三国志人名事典 魏志17

張遼Zhang Liao

チョウリョウ
(チヤウレウ)

(169〜222)
魏使持節・前将軍・晋陽剛侯

字は文遠。雁門郡馬邑県の人。もともと聶壱の子孫だが匈奴の復讐を避けるため姓を改めた。

若いころ郡役人となり、武勇を見込まれて幷州刺史丁原に従事として召し出される。兵を率いて都に赴き、大将軍何進のために河北で兵卒千人を徴募したが、帰洛したとき何進が宦官に殺されていたので董卓に属し、また董卓も敗れると呂布に属して騎都尉に任じられた。呂布が李傕に敗れて徐州に逃れると、魯国相となる。ときに二十八歳。曹操が下邳で呂布を滅ぼすと軍勢を引き連れて投降し、中郎将・関内侯となった。のち武功を重ねて裨将軍に昇進する。袁紹が敗北すると魯国の諸県を平定した。

東海郡に拠る昌豨を夏侯淵とともに包囲したが、数ヶ月のあいだ落とせず兵糧が底をつき、軍議の席で撤退について話し合いとなった。張遼は夏侯淵に「ここ数日、昌豨は私の顔をじっと見つめて矢を射ようともしません。私に彼と話をさせて下さい」と言った。そこで使者をやると昌豨は城を出て話し合いに応じ、張遼が「曹操様は徳義によって天下を治めておられる。今帰服すれば大きな恩恵を受けられるだろう」と言うと、昌豨は喜んで投降した。曹操はこれを聞いて「大将のやることではない」と叱ったが、張遼は「明公の威信が天下に鳴り響いているので、昌豨には逆らう勇気がないと思ったのです」と陳謝した。

袁譚・袁尚討伐のため黎陽に従軍し、行中堅将軍に任じられた。また鄴の袁尚を攻撃したが、袁尚が堅く守ったので、曹操は許に帰還して、張遼と楽進は陰安を攻略して住民を黄河南岸に移した。また鄴を攻撃して、これが陥落すると、趙・常山を平定し、黒山賊孫軽らを降伏させた。さらに袁譚攻撃に参加してこれを破ると、別軍を率いて沿海地域を攻略し、遼東の賊柳毅を撃破した。鄴に帰還すると曹操は自ら張遼を迎え、手を引いて同じ車に乗せ、盪寇将軍に任命した。

また別軍を率いて荊州江夏郡を平定し、臨潁に戻って駐屯し、そこで都亭侯に封じられた。袁尚討伐戦に従軍して柳城に至ったが、突如蹋頓らが襲撃してきた。張遼は曹操に迎撃することを勧めたが、彼の意気軒昂たる様子を見て、曹操は指揮の旗を張遼に授けて戦わせた。張遼は賊軍と戦って撃ち破り、単于蹋頓の首を斬った。

長社に駐屯したとき、叛逆を企てた者が夜間に火を放ち、軍中が大いに混乱した。張遼は側の者に「みだりに動くな。叛逆者が騒ぎを大きくしているだけだ」と言って、軍中に静まるように命令し、張遼自身は数十人の供を連れて陣の中央に立つと、騒動は鎮まったので、叛逆者を捕まえて処刑した。

陳蘭・梅成が六・灊県をこぞって叛乱すると、于禁・臧霸が梅成にあたり、張遼は張郃・朱蓋を連れて陳蘭にあたった。梅成は一度于禁に降ったが再び背き、陳蘭とともに灊山に立て籠もった。山の中に天柱山という頂があり、その上に陳蘭らの砦があったが、そこまでの道は狭く険しかったので、将軍たちは「我が軍の数は少なく道は険しいので進むことができない」と言ったが、張遼「これは一騎打ちの道といって勇者なら進むことができるのだ」と言って侵入し、陳蘭・梅成らを攻撃して首を斬った。曹操はこれを賞して張遼の所領を加増し、仮節を与えた。

のちに楽進・李典ら七千人とともに合肥に駐屯して孫権に備える。曹操が漢中制圧のため西方に行ったので、孫権は軍勢十万を起こして合肥に攻め寄せた。曹操が事前に彼らに残した命令書には「張遼・李典は城外で戦え」とあったが、諸将はためらって同意しなかった。張遼は「公の救援を待っていたら我が軍は敗北するぞ。敵の包囲網が整わぬうちに攻撃してから守ればよい」と主張し、李典も賛成したので、勇気のある兵士八百人を募集し、牛を潰して彼らに振る舞った。

翌朝、張遼は自ら先頭に立って敵陣に突入し、二人の将と数十人の兵を斬り、名乗りを挙げながら孫権の本陣まで迫った。孫権らは驚いてなすすべなく小高い丘に逃れた。張遼は下りてきて戦えと叫んだが、孫権は敵の少なさを見て取って彼らを包囲させた。張遼は左右に斬り込んで、数十人の部下とともに幾重にも重なる包囲を切り抜けた。残された部下たちが「私たちを見捨てないでください」と叫んだので再び敵中に飛び込み、彼らを救い出してやった。こうして真昼まで戦い、孫権の軍勢はすっかり戦意をなくしてしまったので、張遼は合肥城に帰還した。孫権は十余日かけて城を落とせなかったので撤退したが、張遼はこれを追撃して孫権を捕える寸前まで大勝利を収めた。曹操は非常に感じ入り、彼を征東将軍に任じた。

