琬に後事を任せてください」と皇帝劉禅に上奏していた。

諸葛亮が亡くなると尚書令に任命され、次いで行都護・仮節・益州刺史を加えられ、さらに大将軍・録尚書事に昇進し、安陽亭侯に封じられた。人々は諸葛亮を失ってみな動揺していたが、蔣琬が感情を露わにせず普段通りに振る舞ったので、次第に人々は彼に心服していった。延煕元年(二三八)に詔勅が下って「遼東で異変が起こったのは天の与える好機である。東呉と連繋して敵を討て」。蔣琬は開府を認可され、翌年には大司馬に任じられる。

東曹掾楊戯は蔣琬と議論するときも返事をしないことがあった。ある人がそれを問題にして楊戯を貶めようとしたが、蔣琬は「人の心は顔のようにみな違っているものだ。それに顔を合わせているとき従い、あとで文句を言うのも昔から戒められている。楊戯は私の意見に賛成すれば嘘になり、反対すれば私の非を責めることになるから黙っていたのだ」と彼のために弁明した。また督農楊敏が蔣琬を評して「右往左往するばかりで仕事は前任者に及ばない」と言った。蔣琬は彼を取り調べようとする係官を引き留めて、「彼の言ったことは事実なのだから取り調べの必要はない」と言った。楊敏が別の事件で逮捕されたときも、蔣琬は個人的な恨みで彼を重罪に陥れようとはしなかった。

むかし諸葛亮は漢中から北進してたびたび失敗したので、蔣琬は漢水を東に沿って進むべきだと考え、多くの軍船を作らせていた。しかし持病が繰り返し発症したので実行には移せないでいた。人々が撤退の困難さから彼の計画に反対したので、皇帝劉禅は尚書令費禕・中監軍姜維らに聖旨を下して計画を中止させた。蔣琬は姜維を涼州刺史に推薦して北方征伐に当たらせ、自分は後方の涪城に駐屯したいと申し出て、認められた。

延煕九年(二四六)、病気が重くなって亡くなり、恭侯と諡された。

【参照】陰化 / 姜維 / 諸葛亮 / 張裔 / 趙直 / 費禕 / 龐延 / 楊戯 / 楊敏 / 劉禅 / 劉備 / 劉敏 / 劉邕 / 廖化 / 安陽亭 / 益州 / 漢水 / 漢中郡 / 荊州 / 呉(東呉) / 広都県 / 什邡県 / 湘郷県 / 涪県 / 涼州 / 遼東郡 / 零陵郡 / 王 / 恭侯 / 県長 / 県令 / 参軍 / 刺史 / 丞相 / 尚書令 / 尚書郎 / 書佐 / 大司馬 / 大将軍 / 中監軍 / 長史 / 亭侯 / 東曹掾 / 督農校尉 / 都護 / 撫軍将軍 / 茂才 / 録尚書事 / 諡 / 仮節 / 行 / 公卿 / 三公(公) / 推挙 / 府(役所・開府) / 占夢(夢占い)

費禕Fei Yi

ヒイ

(?〜253)
蜀大将軍・録尚書事・仮節・益州刺史・成郷敬侯

字は文偉。江夏郡鄳県の人。

幼くして父を亡くしたので族父費伯仁に身を寄せた。益州牧劉璋は母が費伯仁の姑だったので費伯仁・費禕を州に呼び寄せた。丁度そのころ劉備が益州を平定したときにあたり、費禕はそのまま益州に留まることになった。許叔龍・董允とともに名声を得る。のちに許靖が子(叔龍か)を失うと、董允は費禕と一緒に葬儀に参列することになった。董允の父董和は粗末な馬車を用意して二人を乗せたが、諸葛亮を初めとして参列者の馬車が立派であることで董允は体面を気遣い、費禕は全く意に介さなかった。董和は「今まで二人の優劣を見極めがたかったが今日になってわかった」と言った。

劉禅が皇太子に立てられると太子舎人となり、のち太子庶子に昇進し、太子が皇帝に昇ると黄門侍郎に任じられた。丞相諸葛亮が南蛮討伐を終えて凱旋したとき費禕は若くて官位も低かったが、諸葛亮は彼を名指しして馬車に同乗させたので、人々は彼を重視するようになった。昭信校尉に任命され、呉への使者となって孫権に謁見する。孫権は人をからかうのが好きで、費禕を酒に酔わせたうえで諸葛恪・羊衜らに難題を吹っかけさせた。費禕は酔っているからと断わり、退出したあとで質問を咀嚼し、あとで全部を箇条書きにして提出したが理に適ったものであった。孫権は「君は必ず蜀の重鎮になるだろう。だからもう何度も会えないだろうな」と彼を高く評価して述べた。費禕は帰国すると侍中に昇進した。諸葛亮は漢中に駐屯したさい彼を参軍に任じた。外交の才能を評価され、たびたび呉への使者となっている。

