三国志人名事典 蜀志15

鄧芝Deng Zhi

トウシ

(?〜251)
蜀車騎将軍・仮節・督江州・兗州刺史・陽武亭侯

字は伯苗。義陽郡新野の人。漢の司徒鄧禹の末裔。

漢の末期、蜀に入ったが人に認められるには至らず、益州従事張裕が人相を見ると聞いて彼に会いに行った。張裕は「君は七十を越して大将軍となり侯に封ぜられる」と言った。巴西太守龐羲が士を好むと聞いて彼に身を寄せる。劉備が益州を平定したとき郫県の邸閣督(食料庫監督)となった。劉備は視察で郫県を訪れたさい鄧芝と語り合い、彼を非常に高く評価した。それより郫県令、広漢太守と昇進し、それぞれの任地では清潔・厳正な態度をもってよく治め、中央に召されて尚書となった。

劉備が白帝城で亡くなると、丞相諸葛亮は呉の孫権が背くのではないかと考えたが、どうしてよいかわからなかった。そこへ鄧芝が見えて言うには「いま劉禅陛下は幼く、即位されたばかりです。呉に友好の使者を遣すべきではありませんか」。諸葛亮「わしもそれを考えているが、使者に相応しい人が見つからなかったのだ。今その人物が見つかった」、鄧芝「それはどなたで」、諸葛亮「君だ」。こうして鄧芝が派遣され、孫権との友好を図らせた。

孫権は彼を警戒して会おうとしなかったが、鄧芝は手紙を書いて「私は呉のために来ました。ただ蜀だけの利益を考えているのではありません」と上表した。そこで孫権は彼を引見し、「わしはもともと蜀との友好を望んでいたが、蜀の君主が幼くて国土が小さいことを魏に付け狙われるのではないかと心配しているのだ」と述べた。鄧芝は答えて「呉・蜀は四つの州を支配し、大王(孫権)は一世の英雄ですし、諸葛亮も一代の傑物です。蜀に険しく連なる山々の守りがあり、呉にも三江の守りがあります。互いの長所で助け合えば、天下を取ることも三国鼎立することもできます。もし大王が魏に臣従されるなら、魏は入朝せよ、太子を寄越せと言ってくるでしょう。それに逆らえば謀叛人討伐と称して攻めてくるでしょうし、蜀も長江にそって侵攻いたします。そうなれば江南は大王のものではなくなってしまいますぞ」。孫権はしばらく考えて納得した。

孫権は魏と断交し、張温を使者として蜀に返礼した。蜀も再び鄧芝を派遣した。孫権は「天下太平の世となれば、二人の君主で国を分けて治めるのも面白いじゃないか」と鄧芝に語った。しかし鄧芝は「天に二日なく地に二王なしと言います。魏を滅ぼしたのちは、双方の君主が徳を競い、双方の臣下が忠節を尽くし、将軍が陣太鼓を下げて戦いを始めるのです」と答えたので、孫権は「君らしい正直な答えだ」と大いに笑った。孫権は諸葛亮への手紙で「丁厷の言葉は上辺だけで、陰化は言葉足らずだったが、こうして両国が睦まじくできるのは鄧芝の功績だ」と述べている。

諸葛亮が漢中に駐屯したとき中監軍・揚武将軍となり、その没後は前軍師・前将軍に進んで兗州刺史を兼ね、陽武亭侯に封じられる。やがて督江州となる。孫権はたびたび鄧芝に手紙を送って鄭重に贈物をした。延煕六年(二四三)に任地で車騎将軍の辞令を受け、のち仮節を与えられた。将軍の地位にあること二十年余り、信賞必罰で臨んで兵卒をいたわり、衣食は支給だけで間に合わせて倹約も利殖もしなかったので、妻子は飢えや寒さを耐え、家には僅かな財産も遺らなかった。性格は気が強く磊落で、感情を露わにするので人々と上手く付き合えなかった。彼が他人を尊敬することは少なく、ただ姜維の才能だけを高く評価していた。

同十一年、涪陵国の住民が郡都尉を殺して叛乱を起こした。鄧芝はこれを鎮圧し、賊の首領を晒して領民を落ち着かせた。この遠征のとき鄧芝は、山道で黒い猿を見つけ、これを弩で射当てた。すると子猿が矢を抜いて母猿の傷口に木の葉を巻いた。鄧芝は「ああ、物の本性に背いてしまった。わしはもうすぐ死ぬだろう」と歎いた。同十四年、鄧芝は亡くなった。

【参照】陰化 / 姜維 / 張裕 / 諸葛亮 / 孫権 / 張温 / 丁厷 / 鄧禹 / 龐羲 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 兗州 / 漢中郡 / 魏 / 義陽郡 / 呉 / 広漢郡 / 三江 / 江州県 / 江南 / 蜀 / 新野県 / 長江 / 白帝県 / 巴西郡 / 郫県 / 涪陵郡(国) / 陽武亭 / 県令 / 侯 / 刺史 / 司徒 / 車騎将軍 / 従事 / 将軍 / 尚書 / 丞相 / 前軍師 / 前将軍 / 太守 / 大将軍 / 中監軍 / 邸閣督 / 亭侯 / 都尉 / 督 / 揚武将軍 / 仮節 / 相(人相を見る) / 鼎立

