三国志人名事典 さ行

崔巨業Cui Juye

サイキョギョウ
(サイキヨゲフ)

(?〜?)

袁紹の将。

袁紹は公孫瓚と仲違いして界橋で戦い、公孫瓚を薊に敗走させた。崔巨業は袁紹の命を受け、軍勢一万人を率いて故安城を包囲した。しかし陥落させることができず撤退しようとしたところ、公孫瓚が歩騎三万人を率いて追撃してきたので、巨馬水で大敗北を喫し、七・八千人の死者を出してしまった《後漢書公孫瓚伝》。

崔巨業は占星術の心得もあったらしく、公孫瓚の袁紹を弾劾する上表文に「袁紹は崔巨業に命じて星や太陽を観測させ、財貨を贈賄したり一緒に飲食したりして、会合する期日を定め、郡県を攻撃略奪しておりますが、これは大臣として行ってよいものでしょうか?」とあり《公孫瓚伝》、崔巨業を「占星術に巧みな者」と伝えるものもある《後漢書公孫瓚伝・同集解》。

【参照】袁紹 / 公孫瓚 / 界橋 / 巨馬水 / 薊県 / 故安県 / 候視星日(占星術) / 星工(占星術に巧みな者)

崔鈞Cui Jun

サイキン

(?〜?)
漢西河太守

字は元平。博陵の人。大尉崔烈の子、崔州平の兄《諸葛亮伝・同集解》。「崔均」とも作る《諸葛亮伝》。

父崔烈は北方の州で名声があり、太守・九卿を歴任していた。しかし霊帝の時代、五百万銭を投じて司徒の官職に就いたため名声を失ってしまった。崔烈はしばらくして虎賁中郎将の子崔鈞に訊ねた。崔烈「吾が三公になったことについて、みんなはどう言ってるのかな」、崔鈞「大人(ちちうえ)は優れた名声をお持ちで、九卿・太守を歴任され、三公になるべきでないと言う者はおりませんでした。ところが今その位に昇られますと天下は失望いたしております」、崔烈「どうしてかね?」、崔鈞「言挙げする者は銭臭さを嫌っているようです」《後漢書崔駰伝》。

崔烈が怒って杖を振り上げて崔鈞を殴ったので、崔鈞はあわてふためいて走り去った。崔烈が「命懸けの役職に就いていながら、父に打たれると逃げるのか!それで親孝行と言えるのか!」と罵倒すると、崔鈞は「舜は父に仕えていたとき杖で打たれて逃げましたが、親不孝とは言えないでしょう」と答えた。崔烈は恥ずかしくなって止めた《後漢書崔駰伝》。

崔鈞は若いころから英雄・豪傑と交わって名声を挙げたが、議郎になると忠実・率直さによって称賛された。のちに西河太守になった《後漢書崔駰伝・同集解》。崔鈞には雅心があり、漢末の王公が正装を脱いで幅巾を着けたのを真似て、いつも絹の頭巾を被っていた《武帝紀》。献帝が即位すると袁紹とともに山東で義兵を起こした。そのため董卓は崔烈を収監した。董卓が誅殺されると崔烈は城門校尉となったが、李傕が長安に入ったとき乱戦の中で殺害された。崔鈞はいつも父のために復讐することを念頭に置いていたが、まもなく病気で卒去した《後漢書崔駰伝・同集解》。

【参照】袁紹 / 崔州平 / 崔烈 / 舜 / 董卓 / 李傕 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 山東 / 西河郡 / 長安県 / 博陵郡 / 九卿 / 議郎 / 虎賁中郎将 / 三公 / 司徒 / 城門校尉 / 大尉 / 太守 / 大人 / 売官 / 幅巾

崔州平Cui Zhouping

サイシュウヘイ
(サイシウヘイ)

(?〜?)

博陵の人。大尉崔烈の子、崔鈞の弟《諸葛亮伝》。

諸葛亮・徐庶らとともに荊州に遊学した。諸葛亮はみずからを管仲・楽毅になぞらえていたが、崔州平はその通りだと思っていた《諸葛亮伝》。ただ彼に欠点があれば、しばしば直言してやった。諸葛亮は恨むことなく彼と付き合った《董和伝》。

【参照】楽毅 / 管仲 / 崔鈞 / 崔烈 / 徐庶 / 諸葛亮 / 荊州 / 博陵郡 / 大尉

蔡琰Cai Yan

サイエン

(?〜?)
巴郡太守

字は文珪。襄陽の人。蔡瑁の従兄弟《襄陽記》。官位は巴郡太守まで昇った《襄陽記》。蔡邕の女蔡琰とは別人である。

【参照】蔡琰(蔡邕の女) / 蔡瑁 / 蔡邕 / 襄陽県 / 巴郡 / 太守

蔡瓚Cai Zan

サイサン

(?〜?)
鄢相

字は茂珪。襄陽の人。蔡瑁の従兄弟《襄陽記》。官位は鄢相まで昇った《襄陽記》。

【参照】蔡瑁 / 襄陽県 / 宜城県(鄢侯国) / 相

蔡風Cai Feng

サイフウ

(?〜121)
漢遼東太守

遼東太守。「蔡諷」とも書く《後漢書》。蔡瑁の父蔡諷とは別人。

句驪王宮は勇壮で、その国の者に心服されており、しばしば辺境を侵すことがあった。建光元年(一二一)春、幽州刺史馮煥・玄菟太守姚光・遼東太守蔡風らは軍勢を率いて塞(万里長城)から出撃、穢貊の渠帥を捕虜斬首して、兵馬財宝を手に入れた《後漢書東夷伝》。

宮は嗣子遂成に二千人余りを授けて姚光らを迎え撃たせると同時に、使者をやって偽りの降服を申し入れた。姚光らがそれを信じているうちに遂成は険害に拠って大軍を遮り、(宮は)密かに三千人を派遣して玄菟・遼東を攻撃させ、候城県城を焼き、遼隊県で二千人余りを殺傷した。広陽・漁陽・右北平・涿郡・属国から三千騎余りを動員して救援させると、宮軍は引き揚げていった《東夷伝・後漢書同伝》。

夏四月、宮は再び遼東鮮卑八千人余りとともに遼隊を攻撃、官吏を殺害して民衆を誘拐した。蔡風らは新昌まで追撃したが、そこで戦死した。功曹以下の属官は身をもって蔡風を守ろうとしたが、みな陣中で死んだ。死者百人余りを出した《後漢書安帝紀・同東夷伝》。

【参照】宮 / 蔡諷(蔡瑁の父) / 蔡瑁 / 遂成 / 馮煥 / 姚光 / 右北平郡 / 漁陽郡 / 句驪 / 玄菟郡 / 候城県 / 広陽郡 / 新昌県 / 涿郡 / 幽州 / 遼隊県 / 遼東郡 / 遼東属国 / 穢貊 / 王 / 功曹 / 刺史 / 太守 / 鮮卑

蔡諷Cai Feng

サイフウ

(?〜?)

襄陽の人。蔡瑁の父《襄陽記》。遼東太守蔡風とは別人。

蔡氏が繁栄を極めたのは後漢末期で、蔡諷は姉を太尉張温に、長女を黄承彦に、末女を劉表に嫁がせた《襄陽記》。永嘉年間(三〇七〜三一三)末期まで子孫は富み栄え、一族は非常に強い勢力を持っていたが、草賊の王如の襲撃によって蔡氏一党は全て死んでしまい、今では蔡を姓とする者は一人も残っていない《襄陽記》。

【参照】王如 / 黄承彦 / 蔡氏(劉表妻) / 蔡風(遼東太守) / 蔡瑁 / 張温 / 襄陽県 / 遼東郡 / 相 / 太尉 / 太守

蔡方Cai Fang

サイホウ
(サイハウ)

(?〜225)

利成郡の兵士《文帝紀》。

黄初六年(二二五)正月、蔡方は仲間たちと一緒に反乱を起こして太守徐質(徐箕)を殺害し《文帝紀》、唐咨という者を主導者に推し立てて利成城に楯籠った《諸葛誕伝・晋書五行志》。文帝は屯騎校尉任福・歩兵校尉段昭を派遣し、青州刺史王淩・徐州刺史呂虔とともに平定させた《文帝紀・呂虔伝》。唐咨は海路、呉に逃亡した《諸葛誕伝》。

【参照】王淩 / 徐質 / 任福 / 曹丕(文帝) / 段昭 / 唐咨 / 呂虔 / 呉 / 徐州 / 青州 / 利城郡(利成郡) / 刺史 / 太守 / 屯騎校尉 / 歩兵校尉

蔡瑁Cai Mao

サイボウ
(サイバウ)

(?〜?)
漢長水校尉・漢陽亭侯

字は徳珪。襄陽の人。蔡諷の子《襄陽記》。

蔡氏の邸宅は蔡洲のほとりにあり、家屋の造りは非常に立派で、四方の垣根はみな青石でもって角を作っていた。婢妾は数百人もおり、田地は別に四・五十ヶ所もあった。蔡氏一門がもっとも勢力があったのは後漢末期、蔡諷の時代で、彼の姉は大尉張温に嫁ぎ、長女は黄承彦の妻となり、末女は劉表の後妻となった。蔡瑁は末女の弟である。蔡瑁は豪壮な性格で自尊心が強かったという《襄陽記》。

劉表が荊州刺史となったとき、長沙太守蘇代や華容県長貝羽らはおのおの軍勢を擁して彼を受け入れようとしなかった。そこで劉表は宜城まで行き、蔡瑁と蒯越・蒯良を招いて協力を求めた。その計略によって荊州を平定することができた《劉表伝》。蔡瑁は劉表のもとで江夏・南郡・章陵太守、鎮南将軍軍師を歴任した《襄陽記》。

蔡瑁の姉が劉表とのあいだに子劉琮を儲けると、蔡瑁は外甥張允とともに劉表に可愛がられ、劉琮とも親密になった《後漢書劉表伝》。劉琮に跡目を継がせようと画策して、姉の蔡氏は内側にいてその美貌を称賛し、蔡瑁・張允は外側にいて人徳を感歎してみせた《襄陽記》。劉表の病が危篤となると、劉琮の異母兄劉琦が任地から帰ってきたが、蔡瑁は父子の情愛によって劉琦が跡目相続するのではないかと恐れ、張允とともに彼を戸外で追い返した《劉表伝》。

劉表の没後、荊州を引き継いだ劉琮は、荊州に侵出してきた曹操に帰服した《劉表伝》。蔡瑁は若いころ曹操と親交を結んだことがあったので、曹操は彼の邸宅を訪れて寝室に入り、彼とその妻子に向かって「徳珪よ、覚えているかい?むかし一緒に梁孟星に会いに行ったのに孟星が会おうとしなかったことを。今ここに来ているそうだが、何の面目あって卿に顔を合わせられるんだろうね」と語った《襄陽記》。

曹操の従事中郎、司馬を経て、長水校尉まで官位は昇り、漢陽亭侯に封ぜられた《襄陽記》。曹操は旧知として待遇したが、当時の人々は彼を軽蔑した。彼が劉琮を助けて劉琦を貶めたのが咎められたのである《襄陽記》。蔡瑁の邸宅の南に彼の塚があるが、塚の前には石を刻んで大鹿をかたどったものがある。頭部は非常に大きく、高さは九尺にもなり、造りはきわめて精巧である《襄陽記》。

一説に蒯越とともに劉備の命を狙ったというが疑わしい《先主伝》。

【参照】蒯越 / 蒯良 / 黄承彦 / 蔡諷 / 蔡氏(劉表妻) / 蘇代 / 曹操 / 張允 / 張温 / 貝羽 / 劉琦 / 劉琮 / 劉表 / 梁鵠(梁孟星) / 華容県 / 漢陽亭 / 宜城県 / 荊州 / 江夏郡 / 蔡洲 / 襄陽県 / 章陵郡 / 長沙郡 / 南郡 / 軍師 / 県長 / 刺史 / 司馬 / 従事中郎 / 大尉 / 太守 / 長水校尉 / 鎮南将軍 / 亭侯

爨習Cuan Xi

サンシュウ
(サンシフ)

(?〜?)
蜀領軍

建寧郡の人。妻の甥は李恢である《李恢伝》。

もともと建寧郡の豪族で、劉璋の時代に建伶県長をしていたが法律に違反した《李恢伝》。そのとき罷免されたものか、のちに諸葛亮が南中を平定したとき孟獲らとともに官に召されている《華陽国志》。諸葛亮に属して行参軍・偏将軍となり、建興九年(二三一)に李厳の罷免を報告する上表文に名を連ねる《李厳伝》。のち官位は領軍まで昇った《李恢伝》。

『華陽国志』では李恢・孟獲とともに建寧郡の士人として称えている。

【参照】諸葛亮 / 孟獲 / 李恢 / 李厳 / 劉璋 / 益州郡建寧郡) / 建伶県 / 南中 / 県長 / 行参軍 / 偏将軍 / 領軍 / 華陽国志 / 大姓(豪族)

士仁Shi Ren

シジン

(?〜?)

字は君義。広陽郡の人《楊戯伝》。「傅士仁」ともある《関羽伝》。

士仁は将軍として公安に駐屯して南郡太守麋芳とともに呂蒙に備えていたが、二人はかねてより関羽から軽んじられていることを恨んでいた。そこで関羽が出陣したときも軍需物資を供給するだけで全力支援しようとはしなかった。関羽は「帰還したら麋芳・士仁を始末してやる」と言った。士仁・麋芳はそのため恐怖を抱いた《関羽伝》。

呂蒙は自分を警戒して関羽が守備兵を残していることを障害と考え、病気をいつわって建業に帰還した。そこで関羽は南郡の守備兵を呼び寄せて前線に投入した。呂蒙は密かに軍勢を率いて公安城下に迫り、虞翻を使者として投降を呼びかけさせた。はじめ士仁は彼に会おうとはしなかったが、虞翻が手紙を送り、彼が呉の軍勢だけではなく関羽からも危害を加えられる可能性を指摘すると、士仁は涙を流しながら投降した。呂蒙が彼を引き連れて南郡に進軍したので、彼の姿を見た麋芳も降服した《呂蒙伝》。

【参照】関羽 / 虞翻 / 麋芳 / 呂蒙 / 建業県 / 呉 / 公安県 / 広陽郡 / 南郡 / 太守

史渙Shi Huan

シカン
(シクワン)

(?〜209)
魏中領軍・列侯

字は公劉。沛国の人《夏侯惇伝》。

沛国の史氏には王莽末期の史岑が見える《後漢書文苑伝》。

若いころから任侠の徒で、雄壮たる気概の持ち主であった。曹操が最初に挙兵したときから客将として従軍し、中軍校尉を代行していた《夏侯惇伝》。

行中軍校尉を称したことからも分かるように、あくまでも曹操と対等の立場であって配下ではない。郷里を同じくする幼なじみだったのだろうか。その曹操も張邈の客将であった。中軍校尉は、曹操もかつて経験したことのある西園八校尉の一つであるから、史渙の職歴はやや曹操に後れるくらいだったのだろう。

建安四年(一九九)、眭固が射犬に駐屯して袁紹と手を結んだ。四月、史渙は曹仁・于禁・徐晃とともに命令を受け、黄河を渡って征討した。眭固は薛洪・繆尚を射犬に残し、自分は軍勢を率いて袁紹に救援を求めに行こうとした。史渙らは彼が犬城まで来たところで遭遇戦となり、敵軍を大破して眭固を斬首した《武帝紀・于禁・徐晃伝》。曹操は史渙を領軍に任じた《晋書職官志》。

領軍の官の創設については韓浩伝を参照されること。

翌五年、曹操は官渡において袁紹軍と対峙していたが、曹操は荀攸の計略を採用し、韓猛の護送する袁紹軍の輜重車数千両を攻撃することにした。そこで史渙と徐晃・曹仁が命令を受けて韓猛を大破し、輜重車をことごとく焼き払った《武帝紀・曹仁・荀攸伝》。

十二年、曹操が柳城討伐を計画したとき、史渙は「道程は遠く、深く進入することになるから、万全の計略ではない」と考え、韓浩へ一緒に諫めようと持ちかけた。しかし韓浩から「このとき天下の患いを取り除かねば後々の憂いになろう。吾と君とは中軍の要なのだから軍勢を意気阻喪させてはなるまい」と反対されている《夏侯惇伝》。その官職が改名されて中領軍となり、長史・司馬が設置された《晋書職官志》。

史渙は征伐にお供するたび諸将の監督役に当たり、信任を受けていた《夏侯惇伝》。また中護軍の韓浩とともに忠勇をもって名を挙げ、列侯に封ぜられた《夏侯惇伝》。

十四年に薨去、子の史静が跡を継いだ《夏侯惇伝》。

【参照】于禁 / 袁紹 / 韓浩 / 韓猛 / 繆尚 / 史静 / 荀攸 / 徐晃 / 眭固 / 薛洪 / 曹仁 / 曹操 / 官渡 / 犬城 / 黄河 / 射犬聚 / 沛国 / 柳城 / 司馬 / 中軍校尉 / 中護軍 / 中領軍 / 長史 / 領軍 / 列侯 / 行(代行)

史招Shi Zhao

シショウ
(シセフ)

(?〜?)

毌丘倹の将《晋書景帝紀》。

正元二年(二五五)正月、鎮東大将軍毌丘倹は揚州刺史文欽とともに寿春で反乱を起こした。二月甲申、司馬師が〓橋に進軍すると、毌丘倹の部将であった史招は李続とともに投降する。司馬師はこのことから淮南・淮北の人々が毌丘倹に同調していないことを知り、持久戦を決意した《晋書景帝紀》。

【参照】毌丘倹 / 司馬師 / 文欽 / 李続 / 〓橋 / 寿春県 / 揚州 / 淮南 / 淮北 / 刺史 / 鎮東大将軍

師宜官Shi Yiguan

シギカン
(シギクワン)

(?〜?)

書家。南陽郡の人《武帝紀集解》。

霊帝は書を愛好したので、その時代、世間にも数多くの能書家がいた《武帝紀》。霊帝が天下から書の名手を招いたところ、数百もの人々が鴻都門に集まったが、八分の書体では師宜官が最高峰だと評判になった《武帝紀集解》。師宜官は一丈もある大きな文字を書くこともでき、一寸四方に千文字を書くこともできた《武帝紀集解》。衛恒の『四体書勢』には「師宜官は雄大な字を書き、邯鄲淳は繊細な字を書いた」とある《劉劭伝》。

『晋書』衛恒伝での引用では「梁鵠は雄大な字を書き、邯鄲淳は繊細な字を書いた」としている。

師宜官は根っからの酒好きで、あるとき手ぶらで居酒屋へ行って酒を呑み、その壁に字を書いてそれを売りに出した。すると見物人たちが雲のごとく集まって酒代の立て替えを申し出た。師宜官は酒代が集まった頃合いをみて壁の字を削り落とした《晋書衛恒伝・武帝紀集解》。

師宜官は自分の才能を自負しており、字を書いても、(筆跡を盗まれることを恐れて)そのつど木札を削ったり燃やしたりした。そこで梁鵠は沢山の板を用意しておいて彼に酒を呑ませ、酔ったのを見計らって木札を盗み出した。梁鵠はこうして彼の筆跡を修得し、曹操をして「師宜官以上だ」と言わしめたのである《武帝紀》。

のちに袁術の部将となり、袁術が鉅鹿郡に耿球碑を立てたときは師宜官がその碑文を書いた。その筆跡は極めて巧みである《晋書衛恒伝・武帝紀集解》。

【参照】衛恒 / 袁術 / 邯鄲淳 / 耿球 / 曹操 / 劉宏(霊帝) / 梁鵠 / 鉅鹿郡 / 鴻都門 / 南陽郡 / 四体書勢 / 書 / 八分体

師纂Shi Zuan

シサン

(?〜264)
魏征西将軍司馬・領益州刺史

司馬昭の主簿、鄧艾の司馬《晋書文帝紀・鄧艾伝》。

景元四年(二六三)夏、大将軍司馬昭は蜀を討伐せんと考えた。しかし征西将軍鄧艾が「まだ隙がありませぬ」としつこく異議を唱えたので、司馬昭はそれをうるさがり、主簿の師纂を鄧艾の司馬に任命した。師纂の説得により、鄧艾もようやく命令に応じることになった《晋書文帝紀》。

同年冬十月、鄧艾は陰平道から無人の地を七百里も行き、江由に到達して蜀の守将馬邈を降した。蜀の衛将軍諸葛瞻が涪から緜竹に引きかえし、陣列をそろえて鄧艾を待ちうけた《鄧艾伝》。

鄧艾は子の鄧忠を右手、司馬の師纂を左手に出したが、ケ忠・師纂は敗走して「賊軍はまだ攻撃できませぬ」と報告した。鄧艾が「存亡がかかっておるというのに、できぬということがあるか!」と叱りつけて二人に斬りかかろうとしたので、師纂らは戦場に戻って戦い、敵軍を大破、諸葛瞻・張遵らの首を挙げた《鄧艾伝》。

鄧艾が雒まで進軍すると蜀帝劉禅は降服した。鄧艾は成都へ行き、師纂を益州刺史とした《鄧艾伝》。

鄧艾が鍾会らと仲違いすると、師纂は鍾会・胡烈らとともに「鄧艾は叛逆を企てております」と報告した。そのため鄧艾は檻車でもって召しかえされることになった《鄧艾伝》。その後、鍾会が反乱を起こして殺されると、衛瓘が田続を遣して鄧艾を討たせ、師纂は鄧艾もろともに殺された。師纂はもともと短気なたちで恩恵も少なかったため、殺されたとき皮膚に傷のない部分がなかった《鄧艾伝》。

田続は江由の戦いで進軍しなかったため、鄧艾に処刑されそうになったことがあり、それを恨んで鄧艾を殺したのだという。師纂も緜竹の戦いで咎められており、それを恨んで鄧艾を誣告したのだろう。

【参照】衛瓘 / 胡烈 / 司馬昭 / 鍾会 / 諸葛瞻 / 張遵 / 田続 / 鄧艾 / 鄧忠 / 馬邈 / 劉禅 / 陰平道 / 益州 / 江由 / 蜀 / 成都県 / 涪県 / 緜竹県 / 雒県 / 衛将軍 / 刺史 / 司馬 / 主簿 / 征西将軍 / 大将軍 / 檻車

司馬徽Sima Hui

シバキ

(?〜208?)

字は徳操。潁川陽翟の人《龐統伝集解》。「水鏡」あるいは「氷鏡」と評された《襄陽記》。

興平二年(一九五)、龐徳公は潁川に司馬徽ありと聞いて、甥の龐統に二千里の道を越えて訪問させた《襄陽記・龐統伝集解》。司馬徽はちょうど木に登って桑の葉を採っているところだったが、龐統は車内から「丈夫たる者、この世に生まれたからには金印紫綬を帯びねばならぬと吾(わたし)は聞いている。どうして広大なる器量を隠して糸紡ぎなどという女仕事をしておられるのか」と呼びかけた《龐統伝集解》。

龐統が司馬徽と会ったのを『襄陽記』では十八歳のときとし、『集解』に引く『世説新語』では二千里の道を越えて司馬徽に会いに行ったとしている。これを採れば、司馬徽は興平二年の時点まで潁川にいたことになる。ただし、司馬徽がこのとき潁川にいたこと、龐統が不遜な態度で声をかけたこと、司馬徽が夜になるまで樹上にいたことについては、魏晋の文士による作り話であろうとの批判が多い。また『襄陽記』では龐統を司馬徽のもとへ行かせたのは龐徳公だとしている。

司馬徽は言った。「子(あなた)はまず車を降りたまえ。子は直進する速さを知っておるだけで、(そのせいで)道に迷うことをご存じない。むかし伯成は田畑を耕して諸侯の栄誉を求めなかったし、原憲は桑や枢(やまにれ)を邸宅に交換しようとはしなかった。どうして豪勢な屋敷に住み、肥えた馬に跨り、数十人の婦女を侍らさなければ満足できぬということがあろう。それこそが許父の慷慨し、伯夷・叔斉の歎息した理由なのだよ。たとい秦の爵位と千乗の馬車を盗んだとしても、貴ぶほどのことはない!」《龐統伝集解》

龐統は「小生は辺鄙の地から出てきて、ようやく大義を知りました。一度も大鐘・雷鼓を打ち鳴らさねば、その音響が分からないのと同じなのです」と言った《龐統伝集解》。司馬徽は木の上にいて、龐統は木の下にいて、昼から夜になるまで語り合った。司馬徽は歎息して「龐徳公はまこと人間を知っておられる。この者は実に立派な人徳者だ。南方の人士の中でも頂点に立つだろう」と言った《龐統伝》。

司馬徽はあるとき龐徳公のもとを訪れたが、ちょうど徳公は沔水を渡って祖先の墓参りに出かけたところだった。司馬徽はまっすぐ入って座敷に上がり、徳公の妻子を呼び付けて黍を作らせ、言った。「あらかじめ徐元直(徐庶)が言っていたはずだぞ。客人がやってきて、私と公とが話し合うことになっている、と。」徳公の妻子はみな座敷の下へ一列になって拝礼し、駆けずりまわって御膳を用意した。しばらくして徳公が帰ってきて、すぐさま入って会ってみたのだが、この訪問客が何者であるのか、まるで覚えがないのであった《龐統伝・襄陽記》。

司馬徽は襄陽の魚梁洲に住まいし、徳公の住まいと軒を並べ、舟を浮かべたり裾をからげたりして往来した《水経注》。司馬徽は清廉にして優雅であり、人間の本質を見抜く力を持っていた。徳公は彼のことを「水鏡」(あるいは氷鏡)と評した。司馬徽は徳公より十歳若かったので、彼に兄事して「龐公」と呼んだ《龐統伝》。

司馬徽は荊州に学問所を開いて古文を教え、門弟には徐庶・韓嵩・龐統・向朗・尹黙・李仁らがあった《向朗・尹黙・李譔伝》。また、当時十歳であった劉廙が学問所の側で遊んでいると、司馬徽がその頭を撫でながら、「子供や、子供。黄色を中央にして理が通ずるということ、お前さんは知っているのかね?」と言った《劉廙伝》。のちに天命の行く末について劉廙と交わした議論は、呉の刁玄の手により「黄色の旗、紫色の蓋が東南の方角に見える。最終的に天下を領有するのは荊州・揚州の君主だ!」と改竄され、呉の人々を惑わせることになった《孫晧伝》。

司馬徽は、劉表が暗愚さゆえに必ずや善人を殺すだろうと思い、口を閉ざして他人と議論することはなかった。ある人が劉表に「司馬徳操は奇才の士ですが、まだ誰からも招かれておりません」と告げた。のちに劉表は、彼に会ってみたが「世間の人間がでたらめを言っただけだな。あれはただの書生に過ぎぬ」と言った。司馬徽は才智の持ち主でありながら、このようにうまく愚者のふりをしていた《龐統伝集解》。

自分を評価してもらいたいと訪ねてくる人がいても、司馬徽は決してその優劣をはっきりさせず、いつも「よろしいね」と言っていた。妻が「人々が質問してくるのは貴君に人を見る目があるからでしょう。それなのによろしいよろしいばかりじゃ、貴君の意見を求める意味がないじゃないですか?」と諫めても、司馬徽は「貴君のおっしゃることも、これはまたよろしいね」と言うのであった。その慎重さはこういう具合であった《龐統伝集解》。

あるとき司馬徽の豚を見て、自分のものだと主張する人があった。司馬徽はすぐさま豚を与えてしまった。後日、その人は自分の豚を見つけ、司馬徽に豚を返して土下座した。司馬徽の方でも丁重な言葉をかけ、彼に詫びた《龐統伝集解》。

劉表の子劉jは司馬徽のもとを訪ねたとき、彼が在宅かどうかを側近に確かめさせた。司馬徽はその手に鋤を持って畑を耕していたが、側近が「司馬君はご在宅かね?」と訊ねると、「我(わたし)がそうです」と答えた。側近はその田舎むさい姿を見て、「くたばり損ないめ。将軍とお歴々は司馬君に会いたいと仰せなのだ。汝(おまえ)は農奴の分際で、なにゆえ司馬君のご尊名を自称しやがるのか!」と罵倒した《龐統伝集解》

司馬徽は家に戻って髪を刈り、頭巾をかぶって出てきた。側近はさっきの老いぼれが司馬徽であると知って恐怖し、劉jに告げると、劉jは座席からすべり降りて土下座し、謝罪した。司馬徽は「卿(あなた)は本当にそんなことしないでください。吾はとても恥ずかしくなりますから。これは自分で畑を耕すような人間に過ぎないのに、たまたま卿のお耳を汚しただけなのですよ」と言った《龐統伝集解》。

劉琮が司馬徽のもとを訪れたのは、劉表死後のことだろう。

ある人が蚕取りをしたいからといって簀の子を借りにきたとき、司馬徽は自分の蚕を捨ててそれを与えた。別の人が「だいたい自分のものを他人に与えるのは、相手が急いでいて自分に余裕がある場合です。今回はあっちもこっちも対等の立場なのに、どうして他人にくれてやったのですか?」と訊ねると、司馬徽は「私は今まで他人から要求されたことはなかった。要求されて与えないのは恥ずかしいことだよ。どうして道具ごときで恥をかく必要があるだろうか!」と答えた《龐統伝集解》。

建安十二年(二〇七)《通鑑》、劉備が襄陽の司馬徽を訪問して現在の事柄について訊ねた。司馬徽は答えた。「儒者や俗人どもに一時代の大仕事が理解できましょうか?時代の仕事を理解しているのは俊傑です。この辺りに伏龍・鳳雛がおりますぞ。」劉備がだれかと訊ねると、司馬徽は「諸葛孔明(諸葛亮)・龐士元(龐統)でございます」と言った《諸葛亮伝》。

曹操が荊州を破滅させたとき、司馬徽はその手に落ちた。曹操は重用するつもりであったが、ちょうどそのころ司馬徽は病気で亡くなった《龐統伝集解》。

享年三十六歳とする説もあるようだが、出典を確認できなかった。

【参照】尹黙 / 韓嵩 / 許父 / 原憲 / 叔斉 / 諸葛亮 / 徐庶 / 向朗 / 曹操 / 刁玄 / 伯夷 / 伯成 / 龐統 / 龐徳公 / 李仁 / 劉廙 / 劉琮 / 劉備 / 劉表 / 潁川郡 / 魚梁洲 / 荊州 / 呉 / 襄陽県 / 秦 / 沔水 / 揚州 / 陽翟県 / 運命暦数 / 黍 / 金印 / 黄旗 / 古文 / 紫蓋 / 紫綬 / 幘(頭巾) / 知人鑑(人物を見抜く力) / 伏龍 / 鳳雛

司馬勝之Sima Shengzhi

シバショウシ

(?〜?)
晋漢嘉太守

字は興先。広漢緜竹の人《華陽国志》。

学問では『毛詩』に精通して『三礼』を修得し、質素清潔で、生まれつき利益や名誉に関心を持たなかった。はじめ郡の功曹となり、たいそう綱紀の体裁をなしていた。益州から従事として招かれ、尚書左選郎に昇進、秘書郎へ異動となった《華陽国志》。

そのころ蜀の制度では、州の書佐が郡の功曹とともに察挙を行うことになっていて、また従事と台郎(秘書郎)は同格であったので、特別処置として重ねて察挙を行い、(司馬勝之は)朝廷の要職に就いていたのだが、帰郷して秀孝(秀才・孝廉)となり、ふたたび郡の筆頭者になったのである《華陽国志》。景耀年間(二五八〜二六三)の末期、郡の請願により孝廉に推挙された《華陽国志》。

統一後、梁州から別駕従事として招かれ、秀才に推挙された。広都・新繁の県令を歴任したが、統治ぶりは非常に際だっていた。清潔優秀であるとして中央に徴され、散騎侍郎となり、宗室扱いとして礼遇された《華陽国志》。

最後は病気を口実に官職を去り、自宅で漢嘉太守の任命を受けて使者が絶えず門前に押し寄せても、固く辞退して着任しなかった。謙虚さを心がけて静かにのんびりと暮らし、つねづね「世間の人々は道徳を修めようとはせず、爵位俸禄に汲々としておるが、わしなんぞは名誉の余りものにあずかるだけで充分じゃわい」と言っていた。郷里の人々を訓育するときは、敬虔さを重視した。六十五歳のとき家で卒去した。子の司馬尊・司馬賢・司馬佐はみな優れた徳行があった《華陽国志》。

ここでは漢嘉太守に就任しなかったとあるが、『華陽国志』後賢志の題名には「漢嘉太守の司馬勝之興先。漢嘉はよくへりくだり、謙譲の徳を備えていた」とある。

【参照】司馬賢 / 司馬佐 / 司馬尊 / 益州 / 漢嘉郡 / 広漢郡 / 広都県 / 蜀 / 繁県(新繁県) / 緜竹県 / 梁州 / 功曹 / 孝廉 / 散騎侍郎 / 秀才 / 従事 / 尚書左選郎 / 書佐 / 秘書郎 / 別駕従事 / 三礼 / 毛詩 / 察挙 / 宗室

車胄Che Zhou

シャチュウ
(シヤチウ)

(?〜199)
漢徐州刺史

曹操の徐州刺史。

建安四年(一九九)、袁術が下邳を経由して北方の袁譚を頼ろうとしたとき、曹操は劉備・朱霊に命じて袁術を討伐させた。程昱・郭嘉・董昭らが「いまやつに軍勢を与えれば、必ずや異心を抱きましょうぞ」と諫めたので、曹操は後悔して劉備を追いかけさせたが間に合わなかった《武帝紀・程昱・董昭伝》。

劉備らが徐州に到達したころ、すでに袁術は病死していたので、朱霊は劉備を残して引きかえした。劉備は徐州刺史車胄を殺して挙兵、関羽に下邳太守を代行させると、自身は小沛に駐屯して曹操に反逆した《武帝紀・袁紹・程昱・董昭・先主・関羽伝・華陽国志》。

【参照】袁術 / 袁譚 / 郭嘉 / 関羽 / 朱霊 / 曹操 / 程昱 / 董昭 / 劉備 / 下邳国(下邳郡) / 徐州 / 沛県(小沛) / 刺史 / 太守 / 行事(代行)

朱応Zhu Ying

シュオウ

(?〜?)
呉宣化従事

孫権の臣、宣化従事。中郎の康泰とともに海南諸国への使者を命ぜられた《梁書海南諸国伝》。扶南国王の范旃の大将に范尋という者がおり、その国の男子はみな裸同然、女子でも貫頭を着けているだけだったので、朱応・康泰は「この国は富み栄えておりますのに、人々が裸同然なのはおかしなことです」と范尋に告げた。その国で衣服を着用するようになったのは、これが始まりである《同》。

著書に『扶南異物志』がある《隋書経籍志・新旧唐書》。

【参照】康泰 / 孫権 / 范尋 / 范旃 / 扶南 / 宣化従事 / 中郎 / 貫頭 / 扶南異物志

朱蓋Zhu Gai

シュガイ

(?〜?)

