三国志人名事典 晋書

何攀He Pan

カハン

(244?〜301)
晋大司農・西城桓公

字は恵興。蜀郡郫の人。何包の子《華陽国志》、何璋の父。

何攀の兄弟五人はみな有名であり、何攀は若くして成熟し、目を見張るほどの容姿の持ち主であった。弱冠にして郡主簿となり、上計吏を務め、州に招かれて従事になった《華陽国志》。

刺史皇甫晏は何攀を「王佐の才である」と評価し、主簿に取り立てた。泰始十年(二七四)、母を世話するため実家に帰った《華陽国志》。皇甫晏が牙門張弘に殺され、大逆の罪でもって誣告されたとき、何攀は母の喪に服していたが、そのまま梁州へ参詣し、皇甫晏は反逆していないと保証した。そのおかげで皇甫晏の冤罪は再審されることになった。

皇甫晏の殺害されたのが泰始八年なので《晋書武帝紀》、何攀の帰郷を泰始十年とするのはおかしい。

王濬は益州刺史になると何攀を招いて別駕に任じた。咸寧三年(二七七)、屯田兵を解散して呉討伐のために軍船を建造せよとの詔勅が王濬に下された。何攀は進言した。「いま屯田兵は六百人しかおらず、軍船を造るのに六・七年、予算も一万人分かかります。休養中の正規兵を呼び戻して一万人で造れば、年末までには完成いたしましょう。」《華陽国志》

王濬は兵士一万人を呼び戻すならば、あらかじめ報告して、その返事を待つべきではないかと言った。何攀は言った。「国家には呉を討伐する意志があっても、まだためらう者も多く、兵士一万を呼び戻したいと聞かされればきっと許可いたしますまい。すぐさま兵士を駆りだして完成させてしまえば、もう制止されることはございませぬ。」王濬はその答えに満足した《華陽国志》。

山に入って材木を切り出すには、数百里もの道のりがあり、困難が予想された。そこで何攀は言った。「いま多くの墳墓では松や柏を植えており、残りの十分の四を市場で調達すれば、あっという間です。」王濬は喜び、何攀に軍船建造の監督役を任せた《華陽国志》。

その冬十月、何攀は洛陽への使者に立つことになった。何攀は言う。「聖人の功業は完成して当然ですが、他人にそれを信じさせるのは困難です。羊公(羊祜)は使君(知事どの)の盟友であり、国家の重鎮です。しかも江陵の失策があり、名誉回復を願っておられますので、連名で陳情するのがよろしゅうございます。」王濬が言った。「羊叔子(羊祜)ばかりではない、宗元亮(宗廷)の願いでもある。君が洛陽に到着して、もし国家にその意志がないようなら、すぐさま襄陽へ向かって羊・宗と相談してくれたまえ。」《華陽国志》

何攀は洛陽に到着すると拝謁を許され、呉討伐の策略を献言した。その足で襄陽へ行って荊州刺史宗廷と語り合い、宗廷が決断を下さぬうちに征南大将軍羊祜と会見し、何日もかけて二人で戦略を練った《華陽国志》。

何攀が言った。「もし青州・徐州が海沿いに京口へ向かい、寿春・揚州がまっすぐ秣陵を目指し、兗州・予州が淮水を越えて桑浦を占拠すれば、武昌から会稽までを恐慌状態に陥れることができます。荊州・平南が夏口へ直進し、巴東諸軍が西陵を包囲し、益州・梁州の軍勢が長江の流れに乗って東行し、楽郷を封じつつ巴丘を固めれば、武陵・零陵・桂陽・長沙・湘東は噂を聞いただけで帰服するでありましょう。とにかく信賞必罰を明らかにし、勝利に乗じて席巻すれば、呉会が尽く平定されぬはずがございませぬ。」羊祜は大いに満足し、王濬と連名で呉討伐の許可を求めた《華陽国志》。

同四年、何攀は改めて洛陽への使者となり《華陽国志》、二度目の拝謁を許され、何攀とともに討伐の是非を検討するようにと張華へ命令が下された。何攀は将軍の命令を全うしたということで、帝のお褒めにあずかり、五年、王濬は龍驤将軍に任じられ、何攀は詔勅により郎中、王濬の参軍事となった《華陽国志》。このとき何攀は未婚であったが、司空裴秀はその才覚に目を見張り、自分の女を彼に嫁がせた《華陽国志》。

三年十月の初回の出立から、ここまで、史書の記述が錯綜している。ここでは推測も交えて記事を配列した。

同年秋、安東将軍王渾が上表して孫晧が北上を企てているので警戒すべきと述べたので、会議の結果、征討は翌六年まで待つことになった。何攀は上疏した。「孫晧が侵出してくることは絶対にございませぬ。現在の厳戒状態のまま攻撃すれば、たやすく勝利できましょう。」中書令張華が下屋敷に宿泊するよう命じ、いろいろと批判をぶつけたが、何攀はすべて説明した《華陽国志》。

太康元年(二八〇)《晋書王濬伝》、何攀はさらに上奏した。「王濬は忠烈な人柄であり、ご命令を受けたならば必ずや成果を出しましょう。その官位称号を高めてやるのがよろしゅうございます。」これが認められ、王濬は詔勅により平東将軍・督二州事に任じられた《華陽国志》。

孫晧が王濬に降服したとき、王渾が腹を立てて王濬を攻撃しようとしたので、何攀は、孫晧の身柄を王渾のもとへ届けるよう王濬に勧めた。そのおかげで事態は収束した。何攀は輔国大将軍王濬の司馬となり、関内侯に封ぜられた。滎陽の県令に転任して十通りの便宜策を提案し、たいそうな名声を博し、廷尉評に叙任された。

『華陽国志』では、『論時務』五篇を進呈して滎陽の県令に叙任され、それから廷尉評に昇進した、とする。また『晋書』では「廷尉平」と作るが、任乃強に従って「廷尉評」と改める。

廷尉の諸葛沖は何攀が蜀出身であるということで軽蔑していたが、一緒に裁判に携わってみて諸葛沖はようやく彼に感服した。あるとき城門の下関を開いた盗賊がいて、法律では極刑に相当したが、何攀は「上関こそが主体なのであり、下関は添え物に過ぎませぬ。もし上関を開く者があったなら、どんな刑罰を与えるのでしょうか?」と主張し、その結果、死刑は免じられた。何攀の主張はすべて正論であった《華陽国志》。宣城太守に昇進したが就任せず、散騎侍郎に転任した。

太傅楊駿が政権を握って親族を取り立て、褒賞をばらまいて恩着せがましい態度を取っていた。何攀はそれを間違ったことだと考え、石崇とともに弾劾奏上したが、帝は聞き入れなかった。恵帝が楊駿を討伐したとき、何攀は傅祗・王愷らとともに楊駿に招かれて屋敷内にいたが、楊駿の一味が大騒ぎしている隙に垣根を飛びこえ、天子のお側に馳せ参ずることができた。天子が何攀を翊軍校尉に任じて熊渠兵を授けると、何攀は一戦交えただけで楊駿を斬った《華陽国志》。

元康元年(二九一)《華陽国志》、楊駿誅伐の功績により西城侯一万戸に封ぜられ、絹一万匹を賜り、弟の何逢が平郷侯、兄の子何逵が関中侯に取り立てられたが、何攀は封戸と絹の半分を固く辞退し、それ以外のものでも内外の親戚に分け与え、ほとんど自分のものにはしなかった。

しばらくして東羌校尉に出向した。西方の異民族が辺境を荒らすので長史楊威に討伐させたところ、楊威は何攀の指示に背いて敗北した。そのため中央に徴し返されて越騎校尉を領した。武器庫が火事になったとき、百官はみな消火に駆けつけたが、何攀だけは兵士を率いて宮殿を守護したので、また絹五百匹を賜った。河南尹を領したのち、揚州刺史・仮節に昇進した《華陽国志》。

在職三年のうちに教化は行き届いたが、征虜将軍石崇が「東南に兵気が見えますゆえ、遠国の人間を用いてはなりませぬ」と上表したため、中央に徴し返されて大司農を拝命し、三州の州都を兼ねることになった。何攀は病気にかかって物忘れと勘違いが多く、人材選考ができなくなりましたので、職務を任煕・費緝らに任せとうございますと上表したが、許可されなかった《華陽国志》。宝剣・赤靴を賜り《華陽国志》、兗州刺史・鷹揚将軍への転任の沙汰を被ったが、固く辞退して就任せず、太常成粲・左将軍卞粋が説得し、詔勅によりお叱りを蒙っても、何攀は病気を口実に飽くまで就任しなかった。

州都は大中正と同じ。三州のうち二つは梁州・益州であることは後文に明記されている。

そのころ帝室の政治は衰え、忠実正直な者は多くが危害を被っていた。また諸国の王たちが次から次へと挙兵し、仲間を駆りあつめていた。何攀は門を閉ざして治療に専念し、世間の仕事に関わろうとしなかった《華陽国志》。趙王司馬倫が帝位を簒奪し、使者をやって何攀を召し寄せたときも、何攀はまた病気が重いからと申し述べた。司馬倫が腹を立てて殺そうとしたので、何攀はやむを得ず病身を押して参詣し、洛陽で卒去した。ときに五十八歳。朝廷では彼を三公に立てようと協議しているところだった《華陽国志》。天子は哀悼の意を尽くし、司空の印綬を追贈し、桓公と諡した《華陽国志》。

『華陽国志』では享年を五十七歳とする。

何攀はいつも冷静を心がけ、職務に携わっては静粛であり、人物を愛好して儒者を尊重した。梁州・益州の中正(州都)であったときは、見過ごされ、冷遇されている者を抜擢した。巴西の陳寿・閻乂、犍為の費立らはみな西方の名士であったが、郷里の人々から誹謗されたため、十年余りもご無沙汰であった。何攀が曲直を明らかにしたので、みな疑いを晴らすことができたのである。また東羌校尉を務めていたとき、譙同を三公・大将軍の幕府に推挙している《華陽国志》。

何攀は高官でありながら実家ではひどく質素な暮らしぶりで、女中や楽人も持たず、ひたすら貧困の救済をわが務めとしていた。安楽公(劉珣?)が淫乱にふけり道義を失ったとき、何攀は王崇・張寅とともに手紙を送り、「文立の言葉を思い出してください」と諫めた《華陽国志》。