建興八年(二三〇)、中央に召されて中護軍となり、のち丞相の役所に戻って丞相司馬に任じられた。軍師魏延と長史楊儀はいつも争っていたが、仕事に支障が出なかったのは、いつも費禕が間に入って諭したからである。諸葛亮が没すると後軍師となり、蔣琬が録尚書事に昇進すると尚書令の後任となる。蔣琬が病を発して漢中を退くと、費禕が替わって大将軍・録尚書事に任じられた。費禕は尚書令のとき、仕事の合間に賓客を持てなしたり、食事中に戯れたり博奕を打ったりしていたが、仕事が停滞することはなかった。尚書令の後任に董允が就いて前任者のように振る舞ったが、十日足らずで頓挫し、「人間の能力にこんなに差があるとは思わなかった。一日中政務に取り掛かっても暇がないくらいだ」と歎いている。

延煕七年(二四四)、魏軍が漢中に侵略してきたので、節を仮に与えられて防戦のため派遣された。その出陣直前になって光禄大夫来敏が訪ねてきて囲碁をしようと言った。すでに将兵は甲冑を身に付けていたが、費禕は了承して二人で対局に熱中した。来敏は「貴方を試して見たのですが、まさしく敵軍を撃破することのできる適任者です」と感嘆し、はたして費禕が前線に到着すると魏軍は撤退した。これにより成郷侯に封じられた。また蔣琬が益州刺史の辞任を願い出たので、再び益州刺史となった。同十一年に漢中に進駐した。蔣琬と費禕の名声と功績は匹敵し、二人はずっと中央政府を離れていたが、国家の重鎮として人事問題はかならず彼らの意見を聞いたうえで決定された。

同十四年夏に成都に帰還したが、占師が都に宰相の気がなくなったと述べたので、冬には北方の漢寿に出て駐屯した。翌十五年には役所を開くことを許可される。しかし同十六年正月の宴会中、魏から降伏してきた郭循に刺されて亡くなった。敬侯と諡された。

【参照】郭循 / 魏延 / 許叔龍 / 許靖 / 諸葛恪 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 孫権 / 董允 / 董和 / 費観費伯仁) / 羊衜 / 楊儀 / 来敏 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 漢寿県 / 漢中郡 / 魏 / 呉 / 江夏郡 / 蜀 / 成郷 / 成都県 / 鄳県 / 郷侯 / 軍師 / 敬侯 / 黄門侍郎 / 光禄大夫 / 後軍師 / 参軍 / 刺史 / 侍中 / 丞相 / 丞相司馬 / 尚書令 / 昭信校尉 / 太子舎人 / 太子庶子 / 大将軍 / 中護軍 / 長史 / 牧 / 録尚書事 / 囲碁 / 諡 / 仮節(仮の節) / 博奕 / 府(役所)

姜維Jiang Wei

キョウイ
(キヤウヰ)

(202〜264)
蜀左大将軍・録尚書事・督中外軍事・仮節・涼州刺史・平襄侯

字は伯約。天水郡冀県の人。

父姜冏は天水郡功曹を務めていて、羌族の叛乱に遭遇したとき郡将を庇って戦死した。幼くして父を失ったので母と二人で暮らした。鄭玄流の学問を好み、郡に出仕して上計掾となり、さらに州に召されて従事に任じられた。父の功績により姜維は中郎となり、天水郡の軍事に参画することになった。

建興六年(二二八)、蜀の諸葛亮が祁山に現れたが、天水太守馬遵は領内巡察のため姜維・功曹梁緒・主簿尹賞・主記梁虔・郡吏上官子脩らを伴って外出中であった。しかし馬遵は、各県が寝返ったと聞くと姜維たちの忠誠心を疑い、夜陰に紛れて逃亡して上邽県城に立て籠もった。姜維たちは追いかけて上邽城に辿り着いたが城門は開かれなかった。そこで冀県に帰ったがやはり城門は閉ざされていた。やむなく諸葛亮に降参した。蜀の先鋒馬謖が街亭で敗北を喫し、諸葛亮は西県の住民千戸を連行して帰国したが、姜維は彼に同行したので母と生き別れになってしまう。諸葛亮は姜維を得て大いに満足し、留府長史張裔・参軍蔣琬に「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮が行き届いている。李劭・馬良さえも彼には及ばないだろう。中虎歩軍五六千人を調練する役目は彼に委ね、そのあと宮廷に参内させて陛下にお目通りさせたいものだ」と述べ、彼を倉曹掾・奉義将軍・当陽亭侯とした。ときに二十七歳。