魏の将。牛蓋とする本もある《張遼伝集解》。

廬江の陳蘭・梅成が叛逆したとき、張遼・張郃とともに陳蘭征討を担当した《張遼伝》。のちに関羽が樊城・襄陽を包囲すると、曹操は朱蓋を殷署らとともに派遣し、徐晃に協力させている《徐晃伝》。曹操に直属する部隊の指揮官のようである。

【参照】殷署 / 関羽 / 徐晃 / 曹操 / 張郃 / 張遼 / 陳蘭 / 梅成 / 襄陽県 / 樊城 / 廬江郡

朱漢Zhu Han

シュカン

(?〜191)
漢都官従事

河内の人。都官従事。

初平二年(一九一)七月、韓馥は冀州牧の地位を袁紹に譲った。袁紹は朱漢を都官従事に任じたが、朱漢はむかし韓馥にぞんざいに扱われたことを恨んでおり、また袁紹に迎合しようとも思い、勝手に城兵を駆り出して韓馥の邸宅を包囲、抜刀して屋根に登った。韓馥は矢倉の上に逃げたが、韓馥の長男が捕らえられて木槌で両脚を叩き折られた。袁紹はすぐさま朱漢を逮捕、殺害した《袁紹伝》。

都官従事は司隷校尉の属官。このとき袁紹はまだ司隷校尉を領していたのである。

【参照】袁紹 / 韓馥 / 河内郡 / 冀州 / 都官従事 / 牧

朱鑠Zhu Shuo

シュシャク

(?〜?)
魏中領軍

魏の将。太子四友の一。

魏国が立てられると、魏王太子曹丕から友人としての待遇を受けて親しく、太子中庶子司馬懿・陳羣・呉質とともに「四友」に数えられた《晋書宣帝紀》。

黄初五年(二二四)、詔勅によって京師の呉質邸にて上将軍・特進らを集める宴会が開かれた。酒宴がたけなわになると、呉質はさらに盛り上げようと思い、芸人に命じて大将軍曹真の肥満と中領軍朱鑠の痩身を揶揄させた。曹真は「卿(あなた)は我(わたし)を部曲の将だと思っているのか」と怒り、驃騎将軍曹洪・軽車将軍王忠も呉質を難詰した。呉質はますます増長して「曹子丹(曹真)よ、どうして権勢をたのんで驕り高ぶるのだ」と言った。朱鑠が立ち上がり、「陛下(曹丕)が吾らを来させたのは卿を喜ばすためだったのに、こんな真似をするのか」と言うと、呉質は「朱鑠、坐を壊すつもりだな」と怒鳴った。短気な性分だった朱鑠は、怒りを募らせて剣を抜いて地面を斬り付けると、すぐさま帰ってしまった《王粲伝》。

【参照】王忠 / 呉質 / 司馬懿 / 曹洪 / 曹真 / 曹丕 / 陳羣 / 魏 / 軽車将軍 / 上将軍 / 太子中庶子 / 大将軍 / 中領軍 / 特進 / 驃騎将軍 / 四友 / 俳優(芸人) / 部曲

朱術Zhu Shu

シュジュツ

(?〜?)
魏高唐侯

朱霊の子。父の封爵を嗣いで高唐侯となる《徐晃伝》。

【参照】朱霊 / 高唐県 / 侯

朱褒Zhu Bao

シュホウ
(シユハウ)

(?〜225)
蜀牂牁丞

朱提郡の人《華陽国志》。牂牁郡丞《華陽国志》。

越巂郡の叟族の高定元が太守焦璜を殺害し《華陽国志》、益州郡の豪族雍闓も太守正昂を殺害して、その後任の張裔を呉に送り飛ばすと《張裔伝》、呉の孫権は前益州牧劉璋の子劉闡を益州刺史に任じて交州境に進出させた《劉璋伝》。建興元年(二二三)夏《後主伝》、朱褒は郡丞でありながら太守を自称し、自分勝手に振る舞うようになった《華陽国志》。

この時点では自分勝手に振る舞っているだけで叛逆の意志を明らかにはしていなかったのだろう。こののち常頎による査察があり、朱褒は彼を殺害して叛乱を起こしたと『華陽国志』は記す。

丞相諸葛亮は先帝劉備が崩御したばかりで軍を起こすことができなかったため《諸葛亮伝》、朱褒が謀叛を企てていると聞いて益州従事常頎を南方に派遣した。常頎は牂牁郡に到着すると、郡の主簿を逮捕して尋問を行い、主簿を処刑した。そのため朱褒は激怒し、常頎を殺して彼が謀叛したのだと誣告した。諸葛亮は常頎の子供たちを処刑して朱褒の気持ちを落ち着けようとしたが、朱褒は改悛することなく、とうとう郡を挙げて叛逆して雍闓に呼応した《後主伝》。

同三年春、諸葛亮は南征軍を起こすと馬忠を派遣して牂牁郡を平定させ、南方が鎮定されると彼を太守に任命した《華陽国志》。

【参照】高定元 / 諸葛亮 / 焦璜 / 常頎 / 正昂 / 孫権 / 張裔 / 馬忠 / 劉璋 / 劉闡 / 劉備 / 雍闓 / 益州 / 益州郡 / 越巂郡 / 呉 / 交州 / 朱提郡 / 牂牁郡 / 郡丞 / 刺史 / 従事 / 主簿 / 丞相 / 太守 / 牧 / 叟族 / 大姓(豪族)

朱霊Zhu Ling

シュレイ

(?〜?)
魏使持節・後将軍・高唐威侯

字は文博。清河国鄃の人《徐晃伝》。朱術の父《徐晃伝》。

はじめ袁紹の将軍であった。同郡の季雍という者が鄃県を挙げて叛逆し、公孫瓚が軍勢をやって彼を助けた。朱霊は袁紹の命を受けて季雍を討伐したが、敵は城内にいた朱霊の母と弟を人質にして朱霊を味方に誘った。朱霊は涙を流しながら「丈夫たる者、家を出て人に仕えたからには、また家を顧みることがあろうか」と言い、鄃城を攻め落として季雍を生け捕りにしたが、朱霊の家族はみな殺されてしまった《徐晃伝》。

曹操が陶謙を討伐したとき、袁紹の命により三つの陣営を率いて曹操を支援することになり、戦功を立てた。袁紹の将軍たちはみな帰還したが、朱霊だけは「多くの人物を観察してきたが曹公ほどの明君はなかった。もうどこへも行かぬ」と言って、そのまま曹操に仕えることにした。所属の兵も朱霊を慕い、彼と行動をともにした《徐晃伝》。

袁術が力を失い、袁紹を頼って徐州を通過しようとしたので、劉備・路招とともに袁術軍を掃討した。たまたま袁術が病死したので帰還したが、劉備は下邳に留まって叛逆している《武帝紀・先主伝》。

曹操は冀州を平定すると、冀州の兵五千人と騎馬千匹を朱霊に与えて許都の南を守らせた。そのとき曹操は「冀州兵は今まで好き勝手を許されてきたのに、今は規律で縛られていて不満を抱いている。卿の名には威厳があるが、彼らを寛容に扱いなさい。さもなければ変事を起こしてしまうぞ」と朱霊に注意を与えていたが、彼が陽翟に着任すると、果たして中郎将程昂らが叛乱を起こした。朱霊は即座に程昂を斬って曹操に謝罪したが、曹操は鄧禹の故事を引きながら彼を慰めた《徐晃伝》。

荊州平定戦にあたっては、于禁・張郃・路招らとともに都督護軍趙儼の管轄下に置かれた《趙儼伝》。

戦闘に参加することはなかったと推測される。このとき趙儼の管轄下にあった七人の将軍たちには荊州平定の功績が記録されていない。このとき楽進・徐晃が戦功を挙げているが趙儼管轄ではなかった。

建安十六年(二一一)に馬超が叛逆して潼関に布陣すると、朱霊と徐晃は夜中に蒲阪津で黄河を西に渡り、陣営を築いて曹操を迎えた。朱霊らが布陣していたため、馬超は黄河西岸に進出することができなかった《武帝紀》。さらに夏侯淵に従って隃麋・汧の氐族を平定する《夏侯淵伝》。同年十二月、夏侯淵・朱霊・路招らを長安に残し、曹操は鄴に帰還した《夏侯淵伝》。

同二十年三月、曹操に従って張魯を征討する。このとき軍は陳倉から武都を経て漢中に入ることになったが、氐族が道路を封鎖して進軍を阻んだ。朱霊は張郃らとともに氐族の軍勢を撃破した《武帝紀》。夏侯淵は張郃・徐晃らとともに漢中に駐留したが、劉備軍に襲撃されて戦死した《夏侯淵伝》。

曹操は朱霊を憎むようになり、彼の軍勢を没収しようと考えた。そこで于禁に命令を授けると、于禁は数十騎を率いて朱霊の陣営に乗り込み、彼の軍勢を召し上げてしまった。朱霊は彼の威厳に恐れをなして抵抗しようとはしなかった。こうして朱霊は于禁の下に配属されることになった《于禁伝》。しかし于禁は曹仁救出のため樊城に向かい、大雨のため陣営が水没して関羽に捕らえられてしまう《于禁伝》。

この事件がいつごろのことかはっきりしないが、これまで朱霊は徐晃・張郃らとともに夏侯淵に属していたので、夏侯淵の危難を救うことができなかったことが曹操の恨みを買ったのではないかと考える。

朱霊は徐晃に次ぐ名声を得て、官は後将軍にまで昇った。群臣が漢朝からの禅譲を受けるよう魏王曹丕に勧めたとき、朱霊は使持節・後将軍・華郷侯であった《文帝紀集解》。曹丕は帝位に上ると彼を鄃侯に取り立てたが、朱霊の希望により高唐侯に転封した《徐晃伝》。

張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃の五人は魏志十七巻にまとめて立伝され、いずれも名将として名高かったが、曹操が魏王になったとき将軍になったのは楽進・于禁の二人だけであった。張遼・張郃・徐晃がそれぞれ呂布・袁紹・楊奉の旧臣であったため未だ心情的に曹操と距離があり、なおかつ「不臣の礼」が取られたものと思われる。「不臣の礼」については『夏侯惇伝』に見える。曹丕が王位に即いたとき、張遼が前将軍、張郃が左将軍、徐晃が右将軍に任じられたが、朱霊もまた後将軍に任命され、漢朝からの禅譲を受けるよう曹丕に勧めている《集解》。原文では「朱霊は徐晃等に次ぐ名声を得た」とあり、『集解』が「等」を衍字として削っているが、これは『集解』の誤りで、朱霊が張遼以下五人の名声に次いだというのが陳寿の文意だったのではなかろうか。朱霊が高唐侯へ国替えを願い出たのは、故郷鄃県の住民が朱霊の家族を皆殺しにしてしまったからだろう。

太和二年(二二八)秋、大司馬曹休が鄱陽太守周魴の偽りの降服を信じて孫権の領土に深く侵入した。曹休は石亭で陸遜らに敗北して撤退しようとしたが、敵軍が夾石で退路を遮断しようとしていた。ちょうど朱霊が北方から到着したので敵軍は逃走し、曹休は帰還することができた《満寵伝》。

朱霊は亡くなると威侯と諡された《徐晃伝》。正始四年(二四三)、朱霊は太祖の廟に合祀される《三少帝紀》。

太祖廟に合祀された功臣のうち、唯一朱霊だけが『三国志』に立伝されていない。そのため実際の地位・功績は張遼らに匹敵しながら、一般に名を知られていないのは残念なことである。

【参照】于禁 / 袁術 / 袁紹 / 夏侯淵 / 関羽 / 季雍 / 公孫瓚 / 朱術 / 周魴 / 徐晃 / 曹休 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 孫権 / 張郃 / 張魯 / 趙儼 / 程昂 / 陶謙 / 鄧禹 / 馬超 / 陸遜 / 劉備 / 路招 / 華郷 / 下邳国 / 漢中郡 / 魏 / 冀州 / 許県 / 鄴県 / 荊州 / 汧 / 夾石 / 黄河 / 高唐県 / 徐州 / 清河国 / 石亭 / 長安県 / 陳倉県 / 潼関 / 鄱陽郡 / 樊城 / 武都郡 / 蒲阪津 / 鄃県 / 渝麋県(隃麋) / 陽翟県 / 威侯 / 王 / 郷侯 / 侯 / 後将軍 / 使持節 / 将軍 / 大司馬 / 太守 / 中郎将 / 都督護軍 / 諡 / 氐族

周慎Zhou Shen

シュウシン
(シウシン)

(?〜?)
漢盪寇将軍・予州刺史

漢陽(あるいは武威)の人《後漢書董卓伝》。周珌の父《後漢書献帝紀》。

『後漢書献帝紀』に引用する『東観漢記』に「周珌は予州刺史周慎の子」とある。ここでは予州刺史と盪寇将軍を同人と解した。本郡については周珌の解を参照のこと。

中平元年(一八四)冬、北地郡の先零羌が北宮伯玉・李文侯らとともに反乱を起こし、護羌校尉伶徴・金城太守陳懿らを殺し、辺章・韓遂を頭目と仰いだ。翌二年春、彼らは宦官を誅殺するのだと言いながら三輔地方に侵入してきた《後漢書董卓伝》。盪寇将軍であった周慎は、車騎将軍張温のもとで破虜将軍董卓らとともに、韓遂らを討伐することになった《後漢書董卓伝》。

十一月、流星に驚いた賊徒が金城郡楡中の城に逃げ込んだので、張温は三万人を率いて城を包囲するよう周慎に命じた。そのとき張温の参軍事として周慎に従軍していた孫堅が「賊の城内には軍糧がありませんから城外から搬入しているはずです。孫堅が軍勢一万をお預かりして糧道を絶ちますので、将軍は大軍を率いて後詰めをなさってくだされ」と進めたが、周慎は聞き入れなかった《後漢書董卓伝》。

周慎が楡中城を包囲して外壁を破壊し、そうした戦況を張温に報告していたところ、はたして韓遂・辺章は軍勢を分けて葵園狭に進駐させ、逆に周慎の糧道を杜絶してしまった。周慎は恐怖を抱き、輜重車を打ち捨てて撤退した。こうして張温の軍勢は敗退してしまったのである《破虜伝・後漢書董卓伝》。

【参照】韓遂 / 周珌 / 孫堅 / 張温 / 陳懿 / 董卓 / 辺章 / 北宮伯玉 / 李文侯 / 伶徴 / 漢陽郡 / 葵園狭 / 金城郡 / 三輔 / 武威郡 / 北地郡 / 楡中県 / 予州 / 護羌校尉 / 参軍事 / 刺史 / 車騎将軍 / 太守 / 盪寇将軍 / 破虜将軍 / 宦官 / 先零羌 / 流星

周毖Zhou Bi

シュウヒ
(シウヒ)

(?〜190?)
漢吏部尚書

字は仲遠。武威の人《後漢書献帝紀》。『後漢書』および『三国志』の「董卓伝」が引用する『英雄記』に記載されている人物で、周珌と同人とされる。

【参照】周珌 / 武威郡 / 吏部尚書 / 英雄記 / 後漢書 / 三国志

周毖Zhou Bi

シュウヒ
(シウヒ)

周珌

周珌Zhou Bi

シュウヒツ
(シウヒツ)

(?〜190)
漢督軍校尉

漢陽(あるいは武威)の人《後漢書董卓伝》。予州刺史周慎の子《後漢書献帝紀》。

『許靖伝』『後漢書董卓伝』ではともに周珌を漢陽の人とするが、『董卓伝』『後漢書同伝』に引用する『英雄記』では「字は仲遠、武威の人」としている。武威の周仲遠とは別人ではないだろうか。また『後漢書』は彼の名を「周珌」とし、『三国志』および『英雄記』は「周毖」とする。周毖は周珌と同人とみて表記を統一した。

中平六年(一八九)、朝政の実権を握った董卓は、少帝劉弁を廃して陳留王劉協を帝位に即けようと計画し、袁紹にそれを相談したところ、袁紹は官職を棄てて逃亡した。董卓は袁紹の首に賞金をかけようとしたが、侍中周珌と城門校尉伍瓊・議郎何顒は袁紹のためを図り、「袁紹は廃立の大事に恐れをなして逃げただけで、大それた野心など持っておりませぬ。いま賞金をかければ変事が起こるに違いありません。袁氏は四代にわたって三公を出す家柄で、門生故吏が天下に大勢おりますから、彼らが集結して挙兵すれば山東は公のものでなくなりますぞ」と董卓を説得した。そこで董卓は袁紹を勃海太守に任じた《袁紹伝・後漢書同伝》。

董卓は周珌を吏部尚書に任命し、侍中伍瓊・尚書鄭泰・長史何顒・尚書郎許靖とともに人事抜擢を任せた。周珌らは党錮事件のため出世が遅れていた名士を続々と登用した。そのおかげで処士荀爽は司空、尚書韓馥は冀州刺史、侍中劉岱は兗州刺史、孔伷は予州刺史、張咨は南陽太守、張邈は陳留太守になることができたのである《董卓・許靖伝・後漢書董卓伝》。

初平元年(一九〇)正月、袁紹・韓馥らが董卓討伐の義兵を挙げた。周珌・伍瓊は朝廷にいて密かに彼らと手を組んでいた。二月、董卓が山東軍を恐れて長安に遷都しようと提議したところ、督軍校尉周珌は、城門校尉伍瓊・太尉黄琬・司徒楊彪とともにそれを諫止した。董卓は怒り狂い、「諸君が善良な士を抜擢任用しろと言うから、董卓は君の計略を採用したのだぞ。それは天下の人々の心に背かないためだった。それなのに諸君が採用した連中は着任するやいなや董卓に歯向かいやがる。どうして董卓を裏切るのか!」と周珌を叱責して外へ連れ出し、庚辰、伍瓊とともに斬首した《許靖伝・後漢書献帝紀・同董卓伝》。

史書は周珌の官位を「侍中」といったり「吏部尚書」「督軍校尉」といったりしている。時系列に沿って並べ替えると、侍中から吏部尚書、督軍校尉へと推移しており、矛盾はしていない。督軍校尉については未詳。

【参照】袁紹 / 何顒 / 韓馥 / 許靖 / 伍瓊 / 孔伷 / 黄琬 / 周慎 / 荀爽 / 張咨 / 張邈 / 鄭泰 / 董卓 / 楊彪 / 劉協(陳留王) / 劉岱 / 劉弁(少帝) / 兗州 / 漢陽郡 / 冀州 / 山東 / 長安県 / 陳留郡(陳留国) / 南陽郡 / 武威郡 / 勃海郡 / 予州 / 王 / 議郎 / 三公 / 司空 / 刺史 / 司徒 / 侍中 / 尚書 / 尚書郎 / 城門校尉 / 太尉 / 太守 / 長史 / 督郡校尉 / 吏部尚書 / 処士 / 党錮 / 門生故吏

周不疑Zhou Buyi

シュウフギ
(シウフギ)

(194?〜208?)
漢処士

字は元直、あるいは文直。零陵郡重安の人。劉先の甥にあたる《劉表伝・同集解》。

周不疑は赤子のときから奇才を発揮し、聡明鋭敏であった《劉表伝・同集解》。叔父の劉先は同郡の劉巴に師事させたかったが、劉巴は「むかし荊北に遊学いたしましたが名を記すことさえままなりません。甥御どのの鸞鳳(おおとり)のごとき光輝をぶち壊しにして、燕雀の家に遊ばせようとおっしゃる。恥ずかしくて我慢なりません」と辞退している《劉巴伝》。

建安九年(二〇四)、曹操はその評判を聞いて面会しようと求めた。不疑がやって来ると、その日のうちに自分の女を嫁がせようとしたが、不疑はこれを辞退した。曹操はまた彼を議郎に取り立てようとしたが、不疑はやはり拝受しなかった。そのころ白い雀が現れるという瑞祥があり、儒者たちはみな頌を作っていた。不疑は曹操に会ってから紙と筆を借り、その場で作品を作り上げてしまった。曹操はたいそう驚き、立派なものだと思った《劉表伝集解》。

十二年、曹操は烏丸を討伐すべく柳城を攻囲したが、陥落させられなかった。そこで戦場の様子を図面に書いて計略を訊ねると、不疑が進みでて十通りの計略を献上した。(曹操がこれを採用して)柳城を攻撃すると、あっという間に陥落した《劉表伝集解》。

『集解』では周不疑の年齢が若すぎることから、この従軍を疑っている。

曹操は息子曹沖を可愛がり、幼少のころから才智の持ち主であったから、不疑とはちょうどよい仲間になるだろうと思っていたが、十三年、曹沖が死んでしまったので不疑のことが疎ましくなり、殺そうとした。曹丕が「いけませぬ」と諫めたが、曹操は「あの人物は、お前に制御できる者ではないぞ」と言い、刺客を放って殺させた。時に十七歳《劉表伝》。

周不疑が殺害されたのを『集解』は曹沖の死と同年だろうと推測している。それに従った。

著書に『文論』四首があった《劉表伝》。

【参照】曹操 / 曹沖 / 曹丕 / 劉先 / 劉巴 / 荊北 / 重安県 / 柳城 / 零陵郡 / 議郎 / 文論 / 烏丸 / 頌 / 白雀

周勃Zhou Bo

シュウボツ
(シウボツ)

(?〜?)

会稽郡山陰の賊。

周勃は黄龍羅とともに数千人の徒党を集めて長らく山陰に盤踞していたが、会稽入りした孫策が自ら討伐に乗りだし、その将董襲の手でじかに斬首された《董襲伝》。

【参照】黄龍羅 / 孫策 / 董襲 / 会稽郡 / 山陰

習宇Xi Yu

シュウウ
(シフウ)

(?〜?)
晋執法郎

襄陽郡の人。習温の長子《襄陽記》。

習宇は晋の執法郎となり、あるとき急用で家に立ち帰ったことがある。このとき馬車に付き従う者たちは非常に盛大であった。父の習温はそれを見て怒り、「乱世に生まれたからには、たとい出世しても、貧しさに耐えて初めて災禍を避けることができるのだ。それなのに他人と贅沢を競うとは!」と言って習宇を杖で打った《襄陽記》。

【参照】習温 / 襄陽郡 / 晋 / 執法郎

習温Xi Wen

シュウオン
(シフヲン)

(?〜?)
呉広州刺史

襄陽郡の人。習珍の子、習宇の父《襄陽記》。

習温の父習珍は呉の潘濬に殺されたが、どういうわけか習温は呉に仕えている。習温が十数歳のとき、潘濬は「この児は名士だ。必ずや我が郷里の議論を主導することになるだろう」と言い、自分の子弟たちを彼と付き合わせた《襄陽記》。

習温は見識高く度量大きく、長沙、武昌太守、選曹尚書、広州刺史を歴任した。宮仕えは三十年に及んだが、名誉を手に入れたり権力と手を結んだりはせず、のんびりと暮らした。晋の時代になると習温は洛水のほとりに別邸を構え、休暇を取ったときはいつもそこで宴会を催したが、酒一石を飲まなければ酔わなかった《襄陽記》。

長子習宇は執法郎であったが、急用であわただしく家に立ち寄ったことがあり、そのとき馬車に付き従う者たちはきわめて盛大であった。習温は腹を立てて「乱世に生まれたからには、たとい出世しても、貧しさに耐えて初めて災禍を避けることができるのだ。それなのに他人と贅沢を競うとは!」と言って習宇を杖で打った《襄陽記》。

むかし習温は呉の荊州大公平を務めていたことがあるが、潘濬の子潘秘が彼のもとを訊ねて、別れ際に「先君(ちち)はむかし君侯(との)が郷里の議論を主導するとおっしゃり、現在その通りになりました。では故郷のうち誰が(あなたの)後任になるでしょうか?」と問うと、習温は「君以上の者はいないよ」と答えた。果たして潘秘はのちに尚書僕射となり、習温の後任として大公平となり、故郷の誉れとなったのである《潘濬伝・襄陽記》。

習温・潘秘ともに尚書を経験しており、思うに荊州大公平は尚書職と兼務されたのだろう。とすれば荊州に呉の都が置かれていた時期に任官されたことになる。

【参照】習宇 / 習珍 / 潘濬 / 潘秘 / 荊州 / 呉 / 広州 / 襄陽郡 / 晋 / 長沙郡 / 武昌郡 / 洛水 / 刺史 / 執法郎 / 尚書僕射 / 選曹尚書 / 大公平 / 太守

習宏Xi Hong

シュウコウ
(シフクワウ)

(?〜?)

襄陽郡の人。習珍の弟《襄陽記》。

習宏は兄習珍とともに関羽に仕えていたが、呉の孫権が関羽を殺したとき、「崩壊した民衆を駆り立てて勝利に乗じる敵に対抗するのに、装甲は堅固でなく士卒も精鋭ではありませんから、成功を収めるのは困難です。しばし奴らに膝を屈し、そののち大功を立てて漢室にお報いなさるのがよいでしょう」と兄に勧めた《襄陽記》。

習珍はその言葉に従って呉に降り、のちに樊胄らと手を結んで挙兵、しかし潘濬に討伐された。習宏は呉に住まいしていたが、(孫権からの)ご下問があっても一切答えなかった。そこで張邵伯は「もし亡国の大夫が諮問を受けられず、敗軍の将が武勇を語れないのだとすれば、商(殷)の箕子は過去のせいで見捨てられ、趙の広武君(李左車)は当世において采配ができないことになってしまうぞ」と批判した《襄陽記》。

「呉に住まいしていたが、ご下問があっても一切答えなかった」は舒焚・張林川の増補によった。また張邵伯は司馬昭の諱を避けたもので張昭を指すと考えられている。

【参照】関羽 / 箕子 / 習珍 / 孫権 / 張昭(張邵伯) / 樊伷(樊胄) / 潘濬 / 李左車 / 殷 / 漢 / 呉 / 襄陽郡 / 趙

習珍Xi Zhen

シュウチン
(シフチン)

(?〜?)
蜀裨将軍・昭陵太守

襄陽郡の人。習温の父、習宏の兄《襄陽記》。

習珍は劉備に仕えて零陵北部尉・裨将軍に任じられていた。しかし孫権が関羽を殺したとき諸県がこれに呼応、習珍は城に楯籠ろうとしたが、弟習宏が「武装・志気の面で対抗できませんから、しばらく膝を屈し、そののち大功を立てて漢室に報いなさるのがよいでしょう」と勧めたのでそれに従った《襄陽記》。

のちに密かに樊胄らと手を結んで挙兵したが、孫権軍に敗れる。習珍は七県を占拠して邵陵太守を自称、異民族の土地に駐屯して蜀に味方した《襄陽記》。

習珍の挙兵は、章武元年(二二一)秋七月に劉備が征呉軍を催したときのことであろうか。劉備が秭帰に進出すると武陵の諸県や蛮民が彼に呼応したので、孫権は陸遜・潘濬らに鎮圧させたとある《先主・呉主伝》。『襄陽記』に「邵陵」というのは司馬昭の諱を避けたもので本来は「昭陵」であろう。

孫権の命を受けて潘濬が習珍を征討し、至るところで城を陥落させた。習珍は麾下数百人を率いて山に登る。潘濬が何度も手紙を送って降服を勧告したが、習珍は答えなかった。そこで潘濬は側近だけを連れて山麓まで行き、語り合おうと呼びかけた。習珍は潘濬に弓矢を放ちつつ言った。「わしは漢の鬼となろうとも呉の臣にはならぬ。もう来るでないぞ!」《襄陽記》

潘濬は改めて攻撃にかかった。習珍は一ヶ月余りも固守したが、兵粮も矢も尽き果ててしまった。習珍は部下の者たちに向かって「漢の厚恩を受けたからには死んでお報いせぬわけにはいかぬのじゃ。諸君がそこまですることはあるまい」と言い、剣を取って自分の首を刎ねた《襄陽記》。

劉備は習珍が敗死したと聞いて喪に服し、邵陵太守の官を追贈した《襄陽記》。

【参照】関羽 / 習温 / 習宏 / 孫権 / 樊伷(樊胄) / 潘濬 / 劉備 / 漢 / 呉 / 襄陽郡 / 昭陵郡(邵陵郡) / 蜀 / 零陵郡 / 裨将軍 / 零陵北部尉

宿舒Su Shu

シュクジョ

(?〜?)
魏校尉

公孫淵の臣、校尉。

太和六年(二三二)三月、呉は将軍周賀・校尉裴潜を遼東に派遣して名馬を求めた。太守公孫淵は校尉宿舒・郎中令孫綜に貂の毛皮十枚と名馬を持たせて周賀に同行させ、呉と好誼を通じさせた。周賀は途中、魏の殄夷将軍田予に討たれたが、宿舒らは同年十月、呉に到着した《明帝紀・公孫度・孫権伝》。

呉帝孫権は公孫淵の家族について訊ね、宿舒らが「将軍さまは三人のご子息をお持ちですが、公孫脩さまは亡き弟御の家を継がれました」と答えると、彼らをねんごろに待遇し、君臣とともに楽しみを尽くした。翌年三月、孫権は太常張弥・執金吾許晏らを使者として兵士一万人とともに遼東に遣し、公孫淵を燕王に封じた《公孫度・孫権伝》。

のちに公孫淵がまた変心して魏に帰服したとき、宿舒らは呉の兵士が一万に満たず、七・八千人だと報告したので、公孫淵は張弥や呉の兵士を襲撃して殺した《公孫度伝》。

【参照】許晏 / 公孫淵 / 公孫脩 / 周賀 / 孫権 / 孫綜 / 張弥 / 田予 / 裴潜 / 燕 / 魏 / 呉 / 遼東郡 / 王 / 校尉 / 執金吾 / 将軍 / 太守 / 太常 / 殄夷将軍 / 郎中令 / 貂

荀諶Xun Chen

ジュンシン

(?〜?)

