三国志詞典

Ma

ウマ

曹洪(白鵠)

曹洪の乗用する葦毛馬。曹洪の家は産業が盛んで、私営の牧場には駿馬が群れをなしていた。白鵠はそうした駿馬の一匹である。この馬が走れば、ただ耳に風があたる音しか聞こえず、足は地面から浮いているようであった《武帝紀集解》。『太平御覧』の引用では「白鶴」とある。

初平元年(一九〇)、曹洪は曹操の董卓討伐に従軍したが、曹操軍は滎陽の汴水で徐栄に敗北した。曹操は乗馬を失い、敵軍が後から追ってきた。このとき曹洪は白鵠に跨っていたが、「天下に曹洪なくとも、天下に君なくば叶いませぬ」と言って、それを曹操に譲った。曹操が白鵠に乗り、曹洪が徒歩で逃走したが、汴水にぶつかって曹洪は渡ることができなかった。そこで曹操は曹洪を鞍まで引っ張り上げて一緒に渡った。さらに数百里ほど走ったが、あっという間に自陣に到着した。汴水に浸かったはずなのに、馬の足は湿っていなかった。そこで当時の人々は「風に乗って行ったのだ。一代の神駿である」と言い、諺を作って「空気に乗って躍る曹家の白鵠」とも言った《武帝紀集解・曹洪伝》。

曹真(驚帆)

曹真の乗用する駿馬。これを疾駆させると烈風のさなかに帆を挙げたように速いことから、その名が付けられた《崔豹古今注》。

龐悳

『太平御覧』に傅玄『乗輿馬賦』が掲載されている。いわく「馬超が蘇氏塢を打ち破ったとき、砦の中に駿馬百匹余りがいた。馬超以下の諸将は競って肥えた馬を奪い合ったが、ただ龐悳だけは一匹の騧を選んだ。馬の姿形は醜く、人々は彼を嘲笑した。その後、馬超に付き従って渭南で戦ったとき、馬の脚は電光のはじけるように速く、追いかけても追い付けなかった。人々はそこで初めて感服した」、と《龐悳伝集解》。

「騧」は全身が薄い黄色で、口元の黒い馬《康煕字典》。

また、龐悳は白馬に騎乗していたとも伝えられる。これによると、龐悳が関羽と戦ったとき、関羽軍では彼を「白馬将軍」と呼んで、みなみな恐れていたという《龐悳伝》。

【参照】乗輿馬賦

劉備(的盧)

「的顱」とも書かれる。「的」は白いこと、「顱」は額のこと。別名「楡雁」。

伯楽の『相馬経』によると、額の白い模様が口から入って歯に届いているものを「楡雁」または「的盧」と言い、従者が乗れば客死し、主人が乗れば死刑にされるという、大変な凶馬である《先主伝集解》。

劉備の乗馬として知られるが、傅玄の『乗輿馬賦』に入手のいきさつが記されている。いわく「太祖は降参してきた劉備に白馬を下賜することにし、自分で廏舎へ行って選ばせた。廏舎には百匹以上もの名馬がいたが、劉備はどれも気に入らなかった。そこで下級の馬を集めた廏舎をのぞいてみたところ、そこに的顱馬がいて、骨が浮き上がるほど痩せていて、だれからも見向きされず放棄されていた。劉備は愛撫しながら、これをもらうことに決めた。人々はみな嘲笑した。のちに劉備が荊州で逃走することになったとき、的顱の脚は電光がはじけるように速く、人が追いかけても追い付くことができなかった。むかし彼を笑った人々も、このとき初めて彼の目の確かさに感服したのであった」、と《先主伝集解》。

劉備が荊州牧劉表を頼ったとき、劉表配下の豪族蒯越・蔡瑁が酒宴を利用して彼を暗殺しようとした。劉備はそれに気付き、廁へ行くふりをして密かに脱出した。襄陽城の西に檀溪水があって、劉備は的盧に跨って川に乗り入れたが、馬が溺れて抜け出せなくなった。劉備が「的盧よ、今日は厄日だぞ。頑張ってくれ!」と励ますと、的盧は一躍三丈も飛び上がり、ついに抜け出すことができた《先主伝注》。

【参照】乗輿馬賦

劉備(的顱)
的盧
劉備(楡雁)
的盧

郡将Jun jiang

グンショウ
(グンシヤウ)

郡の統率者、すなわち太守のこと。

撃剣Ji jian

ゲキケン

剣術。剣を用いて敵を撃つ技。撃剣の詳しい内容としては『文帝紀』注に引く『典論』に、曹丕みずからの回想がある。また『王粲伝』注に引く『魏略』邯鄲淳伝に、曹植が邯鄲淳に撃剣を披露したとあり、ここでは剣舞のようなものを指しているように思われる。

