三国志人名事典 列女

王異Wang Yi

オウイ
(ワウイ)

(?〜?)
趙昂妻

王氏の女、趙昂の妻《楊阜伝》。あるいは士氏の女とも伝わる《楊阜伝集解》。

趙昂が羌道の県令になったとき、王異は西県に残っていたが、同郡の梁双が反逆して西城を攻め落とし、王異の息子二人を殺した。王異は六歳になる女趙英と二人で城内にいたが、息子二人が殺されたのを見て、このうえ梁双に辱めを受けるのではないかと思い、刀を抜いて自刎しようとした《楊阜伝》。

しかし趙英の方を見ながら「身どもが死んでお前を棄てたなら、だれを頼りにすればよかろう。西施でさえ不潔な服をまとえば人々は鼻をつまんだと聞く。ましてや私の容貌は西施ほどではないのだから」とため息を吐き、便所の糞尿を衣服に擦りつけて着用し、食事を減らして姿形をやつれさせた。そうして春から冬になるまで過ごし、梁双が州郡と和睦したので、王異はとうとう危険を乗り切った《楊阜伝》。

趙昂が役人をよこして迎え入れたが、(羌道まで)三十里手前のところで宿泊したとき、趙英に向かって「婦人たる者、割り符やお付きの者がなければ部屋から出ぬもの。昭姜は流れに身を投じ、伯姫は身が焼かれるのを待った。彼らの伝記を読むたび、その貞節を壮絶に思ったものだ。いま私は戦乱に遭って死ぬことができず、どうして姑たちと再会できよう。生を盗んで死ななかったのは、ひたすらお前を案じたからであった。いま官舎はもう間近。私はお前と別れて死ぬことにしよう」と告げ、毒薬を飲んで気絶した。(役人が)運よく解毒に効く薬湯を持ち合わせていたので、口を開けて流し込むと、しばらくして息を吹き返した《楊阜伝》。

建安年間(一九六〜二二〇)、趙昂は参軍事に転任し、住まいを冀城に移した。そのとき馬超が冀城に攻撃をかけてきた。王異はみずから韝(ゆごて)を身に着け、趙昂を補佐して守備を固めた。また身に着けていた環や刺繡の服などを全て外し、兵士への恩賞にあてた《楊阜伝》。

馬超の攻撃は激しく、城内は飢えに苦しんだ。(涼州)刺史韋康はもともと慈悲深く、官吏人民が死傷するのを痛ましく思ったので、馬超と講和しようとした。趙昂が諫言したが聞き入れられず、帰宅して王異に説明すると、王異は「君主には諫める臣下があり、大夫には独断の定めがあります。独断が悪いわけではありません。救援軍が関隴(隴関?)に来ていないとも限りませんよ。士卒たちを励まして大功を立て、節義を全うして死ぬべきです。(講和を)聞き入れてはいけません」と言った。趙昂が引き返したころには、韋康はすでに馬超と講和していた《楊阜伝》。

馬超は約束を破って韋康を殺し、趙昂を脅して、その嫡男趙月を人質に取って南鄭へ押し込めた。(馬超は)趙昂が自分のために働いてくれるよう願ったのであるが、内心ではまだ全幅の信頼は寄せられなかった《楊阜伝》。

馬超の妻楊氏は王異の節義ある行動を聞いていたので、ひねもす語り合いましょうと招いた。王異は趙昂を馬超に信頼させて計略を成し遂げようと思い、楊氏に言った。「むかし管仲は斉に入って九州合併の功績を立て、由余は秦に行って穆公の霸業を完成させました。いま社稷は安定したばかりですが、治と乱は人材を得ることが肝要です。涼州の兵馬こそが中夏と矛先を争うことができるのです。熟慮しなくてはいけませんよ。」楊氏は深く感銘し、自分に対して忠義であると思い、改めて王異と交わりを固めた。趙昂が馬超の信頼を勝ちえて、功績を成し遂げて災禍を免れたのは王異のおかげなのだ《楊阜伝》。