次第に昇進して中監軍・征西将軍となった。同十二年に諸葛亮が没すると成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍に任命され、諸軍を統率し、平襄侯に爵位を上げられた。延煕元年(二三八)に蔣琬に随行して漢中に駐留、彼が大司馬に昇進するとその司馬となり、一軍を率いてたびたび西方に進出した。同六年、鎮西大将軍・涼州刺史に昇進し、同十年には衛将軍に任じられ、大将軍費禕とともに録尚書事となる。同年、汶山郡平康県の蛮族の叛乱を鎮圧。また隴西・南安・金城に進出して洮水にて魏の大将軍郭淮・夏侯霸と戦った。蛮王治無戴らが住民ともども降伏してきたので彼らを成都近くに移住させた。同十二年、仮に節を与えられる。ふたたび西平に出たが勝利できず帰陣した。

姜維は西方の風俗に詳しく軍才を自負していたので、羌族たちを仲間に引き入れれば西域を手中にできると考えていたが、費禕は彼の計略は僥倖を恃んだものと危ぶみ、一万以上の大軍を与えなかった。しかし同十六年春に費禕が亡くなると、その年の夏になって姜維は数万の大軍を催し、石営・董亭を経由して南安を包囲した。魏の雍州刺史陳泰が南安東南の洛門に到着すると、兵糧不足のため撤退した。

翌十七年、督中外軍事に任じられる。ふたたび隴西に出陣すると狄道県長李簡が降伏してきた。さらに襄武に進み、魏の将軍徐質を撃ち破って首を斬った。多くの敵兵を降伏させ、河関・狄道・臨洮の三県の住民を連行して蜀の民とした。

十八年、車騎将軍夏侯霸とともに狄道に進出、洮水の西で雍州刺史王経を撃ち破って数万人を殺し、さらに狄道城を包囲した。魏の征西将軍陳泰が救援のため駆け付けてきたので退却、鍾題に駐屯した。

十九年春、任地において大将軍を拝命した。鎮西大将軍胡済と連繋して上邽県で合流しようとしたが胡済が現れず、段谷にて魏の鄧艾に大敗して多数の死者を出した。そのため人々は彼を恨んで西方で離叛が相次いだ。姜維は失策を認めて降格を願い出、後将軍・行大将軍事となった。

二十年、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南において叛乱したので、魏の軍勢が東方に向かって手薄になった。姜維は軍勢数万を率いて駱谷を通り沈嶺に着陣した。その北にあった長城には大量の食料を貯蔵してあったので、魏の大将軍司馬望がその守備を固め、また隴右から鄧艾が駆け付けてきた。姜維は芒水に進んで陣営を築き何度も挑発したが、司馬望・鄧艾は渭水沿岸に要害を築いて守りを固めるばかりだった。そのまま越年し、諸葛誕が滅ぼされたと聞いて撤退した。大将軍に復帰した。

漢中の防衛について建議して述べるに「守備隊を漢城・楽城まで下げ、敵を深く侵入させて挟み撃ちにすれば大勝利を収められます」と。この計略が認められ、督漢中胡済は後方の漢寿に下がり、監軍王含が楽城、護軍蔣斌が漢城を守ることになった。

景耀五年(二六二)、侯和に出陣したが鄧艾に敗れ、退いて沓中に駐屯した。こうして姜維は毎年のように軍勢を動かしたが勝利を得られず、もともと他国の人だったので孤立を深めていった。しかも宦官黄皓が右大将軍閻宇と結託し、姜維の失脚を画策していた。あるとき姜維は成都に帰り、黄皓を取り除くべきと皇帝劉禅に進言した。しかし劉禅は聞き入れず、黄皓を姜維のもとに送って詫びを入れさせた。姜維は身の危険を感じ、黄皓に屯田したいと告げて成都を去り、そのまま帰ることができなくなった。

翌六年、魏の鍾会が大軍動員を準備していると知り、張翼・廖化に陽安関・陰平橋を守らせるよう本国に要請した。しかし黄皓は巫女の言葉を信じて敵が来ないと考え、劉禅に取り上げないよう告げ、その経緯は誰にも知らされなかった。