撃剣を修得し、愛好した者として曹丕・曹彰・田疇・崔琰・厳幹・徐庶・魯粛などの名が挙げられる。

Jian

ケン

周瑜

呉の赤烏年間(二三八〜二五一)、ある者が淮陰侯韓信の剣を発見した。帝はこれを周瑜に下賜した《周瑜伝集解》。

周瑜は建安年間すでに亡くなっていたことから、盧弼は激しくこの説を批判する《周瑜伝集解》。

荀勖

鍾会は荀済北(荀勖)の従舅であったが、二人は性格が合わなかった。荀勖は立派な宝剣を持っており、その価値は百万銭にも相当しただろう。これをいつも母の鍾太夫人のもとに預けていた。鍾会は書がうまく、荀勖の筆跡をまねて母宛ての手紙を書き、剣を奪いさってしまった《世説新語》。

曹操(孟徳)
建安二十年(二一五)、曹操孟徳は暗く深い谷間で一振りの剣を手に入れた。長さは三尺六寸、上に金色の文字で「孟徳」との銘があった。曹操はいつもこれを帯びていた《古今刀剣録》。
曹丕(飛景)
建安二十四年(二一九)二月丙午、魏の太子曹丕は百辟(諸侯)の宝剣を製造した。長さは四尺二寸、重さは一斤十五両、注ぎには清漳水を用い、研ぎには玉磨きの砥石を用い、飾りには彫りのある玉を用い、覆いには犀の角を用いた。光は流星にも似ており、「飛景」(飛影)と名付ける《御覧引典論》。
曹芳
斉王曹芳の正始六年(二四五)、一振りの剣を製造すると、常にこれを帯びていたが、理由もなくその刀身が消失し、ただ空っぽの箱だけが残った《古今刀剣録》。
孫権(白虹・紫電・辟邪・流星・青冥・百里)
呉の大帝は三振りの宝刀、六振りの宝剣を持っており、剣はそれぞれ白虹、紫電、辟邪、流星、青冥、百里と言った《崔豹古今注》。
孫晧(皇帝呉主)
建初元年(?)、孫晧は一振りの剣を鋳造し、小篆書で「皇帝呉主」と銘打った《古今刀剣録》。
孫亮(流光)
建興二年(二五三)、呉帝孫亮は一振りの剣を鋳造させ、小篆書で「流光」と銘じた《孫亮伝集解》。
張華(龍淵)
雷煥(太阿)

楚王が越の干将や呉の欧冶子に作らせた鉄製の宝剣の一つ《越絶書》。龍淵は「龍泉」、太阿は「泰阿」とも書く。

孫呉の時代、紫色の気が牛・斗の方面に現れ、占い師は呉国繁栄の兆しだと言っていたが、張華という人は納得できなかった。

呉が平定されたのち、その気はますます明るさを増した。張華は、雷孔章が瑞祥に精通していると聞いて、宿を求め、人払いして天文による将来の吉凶について訊ねてみた。雷孔章が「それ以外に現象がなく、ただ牛・斗方面に気があるだけならば、宝物の精気が天に昇ったのでしょう」と言うので、「この気は正始・嘉平(二四〇〜二五〇)のころから今日でも続いておる。人々はみな孫氏に対する吉祥だと言ったが、吾だけはそうでないと思っておった。いま子(あなた)の言葉を伺ったところ、根底では吾と同じだ。いまどこの郡にあるだろうか?」と訊ねると、「予章の豊城県にございます」とのことであった。

張華はそこで雷孔章を豊城の県令に任じた。雷孔章が地面を二丈ほど掘ると、長さ八・九尺の玉飾りの付いた箱が出てきて、開けてみると二振りの剣が入っていた。一つは龍淵、もう一つが太阿である。その日の夕方、牛・斗の気はもう見えなくなった。

雷孔章は一方を留め置き、箱と龍淵とを(張華)に進呈した。剣が届けられ、張華が密室でそれを開けると、電気のはじけるように光が飛び交った。

のちに張華が殺害されたとき、この剣は(勝手に)襄城の川の中へ飛び込んだ。雷孔章は臨終のとき、剣をいつも自分で持っているようにと息子に遺言した。のちに息子は建安従事になったが、浅瀬を通りがかったとき、腰に帯びていた剣が突然躍り上がり、初めは剣そのものであったが、浅瀬の水に入るなり変化して龍になった。目を見張りつつそれを追いかけると、二匹の龍が寄り添って行くのが見えた。