『華陽国志』では「大司農・西城公何攀恵興、司農は計略をめぐらし、張良・陳平の面影があった」「明らかなる才略、大司農・西城公何攀、字恵興」と称えている。

【参照】閻乂 / 王愷 / 王濬 / 王崇 / 何逵 / 何璋 / 何包 / 何逢 / 胡奮(平南) / 皇甫晏 / 司馬衷(恵帝・天子) / 司馬倫 / 諸葛沖 / 譙同 / 任煕 / 成粲 / 石崇 / 宗廷 / 孫晧 / 張寅 / 張華 / 張弘 / 張良 / 陳寿 / 陳平 / 裴秀 / 費緝 / 費立 / 傅祗 / 文立 / 卞粋 / 羊祜 / 楊威 / 楊駿 / 劉珣 / 安楽県 / 益州 / 兗州 / 会稽郡 / 夏口 / 河南尹 / 京口 / 荊州 / 桂陽郡 / 滎陽県 / 犍為郡 / 呉 / 江陵県 / 呉会 / 寿春県 / 湘東郡 / 襄陽県 / 蜀 / 蜀郡 / 徐州 / 青州 / 西城県 / 西陵県 / 宣城郡 / 桑浦 / 趙国 / 長江 / 長沙郡 / 巴丘 / 巴西郡 / 巴東郡 / 郫県 / 武昌県 / 武陵郡 / 平郷 / 秣陵県 / 揚州 / 予州 / 洛陽県 / 楽郷 / 梁州 / 零陵郡 / 淮水 / 安東将軍 / 越騎校尉 / 王 / 鷹揚将軍 / 仮節 / 河南尹 / 牙門 / 桓公 / 関内侯(関中侯) / 郷侯 / 県令 / 公 / 左将軍 / 散騎侍郎 / 参軍事 / 三公 / 司空 / 刺史 / 従事 / 州都 / 主簿 / 上計吏 / 征南大将軍 / 征虜将軍 / 大司農 / 太守 / 太常 / 大将軍 / 太傅 / 中書令 / 中正 / 長史 / 廷尉 / 廷尉評 / 東羌校尉 / 督州事 / 平東将軍 / 平南将軍(平南) / 別駕 / 輔国大将軍 / 翊軍校尉 / 龍驤将軍 / 列侯 / 郎中 / 論時務 / 王佐之才 / 諡 / 下関 / 上関 / 赤舄(赤靴) / 屯田 / 幕府 / 熊渠兵

胡奮Hu Fen

コフン

(?〜288)
晋車騎将軍・尚書右僕射・開府・儀同三司・夏陽壮子

字は玄威。安定郡臨涇の人。魏の車騎将軍胡遵の子、胡広の弟、胡烈の兄。

胡奮は生まれつき明朗快活なたちで、計略の持ち主であり、若いころから軍事を愛好した。宣帝が遼東を討伐したときには、無官でありながら側近として侍り、たいへんな厚遇を賜った。凱旋すると校尉となる。

正元二年(二五五)八月、蜀の大将軍姜維が侵攻してきて狄道を包囲した。陳泰につづき、胡奮も鄧艾・王秘とともに救援にあたった《高貴郷公紀・陳羣伝》。甘露二年(二五七)五月、司空諸葛誕が寿春にあって反乱を起こすと、胡奮は大将軍司馬として従軍した。寿春が陥落したとき、諸葛誕は馬にまたがって城門から飛びだしたが、胡奮はこれを待ちうけて諸葛誕を斬った《高貴郷公紀・諸葛誕伝》。

次第に昇進して徐州刺史・夏陽子となった。

『晋書』武帝紀では、胡奮は亡くなったとき「陽夏侯」であったとする。夏陽のほうが故郷に近く、こちらが正しいのではないだろうか。

泰始七年(二七一)正月、匈奴中部帥の劉猛が叛乱を起こすと、胡奮は監軍・仮節として硜北に進駐、驍騎の路蕃の後詰めとして追討にあたった。劉猛を攻撃して打ちやぶると、劉猛の帳下の部将李恪が劉猛を斬って投降した。功績を重ねて征南将軍・仮節・都督荊州諸軍事まで昇り、護軍に異動し、散騎常侍の官職を加増された。

胡家は代々にわたる武門の家柄であったが、胡奮はずいぶん後になってから学問を好むようになり、事務能力を身につけた。いたるところで業績と名声を挙げ、とりわけ辺境にあるときは威信と恩恵で鳴らした。

泰始年間(二六五〜二七五)の末期、武帝は政治を怠って女色に耽るようになり、公卿の女から大々的に選抜して宮女を満たそうとした。胡奮の女も選ばれて貴人になった。胡奮には男子が一人しかおらず、それも早いうちに亡くなっていたので、女が貴人に選ばれたと知るや、「老いぼれが死なず、二人きりの子どものうち男が地下にもぐり、女が天上にのぼってしまった」と号泣した。

咸寧二年(二七六)二月、幷州の少数民族が万里長城を越えてきたので、胡奮は監幷州諸軍事の立場として撃破した《晋書武帝紀》。三年九月、胡奮は左将軍から都督江北諸軍事と昇進した《晋書武帝紀》。五年十一月、胡奮は平南将軍として呉の平定に参加し、江安を陥落させる功績を立てた。さらに「王濬・唐彬は胡奮・王戎とともに夏口・武昌を平らげよ。秣陵に直行し、胡奮・王戎と相談して便宜策を講ずるべし」との詔勅が下されている《晋書武帝紀》。

胡奮は宿老でもあるうえ後宮からの支持もあって、たいへんな寵遇をこうむり、右僕射に昇進したのち《晋書武帝紀》、鎮軍大将軍・開府・儀同三司の地位を加増された。

胡奮伝では「左僕射」とあるが、武帝紀にしたがって「右僕射」とする。

そのころ楊駿は皇后の父ということで傲岸不遜であった。胡奮が告げた。「あなたは女を頼りにして権勢を高めるおつもりですかな?過去の王朝を観察すれば、皇室と縁を結んで破滅しなかった家はなく、ただ遅いか早いかの違いがあるだけです。あなたの態度を見るかぎり、きっと災いの早いほうでしょうな。」楊駿が答えた。「あなたの女だって皇室におるではないか?」胡奮は言った。「あなたの女と同じく女中に落ちるだけのこと。そこにどんな優劣がありましょう!」人々はみな彼のことを心配し、楊駿も含むものがあったが、けっきょく危害を加えることはできなかった。

太康九年(二八八)二月《晋書武帝紀》、在職のまま卒去した。車騎将軍の官職を追贈され、壮と諡された。

【参照】王秘 / 王戎 / 王濬 / 姜維 / 胡貴人 / 胡広 / 胡遵 / 胡烈 / 司馬懿(宣帝) / 司馬炎(武帝) / 諸葛誕 / 陳泰 / 唐彬 / 楊皇后 / 楊駿 / 李恪 / 劉猛 / 路蕃 / 安定郡 / 夏口 / 夏陽県 / 魏 / 荊州 / 硜北 / 呉 / 江安県 / 江北 / 塞(万里長城) / 寿春県 / 蜀 / 徐州 / 狄道県 / 武昌県 / 幷州 / 秣陵県 / 遼東郡 / 臨涇県 / 右僕射 / 開府 / 監軍 / 貴人 / 儀同三司 / 驍騎 / 公卿 / 校尉 / 護軍 / 左将軍 / 散騎常侍 / 司空 / 刺史 / 司馬 / 子爵 / 車騎将軍 / 征南将軍 / 大将軍 / 中部帥 / 鎮軍大将軍 / 都督 / 平南将軍 / 諡 / 仮節 / 匈奴 / 帳下

吾彦Wu Yan

ゴゲン

(?〜?)
晋大長秋

字は士則。呉郡呉の人。

吾彦は貧しく賤しい家柄の出身であるが、文武両面に才能があり、身の丈八尺、素手で猛獣をねじ伏せるほど人並み外れた強力の持ち主であった。呉に仕えて通江吏になった。そのころ将軍薛珝が節を杖突きながら南征に向かっており、その行軍の様子はたいそう立派であった。吾彦はそれを眺めると、やるせなくため息を吐いた。人相見の劉札という人が彼に告げた。「貴君の人相からすると、後年、あれくらいにはなれますよ。憧れるほどでもない。」

初めは小将となって大司馬陸抗の世話になった。陸抗はその武勇胆略に目を見はり、抜擢してやろうと思ったが、人々が納得しないことを心配した。そこで諸将を宴会に招き、こっそりとある人に言い含め、気違いのふりをして刀を抜き、飛びかかって来させた。座中の諸将はみな恐怖して逃げ出したが、ただ一人、吾彦だけは動揺せず、机を掲げて防いだので、人々はその勇気に感服した。そこでようやく彼は抜擢された。

『建康実録』では、こっそりと気違いに言い含め、刀を手にして飛びかかって来させた、とする。

鳳凰元年(二七二)、西陵督歩闡が籠城して叛乱し、晋に使者をやって降服した。陸抗はそれを聞いて、将軍左奕・吾彦・蔡貢らを西陵に急行させた。(晋の)羊祜らがみな軍勢をまとめて引き返すと、陸抗はそのまま西陵城を陥落させて歩闡の一族を誅殺した《陸遜伝》。

吾彦は少しづつ昇進して建平太守になったが、そのころ(晋の)王濬が呉を討伐せんと企てており、蜀で軍船を建造していた。流れてきたこけらを拾い上げて《孫晧伝》、吾彦はそれを察知し、人数を増強して備えるべきと陳情したが、(呉帝の)孫晧は聞き入れなかった。吾彦はすぐさま鉄製の鎖を作り、長江の道筋に張り巡らせた。(晋の)軍勢が郡境に迫ると、長江沿いの諸城はみな報告を受けただけで降服したり、また攻撃を受けて陥落したりしたが、ただ吾彦だけは堅守し、大軍が攻めかけても落とせなかった。そこで(晋軍は)一舎(三十里)を退いて、彼に敬意を表した。

呉が滅亡すると、吾彦はようやく降服した。武帝(司馬炎)は彼を金城太守とした。帝があるとき何気なく「孫晧が国を滅ぼした理由はなんだろうか?」と薛瑩に訊ねると、薛瑩は「帰命侯(孫晧)どのは小人を側近くに寄せて刑罰をむやみに行い、大臣も大将も信任されず、人々は憂鬱と恐怖を抱いて落ちつきませんでした。それが滅亡のきっかけです」と答えた。後日、吾彦にも訊ねると、吾彦は「呉主は英俊であられ、宰相も賢明でございました」と答えた。帝が笑いながら「君臣ともに賢明なら、どうして国が亡ぶものか?」と言うと、吾彦は「天運には限りがあるもので、そのため陛下の擒になったのでございます。これは天命であり、人知の及ぶところではございません!」このとき張華が同座していて「貴君は呉将として年月を重ねたそうだが、とんと評判は聞かなんだ。それが不思議じゃのう」と告げると、吾彦は声音を荒げて言った。「陛下でさえ我(わたし)をご存じだというに、貴卿がご存じないと?」帝はこよなく彼を評価した。

敦煌太守に転任となり、威信恩恵ははなはだ顕著であった。雁門太守に昇進した。そのころ順陽王の司馬暢は身勝手で、次から次へと内史を誣告して処刑していた。吾彦は順陽内史になると身を正して部下を率先し、威信法律は厳粛であり、人々はみな畏怖した。司馬暢は誣告することができず、反対に推薦することによって職場から遠ざけようとした。

員外の散騎常侍に昇進した。あるとき帝が「陸喜と陸抗の二人ではどちらがまさっておるか?」と訊ねると、吾彦は「道徳名望の点において陸抗は陸喜に及びませんが、功績を立てることにおいて陸喜は陸抗に及びません」と答えた。

