三国志人名事典 は行

馬延Ma Yan

バエン

(?〜?)
漢都督将軍

袁尚の将。都督将軍《檄呉将校部曲文》。

建安九年(二〇四)二月、袁尚は審配・蘇由を鄴の守備に残し、自ら平原の袁譚を討伐した。その留守を衝いて曹操が鄴城を包囲したため、七月、袁尚は鄴の城外まで引き返したが、曹操の逆包囲を恐れて逃走する。このとき曹操が追撃しようとすると、馬延は矛を交える寸前、張顗・陰夔・郭昭らとともに降服した。そのため袁尚軍は大潰滅する《武帝紀・袁紹伝・檄呉将校部曲文》。

【参照】陰夔 / 袁尚 / 袁譚 / 郭昭 / 審配 / 蘇由 / 曹操 / 張顗 / 鄴県 / 平原郡 / 都督将軍

馬玩Ma Wan

バガン
(バグワン)

(?〜?)

建安十六年(二一一)、司隷校尉鍾繇が張魯を征討しようとしたとき、その矛先が自分たちに向けられるのではないかと恐れ、馬玩は馬超・韓遂・楊秋・李堪・成宜らとともに挙兵した。しかし諸将たちは不和となり、曹操軍に前後から挟撃されて大敗した《武帝紀・馬超伝》。

【参照】韓遂 / 鍾繇 / 成宜 / 曹操 / 張魯 / 馬超 / 楊秋 / 李堪 / 司隷校尉

馬子碩Ma Zishuo

バシセキ

馬平

馬謖Ma Su

バショク

(190?〜228?)
蜀丞相参軍

字は幼常。襄陽郡宜城の人。馬良の弟《馬良伝》。

馬謖は荊州従事となって先主の蜀入りに随行し、緜竹・成都の県令、越巂太守に叙任された《馬良伝》。身の丈は八尺、器量才能は人一倍、軍略を好んで論じ、丞相諸葛亮はその器量をいたく評価した《馬良伝・襄陽記》。先主は薨去に臨んで「馬謖の言葉は実態からかけ離れておるゆえ重用してはならん。君はそれを心得ておけよ」と告げたが、諸葛亮はそれを失当だと考えた。馬謖を参軍とし、いつも招き入れ、談論は昼から夜まで及んだ《馬良伝》。

馬謖は越巂太守であったが、越巂の夷帥高定元が属県の新道を包囲したとき、隣郡の太守李厳が討伐に当たっているところを見ると、馬謖は現地に赴任せず、成都にあって劉備・諸葛亮らと軍略を練っていたものと思われる。だからこそ劉備は彼の欠点を指摘できたのである。

建興三年(二二五)、諸葛亮が南征することになると、馬謖は数十里先まで見送った。諸葛亮が「年を重ねて一緒に計画を立ててきたが、いま改めて良策を授けてくれるかね」と訊ねると、馬謖は「南中は険阻と遠路を頼りに長らく服従しておらず、たとい今日打ち破ったとしても明日にはまた反逆いたすばかりでありましょう。いま公は国家を挙げて北伐し、強敵に当たろうとされておりますが、奴らが官軍の空虚を知れば、その叛逆もまた速やかに到来いたします。一人残らず殺し尽くして後難を絶とうとするのは仁者の情に背きますし、しかも早急に済ませられることではありません。そもそも用兵の道は心を攻めるを上、城を攻めるを下となし、心の戦いを上、兵の戦いを下となすもの。公よ、奴らを心服させられませ」と答えた。諸葛亮がその策略を採用して孟獲を赦免すると南方は心服し、諸葛亮の時代、南方が再び反乱することはなかった《馬良伝》。

六年春、諸葛亮は斜谷道経由で郿を奪取すると喧伝し、趙雲・鄧芝を囮部隊とし、諸葛亮自身は諸軍を率いて祁山を攻めた。南安・天水・安定の三郡は魏に叛いて諸葛亮に応じ、関中は震えおののいた《諸葛亮伝》。諸葛亮は宿将魏延・呉壱らを先鋒にすべきとの意見を斥けて馬謖を抜擢し《馬良伝》、彼に諸軍を監督させて街亭へ派遣し、少し下がった列柳城には高翔を屯させた《郭淮・諸葛亮伝》。

馬謖は諸葛亮の言い付けに背き、水道のある街亭城を捨てて南山に登り、采配は煩雑で混乱していた。王平はたびたび馬謖を諫めたが、馬謖は聞き入れなかった《張郃・王平伝》。魏将張郃は街亭に到着して水道を遮断し、攻撃をかけると、馬謖軍は大敗して軍勢は星屑のように散った《張郃・王平伝》。ただ王平の率いる千人だけは太鼓を打ちながら堅持したので、張郃は伏兵を疑って近寄らなかった《王平伝》。高翔もまた郭淮に打ち破られた《郭淮伝》。

諸葛亮は進軍するにも拠るべき場所がなく、軍を引き払って漢中へ帰り、馬謖を獄に下した《馬良伝》。諸葛亮が馬謖を殺そうとしたとき、参軍李邈が「秦は孟明を赦免して西戎制圧に役立て、楚は子玉を誅殺して(父祖の)二世代から格落ちいたしました」と諫めたが《楊戯伝》、諸葛亮は聞き入れず、馬謖および将軍張休・李盛を誅罰し、将軍黄襲らは兵士を没収《王平伝》、諸葛亮はそれによって軍中に謝罪し、みずから右将軍となり官位を三等級落とした《諸葛亮伝》。長史向朗は馬謖と親しく、馬謖が逃亡したとき、実情を知りながら検挙しなかったため免官になった《向朗伝》。

このとき同じく敗退した高翔はそれ以後も重用されており、馬謖が殺されたのは敗戦の責を問われたものでなく、諸葛亮の言い付けに背いたからだと分かる。しかし命令違背が馬謖の判断によるならば配下の張休らが処刑された理由が説明できない。おそらく違背の主犯は張休らであり、馬謖はそれを制止する立場にありながらそうしなかった監督責任を問われたのではないだろうか。

馬謖は死を目前にして諸葛亮に手紙を送っている。「明公は馬謖を我が子のように見てくれましたし、馬謖も明公を父のように見ておりました。どうかくれぐれも鯀を殺して禹を取り立てた義を思い出してくださいますよう。平素の交わりがここに来て傷付けられることがなければ、馬謖は死んでも黄泉路にあって恨みを抱くことはないのでございます」。馬謖は、ときに三十九歳《馬良伝》、十万の軍勢が彼のために涙を流した《馬良伝》。諸葛亮はみずから祭祀を行い、彼の遺児を平時のごとく待遇した《馬良伝》。

のちに参軍蔣琬が漢中へ来て「むかし楚が得臣を殺すと(晋の)文公は喜びました。天下はまだ平定されておらぬのですから、智計の士を殺すのは惜しいことではありますまいか」と訊ねると、諸葛亮は「孫武が天下で勝利を収められたのは法の運用が明確だったからだ。それゆえ楊干が法を逸脱したとき魏絳がその従僕を殺したのである。四海は分裂し、戦争は始まったばかりだ。もし法をないがしろにするならばどうやって賊徒を討伐できようか」と涙を流したのであった《馬良伝》。

馬謖誅罰に反対した李邈は諸葛亮の勘に触れて帰国を命ぜられ、やはり誅罰を批判した蔣琬は以後も重用されてついには諸葛亮の後継者となった。諸葛亮の人材運用は不可解である。

【参照】禹 / 王平 / 郭淮 / 魏延 / 魏絳 / 呉壱 / 高翔 / 黄襲 / 鯀 / 子玉(得臣) / 諸葛亮 / 向朗 / 蔣琬 / 晋文公 / 孫武 / 張休 / 張郃 / 趙雲 / 鄧芝 / 馬良 / 孟獲 / 孟明 / 楊干 / 李盛 / 李邈 / 劉備(先主) / 安定郡 / 越巂郡 / 街泉亭街亭) / 漢中郡 / 関中 / 魏 / 祁山 / 宜城県 / 荊州 / 襄陽郡 / 蜀 / 秦 / 成都県 / 楚 / 漢陽郡天水郡) / 南安郡 / 南中 / 郿県 / 緜竹県 / 斜谷道 / 列柳城 / 右将軍 / 県令 / 参軍 / 従事 / 丞相 / 太守 / 長史 / 西戎

馬岱Ma Dai

バタイ

(?〜?)
蜀平北将軍・陳倉侯

扶風郡茂陵の人。馬超の従弟《馬超伝》。

章武二年(二二二)、馬超は死に臨んで「私の一族二百人はことごとく曹操に殺されてしまい、従弟の馬岱だけが残っております。衰えた家の祭祀を継ぐ者として陛下にお託しいたします。ほかに言い残すことはございません」と上疏した《馬超伝》。

建興十二年(二三四)、丞相諸葛亮が陣没すると征西大将軍魏延が叛逆した。魏延は軍勢を失って漢中に逃走したが、馬岱は長史楊儀の命によって彼を追跡し、その首級を挙げた《魏延伝》。翌十三年、馬岱は国境を越えて魏領に進出するが、司馬懿の将牛金の迎撃に敗れて撤退し、千人余りを失っている《晋書宣帝紀》。

馬岱は平北将軍・陳倉侯にまで昇った《馬超伝》。

【参照】魏延 / 牛金 / 司馬懿 / 諸葛亮 / 曹操 / 馬超 / 楊儀 / 漢中郡 / 魏 / 陳倉県 / 扶風郡 / 茂陵県 / 侯 / 丞相 / 征西大将軍 / 長史 / 平北将軍

馬騰Ma Teng

バトウ

(?〜212)
漢衛尉・槐里侯

字は寿成。扶風郡茂陵の人《馬超伝》。

馬援の子孫である馬平が羌族の女とのあいだに生んだ子で、若いころは家業を営んでいなかったため貧しく、いつも彰山で材木を切って背負い、それを城市で売り歩いて身を立てていた。馬騰は身の丈八尺余りもあり、体が大きい上に面構えも雄大であった。しかし性質は賢明温厚であったので、人々の多くが彼を尊敬した《馬超伝》。

涼州刺史耿鄙が佞吏程球を治中従事として信任したため、中平元年(一八四)冬、北地郡の先零羌や枹罕・河関の盗賊ども、さらに北宮伯玉・李文侯・王国・辺章・韓遂らが叛逆した《後漢書霊帝紀・同傅燮・董卓伝》。耿鄙は民間人のうち武勇ある者を州内で募集し、討伐軍を編成したが、馬騰はそれに応募した一人であった。州郡の官吏は彼をただ者でないと思い、軍従事に任じて部曲を統括させた。馬騰は賊徒討伐の功績を立てて軍司馬に任じられる《馬超伝》。

同四年四月、耿鄙が部下の裏切りによって殺されると、馬騰は軍勢を率いて韓遂軍に合流し、王国を叛乱軍の盟主に擁立し、ともども三輔地方を荒らし回った。王国・韓遂らは五年十一月、陳倉城を包囲したが、翌年二月に左将軍皇甫嵩に敗れ、混乱のさなか王国が死亡している《後漢書霊帝紀》。その後は諸将が権力を争って殺し合い、ついに部曲はばらばらになってしまった《後漢書董卓伝》。

混乱を利用して董卓が朝政の実権を握ったので、初平元年(一九〇)正月、山東で義兵が立ち上がった《後漢書献帝紀》。このころ馬騰は龐悳らを率いて羌族・氐族の叛乱を平定しており《龐悳伝》、その功績によるものか、偏将軍に任じられている《馬超伝》。

董卓の死後、朝廷の実権は李傕・郭汜が掌握したが、初平三年(一九二)、馬騰・韓遂らは軍勢を率いて長安に参詣し、馬騰は征西将軍(あるいは征東将軍)に任じられて郿に駐屯し、韓遂は鎮西将軍に任じられて涼州に帰還するよう命じられた《董卓・馬超伝》。

『董卓伝』『馬超伝』では初平三年に征西将軍になったとし、『典略』では初平年間に征東将軍になったとするが、『後漢書劉焉伝』『三国志同伝』では興平元年のとき征西将軍だったとあり、『典略』は誤りなのだろう。

興平元年(一九四)、馬騰は入朝したのち霸橋に進駐した。李傕に私心を通じようとしたが、聞き入れられなかったので腹を立てた《後漢書董卓伝》。そこで益州牧劉焉と手を結び《劉焉伝》、侍中(あるいは諫議大夫)馬宇・右中郎将(あるいは左中郎将)劉範・前涼州刺史种劭・中郎将杜稟らとともに李傕襲撃を計画し《後漢書种払・同董卓伝》、西州には食糧が少ないため池陽で調達したいと上表して、屯所を長平岸頭に移した《馬超伝》。