雷孔章の曾孫雷穆之は今でも(曾)祖父と張華とがやりとりした手紙を持っているが、桑の根ですいた紙に古い形の字で書かれている《御覧引予章記》。

楊脩
魏の文帝は楊脩の才能を愛していた。楊脩が誅殺されたあとも楊脩を追憶し、かつて楊脩が宝剣を文帝に献上したことがあったので、文帝は以後、それを帯びるようになり、左右の者たちに「これは楊脩の剣なんだ」と言っていた《御覧引文士伝》。
劉宏(中興)
建和三年(一四九)、霊帝劉宏は「中興」と銘じた四振りの剣を鋳造したが、そのうち一振りは理由もなく紛失してしまった《古今刀剣録》。

建和は桓帝の年号。霊帝劉宏を桓帝劉志と読むか、建和を建寧または光和と読むべきである。

劉禅
延煕二年(二三九)、蜀の後主劉禅は、長さ一丈二尺におよぶ一振りの大剣を製造し、それを剣口山に奉納して山の鎮めとした。往来する人には(剣が置かれた場所が)光り輝くのが見えたが、(蜀が滅亡して)後世の人がそれを探しても見付けられなかった《後主伝集解》。
劉備
章武元年(二二一)、蜀主劉備は金牛山から鉄を採取し、八振りの剣を鋳造した。長さはそれぞれ三尺六寸。一つは劉備自身が帯び、一つは太子劉禅に与え、一つは梁王劉理に与え、一つは魯王劉永に与え、一つは諸葛亮に与え、一つは関羽に与え、一つは張飛に与え、一つは趙雲に与えた。のち唐の時代、尚書郎の李方古という者が諸葛亮所持のこの剣を手に入れ、名を李章武と改めた《先主伝集解・古今刀剣録》。

Xing

コウ
(カウ)

官位の低い者がより高位の官職を臨時的に執行すること。能力が認められて正式に補任されることもある。これを「為真」という。また逆に低位の官職を行うのを「守」という。

酷吏Ku li

コクリ

法律の厳格な適用によって民衆をしいたげる役人を、儒教の徳治主義の立場から批判する呼び名。しかし徳治主義ではしばしば官吏と在地豪族との関係が不正な方向に発展しやすく、平和な時代が長く続く場合はときおりこうした人物が任用されることも必要である。

史侯Shi hou

シコウ

霊帝は何度も皇子を失っていたため、何后の腹に生まれた劉弁を道人史子眇の家に預けて養育させ、「史侯」と呼んだ《後漢書何皇后紀》。また劉協を「董侯」と呼んだ《同》。

杜瓊の教示を得た譙周は「霊帝は二人の皇子に『侯』と名付けたため、いずれも帝位に昇ったのち諸侯に落とされる羽目になった」と批判している《杜瓊伝》。

【参照】何皇后 / 史子眇(史子助) / 譙周 / 杜瓊 / 劉協 / 劉宏(霊帝) / 劉弁 / 董侯 / 道人

七縦七禽Qi zong Qi qin

シチショウシチキン

建興三年(二二五)春、蜀の丞相諸葛亮は南中に出征し、雍闓・高定元・朱褒の叛乱を鎮圧したが、雍闓に代わって孟獲が指導者に立った。孟獲は漢民族からも異民族からも信頼を得ていた《諸葛亮伝》。それ以前、越巂太守馬謖は「南中の者どもは険阻さを利用して久しく服従しませんでした。今日、彼らを破っても明日にはまた反くでしょう。用兵の道は心を攻めるのを上策、城を攻めるのを下策とします。公よ、彼らの心を服従させてくだされよ」と諸葛亮に進言していた《馬良伝》。

諸葛亮は公募して孟獲をさらって来させた。彼が引っ立てて来られると、自陣営の内幕を見せてやり、「この軍はいかがかな?」と訊ねた。孟獲は答えた。「お手向かいしたときは、弱点を知らなかったため敗北いたしました。いまご陣営を見せて頂きましたが、もしこの程度なら簡単に勝つことができますよ」。諸葛亮は笑って彼を釈放した。また戦端を開き、七度釈放して七度捕虜にした《諸葛亮伝》。

諸葛亮が孟獲を捕虜にした地は以下の通りである《諸葛亮伝集解》。

  • 一擒於白崖、今趙州定西嶺。
  • 一擒於鄧瞍〓猪洞、今鄧川州。
  • 一擒於仏光塞、今浪穹県巡検司東二里。
  • 一擒於治渠山。
  • 一擒於愛甸、今順寧府地。
  • 一擒於怒江辺、今保山県騰越州之間。
  • 一以火攻擒於山谷、即怒江之蟠蛇谷。