字は友若。潁川郡潁陰の人。荀緄の第四子、荀閎の父、荀彧の兄《荀彧伝》。

初平元年(一九〇)、董卓討伐の兵を挙げた冀州牧韓馥は、故郷から荀彧らを呼び寄せた《荀彧伝》。翌二年、勃海太守の袁紹が公孫瓚と連絡を取って冀州を襲撃させると、韓馥は恐怖を抱いた。荀諶は張導・郭図・高幹とともに韓馥を説得した《袁紹伝・臧洪伝》。「公孫瓚が勝利に乗じて南進し、諸郡が呼応しており、袁車騎も軍勢を率いて東進し、その意図は分かりません。将軍のために懸念いたしますが」。韓馥は言った。「どうすればよかろう?」《袁紹伝》。

荀諶「寛容さと度量によって人々の帰服を受けているという点で、ご自身を袁氏と比べてどう思われますか?」、韓馥「(私の方が)及ばない」、「危険を前によく決断し、智勇が人一倍という点で、袁氏と比べてどう思われますか?」、「及ばない」、「世間に恩徳を施して天下の家々が恩恵を蒙っているという点で、袁氏と比べてどう思われますか?」、「及ばない」《後漢書袁紹伝》。

荀諶「勃海は郡とはいっても実質は州同然です。いま将軍は三つの点で(袁紹に)及ばないのに、もう長いあいだ彼の上位に立っておられます。袁氏は一代の英傑であり、このまま将軍の下位ではいられますまい。また公孫氏は燕・代の兵卒を率いており、その鋭鋒は当たるべからざる勢いです。そもそも冀州は天下の重鎮、もし両軍が力を合わせて城下で矛を交えるようなことになれば、危機滅亡はたちどころにやって参りますぞ」《後漢書袁紹伝》。

荀諶「そもそも袁氏は将軍の旧知であり同盟者ですから、現状における計略としては、冀州を挙げて袁氏に譲渡されるに越したことはありません。(袁紹は)将軍に対して深く恩義を感じることでしょうし、公孫瓚は彼と争うこともできますまい。さすれば将軍は賢者にへりくだったとの名声が得られ、御身は泰山のごとく安らかとなりましょう。将軍よ、お疑い召されるな!」。韓馥はもともと臆病な性質だったので、その計略に従った《後漢書袁紹伝》。

荀彧が到着したとき、すでに袁紹が韓馥に代わって州牧の地位にあり、荀彧は上賓の礼による待遇を受けたが、袁紹には大事業を成し遂げることができまいと考えて立ち去った。荀諶は辛評・郭図らとともに袁紹の任用を受けた《荀彧伝》。

荀諶が冀州入りしたのは荀彧以前ということになる。

建安五年(二〇〇)、袁紹は精鋭十万人、騎兵一万人をえりすぐって許を攻撃せんと企てたさい、審配・逢紀に事務を統べさせ、田豊・荀諶・許攸を謀主、顔良・文醜を将帥としている《袁紹伝》。

のちに陳羣は、汝・潁地方の人物について孔融と論評し、「荀文若(荀彧)・公達(荀攸)・休若(荀衍)・友若(荀諶)・仲予(荀悦)は現代において匹敵する者なし」と述べている《荀彧伝》。

【参照】袁紹 / 郭図 / 韓馥 / 許攸 / 公孫瓚 / 孔融 / 高幹 / 荀彧 / 荀悦 / 荀衍 / 荀閎 / 荀緄 / 荀攸 / 辛評 / 審配 / 張導 / 陳羣 / 田豊 / 董卓 / 逢紀 / 潁陰県 / 潁川郡(潁) / 燕 / 冀州 / 汝南郡(汝) / 代 / 泰山 / 勃海郡 / 車騎将軍 / 太守 / 牧 / 上賓之礼 / 謀主

淳于瓊Chunyu Qiong

ジュンウケイ

(?〜200?)
漢右校尉

字は仲簡であろうか《武帝紀・後漢書袁紹伝》。袁紹の将、都督。

中平五年(一八八)八月、右校尉(あるいは佐軍校尉)に任じられ、蹇碩・袁紹・鮑鴻・曹操・趙融・馮芳・夏牟と合わせて西園八校尉と号す《後漢書霊帝紀・同何進伝》。動乱後は袁紹に仕えたようである。

興平二年(一九五)冬、帝の御車が曹陽で切迫していたとき、袁紹は沮授の進言によって奉迎しようとした。淳于瓊は郭図とともに「漢室はもう衰退して久しく、今さら復興させるのは不可能です。しかも英雄たちが州郡に割拠して軍勢を集めており、いわゆる秦が逃した鹿を捕まえた者が王になるという状態です。いま天子を奉迎すれば行動するたびにお伺いを立てねばならず、言いつけを守れば権威は軽くなり、守らなければ命令違反になってしまいます。良計ではありません」と反対し、袁紹に奉迎を取り止めさせた《後漢書袁紹伝》。

建安四年(一九九)、袁紹は四州を兼併して軍勢は数十万に上った。そこで精兵十万人を選りすぐり、沮授の管轄下にあった軍勢を三手に分け、沮授・郭図・淳于瓊を三都督として一軍づつ統括させた《後漢書袁紹伝》。

翌五年二月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を黄河南岸に渡して白馬を包囲させるとともに、袁紹自身も軍勢を率いて黎陽に向かい、そこから渡河しようとした。四月、曹操に揺動をかけられて手薄になったところ、顔良が張遼・関羽に斬られたので、袁紹軍は白馬の包囲を解いた《武帝紀》。

袁紹軍は黄河を渡って延津の南岸に塁壁を築き、さらに陽武に進出して官渡の曹操軍と対峙した。そのまま百日余りも対峙が続き、黄河南岸では疲労困憊して袁紹軍に寝返る者が相次いだ。冬十月、(軍勢が膨れあがったため)袁紹は淳于瓊らに一万人余りを授けて北方から兵糧を搬入させた《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

淳于瓊が兵糧を輸送して烏巣まで来たとき、曹操が歩騎五千人を率いて夜中に接近してきた。淳于瓊は曹操が小勢であるのを見て陣営の外へと出た。そこへ曹操が急襲をかけてきたので淳于瓊は陣中に引き返したが、曹操が陣営に火を放ったため軍中は大騒ぎとなり、楽進以下、曹操軍の攻撃を受けて大敗した。兵糧は焼き尽くされ、眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡らは斬首された《武帝紀・楽進伝・後漢書袁紹伝》。

淳于仲簡(淳于瓊?)は戦闘中に鼻を失い、夜中に曹操の手の者に捕らえられた。曹操が言った。「どうしてこんな有様になったのかね?」、淳于仲簡「勝負は天に従うもの。どうして質問することがあろうか!」。曹操は心底から殺すまいと思っていたが、許攸が「明朝、鏡を見れば、こいつはいよいよ他人(への恨み)を忘れますまいぞ」と言ったので、淳于仲簡は処刑された《武帝紀》。

【参照】袁紹 / 夏牟 / 郭図 / 楽進 / 関羽 / 韓莒子 / 顔良 / 許攸 / 蹇碩 / 沮授 / 眭元進 / 曹操 / 張遼 / 趙叡 / 馮芳 / 鮑鴻 / 劉協(帝) / 呂威璜 / 烏巣 / 延津 / 官渡 / 黄河 / 秦 / 曹陽亭 / 白馬県 / 陽武県 / 黎陽県 / 右校尉 / 佐軍校尉 / 西園八校尉 / 都督

淳于仲簡Chunyu ZhongJian

ジュンウチュウカン

淳于瓊

沮鵠Ju Hu

ショコク

(?〜?)

広平の人《袁紹伝》。沮授の子《武帝紀》。袁尚の将。

建安九年(二〇四)二月、袁尚が平原遠征に出た隙をついて曹操は鄴を包囲した。四月、曹操は鄴包囲に曹洪を残して自ら毛城の尹楷を撃破、返す刀で沮鵠の守る邯鄲を攻撃する。沮鵠は敗れて陥落した《武帝紀》。

【参照】尹楷 / 袁尚 / 沮授 / 曹洪 / 曹操 / 邯鄲県 / 鄴県 / 広平郡 / 平原郡 / 毛城

沮授Ju Shou

ショジュ

(?〜200)
漢奮威将軍・監軍

広平の人。沮鵠の父、沮宗の兄《武帝紀・袁紹伝・後漢書袁紹伝》。

若いころから大志を抱き、数多くの計略を有していた。州に出仕して別駕となり、茂才に推挙され、二県の県令を歴任した。また冀州牧韓馥の別駕従事となり、その上表によって騎都尉を拝命した《袁紹伝》。

初平二年(一九一)、韓馥がその地位を袁紹に譲ろうとしていると知り、沮授は、長史耿武・別駕閔純とともに諫めた。「冀州は田舎とはいえ武装兵は百万人、食糧は十年分あります。袁紹は孤立して窮しており、我らが鼻息を窺うばかりです。飢え死にさせることもできるのに、どうして州をくれてやるのですか?」。韓馥は聞き入れなかった《後漢書袁紹伝》。

『三国志』袁紹伝では沮授の代わりに治中李歴の名を挙げており、そちらの方が正しいとされるが《袁紹伝集解》、四人そろって諫言したのだとする説もある《後漢紀》。

袁紹は冀州牧の地位に就くと沮授を引見して別駕に任じ、そのとき彼に訊ねた。「いま賊臣が混乱を巻き起こして朝廷は遷都された。吾は代々恩寵を蒙っており、死力を尽くして漢室を復興したく思っておるのだ。しかし斉の桓公は夷吾がなければ霸業を成し遂げられず、越の句践は范蠡がなければ国土を保ち得なかっただろう。いま卿と同心協力して社稷を安んぜんと思うのだが、どうすれば解決できるのであろうか?」《後漢書袁紹伝》。

沮授が進み出て言った。「将軍は弱冠にして朝廷に登られ、海内に名声を広められました。廃立事件の折りには忠義を奮い起こされ、ただ一騎にて出奔されますと董卓は恐怖を抱き、黄河を渡って北進されますと勃海は帰服いたしました。一郡の士卒を率いて冀州の軍勢を収められ、威信は河北に震い、名声は天下に轟きました。もし軍勢を挙げて東方に向かえば黄巾を一掃し、転じて黒山を討てば張燕を滅ぼすことも叶いましょう。軍勢を北方に差し向ければ公孫瓚は必ず捕虜になります。夷狄どもを威圧して匈奴どもを平定し、大河の北岸を横行して四州を併合します。英雄たちを集めて軍勢百万を催し、長安から御車をお迎えして洛陽で宗廟を復活し、天下に号令なさって帰服せざる者を討たれれば、誰が防ぎえましょうや!このようにすれば数年で功業を成し遂げるのも難しくはございません」。袁紹は「それこそ吾の気持ちだ」と喜び、即刻上表して沮授を奮威将軍とし、諸将を監督させた《後漢書袁紹伝》。

『三国志』袁紹伝では沮授を監軍にしたとあり、『後漢書』でも後文において郭図から監軍と呼ばれている。ここでは原文「使監護諸将」とある『後漢書』説を採ったが、意味するところは「監軍」とほぼ同じであろう。ただ、この時点では特例として権限を分け与えるに留まり、後年になって正規の官職を置いたとも考えられる。いずれにせよ相当大きな権力である。また『後漢書』袁紹伝では彼の官位を奮武将軍とするが、それはすでに曹操の将軍号となっているため誤りであると思われる。なお、同じころ田豊が別駕従事に任じられており、沮授は奮威将軍を拝命するとともに従事職を解かれたらしい。

興平二年(一九五)冬、天子は曹陽亭で李傕に追い詰められていた。沮授は袁紹を説得する。「将軍(の御家)は代々、補佐の任に当たって忠義を施してこられました。いま朝廷は流浪して宗廟は崩壊し、州郡を見回せば、外面では義兵にかこつけながら内心では侵略しあっており、社稷を保って民衆を救わんとする者はおりません。いま州城はあらかた平定され、軍勢は強力で士人は帰服しておりますから、西方に車駕を迎えて鄴に遷都され、天子を奉じて諸侯に命令し、蓄えた軍馬で不逞者を討伐すれば誰が防ぎえましょう?」《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁紹はその計略を採用しようとしたが、郭図・淳于瓊らが「漢室は衰退して久しく、今さら復興させるのは困難です」と反対した。沮授は続けた。「いま朝廷をお迎えするのは道義においても時機においても正しいのです。早く決断しなければ必ず先を越されますぞ。そもそも策略は時機を失わず、功績は拙速をいとわないもの。お考えくだされ」。天子が即位したのは袁紹の本意ではなかったので、結局、採用されなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

天子奉迎を郭図によるものとする説がある《袁紹伝》。しかし天子奉戴は沮授の元来の計略なので、ここでは沮授説を採用する。

袁紹には息子三人のうち末子袁尚を愛し、彼に後を継がせようと思っていた。そこで長子袁譚を兄の跡継ぎとし、青州刺史に出向させた。沮授が「一人が兎を捕まえれば万民が追うのをやめるといいます。持ち主が定まったからです。それに年齢が等しければ賢明さで、人徳が等しければ占卜で決めるのが古代の制度です。どうか過去の実例、兎追いの道義をお考えください。もし改めていただかねば災禍はここから始まりましょう」と諫めたが、袁紹は「息子たちにそれぞれ一州づつ任せて能力を見たいのだ」といって聞かなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁紹は精鋭十万人、騎兵一万人を催して許を攻撃することとし、審配・逢紀に軍事を統べさせ、田豊・荀諶・許攸を謀主、顔良・文醜を将帥とした。沮授が進み出て言った。「近ごろ公孫氏を討ったばかりですし、何年も出兵が続いて百姓は疲弊し、倉庫に蓄えはなく賦役ばかりが増えております。これは国家の一大事です。まず天子に勝利をご報告して農作に努めるべきです。もし(使者が)到達できなければ曹操が邪魔立てしたのだと上表し、それから黎陽に進駐、ゆっくりと黄河南岸に陣を構えます。艦船・兵器を建造しつつ、精鋭騎兵を分遣して辺境を荒らし、彼らを不安に陥れながら我らは充足を図ります。さすれば三年で平定できるでしょう」《袁紹伝・後漢書同伝》。

郭図・審配が反対して「明公の神武、河北の強兵でもって曹操を伐つのですから、掌を返すがごとく容易きことです。今すぐ攻略せねばあとあと厄介になりましょう」と言う。沮授「義兵は無敵ですが驕兵は真っ先に滅ぶもの。曹操は天子を奉迎して許都に宮殿を建てており、いま軍勢を南進させるのは不義に当たります。それに勝利を決する策略は強弱にあるのではない。曹操の法令は行き届き、士卒は精練、公孫瓚がなすすべなく包囲を受けていたのとは違いますぞ。いま万全の策を棄てて名分なき軍勢を起こしておりますが、公のために危惧しておる次第です」《袁紹伝・後漢書同伝》。

郭図ら「武王が紂を伐ったのを不義とは言わぬ。ましてや曹操に軍を差し向けるのが名分なしと言うのか!公の軍勢は精悍で将兵は奮戦を誓っており、速やかに大業を完成させられます。天の与うるを取らざればかえってその咎を受くと言います。これこそ越が霸を称え、呉が滅亡した所以なのです。監軍(沮授)の計略は堅固さを求めるものであって、時機を見て変化する策略ではございません」。袁紹は郭図の言葉を受け入れた《袁紹伝・後漢書同伝》。

郭図らはことのついでに沮授を陥れた。「沮授は内外を総監し、威信は三軍を震わせております。もしつけ上がってきたらどうやって制御なさるのですか!そもそも臣下が君主に同意すれば栄え、君主が臣下に同意するようになれば滅ぶもの。これは黄石公の嫌うところです。外部で軍勢を統御しているのですから、内部に干渉させてはなりません」。袁紹はそこで沮授の軍権を分割して三都督とし、沮授および郭図・淳于瓊にそれぞれ一軍づつ仕切らせた《袁紹伝・後漢書同伝》。

建安五年(二〇〇)二月、袁紹はまず顔良に白馬を攻撃させ、袁紹自身は軍勢を率いて黎陽に着陣した。沮授はまた「顔良の人柄は性急ですから、驍勇ではありますが単独で任用してはいけません」と諫めたが、袁紹は聞き入れなかった。曹操が白馬の救援に駆けつけ、顔良は斬られてしまった。袁紹が黄河を渡ろうとしたとき、沮授は「勝負の変化はよく見定めなければいけません。今は延津に留まり、手勢を官渡に分けられませ。彼らが勝利してから(本隊を)出迎えても遅くはありませんし、もし彼らが困窮しても全軍が撤退することにはなりますまい」と諫めるが、やはり袁紹は聞き入れなかった《袁紹伝》。

沮授は出発にあたって宗族を集め、資産を彼らに分け与えて言った。「権勢があれば威令を加えられぬこともないが、さもなくば我が身を保つこともできぬ。哀しいことだ!」。弟の沮宗「曹操の軍勢なぞ相手になりませんよ。君はどうして恐れるのですか?」、沮授「曹兗州の賢明さに加えて天子を擁して助けにしているのだ。我らは伯珪(公孫瓚)に勝ったとはいえ軍勢は疲弊している。それなのに君主も将軍も驕り高ぶっておる。軍の破滅はこの一挙にある。揚雄の言う『六国がおろおろするのは嬴氏のために姫氏を弱めてやることだ』とは、現在の状況だよ!」《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁紹は黄河を渡って延津の南岸に防塁を築いた。沮授は船に乗ろうとしたとき「上の者は野心を逞しくし、下の者は功績に焦る。悠々たる黄河よ、吾はこれを渡るというのか!」と歎息した。そのまま病気を口実に引き返そうとしたが、袁紹は許可せず、彼を恨んで管轄下(の軍勢)を取り上げ、郭図に配属させた《袁紹伝・後漢書同伝》。

曹操が官渡に後退したので、袁紹は陽武に進出した。沮授はまた「北軍の方が多数ですが、精悍さでは南軍に及びません。南軍は食糧が少なく、貯蓄では北方に敵いません。南軍は短期決戦に有利、北軍は長期戦に有利です。ゆったり持久戦を構えて月日を稼ぎましょう」と告げたが、袁紹は聞き入れなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

対峙したまま百日余りが過ぎると、黄河南岸の人々には困窮して袁紹に寝返る者が多かった。袁紹は淳于瓊らに一万人を授け、北方からの食糧輸送を護衛させた。沮授は蔣奇を別働隊として曹操の妨害に備えるべきと言上したが、袁紹は聞き入れなかった。淳于瓊らは四十里先の烏巣で宿営したが、曹操は歩騎五千人を率い、夜中に淳于瓊らを攻撃して彼を斬った《後漢書袁紹伝》。

袁紹軍は大潰滅し、沮授は曹操軍に捕らえられた。沮授は大声で「沮授は降服したのではない、捕らえられただけなのだ」と叫んだ。曹操は彼と旧交があったので出迎えて「巡り合わせが悪く、便りも途絶えておったが、今日図らずも再会できるとはなあ」と言った。沮授「冀州どのは策略を誤り、北方へ逃げる道を自ら選んでしまわれた。しかしまた沮授の智力も尽き果てました。こうして捕らえられたのも当然でしょう」、曹操「本初(袁紹)は無謀ゆえ、君の計略を用いなかった。いま動乱が訪れて国家は未だ安定しない。君とともに解決したいものだが」、沮授「叔父と母、弟が袁氏に命を捧げております。お目こぼしを頂けるなら、速やかに死なせてくださるのが幸いです」。曹操は歎息した。「孤が早いうちに会えていたら、天下のことも懸念に及ばなかったのに」《袁紹伝・後漢書同伝》。

曹操は彼を赦免して厚遇したが、ほどなく沮授が袁氏の元に帰ろうと企てたため、誅殺した《袁紹伝・後漢書同伝》。

【参照】殷紂王(紂) / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 郭図 / 韓馥 / 顔良 / 許攸 / 公孫瓚 / 耿武 / 黄石公 / 周武王(武王) / 荀諶 / 淳于瓊 / 沮鵠 / 沮宗 / 蔣奇 / 審配 / 曹操 / 張燕 / 田豊 / 董卓 / 閔純 / 文醜 / 逢紀 / 揚雄 / 李傕 / 劉協(天子・朝廷) / 烏巣 / 越 / 兗州 / 延津 / 河北 / 漢 / 官渡 / 冀州 / 許県(許都) / 鄴県 / 呉 / 黄河 / 広平郡 / 周(姫氏) / 秦(嬴氏) / 青州 / 曹陽亭 / 長安県 / 白馬県 / 陽武県 / 雒陽県洛陽県) / 黎陽県 / 六国 / 監軍 / 騎都尉 / 県令 / 刺史 / 長史 / 都督 / 奮威将軍 / 別駕従事 / 牧 / 茂才 / 匈奴 / 黄巾賊 / 黒山賊 / 謀主

諸葛緒Zhuge Xu

ショカツショ

(?〜?)
晋崇化衛尉

琅邪郡陽都の人《晋書諸葛夫人伝》。諸葛沖の父、諸葛婉の祖父《晋書諸葛夫人伝》。

正元二年(二五五)正月、鎮東将軍毌丘倹が寿春にあって反乱を起こした《毌丘倹伝》。これに呉の大将軍孫峻が呼応、十万人と号する大軍を率いて長江を渡ろうとした。諸葛緒は泰山太守として兗州刺史鄧艾に属しており、鄧艾は附亭に進出すると、諸葛緒を黎漿に分遣して孫峻を防がせ、これを敗走させた《鄧艾伝》。

附亭を「(黎漿)亭の近く」と読む説がある《鄧艾伝集解》。

景元四年(二六三)夏五月、魏帝曹奐は詔勅を下した。「蜀は小国でありながら、姜維は野心を抑えることなく軍隊を酷使している。いま征西将軍鄧艾に諸軍を統括させ、甘松・沓中で姜維を捕捉させ、雍州刺史諸葛緒に諸軍を統括しつつ武都・高楼へ向かわせ、前後から追いつめる。もし姜維を捕縛できれば、東西から一斉進撃して巴蜀を殲滅することとする。」《陳留王紀》

『鄧艾伝』では詔勅の発布を同年秋のこととしている。『陳留王紀』でも鍾会への命令を分けて記述していることから考えると、五月には鄧艾へ、秋になって鍾会へ勅命が下されたということだろうか。なお、作戦の発議から完了までに期間があったせいか、諸書の記述には食いちがいが多い。『晋書』文帝紀では司馬昭による発議を「夏」とし、『陳留王紀』では詔勅の発布を「夏五月」とし、『鄧艾伝』では同じく詔勅の発布を「秋」とし、『鍾会伝』でも鄧艾らへの勅命を「秋」とし、『後主伝』では魏軍の侵入を同年「夏」としている。また『陳留王紀』は鄧艾らの諸軍が進発したのを十一月、後主劉禅の降服を同月中としている。異なる事柄を同じ名で呼んでいることから混乱が生じているようだ。司馬昭による発議から陳留王が詔勅を下すのが夏五月まで、秋になってから鍾会にも追加の詔勅が下り、諸軍が進発して以後、各地で戦果を挙げたことにより、十一月に劉禅が降服した、という運びと理解してよいのではないだろうか。

さらに鎮西将軍鍾会へ命じて駱谷経由で蜀を討伐させることとし《陳留王紀》、四年秋、大将軍司馬昭がそれらの作戦の総指揮を取り、鄧艾が三万人を率いて狄道から甘松・沓中へ行って姜維と対峙しているうちに、諸葛緒はやはり三万人を率いて祁山から武街・橋頭へ行って退路を遮断、姜維を撤退させないようにとの勅命が下された《鄧艾・鍾会伝・晋書文帝紀》。鍾会は前将軍李輔・征蜀護軍胡烈らを始めとする十万人あまりを率いて斜谷・駱谷などから手分けして漢中へ侵入した《鍾会伝・晋書文帝紀》。

蜀では右車騎将軍廖化を沓中へ、左車騎将軍張翼・輔国大将軍董厥らを陽安関口へ差しむけたが、(廖化が)陰平に到達したころには、すでに諸葛緒が建威に向かっていたので、そこで進軍をやめて待ち受けることにした《姜維伝》。

陰平は陽安関口への道筋には当たらない。ここで陰平に到達したというのは廖化だけである。後文にも、張翼らが漢寿に到着したばかりのとき、姜維・廖化が陰平から敗退してきたので、これに合流して剣閣に入った、とある。

姜維は鍾会が漢中に侵入したと聞いて引き返し、鄧艾軍の追撃を受けて大敗、そこで諸葛緒らが退路を遮断して橋頭に居座っていることを知り、孔函谷を経由して北道へ入り、諸葛緒の背後へ突出しようとした。それに気付いた諸葛緒が三十里あまり引き返すと、姜維は北道を出たところで向きを変えて、すぐに橋頭を通過した。諸葛緒が姜維を阻止しようとしたときには一日遅れであった。こうして姜維は剣閣に立てこもり、鍾会の進軍を阻んだのである《鄧艾伝》。

鄧艾は精鋭をすぐって漢徳陽から江由・左儋道へ入り、緜竹から成都に迫ろうと考え、諸葛緒に同行を求めた。しかし諸葛緒は「本来は姜維を迎撃せよとのご命令である。西方から進軍するのは詔勅に背くものだ」と述べて承知せず、白水へ進軍して鍾会軍に合流した《鍾会伝》。

鍾会は諸葛緒の軍勢とともに剣閣と対峙したが、軍勢を一人占めしようと思い、「諸葛緒が臆病風に吹かれて進軍を拒んでおります」と密告したため、諸葛緒は檻車でもって徴しかえされ、配下の軍勢はすべて鍾会の手に落ちた《鍾会伝》。鄧艾が江由から緜竹、成都へ出たので、蜀主劉禅は降服した《鄧艾伝》。

諸葛緒はのちに太常まで昇進した。司馬炎は魏から禅譲を受けると、生母王氏を皇太后へと奉り、その宮殿を崇化宮と名付けた。崇化宮の重臣は厳重な審査のうえで選ばれ、太常諸葛緒が崇化衛尉、太僕劉原が崇化太僕、宗正曹楷が崇化少府となった《晋書王皇后伝》。

『鍾会伝』の注に「崇礼衛尉」とあるのは誤り。『晋書』武帝紀・王皇后伝ではいずれも「宮殿を崇化宮と名付けた」とし、また『曹彰伝』の注でも「曹楷は崇化少府となった」としている。

【参照】王元姫(王太后) / 毌丘倹 / 姜維 / 胡烈 / 司馬炎 / 司馬昭 / 諸葛婉 / 諸葛沖 / 鍾会 / 曹楷 / 曹奐 / 孫峻 / 張翼 / 董厥 / 鄧艾 / 李輔 / 劉原 / 劉禅 / 廖化 / 陰平道 / 兗州 / 甘松 / 漢中郡 / 魏 / 祁山 / 橋頭 / 建威 / 剣閣 / 呉 / 孔函谷 / 江由 / 高楼 / 左儋道 / 寿春県 / 蜀 / 崇化宮 / 成都県 / 泰山郡 / 長江 / 狄道県 / 沓中 / 徳陽(漢徳陽) / 白水関(白水) / 巴蜀 / 武街 / 附亭 / 武都道 / 北道 / 緜竹県 / 斜谷 / 陽安関口 / 雍州 / 陽都県 / 駱谷 / 黎漿 / 琅邪郡 / 右車騎将軍 / 左車騎将軍 / 刺史 / 征蜀護軍 / 征西将軍 / 前将軍 / 宗正 / 太后衛尉(崇化衛尉) / 太后少府(崇化少府) / 太后太僕(崇化太僕) / 太守 / 太常 / 大将軍 / 太僕 / 鎮西将軍 / 鎮東将軍 / 輔国大将軍 / 檻車

諸葛靚Zhuge Jing

ショカツセイ

(?〜?)
呉大司馬・副軍師

字は仲思。琅邪郡陽都の人《諸葛誕伝》。諸葛誕の末子、諸葛恢の父《諸葛誕伝・晋書諸葛恢伝》。

諸葛靚は文雅端正にして才能徳望があった《世説新語》。

魏の甘露二年(二五七)五月、父の司空諸葛誕は謀反を起こして寿春城に立てこもり、長史呉綱を使者として呉に送り、末子諸葛靚を人質として支援を求めたが、翌年二月、司馬昭により寿春は陥落し、諸葛誕は誅殺された《諸葛誕・孫亮伝・晋書文帝紀》。その肝は文鴦らによって食われたという《太平御覧》。諸葛靚は呉に仕えて右将軍となった《世説新語》。