そのころ交州刺史陶璜が卒去したので、吾彦が南中都督・交州刺史になった。何回か、陸機兄弟に贈り物を届けると、陸機はそれを受け取ろうとしたが、陸雲が「吾彦はもともと賤しい家柄であったのを、先公(ちちぎみ)に抜擢されたのだ。それなのにご下問されたとき(先公を)褒めなかった。どうして受け取れようか!」と言うので、陸機も手を引いた。それ以来、いつも吾彦を悪く言うようになった。

長沙の孝廉尹虞が陸機らに告げた。「古代より賤しい身から出世した者には帝王さえいるのです。たかが公卿くらいがどうだと言うのです。何元幹・侯孝明・唐儒宗・張義允らはみな貧しく賤しい身から出世し、みな中央の側近や地方の重鎮になりましたが、悪口する人はありませんでした。あなた方は士則どのがご下問に対してちょっと褒めなかったくらいのことで、ひっきりなしに悪口を言っておられますが、南方の人々がみなあなた方を見捨てて、あなた方が一人ぼっちになりやしないかと心配です。」それからは陸機らの気持ちもようやく解け、悪口も少しづつやめるようになった。

もともと陶璜が死んだとき、九真の守備兵が反乱を起こして太守を追放し、九真の賊徒の頭目趙祉も郡城を包囲していたが、吾彦はこれらを残らず討ち平らげた。鎮守の任務に就くこと二十年余り、威信恩恵は明らかであり、南方は平和になった。

吾彦は自分で上表して後任を要請し、中央に徴し返されて大長秋になり、在職のまま卒去した。

【参照】尹虞 / 王濬 / 何元幹 / 侯孝明 / 左奕 / 蔡貢 / 司馬炎 / 司馬暢 / 薛瑩 / 薛珝 / 孫晧 / 張華 / 張義允 / 趙祉 / 唐儒宗 / 陶璜 / 歩闡 / 羊祜 / 陸雲 / 陸喜 / 陸機 / 陸抗 / 劉札 / 雁門郡 / 九真郡 / 金城郡 / 建平郡 / 呉 / 呉県 / 呉郡 / 交州 / 蜀 / 順陽内史 / 晋 / 西陵県 / 長江 / 長沙郡 / 敦煌郡 / 南中 / 王 / 帰命侯 / 孝廉 / 散騎常侍 / 刺史 / 小将 / 将軍 / 内史 / 大司馬 / 太守 / 大長秋 / 通江吏 / 督 / 都督 / 員外 / 相者(人相見) / 節

周処Zhou Chu

シュウショ
(シウシヨ)

(236〜297)
晋平西将軍・清流亭孝侯

字は子隠。義興郡陽羨の人。周魴の子、周圮・周札の父。

周処は若くして父を失ったが、二十歳前で人並み外れた膂力の持ち主となり、乗馬狩猟を愛し、こまごました作法を守ろうとせず、気分のままにふるまったため、州の人々に嫌われていた。周処は自分が嫌われていることを知り、かっとなって行いを改めようと決意した。

そこで長老に問いかけた。「お歳を召して苦しいこと、楽しくないことがございますか?」長老がため息を吐いて言った。「三害がまだ除去されておらぬに楽しむことなどできぬわ。」「どういうことですか?」「南山に額の白い猛獣、長橋の下に大蛇がおって、子(あなた)と合わせて三害じゃ。」「ならば吾(わたし)が退治してやりましょう。」「子があれを退治してくれれば郡全体にとっても大きな喜び、単に害悪を取り除いただけではないだろうな。」

そこで周処は山へ入って猛獣を射殺し、それから川に潜って大蛇を殴打した。大蛇は浮いたり沈んだりしながら数十里も流れ、周処もそれと組み合ったまま三日三夜が経過した。人々は(周処が)死んだと思い込み、みなで祝賀しあった。周処は大蛇を殺して帰ってきたが、郷里の人々が喜んでいるのを聞き、人々がいかにひどく自分を迷惑がっていたかをようやく思い知った。

そこで呉郡に入って陸兄弟を訪ねた。陸機は不在であったが陸雲に会うことができ、細かく事情を告げて「自分を改めたいとは思っても、年ももうこの通りですし、取り返しが付かないのではと心配なのです」と言うと、陸雲は「古人は朝聞いて夕改めることを貴んだ。君の前途はまだまだ有望だ。それに志が叶わないことを心配すべきであって、どうして名声を挙げられないことを心配するのかね!」と言った。周処はそれから自分を激励して学問に打ち込むようになった。

陸雲らが成人したとき周処はすでに呉の高官になっている。この記述は年代矛盾であり信頼できない。

文章には思想が盛り込まれ、志は義烈を旨とし、言葉には必ず真心を込めて私心を押さえ込んだ。数年後、州の役所から招聘されるようになり、呉に仕えて東観左丞となり、孫晧時代の末期、無難督に任じられた。

呉が平定されたとき、王渾が建業の宮殿に上がって酒宴を催した。酒がまわると王渾は呉の人々に「諸君は亡国の生き残りだ、悲しまずにおれようか?」と言った。周処が「漢末の分裂によって三国が鼎立し、さきに魏が亡んで、のちに呉が亡びました。亡国の悲しみは我ら一人だけではございませんから!」と答えると、王渾は恥ずかしげな様子を見せた。

洛陽に入朝し、次第に昇進して新平太守となり、西戎北狄を慰撫したので叛逆した羌族たちも帰服し、雍州の人々は彼を誉めたたえた。広漢太守へ転任すると、郡では多くの訴訟が滞っており、中には三十年経っても決着がつかないものさえあったが、周処はその曲直を吟味して一日で結審した。母が年老いていたので退職して帰郷した。

ほどなく楚内史に叙任され、まだ着任しないうちに中央に徴されて散騎常侍に任じられた。周処は「古人は大官を辞しても小官を辞さなかったものだ」と言い、まず楚へ向かった。郡では混乱のあとを受けて、古株と新入りとがごちゃまぜに住み、風俗が統一されていなかった。周処は道義による教育を手厚くし、また引き取りのない死骸や野ざらしの白骨を回収して埋葬し、それからやっと中央へのお徴しに応じた。遠くの人も近くの人もそれを歎息して称えた。

お側近くで仕えていたとき、たびたび正論で諫めた。御史中丞に昇進して、寵臣・外戚に対しても遠慮なく糾弾した。梁王司馬肜が法律に違反したとき、周処は厳しく調査した。朝臣たちは周処の剛直ぶりを憎み、氐族の斉万年が反乱を起こしたとき、みなで「周処どのは呉の名将のご令息でありまして、忠烈剛毅でございます」と言った。そのため夏侯駿配下として征西を命じられた。

伏波将軍孫秀は、彼が死に追いやられていることを知り、「貴卿には年老いた母がいるから、それを理由にすれば辞退できるのだぞ」と告げたが、周処は「忠義と孝行は両立できるものでしょうか!親元を離れて主君に仕えたからには、父母とて我が子を思い通りにできましょうか?今日こそは我(わたし)の死ぬべきときです」と答えた。斉万年はそのことを聞くと、「むかし周府君が新平を治めていたとき、我は彼の人となりを知った。文武の才能を兼ねそなえておるゆえ、もし独断行動で到来したならば対抗することはできぬ。もし他人の制御を受けておるならば生け捕りになるまでだ」と言った。

しばらくして梁王司馬肜が征西大将軍・都督関中諸軍事に任じられた。周処は司馬肜が(自分に対して)不満を抱いていることを知り、きっと自分を陥れようとするだろうが、こちらでは人臣として忠節を尽くすだけで、決して遠慮することはないと考え、生きて帰ることはできまいと覚悟のうえ、悲壮な決意で征西の途に就いた。

中書令陳準は司馬肜が宿怨を晴らそうとしていることを知り、朝廷で「夏侯駿と梁王はいずれも貴人外戚でありまして統率の才能はございませんから、進んでも名誉を求めず、退いても罪科を恐れますまい。周処は呉の人間でありますゆえ、忠勇剛毅とはいえ怨恨を被って支援はなく、身を滅ぼすことさえ決意しておるようでございます。孟観に詔勅を下し、精兵一万を率いて周処の先鋒をさせれば、必ずや賊徒を滅ぼせましょう。さもなくば司馬肜は周処を先鋒といたしましょうから、敗北すること必定です」と言上した。しかし朝廷は聞き入れなかった。

このとき賊軍七万人は梁山に駐屯しており、夏侯駿は周処に向かって五千人を率いて攻撃せよと無理強いした。周処は「軍勢に後詰めがなければ結局は敗北することになりましょう。身どもは死を覚悟しておりますが国家に恥をかかせることになりますぞ」と言ったが、司馬肜もまた重ねて周処に進撃を命じ、それから振威将軍盧播・雍州刺史解系とともに六陌の斉万年を攻撃させた。周処の兵士はまだ食事さえ取っていなかったが、司馬肜はとっとと進めと督促し、そのくせ後詰めは出さなかった。

周処は敗北を確信して詩賦を作った。「世事を避けて久しく、馬に鞭打って西戎を見る。菜と豆とうまい飯、それを思えば死ぬことも恐くない。」吟じ終わると戦いを始め、明け方から日暮れまでに首級一万を挙げたが、弦は切れて矢は尽き、盧播も解系も助けにこなかった。

左右の者が退却なさいませと勧めたが、周処は剣を握って「今こそ節義を表して天命を授かる日だ、どうして退却などできよう!古代の名将は命令を授かったとき、凶門を彫ってから出陣した。それは前進はしても後退はしないということだ。いま諸軍は信頼関係を失っており、必然的に失敗するだろう。我は大臣として国家に身を捧げる。それもまた結構なことではないか!」と言い、ついに奮戦のすえ戦死した。

『晋書』恵帝紀に「元康六年十一丙子、安西将軍夏侯駿・建威将軍周処らに斉万年を討たせた。七年春正月癸丑、周処と斉万年が六陌において戦い、官軍が敗北して周処が死んだ」とある。陸機の『周処碑』によると享年六十二歳。

帝は平西将軍を追贈し、銭百万、埋葬地一頃、京都に邸宅用の土地五十畝を下賜し、さらに王家に近い場所に田地五頃を下賜した。また詔勅を下して「周処の母は年老いておるうえ遠国の人である。朕はいつも不憫に思うておった。そこで死ぬまで医薬と酒・米を支給することとする」と述べた。潘岳や西戎校尉閻纉が勅命によって作成した詩には、周処の忠節を讃える一節があった。司馬睿が晋王になったとき、太常賀循の提議により孝侯と諡された。

周処の著作には『黙語』三十篇と『風土記』があり、また『呉書』を編集していた。

【参照】閻纉 / 王渾 / 夏侯駿 / 賀循 / 解系 / 司馬睿 / 司馬衷(帝) / 司馬肜 / 周札 / 周圮 / 周魴 / 斉万年 / 孫晧 / 孫秀 / 陳準 / 潘岳 / 孟観 / 陸雲 / 陸機 / 盧播 / 漢 / 関中 / 魏 / 義興郡 / 建業県 / 呉 / 広漢郡 / 呉郡 / 晋 / 新平郡 / 楚郡 / 雍州 / 陽羨県 / 洛陽県 / 六陌 / 梁国 / 梁山 / 王 / 御史中丞 / 孝侯 / 散騎常侍 / 刺史 / 振威将軍 / 西戎校尉 / 征西大将軍 / 内史 / 太守 / 太常 / 中書令 / 東観左丞 / 都督 / 伏波将軍 / 無難督 / 平西将軍 / 諡 / 羌族 / 凶門 / 氐族