いずれも雲南大理府・永昌府の境にあたる。

上巳Shang si

ジョウシ
(ジヤウシ)

三月で一番最初にくる巳(み)の日。桃の節句。のちに三月三日に固定された。

冀州牧袁紹がこの日、賓客を集めて宴会を開いていたところ、本国より変事の知らせを受けたという。

長吏Zhang li

チョウリ
(チヤウリ)

県の長官。県令と県長を総称したもの。

Dao

トウ
(タウ)

王祥
むかし魏の徐州刺史である任城の呂虔の帯びていた刀を、鑑定士が「三公だけがこの刀を帯びることができる」と評価した。呂虔は別駕の王祥に語った。「ふさわしい人物でなければ、刀が災いをもたらすかも知れぬ。貴卿には三公補佐の器量があるゆえ、これを与えよう。」王祥は辞退したが、呂虔が強要するのでようやく受け取った。王祥は司空になった。王祥は臨終の日、「わが息子たちはみな凡人にすぎぬ。お前の子孫ならば必ずや成功を収め、この刀と釣りあいが取れるであろうゆえ、これを与えよう」と言って、その刀を弟の王覧に授けた。王覧の子孫は代々にわたり賢者としして江東で繁栄した《御覧引晋中興書》。
王双
王双はかつて市場で刀一振りを買ったことがあった。そのとき売り手は「これを手にした者は貴人になりますよ」と言い、それから(彼の姿は忽然と)見えなくなった。のちに王双がこれを帯びたところ、魏の将軍になることができた。そののち曹真と刀を一振りづつ交換した《古今刀剣録》。
郭淮(宜為将)
郭淮は太原にいたころ一振りの刀を手に入れた。銘には「宜為将」(将軍になるだろう、の意)とある。のちに郭淮は果たして将軍になったのである。蜀将と戦って敗れたとき、郭淮はこの刀を失ってしまった。
関羽(万人敵)
関羽の用いた銘刀。関羽は自ら都山の鉄を採取して、「万人敵」と名付ける二振りの刀を造った。関羽は孫権に敗北したとき、この刀が敵の手に渡ることを惜しんで水中に投げ捨てた《関羽伝集解》。
朱治(安国)
朱治は若いころより征討に従事し、黄武年間(二二二〜二二九)、度重なる功績から安国将軍を拝命、一振りの刀を製作した。銘文には「安国」とある《朱治伝集解》。
周泰(幼平)
周泰は曹公を攻撃して勝利し、平虜将軍を拝命した。そこで一振りの刀を造り、刀の背に「幼平」と銘文を入れた《周泰伝集解》。
周瑜(盪寇将軍)

周瑜は南郡太守になったとき一振りの刀を製造した。刀の背には八分の書体で「盪寇将軍」と銘があった《周瑜伝集解》。

周瑜は盪寇将軍になっておらず、盧弼はこの説を誤りであるという《周瑜伝集解》。

蔣欽(司馬)
蔣欽は列郡司馬(別部司馬)を拝命したとき、一振りの刀を造った。銘文には隷書で「司馬」とある《蔣欽伝集解》。
曹操
魏の武帝は布令を下して言った。「むかし五振りの百辟刀を作り、完成するとまず一振りを五官将にやった。残りの四振りは、我が息子たちのうち武芸を好まず、文学の得意なものへ順番に与えよう。」《御覧引魏武帝令》
孫権(大呉)
黄武五年、呉王孫権は武昌で銅鉄を採取し、千振りの剣、一万振りの刀を製作した。どちらも長さ三尺九寸である。刀は頭の部分が四角になっており、これらはみな南方の銅、越の炭によって作られたものである。小篆による「大呉」との銘がある《孫権伝集解》。
孫権(百錬・青犢・漏景)
呉の大帝は三振りの宝刀、六振りの宝剣を持っており、刀はそれぞれ百錬、青犢、漏景と言った《崔豹古今注》。
張飛(新亭侯漢大将)
張飛の用いた銘刀。張飛は新亭侯に封ぜられると、刀匠に命じて赤朱山の鉄で刀を造らせ、「新亭侯漢大将」と名付けた。のちに范彊という者が張飛を殺し、その刀を手土産として呉に身を投じた《張飛伝集解》。『古今刀剣録』の原文では「新亭侯蜀大将」とあるが、誤りとみて改めた。
張飛(新亭侯蜀大将)
新亭侯漢大将
董襲(断蒙刀)