呉の甘露元年(二六五)九月、西陵督歩闡の上表により武昌へ遷都することとなり、孫晧が出立すると、諸葛靚は御史大夫丁固とともに建業を守ることになる《孫晧伝》。

宝鼎元年(二六六)十月、永安の山賊施但らが数千人の軍勢を集め、孫晧の弟孫謙を擁して烏程へ侵出、建業まで到来したころには、軍勢が一万人あまりに上っていた。施但は孫謙を皇帝に立てて勅命を出させたが、諸葛靚はただちにその使者を斬った。諸葛靚は丁固とともに牛屯で迎え撃ち、大合戦のすえ施但らを敗走させた《孫晧・孫和伝》。同三年、右大司馬丁奉の合肥攻めに従軍した《丁奉伝》。

朝廷において大宴会が催されたおり、孫晧が「あなたの字は仲思というが、なにを思っているのかね?」と訊ねた。諸葛靚は「家にあっては孝行を思い、君主に対しては忠勤を、朋友に対しては信実を思っております。それだけのことでございます」と答えた《世説新語》。

天紀三年(二七九)冬、晋の鎮東大将軍司馬伷が数万人を率いて涂中へ、安東将軍王渾・揚州刺史周浚が牛渚へ、建威将軍王戎が武昌へ、平南将軍胡奮が夏口へ、鎮南将軍杜預が江陵へ、龍驤将軍王濬・広武将軍唐彬は軍船に乗って長江から攻めよせ、翌年春まで、至るところで呉軍は敗北した《孫晧伝》。

このとき諸葛靚は大司馬・副軍師であったが《孫晧伝・晋書諸葛恢伝》、丞相張悌・護軍将軍孫震・丹楊太守沈瑩とともに長江を渡った。張悌らが楊荷橋において城陽都尉張喬を降伏させたとき、諸葛靚は降伏を認めないで皆殺しにすべきと主張した。張悌は聞きいれず、そのまま進軍して晋軍と交戦したが敗退し、案の定、張喬は背後から攻撃をかけてきた《孫晧伝》。

諸葛靚は五・六百人を連れて退き、みずから赴いて「巨先どの、天下存亡には運命があり、あなた一人でどうなるものでもない。なぜ自分から死のうとするのだ?」と言い、張悌を連れてかえろうとした。張悌は承知せず「仲思どの、今日こそが私の命日なのだ。引っぱるのはよしてくれ」と涙ながらに言った。諸葛靚も涙を流しつつ手を放し、百歩あまり戻ったところで、張悌はすでに晋軍の手にかかり殺されていた《孫晧伝》。諸葛靚は孫奕らとともに司馬伷に降伏した《晋書琅邪王伝》。

諸葛靚は洛陽に移り住むことになったが、父が司馬昭に殺されたことを恨み、いつも座るときには洛水に背を向け、武帝司馬炎には誓って会うまいとした。司馬炎は彼と幼なじみであったが、会おうにもそのすべがなかった。司馬炎の叔父司馬伷は、諸葛靚の姉を妃としていた。そこで司馬炎は諸葛妃に頼みこんで諸葛靚を招かせ、諸葛靚が入るのを見計らって、司馬炎も部屋に入った。諸葛靚が廁まで逃げていくのを、司馬炎は追いかけて顔を合わせた《晋書諸葛恢伝・世説新語》。

挨拶がおわり酒がめぐったとき、司馬炎が「今日ようやく再会できた。あなたはかつての竹馬の交わりを覚えているかね?」と訊ねた。諸葛靚は「臣は炭を呑んで漆を身に塗る(報復する)ことができず、今日ふたたびご聖顔を拝することになってしまいました」と言うなり、涙をはらはらと流した。それを見ているうちに、司馬炎は恥ずかしくなり部屋を出ていった《晋書諸葛恢伝・世説新語》。

司馬炎は詔勅により侍中に取りたてようとしたが、諸葛靚は固辞して受けず、郷里に帰り、死ぬまで朝廷の方を向いては座らなかった《晋書諸葛恢伝・世説新語》。諸葛靚は孝行ぶりを極めたものとして有名になり、「嵆紹・諸葛靚の二人を見て、はじめて忠孝の道が理解できるのだ」と評判された《世説新語》。

【参照】王渾 / 王戎 / 王濬 / 嵆紹 / 胡奮 / 呉綱 / 施但 / 司馬炎 / 司馬昭 / 司馬伷 / 周浚 / 諸葛恢 / 諸葛誕 / 諸葛妃 / 沈瑩 / 孫奕 / 孫謙 / 孫晧 / 孫震 / 張喬 / 張悌 / 丁固 / 丁奉 / 杜預 / 唐彬 / 文俶文鴦) / 歩闡 / 烏程県 / 永安県 / 夏口 / 合肥侯国 / 魏 / 牛渚 / 牛屯 / 建業県 / 呉 / 江陵県 / 寿春県 / 城陽 / 晋 / 西陵県 / 丹楊郡 / 長江 / 涂中 / 武昌県 / 楊荷橋 / 揚州 / 琅邪郡 / 陽都県 / 洛水 / 洛陽県 / 安東将軍 / 右将軍 / 右大司馬 / 御史大夫 / 建威将軍 / 広武将軍 / 護軍将軍 / 司空 / 刺史 / 侍中 / 丞相 / 大司馬 / 太守 / 長史 / 鎮東大将軍 / 鎮南将軍 / 都尉 / 督 / 副軍師 / 平南将軍 / 龍驤将軍

徐栄Xu Rong

ジョエイ

(?〜192)
漢中郎将

董卓の将。玄菟郡の人《公孫度伝》。

董卓に仕えて中郎将となり、同郡の公孫度を遼東太守に推挙する《公孫度伝》。

初平元年(一九〇)正月、関東で反董卓を掲げる義兵が起こると、董卓は徐栄と李蒙を各地に派遣して略奪を働かせていた。長沙太守孫堅は予州兵を率いて董卓を討とうとしたが、梁県で徐栄に遭遇した。徐栄は孫堅軍を撃破し、潁川太守李旻を生け捕りにした《後漢書董卓伝》。孫堅が包囲を脱出したとき、従う者はわずか数十騎であり、いつも着用していた赤い幘(頭巾)を部下の祖茂にかぶらせて、ようやく逃げ延びることができた《破虜伝》。

反董卓軍の曹操が、張邈の将衛茲を率いて滎陽の汴水に到達したところ、ここで徐栄に遭遇し、曹操軍の士卒は多くの死傷者を出した。曹操自身も流れ矢に当たり、乗馬も傷付いてしまったが、従弟曹洪が乗馬を差し出したので、夜陰に紛れて逃れることができた。曹操が少ない兵で一日中戦ったことを見て、徐栄は「酸棗を攻めることは容易でないぞ」と言い、兵を引いて帰還した《武帝紀》。

同三年四月、董卓が王允に誅殺されると、徐栄はそのまま王允に従った。董卓の旧将李傕・郭汜らが董卓の仇を報ずと称して長安に攻め上ると、王允は徐栄・胡軫を派遣して新豊で迎撃させた。しかし徐栄は戦死し、胡軫は李傕らに降伏した《後漢書董卓伝》。

【参照】衛茲 / 王允 / 郭汜 / 胡軫 / 公孫度 / 孫堅 / 祖茂 / 曹洪 / 曹操 / 張邈 / 董卓 / 李傕 / 李旻 / 李蒙 / 潁川郡 / 滎陽県 / 玄菟郡 / 酸棗県 / 新豊県 / 長安県 / 長沙郡 / 汴水 / 予州 / 梁県 / 遼東郡 / 太守 / 中郎将 / 幘

徐勛Xu Xun

ジョクン

(?〜?)
漢右将軍従事中郎

袁紹の客、従事中郎《袁紹伝》。

天子の御車が長安を出立して東方へ向かったとき、袁紹はそれを迎え入れよとする進言を退け、曹操が天子を奉迎することになった。のちに袁紹が曹操と敵対したとき、陳琳に檄文を書かせて「そのころ北辺で事変が起こっていたので戦線を離れるわけにはいかず、そこで従事中郎徐勛を使者に立てて曹操に廟所の修繕と幼主の警護を命じたのだ」と述べている《袁紹伝》。

従事中郎は将軍職の属官。『後漢書』に興平二年(一九五)、袁紹は右将軍に任じられたとあり、袁宏『後漢紀』では後将軍としている。後将軍にはすでに郭汜・楊定が就任しているので、ここでは前任者樊稠が殺害されたあと就任したものとみて右将軍説を採用する。ただし右将軍拝命が曹操を通じての廟所修繕、幼主警護の功績に報いるものであった可能性も高く、その場合は袁紹が従前より自称していた車騎将軍の属官ということになるだろう。

【参照】袁紹 / 曹操 / 陳琳 / 劉協(天子) / 長安県 / 従事中郎

徐商Xu Shang

ジョショウ
(ジヨシヤウ)

(?〜?)

曹操の将軍。

建安二十四年(二一九)、曹仁の守る樊城が関羽に包囲され、于禁の七軍も水没してしまった。そこで太祖(曹操)は徐晃を派遣したが、徐晃の手は新附の兵ばかりで関羽に対抗できなかった。太祖は(漢中から)引き揚げると将軍徐商・呂建らを徐晃の元へ送り、「歩騎の集結を待ってから進め」と伝えさせた。さらに殷署・朱蓋らが前後して遣され、都合十二将が徐晃の下に集結したので、徐晃は関羽を破ることができた《徐晃伝》。

【参照】殷署 / 于禁 / 関羽 / 朱蓋 / 徐晃 / 曹仁 / 曹操 / 呂建 / 樊城

舒邵Shu Shao

ジョショウ
(ジヨセウ)

(?〜?)
漢阜陵長

字は仲膺。陳留郡の人。舒伯膺の弟、舒燮の父《孫賁伝》。

舒仲応(舒仲應)と同人と思われるものの、官名に食い違いが見られるため項を分けた。

兄舒伯膺の親友が殺害されたので、舒邵が報復した。事件が発覚すると兄弟がかばい合い、自分が死刑になろうとしたが、二人とも赦免された。天下の人々はそれを義挙だとし、美談として語った。舒邵はまた国家のために尽力したいとかねがね思っていた。袁術の時代、舒邵は阜陵の県長になった《孫賁伝》。

【参照】袁術 / 舒燮 / 舒伯膺 / 陳留郡 / 阜陵県 / 県長

舒仲応Shu Zhongying

ジョチュウオウ

(?〜?)
仲沛相

袁術の臣。沛国の相《後漢書袁術伝》。

建安二年(一九七)、袁術は軍勢が少なくなり大将橋蕤らも失ったので、人々の気持ちは彼から離叛していった。そのうえ日照りのため飢饉となり、官吏・民衆は飢え凍え、長江・淮水の一帯では人々が互いの肉を食らい合う有様だった。舒仲応は袁術のもとで沛国相を務めていたが、袁術が米十万斛を軍糧に供与するよう求めると、舒仲応は米を一粒残らず飢えた民衆にばらまいてしまった《後漢書袁術伝》。

袁術はそれを聞いて怒り、軍勢を連ねて彼を斬ろうとした。舒仲応は言った。「死を逃れられないことは分かっていた。だからそうしたんだ。一人の命をもって百姓の塗炭の苦しみを救えるなら本望だ」。袁術は馬から飛び降りて彼の手を取り、「仲応よ、足下(あなた)は天下の名声を一人占めして、吾(わたし)と分かち合おうとはしてくれないのかね?」と言った《後漢書袁術伝》。

【参照】袁術 / 橋蕤 / 長江 / 沛国 / 淮水 / 相 / 大将

昌豨Chang Xi

ショウキ
(シヤウキ)

(?〜206)

「昌狶」「昌霸」ともいう《先主伝》。

はじめ臧霸・孫観・呉敦・尹礼らとともに軍勢を集めて呂布に味方していたが、建安三年(一九八)に呂布が敗北すると曹操に降服した。同五年に劉備が下邳で曹操に叛いたとき、昌豨は東海郡において劉備に呼応したが、まもなく鎮圧された《武帝紀・先主伝》。

六年、曹操は張遼を魯国に駐屯させていたが、張遼は夏侯淵とともに東海に進んで昌豨を包囲した。昌豨は数ヶ月のあいだ持ちこたえ、夏侯淵らは軍糧が底をついたため帰還しようとした。張遼は「ここ数日、昌豨はいつも張遼を見つめ、矢を射ることも少なくなってきました。きっと彼の計算にまだためらいがあって、そのせいで全力で戦わないのです。彼と語り合って降服を呼びかけたいと存じます」と夏侯淵に告げ、昌豨に使者をやった《張遼伝》。

そこで昌豨は三公山から下りてきて、張遼と語り合った。張遼が「太祖(?)は神の武勇をおもちで、徳によって四方を手懐けておられる。真っ先に馳せ参じた者から大きなご褒美がもらえるのだぞ」と言うと、昌豨は降服を承諾した。張遼は単身で三公山に登って彼の邸に入り、妻子に挨拶した。昌豨が大喜びして曹操のもとに出頭すると、曹操は彼をもとの場所に帰ることを許した《張遼伝》。

十一年、昌豨はまたも叛逆した。于禁が討伐したが攻略することができず夏侯淵が来援した。夏侯淵・于禁・臧霸らは十以上の屯営を攻め下し、昌豨は于禁のもとに出頭した《夏侯淵・臧霸伝》。諸将はみな彼を曹操のもとに送致すべきだと言ったが、于禁は「包囲されたのち降服した者は赦さないのが公(曹操)の慣例だ。法律を奉って命令を行うのはお上に仕える者の節義である。昌豨とは旧友であるが、節義を失ってよいものであろうか」。于禁は自ら昌豨を引見して別れを告げ、涙を流しながら彼を斬った。曹操はこれを聞いて「吾(わたし)のもとに出頭せず于禁のところに行ったのは、運命ではないだろうか」と歎息した《于禁伝》。

【参照】尹礼 / 于禁 / 夏侯淵 / 呉敦 / 曹操 / 臧霸 / 孫観 / 張遼 / 劉備 / 呂布 / 下邳県 / 三公山 / 東海郡 / 魯国

昌霸Chang Ba

ショウハ
(シヤウハ)

昌豨

焦矯Chang Jiao

ショウキョウ
(セウケウ)

焦征羌

焦触Jiao Chu

ショウショク
(セウシヨク)

(?〜?)
魏征虜将軍・都亭侯?

袁煕の大将《武帝紀》。

建安十年(二〇五)正月、焦触は袁尚・袁煕に叛き、張南とともにこれを攻撃、追放した。焦触は幽州刺史を自称して諸郡の太守・県令をかき集め、軍勢数万人を集めて曹操に降ることを決めた。白馬を屠って盟約を交わし、「命令に背く者は斬る!」と言っていたので、あえて逆らう者はなく、それぞれに盃が回っていった《袁紹伝》。

別駕従事韓珩は順番が回ってくると「吾は袁公父子の御恩を受けておる、曹氏に北面することなぞできぬ」と言って、座中一同の顔色を失わせた。焦触は言った、「そもそも大事業を興すには大義を尊重するものだ。事業の成否は一人によるものでなし。韓珩の志を遂げさせてやって君主に仕える者を励ますのもよかろう」《袁紹伝》。曹操は彼を列侯に封じた《武帝紀》。

のちに群臣が尊号を奉る上奏をしたとき、「征虜将軍・都亭侯の臣触」が名を連ねており、これが焦触ではないかと考えられている《文帝紀集解》。

【参照】袁煕 / 袁尚 / 韓珩 / 曹操 / 張南 / 都亭 / 幽州 / 県長 / 県令 / 刺史 / 征虜将軍 / 太守 / 亭侯 / 別駕従事 / 上尊号表

焦征羌Jiao Zhengqiang

ショウセイキョウ
(セウセイキヤウ)

(?〜?)
漢征羌令

本名を「焦矯」といったが、かつて征羌の県令を務めたことがあったので、こう呼ばれた《歩騭伝》。会稽郡の豪族として、食客たちに好き勝手なことをさせていた《歩騭伝》。

あるとき歩騭・衛旌という者が徐州から流れてきて、食糧を求めるべく、ともに名刺を差し出して瓜を献上した。征羌は屋内で寝そべったまま彼らを待たせた。時間が経ち、衛旌が立ち去ろうとしたのを、歩騭が止めて「もともとここへ来たのは彼の権勢を恐れたからだ。いま立ち去って誇りを示せば恨みを買うことになるぞ」と言った《歩騭伝》。

しばらくしてから征羌は窓を開けて彼らを見やると、自分は机を前にして帳の内側に座り、窓の外の地べたに座席をしつらえて衛旌らを座らせたので、衛旌はいよいよ恥辱に感じた。征羌は食事を作らせて、自分は大きな机いっぱいに料理を並べたが、衛旌らには茹でた野菜を小皿に盛って、それだけを与えた。衛旌は食べる気にもなれなかったが、歩騭は腹一杯に食べた《歩騭伝》。

退出したあと衛旌が「どうしてあれを我慢できるんだ!」と歩騭を怒鳴りつけると、歩騭は言った。「あれは主人として乞食を遇したのだ。当然のことじゃないか、なぜ侮辱に感じることがあろう?」《歩騭伝》

【参照】衛旌 / 歩騭 / 会稽郡 / 徐州 / 征羌侯国 / 県令 / 豪族 / 刺(名刺)

焦和Jiao He

ショウワ
(セウワ)

(?〜191?)
漢青州刺史

初平年間(一九〇〜一九四)に青州刺史となり、住民の保護を考慮することなく、群雄たちと(反董卓の)同盟を結んで洛陽に攻め上った。しかし袁紹・曹操が滎陽で董卓の部将(徐栄)に敗北すると、黄巾賊が勢力を広げて諸城を破壊した。焦和は鋭利な武器や多数の兵士を保有していたが、間者を放っていなかったので妄言に惑わされ、干戈を交えることなく敵の姿を見ただけで(青州に)逃走した《臧洪伝》。

黄河に「陥氷丸」(氷を溶かす薬)を投げ込んで敵が渡河できないようにし、神々に戦勝を祈願し、いつも筮竹を並べて巫術師を側から離さず、役所に入ったときは雲を突くような清談をしたものの、役所を出たときは命令系統は混乱していて収まりがつかなかった。とうとう青州は全土が廃墟になってしまった《臧洪伝》。

まもなく焦和は亡くなり、袁紹は臧洪を青州刺史に任命したが、二年のあいだに賊軍は駆逐された《臧洪伝》。

【参照】袁紹 / 徐栄 / 曹操 / 臧洪 / 董卓 / 青州 / 滎陽県 / 洛陽県 / 刺史 / 陥氷丸 / 蓍筮(筮竹) / 黄巾賊 / 耳目偵邏(間者) / 清談 / 巫祝(巫術師)

葉雄She Xiong

ショウユウ
(セフユウ)

(?〜191)
漢都尉

董卓の将、都尉《破虜伝》。

今の本では誤って都督華雄と作るが、『集解』に従って都尉葉雄に復元する。

初平元年(一九〇)正月、董卓の専横に対して山東で義兵が立ち上がった。中でも予州刺史孫堅は最も急進的で、翌二年、軍勢を率いて梁県の陽人聚まで進出した。董卓は東郡太守胡軫を大督護、呂布を騎督に任じて孫堅を迎撃させたが、葉雄は都尉として従軍していた。胡軫と呂布は仲が悪く、呂布がでたらめな命令を下して軍を疲弊させたため、胡軫は陽人城を陥落させることができなかった。引き揚げようとしたところで孫堅の追撃を受け、葉雄は戦死して首級は梟首された《破虜伝》。

【参照】胡軫 / 孫堅 / 董卓 / 呂布 / 山東 / 東郡 / 陽人城 / 予州 / 梁県 / 騎督 / 刺史 / 大督護 / 太守 / 都尉

蔣奇Jiang Qi

ショウキ
(シヤウキ)

(?〜?)

袁紹の将。

建安五年(二〇〇)八月、袁紹は官渡において曹操軍と対峙した。にらみ合いは百日余りも続き、南方の人々は困窮して袁紹方に寝返る者が多かった。そこで袁紹は淳于瓊らに一万人を率いさせ、北方から搬送される食糧を護送させることにした。このとき沮授が「蔣奇を別働隊として、曹操の襲撃に備えるべきです」と説得したが、袁紹は聞き入れなかった。その結果、淳于瓊は曹操の攻撃を受けて敗死した《袁紹伝・後漢書同伝》。

沮授は白馬包囲戦に際して、顔良の性急さを指摘して単独任用すべきでないと主張している。その沮授が推薦しているのだから、蔣奇はよほど優れた武将であったのだろう。

官渡の袁紹軍も大潰滅し、審配の子息二人が曹操軍に捕らえられた。孟岱という人は審配と仲が悪く、蔣奇に言い含めて「審配は専政できる地位にあり、一族は大身で軍勢も強力です。しかも子息二人が南方にいるのですから必ず叛意を抱きましょう」と袁紹に言上させた。郭図・辛評も同調したので袁紹は審配を罷免しようとしたが、逢紀の弁護により取り止めている《後漢書袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 郭図 / 淳于瓊 / 沮授 / 辛評 / 審配 / 曹操 / 逢紀 / 孟岱 / 官渡

蔣義渠Jiang Yiqu

ショウギキョ
(シヤウギキヨ)

(?〜?)

袁紹の将軍。

官渡の戦いのとき、淳于瓊の敗死を知った張郃・高覧が曹操に寝返ると、袁紹軍は大騒動となって潰滅した。袁紹は袁譚らと一緒に八百騎を率いて黄河を北に渡り、黎陽の蔣義渠陣に退避した。帳(テント)の下で袁紹が蔣義渠の手を取って「孤(わたし)は首領なのに(そなたを)頼りにしているのだ」と言うと、蔣義渠は彼を帳の中に招き入れて落ち着けた。袁紹軍の人々は彼が健在であると聞いて、次第しだいにまた集まってきた。残りの人々は偽って曹操に降服したが、全て穴埋めにされてしまう《後漢書袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 袁譚 / 高覧 / 淳于瓊 / 曹操 / 張郃 / 官渡 / 黄河 / 黎陽県 / 将軍 / 阬(穴埋め)

蔣珩Jiang Heng

ショウコウ
(シヤウカウ)

(?〜?)
呉広州都督

零陵郡泉陵の人。蔣琬の兄弟と見る説があるが《蔣琬伝集解》、本県に食い違いがある。

蔣珩は呉に仕えて始興太守、広州都督を歴任、のちに晋に仕える。江表に(仏教の寺を)開基した。中原の民衆士人が連れ立って帰依したのは、蔣珩が尽力したおかげなのである。

【参照】蔣琬 / 呉 / 広州 / 江表 / 始興郡 / 晋 / 泉陵県 / 中原 / 零陵郡 / 太守 / 都督

蔣舒Jiang Shu

ショウジョ
(シヤウジヨ)

(?〜?)
蜀武興督

蔣舒は武興督であったが職責に見合う働きがなく、蜀では人をやって彼と交代させ、蔣舒を(現地に)残して漢中防衛に協力させた。蔣舒はそのことで恨みを抱いた《姜維伝》。

景耀六年(二六三)、魏の鎮西将軍鍾会が漢中に侵入して漢城・楽城を包囲するとともに、護軍胡烈を陽安関に向かわせた《姜維伝》。関城は蔣舒と傅僉とが固めていた《姜維伝》。

蔣舒は城を出て投降するつもりで「いま賊軍が来攻したのに、攻撃もせず籠城するのは良計ではない」と言ったが、傅僉が「ご命令を遵守して城を守ることこそ手柄になる。いま命令に背いて出撃し、もし軍勢を失って国家に損失を与えたなら死んでも無益だぞ」と反対した。蔣舒は言った。「子(あなた)は籠城して万全を守るのが手柄だという。我は出撃して敵軍に勝つのが手柄だと思っている。おのおのの意志を貫こうではないか」《姜維伝》

こうして蔣舒は軍勢を率いて城を出たが、陰平まで行ったところで胡烈に投降した。傅僉は彼が敵軍と戦うつもりだと思い込んでいたが、胡烈がその不意を突いて関城に襲いかかったので、傅僉は格闘のすえ討死し、関城は陥落した《姜維伝》。

鍾会軍は東北方面から進攻していたのだから、蔣舒が関城の西にある陰平に向かうのはおかしい。

【参照】胡烈 / 鍾会 / 傅僉 / 陰平道 / 漢中郡 / 魏 / 蜀 / 成固県楽城) / 武興 / 沔陽県漢城) / 陽安関(関城) / 護軍 / 鎮西将軍 / 督

蕭建Xiao Jian

ショウケン
(セウケン)

(?〜?)
漢琅邪相

琅邪国の相。東海の人《呂布伝》。

建安年間(一九六〜二二〇)、呂布が徐州を占拠して下邳に屯した。呂布は莒城の蕭建に手紙を送り、「呂布は楽毅ではないが、君もまた田単ではなかろう。呂布の手紙が届いたなら、知恵者とともに議論を深めることだ」と脅迫した。蕭建は主簿に返書を持たせて上礼を取り、良馬五匹を進呈した。しかしほどなく臧霸に莒城を襲撃され、蕭建は物資を奪われてしまった《呂布伝》。

【参照】楽毅 / 臧霸 / 田単 / 呂布 / 下邳国 / 莒県 / 徐州 / 東海郡 / 琅邪国 / 主簿 / 相 / 上礼

岑述Cen Shu

シンジュツ

(?〜?)
蜀司塩校尉・督運領

字は元倹か《張裔伝》。蜀の司塩校尉・督運領《張裔伝・華陽国志》。

建興九年(二三一)春、丞相諸葛亮が祁山に進出して司馬懿らと対峙した。真夏の盛りになると大雨になり、都護の李平は食糧を水上輸送することを嫌がり、諸葛亮に「凱旋帰国してはどうか」と告げて補給をやめてしまった。秋八月、諸葛亮が漢中まで帰ってくると、李平は輸送の失敗を咎められることを恐れ、督運領(輸送担当官)の岑述を殺そうとした。そして諸葛亮にはなぜ帰ってきたのかと訊ね、後主には諸葛亮は退却のふりをしたのだと上表した。諸葛亮は腹を立てて李平を平民に下した《華陽国志》。

留府長史張裔は司塩校尉岑述と仲違いし、激しく憎悪しあった。諸葛亮は張裔に手紙を送り、「君とは古代の石のごとき交わりであると思っていた。石のごとき交わりとは、仇敵を取り立ててでも利益を与えあい、肉親と仲違いしてでも庇いあうものだ。ましてやただ元倹(岑述?)に委任したくらいのことを、なぜ貴君はこらえられないのだ?」とたしなめた。

この「元倹」を岑述を指すとみる説、また廖化を指すとみる説がある。文脈からすれば岑述のことと見るべきだろう。

【参照】司馬懿 / 諸葛亮 / 張裔 / 李厳(李平) / 劉禅(後主) / 漢中郡 / 祁山 / 蜀 / 司塩校尉 / 丞相 / 督運領 / 都護 / 留府長史

沈瑩Shen Ying

シンエイ

(?〜280)
呉丹楊太守

呉の丹楊太守《孫晧伝》。

天紀三年(二七九)冬、晋の鎮東大将軍司馬伷が数万人を率いて涂中へ、安東将軍王渾・揚州刺史周浚が牛渚へ、建威将軍王戎が武昌へ、平南将軍胡奮が夏口へ、鎮南将軍杜預が江陵へ、龍驤将軍王濬・広武将軍唐彬は軍船に乗って長江から攻めよせ、翌年春まで、至るところで呉軍は敗北した《孫晧伝・晋書琅邪王伝》。

丞相張悌は孫晧の命令により、護軍将軍孫震・丹楊太守沈瑩・副軍師諸葛靚とともに三万人を率いて長江を渡り、牛渚において迎撃することになった《孫晧伝》。

沈瑩は言った。「晋は蜀にあって長らく水軍を調練しており、いま挙国態勢で押しよせて参りました。わが国の上流地域の諸軍は防備もしておらず、名将はみな死に果てました。長江沿岸の諸々の城塞で守りきれるものはなく、晋の水軍はかならず当地へ参りましょうぞ!兵力を温存して一戦でけりを付けるべきです。勝つことができれば長江以西は静まりましょうし、上流一帯が破壊されようと奪回することは可能です。いま長江を渡って迎撃しておりますが、勝っても守りつづけることはできず、負ければ国家の破滅です。」《孫晧伝》

張悌は答えた。「呉が滅亡に瀕していることは愚者でさえ知っており、今日に始まったことではない。わたしは蜀の軍隊がここへ到来することで、兵士どもが恐怖して収拾の付かなくなるのが心配なのだ。いまこそ長江を渡って死力を尽くして戦うべきである。もし敗北したとて、社稷に殉ずることができるのだから恨みはない。もし勝利できれば敵軍を敗走させるだけでなく、士気は万倍、勝利に乗じて北上すれば、(敵軍を)途中で迎撃することになり撃破できぬはずがない。あなたの計略では、おそらく兵隊どもが逃げちってから敵軍の到来を待つことになろう。国難に殉ずる者が一人もなく、君臣そろって降伏するとは恥ずかしいことではないか!」《孫晧伝》

原文では「勝利に乗じて南上」とあるが、「北上」と改めた。

けっきょく長江を渡って戦うことになり、晋の討呉護軍張翰・揚州刺史周浚と対峙した。沈瑩は、丹楊の郡兵五千人に刀と楯を持たせて「青巾兵」と名付けた精鋭部隊を率いており、これまで何度も強固な敵陣を打ち破ってきていた。それを率いて淮南の軍隊に攻撃をかけたが、三度の突撃でもびくともしない。引きあげるとき混乱が起こり、敵の薛勝・蔣班がその混乱に乗じて追撃すると、呉軍は次から次へと崩壊してゆき、将帥でも食いとめることができなかった。晋の城陽都尉張喬が背後を突いてきたので、呉軍は版橋において大敗し、張悌・孫震・沈瑩らは捕縛され、斬首された《孫晧伝・晋書武帝紀》。

【参照】王渾 / 王戎 / 王濬 / 胡奮 / 司馬伷 / 周浚 / 諸葛靚 / 蔣班 / 薛勝 / 孫晧 / 孫震 / 張翰 / 張喬 / 張悌 / 杜預 / 唐彬 / 夏口 / 牛渚 / 呉 / 江陵県 / 城陽 / 蜀 / 晋 / 丹楊郡 / 長江 / 涂中 / 版橋 / 武昌県 / 揚州 / 淮南 / 安東将軍 / 建威将軍 / 広武将軍 / 護軍将軍 / 刺史 / 丞相 / 太守 / 鎮東大将軍 / 鎮南将軍 / 都尉 / 討呉護軍 / 副軍師 / 平南将軍 / 龍驤将軍 / 青巾兵

辛評Xin Ping

シンピョウ
(シンピヤウ)

(?〜?)