【鏈接】《東邪的桃花島》陸平原集(周処碑・doc形式)

向雄Xiang Xiong

ショウユウ
(シヤウユウ)

(?〜282?)
晋河南尹・関内侯

字は茂伯。河内郡山陽の人。父の向韶は彭城太守である。

向雄は最初、郡に仕えて主簿として太守王経を補佐していた。のちに王経が死んだとき、向雄は哭泣して哀しみを極め、市井の人々もみな悲しい気持ちになった。のちの太守劉毅は罪なくして向雄を笞打ち、後任の太守呉奮もまた些細なことで向雄を牢獄に押し込めたが、司隷校尉の鍾会が獄中から向雄を召し寄せて都官従事とした。

鍾会が死んでも埋葬してやる者がなく、向雄が遺体を引き取って埋葬した。文帝が向雄を呼んで「かつて王経が死んだとき、貴卿が東市で哭泣するのを私は咎めなかった。いま鍾会はみずからの意志で叛逆したのに、(貴卿は)またもや埋葬してしまった。こんなことを大目に見ていたら王法はどうなるのか!」と叱りつけると、向雄は答えた。「かつて先王さまは仁慈を朽ちた骨にまで及ぼされました。あらかじめ功罪を知ってから埋葬することができましょうか?いま大王は誅伐を加えて法律は全うされ、向雄は埋葬を行って道義を貫きました。殿下は枯骨を憎んで野原に捨てておいでですが、これから仁者賢人を招くところなのに残念なことではありますまいか!」文帝はしごく満悦し、宴席で談笑してから帰した。

次第に昇進して黄門侍郎となった。このとき呉奮・劉毅はともに侍中であり、同じ区画で暮らすことになった。向雄が一言も口を利かなかったので、それを聞いた武帝が「君臣の交わりを回復するように」と命じた。向雄はやむなく劉毅のもとを訪ね、二度おじぎをしてから「さきほど勅命を被りましたが君臣の関係は終わっているのです。どうにもなりませんね」と言い、さっさと立ち去った。帝が激怒して向雄をなじると、向雄は「古代の君子は推挙するにも批判するにも礼儀を用いたものですが、現代ではまるで膝枕を与えたり谷川に突き落とすようなことをいたします。劉河内どのは臣に対して激情を起こさなかったのですから、それだけでも立派なことです。どうして君臣の交わりを回復する必要がありましょう」と答え、帝を納得させた。

泰始年間(二六五〜二七五)、次第に昇進して秦州刺史となり、赤幢・曲蓋・鼓吹を与えられ、二十万銭を賜った。咸寧年間(二七五〜二八〇)初期、入朝して御史中丞となり、侍中に昇進、さらに征虜将軍へ出向した。

太康年間(二八〇〜二九〇)初期、河南尹となり関内侯の爵位を賜った。斉王の司馬攸が領国へ帰されるとき、向雄は「陛下はたくさんのご令息ご賢弟をお持ちですが、徳望ある者は少のうございます。斉王さまは京邑に住まわれて実にふかく国益をもたらされました。ご配慮をお忘れなきよう」と諫言したが、帝は聞き入れなかった。向雄は頑固に意見して叡慮に逆らい、立ち上がってすたすたと退出し、とうとう怒りを募らせて死んだ。

【参照】王経 / 呉奮 / 司馬懿(先王) / 司馬炎(武帝) / 司馬昭(文帝) / 司馬攸 / 向韶 / 鍾会 / 劉毅 / 河内郡 / 山陽邑 / 秦州 / 斉国 / 彭城国(彭城郡) / 洛陽県(京邑) / 王 / 河南尹 / 関内侯 / 御史中丞 / 黄門侍郎 / 刺史 / 侍中 / 主簿 / 司隷校尉 / 征虜将軍 / 太守 / 都官従事 / 曲蓋 / 鼓吹 / 赤幢 / 東市

秦秀Qin Xiu

シンシュウ
(シンシウ)

(?〜?)
晋博士

字は玄良。新興郡雲中の人。魏の驍騎将軍秦朗の子。

秦秀は若いころから学問に熱心で、忠実さで名を知られ、咸寧年間(二七五〜二八〇)に博士となった。

何曾の諡号を協議せよと命令が下ったとき、秦秀は「何曾は二世代にわたり恩寵を受け、耳順の年に三公の官位、大国の租税を手にしました。責任はたいへん重く、一門がこぞって死力を尽くしても、それでも位階に見合いません。それなのに度を過ぎた贅沢を行い、道義に則った行為はなく、宰相のあるべき姿を失っておりました。繆醜公と諡すべきであります」と提言した。人々は秦秀の言葉に賛成しなかったが、身を引き締めたのである。

秦秀は根っからのおべっか使い嫌いで、親の敵のように憎んでいた。日ごろ軽蔑していた賈充が呉討伐の大都督になったと聞いて、「賈充は文机にしがみつくほどの才能しかないのに、敵国討伐の大任を被った。私は号泣しながら軍勢を見送らねばならぬ」と親しい者に語った。ある人が「いま呉の君主は無道ですし、国家には自滅の兆しがございます。諸軍が国境を越えれば戦わずして潰滅するでありましょう。あなたが号泣なさると、智力が充分でないと見なされたうえ、許されざる罪を被ることになりますぞ」と諫めたので、取り止めた。

孫晧が王濬に降服したとき、賈充はそれを知らず、呉の平定はまだ不可能なので増援してほしいと上表した。その上表文と戦捷の知らせが同時に届いたので、朝廷や在野の人々は、賈充は官位が高いだけで智力は人並み以下だと思い、みな秦秀の言葉は分別を弁えていると評価した。

賈充が薨去すると、秦秀は「賈充は異姓の者を跡継ぎにいたし、礼儀に背いて私情に溺れ、大いなる人倫を乱しました。外孫を跡継ぎにするのは元勲の取るべき行動ではありません。父祖の血筋を絶やし、朝廷に災禍を招くものでございます。荒公と諡すべきです」と提議したが、聞き入れられなかった。

王濬は呉平定の功績がありながら王渾にけなされ、帝は(王渾の言葉を)聞き入れはしなかったものの、賞罰を明らかにすることができず、王濬を輔国大将軍に任じただけで済ませたので、天下はみなそれを恨みに思った。秦秀は言上した。「王濬は功績を立てる以前から九卿の高位に就いておりましたが、功績を立てて以後、改めて屈辱的な称号を与えられました。四海はそれを見て失望するのではございませんか!呉は三祖(司馬懿・司馬師・司馬昭)の神武をもってしても屈服させられませんでした。いま王濬は蜀漢の兵卒をこぞって呉を平定いたしました。呉国の財宝をすべて与えたとしても足りないくらいです。」

のちに劉暾らとともに斉王司馬攸の事件に関わったため、帝の不興を被って罷免されたが、ほどなく博士に復帰した。秦秀は剛直な性格で、人々とは反りの合わないことが多かった。博士になって前後二十年近く、在職のまま卒去した。

【参照】王渾 / 王濬 / 何曾 / 賈充 / 司馬懿 / 司馬炎(帝) / 司馬師 / 司馬昭 / 司馬攸 / 秦朗 / 孫晧 / 劉暾 / 雲中郡(雲中県) / 魏 / 呉 / 蜀漢 / 新興郡 / 斉国 / 王 / 九卿 / 繆醜公 / 驍騎将軍 / 荒公 / 公 / 三公 / 大都督 / 博士 / 輔国大将軍 / 諡

石苞Shi Bao

セキホウ
(セキハウ)

(?〜272)
晋司徒・加侍中・楽陵武公

字は仲容。勃海南皮の人。

『鄧艾伝』の注に引く『世語』に、鄧艾とほぼ同い年だったとある。

大らかにして知性があり、態度は端麗雄大であったが、細かな作法には拘らなかった。そのため人々は「石仲容どのの美しさは並ぶものなしだ」と評判した。

県から召しだされて役人となり、農司馬に配属された。ちょうど謁者である陽翟の郭玄信が勅使となり、馭者を探していたので、司馬が石苞と鄧艾を提供した。十里あまり行くうちに、郭玄信は「あなた方はのちに九卿・宰相に昇るだろう」と言った。石苞は答えた。「馭者に過ぎませんのに、どうして九卿・宰相などということがありましょうか?」

のちにふたたび使者として鄴へ赴くことになったが、仕事はなかなか終わらなかった。そこで鄴の市場で鉄を売りに出した。市長である沛国の趙元儒は人物を見抜くことで知られていたが、石苞を見るなり目を見はり、かれと交わりを結んだ。(趙元儒が)石苞の遠大の器量に「三公・輔弼に昇るだろう」と讃歎したことにより、(石苞は)名を知られるようになった。

『高貴郷公紀』の注に引く『世語』では、青龍年間(二三三〜二三七)に長安で鉄売りをしていたとき、司馬懿のもとを訪れる機会があって人物を認められ、のちに尚書郎に抜擢されたとある。

吏部郎の許允に会ったとき、石苞は小さな県でもお任せくださいと願いでたが、許允は「あなたは私と同類、朝廷で助けあう関係であるべきだ。どうして小さな県などを求めるのかね?」と言った。石苞は帰ってからため息をついた。許允が自分をそこまで知っているとは考えられなかったからだ。

少しづつ昇進を重ねて中護軍である景帝(司馬師)の司馬となった。宣帝(司馬懿)は石苞が好色で行いが軽薄であると聞いていたから、それで景帝を咎めた。景帝は言った。「石苞は行いが足らぬとはいえ国家を経略する才能を備えております。高潔の士は必ずしも経世済民の能力があるわけではなく、それは斉の桓公が管仲の贅沢を忘れて策謀だけを採用し、漢の高祖が陳平の汚職を捨てて妙計だけを採用した理由です。石苞はその二人ほどではないとしても、今日の選りぬきなのです。」宣帝はようやく納得した。

鄴の典農中郎将へ異動となった。魏の時代だったので王侯の多くが鄴の城下に住まいしており、尚書の丁謐がその時代の寵児となり、肩を並べて競いあっていた。石苞はそのことを上奏したので、ますます称賛された。石苞はこのころ管輅に「姿を消すことなど可能であろうか?」と訊ねている《管輅伝》。東萊・琅邪太守を歴任し、いたるところで威信・恩恵を施した。徐州刺史に昇進した。

文帝(司馬昭)が東関で敗北したとき、石苞ただひとりは軍兵を損なうことなく撤退させた。文帝は所持する節を指差しながら「これをあなたに授けて大事に当たれないのが残念だ」と言った。そこで石苞を奮武将軍・仮節・監青州諸軍事に昇進させた。