建安二十一年(二一六)、曹操は孫権征伐のため合肥に駐屯したとき、張遼が戦った場所を巡り歩いて感歎した。張遼の兵を増やして居巣に駐屯させた。のち曹仁が樊城で関羽に包囲されたので張遼は救援に向かった。到着しないうちに徐晃が関羽を破ったので、摩陂で曹操に拝謁した。曹操は輦に乗って張遼の軍をねぎらった。孫権はすでに帰服していたので、陳郡に駐屯することになった。

曹丕が魏王に即位すると前将軍を拝命する。領地を兄張汎に分けられ、子が列侯に封じられた。再び孫権が叛逆したので合肥に駐屯し、都郷侯に封じられた。張遼の母に車が支給され、家族は官軍に守られて合肥に赴いた。彼らが到着すると、合肥に駐留する諸将軍吏は道に並んで挨拶をして出迎えた。

曹丕が帝位に即くと晋陽侯に進められ、千戸加増されて二千六百戸となった。翌黄初二年(二二一)に洛陽に参内したとき、曹丕は親しく孫権を撃ち破ったときのことを尋ね、感嘆して彼を「古の召虎である」と言った。また彼のために邸宅を建て、その母のために御殿を築いた。そして張遼とともに孫権と戦った兵士たちを召して虎賁とした。

孫権が臣礼をとったため駐屯地を雍丘に移したが、ここで病気に罹った。曹丕は侍中劉曄と太医を張遼のもとに派遣し、また虎賁たちも彼の病気を心配して道路に引きも切らなかった。曹丕は彼を行在所に召し寄せ、親しく見舞って手づから御衣を下賜した。また太官に命じて天子と同じ食事を贈った。こうして張遼の病気はやや治癒した。

孫権はまたも叛逆したので、張遼は舟に乗って曹休とともに海陵に駐屯した。このとき孫権は彼を恐れ、諸将に「張遼は病気だとはいえ油断してはならぬぞ」と命じた。張遼は孫権の将呂範を撃破した。張遼の病気はますます重くなって、江都にて亡くなった。曹丕は彼のために涙を流し、剛侯と諡した。

【参照】于禁 / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 何進 / 夏侯淵 / 楽進 / 関羽 / 朱蓋 / 徐晃 / 召虎 / 昌豨 / 聶壱 / 曹休 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 臧霸 / 孫軽 / 孫権 / 張郃 / 張汎 / 陳蘭 / 丁原 / 董卓 / 蹋頓 / 梅成 / 李傕 / 李典 / 柳毅 / 劉曄 / 呂範 / 呂布 / 陰安邑 / 海陵県 / 合肥侯国 / 下邳国 / 河北 / 漢中郡 / 雁門郡 / 許県 / 鄴県 / 居巣県 / 荊州 / 江夏郡 / 江都 / 徐州 / 常山国 / 晋陽県 / 灊山 / 潜県灊県) / 趙国 / 長社県 / 陳国(陳郡) / 天柱山 / 東海郡 / 馬邑県 / 樊城 / 幷州 / 摩陂 / 雍丘 / 雒陽県洛陽県) / 六県 / 柳城 / 遼東郡 / 臨潁県 / 黎陽県 / 魯国 / 王 / 関内侯 / 騎都尉 / 侯 / 剛侯 / 刺史 / 侍中 / 従事 / 相 / 征東将軍 / 前将軍 / 太医 / 太官 / 大将軍 / 中堅将軍 / 中郎将 / 盪寇将軍 / 都郷侯 / 都亭侯 / 裨将軍 / 諡 / 仮節 / 宦官 / 匈奴 / 行 / 黒山賊 / 虎賁 / 単于 / 輦 / 列侯

楽進Yue Jin

ガクシン

(?〜218)
魏右将軍・仮節・広昌亭威侯

字は文謙。陽平郡衛国の人。

小柄ながらに勇気があり、曹操の元で帳下吏となる。その命により陽平郡で兵千人余りを集め、仮の司馬・陥陣都尉に任じられた。濮陽での呂布攻撃、雍丘での張超攻撃、苦での橋蕤攻撃に従軍、いずれも一番乗りの武功を立てて広昌亭侯に封じられた。また張繡を安衆に征討し、下邳城で呂布包囲に参加して、彼らの別軍を撃破した。さらに射犬で眭固を、沛で劉備を撃ち破り、討寇校尉に任命された。

黄河を渡り獲嘉を攻めて帰還し、官渡で袁紹軍と戦って淳于瓊を斬った。また黎陽で袁譚・袁尚兄弟を攻撃して大将厳敬を斬り、行遊撃将軍に昇進する。さらに別働隊として楽安の黄巾賊を平らげた。鄴城包囲の陣に加わり、鄴陥落ののちは南皮の袁譚を攻撃し、東門に突入して一番乗りの武功を立てた。袁譚が敗走すると別働隊を率いて雍奴を撃破した。こうして建安十一年(二〇六)、曹操の上奏により楽進は折衝将軍に叙任された。