趙昂は楊阜らとともに馬超討伐の計画を立てたとき、王異に「我々の計画はこの通りだ。仕事は万全を期すものであるが、趙月はどうしよう?」と訊ねた。王異は声を荒げて答えた。「忠義を我が身に打ち立て、君父の甚大な恥辱を雪ぐのです。首が飛んでも大したことはないのに、ましてや子供一人くらいがどうですか?そもそも項託・顔淵は百歳だったでしょうか。義を貴ぶだけです。」趙昂は「素晴らしい」と言って、(楊阜らと)一緒に城門を塞いで馬超を閉め出した《楊阜伝》。

馬超は漢中へ逃れたが、張魯から軍勢を借りて引き返してきた。王異はまた趙昂とともに祁山に楯籠り、馬超の包囲を受けた。三十日すると救援軍が到着し、解放された。馬超はとうとう王異の息子趙月を殺した《楊阜伝》。

冀城の有事から祁山まで、趙昂は九たびの奇計を繰り出したが、王異はそのいずれにも関わっていた《楊阜伝》。

【参照】韋康 / 管仲 / 顔淵 / 項託 / 昭姜 / 西施 / 張魯 / 趙英 / 趙昂 / 趙月 / 馬超 / 伯姫 / 穆公 / 由余 / 楊氏 / 楊阜 / 梁双 / 漢中郡 / 冀県 / 祁山 / 羌道県 / 秦 / 西県 / 斉 / 中原(中夏) / 南鄭県 / 涼州 / 隴関 / 県令 / 参軍事 / 刺史

蔡琰Cai Yan

サイエン

(?〜?)
董祀妻

字は文姫、または昭姫。陳留圉の人。蔡邕の女《後漢書列女伝》。

文姫は博学で才能に長け、音律に精通していた。六歳のとき、蔡邕が琴を弾いていると弦が切れてしまった。文姫は言った。「第二弦ですね。」蔡邕が「まぐれ当たりだな」と言うと、「呉札は音楽を聞いて国家の興亡を知り、師曠は南風を歌って不吉を知りました。どうして分からないことがありましょう」と答えた。そこで蔡邕はわざと一本の弦を切ってみた。文姫は「第四弦です」と答えた。どちらもぴったりと当たっていた《後漢書列女伝・同集解・同校補》。

文姫は河東の衛仲道に嫁いだが、子ができないまま夫が亡くなったため、実家に戻ってきた。興平年間(一九四〜一九六)、天下に混乱が起こると、文姫は胡人の騎兵に捕まって南匈奴左賢王のものになり、匈奴の部落で十二年暮らしているうちに二人の子を産んだ。曹操はもともと蔡邕と親しかったので、跡継ぎがいないのを残念に思い、そこで使者をやり、黄金・玉璧を出して彼女を買い戻し、同郡の董祀と再婚させた《後漢書列女伝》。

「興平」は「初平」の誤りとみる説が有力《後漢書集解》。

董祀は屯田都尉になったが、法に触れて死罪相当と判決された。文姫は命乞いをするため曹操のもとへ参詣した。このとき公卿・名士や遠方からの使者たちが座を埋め尽くしていた。曹操が賓客たちに言った。「蔡伯喈どののご息女が外におるから、いま諸君のお目にかけたい。」文姫が入ってくると、裸足にざんばら頭であった。地べたに頭を叩きつけて命乞いをし、声色は清らか、言葉は悲しみを極めていた。人々はみな襟を正した《後漢書列女伝》。

曹操が訊ねた。「まこと可哀相に思うのじゃが、もう書状を出してしもうたでな。どうしたものかのう?」文姫は言った。「明公は廏舎に馬一万匹、虎賁に林ができるほど武士をお持ちです。どうして一組の人馬を惜しんで、死を目前にした命を助けてくださらないのですか!」曹操はその言葉に感銘し、すぐさま追加の書状を発して董祀の罪を許してやった《後漢書列女伝》。