字は仲治であろうか《袁紹伝》。潁川郡陽翟の人。辛毗の兄《辛毗伝》。

袁紹が冀州牧に就任したとき、辛評は弟辛毗を連れて袁紹に仕え、荀彧・荀諶・郭図らとともに袁紹に任用された《辛毗伝》。しかし郭嘉は、辛評・郭図に「袁公は人物任用の機微を知らず、霸王の功業を成し遂げるのは難しかろう」と言って立ち去り、荀彧もまた去った《荀彧・郭嘉伝》。

官渡の戦いに敗れると、審配の子息二人が曹操に捕らえられた。孟岱は審配と仲が悪かったので、蔣奇に言い含めて「審配は専制的な立場にいて一族も多くて軍勢も強く、しかも子息二人が南方にいるのですからきっと叛逆の心を抱きましょうぞ」と言上させた。辛評は郭図とともにその意見に賛成した。しかし袁紹は逢紀の諫めを受け入れ、審配を罷免しなかった《後漢書袁紹伝》。

辛評・郭図は審配・逢紀と権力争いをしていて袁譚と親しく、審配らは袁尚と親しかった。建安七年(二〇二)五月に袁紹が亡くなると、審配らは辛評らの危害を受けることを恐れ、袁尚を擁立して後継者とした。袁譚は車騎将軍を自称して黎陽に駐屯したが、これにより袁譚・袁尚は仲違いすることになった《袁紹伝》。

九月、曹操が北進して袁譚・袁尚を征討せんとした。袁譚は黎陽で防戦し、袁尚はみずから彼を救援した。城下での激しい戦いは翌年二月まで続いたが、袁譚らは敗走して城内に楯籠り、曹操が包囲しようとすると夜中に逃走した《袁紹伝》。曹操は鄴まで追撃して陰安を陥落させたが《袁紹伝》、郭嘉が「袁紹は二人の子を愛して後継者を定めず、郭図・逢紀がその謀臣となっておりますから、泳がせておけば争いの心を生じさせるでしょう」と述べたので軍勢を引き揚げた《郭嘉伝》。

袁譚が「我が軍は武装が充分でなかったため以前の戦いで負けたのだ。いま曹操軍が引き揚げておるが、人々は帰郷心にかられている。渡河の終わらぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ」と言ったが、袁尚は彼の真意を疑い、装備の新調も兵士の増員も承知しなかった。袁譚が激怒したところ、辛評は郭図とともに「先公(袁紹)が将軍を追い出して兄(袁基)の後継者にしたのは、みな審配の差し金ですぞ」と言上した。袁譚はその通りだと思った《後漢書袁紹伝》。

袁譚は軍勢を率いて外門で袁尚を攻めたが、敗北して南皮に帰った。袁尚が審配に鄴の留守を任せて彼を追撃すると、袁譚は平原に入り、辛毗を使者に立てて曹操に救援を求めた《後漢書袁紹伝》。

九年五月、袁尚の不在を衝いて曹操が鄴城を包囲した。八月、審配の甥審栄が夜中に東門を開いて曹操軍を導き入れると、審配は辛評・郭図のせいで陥落してしまったのだと怒り、牢獄に閉じこめていた仲治(辛評)の家族を殺した。このとき辛毗は曹操軍に従軍しており、開門と同時に駆け込んだが兄の家族を救い出すことはできなかった《袁紹伝》。

辛評は袁兄弟を仲違いさせたあとの消息が知れない。辛毗が曹操に従軍している以上、最後まで曹操軍に敵対したとは思えないので、おそらく曹操への使者として辛毗を送り出した、その前後に亡くなっていたのではないだろうか。審配が「仲治」の家族を殺したとあるが、まず辛評のこととみて間違いないだろう。

【参照】袁基 / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 郭嘉 / 郭図 / 荀彧 / 荀諶 / 蔣奇 / 辛毗 / 審栄 / 審配 / 曹操 / 逢紀 / 孟岱 / 陰安邑 / 潁川郡 / 外門 / 官渡 / 冀州 / 鄴県 / 南皮県 / 平原県 / 陽翟県 / 黎陽県 / 車騎将軍 / 牧

秦誼Qin Yi

シンギ

(?〜?)

呂布の将。秦宜禄の別名であろうか。

初平三年(一九二)、呂布は王允らとともに董卓暗殺の計画を練り、あらかじめ秦誼・陳衛・李黒らに長戟を持たせて宮門の衛兵の身なりをさせた。董卓が宮門まで来たとき、その車馬の両側から長戟で突き立てた。董卓は驚いて呂布を呼んだが、その呂布に矛で刺されて死んだ《後漢書董卓伝》。

【参照】王允 / 秦宜禄 / 陳衛 / 董卓 / 李黒 / 呂布 / 宮門衛士

秦宜禄Qin Yilu

シンギロク

(?〜200)
漢銍長

秦朗の父《明帝紀》。秦誼は別名であろうか。

本郡については秦朗の項を参照されること。

秦宜禄は呂布に仕え、曹操と劉備が下邳城の呂布を包囲したとき、使者として袁術のもとへ赴いて救援を求めた。そのとき袁術は漢王朝の皇族の女を彼に娶らせている。秦宜禄の前妻杜氏は美人であった。関羽は杜氏を妻にしたいと曹操に願い出た。曹操はそれを許可していたが、彼女が美人なのではないかと思い、城を陥落させたあと彼女を引見し、関羽がたびたび請願したにもかかわらず、結局自分のものにしてしまった《明帝紀・関羽伝》。

秦宜禄は曹操から銍県長に任命された。建安五年(二〇〇)、劉備が小沛から敗走したとき、その部下張飛は銍県を通過したが、秦宜禄に「他人が汝(おまえ)の妻を取ったのに、そいつのために県長をやっているなんて、こんな馬鹿馬鹿しいことがあるか!我(わたし)と一緒に行かないか?」と言った。秦宜禄は張飛と一緒に数里まで行ったが、後悔して帰ろうとしたので張飛に殺されてしまった《明帝紀》。

秦宜禄の子秦朗は母とともに曹操に引き取られ、彼の宮殿で成長した《明帝紀》。

【参照】袁術 / 関羽 / 秦朗 / 曹操 / 張飛 / 劉備 / 呂布 / 雲中郡 / 下邳県 / 漢 / 沛県(小沛) / 銍県 / 県長

秦頡Qin Xie

シンケツ

(?〜186)
漢南陽太守

字は初起《後漢書霊帝紀集解》。南郡鄀の人《水経注》。

中平元年(一八四)、黄巾賊の張角が蜂起すると、南陽でも張曼成が挙兵して「神上使」を称し、軍勢数万人を集めて太守褚貢を殺害、宛の城下に集結して百日余りになった《後漢書朱儁伝》。秦頡は江夏都尉であったが南陽太守に出向し、六月、張曼成を攻撃してこれを斬首した《後漢書霊帝紀・水経注》。

賊軍は改めて趙弘を総帥に押し立て、ついに十万人余りに膨れあがって宛城を占拠した。鎮賊中郎将朱儁は秦頡・荊州刺史徐璆と合流して軍勢一万八千人で趙弘を包囲したが、六月から八月にかけて陥落させられず、奇襲をかけてようやく趙弘を斬った。賊軍は韓忠を総帥としてまたも宛城に楯籠った《後漢書朱儁伝》。

朱儁が西南側から攻めかけるように見せかけて東北側から侵入すると、韓忠は宛城を抜け出して小城に楯籠り、降服を願い出た。秦頡は徐璆・司馬張超とともに許可してやるべきと考えたが、朱儁は「降服を受け入れては勧善懲悪にならない」と言って厳しく攻め立てたため、賊軍は必死になって守り、勝つことができなかった。そこで包囲をゆるめてやると韓忠が突出してきたのでこれを大破、一万人余りを斬首し、韓忠らを降服させた。秦頡は韓忠への恨みを募らせ、勝手にこれを殺した《後漢書朱儁伝》。

同三年二月、江夏郡の兵士趙慈が叛逆して南陽郡の六つの県を攻め落とし、秦頡は殺害された《後漢書霊帝紀・同羊続伝》

はじめ秦頡は南陽郡へ向かう途中、宜城県で東向きに建っている一軒の家を見付けて車を止め、「この場所は墓を作るのにいいなあ」と言っていた。戦死したのち、その遺体が故郷へ帰されることになったが、かつて車を止めた場所まで来ると車が動かなくなった。役人はそこにある家を買い取って彼を葬った《水経注》。

【参照】韓忠 / 朱儁 / 徐璆 / 褚貢 / 張角 / 張超 / 張曼成 / 趙弘 / 趙慈 / 宛県 / 宜城侯国 / 荊州 / 江夏郡 / 鄀侯国 / 南郡 / 南陽郡 / 刺史 / 司馬 / 太守 / 鎮賊中郎将 / 都尉 / 黄巾賊 / 神上使

秦松Qin Song

シンショウ

(?〜?)

字は文表。広陵郡の人《張紘伝》。

張昭・張紘・陳端らとともに孫策の謀主となり、上客として遇せられる《討逆・陸績伝》。建安十三年(二〇八)、曹操軍が南下してくると、張昭とともに使者を派遣して曹操を奉迎すべきと主張《呂蒙伝》。これは妻子を顧みて私情を差し挟んだもので、いたく失望させられたと孫権に評された《周瑜伝》。京に滞在した劉備が西方へ帰ることになったとき、秦松は孫権に付き従って張昭・魯粛らとともに彼を見送っている《周瑜伝》。秦松は早くに亡くなった《張紘伝》。

【参照】曹操 / 孫権 / 孫策 / 張紘 / 張昭 / 陳端 / 劉備 / 魯粛 / 京 / 広陵郡 / 上客 / 謀主

秦朗Qin Lang

シンロウ
(シンラウ)

(?〜?)
魏驍騎将軍・征蜀護軍・給事中

字は元明。幼名は阿蘇《明帝紀》、あるいは阿鰾《同集解》。秦宜禄の子、秦秀の父《明帝紀・晋書秦秀伝》。

『晋書』秦秀伝に拠ると本県は新興郡雲中とある。建安二十年(二一五)、雲中など四つの郡を合併して新興郡を創立しているので、秦朗は本来、雲中郡の人だったはずである。

母杜氏は曹操の側妾となり、父秦宜禄は張飛の誘いを断って殺害された。秦朗は曹操の宮殿で養育されたが、曹操から非常に可愛がられた。曹操はいつも座にあった賓客たちに「わたしほど連れ子を可愛がる者がいるだろうか」と語っていた《明帝紀》。このとき何晏も連れ子として宮殿におり、どちらも実子のように可愛がられていたが、何晏が恐れ憚りなく太子なみに着飾ったのに対し、秦朗は慎み深い性格だったので身分相応の身なりだった《曹真伝》。

秦朗は曹操・曹丕の時代、諸侯のあいだを渡り歩いたがお咎めを受けることはなかった。明帝曹叡は即位すると、彼に内向きの官職を与えて驍騎将軍・給事中とし、御車で出かけるたびにいつも秦朗を随行させた。明帝は検挙を好み、しばしば些細な罪によって死刑になる者があったが、秦朗は最後まで諫めることができなかった。また優れた人物を推薦することもなかった。そのため明帝は彼を親愛していつも相談役とし、呼ぶときは彼の幼名で「阿蘇」と言うことが多かった。たびたびご褒美を賜り、都の城内に大邸宅を造ってもらった。周囲の者たちは彼が無為無能であることを知っていたが、至尊の側近だというので賄賂を贈る者が多く、彼の資産は公侯に匹敵した《明帝紀》。

発明家の馬鈞が給事中になったとき、散騎常侍高堂隆とともに「古代に指南車は存在しない。記録者のでたらめだ」と批判している《杜夔伝》。

青龍元年(二三三)、叛逆した鮮卑の大人軻比能が、中国に帰服していた大人歩度根を謀叛軍に誘い入れた。幷州刺史畢軌は陰館に進撃し、将軍蘇尚・董弼をやって鮮卑を追撃させていたが、二将軍は軻比能が歩度根を迎えるために出した騎兵千人余りと遭遇して敗死した。そこで明帝は秦朗に中央軍を統率させて討伐させると、鮮卑らは砂漠の北方に逃走した《明帝紀》。

青龍二年(二三四)、諸葛亮が十万人余りの軍勢を率いて斜谷から押しだし、郿県の渭水南岸に砦を築いた。明帝はこれを憂慮し、秦朗を征蜀護軍として歩騎二万人を監督させて派遣し、司馬懿の指揮下に置いた。諸将が渭水北岸で待ち受けるべきと主張したが、司馬懿は軍勢を進めて諸葛亮を防いだ。諸葛亮は進むことができず五丈原で敗北した《晋書宣帝紀》。

景初二年(二三八)十二月、明帝は病床につくと燕王曹宇を大将軍に任じ、驍騎将軍秦朗・領軍将軍夏侯献・武衛将軍曹爽・屯騎校尉曹肇とともに政治を補佐させた。しかし中書監劉放・中書令孫資は権力と寵愛を久しく独占していたうえ、秦朗らとも仲が悪かったので、危害が加えられるのではないかと恐れ、彼らを仲違いさせようと図った。劉放は曹宇が退席しているあいだに内裏に入り、「曹肇・秦朗はご看護の才人と冗談を言いあって、燕王曹宇は天子のごとく南面して臣らが入ることを許してくれません」と誣告し、曹爽と司馬懿に政治を任せるよう訴えた。明帝が「病気がひどくて詔書が書けない」と言うと、劉放らは寝台に上がって明帝の手をつかみ、むりやり詔勅を書かせ、それを持って退出すると「燕王曹宇を詔勅によって罷免する」と叫んだ。曹宇・曹肇・夏侯献・秦朗らは涙を流しながら自邸に帰っていった。明帝は翌年正月に崩御し、曹爽と司馬懿が実権を握るようになった《明帝紀》。

【参照】何晏 / 夏侯献 / 軻比能 / 高堂隆 / 諸葛亮 / 秦宜禄 / 秦秀 / 蘇尚 / 曹宇 / 曹叡(明帝) / 曹爽 / 曹操 / 曹肇 / 曹丕 / 孫資 / 張飛 / 杜氏 / 董弼 / 馬鈞 / 畢軌 / 歩度根 / 劉放 / 渭水 / 陰館県 / 雲中郡 / 燕国 / 五丈原 / 郿県 / 幷州 / 斜谷 / 王 / 給事中 / 驍騎将軍 / 公 / 侯 / 散騎常侍 / 刺史 / 征蜀護軍 / 大将軍 / 中書監 / 中書令 / 屯騎校尉 / 武衛将軍 / 領軍将軍 / 才人 / 指南車 / 鮮卑 / 大人

審栄Shen Rong

シンエイ

(?〜?)

審配の兄の子。東門校尉《後漢書袁紹伝》。

「東門校尉」というのは鄴城東門を守っていた彼の役割を言ったもので、官名ではないと思われる。

建安九年(二〇四)二月(または三月)、袁尚が平原遠征に出た隙をついて曹操は鄴を攻撃した。五月、曹操が城の周囲に幅、深さとも二丈の堀を作って漳水を引き入れたので、城内では八月までに過半数が餓死した。審栄が夜中に東門を開いて曹操軍を引き入れたため鄴城は陥落。曹操から「城門を開いたのは審栄なのだぞ」と聞かされ、審配は「小僧めの役立たずぶりはこれほどであったか!」と憤慨している《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。

【参照】袁尚 / 審配 / 曹操 / 鄴県 / 漳水 / 平原郡 / 東門校尉

審配Shen Pei

シンパイ

(?〜204)
漢冀州別駕従事

字は正南。魏郡陰安の人。陳球の故吏であった《袁紹伝集解》。

若いころより忠烈慷慨の士で、犯すべからざる節義を持っていた《袁紹伝》。その正直さのため、鉅鹿の田豊とともに韓馥に疎まれていたが、袁紹が冀州を領したとき、非常に信頼されて腹心の任務を委ねられ、治中従事となるとともに袁紹の幕府を総攬した《袁紹伝・後漢書同伝》。

建安三年(一九八)、曹操はついに袁紹と対立することになった。彼の元にいた孔融は「審配・逢紀は尽忠の臣であり、その事務を担当している。勝つのは難しかろうな!」と荀彧に語ったが、荀彧は「審配は専制的だが計略がなく、逢紀は行動力があるが自分の事しか考えない。その二人が留守として後方を仕切っているのだ。もし許攸の家族が法を犯したならば、きっと放ってはおけまい。放っておかねば許攸は必ず変事を起こすだろう」と答えている《荀彧伝》。

同五年、袁紹は精鋭十万人と騎兵一万人の軍勢を催し、審配・逢紀には軍事を統べさせ、田豊・荀諶・許攸を謀主とし、顔良・文醜を将帥として許を攻めんとした《袁紹伝》。

沮授は主張する。「まず黎陽に進駐して、それからゆっくり黄河南岸に漸進しましょう。精鋭騎兵を分遣して辺境を荒らし回らせ、彼らを不安に陥れます。三年のうちに平定できましょう」、と。審配は郭図とともに「兵書に十倍なら囲み、五倍なら攻め、互角なら全力で戦えとあります。いま明公の神武、河北の強兵でもって曹氏を伐つのですから、掌を返すがごとくたやすきもの。今すぐ取らねばあとあと難しいことになりますぞ」と反論した《袁紹伝》。

沮授「義兵は無敵ですが驕兵は真っ先に滅びますぞ。曹氏は天子をお迎えして許都に宮殿を築いている。いま軍勢をこぞって南進するのは義に背くものであります。それに勝利を決する策略は強弱にあるのではない。曹氏の法令は行き届き、士卒は精練、公孫瓚がなすすべなく包囲されていたのとは違いますぞ。万全の策を棄てて名分のない兵を起こすとは…」、審配ら「武王が紂を征伐したのを不義とは言わぬ。ましてや曹氏に兵を差し向けるのが名分なしと言うのか!そもそも天の与うるを取らざればかえってその咎を受くもの。監軍(沮授)の計略は堅固さを求めるもので、時機をみて変化する計略ではございません」《袁紹伝》。

袁紹軍は官渡において曹操軍と対峙し、そのまま百日余りが経過した。許攸は「曹操の軍勢は少ないうえ全軍こぞって我が軍を防いでおり、許の城下に残っているのは足弱の者ばかりのはず。もし軽騎兵を分遣して背後を襲撃すれば、許を陥落させて曹操を生け捕りにすることもできましょう。仮に陥落させられないとしても、前後から翻弄することになり、彼らを撃破できること間違いありません」と進言したが、袁紹は聞き入れなかった。ちょうどそのころ許攸の家族が法を犯したので、審配は彼の妻子を逮捕した。許攸は思いを遂げられず、曹操の元に出奔した《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁紹軍は官渡の戦いに敗れ、審配の子息二人が曹操に捕らえられた。孟岱は審配と仲が悪かったので、蔣奇に言い含めて袁紹に言上させた。「審配は専政できる官位にあり、宗族は多くて軍勢は強く、そのうえ子息二人が南方にいるのです。必ず叛意を抱くでありましょう」。郭図・辛評もその通りだと主張したので、袁紹は孟岱を監軍とし、審配の代わりに鄴を守らせることにした。護軍逢紀は審配と仲が悪かったのであるが、「審配は生まれついての烈直であり、発言や行動をするたび古人の節義を慕っております。子息二人が南方にいるからといって不義とは言えません。公よ、お疑い召されるな」と審配を称えたので、袁紹は審配の罷免を取り止めた。審配・逢紀はこれにより協力しあうようになった《後漢書袁紹伝》。

この一件に見えるように、審配は南征軍に随行せず鄴に残っていた。かつ袁紹の幕府を総攬していたのであるから、ほぼ確実に兵糧輸送の任務に当たっていたものと思われる。孟岱は、この戦いで落命した淳于瓊の軍権を引き継いだのである。これは鄴における審配の権限を取り上げるためには、それだけの軍事力が必要であったことを示唆する。

七年五月、袁紹が薨去したが、まだ後継者が決まっていなかった。審配・逢紀はかねてより傲慢・奢侈を袁譚に憎まれており、辛評・郭図はみな袁譚と親しく、審配・逢紀とは仲が悪かった。人々は年長の袁譚を擁立したく思っていたが、審配らは袁譚が立てば辛評に危害を受けるであろうと心配し、袁紹の遺書を偽作して袁尚を後継者に迎えた。袁譚は到着しても後継者になれず、車騎将軍を自称して黎陽に駐屯した。これにより袁譚・袁尚は仲違いしたのである《袁紹伝・後漢書同伝》。

九月、曹操が黎陽に進出して袁譚を攻撃すると、袁譚は袁尚に危急を告げた。袁尚は鄴に審配を残し、軍勢を率いて自ら袁譚を救援した《武帝紀・袁紹伝》。翌年二月まで城下で戦ったが、袁譚・袁尚が敗走したので、曹操は南方に引き揚げようとした。袁譚は「我が軍の甲冑は精巧でなく、そのため曹操に負けたのだ。いま曹操軍が引き揚げようとしており、人々は帰郷の念にかられている。まだ黄河を渡りきらぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ」と袁尚に告げたが、袁尚は彼を疑って許可を出さなかった。袁紹はわずかな兵しか袁譚に与えず、そのうえ逢紀を袁譚に付けて(監視役とし)、袁譚が増兵を求めても、審配らが共謀して兵を与えなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

郭図・辛評が激怒する袁譚に「先公(袁紹)が将軍を外に出したのは、みな審配の差し金ですぞ」と告げると、袁譚もその通りだと思い、逢紀を殺し、軍勢を率いて袁尚を外門において攻撃した。しかし袁譚は敗北し、軍勢をまとめて南皮に引き揚げた《袁紹伝・後漢書同伝》。袁尚は別駕審配を鄴の守備に残し、軍勢を出して平原を厳しく攻め立てた《袁紹・賈逵伝》。審配は袁譚に手紙を送り、「むかし先公は将軍を廃嫡して賢兄の後を継がせ、我が将軍を立てて跡継ぎとなされました。先公が将軍を兄の子をおっしゃられ、将軍も先公を叔父とお呼びしていたことは、海内において遠きも近きも知らぬ者がございましょうか?」と言っている《袁紹伝》。

別駕従事の田豊は袁紹に殺害されていたため、審配はその後任として別駕従事になったのだろう。任官時期は田豊の死んだ直後なのか、袁尚に代替わりしたあとなのか分からない。

十月、袁譚に救援を求められた曹操が黎陽に着陣したので、袁尚は平原包囲を解いて鄴へと引き返した。曹操がまた撤退したので、翌九年二月(または三月)、袁尚は審配・蘇由を鄴の守備に残し、ふたたび平原の袁譚を攻撃した《武帝紀・袁紹伝》。

曹操が鄴を攻略せんと洹水まで軍勢を進めてきたので、蘇由が内応しようとした。その計画が発覚して城内で戦闘となり、審配は蘇由を打ち負かして城外に追い出した。曹操がそのまま進軍して地道を作ると、審配の方でも城内で塹壕を掘って対抗した。審配の将馮礼が突門を開いて曹操軍三百人を引き入れたが、審配がそれを察知して城郭の上から大きな石を落としたので、門が閉ざされて侵入者はみな死んだ《袁紹伝・後漢書同伝》。

武安の県長尹楷が毛城に屯して上党からの兵糧を繋いでいたので、四月、曹操は鄴攻囲に曹洪を残して尹楷を駆逐した《武帝紀》。五月、曹操は土山・地道を破棄して包囲陣を完成させ、周囲四十里にわたって塹壕を掘ったが、飛び越えられるほど浅かったので、審配はそれを笑うばかりで妨害しようとはしなかった。曹操は一晩のうちに一気に掘り上げ、幅も深さも二丈にし、漳水を引き入れて城を水浸しにした。五月から八月までに城内では大半の者が餓死した《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。

曹操は当初、城内に味方を作っておいて一気に攻め込むつもりであったが、それが難しいことを知り、兵糧攻めに方針を転換したのである。兵糧を供給していた尹楷を倒したのもその一環。また長期戦となれば、袁尚の援軍が背後を脅かすことを心配しなければならないが、深い塹壕を掘ったのはその解決策でもある。城内の兵を封じ込めて後顧の憂いをなくした上で、袁尚軍には全力をぶつけることができるという考えである。

七月、袁尚は鄴の危機を知り、軍勢一万人余りを率いて西山沿いに救援に駆けつけ、鄴まで十七里、滏水の手前で松明をかかげて知らせると、城内でも松明をかかげた。審配は城北に出撃して包囲陣を袁尚と挟み撃ちにしようとしたが、曹操の反撃を受けて城内に引き返した。曹操が曲漳の袁尚陣営を包囲しようとしたので、袁尚は恐怖を抱き、陰夔・陳琳を使者として降服を求めたが、曹操はそれを許さず、さらに包囲を固めようとした。袁尚は夜中に藍口に逃走し、さらに祁山に楯籠ったが、曹操の追撃に馬延・張顗らが投降したので、袁尚軍は大潰滅して中山へと逃走した。曹操軍が戦利品を見せびらかしたので、城内では意気消沈した《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》

審配は士卒たちに命令した。「堅守して命がけで戦え。曹操軍は疲労しているし、幽州勢がもうすぐ来るから主君がいないと心配することはないぞ!」。曹操が包囲陣の視察に出てきたので、審配の伏兵が彼に向けて弓弩を発射した。もうすぐ命中するところであった。審配は兄の子審栄を東門校尉としていたが、八月、審栄は夜中に城門を開いて曹操軍を引き入れた。審配は東南角の矢倉の上にいて曹操軍が侵入するのを見つけ、辛評・郭図が冀州を台無しにしてしまったと怒り、獄舎に人をやって辛評の家族を殺させた。審配は城内で抗戦したが生け捕りにされた《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。

審配が帳下に連れてこられると、辛評の弟辛毗が彼を出迎えて、馬の鞭で彼の頭を叩きながら「奴め、お前は必ず今日死ぬのだ」と罵った。審配は振り返りながら「狗め、お前の仲間のせいで我が冀州は破れたのだ。お前を殺せないのが心残りだよ!それにお前は今日、我を殺したり生かしたりできるのかね?」と言い返す《袁紹伝》。

しばらくして曹操が彼を引見した。曹操「誰が卿の城門を開いたかご存じかね?」、審配「知らぬが」、曹操「卿の子審栄なのだぞ」、審配「小僧め、役立たずぶりはここまで来たか!」。曹操はまた告げた。「先日、孤が包囲したとき、どうして弓弩をたくさん撃ったのかね?」、審配「それが少なかったのが残念だ!」、曹操「卿は袁氏父子に忠義であったので、そうせざるを得なかったのだろう」。(曹操は)心中、彼を生かしておきたく思っていたが、審配の意気は壮烈で最後まで屈服せず、また辛毗らが号泣してやまなかったので、とうとう彼を殺すことにした。それを見て歎息しない者はなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

冀州の張子謙が一足早く降服していたが、平素より審配とは仲が悪かった。張子謙が笑いながら「正南よ、卿は結局どれくらい我より優れておりますかな?」と言うと、審配は声を荒げて「お前は降人、審配は忠臣だ。たとい死んだとて、お前のように生きのびたりするものか!」と答えた。処刑が目前に迫ると、審配は刀を持った者を叱りつけ、(自分を)北に向かせつつ言った。「我がご主君は北におるのだ!」、と《袁紹伝》。

張子謙というのは張顗のことではないだろうか。

袁氏の政治は放漫で、官職にある権勢者の多くが蓄財に励んでいた。曹操は鄴を陥落させたとき、審配らの家財・物資を没収したが、それは万単位に上った《王脩伝》。曹操が出した布令に言う。「袁氏の統治では、豪強には好き勝手させ、親戚には兼併させていた。下層の民衆は貧弱なのに租税賦役の供出を肩代わりし、家財を路上で売りに出しても命令に応じるには不足した。審配一門は罪人どもを隠匿し、逃亡者の君主になるまでに至った。百姓たちを懐かせて武装兵を盛強にしたいと思っても、どうして可能であろうか!」《武帝紀》。

【参照】尹楷 / 陰夔 / 殷紂王(紂) / 袁基(袁紹の兄) / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 郭図 / 韓馥 / 顔良 / 許攸 / 公孫瓚 / 孔融 / 周武王(武王) / 荀彧 / 荀諶 / 沮授 / 蔣奇 / 辛毗 / 辛評 / 審栄 / 蘇由 / 曹洪 / 曹操 / 張顗 / 張子謙 / 陳球 / 陳琳 / 田豊 / 馬延 / 馮礼 / 文醜 / 逢紀 / 孟岱 / 劉協(天子) / 陰安邑 / 洹水 / 外門 / 河北 / 官渡 / 魏郡 / 祁山 / 冀州 / 許県(許都) / 鄴県 / 曲漳 / 鉅鹿郡 / 黄河 / 漳水 / 上党郡 / 中山国 / 南皮県 / 武安県 / 滏水 / 平原郡 / 毛城 / 幽州 / 藍口 / 黎陽県 / 監軍 / 県長 / 護軍 / 車騎将軍 / 治中従事 / 東門校尉 / 別駕従事 / 故吏 / 突門 / 幕府 / 謀主

任約Ren Yue

ジンヤク

袁約

任覧Ren Lan

ジンラン

(?〜?)
魏関内侯

河南尹中牟の人。長水校尉任峻の次子《任峻伝》。

済陰の魏諷が相国掾として名声を鳴り響かせていた。任覧は同郡の鄭袤と親しく、彼が「魏諷は邪悪で野心を抱えているから、最終的には災禍を起こすだろう」といって関係を避けるよう勧めるので、言う通りにしたところ、魏諷は果たして敗北したのであった《晋書鄭袤伝》。父の所領は、その子の任先に跡継ぎがなかったため改易されたが、文帝(曹丕)の時代、任峻の功績が再評価されて任覧は関内侯に封ぜられた《任峻伝》。

【参照】魏諷 / 任峻 / 任先 / 曹丕 / 鄭袤 / 河南尹 / 済陰郡 / 中牟県 / 掾 / 関内侯 / 相国 / 長水校尉

眭元進Shui Yuanjin

スイゲンシン
(スヰゲンシン)

(?〜200)
漢督将

袁紹の臣、督将《武帝紀・後漢書袁紹伝》。「睢元進」ともある《後漢書袁紹伝注》。眭固と同人とする説は誤り《武帝紀集解》。

建安五年(二〇〇)十月、袁紹は官渡において曹操軍と対峙していたが、淳于瓊らの五将に軍勢一万人を授け、北方からの輜重車を護送させることにした。淳于瓊が北方へ四十里行った烏巣で宿営をしたところ、曹操が歩騎五千人を率いて夜襲をかけてきた。眭元進はこの戦いで韓莒子・呂威璜・趙叡とともに曹操軍に斬られている《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 韓莒子 / 淳于瓊 / 眭固 / 曹操 / 趙叡 / 呂威璜 / 烏巣 / 官渡 / 督将

眭固Shui Gu

スイコ
(スヰコ)

(?〜199)

字は白兔《張楊伝》。黒山賊。「畦固」とも書かれる《後漢書朱儁伝》。袁紹の督将眭元進と同人とする説もあるが誤り《武帝紀集解》。

黄巾賊が蜂起して以来、黒山でも多くの盗賊が群がり起こったが、眭固もその一人である。張燕を頭に戴き、中山・常山・趙郡・上党・河内の諸郡の山谷に楯籠り、あたりを荒らしまわった《後漢書朱儁伝》。

初平二年(一九一)秋、黒山賊の于毒・白繞らとともに十万人余りの軍勢で魏郡・東郡を侵略した。東郡太守王肱は防ぐことができず、曹操が軍勢を率いて東郡に進出し、濮陽において白繞を攻撃した。白繞らは敗北し、袁紹の上表によって曹操が東郡太守になって東武陽に駐屯した《武帝紀》。