諸葛誕が淮南で挙兵したとき、石苞は青州諸軍を統括し、兗州刺史州泰・徐州刺史胡質を監督し、選りぬきの精鋭を遊軍として外部からの侵入に備えた。呉は大将朱異・丁奉らに(諸葛誕を)出迎えさせた。諸葛誕らは輜重を都陸に残し、軽装騎兵でもって黎水を渡った。石苞らは待ちかまえて攻撃し、これを大破した。泰山太守胡烈が奇兵奇策でもって都陸を襲撃し、その物資を焼きつくした。朱異らは敗残兵を取りまとめて撤退し、寿春は平定された。石苞は鎮東将軍を拝命、東光侯に封ぜられ、仮節となった。

『孫綝伝』に詳しく戦闘の経緯が記載されている。朱異が黎漿(黎水)に駐屯し、任度・張震らに勇者六千人を率いて西へ六里の地点で浮き橋を作って夜中に渡らせ、半月状の塁壁を築いたところ、石苞は州泰とともにこれを撃破、そのまま朱異を包囲して敗退させたとのことである。『晋書』文帝紀によると、朱異らが敗れたのち、城内の食糧が乏しくなったのをみて王基とともに攻撃許可を求めたが、司馬昭は戦わずして勝つべしと退けている。なお『高貴郷公紀』の注に引く『世語』では、鎮東将軍を拝命すると同時に青州刺史になったとする。

しばらくして(甘露四年(二五九)夏六月《晋書文帝紀》)、王基の後任として都督揚州諸軍事となった。石苞はそれで参内することになったが、帰国するとき、高貴郷公に別れの挨拶をし、引きとめられて日が暮れるまで語りあった。退出してから、それを文帝に報告して「尋常の君主ではございませぬ」と言った。成済の事件が起きたのは数日後であった。

『高貴郷公紀』の注に引く『世語』では、司馬昭が自邸に立ちよるよう人づてに命じ、「なぜずっと留まっていたのか?」と問うたのに対し、「尋常の君主ではないからです」と答えたことになっている。また『晋書華表伝』によると、高貴郷公を「魏武の生まれかわりだ」と絶賛し、当時の人々に冷や汗をかかせたとある。

景元元年(二六〇)十一月、呉の吉陽督である蕭慎が投降し、迎えにきてほしいと石苞に手紙を送ってきた。文帝は偽りであろうと察知し、石苞に命じて迎えにゆかせる体裁をとると同時に、ひそかに守りを固めた《晋書文帝紀》。のちに官位は征東大将軍に進み、突然、驃騎将軍に昇進した。

『高貴郷公紀』によると石苞が驃騎将軍に昇進したのは咸熙二年(二六五)九月癸亥、司馬昭が死んで司馬炎が王位を継いだ直後である。

文帝が崩御したとき、賈充・荀勖が葬礼について提議した。まだ実行されぬうちに、石苞はすぐ遺体に駆けより、「これほど事業を進めたのに人臣のまま亡くなられるとは!」と慟哭した。葬礼はようやく実行された。以後、陳騫とともに「命運はすでに尽きました。天の意志は存在するのです」と魏帝へ遠回しに訴えた。帝位が禅譲されたのは石苞の尽力があったのである。武帝(司馬炎)が践祚すると大司馬に昇進して楽陵郡公に爵位が進み、侍中の官を加増され、羽葆・鼓吹が与えられた。

諸葛誕が破滅して以来、石苞は淮南を鎮撫して兵士騎馬を精強にし、辺境の多忙さに遭遇しても、もともと庶務に熱心であったし、さらに威厳恩徳を付けくわえて人々を心服させた。淮北監軍の王琛は、石苞が貧しい出自であるのを軽蔑しており、そのうえ「宮中の大きな馬がほとんど驢馬になるよ、大きな石がそれをつぶして逃さないよ」という童謡を聞いたので、それを利用して「石苞が呉の人間と通じております」と密奏した。かつて望気者が「東南の方角で大いくさが起こります」と言ったことがあり、王琛の上奏文が届いたとき、武帝はふかく疑いを抱いた。

『丁奉伝』に宝鼎三年(二六八)、孫晧の命令により丁奉・諸葛靚が合肥を攻撃し、丁奉が石苞に手紙をやって離間の計をしかけたので石苞は徴しかえされたとある。王琛が疑いを抱いたのも無理はないのである。このほか参軍の孫楚とも争っており《晋書孫楚伝》、慎重さに欠ける人物だったようである。

ちょうど荊州刺史胡烈が「呉の連中は大挙して攻めてくるつもりです」と上奏し、石苞も「呉の軍隊が侵入してきそうです」と報告して、城塁を築いて堀川を湛えて防備を固めた。武帝はそれを聞くと羊祜に言った。「呉の連中が来るときは、いつも東西から声が上がって片方からということがない。石苞は本当に裏切っているのではないか?」羊祜はじっくりと弁護してやったが、武帝はなおも疑っていた。

そのころ石苞の子石喬が尚書郎であったので、武帝はこれを召しよせたが、石喬は一日経っても来なかった。武帝は叛逆に間違いなしと確信して石苞を討伐しようと思ったが、表向きは伏せておき、詔勅を下して「石苞は賊軍の状勢分析を誤り、城塁を築いて堀川を湛え、百姓どもを苦しめた。よって罷免する」と述べ、太尉・義陽王司馬望に大軍を率いて徴しださせ、非常事態に備えた。また下邳の鎮東将軍・琅邪王司馬伷に命じて(司馬望と)寿春で合流させた。

石苞は掾の孫鑠の計略にしたがって兵士を解散させ、徒歩で出ていき、都亭まで行って自首した。武帝はそれを聞いて気持ちを和らげた。石苞が参内すると、公であるからとして邸宅に帰した。石苞は任務を授かりながら功績のないことを恥じるばかりで、恨む様子などはなかった。

ときに鄴の奚官督である郭廙が上表して石苞を弁護した。武帝は詔勅を下して言った。「前の大司馬石苞は忠義にして清潔、才能は時務をおさめて業績を挙げ、記録に値する。教育を司らせて時事の政治を助けさせるべきである。そこで石苞を司徒とする。」担当者が上奏した。「石苞はかつて失敗しており任務に堪えられませぬ。公として邸宅に帰しただけでも手厚いのですから、抜擢は宜しくございませぬ。」詔勅に言う。「呉の人々は軽薄であり、所詮はなすすべを知らぬ。それゆえ国境のことはただ守備を固めて侵入させなければ済むのである。石苞の計画はそうでなく敵を配慮しすぎている。だから徴しかえして配置替えをするのだ。むかし鄧禹は関中で失敗したが、結局は漢室の輔佐となった。どうして一つの欠点ごときで大きな徳を無視できようか!」こうして就任が決まった。

石苞は上奏した。「州郡の農業政策には賞罰の制度がございませぬ。掾属を派遣して土地による格差をなくし、業績の優劣を決めて人事異動させるべきです。」詔勅に言う。「農業殖産は政治の根本であり国家の大事である。平和と発展を望んだとて、先だつ資力を欠いたまま教育を施すのは無理というものである。今まで天下は事件が多く、軍事費がかかっていた。加えて遠征の直後でもあり、洪水や日照りもたびたび起こった。倉庫は充分でなく百姓には蓄えがない。古代、貨殖は司徒の職務であった。いま道義が議論されているが国政は急務であり、それゆえ陶唐の時代には稷官が重視されたのである。いま司徒はふさわしい人材をえて国事を心がけており、私事を忘れて国家に尽くしている。そこで司徒に命じて州郡の開発を視察させ、仕事を委任して成果を待とう。随行者が必要であれば十人の掾属を加増する。」石苞は在職して忠勤を称えられ、帝はいつも任せきりであった。

泰始八年(二七二)二月癸巳《晋書武帝紀》に薨去した。帝は朝廷で哀悼をささげ、秘蔵の器物、一揃いの朝服、一着の着物、三十万銭、百匹の布を下賜した。葬儀に際しては、幢麾・曲蓋・追鋒車・鼓吹・介士・大車を支給して魏の司空陳泰の前例にならい、車駕は東掖門外まで遺体を見送った。勅命により武と諡した。咸寧年間(二七五〜二八〇)の初期、石苞らは王業に功績があったとして、詔勅により銘饗に列せられた。

石苞は死を目前にして「延陵の簡素な埋葬は、孔子も礼に通じていると評価しておるし、華元の重厚な埋葬は、『春秋』が臣下らしからぬとしており、古代の明らかな教えである。今後、死ぬ者があれば季節の衣服で埋葬し、重々しくしてはならぬ。また俗人をまねて飯を含ませてはならぬ。また寝台や帳、器物を設けてはならぬ。埋葬してからは土を盛るだけとし、墳丘を作ったり木を植えたりしてはならぬ。むかし王孫が裸での埋葬を命じて息子が従ったとき、君子は非難しなかった。ましてや礼法に合致するならばどうであろう?」と命じており、息子たちはみな命令を遵守し、また親戚や故吏が祭壇を設けようとするのを断った。

【参照】王基 / 王琛 / 華元 / 賈充 / 郭廙 / 郭玄信 / 管仲 / 管輅 / 許允 / 胡質 / 胡烈 / 孔子 / 司馬懿(宣帝) / 司馬炎(武帝) / 司馬師(景帝) / 司馬昭(文帝) / 司馬伷 / 司馬望 / 朱異 / 州泰 / 荀勖 / 蕭慎 / 諸葛誕 / 成済 / 斉桓公 / 石喬 / 曹髦(高貴郷公) / 孫鑠 / 趙元儒 / 陳騫 / 陳泰 / 陳平 / 丁謐 / 丁奉 / 鄧禹 / 鄧艾 / 羊祜 / 楊王孫(王孫) / 劉邦(漢高祖) / 兗州 / 延陵 / 下邳国 / 漢 / 関中 / 魏 / 吉陽 / 九江郡(淮南郡) / 鄴県 / 義陽郡(義陽国) / 荊州 / 呉 / 寿春県 / 徐州 / 斉 / 青州 / 泰山郡 / 東掖門 / 東関 / 東光県 / 陶唐 / 東萊郡 / 都陸 / 勃海郡 / 南皮県 / 沛国 / 揚州 / 楽陵郡 / 黎水 / 琅邪国(琅邪郡) / 淮北 / 謁者 / 掾 / 掾属 / 王 / 仮節 / 監軍 / 九卿 / 郡公 / 奚官督 / 三公 / 司空 / 刺史 / 侍中 / 市長 / 司徒 / 司馬 / 尚書 / 尚書郎 / 稷官 / 征東大将軍 / 太尉 / 大司馬 / 太守 / 中護軍 / 鎮東将軍 / 典農司馬(農司馬・司馬) / 典農中郎将 / 督 / 都督 / 驃騎将軍 / 武公 / 奮武将軍 / 吏部郎 / 春秋 / 羽葆 / 諡 / 介士 / 曲蓋 / 鼓吹 / 故吏 / 節 / 大車 / 追鋒車 / 幢麾 / 童謡 / 都亭 / 望気者 / 銘饗

陶璜Tao Huang

トウコウ
(タウクワウ)