池陽は李傕の封地である。『典略』では李傕との抗争に触れていないが、池陽移駐を対李傕戦の一環とみて、ここに挿入する。

馬騰は何日ものあいだ李傕と戦ったが、勝負を決することはできなかった。それを聞いた韓遂が軍勢を率いて両者を和解させようとしたが、結局ふたたび馬騰に合流することになり、李傕は郭汜・樊稠・李利を出して長平観の下で馬騰らと戦わせた《後漢書董卓伝》。また長平の将軍王承らが馬騰に危害を加えられることを恐れ、馬騰が出陣して防備のなくなったところを攻撃したので、馬騰は潰走した《馬超伝》。劉範・种劭が戦死し、斬首数万余りを出す大敗であったが、韓遂が樊稠と同郷であったため逃れることができた《後漢書董卓伝》。

馬騰と韓遂は涼州に帰還すると、韓遂と義兄弟の契りを結んだが、しばらくしてお互いに攻撃しあうようになった《後漢書董卓伝・馬超伝》。韓遂は馬騰に攻撃されて敗走したが、軍勢を糾合して反撃し、馬騰の妻子を殺した《馬超伝》。そのころ馬騰の子馬超は、韓遂の小将閻行と一騎打ちを演じている《張既伝》。

曹操は山東で戦争を行っていたが、関中の混乱を憂慮し、鍾繇を司隷校尉に任じて関中諸将を監督させた。鍾繇は長安に赴任すると馬騰・韓遂に手紙を送り、利害を説いて子息を人質に出させた《鍾繇伝》。鍾繇や涼州牧韋端の仲介で韓遂と和解した馬騰は、召し返されて槐里に駐屯し、そこで前将軍・仮節・槐里侯となり、胡族や張白騎の侵入に備え、士人を厚遇して賢者を推挙し、民衆をいたわったので三輔地方の人々は非常に彼を愛した《馬超伝》。

前将軍補任をここに挿入したが、あるいは郭援らが敗北した後かも知れない。ソースの『典略』では建安初年、鍾繇・韋端の仲介で韓遂と和解し、槐里に駐屯して前将軍に任じられた云々と続け、郭援の事件を記述しない。馬騰の官職および駐屯地の推移は、彼の生涯を通じて今一つはっきりせず、馬騰と鍾繇とのやりとりも年代的に明瞭でない。

建安七年(二〇二)、袁譚・袁尚が高幹・郭援・匈奴単于を派遣して河東に侵略させた《荀彧伝・後漢書董卓伝》。馬騰と韓遂は彼らと内通していたが、鍾繇が張既を派遣して馬騰らを説得し、また傅幹の説得もあって、馬騰は馬超・龐悳らに一万人を預けて鍾繇を支援させたので、郭援らを破ることができた《鍾繇・張既伝》。馬騰を征南将軍、韓遂を征西将軍に任じ、ともに幕府を開くことを許可した《後漢書董卓伝》。のちに張白騎・張琰・衛固らの討伐にも馬騰は参加している《張既伝》。

十三年、曹操は荊州遠征にあたって、馬騰らが関中に割拠していることを危惧し、張既を派遣して部曲を解散して帰還するよう説得した。馬騰は承諾しつつも行動に移さなかったので、彼が心変わりすることを恐れた張既が諸県に命令書を送って食糧を用意し、太守を郊外まで出迎えさせたので、やむを得ず出立した《張既伝》。馬騰は朝廷に徴されて衛尉となり、馬超の弟馬休は奉車都尉、その弟馬鉄は騎都尉に任じられ、家族はみな鄴に移住したが、馬超だけは留守に残して馬騰軍を宰領させた《馬超伝》。

十六年、馬超が韓遂・楊秋・李堪・成宜らと手を結んで叛乱を起こしたため《馬超伝》、翌十七年五月癸未、馬騰は三族皆殺しに処された《後漢書献帝紀》。

【参照】韋端 / 衛固 / 袁尚 / 袁譚 / 閻行 / 王国 / 王承 / 郭援 / 郭汜 / 韓遂 / 高幹 / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 鍾繇 / 成宜 / 曹操 / 种劭 / 張琰 / 張既 / 張白騎 / 程球 / 杜稟 / 董卓 / 馬宇 / 馬援 / 馬休 / 馬超 / 馬鉄 / 馬平 / 樊稠 / 傅幹 / 辺章 / 龐悳 / 北宮伯玉 / 楊秋 / 李傕 / 李堪 / 李文侯 / 李利 / 劉焉 / 劉範 / 益州 / 槐里県 / 河関 / 河東郡 / 関中 / 鄴県 / 荊州 / 山東 / 三輔 / 彰山 / 池陽県 / 長安県 / 長平観 / 長平岸頭 / 陳倉県 / 霸橋 / 郿県 / 枹罕 / 扶風郡 / 北地郡 / 茂陵県 / 涼州 / 右中郎将 / 衛尉 / 仮節 / 諫議大夫 / 騎都尉 / 軍司馬 / 軍従事 / 侯 / 左将軍 / 左中郎将 / 刺史 / 侍中 / 小将 / 司隷校尉 / 征西将軍 / 征東将軍 / 征南将軍 / 単于 / 前将軍 / 太守 / 治中従事 / 中郎将 / 鎮西将軍 / 偏将軍 / 奉車都尉 / 牧 / 夷(皆殺し) / 羌族 / 匈奴族 / 胡族 / 先零羌 / 氐族 / 府(幕府) / 部曲

馬道嵩Ma Daosong

バドウスウ
(バダウスウ)

(?〜?)
漢鉅鹿掾

鉅鹿郡掾《水経注》。

漳水が渡し場で氾濫して農作ができなくなったとき、鉅鹿太守張導・郡丞彭参とともに堤防を築いて流れを正した《水経注》。

【参照】張導 / 彭参 / 鉅鹿郡 / 漳水 / 郡掾 / 郡丞 / 太守

馬平Ma Ping

バヘイ

(?〜?)
漢蘭干丞

字は子碩。扶風郡茂陵の人《馬超伝》。馬騰の父。名「平」は『後漢書董卓伝』による。

はじめ天水郡蘭干の県丞を務めていたが、失職して隴西に留まって羌族と入り交じって暮らした。家は貧しく妻もなかったため、とうとう羌族の女を娶ることになり、馬騰を生んだのである《馬超伝》。

【参照】馬騰 / 天水郡 / 扶風郡 / 茂陵県 / 蘭干県 / 隴西郡 / 県丞 / 羌族

裴茂Pei Mao

ハイボウ

(?〜?)
漢尚書令・陽吉平侯

字は巨光。河東聞喜の人。裴曄の子、裴潜・裴徽・裴輯の父《裴潜伝・新唐書世系表》。

裴氏は代々の名家で、裴茂は霊帝の時代に出仕、県令・郡守・尚書を歴任《裴潜伝》、最終的には尚書令まで昇った《新唐書世系表》。

初平四年(一九三)五月、大雨が二十日余りも続いたので、帝は侍御史裴茂を使者として詔獄へ遣し、罪の軽い者二百人余りを赦免した。その中には善良でありながら李傕に無実の罪を着せられた者もあり、李傕は「裴茂が勝手に囚人を解放しておりますが、おそらく悪党どもと結託しているのでしょう。逮捕すべきです」と上奏した。帝は「使者は勅命によって恩沢を施しているのであり、罪の軽い者を解放するのは天意とも合致している。一方で赦免しながら一方で罪を問うことなどできようか。一切を不問に付す」と詔勅を下した《後漢書献帝紀・同董卓伝・後漢紀》。

建安二年(一九七)十月、謁者僕射裴茂は段煨を初めとする関中諸将を統率し、李傕を討伐し、その三族を皆殺しにした《後漢書献帝紀・同董卓伝・後漢紀》。この功績により列侯に取り立てられ、陽吉平侯となった《裴潜伝・新唐書世系表》。

『後漢書』では諸将進発から李傕の三族を皆殺しにするまでをまとめて建安三年四月のこととし、『後漢紀』では二年十月に諸軍進発、翌三年正月に李傕を撃破、これを斬首し、三族皆殺しにしたとする。おそらく諸軍進発が二年十月、李傕撃破が三年正月、李傕を斬首して三族皆殺しにしたのが四月ということだろう。

同十九年三月、天子は魏公の位階を諸侯王より上に置き、赤いひもを付けた金璽、遠遊冠を下賜することとし、左中郎将・楊宣亭侯の裴茂を持節として、それらを曹操に送り届けさせた《武帝紀》。

中華書局本は「左中郎将楊宣と亭侯裴茂」と読むが、ここでは採らない。おそらく『新唐書世系表』にいう「陽吉平侯」と関連があるのだろう。「吉陽平侯」と作る書もあるという《裴潜伝集解》。また衛覬が陽吉亭侯に封ぜられたともある《衛覬伝》。

子の裴潜は若いころ細かな作法にこだわらず、また母の身分も卑しく、裴茂はそのため彼を尊重しなかったという《裴潜伝》。

【参照】曹操 / 段煨 / 裴徽 / 裴輯 / 裴潜 / 裴曄 / 李傕 / 劉協(天子) / 劉宏(霊帝) / 河東郡 / 関中 / 魏 / 聞喜県 / 陽吉亭 / 陽宣亭 / 謁者僕射 / 王 / 県令 / 公 / 侯 / 左中郎将 / 侍御史 / 尚書 / 尚書令 / 太守(郡守) / 亭侯 / 平侯 / 列侯 / 夷三族(三族皆殺し) / 遠遊冠 / 金璽 / 持節 / 詔獄 / 赤紱(赤いひも)

梅乾Mei Qian

バイケン

(?〜?)

廬江郡の賊。

建安五年(二〇〇)、孫策が任命した廬江太守李術が揚州刺史厳象を殺害すると、梅乾は雷緒・陳蘭らとともに数万人の軍勢を集め、長江・淮水流域一帯の郡県を荒しまわった。曹操が刺史に任命した劉馥が着任すると、梅乾らは彼に帰服した《劉馥伝》。孤立した李術は孫権に滅ぼされた《呉主伝》。

【参照】厳象 / 曹操 / 孫策 / 陳蘭 / 雷緒 / 李術 / 劉馥 / 長江 / 揚州 / 廬江郡 / 淮水 / 刺史 / 太守

梅成Mei Cheng

バイセイ

(?〜209)

廬江郡の賊。

建安十四(二〇九)年十二月《張遼伝集解》、陳蘭とともに灊・六県を挙げて叛乱を起こし、于禁・臧霸らが押し寄せてくると、梅成は軍勢三千人余りを引き連れて降服した《于禁伝》。于禁が軍勢を引き上げると、軍勢を引き連れて陳蘭のもとへ行き、一緒になって天柱山に楯籠った。張遼・張郃・朱蓋らが陳蘭を包囲していたが、天柱山は高く険しく、歩いていける道が通じているだけだった。しかし張遼は「これは一対一というやつだ。勇者なら進むことができる」と言って突き進んだ。かくて張遼らは攻撃をかけて陳蘭・梅成を斬った《張遼伝》。

【参照】于禁 / 朱蓋 / 臧霸 / 張郃 / 張遼 / 陳蘭 / 潜県(灊) / 灊山 / 天柱山 / 六県 / 廬江郡

白繞Bai Rao

ハクジョウ
(ハクゼウ)

(?〜?)