やがて鍾会が駱谷に出陣し、鄧艾が沓中に進軍して、ようやく劉禅は、右車騎将軍廖化に沓中の姜維を支援させ、左車騎将軍張翼・輔国大将軍董厥らを陽安関に向かわせた。魏の諸葛諸が建威に入ったと聞いて姜維はこれを防いだが、一ヶ月ほどして鄧艾に攻撃されて陰平まで退いた。一方鍾会が漢城・陽安関を陥落させたので、陰平を放棄して剣閣まで後退した。ここで張翼・董厥と合流して抵抗したので、鍾会は進むことができず姜維に手紙を送って懐柔しようとしたが、姜維は返答しなかった。

しかし鄧艾が険路を強行して景谷道を進み、緜竹まで侵入して諸葛瞻を撃破した。そこで皇帝劉禅は鄧艾に降伏した。姜維は諸葛瞻の敗北以来、劉禅の動向に注目していたが、降伏せよとの勅命を受けたので武装を解除し、鍾会のもとに出頭した。将兵はみな怒りにふるえ、刀を抜いて石を叩き割った。鍾会は「なぜ来るのが遅れたのか」となじったが、姜維が「今でも早すぎたと思っております」と答えたので、彼を立派な人物だと思った。

鍾会は姜維らを手厚く持てなし、彼らの官印・節・車蓋などを全て返してやった。鍾会は外出時にはつねに姜維を馬車に同乗させたり、室内では同じ敷物に座らせたりして寵愛し、長史杜預に「姜維の立派さは諸葛誕・夏侯玄でも及ばないだろう」と言った。姜維は鍾会に叛逆の意図があると見抜き、それを利用すれば蜀を再興できるだろうと考えた。そこで告げるに「貴方は毌丘倹・諸葛誕の叛乱を鎮圧し、また蜀を平定して絶大な手柄を立てました。しかし平和な時代が来ると韓信・大夫種のように誅殺されますぞ。世俗を棄てて仙人の暮らしをなさいませ」、鍾会「もっともであるが私には浮世離れしたことはできない。他に手段はあるだろうか」、姜維「では貴方の才能を用いるだけのことです」と。鍾会は鄧艾に冤罪を被せて更迭、姜維らを率いて成都入城を果たすと益州牧を自称して魏に叛逆し、姜維に軍勢五万を与えた。魏の将兵は怒り、鍾会とともに姜維を殺害した。

【参照】尹賞 / 閻宇 / 王含 / 王経 / 夏侯玄 / 夏侯霸 / 郭淮 / 毌丘倹 / 韓信 / 姜冏 / 胡済 / 黄皓 / 司馬望 / 諸葛諸 / 諸葛瞻 / 諸葛誕 / 諸葛亮 / 上官子脩 / 蔣琬 / 蔣斌 / 鍾会 / 大夫種 / 治無戴 / 張裔 / 張翼 / 陳泰 / 鄭玄 / 杜預 / 董厥 / 鄧艾 / 馬遵 / 馬謖 / 馬良 / 費禕 / 李劭 / 劉禅 / 梁虔 / 梁諸 / 廖化 / 渭水 / 陰平郡 / 陰平橋 / 益州 / 街泉亭街亭) / 成固県楽城県) / 沔陽県漢城県) / 葭萌県漢寿県) / 漢中郡 / 祁山 / 冀県 / 魏 / 金城郡 / 景谷道 / 建威 / 剣閣 / 侯和 / 上邽県 / 鍾題 / 蜀 / 沈嶺 / 西県 / 成都県 / 西平 / 石営 / 段谷 / 長城 / 狄道県 / 天水郡 / 洮水 / 董亭 / 沓中 / 当陽亭 / 南安郡 / 汶山郡 / 平康県 / 平襄県 / 芒水 / 緜竹県 / 雍州 / 陽安関 / 駱谷 / 涼州 / 隴西郡 / 隴右 / 淮南 / 右監軍 / 右車騎将軍 / 右大将軍 / 衛将軍 / 監軍 / 侯 / 功曹従事 / 護軍 / 後将軍 / 左車騎将軍 / 左大将軍 / 参軍 / 刺史 / 司馬 / 従事 / 主記 / 主簿 / 上計掾 / 征西将軍 / 征東大将軍め倉曹掾 / 大司馬 / 太守 / 大将軍 / 中監軍 / 中郎 / 長史 / 鎮西大将軍 / 亭侯 / 督 / 奉義将軍 / 輔漢将軍 / 牧 / 輔国大将軍 / 留府長史 / 録尚書事 / 仮節(仮の節) / 宦官 / 羌族 / 行 / 車蓋 / 中虎歩軍 / 屯田 / 巫女