寒くなりつつある時期だったので、曹操は頭巾と靴下を彼女に与え、「聞くところによれば、ご夫人の実家には古い書物が数多くあったそうじゃのう。まだ記憶しておられますかな?」と訊ねた。文姫は答えた。「むかし亡き父より四千巻ばかり頂戴いたしましたが、事件に巻き込まれたせいでほとんど残っておらず、今でも暗誦できるのは僅か四百篇余りに過ぎません。」曹操が「今からご夫人のお側へ役人十名をやって、それを書き写させよう」と言うと、文姫は「男女を区別して直接伝授させないのが礼儀だと聞いております。紙筆を頂ければ、ご命令通りに書き写しますが」と言った。こうして書物をまとめて送ってきたが、文字の間違いは一つもなかった《後漢書列女伝》。

のちに家族が離ればなれになった悲しみを思い、二章からなる『悲憤詩』を作った《後漢書列女伝》。また匈奴の部落にいるとき『胡笳十八拍』を作っている《後漢書列女伝集解》。

【参照】衛仲道 / 呉札 / 蔡邕 / 師曠 / 曹操 / 董祀 / 河東郡 / 圉県 / 陳留郡 / 左賢王 / 屯田都尉 / 匈奴 / 南匈奴 / 胡笳十八拍 / 南風 / 悲憤詩

曹節Cao Jie

ソウセツ
(サウセツ)

(?〜260)
漢孝献穆皇后

曹操の女、曹憲の妹、曹華の姉《後漢書曹皇后紀》。

建安十八年(二一三)七月、姉の曹憲、妹の曹華とともに漢の献帝へ進呈され、夫人となり、使持節・行太常事・大司農の王邑が鄴への使者となり、結納品として璧玉・白絹・黒絹・赤絹五万匹が曹家に下賜された。同十九年、そろって貴人に昇進した。十一月丁卯、伏皇后が弑逆されると、翌二十年正月甲子、曹節が皇后に立てられた《武帝紀・後漢書献帝紀・同曹皇后紀》。

『武帝紀』では建安十八年、後宮に入ると同時に貴人になったように書かれているが、おそらく『後漢書』が正しい。また『後漢紀』では建安二十年、皇后になったのは姉の曹憲だったとする。

皇后の座にあること七年、魏が禅譲を受け、その使者が璽綬の引き渡しを求めてきた。曹皇后は腹を立てて渡そうとせず、そうしたことが何度もくり返された。皇后はそれから使者を呼んで部屋に入れ、厳しく責めなじり、璽を軒下に放り投げた。涙を滂沱と流しながら「天はこの璽を祝福なさらなかった!」と言った。左右の者たちはみな顔を上げて直視することができなかった《後漢書曹皇后紀》。

魏が建国されたのち、曹皇后は山陽公夫人となり、それから四十一年後、魏の景元元年(二六〇)六月乙未、薨去した。山陽公と合葬され、陵墓・車馬・御服の儀礼はみな漢の制度に則った。魏帝曹奐により献穆皇后と諡された《後漢書曹皇后紀・常道郷公紀》。

『後漢書』に景初元年(二三七)薨去とあるのは誤り。

【参照】王邑 / 曹華 / 曹奐 / 曹憲 / 曹操 / 伏皇后 / 劉協(献帝・山陽公) / 漢 / 魏 / 鄴県 / 山陽県 / 貴人 / 公 / 皇后 / 使持節 / 大司農 / 太常 / 夫人 / 諡 / 玄纁(黒絹・赤絹) / 行事 / 璽 / 璽綬 / 束帛(白絹) / 璧

孫夫人Sun furen

ソンフジン

(?〜?)