楽進はまたも別働隊として高幹を征伐することになり、北道から上党郡に入って背後を襲った。高幹は壺関に引き返して守りを固めたが、楽進はこれを破って敵兵の首を挙げた。高幹は城に立て籠もって降らず、曹操自ら包囲するとようやく陥落する。さらに曹操が淳于に布陣すると、楽進・李典は海賊管承を討伐した。管承は敗れて海に浮かぶ島に逃れ、海岸一帯は平定された。

潁川郡陽翟に駐屯して荊州の張繡・劉表らに備え、のちに劉表が死ぬと荊州平定戦に従軍、襄陽に駐屯して関羽・蘇非らを撃破する。南郡諸県の異民族たちは楽進の元にやって来て降伏した。さらに劉備に属していた臨沮県長杜普・旌陽県長梁太と戦って大勝利を収めた。

のち曹操の孫権討伐に参陣し、仮に節を与えられ、曹操が漢中制圧のため西に向かうと張遼・李典とともに合肥を守る。五百戸加増で都合千二百戸となり、そのうち五百戸をもって楽進の子が列侯に封ぜられる。楽進は右将軍を拝命した。建安二十三年(二一八)に亡くなり、威侯と諡された。

巻十七に立伝されている五将軍のうち、建安年間に左右将軍に任じられているのは楽進・于禁の二人だけであり、張遼ほか三人が魏の将軍に取り立てられたのは曹操死後、曹丕が魏王に即位したのちのことである。このことから二人が曹操にとってとりわけ親密な立場にあったことが理解できよう。

【参照】袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 関羽 / 管承 / 橋蕤 / 厳敬 / 高幹 / 淳于瓊 / 眭固 / 蘇非 / 曹操 / 孫権 / 張繡 / 張超 / 張遼 / 杜普 / 李典 / 梁太 / 劉備 / 劉表 / 呂布 / 安衆県 / 衛公国 / 潁川郡 / 獲嘉県 / 合肥侯国 / 下邳国 / 下邳県 / 漢中郡 / 官渡 / 鄴県 / 荊州 / 苦県 / 黄河 / 壺関県 / 広昌亭 / 射犬聚 / 湻于県淳于県) / 上党郡 / 襄陽郡 / 旌陽県 / 南郡 / 南皮県 / 沛国 / 濮陽県 / 雍丘県 / 陽翟県 / 陽平郡 / 雍奴県 / 楽安国 / 臨沮県 / 黎陽県 / 威侯 / 右将軍 / 陥陣都尉 / 県長 / 司馬 / 折衝将軍 / 帳下吏 / 亭侯 / 討寇校尉 / 遊撃将軍 / 諡 / 仮節(仮の節) / 行 / 黄巾賊 / 列侯

于禁Yu Jin

ウキン

(?〜221?)
魏安遠将軍・持節鉞・益寿亭厲侯

字は文則。泰山郡鉅平県の人。

黄巾の乱が起こると鮑信の募兵に応じて彼に従う。のちに曹操が兗州牧に迎えられると、仲間たちとともに曹操に服し、将軍王朗の下に所属した。王朗が于禁を大将軍の器だと推薦したので、曹操は彼を引見して話し合い、軍司馬に任命した。于禁は徐州に派遣され、広威を陥落させたので陥陣都尉に任じられる。

濮陽での呂布討伐に従軍し、別働隊を率いて城外南にあった二つの敵陣を撃破する。また別働隊として須昌で高雅を破った。さらに寿張・定陶・離狐を攻め、雍丘では張超を包囲し、全て陥落させた。黄巾賊の劉辟・黄邵らの征伐に従軍したが、曹操の軍が版梁に駐屯したとき黄邵らが夜襲を掛けてきた。于禁は直属の兵を率いて迎え撃ち、黄邵を斬り、その兵を降伏させた。平虜校尉に昇進する。苦において橋蕤を包囲し、橋蕤はじめ敵将四人を斬った。

曹操に付き従って宛城の張繡を攻めて下した。しかし張繡は再び叛き、曹操は戦いに敗れて舞陰まで退いた。このとき軍勢は曹操の姿を求めて間道に入ってさまよった。ただ于禁だけが兵数百人を率いて敵の追撃を防ぎ、死傷者を出したものの脱走する兵はいなかった。こうして敵の追撃が鈍るとゆっくりと隊列を整え、太鼓を鳴らしながら撤退した。

その帰路まだ曹操に会えぬうち、裸で逃げる十人余りの負傷兵を見た。于禁が理由を尋ねると「青州兵に略奪された」とのことであった。青州兵とは曹操が青州の黄巾賊を制圧したとき降伏者のなかから軍勢に組み入れたものである。于禁は腹を立てて青州兵を討伐した。青州兵たちは曹操のもとに逃れて于禁の謀叛を言い立てた。