(?〜?)
晋使持節・都督交州諸軍事・冠軍将軍・交州牧・宛陵侯

字は世英。丹楊郡秣陵の人。呉の交州刺史陶基の子。

陶璜は呉に仕えて高官を歴任した。孫晧の時代、交阯太守孫諝は汚職に手を染めて暴政を布き、百姓らに嫌われていた。察戦の鄧荀が来たときには、勝手に孔雀三千頭を調達して秣陵に送ろうとしたので、人々はみな遠方への夫役に苦しみ、謀叛の気持ちを持った。郡吏呂興が孫諝・鄧荀を殺して晋に帰属した。晋の武帝は呂興を安南将軍・交阯太守に任じたが、呂興がほどなく功曹の李統に殺されたので、武帝は改めて爨谷を交阯太守とした。爨谷が死去すると、今度は馬融をその後任とした。

馬融が病没すると、南中監軍霍弋は楊稷をその後任として派遣、将軍毛炅・九真太守董元・牙門孟幹・孟通・李松・王業・爨能らを付けて、蜀から交阯へ出向させ、古城において呉軍を撃破、大都督脩則・交州刺史劉俊を斬首した。そこで呉は虞汜を監軍、薛珝を威南将軍・大都督、陶璜を蒼梧太守に任じ、楊稷を防がせ、分水で戦わせた。陶璜は敗走して合浦に楯籠り、配下の将軍二人を失った。

薛珝は腹を立てて「賊軍を討伐すると上表しておきながら将帥を二人も失うとはな。この責任はだれが取るのだ?」と言うと、陶璜が「部下が作戦意図を理解できず、諸将が命令を守らなかったから負けたのです」と答えたので、薛珝はますます怒って撤退しようとした。陶璜は兵士数百人を率いて董元に夜襲をかけ、奪った宝物を船に載せて帰ってきた。薛珝はようやく陳謝し、陶璜を前部督に任命して交州を経営させた。

陶璜は海路を取って不意を突こうと考え、まっすぐ交阯に向かい、董元と対峙した。諸将は交戦を望んだが、陶璜は敵陣の防壁の裏側に伏兵が潜んでいることを疑い、長戟を持たせた部隊に後詰めをさせた。董元は少し戦っただけで逃げるふりをし、陶璜が追走すると、案の定、伏兵が飛びだしてきた。長戟部隊がこれを逆襲し、董元らを大破することができた。前回手に入れた宝船に錦織数千匹を載せ、扶厳の賊帥梁奇に贈ると、梁奇は一万人余りを率いて陶璜を支援した。

董元配下の勇将解系は董元と一緒に城を守っていたが、陶璜はその弟解象を誘降して解系宛ての手紙を書かせ、また解象を陶璜の小型車に載せ、鼓吹の先導で通行させた。董元らは「解象でさえこれほど(厚遇される)なら、解系はきっと立ち去るだろう」と言い、とうとう解系を殺してしまった。陶璜・薛珝はついに交阯を陥落させ、呉は陶璜を交州刺史に任用した。

陶璜は策略の持ち主で、困窮する者のために駆けずりまわり、施しを好んだので人々の心をよくつかんだ。滕脩はしばしば南方の賊徒を討伐したが、制御することができなかった。陶璜が「南方では我が国の塩や鉄を頼りにしておりますので、市場への供給を遮断すれば、みな(武器を)壊して農具を作るでありましょう。そうして二年が経てば、一度の戦いで滅ぼすことができましょう」と言うので、滕脩がそれを採用したところ、賊徒を打ち破ることができたのである。

もともと霍弋は楊稷・毛炅らを派遣したとき、「もし賊軍に包囲されて百日未満で降服した者は家族を誅殺する。もし百日以上して救援軍が到着しなかったら私自身が罪責を引き受けよう」と言い含めていた。楊稷らは百日経たずして食糧が底を突き、降服を申し出たが、陶璜はそれを許さずに食糧を与えてまで守らせた。諸将が諫めると、陶璜は「霍弋はすでに死亡しており、楊稷らを救援することができないと決まった。まず期日を満たし、それから降服を受け入れてやれば、彼らも罪を被ることがなく、我らは義を立てることになる。内向きには百姓への教育になり、外向きには隣国を懐柔することになるのだ。結構なことではないか!」と言った。楊稷らは期日になって食糧が底を突き、救援軍も到着しなかったので、(陶璜は)やっと受け入れた。

脩則が毛炅に殺されたあと、息子の脩允が陶璜の南征に従軍していた。城が陥落すると、脩允は復讐したいと申し出たが、陶璜は許可しなかった。毛炅が陶璜を襲撃しようと企てたのが発覚し、陶璜は彼を逮捕して「晋の賊徒め!」と罵倒した。毛炅は声を荒げて「呉の狗よ!賊徒とは誰のことだ?」と言った。脩允が彼の腹を割いて「まだ悪さを働くか?」と言うと、毛炅はそれでも「私の願いはお前らの孫晧を殺すことだ。お前の父親はなぜ狗のために死んだのか!」と罵りつづけた。

陶璜は捕らえた楊稷らを(都へ)護送したが、楊稷は合浦で発病して死んだ。孟幹・爨能・李松らが建業に到着すると、孫晧は彼らを殺そうとした。ある人が「孟幹らは職務に忠実ですから、赦免してやって国境の敵将を抱き込む手本にしましょう」と勧めたので、孫晧はその意見を聞き入れて孟幹らを臨海へ住まわせた。

孟幹らは北方へ帰りたいと願っていたので、はるか東方へと移住させられるのが心配になった。そこで呉の人々が蜀の竹製の弩を愛用していることに目を付け、我々はそれを巧く作りますよと言上した。孫晧は(彼らを都に)留め置いて(弩作りの)部署を作らせたが、のちに孟幹は京都へ逃げ帰り、李松・爨能らは孫晧に処刑された。孟幹が呉討伐の計略を陳述したので、武帝は手厚い褒美を与えて日南太守に取り立てた。かつて楊稷が交州刺史、毛炅が交阯太守になったとき、印綬が届かぬうちに敗北していたので、楊稷には交州刺史の官職を追贈し、毛炅・李松・爨能の息子たちは関内侯に取り立てた。

九真郡の功曹李祚が郡城を抱えたまま晋に帰属したので、陶璜は部将を派遣して攻撃させたが、勝つことができなかった。李祚の舅黎晃が(陶璜軍に)従軍していたので、李祚に降服勧告をさせると、李祚は「舅どのは呉の部将、李祚は晋の臣下です。ただ武力だけが運命を知るのです」と答えた。季節が変わってようやく陥落した。

孫晧は陶璜を使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧とした。武平・九徳・新昌は険阻な土地であり、異民族の獠族は勇敢で、何世代ものあいだ服従しなかった。陶璜はこれを征討して三郡および九真属国三十県余りを開設した。孫晧は陶璜を中央に徴し返して武昌都督とし、合浦太守脩允を後任にしようとしたが、陶璜の留任を求める人々が千人単位に上ったため、陶璜を交州に戻らせた。

孫晧は晋に降服すると、直筆の手紙を息子の陶融に持たせて陶璜に帰順せよと命じた。陶璜は何日ものあいだ涙を流し、使者に印綬を預けて洛陽へ参詣させた。武帝は詔勅により彼をもとの官職に戻して宛陵侯に封じ、のちに改めて冠軍将軍とした。

呉が平定されたのち、州兵や郡兵はどこでも削減されていった。陶璜は言上した。「交州は荒廃して南方とは断絶しておりますが、通訳を重ねて山海の向こうから連帯を望む者もございます。日南郡は交州から海路で千里余りも離れているのに、林邑とはわずか七百里しか離れておりません。異民族の総帥范熊は何世代も盗賊を働いて王を自称し、たびたび百姓どもを苦しめております。そのうえ扶南とも隣接して民族は雑多、一味同士が助けあい、要害に楯籠って服従いたしません。かつて呉に隷属していたときもしばしば侵害を働き、郡県を攻め破り、長吏を殺害いたしました。」

「臣は愚鈍でありながら故国に登用され、十年余りも南方を守っておりました。たびたび征討して首魁を斬首いたしましたが、山深い洞窟に隠れたりして逃げ残った者もございました。臣の統率していた兵卒はもともと七千人余りでしたが、南方は蒸し暑く、空気には毒が多く、そのうえ長年の征討により次々と死亡し、残っているのは二千四百二十人です。」

「いま四海は一統されて不服を抱く者はなく、武器を片付けて礼楽を務めとすべきではありますが、この州の人々は義を知る者が少なく、安楽さを嫌って混乱を好んでおります。また広州の南岸は六千里余りにもなり、服従せぬ者どもは五万戸余り、桂林で自立する者どももまた一万戸もありますが、官の役務に服従する者はわずかに五千家余りです。この二つの州は唇歯の関係にあり、ただ兵力によってのみ鎮められるのです。また寧州の興古とは上流で隣接し、交阯郡から千六百里も離れておりますが、水路・陸路ともに通じていて互いを守りあう関係です。州兵を削減することにより隙を見せてはなりません。」

「そもそも戦塵の災いは非常事態から起こることです。臣は亡国の生き残りに過ぎず、主張には見るべき価値もございませんが、神聖なる御恩は広く手厚く、忝なくもご抜擢を賜り、この罪過を晴らして地方の任務を授けてくださいました。屈辱を免れて恩寵に服し、目をこすって見方を改め、生命を投げだして御恩に報いたいと誓いを立てておりますので、現場で見聞きしたことを謹んで陳述する次第でございます。」

また言う。「合浦郡の土地は痩せていて農業は行われず、百姓どもは真珠取りで生計を立てており、商人が往来して真珠と食糧を交換するのでございます。呉の時代には百姓どもが勝手に良質の真珠を売り払ってしまうことを恐れ、非常に厳しい真珠規制がございましたが、規制が行き渡ると人々は飢えに苦しむことになりました。また献上される品物は玉石混交で、いつも規定量を満たすことができません。そこで上物の真珠は三分の二、それに次ぐ真珠は三分の一を献上することとし、粗悪品を一掃してくださいませ。十月から二月いっぱいまでは上物の真珠が取れる時期ではありませんので、昔のように商人たちの往来をご許可してください。」

南方にあること三十年、威信恩恵は風俗の異なる者たちに顕著であった。卒去したとき、州内はこぞって号泣し、慈悲深い父親を失ったようであった。朝廷では員外散騎常侍の吾彦を後任とし、吾彦が卒去するとまた員外散騎常侍の顧秘を後任とし、顧秘が卒去すると州民が顧秘の息子顧参に州政を強要した。顧参がほどなく卒去すると弟の顧寿は刺史を招こうとしたが州民は納得せず、強要されて州政を担った。顧寿は長史胡肇らを殺し、また帳下督梁碩を殺そうとしたが、梁碩は逃げ延びて顧寿討伐の兵を起こし、これを捕らえて顧寿の母に預け、鴆毒で殺させた。梁碩は陶璜の子である蒼梧太守陶威を招いて刺史を領させた。陶威は職務にあたって百姓の心を大いにつかみ、三年後に卒去した。のちに陶威の弟陶淑、子の陶綏はいずれも交州刺史になった。陶基から陶綏までの四世代で交州刺史になった者は五人である。

陶璜の弟陶濬は呉の鎮南大将軍・荊州牧、陶濬の弟の陶抗は太子中庶子である。陶濬の子陶湮は字を恭之といい、陶湮の弟陶猷は字を恭予といい、ともに有名であった。陶湮は臨海太守、黄門侍郎まで昇り、陶猷は宣城内史、王導の右軍長史となった。陶湮の子陶馥は于湖の県令となったが韓晃に殺害され、廬江太守の官職を追贈された。陶抗の子陶回には彼自身の列伝が立てられている。