翌三年春、曹操が頓丘に出征したと聞き、于毒らは彼の本拠地東武陽を攻撃した。曹操は軍勢を西方に引き返し、黒山に突入して于毒らの本拠地を攻撃した。于毒はそれを聞いて東武陽を棄てて引き返したが、曹操は待ち伏せして眭固を攻撃し、さらに内黄において南匈奴単于於夫羅を攻撃した《武帝紀》。

建安三年(一九八)に曹操が下邳において呂布を包囲すると、河内太守張楊は彼を救援しようと野王県の東市まで軍勢を出した。ところが曹操に通じた楊醜が主君張楊を殺害してしまった《張楊伝》。そのころ眭固は張楊の将となっており、楊醜を殺して、張楊の軍勢を挙げて袁紹に属し、張楊の長史薛洪・河内太守繆尚を河内に残し、自分は袁紹に救援を求めようと射犬城に入った《武帝紀》。巫女が言った。「将軍の字は兔ですが、この邑(まち)の名は犬です。兔と犬が出会えば勢いからいって必ず驚きます。急いで立ち去られるがよろしいでしょう」。眭固は聞き入れなかった《張楊伝》。

翌四年二月、曹操は(呂布を滅ぼして)昌邑に帰還し、四月には黄河対岸まで軍勢を進め、史渙・曹仁に渡河させて眭固を攻撃させた。眭固は史渙・曹仁・楽進・于禁・徐晃らの攻撃を受け、交戦のすえ大敗して斬首された。曹操も黄河を渡って射犬を包囲したので、薛洪・繆尚は軍勢を挙げて降服している《武帝紀・張楊伝》。

【参照】于禁 / 于毒 / 袁紹 / 於夫羅 / 王肱 / 楽進 / 繆尚 / 史渙 / 徐晃 / 眭元進 / 薛洪 / 曹仁 / 曹操 / 張燕 / 張楊 / 白繞 / 楊醜 / 呂布 / 河内郡 / 下邳国 / 魏郡 / 黄河 / 黒山 / 常山国 / 上党郡 / 昌邑県 / 中山国 / 趙国(趙郡) / 東郡 / 東武陽県 / 頓丘県 / 内黄県 / 濮陽県 / 野王県 / 単于 / 太守 / 長史 / 督将 / 黄巾賊 / 黒山賊 / 東市 / 南匈奴

睢元進Sui Yuanjin

スイゲンシン
(スヰゲンシン)

眭元進

鄒岐Zou Qi

スウキ

(?〜?)
魏徐州刺史

魏の徐州刺史。「鄭岐」とも書かれる《曹真伝集解》。

文帝が即位すると、涼州が創設され、安定太守であった鄒岐が最初の刺史となった。ところが張掖の張進が太守を人質にとって兵を挙げ、黄華・麴演らが呼応、鄒岐の赴任を拒絶した。この反乱の鎮圧には張既の功績があり、のちに盧水胡の伊健妓妾・治元多らが反乱を起こしたとき、文帝は「張既でなければ涼州を安定させられぬ」と述べて、張既を鄒岐の後任にあてた《張既伝》。

明帝の時代、都督青徐諸軍事の桓範と屋敷の取りあいになり、桓範が節を引っぱりだして鄒岐を斬ろうとしたので、鄒岐はこれを告訴した。そのために桓範は免職された《曹真伝》。

【参照】伊健妓妾 / 麴演 / 黄華 / 曹叡(明帝) / 曹丕(文帝) / 治元多 / 張既 / 張進 / 安定郡 / 魏 / 徐州 / 青州 / 張掖郡 / 涼州 / 盧水 / 刺史 / 太守 / 都督 / 胡 / 節

鄒靖Zou Jing

スウセイ

(?〜?)
漢破虜校尉

北軍中候、のち破虜校尉。

中平二年(一八五)三月、辺章・韓遂・北宮伯玉らが三輔を侵略すると、左車騎将軍皇甫嵩がその鎮圧にあたり、烏丸兵三千人を徴発したいと要請した。このとき鄒靖は北軍中候であったが、「烏丸兵は弱いので鮮卑兵を募集すべきです」と上奏したため、その案件は四つの幕府(三公と大将軍?)に下された《後漢書霊帝紀・同応奉伝》。

大将軍掾韓卓が鄒靖に同調して「烏丸族は人数少なく、鮮卑族とは何世代にも渡る仇敵です。もし烏丸から徴発すれば鮮卑は必ずやその本国を襲撃いたし、烏丸は軍務を投げだして救援に帰るでありましょう。戦力の足しにならないばかりか全軍の士気に関わります。鄒靖は辺境近くで暮らしていて彼らの嘘偽りを熟知しておりますゆえ、鄒靖に命じて鮮卑から軽騎兵五千人を募集させれば必ずや敵軍を打ち破ることができましょう」と述べたが、車騎将軍掾の応劭が鮮卑兵は戦地で略奪を働くであろうと反対したため、鄒靖の意見は斥けられた《後漢書応奉伝》。結局、皇甫嵩は勝利することができず罷免された《後漢書霊帝紀・同皇甫嵩伝》。

のちに鄒靖は校尉となり、劉備を率いて黄巾賊を討伐した《先主伝》。破虜校尉として公孫瓚とともに胡族を追討したが、鄒靖は賊軍に包囲されてしまった。そこへ公孫瓚が軍勢を返して救援に駆けつけたので、賊軍は包囲を解いて敗走した。公孫瓚らは勝利に乗じて追撃し、日が暮れてからも松明を掲げて彼らを北方へ追い払った《御覧引英雄記》。

鄒靖の黄巾および胡賊征討の時期は明らかでないが、公孫瓚が夜を徹して胡族を追撃したのは、『後漢書』霊帝紀および公孫瓚伝によれば、中平五年十一月の石門戦勝のあと管子城における二百日以上の籠城を経たのち、降虜校尉・都亭侯を拝命して以後のことであり、よって鄒靖が彼とともに行動したのもそれ以降である可能性が高い。石門から二百日を数えると翌六年六月以降となる。ただし『後漢紀』では六年三月に都亭侯となって北辺を鎮めたとあり、二百日籠城の始まりがそれ以降であるとすれば四ヶ月後の十月まで下ることになるだろう。しかし公孫瓚は降虜校尉になると同時に遼東属国長史にも任じられており、その職権からすれば遼西郡にある管子城へ入ることはできないため、二百日籠城は校尉拝命以前であろうと思われる。いずれにしても、ときの天子が霊帝から少帝、献帝へと目まぐるしく変遷した時期にあたる。『三国志』先主伝によれば、劉備は霊帝の時代、大将軍何進の募兵に助力するなどしており、鄒靖とともに黄巾を討伐したのはそれ以前のことであるから、鄒靖の胡賊追討が黄巾討伐以後であることはほぼ確実であろう。

【参照】応劭 / 韓遂 / 韓卓 / 公孫瓚 / 皇甫嵩 / 辺章 / 北宮伯玉 / 劉備 / 三輔 / 掾 / 校尉 / 左車騎将軍 / 車騎将軍 / 大将軍 / 破虜校尉 / 北軍中候 / 烏丸族 / 黄巾賊 / 胡族 / 鮮卑族 / 府(幕府)

鄒丹Zou Dan

スウタン

(?〜194?)
漢漁陽太守

漁陽太守。

初平四年(一九三)冬、公孫瓚が幽州牧劉虞を殺すと、その従事鮮于輔・斉周、騎都尉鮮于銀らは復讐を企て、閻柔を推戴して烏桓司馬とし、烏桓・鮮卑族を仲間に引き入れて数万の軍勢を集めた。公孫瓚に任命されていた漁陽太守鄒丹は、潞県の北でこれと戦ったが、大敗し、鄒丹をはじめ四千人余りが斬られた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

【参照】閻柔 / 公孫瓚 / 斉周 / 鮮于銀 / 鮮于輔 / 劉虞 / 漁陽郡 / 幽州 / 潞県 / 護烏桓司馬(烏桓司馬) / 騎都尉 / 従事 / 太守 / 牧 / 烏桓族 / 鮮卑族

成何Cheng He

セイカ

(?〜219?)

龐悳の将、督将《龐悳伝》。

建安二十四年(二一九)、蜀将関羽が樊城を包囲した。龐悳は樊城の北十里に屯していたが、ちょうど十日余りも続く長雨となり、龐悳は諸将とともに堤に登って水を避けた。関羽が船に乗って攻め寄せ、大船で四方から堤の上に矢を降らせた。龐悳は督将の成何に言った。「吾は聞く。良将は死に怯えて逃げ延びず、烈士は節を損なって生を求めず、と。今日が我の死ぬ日だ」《龐悳伝》

【参照】関羽 / 龐悳 / 蜀 / 樊城 / 督将

成宜Cheng Yi

セイギ

(?〜211)

建安十六年(二一一)、司隷校尉鍾繇が張魯征討の軍を起こしていると聞き、その矛先が自分たちに向けられることを恐れ、馬超・韓遂・楊秋・李堪らとともに挙兵した。しかし諸将の間で不和が生じ、曹操軍に前後から挟撃されたため大敗、成宜は李堪らとともに斬られた《武帝紀・馬超伝》。献帝は「馬超・成宜が結託して黄河・潼関を占拠したとき、これを渭南で滅ぼしたのは君の手柄である」と称えて曹操を魏公に封じた《武帝紀》。

【参照】韓遂 / 鍾繇 / 曹操 / 張魯 / 馬超 / 楊秋 / 李堪 / 劉協(献帝) / 渭南 / 魏 / 黄河 / 潼関 / 公 / 司隷校尉

成廉Cheng Lian

セイレン

(?〜198?)

呂布の将。

『後漢書』では「健将」、『三国志』では「親近将」とある。

呂布は袁紹に身を寄せたとき、袁紹とともに常山の張燕を攻撃した。張燕は精鋭一万人、騎馬数千匹を抱えていたが、呂布は成廉・魏越ら数十騎を率いて張燕陣営に突撃、それは一日に三度にも四度にも及び、みな敵将の首を取ってから帰陣した。十日余りも戦っているうちに張燕軍は打ち破られた《後漢書呂布伝》。

建安三年(一九八)九月、曹操は呂布征討の軍を催し、十月、彭城を屠った。そのまま下邳へと軍を進めてきたので、呂布は騎兵を率いて迎え撃ったが、大敗し、驍将成廉は生け捕りになった《武帝紀》。

『武帝紀』において敵将に「驍将」と価値判断を伴う呼称を用いるのは珍しい。当時においては武名を知られていたのだろう。成廉は下邳城の陥落後、呂布・陳宮らとともに斬首されたと思われる。

【参照】袁紹 / 魏越 / 曹操 / 張燕 / 呂布 / 下邳県 / 常山郡 / 彭城国

成公英Chenggong Ying

セイコウエイ

(?〜?)
漢丞相軍師
魏参涼州軍事

金城郡の人。韓遂の将《張既伝》。「成公」は複姓《張既伝集解・後漢書戴就伝集解》。

中平年間(一八四〜一八九)末期、韓遂に仕えて腹心となった。建安十九年(二一四)になって韓遂は女婿閻行らに攻撃され、仲間はみんな逃げ去ったが、成公英だけは離れようとはしなかった。韓遂は歎息して「丈夫たる者が危難に遭ったというのに身内から禍が起こるとはな。西南に行って蜀に身を寄せるしかないだろうな」と言った《張既伝》。

成公英「自分の家を棄てて他人を頼ることはありますまい」、韓遂「吾は年を取ってしまった。子(あなた)ならどうする」、成公英「曹公(曹操)は遠征することができず、夏侯淵が来るだけです。夏侯淵の軍勢では我々を追撃することも長く留まることもできません。羌族たちの中で休息を取りながら彼らが去るのを待ち、むかしの仲間を呼んで羌族を慰撫してやれば、まだなんとかなるでしょう」。韓遂に従う男女はまだ数千人いて、かねてより羌族に恩を売っていたので羌族は韓遂を保護した《張既伝》。

同二十年、夏侯淵は閻行を留めて軍勢を帰還させた。そこで韓遂は羌族数万人を糾合して閻行を攻撃しようと企てた。ところが韓遂は暗殺されてしまい、成公英は曹操に降伏した。曹操は彼に会って非常に喜び、軍師に任じて列侯に封じた。

あるとき曹操は狩猟に出かけ、成公英がお供した。三頭の鹿が目の前を通りすぎたので、曹操は成公英に射るよう命じたところ、三発放って三発とも命中し、鹿は三頭とも弦音とともに倒れた。曹操は手を叩いて「韓文約(韓遂)だけに忠節を尽くすことができて、孤(わたし)では駄目なのかね」と言うと、成公英は馬を下りて跪き、「明公(とのさま)を騙すことはできません。もし元の主人がおりましたらここには参りませんでした」と涙を流して喉を詰まらせた。曹操は彼の旧主に対する厚い気持ちを評価し、彼を敬愛するようになった《張既伝》。

年号が延康から黄初に改められたとき、黄河西岸地域で叛逆が露見した。文帝曹丕は詔勅によって成公英を涼州刺史張既の参軍に任じて隴右を平定させた。この戦役において、成公英は千余騎を率いて賊軍を挑発し、わざと負けたふりをして退却した。張既はあらかじめ置いておいた伏兵三千人を立たせて賊軍の退路を断ち、前後から挟み撃ちにして大破し、斬首と生け捕りは一万人以上に上った《張既伝》。

のちに成公英は病没した《張既伝》。成公英の事跡は『魏略』「純固伝」に王脩・文聘らとともに立伝されている《王脩伝》。

【参照】閻行 / 王脩 / 夏侯淵 / 韓遂 / 曹操 / 曹丕(文帝) / 張既 / 文聘 / 金城郡 / 黄河 / 蜀 / 涼州 / 隴右 / 軍師 / 参軍 / 刺史 / 列侯 / 魏略 / 羌族

斉周Qi Zhou

セイシュウ
(セイシウ)

(?〜?)
漢大司馬従事

漁陽の人。劉虞の従事。

初平四年(一九三)十月、大司馬劉虞が公孫瓚に殺された《後漢書献帝紀》。従事である鮮于輔・斉周、騎都尉の鮮于銀らは幽州兵を糾合して公孫瓚に報復しようとした。燕国の閻柔がかねてより恩愛信義の持ち主であったので、鮮于輔らはこれを擁立して烏丸司馬にした。閻柔は漢人・胡人合わせて数万人を招致し、潞県の北方において公孫瓚の任命した漁陽太守鄒丹と戦い、これを大破、鄒丹以下、四千人余りの首級を挙げた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

【参照】閻柔 / 公孫瓚 / 鄒丹 / 鮮于銀 / 鮮于輔 / 劉虞 / 燕国 / 漁陽郡 / 幽州 / 潞県 / 騎都尉 / 護烏桓司馬(烏丸司馬) / 従事 / 大司馬 / 太守

薛瑩Xue Ying

セツエイ

(?〜282)
呉光禄勲
晋散騎常侍

字は道言。沛国竹邑の人。薛綜の子、薛珝の弟、薛兼の父《薛綜伝》。

はじめ薛綜は秘府中書郎となり《薛綜伝》、孫亮の時代、韋曜・周昭・華覈とともに『呉書』の編纂を命じられた《歩騭・韋曜伝》。孫休が即位すると、虞汜・賀邵・王蕃とともに散騎常侍となり、ともに駙馬都尉の官職を付加された。当時の人々は清廉さを評価した《薛綜・虞翻・王蕃伝》。就任から数年後、薛綜は病気のため退官した《薛綜伝》。

孫晧時代の初期に左執法となり、選曹尚書に昇進、太子が立てられると少傅を兼務した《薛綜伝》。建衡元年(二六九)、左丞相陸凱は危篤になると、「何定や奚煕を任用してはなりません。姚信・楼玄・賀邵・張悌・郭逴・薛瑩・滕脩・陸喜・陸抗は、忠義清潔であり、英才優秀であり、国家のよき輔佐役でありますので、彼らの忠勤をお引きたてくださいますよう」と遺言した《陸凱伝》。

同三年、孫晧は薛綜の残した文章に感銘し、薛瑩にその続きを書かせた。薛瑩は詩を献上した。「臣の祖先は漢朝に仕えましたが、父薛綜は乱世に遭遇し、天啓に従って東南に至り、大皇帝・文皇帝・聖嗣君のご恩を蒙りました。兄薛珝はご命令を受けて南征に赴きました。臣は暗愚でありますが、命がけでご恩に報いる所存です。」《薛綜伝》

同年、何定の建議により聖渓を開鑿して長江・淮水につなげることになり、孫晧は一万人を率いて実施せよと薛瑩に命じた。しかし岩石の多さのため完成は難しく、罷免されて戻ると、武昌左部督への出向を命じられた《薛綜伝》。翌鳳凰元年(二七二)に何定が誅殺されたとき、孫晧は聖渓の一件を混ぜかえして薛瑩を投獄、広州に強制移住させた《薛綜伝》。

都護陸抗の上表にいわく「俊傑は国家の宝です。薛瑩は父祖の功徳を受けつぎ、よき行いに励んでおりました。このたびの罪状からしても許されるべきです。担当者が事件をよく明らかにできぬまま処刑が行われ、民衆の希望を失うことが心配です。なにとぞ薛瑩の罪を許されますよう。」《陸遜伝》

右国史華覈の上表にいわく「少帝の御代、韋曜・周昭・薛瑩・梁広および臣の五人が史書の編纂を命ぜられましたが、周昭・梁広は亡くなり、韋曜は罪を犯し、薛瑩は武将に出向したうえ過失を犯して強制移住となり、書物の編纂は滞っております。薛瑩は博学にして文章は絶妙、同僚のなかでも筆頭格です。現在の官僚のうち薛瑩に匹敵する者はほとんどおりません。国家のため残念に思われるのです。」薛瑩は召し返された《薛綜伝》。

『薛綜伝』では、華覈らの上表の直後に左国史になったように書かれているが、『晋書』王渾伝によると、薛瑩は翌年、武将として王渾と交戦しており、このときはまだ武昌左部督に復帰しただけで、左国史への任命はそれ以降のことだろう。

翌二年秋七月、薛瑩と夏口督魯淑は十万人と称する大軍を率い、魯淑は弋陽、薛瑩は新息に向かって進軍した。晋の王渾はわずか一旅団を率いて淮水を渡り、敵軍の不意を突いた。薛瑩らは晋軍の到来を警戒していなかったため、王渾により撃破された《晋書王渾伝》。

薛瑩は左国史となった《薛綜伝》。しばらくして、同郡出身の選曹尚書繆禕が自説に固執したため、くだらぬ連中の恨みを買い、衡陽太守に左遷された。繆禕が薛瑩のもとに立ちよったことを、「繆禕は反省の色なく、賓客どもを連れて薛瑩のもとに集まった」と言上する者があり、繆禕は投獄されて桂陽への強制移住となり、薛瑩も広州に戻された。ただ、広州に到着する前に、薛瑩は召し返されて復職した《薛綜伝》。

当時、司法業務は間違いが多く、手続きも煩雑であった。薛瑩はいつも便宜を考慮し、刑罰懲役をゆるめて百姓たちを庇護すべきと述べ、そうした提案が認められることもあった《薛綜伝》。薛瑩は光禄勲に昇進する《薛綜伝》。

天紀四年(二八〇)、晋軍が攻めよせたとき、薛瑩は中書令胡沖らとともに降伏を勧めた。孫晧は書状を送って司馬伷・王渾・王濬に降伏を願いでたが、その文章は薛瑩が作ったものである《孫晧・薛綜伝》。薛瑩が洛陽に到着すると、真っ先に任官をえる特別待遇を受け、散騎常侍となった。(任官に際して)問答は当を得ており、筋道が通っていた《薛綜伝》。

武帝司馬炎はくつろいでいるとき薛瑩に訊ねた。「孫晧が滅亡したのはなぜだろうか?」薛瑩は答えた。「帰命侯が呉の君主であったとき、小人を近付け、刑罰はでたらめに行われ、大臣や大将は信任されませんでした。人々は憂い、恐れ、平常心を保つことすらできない有様。滅亡の兆候はそこから生じたのです。」司馬炎が、呉の人物それぞれの優劣について訊ねると、薛瑩はおのおの具体的に答えた《薛綜伝》。

太康三年(二八二)に卒去した。著書は八篇あり、書名を『新議』という《薛綜伝》。

【参照】韋曜 / 王渾 / 王濬 / 王蕃 / 何定 / 華覈 / 賀邵 / 郭逴 / 繆禕 / 虞汜 / 奚煕 / 胡沖 / 司馬炎 / 司馬伷 / 周昭 / 薛珝 / 薛兼 / 薛綜 / 孫権(大皇帝) / 孫晧(聖嗣君・帰命侯) / 孫亮(少帝) / 孫和(文皇帝) / 張悌 / 滕脩 / 姚信 / 陸凱 / 陸喜 / 陸抗 / 梁広 / 魯淑 / 楼玄 / 夏口 / 漢 / 桂陽郡 / 呉 / 広州 / 衡陽郡 / 晋 / 新息侯国 / 聖渓 / 竹邑県 / 長江 / 沛国 / 武昌県 / 弋陽侯国 / 洛陽県 / 淮水 / 右国史 / 光禄勲 / 左国史 / 左執法 / 左丞相 / 左部督 / 散騎常侍 / 選曹尚書 / 太子少傅 / 太守 / 中書令 / 督 / 都護 / 秘府中書郎 / 駙馬都尉 / 呉書 / 新議 / 領(兼務)

薛夏Xue Xia

セッカ

(?〜?)
魏秘書丞

字は宣声。天水の人《王朗伝》。

正しくは「漢陽の人」。漢陽郡が天水郡と改称されたのは建安年間の末期のこと《王朗伝集解》。

薛夏の母は、彼を身ごもったとき、ある人から「ご夫人はきっと賢明なお子さんを産み、帝王の尊敬を得られるだろう」と言われ、箱入りの着物を贈られる夢を見た。母はその夢を見た日付を記録しておいた。薛夏は博学絶倫、弱冠にして才覚弁舌が人並み外れていた《王朗伝集解》。

天水では古くから姜・閻・任・趙の四姓がいつも郡内で幅を利かせていたが、薛夏が貧しい家柄でありながら屈服しなかったため、四姓は結託し、(役人に手を回して)彼を逮捕しようとした。薛夏は東方へ逃れて京師に赴いた。太祖(曹操)はかねてより彼の名声を聞いていたので、たいそう手厚く待遇した《王朗伝》。

のちに四姓は薛夏を取りもどすべく、囚人を使者として潁川郡に手配書を送り、逮捕投獄させた。このとき太祖は冀州にいたのであるが、薛夏が本郡に身柄を拘束されたと聞き、手を打ちながら「薛夏に罪はない。漢陽の小僧どもが殺したがっているだけだ」と言い、潁川郡に命じて彼を出獄させ、召し寄せて軍謀掾に任命した《王朗伝》。

文帝(曹丕)もまた彼の才能に惚れ込み、黄初年間(二二〇〜二二七)、秘書丞に取り立てた。帝はいつも書伝について薛夏と議論し、そのまま日暮れを迎えないことはなく、彼を呼ぶときも呼び捨てにはせず、いつも「薛君」と呼んでいた。薛夏は大変に貧しく、帝は、彼の着物がすり切れているのを見て、身に着けていた上着を脱いで彼に賜った《王朗伝》。これはかつて母が夢見たのと同じ日であった《王朗伝集解》。

文帝は彼と一日中議論しても飽きず、応対は流れるごとく、言いよどむことはなかった。帝は「むかし公孫龍は弁舌巧みであるが嘘偽りが多いと批評されたが、いま子(あなた)の論説は聖人の言葉でなければ語らず、子游・子夏といった人たちさえ及ばない。もし仲尼(孔子)がこの魏にいらっしゃったら、子を入室(弟子入り)させていただろう」と言った。帝が直筆の書状を薛夏に送るとき、宛名は「入室生」とされていた《王朗伝集解》。

その後、征東将軍曹休が参内した。帝はちょうど薛夏の意見を訊いているところだったが、曹休の到着が報告されると、彼を引き入れて席に着かせた。帝は薛夏の方へ目をやりながら「この方は秘書丞である天水の薛宣声である。一緒に語り合うのがよかろう」と曹休に告げた。その待遇ぶりはこれほどのものであった。少しして登用するつもりであったが、折悪しく文帝は崩御した《王朗伝》。

太和年間(二二七〜二三三)、公務のため蘭台を訪問することになったが、蘭台では秘書が署であるのに対し、自分たちが台であることを自負し、「薛夏の訪問は受け入れられない。強行すれば逮捕者が出るだろう」と主張した。薛夏がこれに対して「蘭台を外台とすれば、秘書は内閣だ。台と閣は一体なのであるから、どうして往来できないことなどがあろう」と言うと、蘭台は言葉に詰まり、言い負かすことができなかった。以後、それが通例になった《王朗伝》。

それから数年後、病気のため亡くなった。遺体を天水に帰さぬようにと息子に遺言している《王朗伝》。

【参照】閻氏 / 姜氏 / 公孫龍 / 孔子 / 子夏 / 子游 / 任氏 / 曹休 / 曹操 / 曹丕 / 趙氏 / 潁川郡 / 漢陽郡天水郡) / 魏 / 冀州 / 許県(京師) / 軍謀掾 / 征東将軍 / 秘書丞 / 外台 / 御史台(蘭台) / 内閣

薛珝Xue Xu

セック

(?〜271)
呉威南将軍・大都督

薛綜の子、薛瑩の兄。

孫休の時代、薛珝は五官中郎将となり、馬を買い求めるため蜀への使者となった。帰国すると、孫休が蜀の統治ぶりについて訊ねた。薛珝は答えた。「主君は暗愚にして己の過ちを知らず、臣下は保身に汲々として罪を逃れんとし、かの地の朝廷に参内いたすも正論は聞かれず、かの地の村野を経過いたすも民衆は色を失っております。軒先に住まう燕の親子が自分たちの安全を楽しんでおるところ、突然に棟木が燃えはじめても、燕は心浮かれたまま災難の到来に気付かない、という話を聞きました。まさにこのことではないでしょうか!」《薛綜伝》

宝鼎二年(二六七)七月、孫晧は守将作大匠薛珝に寝殿の建設を命じ、これを清廟と名付けた。

晋の南中監軍霍弋が交趾太守楊稷・将軍毛炅・九真太守董元らを派遣し、蜀から交趾へ侵入させ、呉の大都督脩則・交州刺史劉俊を斬った。そこで建衡元年(二六九)十一月、薛珝は威南将軍・大都督に任命され、監軍虞汜・蒼梧太守陶璜とともに分水において楊稷を防ぐこととなった《孫晧伝・晋書陶璜伝》。

節を杖つきながら南征に向かった薛珝の陣容ははなはだ立派であったので、下級役人の吾彦を歎息させている《晋書吾彦伝》。

陶璜が敗北して二人の将軍を失うと、薛珝は腹を立てて「おまえは賊徒を討伐すると上表しながら二人も将軍を失った。だれの責任であろうか?」と言った。陶璜が「部下が作戦意図を理解できず、諸将が命令を守らなかったから負けたのです」と言い訳したので、薛珝はますます怒って撤退しようとした。陶璜は董元に夜襲をかけて財宝を奪いとってきたので、薛珝はようやく陳謝して、陶璜に交州を宰領させた《晋書陶璜伝》。

その後も陶璜らの働きがあって、ついに交趾の攻略に成功した《晋書陶璜伝》。ところが、薛珝は、交趾征圧から帰還する途中、病気にかかり亡くなった《薛綜伝》。

【参照】霍弋 / 虞汜 / 吾彦 / 脩則 / 薛瑩 / 薛綜 / 孫休 / 陶璜 / 董元 / 毛炅 / 楊稷 / 劉俊 / 劉禅(蜀の主君) / 九真郡 / 呉 / 交趾郡 / 交州 / 蜀 / 晋 / 清廟 / 蒼梧郡 / 南中 / 分水 / 威南将軍 / 監軍 / 五官中郎将 / 刺史 / 将軍 / 将作大匠 / 太守 / 大都督 / 守 / 節

薛悌Xue Ti

セッテイ

(?〜?)
魏尚書令・関内侯

字は孝威。東郡の人《陳矯伝》。

もともと身分の低い家柄であったが《梁習伝》、兗州牧曹操に仕えて従事に抜擢された。曹操が徐州に出征したとき呂布が兗州に入り、諸城が彼に呼応したが、薛悌は程昱と協力して鄄城・范・東阿の三県を守り抜いた《程昱伝》。その功績を買われたのであろうか、薛悌は二十二歳で泰山太守に栄転する《陳矯伝》。

身分が低いながらも二十二歳の若さで太守に任命されたのには、もともと東郡太守であった曹操が兗州牧を自称するにあたり、郡内から登用した子飼いの官吏によって州内を制圧したい考えがあったと思われる。ちょうど泰山太守応劭が曹操の父曹嵩を見殺しにして出奔し、間もない頃であった。

郡民の高堂隆を督郵に任命したが、あるとき論争に際して督軍従事が薛悌の実名を呼び捨てにしたので、高堂隆が「臣下の目前で主君の名を呼ぶなら討果さずにいられぬ!」と剣に手をかけた。薛悌は驚いて立ち上がり彼を制止した《高堂隆伝》。

また広陵郡の功曹陳矯が使者の任務を受けた際、その道中で泰山に立ち寄った。薛悌は陳矯の非凡さを見抜き、官位の差も気にせず親友として付き合った。そこで冗談を言った。「郡の役人が二千石(太守)と交わり、隣国の君主が陪臣に屈服する。それもまた結構なことじゃないか!」《陳矯伝》

曹操は冀州を平定すると、薛悌を王国とともに左右の長史に任じた《陳矯伝》。のちに中領軍になったが、二人はともに忠節さと職務への熟練によって当時の役人たちの模範であった《陳矯伝》。

護軍として張遼・楽進・李典らの軍勢七千人の目付役を務め、合肥に駐屯した。曹操は張魯征討に当たって薛悌に命令書を納めた箱を残しておいた。建安二十年(二一五)、孫権軍が来襲したので箱を開けると「張・李が出撃し、楽は護軍を守れ」と書いてあった。張遼が当惑する諸将を一喝し、李典とともに孫権軍と戦って敗走させた《張遼・李典伝》。また陳矯の後任として魏郡太守になった《陳矯伝》。

薛悌が中領軍、魏郡太守に任命された時期ははっきり記録されていない。前任者の陳矯は魏郡西部都尉を経て魏郡太守になったとあるが、西部都尉が創設されたのは建安十八年のことなので、陳矯の太守就任はそれ以降である。そして曹操が東征したとき丞相長史に移り、軍が帰還すると魏郡太守に復したが、二十三年七月に二度目の漢中征討に従軍したときは西曹属であったという。薛悌の太守就任は曹操の東征以後ということになるが、東征は十九年と二十一年の二回行われた。薛悌が合肥に着任したのは張遼らと同じく初回の東征で曹操に随行したものと推測され、また合肥を去ったのも二十二年三月に曹操が二度目の東征から撤退すると同時であった可能性が高く、その間、彼は魏郡太守を務めることができない。とすれば薛悌の太守就任は二十二年三月から二十三年七月にかけてのことではないだろうか。一方、中領軍の任官時期については手がかりが少なく、よく分からない。建安十四年に中領軍であった史渙が亡くなり、同二十四年五月から十月にかけて曹休が補任されている。なお十八年五月の時点で曹洪が中護軍、韓浩が中領軍であったというが、これはおそらく曹洪が都護将軍、韓浩が中護軍の誤りだろう。