于禁はようやく曹操のもとに辿り着いたが、陣営を築こうとして謁見しなかった。ある人が「疑いを晴らすべきでしょう」と言ったが、于禁は「今は背後の賊軍を撃つのが先決だ。それに英明な公(曹操)がでたらめな訴えを信じるはずはない」と答えた。塹壕を掘って陣営を築き終えたのち曹操に謁見し、詳しく報告した。曹操は大いに喜んで、のちに「淯水での苦難は危急のことだったが、于禁のおかげで賊を討って守りを固めることができた。古代の名将に勝る節義だ」と言い、于禁を益寿亭侯に取り立てた。

再び張繡征伐のため穣に従軍、また下邳城で呂布を捕えた。さらに曹仁・史渙とともに別働隊として射犬で眭固を撃ち、彼を斬った。

曹操と袁紹が矛を交えるようになると、袁紹の兵力は絶大であったが于禁は先陣を志願する。曹操は彼の勇気を認めて歩兵二千人で延津を守らせた。曹操は官渡に向かったが、劉備が徐州で叛乱したのでこれを征討し、そのため手薄になった延津に袁紹軍が攻め寄せた。しかし于禁は堅く守って陥落しなかった。さらに楽進らとともに歩騎五千を率いて袁紹の別陣営を攻撃することとし、黄河沿いに西南に進み、汲・獲嘉両県の敵陣三十ヶ所余りを焼き払い、斬首と捕虜はそれぞれ数千に上り、袁紹の将軍何茂・王摩ら二十余人が降伏した。また別働隊を率いて原武に駐屯し、杜氏津にある袁紹の拠点を攻撃して勝利を収め、裨将軍に昇任されて官渡に帰還した。

曹操は陣営を連ね、土山を築いて袁紹と対峙していたが、袁紹が曹操陣営に矢を射込んで死傷者を多く出したので、軍中は恐れおののいていた。しかし于禁は土山の守備を固め、袁紹に対して力戦したので戦意は昂揚した。やがて袁紹は敗れ、于禁は偏将軍に進められた。

冀州が平定されると昌豨が叛乱を起こしたので、于禁は討伐を命じられた。もともと昌豨は于禁の旧知であったので、彼がやってくると降伏した。諸将が本国に護送すべきだと述べたが、于禁は「公の過去の軍令では、包囲されてから降伏したものは許さずとある。法律や命令に従うのが臣下としての節義だ。旧友だからといって節義を失うことはできない」と言い、涙を流しながら昌豨を斬った。淳于に駐屯していた曹操はその報告を受け、「わしではなく于禁の元に出頭したことで、昌豨の運命は定まったのだ」と嘆息した。こうして東海が平定されたので虎威将軍に任じられる。

陳蘭・梅成が叛乱すると、于禁は臧霸とともに梅成にあたり、張遼と張郃が陳蘭にあたった。于禁が到着すると梅成は軍勢三千人をあげて降伏した。しかし梅成は再び叛いて陳蘭軍に合流した。張遼が引き続き陳蘭・梅成らと対峙したが、兵糧が不足していた。そこで于禁が兵糧輸送の任にあたって絶えさせなかったので、やがて張遼は陳蘭・梅成を斬ることができた。二百戸を加増されて都合千二百戸となった。

于禁・張遼・楽進・張郃・徐晃の五人はみな名将であり、曹操の遠征では五人が交替で先鋒や殿軍に起用された。とくに于禁は厳格な態度で軍勢を統率し、戦利品を我が物としなかったので曹操の恩賞も厚かった。ただ法律によって人々を従えようとしたので、兵士や民衆からは喜ばれなかった。

朱霊はつねづね曹操に憎まれており、于禁は命令を受けて彼の軍勢を取り上げることになった。数十騎を率いて命令書を携え、朱霊の軍営に到着すると、朱霊と部下たちは于禁の威厳を見てあえて抵抗しようとはしなかった。朱霊は于禁の指揮下に属すことになったが、朱霊以下みな于禁を畏れて服従した。于禁は左将軍に昇進し、節鉞を与えられ、知行のうち五百戸をもって一子が列侯に取り立てられた。

建安二十四年(二一九)、曹操は曹仁を樊城に派遣して関羽を攻撃させた。また于禁を派遣して曹仁を助けさせた。秋になると長雨が降り続いて漢水があふれ、平地でも数丈の水がたまった。于禁の陣地は水没したので、高地に登って水を見たが、陣を移せるような場所は残されていなかった。関羽が大船に乗って襲いかかり、于禁はついに降伏した。このとき龐悳は節義を守って斬られた。この報告を受けた曹操は「于禁を知ること三十年になるのに龐悳に劣るとは思わなかった」と慨嘆した。

間もなく関羽は孫権に敗れたので、于禁の身柄は呉に移送された。曹丕が魏帝に即位すると孫権は臣礼をとり、于禁を魏に送り返した。曹丕が于禁を引見すると、彼は鬚も髪も真っ白になっていて、顔は痩せ細り、涙を流して地に頭を打ち付けてひれ伏した。曹丕は荀林父・孟明視の故事を引いて于禁を慰め、安遠将軍に復帰させた。

曹丕は于禁を使者として呉に派遣し、その道中で鄴にある曹操の陵に参拝させた。曹丕はあらかじめ陵の建物に絵を描かせており、于禁がこれを見ると、関羽が戦いに勝ち、龐悳は憤怒し、于禁が降伏しているという有様であった。于禁は恥じと怒りのため病気を発し、間もなく死んだ。諡を厲侯という。