黒山賊の頭目《後漢書朱儁伝》。

黄巾賊の張角が蜂起すると、白繞らも黒山で叛乱を起こし、賊将はそれぞれ数千から三万の軍勢を率いていた。張燕が黒山賊をたばねるようになると軍勢は百万に脹れあがった。霊帝は討伐することができず、河北諸郡はその損害を被った《張燕伝・後漢書朱儁伝》。

初平二年(一九一)七月、勃海太守袁紹が韓馥を脅迫して冀州牧の地位を襲うと、同年、白繞は于毒・眭固らとともに十万余りの軍勢で魏郡に侵入した。さらに東郡まで侵出したところ、太守王肱は防ぐことができず、河内に駐屯していた曹操が濮陽に入った。曹操は白繞を撃破し、東郡太守として東武陽に駐屯する《武帝紀》

【参照】于毒 / 袁紹 / 王肱 / 韓馥 / 眭固 / 曹操 / 張燕 / 張角 / 劉宏(霊帝) / 河内郡 / 河北 / 魏郡 / 冀州 / 黒山 / 東郡 / 東武陽県 / 濮陽県 / 勃海郡 / 太守 / 牧 / 黄巾賊 / 黒山賊

氾嶷Fan Ni

ハンギョク

汎嶷

汎嶷Fan Ni

ハンギョク

(?〜194)

陳宮の将《程昱伝》。「氾嶷」とも書かれる《通鑑》。

興平元年(一九四)、曹操が徐州へ遠征したとき、張邈らが叛逆して呂布を迎え入れると、鄄城・范・東阿の三城を残し、兗州の郡県はみな響くように呼応した。呂布の将陳宮は軍勢を率いて東阿へ向かい、また汎嶷に范を攻略させた。范の県令靳允は程昱の説得を受けており、汎嶷が県境に入ると彼を出迎えて会見し、その席上、伏兵たちに刺殺させた《程昱伝》。

【参照】靳允 / 曹操 / 張邈 / 陳宮 / 程昱 / 呂布 / 兗州 / 鄄城県 / 徐州 / 東阿県 / 范県 / 県令

范方Fan Fang

ハンホウ
(ハンハウ)

(?〜?)
漢奮武将軍従事

公孫瓚の従事。

初平元年(一九〇)に諸将が挙兵したとき、袁紹は妻子を兗州刺史劉岱に預け、公孫瓚も従事范方と騎兵を派遣して劉岱を援助させていた。のちに公孫瓚は袁紹と仲違いして袁紹軍を撃破すると、劉岱に使者をやって袁紹と絶交して彼の妻子をよこせと告げ、その一方、もし劉岱が従わねば騎兵を率いて戻ってこいと范方に命じた。袁紹を平定したあと劉岱を討伐するつもりだったのである《程昱伝》。

劉岱は連日議論を重ねたが決断を下せず、程昱を招いて計略を訊ねた。程昱が「近くて頼りになる袁紹を捨てるのは得策ではありませんし、そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありますまい」と告げたので、劉岱はその言葉に従った。范方は騎兵を連れて帰国しようとしたが、まだ着かぬうちに公孫瓚は大敗していた《程昱伝》。

【参照】袁紹 / 公孫瓚 / 程昱 / 劉岱 / 兗州 / 刺史 / 従事

樊伷Fan Zhou

ハンチュウ
(ハンチウ)

(?〜?)
蜀武陵部従事

南陽の人で、古い名族だった《潘濬伝》。「樊胄」とも書かれる《襄陽記》。

樊伷は武陵郡の部従事を務めていたが、異民族たちを誘い入れて武陵郡をこぞって劉備に味方しようとしていた。これより先、関羽が殺されたとき郡県はみな孫権に帰服したが、その中に零陵北部尉の習珍という者がいて、密かに樊伷と盟約を結んだ《潘濬伝・襄陽記》。

章武元年(二二一)七月、劉備が秭帰に進出すると武陵の諸県や蛮民が彼に呼応したので、孫権は陸遜・潘濬らに鎮圧させたとある《先主・呉主伝》。樊伷が挙兵したのはこのときのことであろうか。

現地の官吏は「一万人を預けて督を派遣してくれ」と訴えたが、孫権は聞き入れず、特別に潘濬を呼んで訊ねてみた。潘濬「兵士五千人もあれば生け捕るに充分です」、孫権「卿はなぜ軽視なさるのか?」、潘濬「樊伷は口先が達者ですが実は弁論の才能がありません。臣がそれを知っているのは、樊伷はむかし州の人々を食事に招いたことがあり、真昼になっても食事ができず彼自身で十回以上も立ち上がるということがあったからです。これこそ俳優は一節を見れば分かるというものです」。孫権は大笑いした《潘濬伝》。

潘濬は孫権の命を受けて兵士五千人を率いて出撃、樊伷は敗れて斬首された《潘濬伝》。ほどなく習珍も潘濬によって平定された《襄陽記》。

【参照】関羽 / 習珍 / 孫権 / 潘濬 / 劉備 / 荊州 / 南陽郡 / 武陵郡 / 部従事 / 零陵北部尉 / 督

樊胄Fan Zhou

ハンチュウ
(ハンチウ)

樊伷

樊稠Fan Chou

ハンチュウ
(ハンチウ)

(?〜195)
漢右将軍・開府・万年侯

董卓の部曲の将。

李傕・郭汜らは陝に駐屯していたが、初平三年(一九二)四月に董卓が王允に殺されると、軍勢をかき集めながら西上した。樊稠は李蒙・王方らとともにこれに合流し、六月戊午、長安城を陥落させた。李傕は揚武将軍、郭汜は揚烈将軍、樊稠は中郎将を自称した《董卓伝・後漢書同伝》。

李傕らは王允を殺し、董卓の亡骸を郿城に葬ったが、大暴風雨のため冢に泥水が流入してしまった。そこで棺を担ぎだしたが、戻すたびに雨が降って水が流れ込み、こうしたことが三・四度も繰り返された。樊稠らが棺を担いで半分まで水没した冢に納めた。風雨はますます激しくなったので戸を閉めたところ、また強風が吹いて冢を潰してしまった《後漢書董卓伝》。

同年九月、李傕は車騎将軍・開府・池陽侯・領司隷校尉・仮節、郭汜は後将軍・美陽侯、樊稠は右将軍・万年侯、張済は鎮東将軍・平陽侯を自称した《董卓伝・後漢書献帝紀・同董卓伝》。

興平元年(一九四)三月、韓遂・馬騰らが攻め寄せてきたので、李傕は兄の子李利と郭汜・樊稠に迎え撃たせた。長平観の下で戦闘になり、首級一万余りを挙げる勝利を収めた。涼州へと逃走する韓遂らを追撃したが、韓遂は使者を出して「天下は覆ってどうなるとも知れぬ。同郷なのだから一言話し合おう」と樊稠に告げた。そこで馬を並べて臂を取り合い、しばらく談笑した。それを李利が報告したので、李傕は樊稠に疑念を抱き始めた《董卓伝》。それでも樊稠と郭汜に開府を許し、人事選抜に参与させた。こうして李傕・郭汜・樊稠の推挙する人間ばかりが採用され、三公の推挙は結局無視されることになった《後漢書董卓伝》。

このとき長安城内では盗賊が多発しており、昼間から略奪をしているのに、李傕・郭汜・樊稠は城内を三分割して警備に当たっても取り締まることができなかった。それどころか子弟を放って百姓を苦しめる始末で、食糧一斛が五十万銭、豆麦が二千万銭にも暴騰し、人々は互いの肉を食らいあい、白骨はそこらに転がって町中に異臭が充満した《後漢書董卓伝》。

八月、馮翊郡の投降していた羌族がまた叛逆したので、樊稠は郭汜とともに鎮圧し、斬った首は数千級に上った《後漢書献帝紀・同西羌伝》。

樊稠は軍勢を率いて関東へ進出したい、そこで兵員を増強して欲しいと李傕に要求した《董卓伝》。樊稠が勇猛であり、そのうえ人々の心をつかんでいるのを憎んだ李傕は、翌二年二月乙亥、彼を会議に招いて酒に酔わせ、その場で外甥の騎都尉胡封に腕力で殺させた《後漢書董卓伝》。こうして李傕・郭汜らは憎しみ合うことになる《董卓伝》。

【参照】王允 / 王方 / 郭汜 / 韓遂 / 胡封 / 董卓 / 馬騰 / 李傕 / 李蒙 / 李利 / 関東 / 陝県 / 池陽県 / 長安県 / 長平観 / 郿県 / 美陽県 / 馮翊郡 / 平陽県 / 万年県 / 涼州 / 右将軍 / 騎都尉 / 侯 / 後将軍 / 三公 / 車騎将軍 / 司隷校尉 / 中郎将 / 鎮東将軍 / 揚武将軍 / 揚烈将軍 / 開府 / 仮節 / 羌族 / 部曲 / 領

卑衍Bei Yan

ヒエン

(?〜238?)

公孫淵の将軍。

景初二年(二三八)春、魏は太尉司馬懿を派遣して公孫淵を討伐した。六月、司馬懿が遼東に到着すると、公孫淵は将軍の卑衍・楊祚らに歩騎数万人を授けて遼隧に行かせ、二十里あまりの塹壕を掘らせた。卑衍は司馬懿を迎え撃ったが、司馬懿の将軍胡遵らに敗れた。そのあと司馬懿がまっすぐ襄平に向かったので、卑衍らは襄平が無防備であることを心配し、夜中に撤退した《公孫度伝》。

『晋書』宣帝紀では遼隧の塹壕を南北に六・七十里とする。

司馬懿が首山に着陣すると、公孫淵はふたたび卑衍らに迎撃させたが、決死の覚悟で戦ったすえ、卑衍らは大破された《公孫度伝》。

【参照】胡遵 / 公孫淵 / 司馬懿 / 楊祚 / 魏 / 首山 / 襄平県 / 遼隧 / 遼東郡 / 太尉

費観Fei Guan

ヒカン
(ヒクワン)

(?〜?)
蜀江州都督・巴郡太守・揚威将軍・都亭侯

字は賓伯。江夏郡鄳の人《楊戯伝》。劉璋の女婿《楊戯伝》。名は「瓘」とも書かれるが、字との対応から誤りだと考えられている《華陽国志校補図注》。『費禕伝』に見える費伯仁(費仁)と同人であろう。

費観の族姑(おば)は劉焉に嫁いで劉璋を生んだが、劉璋はまた女を費観に嫁がせた《楊戯伝》。族子の費禕が父を亡くすと、費伯仁(費観)が引きとって世話をした。劉璋が使者を出して迎えにくると、費伯仁は遊学のため費禕らをつれて蜀入りした《費禕伝》。

建安十三年(二〇八)、左将軍劉備が益州牧劉璋に攻撃をかけ涪城を占拠した。劉璋は劉璝・冷苞・張任・鄧賢らを派遣して防がせたが、みな敗北して緜竹に立てこもった。劉璋の命により、費観は李厳の参軍として緜竹へ行き、諸将を監督することとなった。しかし費観と李厳は軍勢をつれて劉備に投降し、ともに裨将軍に任じられる《先主伝・華陽国志》。

劉備が益州平定をはたしたのち、費観は巴郡太守・領江州都督に昇進した《楊戯伝・華陽国志》。建興五年(二二七)、都亭侯に封ぜられ、振威将軍の官位を加増された《楊戯伝》。

『華陽国志』では建興元年に張皇后が立てられたとき、費観は群臣とともに都亭侯に封ぜられたとある。おそらく封侯が元年、将軍位の加増が五年ということなのだろう。ここで振威将軍とあるのは楊戯の『季漢輔臣賛』が揚威将軍とするのと一致しない。振威は、旧主劉璋の将軍号であって、それが費観に与えられるのは不自然に思われる。揚威が正しいのではないだろうか。

費観は交友をよくする人柄であった。都護李厳は生まれつき誇りたかく、護軍輔匡らが年齢・官位ともに李厳と匹敵するほどであったのに、李厳は彼らと親密になることはなかった。ところが費観は二十歳以上も年少でありながら、李厳と気のおけない間柄となり、まるで同年輩のようであった。費観は三十七歳で亡くなった《楊戯伝》。

『季漢輔臣賛』は、「揚威将軍の才幹は文吏・武将をも悲歎させるほどで、公務にあたっては悠然と取りしきり、殖財を図りつつも道義によって施し、順序を心得ていた」と称えている《楊戯伝》。

【参照】張任 / 鄧賢 / 費禕 / 輔匡 / 李厳 / 劉焉 / 劉璝 / 劉璋 / 劉備 / 冷苞 / 益州 / 江夏郡 / 江州 / 蜀 / 巴郡 / 涪県 / 鄳県 / 緜竹県 / 護軍 / 左将軍 / 参軍 / 振威将軍 / 太守 / 都護 / 都亭侯 / 都督 / 裨将軍 / 牧 / 揚威将軍 / 季漢輔臣賛

費瓘Fei Guan

ヒカン
(ヒクワン)

費観

費仁Fei Ren

ヒジン

費観

費伯仁Fei Boren

ヒハクジン

費観

尾敦Wei Dun

ビトン

(?〜?)

