ウマ |
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グンショウ |
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郡の統率者、すなわち太守のこと。 |
ゲキケン |
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剣術。剣を用いて敵を撃つ技。撃剣の詳しい内容としては『文帝紀』注に引く『典論』に、曹丕みずからの回想がある。また『王粲伝』注に引く『魏略』邯鄲淳伝に、曹植が邯鄲淳に撃剣を披露したとあり、ここでは剣舞のようなものを指しているように思われる。 撃剣を修得し、愛好した者として曹丕・曹彰・田疇・崔琰・厳幹・徐庶・魯粛などの名が挙げられる。 |
ケン |
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建和は桓帝の年号。霊帝劉宏を桓帝劉志と読むか、建和を建寧または光和と読むべきである。
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コウ |
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官位の低い者がより高位の官職を臨時的に執行すること。能力が認められて正式に補任されることもある。これを「為真」という。また逆に低位の官職を行うのを「守」という。 |
コクリ |
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法律の厳格な適用によって民衆をしいたげる役人を、儒教の徳治主義の立場から批判する呼び名。しかし徳治主義ではしばしば官吏と在地豪族との関係が不正な方向に発展しやすく、平和な時代が長く続く場合はときおりこうした人物が任用されることも必要である。 |
シコウ |
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霊帝は何度も皇子を失っていたため、何后の腹に生まれた劉弁を道人史子眇の家に預けて養育させ、「史侯」と呼んだ《後漢書何皇后紀》。また劉協を「董侯」と呼んだ《同》。 杜瓊の教示を得た譙周は「霊帝は二人の皇子に『侯』と名付けたため、いずれも帝位に昇ったのち諸侯に落とされる羽目になった」と批判している《杜瓊伝》。 |
シチショウシチキン |
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建興三年(二二五)春、蜀の丞相諸葛亮は南中に出征し、雍闓・高定元・朱褒の叛乱を鎮圧したが、雍闓に代わって孟獲が指導者に立った。孟獲は漢民族からも異民族からも信頼を得ていた《諸葛亮伝》。それ以前、越巂太守馬謖は「南中の者どもは険阻さを利用して久しく服従しませんでした。今日、彼らを破っても明日にはまた反くでしょう。用兵の道は心を攻めるのを上策、城を攻めるのを下策とします。公よ、彼らの心を服従させてくだされよ」と諸葛亮に進言していた《馬良伝》。 諸葛亮は公募して孟獲をさらって来させた。彼が引っ立てて来られると、自陣営の内幕を見せてやり、「この軍はいかがかな?」と訊ねた。孟獲は答えた。「お手向かいしたときは、弱点を知らなかったため敗北いたしました。いまご陣営を見せて頂きましたが、もしこの程度なら簡単に勝つことができますよ」。諸葛亮は笑って彼を釈放した。また戦端を開き、七度釈放して七度捕虜にした《諸葛亮伝》。 諸葛亮が孟獲を捕虜にした地は以下の通りである《諸葛亮伝集解》。
いずれも雲南大理府・永昌府の境にあたる。 |
ジョウシ |
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三月で一番最初にくる巳(み)の日。桃の節句。のちに三月三日に固定された。 冀州牧袁紹がこの日、賓客を集めて宴会を開いていたところ、本国より変事の知らせを受けたという。 |
チョウリ |
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県の長官。県令と県長を総称したもの。 |
トウ |
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トウコウ |
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霊帝は何度も皇子を失っていたため、皇子劉弁を史子眇に預けて「史侯」と呼んだ《後漢書何皇后紀》。また王美人から劉協を得たが、王美人が何后に毒殺されたため、帝は劉協を董太后に養育させて「董侯」と呼んだ《同》。 杜瓊の教示を得た譙周は「霊帝は二人の皇子に『侯』と名付けたため、いずれも帝位に昇ったのち諸侯に落とされる羽目になった」と批判している《杜瓊伝》。 |
ブキョク |
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武装集団の編制単位。 正規の単位としては、大将軍営の五部がある。その長官は校尉。各部の下に曲があり、曲の長官は軍候《史記司馬相如伝》。 また一般的に、「某之部曲」などと称し、その将校に所属する武装集団を指す。 また豪族の私有する武装集団を指す。 またこれらの武装集団の統率者を指す。部長、部将、部曲将ともいう。なお曲の長官は曲長、その下にある屯の長官は屯将という《諸葛亮伝》。 |