【参照】袁紹 / 王摩 / 王朗 / 何茂 / 楽進 / 関羽 / 高雅 / 橋蕤 / 黄邵 / 史渙 / 朱霊 / 荀林父 / 徐晃 / 昌豨 / 眭固 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 臧霸 / 孫権 / 張郃 / 張繡 / 張超 / 張遼 / 陳蘭 / 梅成 / 鮑信 / 龐悳 / 孟明視 / 劉備 / 劉辟 / 呂布 / 淯水 / 益寿亭 / 宛県 / 延津 / 兗州 / 獲嘉県 / 下邳県 / 漢水 / 官渡 / 冀州 / 魏 / 汲県 / 鄴県 / 鉅平県 / 原武県 / 苦県 / 呉 / 黄河 / 広戚県(広威県) / 射犬聚 / 須昌県 / 寿張県 / 湻于県淳于県) / 徐州 / 穣県 / 青州 / 泰山郡 / 定陶県 / 東海郡 / 杜氏津 / 樊城 / 版梁 / 舞陰県 / 濮陽県 / 雍丘県 / 離狐県 / 安遠将軍 / 陥陣都尉 / 虎威将軍 / 左将軍 / 司馬 / 将軍 / 大将軍 / 亭侯 / 裨将軍 / 平虜校尉 / 偏将軍 / 牧 / 厲侯 / 諡 / 黄巾賊 / 青州兵 / 節鉞 / 列侯

張郃Zhang He

チョウコウ
(チヤウカフ)

(?〜231)
魏使持節・車騎将軍・特進・鄚壮侯

字は儁乂。河間郡鄚県の人。

黄巾の乱が起きると募兵に応じ、韓馥の軍司馬となった。韓馥が敗れると部下の兵とともに袁紹に所属して校尉に任じられ、公孫瓚を防いだ。公孫瓚が敗死したのは張郃の功績が大きく、寧国中郎将を拝受した。

袁紹が官渡で曹操と対峙したとき、張郃は「軽装の騎兵を派遣して敵の背後を断ち切らせば戦わずして勝つことができます」と進言したが容れられず、袁紹は烏巣に兵糧を保管して淳于瓊に守らせた。曹操がこれを襲撃したので、また「敵兵は精鋭なので必ず淳于瓊は敗れます。急いで救援すべきでしょう」と進言したが、郭図が「敵の本陣を攻めれば引き返すでしょう」と反対した。なおも「敵陣は堅固なので陥落させられないでしょう。淳于瓊が捕えられれば我々もみな捕虜となってしまいますぞ」と諫めたが、袁紹は軽装の兵で淳于瓊を救援させ、重装の兵で曹操の本陣を攻撃し、結局陥落させられなかった。

淳于瓊が曹操に敗北したので袁紹軍は壊滅した。郭図が面目を失って「張郃は我が軍の敗北に満足し、不遜な言葉を口にしています」と讒言したため、張郃は危険を感じて曹操に降伏した。曹操は大いに喜んで「伍子胥は暗君に仕えて身を滅ぼしたが、君がやってきたのは、微子が殷を去り、韓信が漢に投じたようなものだ」と言い、張郃を偏将軍に任じ、都亭侯に封じた。

軍勢を与えられて曹操の鄴攻撃に従い、これを陥落させた。また勃海の袁譚攻撃にも従軍し、さらに別働隊を率いて雍奴を包囲、撃破した。柳城征討では張遼とともに先鋒として従軍し、平狄将軍に昇せられる。東萊郡に遠征して管承を討ち、また張遼とともに陳蘭・梅成を討ち滅ぼした。

渭南に従軍して馬超・韓遂を破り、安定城を包囲して楊秋を降伏させた。夏侯淵とともに鄜の梁興や武都の氐族を討伐した。ふたたび馬超を撃破して、宋建を討ち平らげた。

曹操は漢中の張魯討伐にあたり、まず張郃に諸軍を率いて興和の氐族王竇茂をさせた。散関から漢中に入るときも、張郃に歩兵五千を与えて先行して道路整備に当たらせた。軍勢が陽平まで進むと張魯は降伏した。張郃は夏侯淵とともに漢中に駐屯し、劉備に備えることを命じられた。別働隊を指揮して巴東郡・巴西郡を攻略し、郡民を漢中に移住させた。宕渠に進軍したが張飛の抵抗にあって撤退した。盪寇将軍に任命された。

劉備が陽平に進出すると張郃は広石に布陣した。劉備が精兵一万人を十隊に分けて、張郃に夜襲を掛けさせたが、張郃は親衛隊を指揮して戦い、劉備を撃退した。

のち劉備が走馬谷に進出して味方の陣を焼き払うと、夏侯淵は別の道をたどってその救援に駆け付けたが、劉備軍と遭遇して白兵戦となり、戦死した。張郃は陽平に退却した。漢中の全軍は、都督たる夏侯淵が戦死したことにより劉備の圧迫を恐れたが、夏侯淵の司馬郭淮は「張将軍は古参の名将であり劉備に恐れられている。彼でなくてはかなうまい」と軍中に命令を下して、張郃を都督に迎えた。張郃は各陣営を落ち着かせたので、全軍の将兵はみな安心した。