薛悌は儒者の道を実践し、任地では簡明さを心がけた。文帝曹丕が即位したのち「薛悌はまだらな官吏、王思・郤嘉は純粋な官吏である。それぞれ関内侯の爵位を授ける」との詔勅が下った《梁習伝》。明帝曹叡の景初元年(二三七)五月、陳矯に代わって尚書令に昇進した《陳矯伝》。

ここでいう「まだら」とは、王思らが厳格な法の適用によって不正を取り除いたのに対し、儒教的な寛容さによって清濁併せ呑んだという意味らしい。

【参照】王国 / 王思 / 楽進 / 郤嘉 / 高堂隆 / 曹叡 / 曹操 / 曹丕 / 孫権 / 張遼 / 張魯 / 陳矯 / 程昱 / 李典 / 呂布 / 兗州 / 合肥侯国 / 冀州 / 魏郡 / 鄄城県 / 広陵郡 / 徐州 / 泰山郡 / 東阿県 / 東郡 / 范県 / 関内侯 / 功曹従事 / 護軍 / 従事 / 尚書令 / 太守 / 中領軍 / 長史 / 督軍従事 / 督郵 / 牧 / 二千石

薛蘭Xue Lan

セツラン

(?〜195)
漢兗州別駕従事

興平元年(一九四)、陳宮・張邈が曹操に叛逆して、呂布を兗州牧に迎えたとき別駕従事に任じられた。薛蘭は治中従事李封とともに、乗氏に勢力を構えていた李乾を仲間に誘ったが、拒絶されたため彼を殺害した《武帝紀・呂布伝・李典伝》。

翌二年春、曹操が定陶城を包囲すると、薛蘭・李封は鉅野に駐屯した。李乾の子李整が曹操の諸将とともに鉅野に押し寄せると、呂布の援軍を得たものの敗北し、李封とともに斬首された《武帝紀・李典伝》。

【参照】曹操 / 張邈 / 陳宮 / 李乾 / 李整 / 李封 / 呂布 / 兗州 / 鉅野県 / 乗氏県 / 定陶県 / 治中従事 / 別駕従事 / 牧

薛礼Xue Li

セツレイ

(?〜195?)
漢彭城相

彭城国の相。

薛礼は彭城国の相であったが、徐州刺史陶謙の圧迫を受けたため、秣陵に本拠を構えた《劉繇伝》。同県の南には下邳の相である笮融が駐屯しており、ともに劉繇を盟主と仰ぐこととした《討逆伝》。

興平二年(一九五)、孫策が長江をわたって牛渚の劉繇陣営を破り、それから笮融に攻撃をかけた。笮融は軍勢を繰りだして戦ったが、斬首五百人あまりを出す敗北となり、すぐさま陣門を閉ざして動きをひそめた。そこで孫策は薛礼を攻撃してきた。薛礼は(秣陵城から)脱出して逃れ、樊能・于麋らと合流して牛渚の屯所を奪取した。孫策はそれを聞くや、取ってかえして樊能らを撃破、男女一万人あまりを手に入れた《討逆・呉夫人・周瑜伝》。

孫策はすでに長江をわたって南岸の牛渚や笮融の屯所を破っており、薛礼の拠った秣陵城も南岸にある。よって『討逆伝』『周瑜伝』に笮融を破ったあと「長江をわたって薛礼を攻撃した」とあるのは誤りである。

その後、薛礼は笮融に殺害された《劉繇伝》。

【参照】于麋 / 笮融 / 孫策 / 陶謙 / 樊能 / 劉繇 / 下邳国 / 牛渚 / 徐州 / 長江 / 彭城国 / 秣陵県 / 刺史 / 相

鮮于銀Xianyu Yin

センウギン

(?〜?)
漢騎都尉

劉虞の従事、のち騎都尉。漁陽の人だろうか。

初平二年(一九一)、大司馬劉虞は朝廷への忠誠を示すため、掾の田疇、従事の鮮于銀を使者に立て、抜け道から長安へ参詣させた《後漢書劉虞伝》。田疇らは西関へ向かって塞(万里長城)を出て、北山沿いに朔方まで行き、そこから長安を目指した。天子の返書を賜って幽州へ帰ったとき、劉虞は同四年十月、すでに公孫瓚の手にかかり殺されていた《田疇伝》。

ここでは明記されていないが、おそらく鮮于銀も同道したことだろう。彼が騎都尉に任じられたのもこのときのことと見られる。田疇は騎都尉への任命を辞退しており、鮮于銀が代わって受任したのである。

従事鮮于輔・斉周、騎都尉鮮于銀らはともに幽州兵を糾合して公孫瓚に報復しようとした。燕国の閻柔を擁立して烏丸司馬とし、漢人・胡人合わせて数万人でもって漁陽太守鄒丹を大破、これを斬った《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

【参照】閻柔 / 公孫瓚 / 鄒丹 / 斉周 / 鮮于輔 / 田疇 / 劉協(天子) / 劉虞 / 陰山(北山) / 燕国 / 居庸関(西関) / 漁陽郡 / 朔方郡 / 長安県 / 幽州 / 護烏桓司馬(烏丸司馬) / 掾 / 騎都尉 / 従事 / 大司馬 / 太守 / 塞

鮮于丹Xianyu Dan

センウタン

(?〜?)

孫権の将。

建安十九年(二一四)、劉備が益州を平定したので、孫権は荊州諸郡の分割を求めたが、劉備は言い逃れをするばかりで割譲に応じなかった。そこで孫権は、鮮于丹を徐忠・孫規らとともに呂蒙に付け、呂蒙には軍勢二万人を監督させて長沙・零陵・桂陽の三郡を奪取させた《呉主伝》。

黄武元年(二二二)、蜀の劉備が大軍を率いて西方の境界線を越えてくると、孫権は陸遜を大都督・仮節とし、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら五万人を監督させて防がせた《陸遜伝》。

もともと晋宗というのは戯口の守将であったのだが、魏に寝返って蘄春太守となり、安楽を襲って自分の出した人質を取り戻そうと企てていた。孫権はそれに腹を立て、二年六月の夏の盛り、賀斉に麋芳・劉邵・鮮于丹らを監督させ、その不意を突いて胡綜とともに蘄春を襲撃、晋宗を生け捕りにした《呉主・賀斉・胡綜伝》。

同五年に孫権が石陽を攻撃したとき、孫奐はその地の主(太守)であったので、配下の将軍鮮于丹の軍勢五千人に命じてあらかじめ淮水(?)への道を遮断させておき、自身では呉碩・張梁五千人を先鋒として高城を陥落させ、敵将三人を捕らえた《宗室伝》。

【参照】賀斉 / 韓当 / 胡綜 / 呉碩 / 朱然 / 徐忠 / 晋宗 / 宋謙 / 孫奐 / 孫桓 / 孫規 / 孫権 / 張梁 / 潘璋 / 麋芳 / 陸遜 / 劉邵 / 劉備 / 呂蒙 / 安楽 / 益州 / 魏 / 戯口 / 蘄春郡 / 荊州 / 桂陽郡 / 呉 / 高城県 / 蜀 / 石陽県 / 長沙郡 / 零陵郡 / 淮水 / 仮節 / 太守 / 大都督 /

鮮于輔Xianyu Fu

センウホ

(?〜?)
魏輔国将軍・督幽州・特進・南昌侯

漁陽の人。劉虞の従事。

初平四年(一九三)十月、大司馬劉虞が公孫瓚に殺された《後漢書献帝紀》。従事である鮮于輔・斉周、騎都尉の鮮于銀らは幽州兵を糾合して公孫瓚に報復しようとした。燕国の閻柔がかねてより恩愛信義の持ち主であったので、鮮于輔らはこれを擁立して烏丸司馬にした。閻柔は漢人・胡人合わせて数万人を招致し、潞県の北方において公孫瓚の任命した漁陽太守鄒丹と戦い、これを大破、鄒丹以下、四千人余りの首級を挙げた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

烏丸の蘇僕延は劉虞の恩徳に心服していたので、烏丸族および鮮卑族の七千騎余りを率い、鮮于輔とともに南進して劉虞の子劉和を迎え入れ、袁紹の将麴義と合流し、合計十万人の軍勢が一斉に公孫瓚を攻撃した。興平二年(一九五)、公孫瓚は鮑丘で大敗して易京に引き籠もった《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

公孫瓚が敗死したのち、鮮于輔は国人に推戴されて太守の職務を代行することになり、日ごろ親しかった田予を長史に任じた。田予が「最終的に天下を平定できるのは曹氏に違いありません。速やかに帰順し、災禍に遭われることのございませんように」と勧めたので、鮮于輔はその計略を聞き入れた《田予伝》。鮮于輔は配下の軍勢を率いて曹操に帰服し、建忠将軍に任じられて都亭侯に封ぜられ、幽州六郡の督となった。閻柔もまた護烏桓校尉に任じられ、関内侯に封ぜられた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

胡三省は鮮于輔が漁陽太守鄒丹を斬ってその後任になっていたと推測する《公孫瓚伝集解》。鮮于輔は曹操に帰服した時点で度遼将軍に任じられたともあるが《後漢書公孫瓚伝》、おそらく誤りだろう。

鮮于輔はみずから曹操のもとへ参詣し、官渡の戦いに従軍した。曹操は袁紹軍の潰走を喜び、鮮于輔の方を振り向きながら「先年、本初(袁紹)が公孫瓚の首を送ってきたとき、孤(わたし)は呆然としてしまったものだ。こたびの勝利は天意のみならず、諸君の尽力の賜物なのだ」と言った《公孫瓚伝》。鮮于輔は右度遼将軍を拝命して亭侯に封ぜられ、帰還して本国を鎮撫せよと命じられた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

『三国志』左度遼将軍・亭侯、『後漢書』では度遼将軍・都亭侯、『通鑑』では右度遼将軍とする。胡三省は本来の赴任地である西河郡ではなく、幽州に駐屯したから右度遼将軍なのだと説明する《集解》。これに従う。封地は昌郷亭だろうか。また、鮮于輔が曹操のもとへ参詣して将軍の任命を受けたとの記述は二ヶ所あるが《公孫瓚伝》、両者の時期はあまりに近く、そのうち後者を烏丸征討に従軍する以前のこととするのは史書の誤りなのかも知れない。

建安十年(二〇五)夏四月、三郡の烏丸が獷平において鮮于輔を攻撃した。八月、曹操がこれを征討し、鮮于輔・閻柔もまた手勢を率いて従軍すると、烏丸らは塞(万里長城)の彼方へと逃走した《武帝紀・公孫瓚伝》。

十八年五月、天子は曹操を魏公に封じようとしたが、曹操は三たび辞退した。鮮于輔は中軍師荀攸らとともに拝受するようにと勧めた。このとき鮮于輔は度遼将軍・昌郷亭侯である《武帝紀・同集解》。

『武帝紀』には建忠将軍・昌郷亭侯とあり、『集解』は「魏公卿上尊号奏碑」に従って虎牙将軍・南昌亭侯にすべきというが《公孫瓚伝集解》、曹操が魏公になったあとも鮮于輔は度遼将軍として見えており《徐邈伝》、また「魏公卿上尊号奏碑」は延康年間の官爵を示したものであって、両説いずれも誤りであろうと思われる。ここでは爵位を『武帝紀』に従い、将軍号は以前のまま度遼将軍であったと見なす。

尚書郎の徐邈は禁酒令を破って泥酔し、「聖人にぶつかった」と発言したため、曹操はひどく腹を立てた。度遼将軍鮮于輔が進みでて「酒呑みどもは日ごろ清酒を聖人、濁酒を賢人と呼んでおります。徐邈はもともと慎み深い性格なのですが、酔っぱらって失言してしまっただけでしょう」と取りなしたので、違法と判断されたものの処罰は免れた《徐邈伝》。

延康元年(二二〇)十一月、虎牙将軍・南昌亭侯であった鮮于輔を含む四十六人は、魏王曹丕に漢朝からの禅譲を拝受して帝位に登るように勧めた《文帝紀・同集解》。曹丕はこれを受けて践祚し、鮮于輔・閻柔はともに爵位を県侯に勧められ、特進の位を賜った《公孫瓚伝》。鮮于輔は詔勅を奉じて蜀へ下向し、三つの好条件を示して劉備に帰服せよと伝えたが、劉備は聞き入れなかった《後主伝》。

黄初五年(二二四)、鮮卑族の軻比能と素利・歩度根とは仲が悪かったが、護烏桓校尉田予は素利を支援して軻比能を攻撃したので、軻比能は輔国将軍鮮于輔に手紙を送り、「歩度根らは我(わたし)の弟を殺したくせに、我が略奪を働いたと誣告します。将軍よ、どうか天子に対して我のことを保証してくだされ」と訴えた。鮮于輔が手紙を受け取ってそれを報告すると、帝は田予に(彼らを)招かせて慰撫することにした《鮮卑伝》。

【参照】袁紹 / 閻柔 / 軻比能 / 麴義 / 公孫瓚 / 荀攸 / 徐邈 / 鄒丹 / 斉周 / 鮮于銀 / 素利 / 蘇僕延 / 曹操 / 曹丕 / 田予 / 歩度根 / 劉協(天子) / 劉虞 / 劉備 / 劉和 / 易京 / 燕国 / 漢 / 官渡 / 魏 / 獷平県 / 漁陽郡 / 塞 / 昌郷亭 / 蜀 / 南昌県? / 南昌亭 / 鮑丘 / 幽州 / 潞県 / 右度遼将軍 / 王 / 関内侯 / 騎都尉 / 建忠将軍 / 公 / 護烏桓校尉 / 護烏桓司馬(烏丸司馬) / 従事 / 尚書郎 / 大司馬 / 太守 / 中軍師 / 長史 / 亭侯 / 督 / 特進 / 都亭侯 / 輔国将軍 / 烏桓族 / 賢人 / 行事(職務代行) / 聖人 / 鮮卑族

単経Shan Jing

ゼンケイ

(?〜?)
漢兗州刺史

公孫瓚の将帥《後漢書公孫瓚伝》。

初平二年(一九一)冬《後漢書袁紹伝》、公孫瓚は従弟公孫越が袁紹に殺されたことから、復讐の兵を挙げて界橋に進撃し、単経を兗州刺史、田楷を青州刺史、厳綱を冀州刺史に任じたが、このときは袁紹軍に大敗を喫している《公孫瓚伝》。

『後漢書』献帝紀が界橋決戦を初平三年のこととするのはおそらく誤り。単経は兗州刺史を称しているが、その狙いは東郡の黄河北岸地域(発干から頓丘まで)から鄴を圧迫することであって、この時点では黄河南岸地域を視野には入れてなかっただろうと思う。

翌三年、単経を平原、劉備を高唐、陶謙を発干に進出させたが、これらは龍湊において袁紹・曹操軍に撃退され、幽州に引き揚げた《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 厳綱 / 公孫越 / 公孫瓚 / 曹操 / 田楷 / 陶謙 / 劉備 / 兗州 / 界橋 / 冀州 / 高唐県 / 青州 / 発干県 / 平原県 / 幽州 / 龍湊 / 刺史

祖茂Zu Mao

ソボウ

(?〜?)

孫堅の親近の将。

初平二年(一九一)、祖茂は孫堅の梁城進出に随従したが、城の東方に布陣したとき董卓の大軍に包囲され、孫堅はわずか数十騎を率いて重囲を脱出した。董卓軍の騎兵が彼を追いかけて来たので、祖茂は孫堅が常用していた赤い幘(頭巾)をかぶり、敵をおびき寄せた。こうして孫堅は間道伝いに逃げ延びることができた。祖茂は敵に追い詰められると馬を下り、幘を墳墓の焼けぼっくいに引っかけ、自分は草むらのなかに身をひそめた。董卓の騎兵は赤い幘を遠くから眺め、幾重にも取り巻いたが、それが焼けぼっくいとわかると兵を退いた。

『演義』では字を大栄、呉郡富春県の人とし、このとき草むらから飛び出して敵将華雄に襲いかかったが、返り討ちに遭って殺されたことになっている。

【参照】孫堅 / 董卓 / 梁県 / 幘

祖郎Zu Lang

ソロウ
(ソラウ)

(?〜?)
漢門下賊曹

涇県の大帥《討逆伝》。丹陽郡陵陽の人《孫輔伝》。

祖郎は丹陽郡の宗教指導者であり、活動範囲は涇を中心に丹陽・宣城・陵陽・始安・黟・歙に及んでいたようである《討逆・呉景・孫輔伝》。当時、孫策は孫河・呂範とともに丹陽太守呉景に身を寄せており、兵士数百人を集めて祖郎を討伐しようとした《討逆・呉景伝》。祖郎は先手を打って孫策を襲撃包囲し、孫策の馬の鞍に斬りつけ、孫策は危うく死ぬところであったが《討逆・孫輔伝》、程普がただ一騎で孫策をかばい、馬を走らせて怒号し、矛で賊徒を突き殺した。祖郎の手勢がひるんで道を空けたので、孫策はようやく脱出することができた《程普伝》。かくて祖郎は敗走する《呉景伝》。

建安二年(一九七)、袁術は帝号を僭称した。孫策が江東を平定して袁術の従弟袁胤を追放し、孫輔を歴陽に配置して袁術を防がせたので、袁術は深く孫策を恨みに思い、密かに間者を送って祖郎らに印綬を授け、山越を煽動して軍勢を糾合し、それによって孫策を攻撃させようとした《孫輔伝》。行呉郡太守・安東将軍陳瑀もまた孫策襲撃を企てており、都尉万演らを派遣して祖郎らに印綬を送り、孫策が出陣したところで諸郡を奪取する計画だった《討逆伝》。

孫策は自ら将兵を率い、孫輔・呂範らとともに陵陽に赴いて祖郎を討伐し《孫輔・呂範伝》、祖郎を生け捕りにした。孫策は言った。「お前はむかし孤(わたし)を襲撃して我が馬の鞍を切ったことがあるが、今は挙兵して事業を始めているところだから、宿怨を忘れ、能力だけを取り上げて天下(の希望)に通じたいと思うのだ。お前だけではないのだから恐怖することはないぞ」。祖郎は頭を打ち付けて謝罪した。孫策はその場で祖郎の手枷をぶち壊し、衣服を与えて門下賊曹に任命した。軍勢が帰還するときには、祖郎と太史慈がそろって軍の先導役となり、人々は栄誉なことだと言い合った《孫輔伝》。

【参照】袁胤 / 袁術 / 呉景 / 孫河 / 孫策 / 孫輔 / 太史慈 / 陳瑀 / 程普 / 万演 / 呂範 / 黟県 / 涇県 / 江東 / 呉郡 / 始安県 / 歙県 / 宣城県 / 丹楊県(丹陽) / 丹楊郡(丹陽) / 陵陽県 / 歴陽侯国 / 安東将軍 / 太守 / 都尉 / 門下賊曹 / 印綬 / 行 / 山越 / 宗帥(宗教指導者) / 大帥

蘇固Su Gu

ソコ

(?〜188?)
漢漢中太守

扶風の人《華陽国志》。

中平五年(一八八)六月に益州入りした州牧劉焉は《後漢書霊帝紀》、張魯を督義司馬に任じ、その部下の別部司馬張脩とともに漢中を攻撃させた《後漢書劉焉伝・華陽国志》。漢中太守蘇固は、門下掾陳調が防衛作戦を進言したのを斥け、張脩軍がやってくると遁走して、南鄭の趙嵩のもとに身を投じた《華陽国志》。

趙嵩は蘇固を連れて逃亡したが、賊徒の勢力はますます盛んになっていった。蘇固は身を隠す場所を趙嵩に探させたが、趙嵩が帰ってこなかったので、さらに家僕に命じて賊徒の様子を探らせた。張脩の手兵が家僕を生け捕りにし(太守の居場所を白状させ)たので、ついに蘇固は殺害された《華陽国志》。趙嵩・陳調も戦死した《華陽国志》。

【参照】張脩 / 張魯 / 趙嵩 / 陳調 / 劉焉 / 益州 / 漢中郡 / 南鄭県 / 扶風郡 / 太守 / 督義司馬 / 別部司馬 / 牧 / 門下掾 / 鈐下(家僕)

蘇非Su Fei

ソヒ

(?〜?)

関羽の将。

曹操の将楽進は襄陽に駐屯していたが、蘇非は関羽らとともにその攻撃を受けて敗走した《楽進伝》。

「非」と「飛」は同音同義であり、また活動期間や地域も近い。甘寧に救われた蘇飛と同人なのかも知れない。おそらく孫権は夏口を陥落させたあと同地を放棄、蘇飛はその後に入ってきた江夏太守劉琦の指揮下に入り、関羽に助勢していたのではないかと思う。

【参照】楽進 / 関羽 / 曹操 / 襄陽郡

蘇飛Su Fei

ソヒ

(?〜?)

黄祖の都督。

蘇飛は夏口に駐屯していた黄祖の元で都督を務めていた。あるとき巴郡の甘寧という者が食客八百人を引き連れて黄祖に身を寄せてきたが、黄祖は三年もの間、彼を礼遇できないでいた。呉の孫権の攻撃を受けて黄祖軍が敗走したとき、黄祖が厳しい追撃から逃げ延びることができたのも、甘寧が敵の校尉淩操を射殺したおかげだったが、それでも甘寧に対する待遇は以前と変わらなかった《甘寧伝》。

蘇飛はたびたび甘寧を推薦していたが、黄祖は任用しないどころか、人をやって甘寧の食客を手懐けたので、食客たちは次第に数を減らしていった。甘寧は亡命したく思ったが逮捕されまいかと心配して、一人で鬱々としてなすすべを知らなかった《甘寧伝》。

蘇飛は甘寧の気持ちを知って彼を酒宴に招き、「吾が子(あなた)を推薦したのは数回に及んだが、ご主君は任用なさらなかった。日月は過ぎ去り、人生はいくばくもない。ご自身の方から大志を立てて知己との遭遇を求められるとよかろう」と言った。甘寧はしばらくしてからようやく口を開いた。「その志はございますが、だれを頼りにすればよいのか分からないのです」。そこで蘇飛が「吾が子を邾の県長にするよう言上してやろう。それなら去就を定めるのも板の上で鞠を転がすようなものだろう」と言ったので、甘寧は「幸甚でございます」と感謝を尽くした《甘寧伝》。

黄祖は蘇飛の言上を聞き入れた。甘寧は邾県に赴任すると、寝返った食客たちを呼び返し、義勇兵を合わせて数百人を手に入れた。こうして甘寧は呉に身を寄せたのである《甘寧伝》。

孫権は黄祖を討伐するにあたって二つの箱を作り、黄祖と蘇飛の首級を収めるつもりであった。果たして、黄祖は打ち破られ、その軍勢はことごとく捕虜となった。蘇飛が人をやって我が身の危険を甘寧に知らせると、甘寧は「蘇飛から言ってこなくても忘れたりするものか」と言い、孫権が諸将らのために酒宴を開いたとき、甘寧が席を立って叩頭し、血と涙にまみれながら「もし蘇飛が逃亡を企てたなら、代わりに甘寧の首を箱に収めていただきましょう」と蘇飛の助命を歎願したので、孫権は蘇飛を赦免してやった《甘寧伝》。

【参照】甘寧 / 黄祖 / 孫権 / 淩操 / 夏口 / 呉 / 邾県 / 巴郡 / 県長 / 校尉 / 都督

蘇由Su You

ソユウ
(ソイウ)

(?〜?)

袁尚の将。

建安九年(二〇四)二月、袁尚は蘇由・審配を鄴の守備に残し、平原に遠征して袁譚を攻撃した。曹操軍が進撃してきて鄴まで五十里の洹水に着陣すると、蘇由は彼に内応しようとした。しかし計画は漏洩し、城内で審配と戦闘になった。蘇由は敗北して城を抜け出し、曹操に身を寄せた《武帝紀・袁紹伝》。

【参照】袁尚 / 袁譚 / 審配 / 曹操 / 洹水 / 鄴県 / 平原郡

蘇僕延Supuyan

ソボクエン

(?〜207)
漢遼東烏丸単于

烏丸族。遼東の大人、のち峭王を称す《後漢書烏丸伝》。「速僕丸」「速附丸」とも書かれる《武帝紀・烏丸伝》。

『三国志』烏丸伝では遼東属国の大人とするが、『後漢書』では遼東の大人とある。どちらが正しいのか分からないが、袁紹の文書に「遼東属国の率衆王頒下」という者が見えており《烏丸伝》、一郡一王であったと見て、ここでは遼東の大人とした。

蘇僕延は遼東に一千戸余りの部落を抱え、「峭王」を自称していた《烏丸伝・後漢書同伝》。

中平三年(一八六)、車騎将軍張温は辺章らを討伐するにあたり、幽州から烏丸突騎三千人を動員したが、烏丸兵はみな途中で離叛して故郷に逃げ帰った。前の中山国の相張純は、密かに前の泰山太守張挙に「いま烏丸が離叛して涼州も蜂起したが、朝廷は制圧することができない。洛陽で双頭の子供が産まれたというが、それは天下にもう一人の君主が現れる予兆だ。二人で烏丸の軍勢を率いて挙兵すれば、偉大なる事業を成し遂げることができよう」と告げた。翌四年、張純らは烏丸の大人たちと手を結んで薊の城下に攻め込み、護烏桓校尉箕稠・右北平太守劉政・遼東太守楊終らを殺した。軍勢は十万人以上に膨れあがり、肥如に屯した《後漢書劉虞伝》。

張挙は天子、張純は弥天将軍を称し、蘇僕延に歩騎五万人を率いて青州・冀州に攻め込ませた。蘇僕延は清河・平原を陥落させて官吏・人民を殺害した《後漢書劉虞伝》。

翌五年、劉虞が幽州牧として薊城に着任し、駐留軍を解散させて恩愛信義の施しを心掛けた。劉虞は蘇僕延らのもとに使者を出し、朝廷の恩寵は異民族にも及んでいることを説明し、正道に復帰する手立てを整えてやったので《後漢書劉虞伝》、蘇僕延は劉虞の恩徳に心服した《後漢書公孫瓚伝》。張挙・張純は逃亡し、食客に殺された《後漢書劉虞伝》。

初平年間(一九〇〜一九四)、遼西烏丸の丘力居が死んで従子の蹋頓がその後を継ぐと、三郡の烏丸はみな彼の命令に従うようになった《烏丸伝・後漢書同伝》。袁紹と公孫瓚が紛争を始めると、蹋頓は袁紹のもとに使者を送って連合し、袁紹の援軍として公孫瓚を攻撃、これを打ち破った。袁紹は偽の詔勅を発行して蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延らに単于の印綬を授けてやった《烏丸伝・後漢書同伝》。のちに丘力居の子楼班が成長すると、蘇僕延・難楼は配下の軍勢を率いて楼班を単于に推し立て、蹋頓を王に降格した《烏丸伝・後漢書同伝》。

初平四年(一九三)十月、劉虞が公孫瓚に殺害されると、劉虞の従事鮮于輔は閻柔を烏桓司馬に擁立し、漢族・胡族を問わず数万人をかき集めた。蘇僕延は烏桓族および鮮卑族の騎兵七千人を率い、鮮于輔とともに劉虞の子劉和を迎え入れ、袁紹の将麴義と合流して公孫瓚を攻撃、興平二年(一九五)、鮑丘にて公孫瓚を打ち破った《後漢書公孫瓚伝》。

袁紹の死後、曹操がその子袁譚を討伐したとき、柳城の烏丸が騎兵を出して袁譚を支援しようとした。曹操はかつて烏丸を仕切っていたことのある牽招を使者として柳城に派遣した。牽招が到着したとき、蘇僕延は柳城にいて武装を固め、五千騎を率いて袁譚支援のために出陣するところだった。また単于の印綬を贈るため遼東太守公孫康の使者韓忠が来ており、蘇僕延は酋長どもを集めて酒宴を開いていた《牽招伝》。

蘇僕延は牽招に告げた。「むかし袁公(袁紹)は天子の勅命によって我を単于に取り立てたと言っていたが、いま曹公(曹操)がまた天子に進言して我を本当の単于に取り立ててやろうと言う。遼東もまた印綬を持ってきた。だれが正統なのか?」牽招は「袁公は詔勅によって任命する権限を持っておりましたが、天子のご命令により曹公が交代いたしました。天子に進言して本当の単于に取り立てるというのは真実です。遼東ごとき卑しき郡がどうして任命を行えましょうか」と答えた《牽招伝》。

韓忠が「わが遼東は軍勢百万、扶余・穢貊が味方に付いている。当今の情勢をみれば強さにおいて右に並ぶ者はない。曹操だけがどうして正統だと言えるのか?」と言うので、牽招は韓忠を怒鳴りつけ、「曹公は天子を奉戴して叛逆者を討伐しておるのだ。お前らは険阻遠方を頼みにして王命に違背しているのは誅殺に相当する罪だ。それでも慢心して大人を中傷するつもりか!」と言い、すぐさま韓忠を捕まえて斬首しようとした《牽招伝》。

左右の者たちは顔色を失い、蘇僕延は驚いて牽招にしがみつき、韓忠を助けてやってくれと頼んだ。牽招は席に戻り、蘇僕延たちに利害得失を説明してやると、みな座席からすべり降りて平伏した。蘇僕延は韓忠を遼東へ帰し、騎兵たちの武装を解かせた《牽招伝》。

曹操が袁譚を斬り、その弟袁尚を打ち破ると、袁尚は蹋頓のもとに身を寄せた。建安十二年(二〇七)、曹操は直々に出馬して柳城で蹋頓と戦い、これを斬った《武帝紀・烏丸伝・後漢書同伝》。蘇僕延・楼班・烏延らは部族の者たちを見捨て、袁尚に付き従って遼東に逃走したが、遼東太守公孫康は彼らの首を斬って曹操のもとへ送り届けた《武帝紀・烏丸伝》。

【参照】烏延 / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 閻柔 / 韓忠 / 箕稠 / 麴義 / 丘力居 / 牽招 / 公孫康 / 公孫瓚 / 鮮于輔 / 曹操 / 張温 / 張挙 / 張純 / 蹋頓 / 難楼 / 辺章 / 楊終 / 劉協(天子) / 劉虞 / 劉政 / 劉和 / 楼班 / 右北平郡 / 冀州 / 薊県 / 清河国 / 青州 / 泰山郡 / 中山国 / 肥如県 / 扶余 / 平原郡 / 鮑丘 / 幽州 / 雒陽県洛陽県) / 柳城 / 涼州 / 遼西郡 / 遼東郡 / 穢貊 / 護烏桓校尉 / 護烏桓司馬(烏桓司馬) / 車騎将軍 / 従事 / 相 / 単于 / 太守 / 弥天将軍 / 牧 / 烏丸族 / 鮮卑族 / 大人 / 突騎

宋遠Song Yuan

ソウエン
(ソウヱン)

(?〜?)
蜀犍為丞

字は文奇。

建安二十四年(二一九)、犍為郡武陽の赤水において黄龍が現れ、九日してから去っていった。また県内に甘露が降った。蜀の人々は劉氏に対する瑞祥だと考え、そこで太守李厳・郡丞宋遠・武陽県令陰化は「黄龍甘露碑」を立てた《先主伝・隷続》。

【参照】陰化 / 李厳 / 犍為郡 / 蜀 / 赤水 / 武陽県 / 郡丞 / 県令 / 太守 / 甘露 / 黄龍 / 黄龍甘露碑

宋果Song Guo

ソウカ
(ソウクワ)

(?〜?)
漢幷州刺史

字は仲乙(あるいは仲文)。扶風郡の人《後漢書郭太伝》。

軽はずみで荒々しい性質で、他人のために復讐してやるのが好きだったため、郡県の人々から憎まれていた。しかし郭太から義について諭されると、ちょうど処罰を恐れていたところだったので懺悔感服し、叩頭して謝罪した。こうして行いを改めて自分を戒めるようになった。のちに激しい気性が有名となり、三公の役所から招かれて侍御史・幷州刺史となったが、彼の赴任先ではよく治まった《後漢書郭太伝》。

【参照】郭泰(郭太) / 扶風郡 / 幷州 / 三公 / 侍御史 / 刺史 / 府(役所)

宋果Song Guo

ソウカ
(ソウクワ)

(?〜?)

