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カヨウコクシ |
晋常璩撰 |
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漢中・巴・蜀・南中の地方について記された私撰の歴史・地理書。神話の時代から書き起こされるが、重点は公孫述以後にあり、三国の蜀から成漢までが詳しい。しかし最も意を尽くしているのは人物の記録で、大臣・学者から市井の女性まで余すところなく記載すべく努めている。巻一から巻四までは各地方の地理、巻五から巻九まではその統治者を軸にすえた編年体の歴史、巻十から巻十一までは当地の人物、巻十二は序志という構成になっている。 |
サンゴクシ |
晋陳寿撰 |
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三国時代について記された私撰の歴史書。魏を正統として太祖曹操から曹奐まで六代の紀を立て、呉・蜀の君主のためには魏臣と同じく伝を立てている。ただし陳寿は蜀の遺臣であるため、呉の君主を「権」「晧」などと実名で呼び捨てる一方、蜀の君主は「先主」「後主」と呼んで実名を書かない。「前四史」に数えられ、簡潔な名文として高く評価される。 |
サンポケツロク |
漢趙岐撰 |
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後漢の趙岐が三輔地方について記した歴史書。正しく評価されないことを恐れて厳象にしか見せなかったという。人物の記録に偏りすぎていたため、摯虞が事柄について筆を加えた。 |
ジョウヨバフ |
晋傅玄作 |
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その内容は『太平御覧』に掲載されている。「昔日、劉備が最初に降服したとき、太祖(曹操)は葦毛の馬を彼に賜与することとして、自分で廏舎へ行って選ばせた。名馬は百単位で数えられたが、意に適うものはなかった。続いて下級の廏舎へ行ってみたところ、的顱馬がいて、放棄されて目を留める者もなく、痩せ衰えて骨が浮いていた。劉備が愛撫しながらこれに決めると、人々のうち彼を嘲笑せぬ者はなかった。馬超が蘇氏塢を打ち破ったとき、砦の中に駿馬百匹余りがいたので、馬超以下みんなで肥えた馬を競って奪い合った。ただ将軍龐悳だけが薄黄色の馬一匹を取った。姿形は醜く、ここでも人々は彼を嘲笑した。その後、劉備が荊州で逃走したとき、そして馬超が渭南で戦闘したとき、足の速さは電光のはじけるようで、追いかけても追い付くことができなかった。人々はようやく感服したのであった。」 |
ロノレイコウデンノフ |
漢王延寿作 |
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前漢景帝の子である魯の恭王劉余は数多くの宮殿を建造したが、戦火により全てが失われ、ただ霊光殿だけが焼失を免れた。賦はこの霊光殿を詠んだもの。 南郡の王逸は霊光殿の賦を作ろうと思い、息子の王延寿がかつて魯国に遊学したことがあったので、霊光殿がどのような姿であったかと訊ねた。延寿が韻を踏みながら霊光殿の様子を説明すると、王逸は「お前の言葉がそのまま賦になっておる。しかも、わしの力量ではそれ以上のものは作れそうにないよ」と言った。後年、蔡邕もまた霊光殿の賦を作ろうと試行錯誤していたが、あとで王延寿の作品をみて大層立派なのに驚き、自分の試作は投げ捨ててしまった《後漢書集解・襄陽記》。 蜀の車騎将軍劉琰はとりわけこの作品を愛し、女中数十人に教えて暗唱させていたという《劉琰伝》。彼が魯王の子孫だったからであろう。 |