当時曹操は長安に駐屯していたが、使者を派遣して張郃に節を仮に与え、自ら漢中に入った。しかし劉備は高山に立て籠もって戦いに応じなかったので、漢中の全軍を引き揚げさせた。張郃は陳倉に帰って駐屯した。

曹丕が王位につくと左将軍・都郷侯に昇進し、帝位につくと鄚侯に封じられる。詔勅が下り、曹真とともに安定の盧水胡と東羌を征伐した。また召し寄せられて許昌の宮殿に参内し、夏侯尚とともに江陵を攻略せよとの命令を受け、別働隊を指揮して長江の中州にある砦を奪取した。明帝曹叡が即位すると荊州に駐屯して、司馬懿とともに孫権の別働隊の将劉阿を攻撃し、祁口まで追って戦い、これを破った。

諸葛亮が祁山に侵入して馬謖を街亭に布陣させると、張郃は特進待遇を加えられ、諸軍を率いて馬謖を防いだ。馬謖が山の下の砦を守らず南山に登って抵抗したので、張郃は水路を断ち切り、大いに馬謖の軍勢を破った。南安・天水・安定の諸郡は諸葛亮に呼応していたが、張郃はこれらをみな平定した。詔勅が下り、千戸を加増されて都合四千三百戸を領することになる。

司馬懿は荊州で水軍を編成し、沔水に沿って長江に入り、呉を討伐したいと計画した。そこで張郃は関中諸軍を率いて司馬懿の指揮下で戦うよう詔勅を受けたが、荊州に到着すると、冬季であったため水位が低く、大型船を運航することはできない有様であったので、引き返して方城に駐留した。

諸葛亮が陳倉に侵入したとの報が入り、張郃は明帝より駅馬を支給され、首都洛陽に急行した。明帝は親しく河南城に行幸し、宴席を設けて張郃の出征を送ることとした。明帝は彼に南北の軍勢三万人と彼の護衛のために武衛・虎賁を授けてやり、「将軍の到着が遅れれば陳倉城は陥落してしまうのだろうか」と下問した。張郃は、諸葛亮が自国から遠くまで軍勢を出しているため、兵糧が底を尽いて長く戦えないだろうと考え、「臣(張郃)が到着したときには諸葛亮は去っているでしょう。彼らの兵糧は十日と持ちますまい」と上奏した。張郃は昼夜突貫で南鄭に急行したが、諸葛亮はすでに撤退していた。首都に帰還せよとの詔勅が下り、征西車騎将軍に任命された。

張郃は変化の法則を知り、よく陣営を統率し、戦争にあたっては状況・地理を考慮して、計略はみな失敗することはなかった。そうしたことから諸葛亮らはみな張郃を恐れ憚った。また儒学者を尊重し、同郡出身の卑湛を経明行修に推挙すると、卑湛は詔勅によって博士に登用された。

またも諸葛亮が祁山に侵出したので、詔勅を受け、諸将を率いて略陽に到着した。諸葛亮が祁山に引き返したので、これを追撃して木門まで来たところ、飛来した矢が右膝にあたり、その傷のため戦死した。壮侯と諡された。明帝は彼の功績を嘉し、四人の子を列侯に取り立て、末子は関内侯とした。

【参照】袁紹 / 袁譚 / 夏侯淵 / 夏侯尚 / 郭図 / 郭淮 / 管承 / 韓信 / 韓遂 / 韓馥 / 伍子胥 / 公孫瓚 / 司馬懿 / 淳于瓊 / 諸葛亮 / 宋建 / 曹叡 / 曹真 / 曹操 / 曹丕 / 孫権 / 張飛 / 張遼 / 張魯 / 陳蘭 / 竇茂 / 馬謖 / 馬超 / 梅成 / 卑湛 / 楊秋 / 劉阿 / 劉備 / 梁興 / 微子 / 安定郡 / 渭南 / 殷 / 烏巣 / 街泉亭街亭) / 河間国 / 河南県 / 漢 / 漢中郡 / 関中 / 官渡 / 祁口 / 祁山 / 許県(許昌県) / 鄴県 / 荊州 / 呉 / 広石 / 江陵県 / 興和 / 散関 / 走馬谷 / 長安県 / 長江 / 陳倉県 / 天水郡 / 宕渠県 / 東萊郡 / 南安郡 / 鄚県 / 巴西郡 / 巴東郡 / 鄜 / 武都郡 / 沔水 / 方城 / 木門 / 勃海郡 / 雍奴県 / 陽平 / 洛陽県 / 略陽県 / 柳城 / 王 / 関内侯 / 経明行修 / 侯 / 校尉 / 左将軍 / 司馬 / 征西車騎将軍 / 壮侯 / 盪寇将軍 / 都郷侯 / 特進 / 都亭侯 / 都督 / 寧国中郎将 / 博士 / 平狄将軍 / 偏将軍 / 諡 / 仮節(仮の節) / 黄巾賊 / 虎賁 / 推挙 / 氐族 / 東羌 / 武衛 / 列侯 / 盧水胡