劉虞の故吏《後漢書劉虞伝》。

初平四年(一九三)十月、大司馬劉虞が公孫瓚に殺された。公孫瓚は劉虞の首を京師に送り付けようとしたが、尾敦がその途中で奪還して故郷に埋葬した《後漢書劉虞伝》。

【参照】公孫瓚 / 劉虞 / 大司馬 / 故吏

麋芳Mi Fang

ビホウ
(ビハウ)

(?〜?)
漢南郡太守

字は子方《楊戯伝》。東海郡胊の人。麋竺の弟である《麋竺伝》。

呂布が徐州を襲撃して劉備を追い出したのち、曹操は兄麋竺を嬴郡太守に、麋芳を彭城相に任じた。しかし麋芳らは官を棄てて劉備に付き従った《麋竺伝》。

のち南郡太守として将軍士仁とともに呂蒙に備えたが、いずれも関羽に軽んじられていることを恨み、関羽の出陣にあたっても軍需物資を供給するだけで全力支援はしなかった。そこで関羽は「帰還したらやつらを始末するのだ」と言った。麋芳・士仁は恐怖を抱いて不安となった《関羽伝》。またかつて南郡城内で失火があり数多くの兵器が焼失し、そのことで関羽は麋芳を責め立てたことがある。それを聞いた孫権が彼を誘ったので、麋芳は密かに孫権と通じるようになった《呂蒙伝》。

呂蒙は南郡の守りが固かったので病気と称して建業に引き揚げた。そこで関羽は南郡の守備兵を北方の戦線に投入した。呂蒙は密かに軍勢を率いて公安に進み、士仁を降服させた。呂蒙の軍勢が南郡城下に迫ると、麋芳は牛肉と酒を用意して出迎えた《呂蒙伝》。以後、麋芳は呉の部将として活動する。こうして関羽は追い詰められ、孫権に斬られたのである。

あるとき船に乗って虞翻と一緒に出かけたことがあった。麋芳の船には人が多く乗っており、水先案内人が虞翻の船に「将軍の船を避けよ」と言ったところ、虞翻は声を荒げて「忠誠と信義を失っているのにどうやって君主に仕えるつもりか。二つの城を傾けておりながら将軍などと称してよいものか」と言った。麋芳は戸を閉ざして返答しなかったが、急いで虞翻の船を避けた。のちに虞翻が車に乗って出かけたとき、麋芳の営舎を通り抜けようとしたが、役人は門を閉ざしたので車を通すことができなかった。虞翻はまた怒って「閉ざすべきとき開き、開くべきとき閉ざしている。もののやりようが分かっているのか」と言うと、麋芳は慚愧の色を見せた《虞翻伝》。

かつて呉の部将だった晋宗は魏に寝返ってたびたび呉を侵略していた。黄武二年(二二三)六月、麋芳は将軍賀斉・劉邵・鮮于丹とともに蘄春郡を攻撃し、劉邵らが晋宗を捕虜とした《呉主・賀斉伝》。

【参照】賀斉 / 関羽 / 虞翻 / 士仁 / 晋宗 / 鮮于丹 / 曹操 / 孫権 / 麋竺 / 劉邵 / 劉備 / 呂布 / 呂蒙 / 嬴郡 / 魏 / 蘄春郡 / 胊県 / 建業県 / 呉 / 公安県 / 徐州 / 東海郡 / 南郡 / 彭城国 / 相 / 太守

畢盛Bi Cheng

ヒツセイ

(?〜238)
燕将軍

景初二年(二三八)、司馬懿は襄平において公孫淵を斬り、公孫淵の任命した偽の公卿をすべて処刑し、また将軍の畢盛ら、二千人あまりを皆殺しにした《晋書宣帝紀》。

【参照】公孫淵 / 司馬懿 / 襄平県 / 公卿

畢瑜Bi Yu

ヒツユ

(?〜?)
漢任長

初平二年(一九一)、勃海太守袁紹は冀州刺史韓馥とともに大司馬劉虞を皇帝に擁立せんと協議し、黄金の印璽を彫り、故の任県長である畢瑜を劉虞のもとに遣わして天命について説明させた。しかし劉虞には断られた《武帝紀》。

『後漢書』劉虞伝ではこのときの使者を故の楽浪太守張岐だと言っている。

【参照】袁紹 / 韓馥 / 劉虞 / 冀州 / 任県 / 勃海郡 / 県長 / 刺史 / 大司馬 / 太守

閔純Min Chun

ビンジュン

(?〜?)
漢冀州別駕従事

字は伯典。韓馥の別駕従事《後漢書袁紹伝》。『三国志演義』では「関純」。

公孫瓚の侵入を恐れた韓馥が冀州牧の地位を袁紹に譲ろうとしたとき、閔純は長史耿武・治中李歴・騎都尉沮授とともに「冀州には武装兵百万と兵糧十年分があり、孤立した袁紹軍など手のひらの赤子同然。乳をやらずに飢え死にさせることもできるのに、どうして彼に州をやろうとするのですか」と諫めたが、聞き入れられなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

のちに袁紹が入城すると、十人の従事たちは韓馥を見捨てて逃げ去ろうとした。ただ袁紹の追っ手だけが心配だったので、閔純と耿武が武器を手に取って自ら殿軍を受け持ったが、防ぎきることはできなかった。のちに袁紹は田豊に命じて彼ら二人を殺害した《後漢書袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 韓馥 / 公孫瓚 / 耿武 / 沮授 / 田豊 / 李歴 / 冀州 / 騎都尉 / 従事 / 治中従事 / 長史 / 別駕従事 / 牧 / 三国志演義

朴胡Fu Hu

フコ

(?〜?)
漢巴東太守

巴郡の人。巴夷の王である《華陽国志》。

建安五年(二〇〇)、杜濩・袁約とともに漢中の張魯に帰服した。益州牧劉璋は張魯の母と弟を殺すと、張魯は杜濩・朴胡・袁約らとともに劉璋に叛いた《華陽国志》。劉璋は龐羲・李異らに張魯を討たせたが勝つことができなかった《華陽国志》。

同二〇年七月に曹操が漢中を攻略し、張魯が巴郡に逃れると、同九月に朴胡は杜濩とともに曹操に降り、巴東太守に任じられた。十一月には張魯も曹操のもとに出頭している《武帝紀》。このとき黄権が「漢中を失えば三巴の力を失います」と進言したので、劉備は黄権を護軍に任じて張魯を迎え入れようとした。張魯が曹操に降服したあとだったので、黄権は杜濩・朴胡らを撃破した《黄権伝・華陽国志》。

朴胡は杜濩・袁約・李虎・楊車・李黒らとともに、巴夷・賨族の民を引き連れて略陽に移住した《武帝紀・華陽国志》。このとき王平も杜濩・朴胡らに従い、校尉に任じられている《王平伝》。

【参照】袁約 / 王平 / 黄権 / 曹操 / 張魯 / 杜濩 / 龐羲 / 楊車 / 李異 / 李虎 / 李黒 / 劉璋 / 益州 / 漢中郡 / 三巴 / 巴東郡 / 略陽県 / 校尉 / 護軍 / 太守 / 牧 / 賨族 / 巴夷

普富盧Pufulu

フフウロ

(?〜?)
漢代郡烏丸行単于

烏丸族。代郡の行単于《武帝紀》。

建安十二年(二〇七)、袁尚・蘇僕延らが遼東太守公孫康に斬られ、十一月、曹操が易水に着陣すると、普富盧は上郡烏丸の行単于那楼とともに配下の名王たちを連れて帰服した《武帝紀》。

同二十一年五月、曹操が爵位を魏王に進められると、普富盧はまた配下の侯王たちを連れて入朝した《武帝紀》。

【参照】袁尚 / 公孫康 / 蘇僕延 / 曹操 / 那楼 / 易水 / 魏 / 上郡 / 代郡 / 遼東郡 / 王 / 単于 / 太守 / 名王 / 行 / 烏丸族 / 大人

傅幹Fu Gan

フカン

(175〜?)
魏扶風太守

字は彦材《武帝紀》または彦林《後漢書傅燮伝》、小字を「別成」といった《後漢書傅燮伝》。北地郡霊州《後漢書傅燮伝》あるいは泥陽の人《晋書傅玄伝》。傅燮の子、傅玄の父《晋書傅玄伝》。

父の傅燮が漢陽太守に任命されたので傅幹も官舎で暮らしたが、中平四年(一八七)、王国・韓遂らが反乱を起こして漢陽城を包囲した。賊軍のうちに傅燮が目をかけていた胡族がいて、平伏しながら傅燮に降服するように訴えた。傅幹はこのとき十三歳であったが、「国家は混乱して大人(ちちうえ)を受け入れませんでした。いま天下が反乱して軍隊は自分の身を守ることさえできません。郷里の羌胡族どもは恩徳を忘れておらず、(大人が)郡を棄てて帰郷してくださるのを願っておるのです。どうかその通りにしてやってください。郷里で義士を集めてから天下を正せばよろしゅうございます」と傅燮を説得した《後漢書傅燮伝》。

傅幹の言葉も終わらぬうち傅燮はため息を吐き、「別成よ、吾が死を覚悟していることを知っていたのか?俸禄を賜った以上は逃げるわけにはいかんのだ。お前には才智がある。努力せよ、努力せよ。主簿の楊会が吾の程嬰だぞ」と言った。傅幹は喉を詰まらせて言葉にならず、左右の者たちもみな泣き崩れた。傅燮は両翼の軍勢を率いて進撃し、戦死した《後漢書傅燮伝》。

程嬰は春秋時代、趙の人。主君が政敵に殺されたとき、程嬰は同僚の公孫杵臼に「ご主君の奥方にはお腹に忘れ形見がおる。もし男児ならば盛り立てるつもりだが、女児ならばわしは死のう」と言った。政敵は、奥方が男児を産んだと聞いて、殺すつもりで探したが見付けられなかった。程嬰が「必ずまた探しにくるぞ」と言ったので、公孫杵臼は他人の子供を背負って山中に潜伏し、政敵配下の諸将に殺された。主君の忘れ形見は、実は、程嬰のもとにいて、のちに公に即位することができた。これが趙武である。程嬰は「ご主君と杵臼に会いにいく」と言い残して自殺した《史記趙世家》。

袁尚は高幹・郭援に軍勢数万人を授け、匈奴単于とともに河東へ進攻させ、使者を出して馬騰・韓遂と手を結ぼうとした。傅幹は馬騰を説得した。「道に従う者は栄え、徳に逆らう者は亡ぶ、と申します。曹公(曹操)は天子を奉じて逆賊を討っており、道に従う者と言えましょう。袁氏は王命に背き、胡人どもを駆り立てて中国を侵略しており、徳に逆らう者と言うべきです。ごたごたが片付いたとき、どっちつかずの態度を取っておられた将軍が真っ先に誅殺されはしないかと心配です。将軍が郭援を討ち果たすならば、曹公はきっと将軍に感謝することでしょう。」馬騰はそれを聞き入れ、子の馬超に軍勢一万人を授けて鍾繇とともに郭援を打ち破らせた《鍾繇伝》

建安十九年(二一四)、劉備が蜀を攻略しようとしたとき、丞相掾趙戩は「劉備は成功できないだろう。用兵が稚拙であるし、蜀は四方を要害に囲まれておるからな」と述べた。しかし徴士傅幹は「劉備は他人に死力を尽くさせる度量の持ち主だ。諸葛亮は政治の変化に通暁し、正直でありながら知謀を持ち、それが宰相となっている。張飛・関羽は勇敢かつ忠義であって、いずれも万人の敵であり、それが将帥となっている。劉備の戦略に加えて三人の傑物が補佐するのだから成功せぬはずがない」と言った《先主伝》。果たして劉備は蜀を下したのであった。

同年七月、曹操が遠征して孫権を攻めたとき、参軍傅幹は諫言した。「天下を治めるには文武の道があり、それを用いるには威徳を備えるものです。明公(との)は武力によって天下の十分の九を平定され、いまだ王命に従わぬ者といえば呉・蜀だけです。呉には長江、蜀には高山があり、威光によって屈服させるのは困難、恩徳によって懐柔する方が容易です。軍勢を休めて国内を固められませ。いま十万の軍勢を催しておられますが、賊軍が深く要害に楯籠るならば、兵馬も能力を発揮できず、威光に傷が付きまするぞ。」曹操は聞き入れず、そのため成果を挙げられなかった《武帝紀》

傅幹はのちに扶風太守まで昇った《後漢書傅燮伝・晋書傅玄伝》。

【参照】袁尚 / 王国 / 郭援 / 関羽 / 韓遂 / 呼廚泉(匈奴単于) / 高幹 / 諸葛亮 / 鍾繇 / 曹操 / 孫権 / 張飛 / 趙戩 / 程嬰 / 馬超 / 馬騰 / 傅玄 / 傅燮 / 楊会 / 劉協(天子) / 劉備 / 河東郡 / 漢陽郡 / 呉 / 蜀 / 長江 / 泥陽県 / 扶風郡 / 北地郡 / 霊州県 / 参軍 / 主簿 / 丞相掾 / 単于 / 太守 / 徴士 / 羌族 / 匈奴 / 胡族