張翼Zhang Yi

チョウヨク
(チヤウヨク)

(?〜264)
蜀左車騎将軍・仮節・督建威・冀州刺史・都亭侯

字は伯恭。犍為郡武陽県の人。高祖父は漢の司徒張浩、曾祖父は広陵太守張綱である。

劉備が益州を平定して益州牧となったとき書佐に任じられる。建安の末年に孝廉に推挙され、江陽県長となり、のち涪陵県令、梓潼、広漢、蜀郡太守と栄転していった。

建興九年(二三一)、張翼は庲降都督・綏南中郎将に任じられたが、その性格から、法律を厳格に適用するばかりで異民族の機嫌を取ろうとしなかった。そのため異民族の頭目劉冑が叛乱を起こし、張翼は軍を率いて鎮圧にあたったが、作戦途中で中央からお召しがかかった。部下たちは「急いで謝罪の意を示すべきです」と勧めたが、張翼は「いや、わしに蛮族懐柔の能力がないので任を解かれるだけのことだ。後任者のために兵糧の輸送・蓄積を行って置くべきで、免職を恐れて公務を投げ出すわけにはいかぬ」と言い、後任者の馬忠が来るまで指揮を採り続けた。丞相諸葛亮はそれを聞いて感心した。

諸葛亮は北伐にあたって張翼を前軍都督に任じ、扶風太守を兼ねさせた。諸葛亮が陣没すると前領軍に移り、劉冑討伐の功績により関内侯に封じられる。延煕元年(二三八)、中央に入って尚書に任じられ、やがて督建威・仮節を加えられ、征西大将軍・都亭侯となった。同十八年、衛将軍姜維とともに成都に帰還した。

姜維が再び北伐を提案したとき、ただ一人張翼は国家の弱小と民衆の疲労を理由に反対した。姜維はこれを聞かず、張翼を鎮南大将軍に任じ、彼らを率いて北征の軍を起こした。姜維らは狄道に至って魏の雍州刺史王経を大いに破ったが、張翼は「追撃すべきではありません。進めば武功に傷が付きますぞ」と言った。姜維は腹を立てて聞かず、狄道城を包囲したが陥落させられなかった。こうして姜維は内心では張翼を疎んじるようになったが、遠征のときはいつも彼を引き連れ、張翼もやむを得ず従っていた。

景耀二年(二五九)に左車騎将軍・冀州刺史に昇進する。同六年、姜維に従って剣閣に駐屯し、ともに涪城にいた魏の鍾会に帰服した。ところが翌年の正月、鍾会は成都で叛逆し、張翼はその混乱の中で兵士に殺された。

【参照】王経 / 姜維 / 諸葛亮 / 鍾会 / 張浩 / 張綱 / 馬忠 / 劉冑 / 劉備 / 益州 / 冀州 / 魏 / 剣閣 / 建威 / 犍為郡 / 広漢郡 / 江陽県 / 広陵郡 / 梓潼郡 / 蜀郡 / 成都県 / 狄道県 / 涪県 / 扶風郡 / 武陽県 / 涪陵県 / 雍州 / 庲降 / 衛将軍 / 関内侯 / 県長 / 県令 / 孝廉 / 左車騎将軍 / 刺史 / 司徒 / 尚書 / 丞相 / 書佐 / 綏南中郎将 / 征西大将軍 / 前軍都督 / 前領軍 / 太守 / 鎮南大将軍 / 督 / 都亭侯 / 牧 / 庲降都督 / 仮節 / 推挙

宗預Zong Yu

ソウヨ

(?〜264)
蜀鎮軍大将軍・兗州刺史・関内侯

字は徳豔。南陽郡安衆県の人。

建安年間、張飛に従って入蜀した。建興初年に丞相諸葛亮により主簿に任じられ、参軍・右中郎将に昇進する。諸葛亮が没したとき呉は、魏が衰退に付け込んで蜀を奪い取るのではないかと懼れ、巴丘の守兵を一万人増やした。これは蜀への救援を図り、また魏の侵攻に備えたものである。ところが蜀のほうでも永安の駐留兵を増やして巴丘に対抗しようとした。宗預が使者として呉に赴いたとき孫権は「呉と蜀はいわば家族のようなものだが、なぜ永安の守備兵を増やしたのか」と聞いた。宗預「東の巴丘が増員すれば西の永安も増員します。これは情勢次第なのであって問いただすまでもありますまい」。孫権は大いに笑って宗預の剛直さを認め、鄧芝・費禕に次ぐ敬意をもって愛した。

侍中となり、さらに尚書に昇った。延煕十年(二四七)には屯騎校尉に任じられる。このとき車騎将軍鄧芝が任地の江州から帰っていたが、宗預を嘲って「六十歳になったら軍事に関与しないと『礼記』で定められているのに、君はその歳で初めて兵隊を預かる身となったのはどうしたことか」と言った。宗預は反論して「あなたは七十歳になってもまだ兵隊をお返ししようとしない。六十歳の私が兵隊を預かってもいいでしょう」と答えた。鄧芝の性格は傲岸だったので大将軍費禕でさえ彼に気兼ねしていたが、宗預だけは屈服しなかった。