徐晃Xu Huang

ジョコウ
(ジヨクワウ)

(?〜227)
魏使持節・右将軍・平陽壮侯

字は公明。河東郡楊県の人。

はじめ郡役人となり、車騎将軍楊奉に付き従って賊討伐の功績を立て、騎都尉に任じられた。長安で李傕・郭汜の抗争が始まったので、天子を奉じて洛陽に帰るようにと進言すると、楊奉はそれに従い、天子が黄河を渡って安邑まで来たとき都亭侯に取り立てられた。洛陽に到着するとまたもや韓暹・董承が連日抗争を繰り返したので、曹操に帰服するように楊奉に勧めた。楊奉はそれに従おうとしたが気が変わり、曹操は梁において楊奉を討伐し、徐晃は曹操に降伏する。

徐晃は曹操の兵を与えられ、命令を受けて巻・原武の賊を討伐し、裨将軍に任じられた。呂布征討では別働隊を率いて趙庶・李雛らを降伏させ、河内では史渙とともに眭固を斬った。また曹操に従って劉備を撃破し、また従って顔良を破って白馬を陥落させ、さらに進んで延津で文醜を撃破した。偏将軍に昇任する。曹洪とともに〓彊の賊祝臂を撃ち破り、史渙とともに故市で袁紹軍の輜重車を攻撃し、最大の戦功を挙げたので都亭侯に取り立てられた。

曹操が鄴を包囲し、邯鄲を破ると、易陽県令韓範が城を挙げて降伏すると偽り、城に立て籠もって抵抗した。徐晃は曹操から攻略の命を受け、城下から矢文を放って得失を説くと、韓範は後悔して徐晃に降った。徐晃は「いま易陽を滅ぼせば、二袁に荷担している諸城は必死になって抵抗するでしょう。易陽の降伏を許すべきです」と進言すると、曹操はこれに同意した。別働隊として毛城を攻撃したが、伏兵を用いて敵の三陣営を破った。また曹操に従軍して南皮で袁譚を撃破し、平原の逆賊を討伐した。蹋頓征伐にも従軍して横野将軍に任じられた。

荊州平定に従軍し、別働隊として樊に駐屯、中廬・臨沮・宜城の賊を討伐した。満寵とともに漢津で関羽を撃ち、曹仁とともに江陵で周瑜を攻めた。建安十五年(二一〇)、太原郡の叛乱鎮圧にあたり、大陵を包囲して陥落させ、指導者商曜を斬った。

韓遂・馬超らが叛乱すると、汾陰に駐屯して河東を鎮め、このとき牛酒を拝受して先祖の墓を祭った。曹操は潼関に到着すると、黄河を渡れないことを心配して徐晃に尋ねた。徐晃は「賊軍は別働隊で蒲阪を守備させておらず、彼らに考えがないことが分かります。私に精鋭をお貸しくだされば、蒲阪津を渡って陣営を築き、敵の背後を分断いたします」と答えた。徐晃は歩騎四千人を与えられ、蒲阪津を渡った。まだ塹壕と木柵が完成しないうちに、賊の梁興が歩騎五千人で夜襲を掛けてきたが、徐晃はこれを撃退した。かくて曹操は黄河を渡ることができ、馬超らを撃ち破る。

徐晃・夏侯淵は隃麋・汧の氐族を平定しながら、安定で曹操と合流することとなった。しかし曹操が鄴に帰還することとなり、徐晃・夏侯淵は鄜・夏陽の残りの賊を平定した。徐晃は梁興を斬り、敵に属していた三千戸を降伏させた。張魯征討にも従軍し、別働隊として櫝・仇夷の氐族たちを討伐、彼らを全て降伏させた。平寇将軍に進められる。将軍張順を賊の包囲から救い、陳福らの三十数ヶ所の陣営を攻撃、全て撃ち破った。

曹操が鄴に帰還すると、徐晃・夏侯淵が漢中の陽平に駐屯して劉備を防いだ。劉備は陳式ら十余りの部隊を派遣して馬鳴閣の街道を断ち切ったが、徐晃は別働隊を率いてこれらを破った。陳式らの軍勢は谷間に落ちて多くの死者を出した。曹操は報告を受けて喜び、徐晃に仮の節を与えて「馬鳴閣は漢中の要害であり劉備は内外を断ち切ろうとしたが、将軍は一挙に敵の作戦を阻止した。善のなかの善である」と布告を出した。曹操は自ら陽平に出陣して、漢中の軍勢を引き揚げさせた。

関羽に包囲された曹仁を救援すべく宛城に駐屯する。このころ漢江の水があふれたため于禁らは水没した。関羽は樊城の曹仁と襄陽の呂常を包囲した。徐晃の手勢は新たな降伏者ばかりで、関羽と戦うことは困難だったので、陽陵陂まで陣を進めた。曹操は将軍徐商・呂建らを徐晃のもとに派遣して、ともに進撃するよう命じた。