傅羣Fu Qun

フグン

(?〜?)
漢荊州刺史

曹操の臣。荊州刺史。

建安年間(一九六〜二二〇)に荊州刺史となり宛に駐留したが、折り合いが悪かったのか、配下の主簿楊儀が彼に背叛して関羽のもとに走っている《楊儀伝》。

【参照】関羽 / 曹操 / 楊儀 / 宛県 / 荊州 / 刺史 / 主簿

傅士仁Fu Shiren

フシジン

士仁

傅僉Fu Qian

フセン

(?〜263)
蜀左中郎将・関中都督

義陽郡の人。傅肜の子、傅著・傅募の父《楊戯伝》。

父傅肜の死後、左中郎将を拝命、のちに関中都督となる《楊戯伝》。景耀六年(二六三)、魏の鍾会が漢城・楽城を包囲するとともに、胡烈を別働隊として関口を攻撃させた。このとき傅僉は蔣舒とともに関城を守っていたが、蔣舒が「いま賊軍が来たからには、出撃せずに楯籠るのは良計ではない」と言うので、傅僉は「ご命令の通り、城を守ってこそ手柄になるのだ。いま命令に反して出撃して、もし軍勢を失い国益を損ねてしまっては死んでも無益だ」と反対した《姜維伝》。

蔣舒は聞き入れず、手勢を率いて出発し、陰平まで行って胡烈に投降した。胡烈は関城を襲撃した。傅僉は蔣舒が敵軍と戦うつもりだと思い込んでいたので、不意を突かれ、格闘のすえ討死した。魏の人々は彼を義士だと思った《姜維伝》。

胡三省は「蔣舒に迎撃させても必ず勝てるわけではないのに、傅僉はどうして備えを怠ったのか。関城の失陥は傅僉にも責任がある」と批判している。

のち、晋の武帝は詔勅を下した。「蜀の将軍傅僉はかつて関城にあり、死を顧みることなく身をもって官軍に対抗した。傅僉の父傅肜もまた劉備のために戦死した。天下の善は一つであり、彼我によって違いがあろうか」。論者は父子二代にわたる忠義を称えたのであった《楊戯伝》

【参照】胡烈 / 司馬炎(武帝) / 蔣舒 / 鍾会 / 傅著 / 傅募 / 傅肜 / 劉備 / 陰平道 / 関中 / 魏 / 義陽郡 / 蜀 / 晋 / 成固県楽城) / 沔陽県漢城) / 陽安関(関口・関城) / 左中郎将 / 都督

傅著Fu Zhu

フチョ

(?〜?)

義陽郡の人、傅僉の子《楊戯伝》。

弟の傅募とともに官の奴婢に組み込まれたが、のちに解放されて庶民になった《楊戯伝》。

【参照】傅僉 / 傅募 / 義陽郡

傅募Fu Mu

フボ

(?〜?)

義陽郡の人、傅僉の子《楊戯伝》。

兄の傅著とともに奴婢の身から解放された《楊戯伝》。

【参照】傅僉 / 傅著 / 義陽郡

傅方Fu Fang

フホウ
(フハウ)

(?〜?)
漢南郷太守

曹操の臣。南郷太守。

荊州刺史胡脩とともに関羽の北進に備えるが、傲慢な性質であったため、司馬懿は曹操に「辺境を任せられるべきでありません」と訴えている。関羽が樊城の曹仁を包囲し、于禁ら七軍が水没すると、はたして傅方は胡脩とともに関羽に投降してしまった《晋書宣帝紀》。

【参照】于禁 / 関羽 / 胡脩 / 司馬懿 / 曹仁 / 曹操 / 荊州 / 南郷郡 / 樊城 / 刺史 / 太守

傅肜Fu Rong

フユウ

(?〜222)

義陽郡の人、傅僉の父《楊戯伝》。

章武元年(二二一)七月、劉備は大軍を催して西進し、巫峡・建平から夷陵に至るまで数十もの陣営を連ね、馮習を大督、張南を前部とし、輔匡・趙融・廖化・傅肜らをそれぞれ別働隊とした。しかし馮習は敵軍を軽んじたため、翌年六月、猇亭において陸遜に大敗を喫し、先主(劉備)が退却するとき、傅肜が殿軍となって戦った。手勢はあらかた死んでしまい、呉将が傅肜に降服を呼びかけると、傅肜は「呉の狗め、どうして漢の将軍が降るものか」と罵り、ついに戦死した《楊戯・陸遜伝》。

【参照】張南 / 趙融 / 傅僉 / 馮習 / 輔匡 / 陸遜 / 劉備 / 廖化 / 夷陵県 / 猇亭 / 漢 / 義陽郡 / 建平郡 / 呉 / 巫峡 / 前部 / 大督

武周Wu Zhou

ブシュウ
(ブシウ)

(?〜?)
魏衛尉・光禄大夫

字は伯南。沛国竹邑の人《胡質伝》。武陔・武韶・武茂の父《胡質伝・晋書武陔伝》。

武周は下邳県令を務めていたとき、徐州刺史臧霸の尊敬を受け、臧霸がみずから武周の官舎を訪れるほどだった。徐州の部従事に不法行為があったとき、武周はそれを知るなり逮捕して取り調べをした。臧霸はますます武周を愛した《臧霸伝》。

のちに武周は張遼の護軍に任じられたが、目付きが悪いということで張遼に憎まれるようになった。張遼は治中従事胡質を招聘したが、胡質が「武伯南どのは正直者であり、むかし将軍は口を極めて褒めておられたのに、いまは眼差しが気に食わぬといって仲違いされました。ましてや胡質は才能がないのですから、どうして最後まで仲良くできましょう?」と答えたので、張遼はその言葉に感銘して武周と仲直りした《胡質伝》。

延康元年(二二〇)十月癸丑、武周は侍御史であったが、督軍御史中丞司馬懿、侍御史鄭渾・羊秘・鮑勛らとともに漢朝から受禅するよう魏王曹丕に勧めている《文帝紀》。

武周は魏の衛尉・光禄大夫まで昇った《胡質伝・晋書武陔伝》。

武周には武陔・武韶・武茂と三人の子があったが、みな器量の持ち主で、優劣が分からなかった。同郡の劉公栄は人物を見抜く能力があったので、武周が訊ねてみると、「いずれも国士でございますが、元夏(武陔)の器量が最も優れ、三公に次ぐ地位まで昇るでありましょう。叔夏・季夏(武韶・武茂)も常伯・納言(常侍・尚書)を下回ることはございますまい」とのことであった。はたして武陔は尚書左僕射・儀同三司、武韶は散騎常侍、武茂は侍中・尚書まで昇進したのであった《胡質伝》。

【参照】胡質 / 司馬懿 / 曹丕 / 臧霸 / 張遼 / 鄭渾 / 武陔 / 武韶 / 武茂 / 鮑勛 / 羊秘 / 劉昶(劉公栄) / 下邳県 / 漢 / 魏 / 徐州 / 竹邑県 / 沛国 / 衛尉 / 王 / 儀同三司 / 県令 / 光禄大夫 / 護軍 / 散騎常侍 / 三公 / 侍御史 / 刺史 / 侍中 / 尚書 / 尚書左僕射 / 常伯 / 治中従事 / 督軍御史中丞 / 納言 / 部従事

武韶Wu Shao

ブショウ
(ブセウ)

(?〜?)
晋散騎常侍

字は叔夏。沛国竹邑の人。武周の子、武陔の弟、武茂の兄《晋書武陔伝》。

武韶は弟武茂とともに総角のころより名を知られ、長兄武陔を含めた三兄弟のうち、誰が優れているのか親戚や郷里の人々でも判断がつかなかった。同郡の劉公栄は武周を訪ねたとき、「いずれも国士でございますが、元夏(武陔)が最も優れていて三公に次ぐでしょう。叔夏・季夏(武韶・武茂)も常伯・納言(常侍・尚書)を下りますまい」と言った《晋書武陔伝》。

武韶は二宮の吏部郎、太子右衛率、散騎常侍を歴任した《胡済伝・晋書武陔伝》。武韶は潔白で誠実だったと称えられている《胡済伝》。

【参照】武陔 / 武周 / 武茂 / 劉昶(劉公栄) / 竹邑県 / 沛国 / 散騎常侍(常侍) / 三公 / 尚書 / 太子右衛率 / 吏部郎 / 総角 / 二宮

武茂Wu Mao

ブボウ

(?〜291)
晋尚書・贈光禄勲

字は季夏。沛国竹邑の人。武周の子、武陔・武韶の弟《晋書武陔伝》。

武茂は兄武韶とともに総角のころより名を知られ、長兄武陔を含めた三兄弟のうち、誰が優れているのか親戚や郷里の人々でも判断がつかなかった。同郡の劉公栄は武周を訪ねたとき、「いずれも国士でございますが、元夏(武陔)が最も優れていて三公に次ぐでしょう。叔夏・季夏(武韶・武茂)も常伯・納言(常侍・尚書)を下りますまい」と言った《晋書武陔伝》。

武茂は昔から恩徳でもって評判され、名声は武陔に次ぎ、上洛太守・散騎常侍・侍中・尚書を歴任した。太康八年(二八七)十月、郭奕に景侯と諡して景帝と同じ諡号になることの是非が問題になったとき、武茂は成粲・劉訥とともに「周公は父子ながら同じく『文』と諡されております」と肯定説を述べている《晋書礼志》。

潁川の荀愷は武茂より年若であったが、武帝(司馬炎)の姑(おば)の子であることを鼻にかけており、武茂に交わりを求めてきた。武茂がそれを拒んで口も聞かなかったため、荀愷は怨恨を抱いた《晋書武陔伝》。

永煕二年(二九一)三月、太傅楊駿が誅殺される事件があった《晋書恵帝紀》。そのとき武茂は侍中傅祗らとともに楊駿の宴席に招かれていて、傅祗は国家(天子)の安否を伺おうと階下へ降りようとした。武茂はまだ座っていたが、傅祗に「貴君は天子の臣下ではないか!国家の所在も知れぬのにどうして安閑と座っていられるのだ!」と言われ、武茂は驚いて立ち上がった《晋書傅玄伝》。

楊駿はけっきょく誅殺されたが、このとき荀愷が尚書僕射であった。武茂は楊駿の姨(おば)の弟であり叛逆者の一味であると誣告され、殺害された。武茂は清廉できまじめな人柄として知られていたので、いきなり無実の罪で殺されると、天下の人々は痛ましく思った。のちに侍中傅祗が上表して弁明してやったので、光禄勲の官職を追贈された《晋書武陔伝》。

【参照】郭奕 / 司馬炎 / 司馬師(景帝) / 周公 / 荀愷 / 成粲 / 傅祗 / 武陔 / 武周 / 武韶 / 楊駿 / 劉昶(劉公栄) / 劉訥 / 潁川郡 / 上洛郡 / 竹邑県 / 沛国 / 景侯 / 光禄勲 / 散騎常侍(常侍) / 三公 / 侍中 / 尚書 / 尚書僕射 / 太守 / 太傅 / 総角 / 諡 / 二宮

馮習Feng Xi

フウシュウ
(フウシフ)

(?〜222)
蜀領軍

字は休元。南郡の人《楊戯伝》。

先主(劉備)に従って蜀に入る。章武元年(二二一)七月、劉備は大軍を催して西進し、呉班・馮習に巫の方面から呉将李異らを撃破させ、巫峡・建平から夷陵に至るまで数十もの陣営を連ね、馮習を領軍として諸軍を統括させた。しかし馮習は敵軍を軽んじたため、翌年六月、猇亭において陸遜に大敗を喫し、張南とともに討死した《楊戯・陸遜伝》。潘璋の手の者が馮習の首級を挙げたという《潘璋伝》。

『陸遜伝』では大督、『潘璋伝』では護軍、『楊戯伝』では領軍にしたとある。おそらく蜀側の記録にある領軍が正しいのだろう。

【参照】呉班 / 張南 / 潘璋 / 李異 / 陸遜 / 劉備 / 夷陵県 / 猇亭 / 建平郡 / 呉 / 蜀 / 南郡 / 巫県 / 巫峡 / 領軍

馮孚Feng Fu

フウフ

李孚

馮礼Feng Li

フウレイ

(?〜204?)

