三国志人名事典 な行

那楼Nuolou

ナロウ

(?〜?)
漢上郡烏丸行単于

烏丸族。上郡の行単于《武帝紀》。

建安十二年(二〇七)、袁尚・蘇僕延らが遼東太守公孫康に斬られ、十一月、曹操が易水に着陣すると、那楼は代郡烏丸の行単于普富盧とともに配下の名王たちを連れて帰服した《武帝紀》。

幷州上郡は黄河以西にあり、易水から離れすぎている。「上郡」は「上谷」の誤りで、那楼は難楼と同人なのではないか。

【参照】袁尚 / 公孫康 / 蘇僕延 / 曹操 / 普富盧 / 易水 / 上郡 / 代郡 / 遼東郡 / 単于 / 太守 / 名王 / 行 / 烏丸族 / 大人

難楼Nanlou

ナンロウ

(?〜?)
漢上谷烏丸単于

烏丸族。上谷の大人、のち王を称す《烏丸伝・後漢書同伝》。

霊帝の御代の初め、難楼は上谷に九千戸余りの部落を抱え、王を自称した。勇敢で計算高かったという《後漢書烏丸伝》。

袁紹と公孫瓚が紛争を始めると、遼西烏丸の蹋頓は袁紹のもとに使者を送って連合し、袁紹の援軍として公孫瓚を攻撃、これを打ち破った。袁紹は偽の詔勅を発行して蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延らに単于の印綬を授けてやった《烏丸伝・後漢書同伝》。のちに蹋頓の従兄楼班が成長すると、難楼・蘇僕延は配下の軍勢を率いて楼班を単于に推し立て、蹋頓を王に降格した《烏丸伝・後漢書同伝》。

【参照】烏延 / 袁紹 / 公孫瓚 / 蘇僕延 / 蹋頓 / 劉宏(霊帝) / 楼班 / 上谷郡 / 遼西郡 / 単于 / 烏丸族 / 大人