李傕の軍吏。

別項幷州刺史の宋果と同人のようにも思われるが、確証に欠けるため別項とした。

李傕が長安で実権を握ると、楊奉らとともに李傕暗殺を企てる。しかし計画が露見したため、兵たちを率いて李傕に叛旗を翻した。こうして李傕の権勢は衰えていったのである《董卓伝》。

【参照】楊奉 / 李傕 / 長安県

宋金生Song Jinsheng

ソウキンセイ

(?〜199?)

河内の神人。

曹操が河内獲嘉の諸陣営に攻め寄せたとき、宋金生が諸陣営に現れ、「逆茂木を守る必要はない、わしが犬を使ってお前たちの代わりに守らせよう。この言葉を聞き入れなければ、その日の夜にも軍勢の雄叫びを聞くことになり、翌日の陣中にはただ虎の足跡だけが残されておるじゃろう」と言ってまわった《太平御覧》。

諸陣営を陥落させて捕虜からその話を聞いた曹操は、すぐさま武猛都尉呂納を連れて宋金生を逮捕し、ただちに軍法を執行した《太平御覧》。

曹操がみずから河内を攻略したとして考えられるのは、初平元年から三年にかけて、あるいは建安四年四月のことである。ここでは武猛都尉を配下としているのだから建安四年のことと見るべきだろう。

【参照】曹操 / 呂納 / 獲嘉侯国 / 河内郡 / 武猛都尉 / 鹿角(逆茂木) / 神人

宋憲Song Xian

ソウケン

(?〜?)

呂布の将。

建安三年(一九八)、曹操が下邳城の呂布を包囲したとき、侯成・魏続とともに陳宮を縛りあげて曹操に投降している《武帝紀・呂布伝》。

【参照】魏続 / 侯成 / 曹操 / 陳宮 / 呂布 / 下邳県

宋謙Song Qian

ソウケン

(?〜?)

孫策・孫権の将。

孫策が劉繇と戦ったとき、宋謙は韓当・黄蓋ら十二将とともにお出ましに付き従い、ばったりと太史慈に出くわした。太史慈がとっさに孫策に突きかかる一方、孫策は太史慈の馬を刺し、互いに揉み合っているところを宋謙らが駆け寄ったので、二人とも戦いを切り上げて解散した《太史慈伝》。

合肥の戦役では、張遼が奇襲をかけてきたので、諸将は備えを固める暇もなく陳武が討死し、宋謙と徐盛は敗走した。そのとき後方に控えていた潘璋が彼らの兵士二人を斬ったので、ようやく持ち直して戦うことができた《潘璋伝》。

黄武元年(二二二)、蜀の劉備が大軍を率いて西方の境界線を越えてくると、孫権は陸遜を大都督・仮節とし、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら五万人を監督させて防がせた《陸遜伝》。陸遜は宋謙らを率いて蜀側の五つの陣営を攻撃、全てを打ち破って敵将を斬った《呉主伝》。劉備が白帝城に引き揚げたのち、宋謙は徐盛・潘璋らとともに「必ず劉備を捕らえることができますから、どうか再攻撃させてください」と孫権に上表したが、孫権は許可しなかった《陸遜伝》。

合肥の戦役でも夷陵の戦役でも、宋謙の名は徐盛・潘璋とともに連ねられている。同じ部署に所属していたのだろうか。

【参照】韓当 / 黄蓋 / 朱然 / 徐盛 / 鮮于丹 / 孫桓 / 孫権 / 孫策 / 太史慈 / 張遼 / 陳武 / 潘璋 / 陸遜 / 劉備 / 劉繇 / 合肥侯国 / 蜀 / 白帝県 / 仮節 / 大都督

宋翼Song Yi

ソウヨク

(?〜192)
漢左馮翊太守

太原郡の人《後漢書王允伝》。鍾繇の書の弟子という《後漢書集解校補》。

同郡の司徒王允は董卓を誅殺すると、兄王宏を右扶風太守、宋翼を左馮翊太守に任じた。しかし長安を占拠した董卓の旧将李傕は、王宏・宋翼が両郡を取り仕切っていることを恐れ、勅命として彼らを召し寄せた。「出頭すれば王公(王允)の身が危ない。ともに兵を挙げて李傕を討とう」とする王宏の主張を退け、「王命背きがたし」と長安に出頭した。王宏もやむなく宋翼に同行したが、李傕は王允・王宏とともに宋翼を処刑してしまった《後漢書王允伝》。

【参照】王允 / 王宏 / 鍾繇 / 董卓 / 李傕 / 馮翊郡(左馮翊郡) / 扶風郡(右扶風郡) / 太原郡 / 長安県 / 司徒 / 書

宗承Zong Cheng

ソウショウ

(?〜?)
魏諫議大夫

字は世林。南陽安衆の人。宗資の子《世説新語》。

若いころから徳行を重ねて公明正大、堂々として群れをなさなかった。郷里の敬慕を受け、お徴しを被っても出仕しなかった。その人徳を聞いて訪問してくる者は(門前で)林をなした《世説新語・晋書王湛伝》。

父の宗資が亡くなると祖先の墓に埋葬したが、自分で土を背負って塚を作り、使用人の手を借りなかった。一晩のうちに盛り土の高さは(勝手に)五尺になり、松や竹がそこに生えた《太平御覧》。

曹操は若いころ、たびたび彼の邸宅を訪れていたが、ちょうど賓客たちが殺到していたころで、なかなか発言することができなかった。そこで機会を窺い、宗承が席を立ったときに歩み寄って引き止め、手を握って交流を求めた。宗承はその人となりを深く軽蔑し、拒絶して受け入れなかった《世説新語》。

袁術は京師にあって袁紹と名誉を競っていたが、何顒が袁紹と親しいのを恨んでいた。宮殿の門前で宗承に会うと、袁術が腹を立てて「何伯求は悪徳の輩だ。吾が奴めを殺してやる」と言った。宗承は「何生は英俊の士でございますゆえ、足下はあれを厚遇し、ご名声を天下に広められませ」と答え、思い止まらせた《荀攸伝》。

曹操が司空として朝政を掌握してからのこと。のんびりとして宗承に訊ねた。「貴卿はむかし吾に振り向いてくれなかったものじゃが、今でも交流してくれないのかね?」宗承は答えた。「松柏の志はまだ残っております。」曹操は機嫌を損ねたが、それでも名士賢者であるということで、彼を尊敬しつづけ、息子の文帝(曹丕)に命じて子弟の礼を取らせ、私邸へ赴いて漢中太守に任命した。しかし、曹操の気持ちに背いてからというもの、宗承は遠ざけられ、その官位は徳望に釣り合うものではなかった《世説新語》。

曹操が冀州を平定して鄴に入ったとき、宗承はそれに付き従っていたが、陳羣らは(曹操を無視して)みな彼に向かって拝礼した。曹操はそれでも昔のままの気持ちで彼に接し、官位は低くとも礼遇は厚く、私邸を訪れて朝政について訊ね、その際には賓客の右側(上位)に座らせていた。文帝兄弟もまたいつも彼の邸宅へ行き、みな牀の側で拝礼した。これほどの尊重を受けたのである《世説新語》。

文帝は(即位したのち)彼を徴しだして直諫大夫に任じた。明帝(曹叡)は彼を招いて宰相に取り立てようと思ったが、宗承は老年を理由に固く断った《世説新語》。

直諫大夫の官名は他書にも見えない。諫議大夫の誤りだろう。

文帝の時代、司空王昶はこう上表している。「むかし南陽の宗世林とともに東宮の属官でございましたが、世林は若くして名声を博し、州里の敬慕を集めておりました。しかし年老いてからは保身に汲々とし、罷免されることばかり心配しましたので、当時の人々はみな彼のことを笑ったものでございます。」《晋書王湛伝》

曹操との交友を断ったのに、曹丕には臣従したことを揶揄しているのである。

【参照】袁紹 / 袁術 / 王昶 / 何顒 / 宗資 / 曹叡(明帝) / 曹操 / 曹丕(文帝) / 陳羣 / 安衆県 / 漢中郡 / 冀州 / 鄴県 / 南陽郡 / 諫議大夫(直諫大夫) / 司空 / 相(宰相) / 太守 / 子弟礼 / 州里(郷里) / 東宮

曹宏Cao Hong

ソウコウ
(サウクワウ)

(?〜?)

陶謙の部下。曹豹の縁者だろうか。

曹宏は徐州牧陶謙に深く親愛され、その任用を受けていた。しかし讒言をもてあそぶ小人であり、善良な人々の多くが危害を加えられた。徐州は百姓たちが裕福で、食糧も有り余っていたが、曹宏らのために法秩序が乱れ、徐州は少しづつ衰退していった《陶謙伝・後漢書同伝》。

『三国志』『後漢書』ともに、曹宏が親任されたことの対比として、趙昱らの名士が遠ざけられたことを記している。おそらく名士層の僭越・放縦を取り締まるため、曹宏は検察役として陶謙の期待を負っていたのだろう。これらの記述の根底には、曹操による徐州侵攻の非違を相殺する意図があるらしく、注意が必要である。

【参照】曹豹 / 陶謙 / 徐州 / 牧

曹純Cao Chun

ソウシュン
(サウシユン)

(?〜210)
漢議郎・参司空軍事・高陵亭威侯

字は子和。沛国譙の人。曹仁の同母弟《曹仁伝》。

十四歳のとき父曹熾を失い、同母兄の曹仁がすでに別家を立てていたので、曹純が父の家業を継いだ。資産は豊富で、賓客や奴婢は百人単位であったが、曹純は規律正しく取りまとめて風紀を乱さなかったので、郷里の人々はみな有能だと評価した。学問を愛好して学者を尊敬したので、学者たちの多くが彼に心を寄せた。こうして遠くでも近くでも評判になったのである《曹仁伝》。

十八歳のとき黄門侍郎になり、二十歳で太祖(曹操)に従軍して襄邑で募兵を行った。こうして征伐戦には必ず従軍するようになった《曹仁伝》。

曹純は議郎のまま参司空軍事を兼ね、虎豹騎を指揮して南皮包囲戦に参加した。袁譚が出撃してきて多数の士卒が死んでしまったので、太祖は包囲を緩めようとした。曹純は進言した。「いま千里先まで敵地を踏み越え、進撃しても勝てず、退却すれば威信を損ねます。しかも軍勢を遠く深入りさせたからには、持久戦も困難です。彼らは勝利して油断し、我らは敗北して慎重になっております。慎重さでもって油断に対抗するのですから、必ず勝つことができます」《曹仁伝》

太祖はその言葉に喜んで急襲をかけると、袁譚は出撃しようにも軍勢の集合が間に合わず、潰滅した。袁譚が髪をなびかせながら走り去ると、曹純麾下の騎兵がこれを只ならぬ者とみて追いすがった。袁譚は馬から落ち、振り返りながら「おい、ちょっと、我を見逃してくれたらお前を富貴の身にしてやろう」と言いかけたが、その言葉も終わらぬうちに首を刎ねられた《曹仁伝・後漢書袁譚伝》。

三郡を北征したときには、曹純部下の騎兵が単于蹋頓を捕らえた。前後の功績により高陵亭侯に封ぜられ、三百戸を食んだ。荊州征討に従軍し、文聘とともに長阪で劉備を追撃、その女二人と輜重車を鹵獲し、敗残兵を接収した。進軍して江陵を降服させ、太祖に従って譙へと帰還した《曹仁・文聘伝》。

建安十五年(二一〇)、薨去した。曹純配下の虎豹騎は、他に任せられる者がおらず、太祖みずからが統率することになった。文帝が即位したのち、曹純は威侯と諡される。

【参照】袁譚 / 曹熾 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕(文帝) / 蹋頓 / 文聘 / 劉備 / 荊州 / 江陵県 / 高陵亭 / 譙県 / 襄邑県 / 長阪 / 南皮県 / 沛国 / 威侯 / 議郎 / 黄門侍郎 / 参司空軍事 / 亭侯 / 諡 / 虎豹騎 / 単于

曹性Cao Xing

ソウセイ
(サウセイ)

(?〜?)

郝萌・呂布の将。

建安元年(一九六)六月のある日の夜、呂布の将である郝萌が叛乱を起こした。郝萌は軍勢を率いて下邳の治府に入ったが、政庁が堅牢で入ることはできなかった。呂布が政庁から脱出して都督高順の陣営に逃げ込むと、高順は手の者に武装させて治府へ入り、郝萌に向けて弓弩を発射した。郝萌の軍勢は総崩れとなり、明け方には自陣に引き返した《呂布伝》。

曹性は郝萌の将であったが、このとき離叛して彼と対戦した。郝萌は曹性を突き刺して傷を負わせたが、曹性も郝萌の片腕を切り落とした。高順が郝萌の首を斬り、曹性を輿に載せて呂布のもとに送った。曹性は呂布の質問に答えて言った。「郝萌は袁術の陰謀を引き受けていたのです」、呂布「陰謀を企てていたのは誰々だ?」、曹性「陳宮が賛同しておりました」。同席していた陳宮が顔を赤く染めたので、側にいた人々は全部それを悟った《呂布伝》。

曹性「郝萌はいつもその計画について質問してきましたが、曹性は、呂将軍には大将としての神性がござって、攻撃することは不可能だと申して参りました。郝萌の狂乱ぶりは限りなく、思った以上でありました」。呂布は曹性に「卿は健児である!」と言って手厚く療養してやり、傷が癒えると郝萌の旧陣営を慰撫させ、その人数を領させた《呂布伝》。

【参照】袁術 / 郝萌 / 高順 / 陳宮 / 呂布 / 下邳国 / 閤(政庁) / 都督 / 府

曹節Zang Jie

ソウセツ
(サウセツ)

曹萌

曹豹Cao Bao

ソウヒョウ
(サウヘウ)

(?〜196)
漢下邳相

陶謙の将。丹楊郡の人か。

興平元年(一九四)夏、曹操が全軍をこぞって徐州に攻め寄せたとき、劉備とともに郯の東に駐屯し、迎撃しようとしたが敗走する。曹操は徐州において多数の住民を虐殺した《武帝紀》。

陶謙が病没すると劉備が徐州を取り仕切ることになったが《先主伝》、曹豹は徐州に残って劉備に仕えたようである。建安元年(一九六)、袁術が徐州に侵攻したとき、劉備は盱眙・淮陰に出て彼を防ぎ、こうして両軍は一ヶ月のあいだ対峙した。曹豹は下邳国相として張飛とともに下邳城を守っていたが、張飛と仲違いして呂布を招き入れようとした《先主伝》。しかし呂布が到着する以前に張飛に殺されてしまう《呂布伝》。下邳を守っていた中郎将許耽は呂布に使者を送り、真夜中に呂布軍が到着すると開門して出迎えた。その結果、張飛の軍勢は敗走し、劉備や諸将の妻子は徐州とともに呂布の手に落ちた《呂布伝》。

一般に低い評価が与えられている曹豹だが、下邳は闕宣の遺領であり、当然、反対勢力が根強かったと思われる。そうした統治困難な大国を委任されたというだけでも、彼がいかに高く評価されていたかが窺える。決して凡庸な人物ではない。配下の許耽が陶謙と同郡の人なので、曹豹も同じく丹楊郡の人である可能性が高い。

【参照】袁術 / 許耽 / 曹操 / 張飛 / 陶謙 / 劉備 / 呂布 / 下邳国 / 盱眙県 / 徐州 / 郯県 / 丹楊郡 / 淮陰県 / 相 / 中郎将

曹萌Cao Meng

ソウボウ
(サウバウ)

(?〜?)
漢処士

字は元偉。沛国譙の人。曹騰の父、曹操の曾祖父《武帝紀》。「曹節」とするのは誤り《武帝紀集解》。

日ごろ仁徳温厚によって称えられていた。隣人のうちに豕を失った者がいて、曹萌の豕と同じ種類だった。(隣人は曹家の)門までやって来てそれを誤認したが、曹萌は(豕を渡して)彼と争わなかった。後になって、いなくなった豕が彼の家に帰ってきたので、豕の飼い主は大いに恥じ入り、誤認した豕を送り返すとともに曹萌に謝罪した。曹萌は笑いながらそれを受け取った。これによって郷里の人々は尊敬し歎息した《武帝紀》。

太和三年(二二九)六月、魏の明帝は高祖父曹騰を高皇、その夫人呉氏を高皇后と諡し、文帝の高祖父処士曹萌とともに鄴の廟所に合祀した《宋書礼志》。このとき司空陳羣らが提議した。「周の武王は太王・王季・文王を追尊して王といたしました。魏は皇帝を号しておるのですから、大長秋・特進君(曹騰)を『商皇』と追号なさいますよう。」帝はこれを認めた《通典》。

帝はさらに詔勅を下した。「わが魏室は天の秩序を継承し、足跡は高皇・太皇帝(曹騰・曹嵩)が発せられ、功業は武皇・文皇帝(曹操・曹丕)が高められた。高皇の父の処士君(曹萌)については、密かに人徳謙譲を修め、行動は神業のごとく、これこそ天地の祝福を受け、神霊の由来するところである。しかるに精神は暗く遠きところにあり、称号は記されておらず、孝行を尊んで根本を重んずることにはならない。そこで公卿以下に命ずる。会議のうえ諡号を定めよ。」《劉曄伝》

侍中劉曄の意見。「周王が祖先を后稷まで求めている理由は、その人が唐(堯)を補佐して功績を立て、その名が祭祀の経典に記載されているからです。漢氏の初めから、追諡の本義はその父親を越えることがなくなりました。上に周室と比べれば、大魏の発祥は高皇からの始まりとなりますし、下に漢氏を論ずれば、追諡の礼はその祖父に及ばないことになります。愚考いたしまするに、追尊の本義は高皇までに留めるのがよろしゅうございます。」《劉曄伝》

侍中繆襲の意見。「『元』とは第一であり、首魁であり、気の初めでございます。また諡法にも、道義を行って人々を喜ばせるのを『元』と呼び、仁愛を尊んで徳義を貴ぶのを『元』と呼ぶ、とございます。処士君に『元皇』と諡号を贈るのがよろしゅうございます。」《通典》

太傅鍾繇の意見。「処士君は六親等にあたり、親族の繋がりは途絶えておりますゆえ、その廟所を解体して霊魂を移すべきです。愛情を優先なさるならば、処士君のご英霊はその過分の礼に不安を覚えられるものと存じます。いま博士らは礼法をもって判断いたしました。そのご意見をお聞き入れくださいますよう。」詔勅によりこの意見に従った《通典》。

同年十月、洛陽の廟所が完成したので、帝は直々に廟所を移転させた《宋書礼志》。

【参照】王季 / 繆襲 / 堯 / 呉夫人 / 后稷 / 周武王 / 周文王 / 鍾繇 / 曹叡(明帝) / 曹嵩 / 曹操 / 曹騰 / 曹丕(文帝) / 太王 / 陳羣 / 劉曄 / 漢 / 魏 / 鄴県 / 周 / 譙県 / 唐 / 沛国 / 洛陽県 / 公卿 / 司空 / 侍中 / 大長秋 / 太傅 / 特進 / 博士 / 諡 / 処士

臧宣Zang Xuan

ソウセン
(サウセン)

臧霸

速附丸Sufuwan

ソクフガン

蘇僕延

速僕丸Supuwan

ソクボクガン

蘇僕延

孫観Sun Guan

ソンカン
(ソンクワン)

(?〜217?)
漢振威将軍・仮節・青州刺史・呂都亭侯

字は仲台。泰山郡の人。一名を「嬰子」といった《臧霸伝》。

はじめ臧霸とともに兵を起こして黄巾賊を討伐し、騎都尉に任じられた。孫観は臧霸・呉敦・尹礼らとともに開陽に駐屯して呂布に荷担していたが、呂布を討ち滅ぼした曹操は臧霸に会ってみて彼を気に入り、孫観らを招かせた。孫観はこれに応じて兄孫康とともに出頭し、北海太守に任じられた《臧霸伝》。

孫観は臧霸とともに戦場で活躍したが、いつも先登に立っていた。青州・徐州の賊徒を討伐して臧霸に次ぐ功績を挙げ、呂都亭侯に封ぜられる。南皮で曹操と落ち合った孫観は、子弟を鄴に住まわせ、偏将軍・青州刺史となった《臧霸伝》。

のちに孫観は仮節を与えられ、曹操に付き従って濡須口において孫権を討伐した。流れ矢が左足にあたって傷を被ったが、傷をかばわず力戦した。曹操は彼をねぎらって「将軍は傷を被ること深く重いのに勇気をますます奮っている。お国のために我が身を愛すべきでないかね?」と言い、振威将軍に転任させたが、孫観は傷口がひどくなって卒去した《臧霸伝》。

【参照】尹礼 / 呉敦 / 曹操 / 臧霸 / 孫権 / 孫康 / 呂布 / 開陽県 / 鄴県 / 濡須口 / 徐州 / 青州 / 泰山郡 / 南皮県 / 北海国 / 呂都亭 / 騎都尉 / 刺史 / 振威将軍 / 太守 / 亭侯 / 偏将軍 / 仮節 / 黄巾賊

孫瑾Sun Jin

ソンキン

(?〜193)
漢常山相

故(もと)の常山国の相。劉虞の故吏だろうか。

初平四年(一九三)十月、大司馬・幽州牧の劉虞が公孫瓚に殺されそうになると、その掾の張逸・張瓚らとともに忠義の怒りを起こし、そろって劉虞のもとへ駆けつけた。口を極めて公孫瓚を罵倒し、そして劉虞とともに死んだ《公孫瓚伝》。

【参照】公孫瓚 / 張逸 / 張瓚 / 劉虞 / 常山国 / 幽州 / 掾 / 相 / 大司馬 / 牧

孫康Sun Kang

ソンコウ
(ソンカウ)

(?〜?)
漢城陽太守・列侯

泰山郡の人。孫観の兄《臧霸伝》。

臧霸の招きによって弟孫観とともに曹操のもとに出頭し、城陽太守に任じられる。のち功績を立てて列侯に封ぜられた《臧霸伝》。

【参照】曹操 / 臧霸 / 孫観 / 城陽郡 / 泰山郡 / 侯 / 太守

孫鑠Sun Shuo

ソンシャク

(?〜?)
晋尚書郎

字は巨鄴。河内郡懐の人《晋書石苞伝》。

若いころ徴用されて県役人となったが、太守呉奮が主簿に転任させた。孫鑠が貧しい家柄の出でありながら重役に昇ったことから、大姓出身の同僚たちは孫鑠と同席しようとしなかった。呉奮は激怒し、孫鑠を司隷の都官従事に推薦した。司隷校尉劉訥もたいそう彼を褒めちぎった《晋書石苞伝》。

呉奮は同時にまた大司馬石苞にも孫鑠を推薦しており、石苞より掾として招聘された。お召しに応じて許昌まで行ったが、そのころ台では軽装部隊を遣して密かに石苞を襲撃せんとしていたのである。このとき汝陰王司馬駿が許を抑えていたので、孫鑠が挨拶に訪れると、汝陰王は孫鑠の人物を見抜いたうえ、同郷のよしみで「巻き添えを食うなよ」とこっそり事実を教えた。孫鑠は退出するとすぐさま寿春に駆けつけ、石苞のために画策してやった。石苞はそのおかげで助かったのである《晋書石苞伝》。

尚書郎に昇進し、在職中は十あまりの議論を展開、当時の人々の称賛をあびた《晋書石苞伝》。

【参照】呉奮 / 司馬駿 / 石苞 / 劉訥 / 懐県 / 河内郡 / 許昌県許県) / 寿春県 / 汝陰郡(汝陰国) / 司隷 / 掾 / 主簿 / 尚書郎 / 大司馬 / 太守 / 都官従事 / 綱紀(重役) / 台 / 大姓

孫劭Sun Shao

ソンショウ
(ソンセウ)

孫邵

孫邵Sun Shao

ソンショウ
(ソンセウ)

(163〜225)
呉丞相・威遠将軍・陽羨粛侯

字は長緒。北海国の人《孫権伝》。「孫紹」「孫劭」《張昭伝・通鑑・建康実録》とも書かれる。

孫邵は身の丈八尺、孔融の功曹となり、孔融から「廊廟の才(宰相の器)である」と称えられた。江東の劉繇に身を寄せ、孫権が政務を執るようになるとたびたび便宜策を献じ、(朝廷に)貢ぎ物を上納すべきと申し述べた。孫権はすぐさまそれを聞き入れたのである。廬江太守を拝命し、車騎将軍長史に転任した《孫権伝》。孫権が驃騎将軍だったころ、張昭・鄭礼とともに朝廷における儀式を制定した《孫権・張昭伝》。

黄武元年(二二二)九月、魏の曹仁・曹休・曹真らが各方面から攻め寄せたとき、孫権は国内に不服従の異民族を抱えていたため対抗できず、「太子孫登はまだ配偶者がおりませんので夏侯氏のように宗室に加えていただきたく、もしお聞き入れくださるならば孫邵を使者として孫登を入朝させるつもりです」と申し入れている《孫権伝》。

同年十一月《建康実録》、孫権が丞相職を設置しようとしたとき、人々はみな張昭がその任に充てられるべきだと考えたが、孫権は「ただいま職務は多忙であり、担当者の職責は重いため、(丞相への任命は)彼を優遇することにならない」と述べ、孫邵を丞相に任じた《張昭伝》。威遠将軍を兼務し、陽羨侯に封ぜられた《孫権伝》。

『建康実録』では曹仁らの侵入を建安二十八年(二二三)のこととし、同年、孫権は呉王に登って黄武と改元したとするが、おそらく年数に誤りがある。

二年四月、大将軍陸遜らとともに帝位へ登るよう求めたが、孫権は聞き入れなかった《建康実録》。張温・曁豔がその仕事ぶりについて(弾劾の)奏上をしたので、孫邵は官位を退いて処罰を請うたが、孫権は大目に見てやって復職させた《孫権伝》。

このとき陸遜は輔国将軍であり、大将軍には就任していなかった《陸遜伝》。『建康実録』の誤り。

黄武四年(二二五)夏五月、孫邵は六十三歳で卒去し、粛侯と諡された《孫権伝・建康実録》。丞相職は顧雍が後任した《顧雍伝》。

『集解』は誤って享年を三十六とする。

【参照】曁豔 / 顧雍 / 孔融 / 曹休 / 曹真 / 曹仁 / 孫権 / 孫登 / 張温 / 張昭 / 鄭礼 / 陸遜 / 劉繇 / 魏 / 江東 / 北海国 / 陽羨県 / 廬江郡 / 威遠将軍 / 侯 / 功曹 / 車騎将軍 / 粛侯 / 太守 / 大将軍 / 長史 / 驃騎将軍 / 諡 / 廊廟才

孫紹Sun Shao

ソンショウ
(ソンセウ)

孫邵

孫綜Sun Zong

ソンソウ

(?〜?)
魏郎中令

公孫淵の臣、郎中令。

郎中令は王国の属官であるが、このとき公孫淵はまだ燕王を称していない。また魏への上表文のなかで僭称した王号の属官を記すこともありえず、おそらく官名は誤って伝えられている。また「閬中令」とする本もあるが、幽州に閬中県はなく、いずれにせよ誤りである。

太和六年(二三二)三月、呉は将軍周賀・校尉裴潜を遼東に派遣して名馬を求めた。太守公孫淵は校尉宿舒・郎中令孫綜に貂の毛皮十枚と名馬を持たせて周賀に同行させ、呉と好誼を通じさせた。周賀は途中、魏の殄夷将軍田予に討たれたが、宿舒らは同年十月、呉に到着した《明帝紀・公孫度・孫権伝》。

呉帝孫権は公孫淵の家族について訊ね、宿舒らが「将軍さまは三人のご子息をお持ちですが、公孫脩さまは亡き弟御の家を継がれました」と答えると、彼らをねんごろに待遇し、君臣とともに楽しみを尽くした。翌年三月、孫権は太常張弥・執金吾許晏らを使者として兵士一万人とともに遼東に遣し、公孫淵を燕王に封じた《公孫度・孫権伝》。

のちに公孫淵がまた変心して魏に帰服したとき、宿舒らは呉の兵士が一万に満たず、七・八千人だと報告したので、公孫淵は張弥や呉の兵士を襲撃して殺した《公孫度伝》。

【参照】許晏 / 公孫淵 / 公孫脩 / 周賀 / 宿舒 / 孫権 / 張弥 / 田予 / 裴潜 / 燕 / 魏 / 呉 / 遼東郡 / 王 / 校尉 / 執金吾 / 将軍 / 太守 / 太常 / 殄夷将軍 / 郎中令 / 貂

孫狼Sun Lang

ソンロウ
(ソンラウ)

(?〜?)

建安二十三年(二一八)、陸渾の県長であった張固は、人夫を徴発せよとの命令を受け、彼らを漢中に送ることになった。しかし百姓たちは遠方での苦役を嫌がり、心にわだかまりを抱いた。そこで領民の孫狼らは挙兵して県主簿を殺し、叛乱を起こして県城を破壊した。張固は胡昭という者に身を寄せて領民を呼び集めた。孫狼が南方へ行って関羽に帰服すると、関羽は印綬と軍勢を与え、帰郷して暴れまわらせた。孫狼らは陸渾の南にある長楽亭まで来たが、「胡居士(胡昭)は賢者であるから、あの部落は一度たりとも侵害してはならぬぞ」と誓いあった《管寧伝》。

『関羽伝』に、梁・郟・陸渾の羣盗のなかには、はるばる関羽から印綬称号を受けて彼の支党となる者もあった、とある。孫狼らを指すものだろう。

【参照】関羽 / 胡昭 / 張固 / 漢中郡 / 長楽亭 / 陸渾県 / 県長 / 主簿