審配の将《後漢書袁紹伝》。

建安九年(二〇四)二月(または三月)、袁尚が平原遠征に出た隙をついて曹操は鄴を攻撃した。審配が鄴城を守っていたが、その将馮礼は曹操に内応し、突門を開いて曹操の手勢三百人余りを引き入れた。審配がそれを察知して城郭の上から大石を落とし、門を閉ざしたため曹操の兵は全滅した《袁紹伝・後漢書同伝》。

入城した曹操の兵が全滅したのだから、当然馮礼も無事ではいられなかっただろう。

【参照】袁尚 / 審配 / 曹操 / 鄴県 / 平原郡 / 突門

服虔Fu Qian

フクケン

(?〜?)
漢九江太守

字は子慎。河南滎陽の人。初名を「重」または「祗」といったが、のちに改める《後漢書儒林伝》。

若いころは清貧の暮らしをしながら大志を抱き、太学に入って学業を受けた。才能があり、論文を書くのが得意で、『春秋左氏伝解』を著したが、これは現在でも流行している《後漢書儒林伝》。これについては、鄭玄が『左伝』の注釈を構想しているとき、旅行先の宿舎で服虔に遭遇し、服虔が『左伝』に注釈を付けるつもりだと人と語りあうのを聞き、「さっきのあなたの言葉は、わたしの考えと同じものが多かった。わたしの書いたものを全てあなたに託そう」と草案を与えたという話が伝わっている《世説新語》。また何休が漢朝の事柄について六十箇条の批判をしたことに対し、『左伝』を根拠に反論を加えている《後漢書儒林伝》。

孝廉に推挙され、少しづつ昇進していった《後漢書儒林伝》。尚書侍郎から高平の県令をへて《後漢書儒林伝集解》、中平年間(一八四〜一八九)の末期、九江太守に任命された。罷免されたのち、戦乱に遭遇したため旅暮らしをした《後漢書儒林伝》。李傕・郭汜が混乱を起こしていたころ、服虔は徐州刺史陶謙らとともに朱儁を太師に推挙している《後漢書朱儁伝》。

病気のために卒去した。残した作品は賦、碑、誄、書記、連珠、九憤、合わせて十篇あまりだった《後漢書儒林伝》。

【参照】何休 / 郭汜 / 朱儁 / 鄭玄 / 陶謙 / 李傕 / 河南尹 / 九江郡 / 滎陽県 / 高平侯国(高平県) / 徐州 / 県令 / 孝廉 / 刺史 / 尚書侍郎 / 太師 / 太守 / 春秋漢議(何休の漢朝批判) / 春秋漢議駁(服虔の何休批判) / 春秋左氏伝(左伝) / 春秋左氏伝解 / 太学

文鴦Wen Yang

ブンオウ
(ブンアウ)

文俶

文醜Wen Chou

ブンシュウ
(ブンシウ)

(?〜200)

袁紹の大将・将帥《後漢書袁紹伝》。

建安四年(一九九)、袁紹は精兵十万人・騎馬一万匹を選りすぐり、許を攻撃せんと企て、審配・逢紀に軍事を統括させ、田豊・荀諶・許攸を謀主(参謀長)とし、顔良・文醜を将帥とした《後漢書袁紹伝》。文醜は顔良とともに袁紹軍の名将として知られており《武帝紀》、このとき曹操のもとにいた孔融は「顔良・文醜の武勇は三軍に傑出しており、(彼らが)袁紹の軍勢を統率しているのだから、勝つことは難しかろう」と評している《後漢書荀彧伝》。

翌二年二月、袁紹は顔良らに白馬城を包囲させたが、顔良は曹操の手の関羽・張遼に敗れて死んだ《武帝紀・関羽伝》。曹操が白馬の軍勢を引き揚げて西方に移動したので、袁紹軍は黄河を渡って延津南岸の砦を占拠し、文醜が劉備とともに騎兵五・六千人を率いて曹操を追撃した《武帝紀・荀攸伝》。

ちょうど白馬城からの輜重隊が曹操陣営に入ろうとしたので、文醜は軍勢を分割して輜重隊を襲撃させた。そこで曹操は攻撃命令を出した。徐晃らの活躍もあり、文醜は陣形が乱れていたため戦死した《武帝紀・荀攸・徐晃伝》。これに先立って荀彧が「顔良・文醜は匹夫の勇に過ぎず、一度の戦いで手取りにできよう」と語っていた通りになった《荀彧伝》。

【参照】袁紹 / 関羽 / 顔良 / 許攸 / 孔融 / 荀彧 / 荀諶 / 徐晃 / 審配 / 曹操 / 張遼 / 田豊 / 逢紀 / 劉備 / 延津 / 許県 / 黄河 / 白馬県 / 将帥 / 謀主

文俶Wen Chu

ブンシュク

(238〜291)
晋東夷校尉・仮節・関内侯

譙国譙県の人。文欽の次子。小名「鴦」《毌丘倹伝》。「文淑」とも書く《晋書武帝紀・同恵帝紀》。

正元二年(二五五)正月乙丑、父の揚州刺史文欽が鎮東将軍毌丘倹に従って反乱を起こすと、大将軍司馬師が追討軍を起こした《高貴郷公紀》。このとき文俶はまだ十八歳、その武勇は全軍の筆頭であった《晋書景帝紀》。翌閏月、文俶が「彼らがまだ準備せぬうちに攻撃すれば打ち破れましょう」と告げたので、軍勢を二手に分けて夜中に挟撃することになった。まず文俶が勇者を率いて進発し、司馬師陣営に大声を浴びせかけると、敵兵たちは震えおののいた《毌丘倹伝》。

文俶は敵城に登って三度も鼓を打ったが、文欽が刻限に遅れたため連繋することができず、そのまま夜が明けてしまったので文俶は撤退し、文欽も引き返した《毌丘倹伝・晋書景帝紀》。司馬師は「文欽が逃げるぞ。最初の鼓には気迫があり、二度目は衰え、三度目で尽き果てた。文鴦は三度の鼓を打ったが、文欽が連繋しなかったため、その気勢はすでに失われている」と言い、追撃を命じた《晋書景帝紀》。

文俶は「まず敵の勢いを削がねば撤退することはできませぬ」と言い、騎兵十騎余りを連れて敵陣に突入し、行く先々を蹴散らし、そのおかげで退却することができた。司馬師が司馬璉・楽綝に命じて追撃させると、文欽は大敗して文俶とともに呉に逃走した《晋書景帝紀》。毌丘倹は軍兵に見捨てられて殺された《毌丘倹伝》。

もともと司馬師は目の近くに瘤を患っていたが、文俶が攻め寄せたとき、驚きのあまり目玉を落とし、同月辛亥、それが原因で死んだ《晋書景帝紀》。

甘露二年(二五七)五月乙亥、征東大将軍諸葛誕が揚州刺史楽綝を殺して反乱を起こすと、文欽は唐咨らとともに寿春に入城した。しかし翌三年、文欽は諸葛誕と仲違いして殺されてしまう。文俶は文虎とともに軍勢を率いて城内にあり、父が殺されたと聞いて駆け付けようとしたが、兵士どもが言うことを聞かなかったので身一つで城壁を越え、大将軍司馬昭に身を寄せた《諸葛誕伝》。

軍吏が処刑を申し出たが、司馬昭は「文欽の罪は処刑を免れるものではないし、その息子も極刑に相当する。しかし文鴦・文虎は追い詰められて帰参したのだぞ。それに城が陥落せぬうちに彼らを殺しては、敵軍の心を固めてしまうからのう」と言い、文俶・文虎を赦免した《諸葛誕伝》。

文俶は司馬昭の命令を受けて数百騎を率い、寿春城外を巡りながら「文欽の息子でさえ殺されなかったのだぞ。それ以外の者に何の心配があろう?」と呼びかけた。司馬昭の上表によって文俶・文虎は将軍に取り立てられ、それぞれ関内侯の爵位を賜ったので、城内の者は喜び、また騒然とした《諸葛誕伝》。司馬昭が四方から一斉に城壁を登らせると、城兵は身動きせず、諸葛誕は斬首され、唐咨は投降した《諸葛誕伝》。文俶・文虎は文欽の亡骸の収容を許され、車牛を支給され、故郷の墓地に埋葬した《諸葛誕伝》。

晋の咸寧三年(二七七)三月《晋書武帝紀》、羌族の樹機能らが叛逆して屯田兵を誘拐しようとしたので、征西大将軍司馬駿は平虜護軍文俶に涼・秦・雍州の諸軍を監督させ、一斉に進駐させて威圧をかけると、機能は配下の二十部隊を連れて軍門に降った《晋書宣五王伝》。この戦いで涼州の異民族を撃破し、文俶は天下に名声を馳せた《諸葛誕伝》。

太康年間(二八〇〜二九〇)に東夷校尉・仮節となり、赴任に際して武帝に拝謁したが、武帝は彼を憎らしく思い、他事にかこつけて免官した《諸葛誕伝》。

文俶は殺されたとき東夷校尉だったとあり、ここで免官されたとあるのは辻褄が合わない。

永平元年(二九一)三月辛卯に太傅楊駿らが誅殺されたとき、その日の賞罰はすべて東安公司馬繇の胸次第であった。司馬繇は文欽を殺した諸葛誕の外孫だったので、文俶に敵討ちをされてはかなわぬから、この機会に文俶を殺してしまおうと考え、文俶は叛逆を企てておりましたと誣告した。そのため文俶は三族皆殺しにされた《晋書宣五王伝》。

【参照】楽綝 / 毌丘倹 / 司馬炎(武帝) / 司馬師 / 司馬駿 / 司馬昭 / 司馬繇 / 司馬璉 / 樹機能 / 諸葛誕 / 唐咨 / 文欽 / 文虎 / 楊駿 / 呉 / 寿春県 / 譙県 / 譙国 / 晋 / 秦州 / 東安郡 / 揚州 / 雍州 / 涼州 / 関内侯 / 公 / 刺史 / 征西大将軍 / 征東大将軍 / 大将軍 / 太傅 / 鎮東将軍 / 東夷校尉 / 督州軍事 / 平虜護軍 / 夷三族(三族皆殺し) / 仮節 / 羌族 / 小名

文淑Wen Shu

ブンシュク

文俶

文則Wen Ze

ブンソク

(?〜199?)

建安三年(一九八)、袁紹が易京に総攻撃をかけると、公孫瓚は子息公孫続を使者として黒山賊張燕に救援を求めた。翌四年春、張燕・公孫続が軍勢十万人を率いて城外まで来援した。公孫瓚は文則を城外に出し、「鉄騎五千を率いて城北の湿原に潜み、合図の狼煙を挙げよ。吾も城を出るから挟み撃ちにするのだ」と公孫続に伝えさせようとしたが、文則は袁紹の斥候に手紙を奪われた。袁紹は偽の狼煙を挙げて公孫瓚を誘き出して大破、易京を陥落させた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

【参照】袁紹 / 公孫瓚 / 公孫続 / 張燕 / 易京 / 黒山賊

平漢Pinghan

ヘイカン

陶升

蒲元Pu Yuan

ホゲン

(?〜?)
蜀丞相西曹掾

蒲元は丞相諸葛亮の西曹掾である《全三国文》。奇抜な工夫に思いを馳せることが多く、その答えは天の声を聞くようにひらめき、次々に発明するさまはまるで神業であった《太平御覧》。

今まで刀作りなど一度もしたことがないのに、あるとき突然、斜谷にこもって三千振りの刀を鋳造し、諸葛亮に献上した。その製法は、金を溶かして鋳型にするもので、普通のやり方とは全く違っていた《太平御覧》。

刀の形ができ上がると、「漢水の水は柔らかくて焼きを入れるには向かない。蜀の長江がきりりと清冽なのは、その地が大いなる金の精に対応しているからだ」と言い、数人ばかり成都へやって汲んでくるように命じた。一人の水汲みが一足早く帰ってきたので、その水で刀に焼きを入れようとしたが、蒲元は「涪水の水が混じっておるな。これでは使えない」と言う。水汲みは「混ざっておりませぬ」と抗弁したが、蒲元はその刀で水面に線を引きながら「八升も混じっておるのに、どうして混じってないなどと言うのか?」と言った。水汲みははっと平伏して「実は涪津の渡しで転んで水をこぼしてしまい、恐くなって涪水で増やしたのです」と明かした。それ以来、人々は驚きとともに敬服し、「神妙」であると称した《太平御覧》。

刀が仕上がると、小さな鉄球をつめた竹筒を用意し、刀を振りあげてそれを切りつけた。なんの手応えもなく、竹筒は干し草のようにすぱっと切れた。そうしたことが当時では類を見なかったことから、「神刀」と名付けられたのである。現在の屈耳環はその鋳型から作られたものである(?)《太平御覧》。

『蒲元伝』(『太平御覧』『芸文類聚』所収)は姜維の作か。要確認。

蒲元は木牛を製作し、丞相諸葛亮に手紙を送って「蒲元らは昔から構想していた木牛をすぐさま完成させました。二本のながえを上げ下げすることにより、人間が六尺を歩くところを木牛は四倍の速さで行きます。これを使えば一年分の食糧を一人で運ぶことができます」と報告した《全三国文》。

【参照】諸葛亮 / 漢水 / 蜀 / 成都県 / 長江 / 涪津 / 涪水 / 斜谷 / 丞相 / 西曹掾 / 屈耳環 / 神刀 / 木牛

歩闡Bu Chan

ホセン

(?〜272)
呉昭武将軍・西陵督・西陵亭侯
晋都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司・侍中・仮節・領交州牧・宜都公