関羽軍は偃城に布陣した。徐晃は到着してすぐ塹壕の道を造り、敵の背後を断ち切るように見せかけた。かくて敵は陣営を焼き払って退却した。徐晃は偃城を手に入れ、両面に陣を連ねてゆっくりと前進し、関羽の包囲網まで三丈のところまで近づいた。曹操は前後して殷署・朱蓋ら十二営の軍兵を徐晃に派遣した。

敵は囲頭と四冢に陣営を出していたが、徐晃は囲頭を攻撃すると宣言しながら、実際には四冢を攻撃した。関羽は自ら歩騎五千を率いて四冢に駆け付けたが、徐晃はこれと戦って撃破した。そのまま追撃し、彼らに続いて包囲陣に突撃して、それを破った。敵のなかには沔水に身を投げて死ぬ者もいた。

曹操の布告に言う。「賊軍は包囲して塹壕・逆茂木を築くこと十重であった。将軍は攻撃しては全て勝利し、敵包囲網を陥れて多数の首を斬った。わしは三十年余りも兵を用い、また古代の戦上手も聞き知っているが、長駆して敵包囲網に突撃した者はいなかった。しかも樊城・襄陽の戦況は、戦国時代の燕が斉の莒・即墨を包囲したときより困難だった。将軍の功績は孫武・司馬穰苴より勝れている」。

徐晃は摩陂に凱旋した。曹操は七里先まで出迎え、大いに宴会を催した。曹操は杯をかかげて徐晃に酒を勧め、「樊城・襄陽を保てたのは将軍の功績だ」と彼をねぎらった。このとき諸将の軍勢が集結しており、曹操は諸軍を視察したところ、いずれも兵卒たちが持ち場を離れて見物していたが、徐晃の軍営だけは将兵が整然と陣に着いていて動かなかった。曹操は「徐将軍には周亜夫の風格がある」と感嘆した。

徐晃の人柄は慎重でつつましく、出陣のときには遠くまで間者を出しておき、勝てない場合のことを想定したあとで戦いを始めた。敗走する敵を追撃するときは兵士は食事の暇もなかった。彼はつねづね嘆息して「古人は明君に巡り会うことが苦難であったが、私には幸運にもそれができた。手柄を立てて力を尽くさなければならず、我が身の名声を心配するつもりはない」と言っていた。ついに交友を広げたり、力ある者に頼ったりすることはなかった。

曹丕が王位につくと右将軍を拝命し、逯郷侯に封じられた。曹丕が帝位につくと楊侯に進められる。夏侯尚とともに上庸で劉備軍を撃ち破った。陽平の鎮撫を命じられ、陽平侯に移封となった。明帝曹叡が即位すると、呉の諸葛瑾を襄陽で防いだ。二百戸加増され、都合三千一百戸となる。病が重くなり、その季節の衣服を着せて葬るよう遺言した。太和元年(二二七)に亡くなり、壮侯と諡された。

上庸で劉備軍を退けたのち陽平を守ったというのであるから、東郡の陽平と解することは適当でない《集解》。おそらく西城郡の平陽の誤りだろう。

【参照】殷署 / 于禁 / 袁紹 / 袁譚 / 夏侯淵 / 夏侯尚 / 郭汜 / 関羽 / 韓遂 / 韓暹 / 韓範 / 顔良 / 史渙 / 司馬穣苴 / 朱蓋 / 周亜夫 / 周瑜 / 祝臂 / 徐商 / 諸葛瑾 / 商曜 / 眭固 / 曹叡 / 曹洪 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 孫武 / 張順 / 張魯 / 趙庶 / 陳式 / 陳福 / 董承 / 蹋頓 / 馬超 / 文醜 / 満寵 / 楊奉 / 李傕 / 李雛 / 劉協(天子) / 劉備 / 呂建 / 呂常 / 呂布 / 梁興 / 安定郡 / 安邑県 / 囲頭 / 〓彊侯国 / 易陽県 / 燕 / 宛県 / 偃城 / 延津 / 河内郡 / 河東郡 / 夏陽県 / 漢江 / 漢津 / 邯鄲県 / 漢中郡 / 宜城侯国 / 仇夷 / 莒県 / 鄴県 / 荊州 / 巻県 / 汧県 / 原武県 / 呉 / 黄河 / 江陵県 / 故市 / 四冢 / 上庸郡 / 襄陽郡 / 斉 / 即墨県 / 太原郡 / 大陵県 / 中廬侯国 / 長安県 / 潼関 / 櫝 / 南皮県 / 白馬県 / 馬鳴閣 / 樊城 / 鄜 / 汾陰県 / 平原国 / 沔水 / 蒲阪県 / 蒲阪津 / 摩陂 / 毛城 / 渝麋侯国(隃麋) / 楊県 / 陽平 / 平陽県?陽平侯国) / 陽陵陂 / 雒陽県洛陽県) / 梁県 / 臨沮県 / 逯郷 / 右将軍 / 王 / 横野将軍 / 騎都尉 / 郷侯 / 県令 / 侯 / 車騎将軍 / 将軍 / 壮侯 / 都亭侯 / 裨将軍 / 平寇将軍 / 偏将軍 / 諡 / 仮節(仮の節) / 親兵(親衛隊) / 氐族 / 二袁