孫権の妹、劉備の夫人《先主伝》。

建安十四年(二〇九)、孫権は、荊州牧になった劉備を恐れ、自分の妹を嫁がせて友好関係を結ぶことにした。劉備は公安の劉郎浦で夫人の船を迎え、その南の繡林山で盛大に婚礼を挙げた。劉備が京へ赴いて孫権に会い、両家はいたく親密な間柄になった《先主伝・同集解》。

夫人は剛胆で目端が利き、兄たちと同じような風格を備えていた。百人余りの女中たちはみな手に手に刀を持って侍立したので、劉備は部屋に入るたび、内心、いつもびくびくしていた《法正伝》。また、北に曹操、東に孫権がいたうえ、懐で孫夫人がいて変事を起こしはしないかとも心配していた《法正伝》。

十六年、劉備は益州入りに際し、孫夫人が呉から連れてきた数多くの官吏兵士どもが不法行為を働くことに頭を悩ませ、留営司馬趙雲の厳格慎重さならばきっとうまく仕切ってくれるだろうと考え、特例として劉氏家中の仕事を委ねた《趙雲伝》。

孫権は劉備が西上したと聞いて、大船団を送って妹を迎え入れることにした。夫人は太子劉禅を連れて帰国しようとしたが、諸葛亮がそれを知り、趙雲に軍勢を授けて劉禅を取り戻すよう命じた。趙雲は張飛とともに軍兵を率いて長江を遮断し、ようやく劉禅を取り戻しすことができた《穆皇后・趙雲伝》。夫人は劉備と仲違いしたため、公安の西に城を築いて、そこに住まいした《先主伝集解》。

のちに劉備が益州を平定すると、孫夫人は呉へ帰国した《穆皇后伝》。

『集解』では孫夫人が劉禅を連れ去ろうとしたのを建安二十年に荊州の領有権をめぐって両家が争ったときのことと推定しているが、ここでは採らない。夫人は劉備と仲違いして公安に築城したというが、それはいつごろのことであろうか。建安二十年、趙雲らはすでに成都に入っていたから、『集解』に従えば夫人も同地にいたことになり、公安に城を築くいとまはない。また荊州が争われたときも公安附近は劉氏の勢力圏であって、やはり夫人が築城することはほとんど不可能だった。つまり『集解』に従うかぎり、夫人が公安に築城したとの記録に矛盾してしまうのである。夫人が劉禅を連れ去ろうとしたのは、劉備が益州入りして以後、趙雲らが公安を去る以前、公安で起こったできことであり、その事件のために不仲となり、公安に城を築いて別邸としたが、両国の戦闘が本格化したのに伴って退去したとみる方が自然ではないだろうか。

【参照】諸葛亮 / 曹操 / 孫権 / 張飛 / 趙雲 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 京 / 荊州 / 呉 / 公安 / 繡林山 / 孫夫人城 / 長江 / 劉郎浦 / 牧 / 留営司馬

張春華Zhang Chunhua

チョウシュンカ
(チヤウシユンクワ)

(189〜247)
晋宣穆皇后

河内平睾の人。司馬懿の正室、司馬師・司馬昭らの生母である。

父は粟邑県令の張汪、母の山氏は山濤の大伯母にあたる。春華は若いころから徳行があり、人並み以上の智識を備えていた。(司馬懿に嫁いで)司馬師・司馬昭・司馬幹・南陽公主を産んだ。

司馬懿は最初、中風を口実として魏武(曹操)の命令を断ったのだが、あるとき書物の虫干しをしていて、急に激しい雨が降ってきたので、思わず立ち上がって書物を片付けた。そのときの様子を女中に見られてしまった。春華は仮病が知られて罪過を被ることを恐れ、口封じのため自分の手でその女中を殺した。司馬懿の家では女中を一人しか雇っていなかったので、春華は自分で炊事をすることにした。司馬懿はこのことから春華を尊重するようになった。