字は仲思《建康実録》。臨淮淮陰の人。歩騭の次子、歩協の弟《歩騭伝》。

兄である撫軍将軍歩協が亡くなると遺児の歩璣が所領を、弟の歩闡が西陵督の業務を継いだ。歩闡は昭武将軍を加えられ、功績により西陵亭侯に封ぜられる《歩騭伝・建康実録》。

封地を『歩騭伝』は西亭、『建康実録』は西陵亭とする。西陵督との関連が考えられるので、ここでは西陵説を採る。また『建康実録』では、まず西陵亭侯に封ぜられたことを記したのち、西陵督の業務を継いだと述べる。

甘露元年(二五六)九月、歩闡が武昌に遷都すべきと上表すると、孫晧は鎮西将軍陸凱の諫言を斥けてこれを認め、御史大夫丁固・右将軍諸葛靚らに建業を守らせ、同年十一月、武昌に遷都して大赦令を下した《孫晧伝・建康実録》。

鳳凰元年(二七二)八月、孫晧は歩闡を召し寄せて繞帳督に任じようとしたが、歩闡は、父兄代々にわたり西陵に駐屯していたのに、いきなりお召しの命令が来たということで、自分が官職を失うのではないかと思い、また讒言によって危害を加えられることを恐れ、命令に従わず、ついに城を抱えたまま晋に投降した《孫晧・歩騭伝・建康実録》。甥の歩璣・歩璿を人質として洛陽に送ると、晋は歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司に任じて、侍中の官職を加増し、仮節・領交州牧とし、宜都公に封じた《歩騭伝》。

『歩騭伝』では歩璿を歩闡の弟とするが、『建康実録』では歩闡の兄の子としている。『歩騭伝』が歩璣の弟とすべきところを歩闡の弟と誤ったのか、『建康実録』が兄の子を歩璣とすべきところを歩璿と誤ったのか、よく分からない。ここでは歩璿を歩璣の弟と解した。

孫晧は大将軍・楽郷都督陸抗に歩闡の包囲を命じた《孫晧伝》。陸抗は左奕・吾彦・蔡貢らを西陵に急行させ、陣営を赤渓から故市まで広げて厳しく包囲せよと命じ、内向きには歩闡を包囲し、外向きには外敵を阻止しようとした《陸遜伝》。歩闡は城内に立てこもって晋軍の来援を要請し、資金を投じて蛮族どもを誘い込んだ《晋書陸機伝》。晋の車騎将軍羊祜は五万人を率いて江陵に向かい、荊州刺史楊肇に陸抗を攻撃させた《晋書羊祜伝》。

『晋書』羊祜伝によると、陸抗軍三万人に対し、羊祜の統括する軍兵は八万人であったといい、同伝で五万人と言っているのと相違がある。『宋書』五行志でも楊肇を含めて八万人とある。総勢八万のうち、江陵に向かった羊祜本隊が五万ということだろうか。

晋の巴東監軍徐胤が水軍を率いて建平に到着し、楊肇も西陵に着陣した。陸抗は江陵督張咸に命じて江陵を固めさせ、公安督孫遵に命じて長江南岸で羊祜を防がせ、水軍督留慮・鎮西将軍朱琬に命じて徐胤を防がせ、陸抗自身は楊肇と対峙した。楊肇は一ヶ月ばかり陸抗を攻撃したが、十二月、計略も尽き果てたため夜中に逃走した。陸抗が軽騎兵でもって追撃すると、楊肇勢は壊滅し、羊祜らもみな軍勢を引きあげた《陸遜伝》。

西陵城が陸抗によって陥落したとき、歩闡は活路を開いて逃げようとはせず、その同調者の数十人とともに三族皆殺しとなった《孫晧・陸遜伝・晋書陸機伝》。歩氏は歩璿が祭祀を継いだのみで、残りはみな血筋が絶えたのである《歩騭伝》。

【参照】吾彦 / 左奕 / 蔡貢 / 朱琬 / 諸葛靚 / 徐胤 / 孫晧 / 孫遵 / 張咸 / 丁固 / 歩璣 / 歩協 / 歩騭 / 羊祜 / 楊肇 / 陸凱 / 陸抗 / 留慮 / 宜都郡 / 荊州 / 建業県 / 建平郡 / 公安 / 交州 / 江陵県 / 故市 / 晋 / 西陵県 / 西陵亭 / 赤渓 / 長江 / 巴東郡 / 武昌県 / 洛陽県 / 楽郷 / 臨淮郡 / 淮陰県 / 右将軍 / 衛将軍 / 仮節 / 監軍 / 儀同三司 / 御史大夫 / 公 / 刺史 / 侍中 / 車騎将軍 / 昭武将軍 / 大将軍 / 鎮西将軍 / 亭侯 / 督 / 都督 / 撫軍将軍 / 牧 / 夷三族(三族皆殺し) / 大赦

輔匡Fu Kuang

ホキョウ
(ホキヤウ)

(?〜?)
蜀右将軍・中郷侯

字は元弼。襄陽郡《楊戯伝》または南郡《華陽国志》の人。

劉備に従って益州に入り、章武元年(二二一)に固陵郡が巴東郡と改められたとき巴東太守となった《楊戯伝・華陽国志》。翌二年に劉備の東征に従い、夷陵周辺で別働隊を統率した《陸遜伝》。官位・年齢ともに李厳に次ぎ、翌三年ごろ護軍となり、建興年間(二二三〜二三八)に鎮南将軍に任じられ、延煕四年(二四一)以降に右将軍・中郷侯となった《楊戯伝》。楊戯は豪毅をもって辺境の地で活躍したと評している。

【参照】楊戯 / 李厳 / 劉備 / 夷陵 / 益州 / 襄陽郡 / 中郷 / 南郡 / 巴東郡 / 右将軍 / 郷侯 / 護軍 / 鎮南将軍

彭参Peng Cen

ホウシン
(ハウシン)

(?〜?)
漢鉅鹿丞

鉅鹿郡丞《水経注》。

漳水が渡し場で氾濫して農作ができなくなったとき、鉅鹿太守張導・郡掾馬道嵩とともに堤防を築いて流れを正した《水経注》。

【参照】張導 / 馬道嵩 / 鉅鹿郡 / 漳水 / 郡掾 / 郡丞 / 太守

逢紀Pang Ji

ホウキ
(ハウキ)

(?〜203)
漢護軍

字は元図。袁紹の賓客《袁紹伝》。

本郡は分からない。南陽あるいは汝・潁あたりの人だろうか。

何進は朝政を掌握すると宦官誅滅を計画し、袁紹・袁術を厚遇するとともに、智謀の士として逢紀・何顒・荀攸らを召し寄せて腹心とした《後漢書何進伝》。そののち袁紹は董卓と仲違いして出奔し、許攸・逢紀とともに冀州に赴いたが、逢紀が聡明で計略の持ち主であったことから、とりわけ彼を寵愛信任し、共同して事業を興したのである《袁紹伝》。

初平二年(一九一)、逢紀は袁紹にささやいた。「将軍は大事業を興されながら他人の支給を当てにしておられます。一州まるごと領さねば我が身を守ることさえ叶いますまい」、袁紹「冀州の軍は強く、我が士卒は飢えておる。うまく解決できねば立つ瀬もない」、逢紀「公孫瓚と示し合わせて南方へ呼び寄せ、冀州を攻撃させるのがよろしゅうございます。公孫瓚は必ずや馳せ参じて韓馥に恐怖を抱かせるでありましょう。そこで使者をやって利害を説き禍福を述べさせれば、韓馥は必ずや謙譲の気持ちを起こします。そうなればその官位に居座るのも可能になるのでございます」《袁紹伝》。

袁紹がその進言を採用したところ、公孫瓚は思った通りやってきた。袁紹が高幹・荀諶らに韓馥を説得させると、韓馥はもともと臆病な性質だったので、冀州牧の官位を袁紹に譲った《袁紹伝・後漢書同伝》。

建安三年(一九八)、曹操はついに袁紹と対峙することになった。孔融は「審配・逢紀は尽忠の臣であり、その事務を担当している。勝つのは難しかろう!」と歎いたが、荀彧は「審配は専制的だが無計画であり、逢紀は実行力があるが自分の事しか考えていない。その二人が残って後方を取り仕切っているのだ。もし許攸の家族が法を犯せば、放置しておくわけにもいくまいが、放置せねば許攸は必ず変事を起こすだろう」と答えている《荀彧伝》。

五年、審配・逢紀に軍事を統括させ、田豊・荀諶・許攸を謀主とし、顔良・文醜を将帥とし、精鋭十万人、騎兵一万人を選りすぐって許を攻撃せんとした《袁紹伝》。袁紹は田豊が持久戦を何度も主張するのを聞き入れず、志気を阻喪させてしまったと怒り、彼を獄に繋いだ《袁紹伝》。逢紀が田豊の正直さを恐れはばかり、たびたび袁紹に讒言したため、袁紹は田豊を疎んじるようになっていたのである《袁紹伝》。

袁紹軍は官渡において戦いに敗れ、逃走した。軍兵たちはみな胸を叩きながら「あのとき田豊がいれば、ここまでひどくはならなかっただろうに」と泣いた。袁紹が「冀州の人々は吾が敗北したと聞けばみなが吾を心配してくれるだろう。だが田別駕だけは以前、吾を諫止してくれていて他とは違っていた。吾は彼に会うのが恥ずかしいよ」と告げると、逢紀が「田豊は将軍の敗北を聞いて手を打って大笑いし、自分の言葉が的中したと喜んでおりますぞ」と答えた。袁紹は田豊を殺害した《袁紹伝》。

逢紀が讒言したのは田豊一人だけである。次段の彼の言葉と合わせて考えると、田豊を陥れたのは国事のためということになる。果たしてそうなのであろうか。

はじめ審配が任用されたとき、逢紀は彼と不仲であった。孟岱という人も審配と仲が悪く、蔣奇に言い含めて彼のことを讒言させた。袁紹が護軍の逢紀に訊ねると、逢紀は「審配は生まれついての烈直であり、古人の節義を持っております。お疑い召されるな」と言った。袁紹が「君は彼を憎んでいたのではないか?」と問うと、逢紀は「以前争ったのは私情、いま述べているのは国事であります」と答える。袁紹はそれを褒め、審配の罷免を取り止めた。このことから審配と逢紀は協力しあうようになった《袁紹伝・後漢書同伝》。

七年、袁紹が亡くなった。袁紹は末子袁尚の美貌を愛し、彼を後継者にしようと思いながらも発表はしなかった。審配・逢紀は辛評・郭図と権力を争っていたが、審配・逢紀はかねて驕慢・奢侈を袁譚に疎まれており、袁尚と親しく、辛評・郭図は袁譚と親しかった。人々は年長の袁譚を擁立したく思っていたが、審配らは袁譚が立てば辛評らに危害を受けるであろうと恐れ、袁紹の平素からの気持ちを利用して袁尚を後継者に立てた。袁譚は到着しても跡を継ぐことができず、車騎将軍を自称した。こうして袁譚・袁尚は仲違いしたのである《袁紹伝・後漢書同伝》。

九月、曹操が北進して袁譚・袁尚を征伐しようとしたとき、袁譚は黎陽に布陣したが、袁尚は僅かばかりの兵を袁譚に与えるだけで、しかも逢紀を(監視役として)袁譚に従軍させた《袁紹伝》。曹操が勝利を重ねると、諸将は勝利に乗じてそのまま攻め込もうと主張したが、郭嘉は「袁紹は子息二人を愛して嫡子を立てておりませんでした。郭図・逢紀が彼らの謀臣となっているのですから、必ずや仲違いをいたします。追い詰めれば助け合いますが、泳がせれば争いの心を起こすでしょう」と述べ、まず南方を征するよう勧めた。翌年五月、曹操は許へと引き揚げた《武帝紀・郭嘉伝》。

袁譚は「いま曹操軍は引き揚げたが、人々は帰郷の念にかられている。彼らが黄河を渡りきらぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ」と言って袁尚に増兵を求めたが、袁尚は彼の真意を疑って許可しなかった。袁譚は激怒して逢紀を殺し、外門に攻め寄せて袁尚と戦ったが敗退、南皮に引き揚げた《袁紹伝・後漢書同伝》。

『三国志』袁紹伝が逢紀の死を建安七年とするのは誤り。『郭嘉伝』に見えるように、逢紀が殺されたのは翌八年五月、曹操軍が撤退したあとのことである。

袁尚がさらに進撃して南皮を包囲すると、袁譚は平原へと逃走した。九年三月、審配が袁譚に手紙を送っている。「凶悪なる臣下逢紀が蛇足を描き、言葉をねじ曲げて媚びへつらい、交誼を混乱させました。将軍は猛然とお怒りになり、時を措かず誅殺されましたが、我が将軍もまたご命令を奉じて(逢紀の家族の)処刑を行われたのであります」《袁紹伝》。

