三国志人名事典 蜀志7

龐統Pang Tong

ホウトウ
(ハウトウ)

(178〜213)
蜀軍師中郎将・荊州治中従事・関内靖侯

字は士元。襄陽郡の人。

若いころは華やかさを欠いていたので誰からも評価されなかった。十八歳のとき潁川郡の司馬徽が人物を見る目があると聞いて彼に会いに行くと、司馬徽は龐統を高く評価して南方の人物のうち第一人者になるだろうと述べた。これより有名となり郡の功曹に任命された。龐統自身も人物査定を好み、才能を育てることに力を注いだ。南郡太守周瑜が死ぬと、彼の遺骸を呉に送り届けることになり、その地で陸勣・顧劭・全琮らと親交を結んだ。

劉備は南荊州を支配すると龐統に耒陽県令を代行させたが、仕事が捗らず罷免された。これを聞いて呉の魯粛が「龐統は治中・別駕などの大役を任せてこそ才能を発揮する人物です」という手紙を劉備に送り、また諸葛亮も重用を勧めたので、劉備にお目見えしていろいろ語り尽したすえ、極めて有能であると評価され治中従事に抜擢された。こうして諸葛亮と並んで軍師中郎将を拝命する。龐統は劉備に益州奪取を進言し、渋る劉備に理非を説き、その結果益州攻略が開始された。

益州牧劉璋と劉備が涪城で会見したさい、劉璋暗殺を勧めたが容れられなかった。劉璋が成都に帰還すると、劉備に楊懐・高沛を騙し討ちにさせ、ともに成都に攻め上った。劉備は各地での戦勝を喜んで酒宴を開いたが、龐統は「他人の国を攻め取ることを楽しむのは仁者ではない」と戒めた。さらに進軍して雒城を囲んだとき流れ矢に当たって戦死した。ときに三十六歳。劉備は龐統の死を嘆き、彼の話になると涙を流した。

のち関内侯を追贈され、靖侯と諡された。

【参照】顧劭 / 高沛 / 司馬徽 / 周瑜 / 諸葛亮 / 全琮 / 楊懐 / 陸勣 / 劉璋 / 劉備 / 魯粛 / 潁川郡 / 益州 / 荊州 / 呉 / 襄陽郡 / 成都県 / 南郡 / 涪県 / 耒陽県 / 雒県 / 関内侯 / 軍師中郎将 / 功曹 / 靖侯 / 太守 / 治中従事 / 別駕従事 / 諡

法正Fa Zheng

ホウセイ
(ハフセイ)

(176〜220)
蜀尚書令・護軍将軍・蜀郡太守・翼侯

字は孝直。扶風郡郿の人。

飢饉に襲われたため故郷を離れ同郡出身の孟達とともに益州に赴いて劉璋に仕えた。しばらくして新都県令、のち呼び寄せられて軍議校尉に任じられるが用いられなかった。彼と仲が良かった張松も劉璋の器量に不満を持っていた。張松は使者として曹操のもとに赴いたが、帰国して劉備と結ぶよう劉璋に勧め、その使者として法正を推薦した。法正は劉備と会見してその武略に感嘆し、張松とともに益州の君主に迎えんと密議を練った。

曹操が漢中を窺うとの情報が入ると劉璋が恐怖したので、張松は劉備を迎え入れて彼に漢中を奪取させるべきと勧め、法正が劉備のもとに赴いた。法正は密かに益州奪取を進言した。劉備はこれに従って葭萌関に入り、劉璋軍を撃破して益州を手中に収める。この攻略戦で功績を立て、平定後、蜀郡太守・揚武将軍に任じられ、首都の統治と作戦立案を担当した。しかし不遇時代の恨みを晴らすため些細な罪にこじつけて人々を殺害し、莫大な功績を立てていたため諸葛亮でさえ彼を制止できなかった。

建安二十二年(二一七)、劉備に漢中征服を進言し、これを劉備は採用して法正を伴って漢中に進軍。同二十四年、劉備軍が定軍・興勢に囮の陣営を構築すると夏侯淵がこれを襲撃した。機を逃さず「撃つべし」と言上すると、劉備は黄忠に命じて夏侯淵軍を攻めさせ、黄忠は夏侯淵の首級を挙げることができた。

建安二十四年(二一九)に劉備が漢中王に就くと尚書令・護軍将軍に昇進したが、翌年、四十五歳で逝去した。劉備は何日ものあいだ涙を流して泣き、彼に翼侯と諡した。これは劉備による唯一の追諡である。法正は諸葛亮・劉巴・李厳・伊籍と協力して蜀の法律「蜀科」を制定している《伊籍伝》。

【参照】伊籍 / 夏侯淵 / 黄忠 / 諸葛亮 / 曹操 / 張松 / 孟達 / 李厳 / 劉璋 / 劉巴 / 劉備 / 益州 / 葭萌関 / 漢中郡 / 興勢 / 蜀郡 / 新都県 / 定軍山 / 郿県 / 扶風郡 / 軍議校尉 / 県令 / 護軍将軍 / 尚書令 / 太守 / 揚武将軍 / 翼侯 / 諡 / 蜀科