その後、寵愛は柏夫人に移り、春華はほとんど拝謁を許されなくなった。司馬懿が病気に伏せたので、春華が見舞いに行ったところ、司馬懿は「憎らしい老いぼれめ、どうしてわざわざ出てきやがったんだ!」と言った。春華は恥ずかしさと怒りのあまり食を断って自殺しようとした。子供たちも食を断った。司馬懿がびっくりして謝ったので、春華はようやく思い止まった。司馬懿は(部屋を)出るとき「老いぼれはどうなってもよいが、わしのかわいい子供たちが心配でな!」と言った。

春華は正始八年(二四七)に崩御した。ときに五十九歳。洛陽の高原陵に埋葬され、広平県君の位を追贈された。咸煕元年(二六四)に宣穆妃と追号され、武帝司馬炎が受禅したとき皇后と追尊された。

【参照】山濤 / 司馬懿 / 司馬炎 / 司馬幹 / 司馬師 / 司馬昭 / 曹操 / 張汪 / 南陽公主 / 柏夫人 / 河内郡 / 高原陵 / 広平県 / 粟邑県 / 平睾県 / 雒陽県洛陽県) / 県君 / 県令 / 皇后 / 妃

張魯母Zhang Lumu

チョウロノハハ
(チヤウロノハハ)

(?〜200)

張衡の妻、張魯の母《張魯伝》。

益州牧劉焉が赴任してきたとき、州内では豪族の反乱が相次いでいた。張魯の母は容姿に優れており、巫術師として劉焉の家に出入りしていた。そこで劉焉は張魯を督義司馬に抜擢して漢中を攻略させた《張魯伝・後漢書劉焉伝》。

劉焉が亡くなると劉璋が父の職務を継いだが、張魯は彼が暗愚惰弱であったので命令を聞かず、建安五年(二〇〇)、劉璋は怒って彼の母と弟を殺した《後漢書劉焉伝・華陽国志》。

【参照】張衡 / 張魯 / 劉焉 / 劉璋 / 益州 / 漢中郡 / 督義司馬 / 牧 / 鬼道(巫術)

董白Dong Bai

トウハク

(?〜192)

董卓の孫女。

初平元年(一九〇)、董卓が天子を連れて長安に遷都したとき、その一族はみなそろって朝廷に居並んだ。董白はこのときまだ十五歳未満で笄(かんざし)も差していなかったのに渭陽君に封ぜられた。郿城の東に縦横二丈余り、高さ五・六尺の壇を築いて、董白を青蓋の金華車に載せ、郿にいる都尉・中郎将・刺史、それに千石取りには、おのおの車に乗せて正装させ、董白を先導させた。董卓が壇に着いて登ると、伯父の董璜が使者として印綬を授けた《董卓伝》。

【参照】董璜 / 董卓 / 劉協(天子) / 渭陽 / 長安県 / 郿県 / 君 / 刺史 / 中郎将 / 都尉 / 印綬 / 笄 / 金華車 / 青蓋

樊氏Fan Shi

ハンシ

(?〜?)

趙範の兄嫁。

劉備が長江南岸を平定したとき、趙範に代わって偏将軍趙雲が桂陽太守になった。樊氏は中国一の色香の持ち主で、すでに夫を失っていたので、趙範は樊氏を趙雲に引き合わせようとした。趙雲は辞退して言った。「お互い同姓なのだから、貴卿の兄は我の兄も同然です。」固辞して承諾しようとしなかった。当時、それを受け入れるように趙雲に勧めた人もいたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、彼の心を知ることはできないし、天下に女は少なくない」と言い、ついに娶ることはなかった。趙範は果たして逃走したが、趙雲は全く気にしなかった《趙雲伝》。

趙雲が樊氏を娶らなかったのは、関羽が秦宜禄の妻を娶りたいと曹操に請願したのに対し、はるかに賢明である、と『集解』は称えている。

【参照】趙雲 / 趙範 / 劉備 / 桂陽郡 / 長江 / 太守 / 偏将軍