『後漢書』袁紹伝では「凶悪な臣下」を郭図のこととする。

【参照】袁尚 / 袁紹 / 袁術 / 袁譚 / 何顒 / 何進 / 郭嘉 / 郭図 / 韓馥 / 顔良 / 許攸 / 孔融 / 公孫瓚 / 高幹 / 荀彧 / 荀諶 / 荀攸 / 蔣奇 / 辛評 / 審配 / 曹操 / 田豊 / 董卓 / 文醜 / 孟岱 / 外門 / 官渡 / 冀州 / 許県 / 黄河 / 南皮県 / 平原郡 / 黎陽県 / 車騎将軍 / 別駕従事 / 牧 / 宦官

鮑信Bao Xin

ホウシン
(ハウシン)

(?〜192)
漢済北相・行破虜将軍

泰山郡平陽の人。司隷校尉鮑宣の後裔、鮑丹の子、鮑邵・鮑勛の父、鮑韜の兄《鮑勛伝》。

鮑信は若くして節義を重んじ、寛容にして人を愛し、沈勇豪毅にして知謀を持っていた。中平元年(一八四)に黄巾賊が蜂起すると、大将軍何進は彼を招いて騎都尉とし、東方に帰郷させて募兵させた。鮑信は千人余りを手に入れたが、そのなかには于禁もいた。鮑信は成皋まで引き返したところで何進が殺されたと知ったが、そのまま京師(みやこ)に帰還した《鮑勛伝》。

そのころ董卓の軍勢が到着していて都を脅かしていたため、鮑信は中軍校尉袁紹に告げた。「董卓は強力な軍勢を擁して異心を抱いております。いま速やかに計画を下さなければ制約を受けることになりますぞ。やってきたばかりで疲労しておりますから、彼を襲撃すれば生け捕りにすることもできましょう」。袁紹は董卓を恐れていたので手を下すことができず、鮑信は(官職を棄てて)手勢を率いて郷里に帰った。そこで軍勢をかき集め、兵士二万人、騎馬七百匹、輜重車三千乗を手に入れた《董卓・鮑勛伝》。

初平元年(一九〇)正月、曹操らとともに打倒董卓の義兵を挙げた《武帝紀》。曹操は勃海太守袁紹とともに、鮑信を行破虜将軍、その弟鮑韜を裨将軍に任命するよう上表した。当時、袁紹の軍勢が最も多く、豪傑たちの多くは彼に付き従ったが、鮑信だけは曹操に「そもそも計略は不世出、能力は英雄たちを総攬され、混乱を収めて正道に立ち返らせられるのは君(あなた)です。そうした人物でなければ強力であっても必ず倒れるものです。君は天帝のお導きを得た方でしょう」と言い、自分から深く結びついた。曹操もまた親しくして異才であると評価した《鮑勛伝》。

曹操は鮑信・鮑韜・衛茲らを率いて滎陽に進出したが、汴水で董卓の将徐栄に敗北を喫し、曹操・鮑信は負傷し、鮑韜・衛茲は戦死した《武帝紀・鮑勛・衛臻伝》。このとき曹洪が乗馬を差し出したので曹操は九死に一生を得たが《曹洪伝》、徐栄は曹操がわずかな軍勢で一日中奮戦したのを見て、軍勢を引き返している《武帝紀》。

翌二年七月、袁紹が韓馥から冀州牧の地位を奪取したとき、鮑信は曹操に告げた。「いま袁紹は盟主となりながら、権力をもって利益を独占しておりますが、これこそ董卓がまた一人いるようなものです。彼を抑え付けようにも(我らの)力では制御することができませんから、まずは黄河南岸を経略し、彼の身に変事が起こることを待ちましょう」。曹操はそれを善いことだと思った。曹操は東郡太守になると、上表して鮑信を済北国の相とした。《鮑勛伝》。

翌三年四月、黄巾賊の大軍が兗州に闖入して、任城国相鄭遂を殺害し、さらに東平に転進した。兗州刺史劉岱が彼らと抗戦しようとしたので、鮑信はそれを引き止めた。「いま賊軍は百万人もいて、百姓どもは恐れおののき士卒には戦意がなく、敵対することはできません。賊軍を観察すると輜重車がなく、略奪によって軍資に当てています。いまは軍勢の力を蓄えて固守するのが最上、奴らはきっと離散するに違いありません。そのあとで精鋭を選んで奴らを攻撃すれば破ることができましょう」。劉岱は聞き入れず、とうとう敗死してしまった《武帝紀・鮑勛伝》。

曹操の将陳宮が曹操を兗州牧に推戴すべしと別駕従事・治中従事を説得しはじめた。鮑信らもそれに賛同し、州吏万潜らとともに東郡へ赴き、曹操を出迎えて兗州牧に擁立した。曹操はそのまま進軍して寿張の東郊で黄巾賊を攻撃しようと思い、まず鮑信らを引き連れて敵情視察に赴いた。後続の歩兵軍がまだ到着しないうちに賊軍と遭遇し、鮑信は曹操を逃がすため奮戦したすえ戦死した。曹操はやっとの思いで賊軍を打ち破ることができたが、賞金をかけて鮑信の亡骸を探しても見付からなかったので、人々は木を削って鮑信の姿を作り、それを祭って哭礼を行った。四十一歳であった《武帝紀・鮑勛伝》。

建安十七年(二一二)、曹操は鮑信の功績をさかのぼって論功行賞し、上表して子鮑邵を新都亭侯、その弟鮑勛を丞相掾とした《鮑勛伝》。鮑信の家は代々儒学を修める家柄で、我が身は倹約に努めていたのに将兵を手厚く養ったため、財産はすっかり無くなってしまった。それゆえ士卒たちは彼になついていた《鮑勛伝》。

【参照】于禁 / 衛茲 / 袁紹 / 何進 / 韓馥 / 徐栄 / 曹洪 / 曹操 / 陳宮 / 鄭遂 / 董卓 / 万潜 / 鮑勛 / 鮑邵 / 鮑宣 / 鮑丹 / 鮑韜 / 劉岱 / 兗州 / 冀州 / 滎陽県 / 黄河 / 寿張県 / 任城国 / 新都亭 / 成皋県 / 済北国 / 泰山郡 / 東郡 / 東平国 / 平陽県 / 汴水 / 勃海郡 / 騎都尉 / 刺史 / 相 / 丞相掾 / 司隷校尉 / 太守 / 大将軍 / 治中従事 / 中軍校尉 / 亭侯 / 破虜将軍 / 裨将軍 / 別駕従事 / 牧 / 行 / 黄巾賊

龐羲Pang Xi

ホウギ
(ハウギ)

(?〜?)
漢左将軍営司馬

河南尹の人《劉焉伝》。劉璋の子劉循の岳父である《劉璋伝》。

はじめ官に仕えて議郎となっていたが、先祖代々の付き合いがあった劉焉の子劉範が馬騰とともに長安を襲撃し、敗北して殺されると、劉範の遺児たちを引き連れて蜀に入った《劉焉伝》。龐羲は和徳中郎将となった《華陽国志》。劉焉の死後、劉焉の子劉璋は漢中の張魯と仲違いし、しばしば龐羲・李異に張魯を討伐させたが勝てなかった。そこで興平二年(一九五)、龐羲を安漢に駐屯させ、巴郡太守に任じて張魯を防がせた《華陽国志》。

動乱に備えて漢昌の賨族をかり集めて私兵にしていたところ、叛逆の意ありと劉璋に讒言する者があった。建安六年(二〇一)に征東中郎将趙韙の叛乱が鎮圧されると、龐羲は処罰を恐れ、実際に兵を挙げようとしたが、程畿が誠意をもって弁明するよう勧め、また龐羲が程畿の子程郁を人質に脅しても程畿が屈しなかったので、けっきょく劉璋に陳謝し、処罰を免れた《華陽国志・楊戯伝》。郡名が改称されて巴西太守となる《華陽国志》。龐羲は功績を誇って増長し、劉璋に従わなくなっていった《劉璋伝》。

建安十九年、劉備が益州を平定すると左将軍営司馬となり、麋竺・簡雍らと並んで賓客として遇された《先主伝・華陽国志》。同二十四年、劉備を漢中王に薦める上表文に名を列している《先主伝》。

【参照】簡雍 / 張魯 / 趙韙 / 程郁 / 程畿 / 馬騰 / 麋竺 / 李異 / 劉焉 / 劉循 / 劉璋 / 劉範 / 劉備 / 安漢県 / 河南尹 / 漢昌県 / 漢中郡 / 蜀 / 巴西郡(巴郡) / 営司馬 / 王 / 議郎 / 左将軍 / 征東中郎将 / 和徳中郎将 / 賨族

北宮玉Beigong Yu

ホッキュウギョク

北宮伯玉

北宮伯玉Beigong Boyu

ホッキュウハクギョク

(?〜186)
漢湟中義従

湟中月氏胡の種族で湟中義従となった《後漢書西羌伝》。「北宮玉」とも書く《武帝紀》。

涼州刺史耿鄙が信任した治中従事程球は不正を働き、多くの人々の恨みを買っていた《後漢書傅燮伝》。中平元年(一八四)冬、北地郡の先零羌が枹罕・河関の盗賊どもとともに叛逆し、湟中義従の北宮伯玉・李文侯を擁立して将軍とし、護羌校尉伶徴を殺害した。北宮伯玉らは故(もと)の新安県令辺章・金城従事韓遂らを誘拐して軍帥として軍政を任せ、一緒になって金城太守陳懿を殺し、州郡に放火した《後漢書董卓伝》。

翌二年春、北宮伯玉らの軍勢は数万騎にも上り、表向きは宦官を誅殺するのだと言いながら、三輔地方になだれ込んで園陵を脅かした。詔勅によって左車騎将軍皇甫嵩・中郎将董卓が討伐にあたったが、皇甫嵩は功績を挙げられずに罷免された。こうして辺章・韓遂らはますます勢いづいた《後漢書董卓伝》。

八月、朝廷では張温を車騎将軍・仮節に任じて、執金吾袁滂を副将とし、破虜将軍に任じられた董卓、盪寇将軍周慎らを統率させ、諸郡から集めた歩騎十万人余りの軍勢を美陽に駐屯させ、園陵を守らせた。辺章・韓遂のほうでも軍勢を美陽まで進め、張温らと戦って勝利した。しかし十一月のある夜、尾が十丈余りもある火のような流星が落ち、辺章・韓遂の陣営を明るく照らして馬を激しくいななかせた。辺章らは不吉だと思って金城に帰ろうとしたが、それを聞いた董卓・鮑鴻らの追撃を受けて数千人が首を打たれた《後漢書董卓伝》。

辺章らが敗走して楡中城に楯籠ると、張温は周慎に三万人を預けて追討させた。参軍事孫堅が「賊の補給路を絶て」と諫めるのも聞かず、周慎は楡中城を包囲した。辺章・韓遂らは軍勢を分割して、葵園峡に進出して周慎の補給路を絶ちきった。周慎は恐怖を抱き、輜重車を棄てて逃走した《後漢書董卓伝》。

一方、張温は董卓にも三万人を預けて先零羌を討伐させていたが、董卓は望垣の北で羌族・胡族に包囲され、兵糧も乏しくなってしまった。そこで漁をするふりをして川の渡し場に堰を作り、その密かに堰の下から軍を渡らせた。賊軍が追いかけてくると堰を決壊させたので、軍勢を傷付けることなく逃れることができた《董卓伝・後漢書同伝》。

張温らは軍勢を長安に返して駐屯し、三年春には大尉に任じられたが、同年冬、京師(みやこ)に徴し返された。そのころ北宮伯玉は辺章・李文侯らとともに韓遂に殺害された《後漢書董卓伝》。

【参照】袁滂 / 韓遂 / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 周慎 / 孫堅 / 陳懿 / 程球 / 董卓 / 辺章 / 鮑鴻 / 李文侯 / 伶徴 / 園陵 / 河関県 / 葵園峡 / 金城郡 / 湟中 / 三輔 / 新安県 / 美陽県 / 枹罕県 / 望垣県 / 北地郡 / 楡中県 / 涼州 / 県令 / 護羌校尉 / 左車騎将軍 / 参軍事 / 刺史 / 執金吾 / 車騎将軍 / 従事 / 大尉 / 太守 / 治中従事 / 中郎将 / 盪寇将軍 / 破虜将軍 / 仮節 / 宦官 / 月氏 / 湟中義従 / 先零羌 / 流星