宗預はまた呉に赴いた。その会見が済むと宗預は「呉は蜀がなければ存在できず、蜀は呉がなければ存在できず、君臣ともども互いに両国を頼みとしています。陛下には充分神慮をお働かせ下さい。私は年老いて病気がちとなり、もう陛下にはお会いすることが出来ません」と言った。孫権は彼の手を握って「君は高齢となり、わしも老衰の身だ。もう二度と会えないだろう」と涙を流して悲しみ、真珠一石を彼に与えた。帰還すると後将軍に昇任し、永安駐屯軍の指揮を委ねられた。のちに任地で征西大将軍を拝命し、関内侯に封じられる。

景耀元年(二五八)、病気が重くなって成都に召し返され、鎮軍大将軍・兗州刺史に任じられた。このころ諸葛瞻が朝廷のことを取り仕切るようになり、彼に挨拶しようと廖化が誘ったが、宗預は「もう我々は七十歳も越えて身に余る栄誉も受けた。もう後は死を待つばかりで、若い連中の機嫌をとることもあるまい」と言って行こうとしなかった。

咸煕元年(二六四)の春、蜀が滅亡したので洛陽に移住させられたが、その途中で病気のため亡くなった。

【参照】諸葛瞻 / 諸葛亮 / 孫権 / 張飛 / 鄧芝 / 費禕 / 廖化 / 安衆侯国 / 永安宮 / 兗州 / 魏 / 呉 / 江州県 / 蜀 / 成都県 / 南陽郡 / 巴丘 / 洛陽県 / 右中郎将 / 関内侯 / 後将軍 / 参軍 / 刺史 / 侍中 / 車騎将軍 / 主簿 / 尚書 / 丞相 / 征西大将軍 / 大将軍 / 鎮軍大将軍 / 屯騎校尉 / 礼記 / 真珠

楊戯Yang Xi

ヨウギ
(ヤウギ)

(?〜261)
蜀射声校尉

字は文然。犍為郡武陽県の人。

若いときに巴西郡の程祁、巴郡の楊汰、蜀郡の張表とともに評判となった。楊戯は彼らのうち程祁が一番だとしていたが、諸葛亮は楊戯を評価していた。二十余歳のとき、益州の書佐から督軍従事に遷って軍中の裁判を仕切ったが、疑わしい事件にも公平な決断を下したと称賛され、丞相府の主簿に任命された。

丞相諸葛亮の没後は尚書右選部郎となったが、益州刺史蔣琬の要請で益州治中従事に異動し、蔣琬が大将軍になると、その東曹掾に任じられた。のち南中郎参軍に進んで庲降都督の副将となり、建寧太守を兼ねた。病気を患ったため成都に召し返されて護軍・監軍に任じられ、のちに梓潼太守を兼任し、また中央に戻って射声校尉を拝命した。どの役職にあっても清潔・簡約で、煩瑣なことは言わなかった。

楊戯の性格は怠惰で、仕事でも手を抜いたりしたが、他人に媚びへつらったり必要以上に愛情を注ぐようなことはなかった。また事務上の指示を文書で与えるときも紙一枚を使い果たすことは少なく簡潔であった。旧友に対する情誼は固く、誠意と厚意を貫き通した。子供のときから巴西郡の韓儼や黎韜とは親友同士だったが、のちに韓儼は病気のため廃人同様になってしまい、黎韜は身持ちが悪く人々から見放された。しかし楊戯は彼らに配慮して生活を助けてやったりして友情は昔のままだった。また当時の人々は譙周には才能が無いと考えて尊敬しなかったが、楊戯だけは彼を尊重して「我々の子孫は彼に劣るだろう」と述べていた。

楊戯はもともと姜維を尊敬していなかったので、いつも酒の席では彼を嘲笑していた。姜維は内心では彼を憎悪したが表面上では寛大な態度を繕っていた。延煕二十年(二五七)、大将軍姜維に従って芒水に出陣したが、軍が帰還したとき姜維の意向を受けた者が楊戯を告訴したので、楊戯は罷免されたうえ庶民に落とされ、景耀四年(二六一)に亡くなった。

楊戯は延煕四年(二四一)に『季漢輔臣賛』を著している。

【参照】韓儼 / 姜維 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 譙周 / 張表 / 程祁 / 楊汰 / 黎韜 / 益州 / 犍為郡 / 益州郡建寧郡) / 梓潼郡 / 蜀郡 / 成都県 / 巴郡 / 巴西郡 / 武陽県 / 芒水 / 庲降 / 右選部郎 / 監軍 / 護軍 / 刺史 / 射声校尉 / 主簿 / 尚書 / 丞相 / 書佐 / 太守 / 大将軍 / 治中従事 / 東曹掾 / 督軍従事 / 南中郎参軍 / 庲降都督 / 府 / 季漢輔臣賛