董襲は若いころから勇敢な人柄だったが、自分の手で鉄を打ち、一振りの刀を製作した。のちに蒙衝河で黄祖を討伐したとき、董襲はその刀を抜いて衝河のほとりで地面に叩き付け、川の流れを真っ二つにしてしまった。こうして大司馬を拝命し、刀を「断蒙刀」と名付けた《董襲伝集解》。

趙一清の批判。「蒙衝とは船の名なのに、ここでは河の名だと言っている。川の流れを真っ二つにしたなど、でたらめも甚だしい」。盧弼もこの意見を支持する《董襲伝集解》。また董襲が大司馬に就任したこともない。

董卓
董卓は若いころ、畑を耕しているうちに一振りの刀を掘り当てた。銘はなく、四面がでこぼこして雲の模様を浮き立たせており、玉を切るにも泥のように切ることができた。董卓が貴人になったとき、五官中郎将蔡邕にそれを見せたところ、蔡邕は言った。「これは項羽の刀ですぞ!」《古今刀剣録》。
潘璋(固陵)
潘璋は偏将軍となり、関羽を生け捕りにして固陵太守に任命された。そこで一振りの刀を造り、「固陵」と銘打った《古今刀剣録》。
費禕
孫権はその手からいつも携帯している宝刀を費禕に贈った。費禕は返答して言った。「臣は才能もなく、どうしてご命令に応えられましょう。しかし刀というのは不逞者を討ち、乱暴者を禁ずるものです。大王が功業の樹立に尽力され、ともに漢室をお助けくださるのが何よりの希望でございます。臣は暗愚惰弱ではありますが、ご恩顧に背くことはいたしませぬ。」《御覧引費禕別伝》
蒲元(神刀)

蜀の丞相諸葛亮の西曹掾蒲元は今まで刀作りなど一度もしたことがないのに、あるとき突然、斜谷にこもって三千振りの刀を鋳造し、諸葛亮に献上した。その製法は、金を溶かして鋳型にするもので、普通のやり方とは全く違っていた《御覧引蒲元伝》。

刀の形ができ上がると、「漢水の水は柔らかくて焼きを入れるには向かない。蜀の長江がきりりと清冽なのは、その地が大いなる金の精に対応しているからだ」と言い、数人ばかり成都へやって汲んでくるように命じた。一人の水汲みが一足早く帰ってきたので、その水で刀に焼きを入れようとしたが、蒲元は「涪水の水が混じっておるな。これでは使えない」と言う。水汲みは「混ざっておりませぬ」と抗弁したが、蒲元はその刀で水面に線を引きながら「八升も混じっておるのに、どうして混じってないなどと言うのか?」と言った。水汲みははっと平伏して「実は涪津の渡しで転んで水をこぼしてしまい、恐くなって涪水で増やしたのです」と明かした。それ以来、人々は驚きとともに敬服し、「神妙」であると称した《御覧引蒲元伝》。

刀が仕上がると、小さな鉄球をつめた竹筒を用意し、刀を振りあげてそれを切りつけた。なんの手応えもなく、竹筒は干し草のようにすぱっと切れた。そうしたことが当時では類を見なかったことから、「神刀」と名付けられたのである《御覧引蒲元伝》。

董侯Dong hou

トウコウ

霊帝は何度も皇子を失っていたため、皇子劉弁を史子眇に預けて「史侯」と呼んだ《後漢書何皇后紀》。また王美人から劉協を得たが、王美人が何后に毒殺されたため、帝は劉協を董太后に養育させて「董侯」と呼んだ《同》。

杜瓊の教示を得た譙周は「霊帝は二人の皇子に『侯』と名付けたため、いずれも帝位に昇ったのち諸侯に落とされる羽目になった」と批判している《杜瓊伝》。

【参照】王美人 / 何皇后 / 史子眇 / 譙周 / 杜瓊 / 董太后 / 劉協 / 劉宏(霊帝) / 劉弁 / 史侯

部曲Bu qu

ブキョク

武装集団の編制単位。

正規の単位としては、大将軍営の五部がある。その長官は校尉。各部の下に曲があり、曲の長官は軍候《史記司馬相如伝》。

また一般的に、「某之部曲」などと称し、その将校に所属する武装集団を指す。

また豪族の私有する武装集団を指す。

またこれらの武装集団の統率者を指す。部長、部将、部曲将ともいう。なお曲の長官は曲長、その下にある屯の長官は屯将という《諸葛亮伝》。