【参照】王業 / 王導 / 解系 / 解象 / 霍弋 / 韓晃 / 虞汜 / 胡肇 / 顧参 / 顧寿 / 顧秘 / 吾彦 / 爨谷 / 爨能 / 司馬炎(武帝) / 脩允 / 脩則 / 薛珝 / 孫晧 / 孫諝 / 陶威 / 陶湮 / 陶回 / 陶基 / 陶抗 / 陶淑 / 陶濬 / 陶綏 / 陶馥 / 陶猷 / 陶融 / 董元 / 滕脩 / 鄧荀 / 馬融 / 范熊 / 毛炅 / 孟幹 / 孟通 / 楊稷 / 李松 / 李祚 / 李統 / 劉俊 / 呂興 / 梁奇 / 梁碩 / 黎晃 / 于湖県 / 宛陵県 / 合浦郡 / 合浦県 / 九真郡 / 九真属国 / 九徳郡 / 荊州 / 桂林郡 / 建業県 / 呉 / 興古郡 / 交阯郡 / 広州 / 交州 / 古城 / 日南郡 / 蜀 / 晋 / 新昌郡 / 宣城郡 / 蒼梧郡 / 丹楊郡 / 寧州 / 扶厳 / 武昌県 / 扶南 / 武平郡 / 分水 / 秣陵県 / 洛陽県(京都) / 臨海郡 / 林邑 / 廬江郡 / 安南将軍 / 威南将軍 / 右軍長史 / 王 / 牙門将 / 監軍 / 冠軍将軍 / 関内侯 / 県令 / 功曹 / 黄門侍郎 / 散騎常侍 / 察戦 / 刺史 / 使持節 / 前将軍 / 前部督 / 太子中庶子 / 内史 / 太守 / 大都督 / 帳下督 / 長史 / 鎮南大将軍 / 都督 / 南中監軍 / 牧 / 列侯 / 員外 / 鼓吹 / 真珠 / 軺車(小型車) / 獠族

滕脩Teng Xiu

トウシュウ
(トウシウ)

(?〜288)
晋使持節・都督広州軍事・安南将軍・広州牧・武当忠侯

字は顕先。南陽郡西鄂の人。

もともと呉に仕えて将帥となり西鄂侯に封ぜられ、孫晧の時代には熊睦の後任として広州刺史となり、はなはだ威光恩恵を明らかにした。滕脩が広州刺史になったとき、ある人が一丈もの長さの鬚をもつ蝦がいると語ったが、滕脩は信用できなかった。その人がのちに東海へと出かけ、長さ四丈四尺の蝦を捕まえて滕脩に送ると、滕脩はやっと納得した《呂岱伝》。

中央に徴し返されて執金吾となる。建衡元年(二六九)、左丞相の陸凱は「滕脩らはみな清廉忠実・卓越秀才であり、社稷の根幹、国家のよき補佐でありますので、陛下は彼らにお訊ねになり忠義を尽くさせて下さいますよう」と陳情している《陸凱伝》。広州の部曲督である郭馬らが反乱を起こすと、孫晧はかねてより滕脩の威光恩恵が嶺表を心服させていることから、使持節・都督広州軍事・鎮南将軍・広州牧に任じて討伐を命じた。

まだ平定していないうちに官軍(晋軍)が呉に攻め込んだので、滕脩は人数を率いて危難に駆けつけたが、巴丘まで来たところで孫晧がすでに降服したと知り、喪服を着け、涙を流しながら引き返した。広州刺史閭豊・蒼梧太守王毅とともに印綬を返上すると、詔勅により安南将軍に任じられ、広州牧・持節・都督は今まで通りとされ、武当侯に封ぜられたうえ鼓吹を与えられ、南方の仕事を委任された。

滕脩は南方にあること数年、辺境の夷狄たちも帰服した。太康九年(二八八)、卒去した。京師に埋葬して欲しいと請願したことから、帝はその気持ちに満悦し、一頃の墓田を賜り、声侯と諡した。のちに子息の滕並の上表により、忠侯と改められた。

【参照】王毅 / 郭馬 / 司馬炎(帝) / 孫晧 / 滕並 / 熊睦 / 陸凱 / 閭豊 / 呉 / 広州 / 西鄂県 / 蒼梧郡 / 東海 / 南陽郡 / 巴丘 / 武当県 / 洛陽県(京師) / 嶺表 / 安南将軍 / 侯 / 左丞相 / 刺史 / 使持節 / 執金吾 / 声侯 / 太守 / 忠侯 / 鎮南将軍 / 都督 / 部曲督 / 牧 / 諡 / 鼓吹

馬隆Ma Long

バリュウ

(?〜?)
晋仮節・平虜護軍・東羌校尉・西平太守・奉高侯

字は孝興。東平国平陸の人。

若くして知勇を備え、功名節義を立てることを好んだ。魏の兗州刺史令狐愚が事件によって誅殺されたとき、遺体を回収してやる者は州内に一人もいなかった。馬隆は武官であったが、令狐愚の食客だと称し、私財を投じて埋葬してやり、墓場に松や柏を植え、三年間の服喪を終えてからやっと帰郷した。州内の人々はみな美談だと思った。武猛従事に任命された。

泰始年間(二六五〜二七五)に呉討伐の戦役が始まり、「呉会地方はいまだ平定されておらず、猛者を手に入れて武功を完成させるべきである。従来より推挙の定めがあるとはいえ、異才を集め尽くすには充分でない。そこで州郡に布告する。勇壮秀才にして傑出する者あれば、その長所のみを評価して抜擢任用せよ」との詔勅が下された。馬隆はその才能が名将に相当するとして兗州より推挙され、次第に昇進して司馬督となった。

かつて涼州刺史楊欣が羌族たちの歓心を損ね、馬隆がその失敗は確実であると言上したことがあった。突如、楊欣は夷狄どもに敗北し、黄河西岸は断絶してしまい、帝(司馬炎)は西方で事件が起こるたびに、朝廷で「だれぞ私のために奴らを討伐して涼州を開通させる者はおらぬかのう」と歎息した。朝臣たちに答えられる者はなかったが、「陛下がもし臣にお任せくださるなら、臣はうまく平定してみせましょう」と進みでたのが馬隆であった。

帝「賊徒を滅ぼすことができるなら任用せぬ理由はない。貴卿の計略がどうであるかを考慮するまでだ」、馬隆「陛下がもし臣にお任せくださるなら、臣のやりたいようにやらせてくだされ」、帝「どうするつもりか?」、馬隆「勇士三千人を公募し、これを率いて西進いたします。陛下の武威恩徳を奉じますれば、夷狄どもを滅ぼすだけで済みましょうか!」帝はこれを許可し、馬隆を武威太守に任じた。

『晋書』武帝紀には、「討虜護軍・武威太守馬隆」とある。

公卿らが「六軍はすでに数多く、州郡の兵員も多数でありますゆえ、これをお使いになるだけでよいのです。むやみに公募を行って前例を崩してはなりませぬ。馬隆のごとき小身の部将の妄説など聞き入れてはなりませんぞ」と反対したが、帝は聞かなかった。

馬隆は、三十六鈞の弩、四鈞の弓を引ける者だけを限定して募集し、標的を立てて試験した。日の出から日中に至るまでに三千五百人を手に入れ、馬隆は「これで充分だな」と言った。そこで武庫(兵器庫)へ足を運んで武器を選ぼうとしたが、武庫令(倉庫番)と口論になり、御史中丞が馬隆を告発した。馬隆が「臣は戦場で命を張って御恩に報いる所存ですのに、武庫令は魏の時代の腐った武器を寄こしました。賊徒を滅ぼさんとの陛下のご意向に背くものであります」と言上すると、帝はそれを認め、三年分の軍需物資を支給した。

咸寧五年(二七九)正月《晋書武帝紀》、馬隆が温水を西へ渡ると、夷狄の樹機能らは一万人ばかりを率いて、一部は要害に籠もって馬隆の前方を塞ぎ、一部は伏兵を設けて馬隆の後方を遮った。馬隆は八陣図によって偏箱車(一側面に板を立てて盾とした車?)を建造し、広い場所では逆茂木を植えて車陣を布き、狭い道では車上に板の屋根を張り、前進しつつ戦い、弓矢の届くところでは弦音とともに倒れない者はなかった。

奇策は合間合間に発せられ、敵の不意を突いた。あるときは細道に磁石を積み重ねて、鉄の鎧をまとった敵兵に進むことをできなくさせ、馬隆の兵卒はみな犀革を身に着けて自由に動いたので、賊兵たちに神業だと思わせたほどである。

転戦すること一千里、殺傷すること一千人単位、出立以来、音信が途絶えていたために、朝廷ではそれを憂慮して、すでに敗北しているのではないかと言う者さえあったが、馬隆の使者が夜中に到着すると、帝はその手のひらを撫でつつ談笑し、群臣を集めて「もし貴卿らの言葉を聞いておれば秦・涼州を失うところであったわ」と難詰した。そして「馬隆は僅かな軍勢を率いて困難を顧みずに戦い、危険を冒して成功を収めた。そこで仮節・宣威将軍とし、赤幢・曲蓋・鼓吹を授ける」との詔勅を下した。

馬隆が武威に到着すると、夷狄の大人である猝跋韓・且万能らは一万人余りの部落を率いて帰順し、前後して誅殺されたり降服したりした者は一万人単位となった。また率善戎である没骨能らが樹機能と大きな戦闘を起こして、樹機能を斬り、十二月《晋書武帝紀》、涼州はついに平定された。

朝廷では馬隆の将兵に恩賞を与えるべきと提議されたが、所管の役人は、馬隆の将兵はみな事前に爵位を得ているので、重ねて授与すべきでないと上奏した。衛将軍楊珧が反論して「かつて将兵を募集したときには、爵位にあずかる者が少のうございました。それは彼らを引き寄せる餌だったからです。いま馬隆は人数を温存したまま勝利し、西方を安定させたのです。以前の授与をもって以後の功績を無視してはなりませぬ。すべてお認めになり、信用を明らかになさいますよう」と述べると、これが採用され、おのおのの功績に従って爵位・秩禄が賜与された。

太康年間(二八〇〜二九〇)の初め、西平郡が荒廃していたことから、朝廷ではすぐさま復興したく思い、馬隆を平虜護軍・西平太守とし、配下の精兵を率いさせるほか牙門の一軍を貸し、西平に駐屯させた。そのころ南方の夷狄である成奚がことごとに辺境で問題を起こしており、馬隆は到着するなり軍勢を率いてこれを討伐した。賊軍は要害に籠もって防ごうとしたが、馬隆は兵士たちに命じて農具を背負わせ、農作業をするふりをさせた。賊徒らは馬隆に戦う意志がないと思い、統率ぶりに少しづつ弛みが出てきた。馬隆はその不備を突いて進軍し、彼らを撃破した。馬隆の任期が終わるころには、もう侵害をなすことはなくなっていた。

太煕年間(二九〇)の初め、奉高県侯に封ぜられ、東羌校尉の官を加増された。十年余りが経過するうちに威信は隴右を震わせた。ときに略陽太守厳舒は楊駿と通婚しており、密かに馬隆の後任の座を窺って「馬隆は年を食って耄碌しており、軍務に就かせてはなりませぬ」と中傷した。こうして馬隆は徴し返され、厳舒が後任に当たることになったが、氐族・羌族が集結して百姓たちを恐怖させると、朝廷では関隴地帯がふたたび混乱することを憂慮し、厳舒を罷免して馬隆を復職させた。

馬隆は在職のまま卒去した。

【参照】厳舒 / 猝跋韓 / 司馬炎 / 樹機能 / 且万能 / 成奚 / 没骨能 / 楊欣 / 楊駿 / 楊珧 / 令狐愚 / 兗州 / 温水 / 関隴 / 魏 / 呉 / 黄河 / 呉会 / 秦州 / 西平郡 / 東平国 / 武威郡 / 東平陸県(平陸県) / 奉高県 / 略陽郡 / 涼州 / 隴右 / 衛将軍 / 仮節 / 御史中丞 / 侯 / 刺史 / 司馬督 / 宣威将軍 / 太守 / 東羌校尉 / 武庫令 / 武猛従事 / 平虜護軍 / 牙門 / 羌族 / 曲蓋 / 鼓吹 / 赤幢 / 率善戎 / 大人 / 氐族 / 八陣図 / 武庫 / 偏箱車

武陔Wu Gai

ブガイ

(?〜?)
晋尚書左僕射・左光禄大夫・開府・儀同三司・薛定侯

字は元夏。沛国竹邑の人。武周の子、武輔の父、武韶・武茂の兄。

武陔は落ち着きがあって聡明、器量の持ち主であり、若いころから名誉を得ていた。また弟の武韶・武茂にも総角(あげまき)のころから知られていて、親戚や郷里の人々も彼らの優劣は分からなかった。同郡の劉公栄には人物を見抜く力があり、あるとき武周を訪ねて三兄弟を見ると「いずれも国士でございますが、元夏が最も優れていて補佐の才能があり、出世を心がければ三公に次ぎましょう。叔夏・季夏(武韶・武茂)も常伯・納言(常侍・尚書)を下回ることはございますまい」と言った。

武陔は若いころから人物評価を好み、潁川の陳泰と友人付き合いをした。魏の明帝(曹叡)の時代、次第に昇進して下邳太守となった。景帝(司馬師)が大将軍になると彼を招いて従事中郎とし、次第に司隷校尉へと昇進、太僕卿に転任した。最初、亭侯に封ぜられていたが、五等が開設されると改めて薛県侯に封ぜられた。

文帝(司馬昭)はたいそう親愛尊敬し、しばしば同時代の人物について議論した。あるとき(文帝が)陳泰とその父陳羣とではどちらが優れているかと訊ねたとき、「風雅に通じてのびやか、天下の教化を自分の任務と認める点では(陳泰は父に)及びません。統率に明るく簡潔さを極め、功業を成し遂げる点では上回っております」と《陳羣伝》、武陔はそれぞれの長所を称えたうえで、陳羣・陳泰にほぼ優劣なしと答えた。文帝もその通りだと思った。

泰始年間(二六五〜二七五)の初め、尚書を拝命して吏部(人事)をつかさどり、昇進して左僕射・左光禄大夫・開府・儀同三司となった。武帝(司馬炎)は父文帝が亡くなると、礼法に定める期間を過ぎても服喪しつづけた。武陔は太宰司馬孚らと連名でたびたび諫めたが、武帝は聞き入れなかった《晋書礼志》。

武陔は宿老旧臣であり名声官位も高いものであったが、自分では佐命の功績(晋の建国を推進すること)もないし、それに魏の時代には大臣でもあったからと考えており、やむを得ず官位には就いたものの、深く謙譲の気持ちを抱き、終始、清潔さを貫いた。当時の人々は美しい話だと思った。

官位に就いたまま卒去し、「定」と諡された。司隷校尉李憙は「故の立進令劉友、尚書僕射武陔らは官用の稲田を押領しましたので、武陔には悪い諡を与えるべきです」と言上したが、詔勅により「この事件を調査したところ劉友に責任がある。武陔らはその罪を繰り返したわけではなく、責任を問うてはならない」と斥けられた《晋書李憙伝》。

【参照】司馬炎 / 司馬師 / 司馬昭 / 司馬孚 / 曹叡 / 陳羣 / 陳泰 / 武周 / 武韶 / 武輔 / 武茂 / 李憙 / 劉昶(劉公栄) / 劉友 / 潁川郡 / 下邳国(下邳郡) / 魏 / 薛県 / 竹邑県 / 沛国 / 開府 / 儀同三司 / 侯(県侯) / 左光禄大夫 / 散騎常侍(常伯) / 三公 / 従事中郎 / 尚書(納言) / 尚書左僕射 / 司隷校尉 / 太宰 / 太守 / 大将軍 / 太僕(太僕卿) / 定侯 / 亭侯 / 立進令 / 諡 / 五等 / 佐命之功 / 人倫(人物評価) / 総角 / 知人之鑑(人物を見抜く力) / 列侯

文立Wen Li

ブンリツ

(?〜?)
晋衛尉・散騎常侍

字は広休。巴郡臨江の人。

蜀の時代、太学へ遊学して『毛詩』『三礼』を専修し、譙周に師事した。門弟たちは文立を顔回、陳寿・李虔を子游・子夏、羅憲を子貢に見立てた。益州刺史費禕により従事に任命され、入朝して尚書郎となり、また費禕に招かれて大将軍東曹掾になった。次第に昇進して尚書まで昇った《華陽国志》。

蜀が平定されたのち、梁州が創設されると最初の別駕従事になった《華陽国志》。咸煕元年(二六四)《華陽国志》、秀才に推挙されて郎中に叙任された。二年夏、蜀に帰ったとき譙周から「典午、忽然として月酉に没す」との言葉を聞いた。これは八月に司馬昭が亡くなることを予言したものである《譙周伝》。泰始二年(二六六)《華陽国志》、済陰太守を拝命した。その地の賢才直言の士として郤詵を推挙している《晋書郤詵伝》。また朝臣が贈り物をやり取りするのは煩瑣であるとして、その行きすぎた慣行を禁止するようにと上奏し、詔勅によって認められた《晋書皇甫謐伝》。

入朝して太子中庶子となった。諸葛亮・蔣琬・費禕らの子孫が畿内で流浪しているので、彼らを任用して巴蜀の人々の気持ちを慰め、同時に呉の人々の期待を誘うべきだと上表し、それが認められ施行された。

同十年《華陽国志》、詔勅に言う。「太子中庶子文立は忠実清廉であり、思慮と才幹の持ち主である。かつて済陰にあったときは公明な統治ぶりであったし、のちに東宮に仕えたときも教育係としての節義を尽くした。むかし光武帝が隴蜀を平定したとき、その地の賢者をみな任用したものだ。それは冷遇されている者を抜擢することにより、遠方の問題を解決するためであろう。そこで文立を散騎常侍に取り立てることとする。」文立はたびたび「側近の器ではございませぬ」と述べて辞退したが、許可されなかった《華陽国志》。

文立は側近になって以来、よいことを勧めてよくないことは遠ざけ、二州(益州・梁州)の人士を推薦するときも公平であったので、優れた人物たちにとって希望であった《華陽国志》。巴東の監軍が欠員になったとき、その人選を問われた文立は「楊宗・唐彬はいずれも優秀ですが、唐彬は金銭欲が強く、楊宗は飲酒癖がございます。陛下のご判断を仰ぎとうございます」と答えた。帝は「金銭欲は満たしてやることができるが、酒癖は直るものではない」と言って唐彬を採用した《晋書唐彬伝》。陳寿が『益部耆旧伝』十篇を著作したとき、それを武帝に献上したのは文立である。陳寿が著作郎になれたのは文立のおかげなのである《華陽国志》。

蜀の故(もと)の尚書である犍為の程瓊はかねてより徳行学績があり、文立とは深い親交があった。武帝がその名声を聞いて文立に訊ねると、文立は「臣はその人物をよくよく存じております。ただ年齢が八十に近く、生まれつき謙虚な人柄ですので、もはや時務に携わらせることは期待できません。それゆえご報告しなかったのでございます」と答えた。程瓊はそのことを聞いて「広休どのは身びいきをしないと言うべきじゃな。だからこそ吾はあの人と親しくするのだ」と言った。

そのころ西域から名馬が献上されてきた。帝が「この馬はいかがかな?」と訊ねると、文立が「太僕にご下問くださいますよう」と答えた。帝はその慎ましさをいつも評価していた《華陽国志》。衛尉に昇進した。朝廷の人々はみな文立の賢明温雅さに心服し、その時代の名卿であった。たびたび上表して「年老いたので解任していただき、帰郷して畑仕事をいたしとうございます」と訴えたが、帝は許可しなかった《華陽国志》。

安楽思公(劉禅)の世継ぎ(劉璿)は早くに亡くなったので、思公は次子(劉瑤?)を差しおいて寵愛の皇子(劉珣?)を太子に立てようとした。文立が何度も諫めたが、聞き入れられなかった。寵愛の皇子は太子に立てられると、傲慢で乱暴であった。二州(益州・梁州?)の人々はみな上表して廃位したいと思ったが、文立はそれを制止して「かの人は自分の一門を破壊しているだけで、百姓まで害を及ぼしているわけではない。父君のおかげで、あんなことができるだけだ」と言った《華陽国志》。

咸寧年間(二七五〜二八〇)の末期、卒去した。文立は日ごろから故郷を懐かしがっていたので、帝はその亡骸を蜀へ届けて使者に葬儀を仕切らせ、郡県には墳墓をこしらえさせた。当時の人々はそれを栄誉なことだと思った《華陽国志》。のちに安楽公(劉珣?)が淫乱にふけり道義を失ったとき、何攀・王崇・張寅らは「文立の言葉を思い出してください」と諫めた《華陽国志》。

文立には章奏が十篇、詩・賦・論・頌が合わせて数十篇あり《華陽国志》、みな世間に流行した。

【参照】王崇 / 何攀 / 顔回 / 郤詵 / 子夏 / 子貢 / 子游 / 司馬炎(武帝) / 司馬昭 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 譙周 / 張寅 / 陳寿 / 程瓊 / 唐彬 / 費禕 / 楊宗 / 羅憲 / 李虔 / 劉秀(光武帝) / 劉珣 / 劉璿 / 劉禅 / 劉瑤 / 安楽県 / 益州 / 犍為郡 / 呉 / 蜀 / 済陰郡 / 巴郡 / 巴蜀 / 巴東郡 / 梁州 / 臨江県 / 隴蜀 / 衛尉 / 監軍 / 公 / 散騎常侍 / 刺史 / 秀才 / 従事 / 尚書 / 尚書郎 / 太子中庶子 / 太守 / 大将軍 / 太僕 / 著作郎 / 東曹掾 / 別駕従事 / 郎中 / 太学 / 太子 / 東宮 / 益部耆旧伝 / 三礼 / 毛詩