三国志人名事典 魏志9

夏侯惇Xiahou Dun

カコウトン

(?〜220)
魏大将軍・河南尹・高安郷忠侯

字は元譲。沛国譙の人。夏侯嬰の末裔という。

十四歳のとき、師に仕えて学問をしていたが、ある人が師を侮辱したので、夏侯惇はその者を殺した。それ以来、激烈な気性で有名になった。

太祖(曹操)が挙兵した当初から、夏侯惇はいつも裨将(副将)として征伐戦に従軍した。太祖は奮武将軍を代行したとき、夏侯惇を司馬に任じ、別働隊として白馬に駐屯させた。(のちに)折衝校尉に昇進し、東郡太守を領することになった。

太祖が陶謙を征討したとき、夏侯惇は残って濮陽を固めていたが、張邈が叛逆して呂布を迎え入れてしまった。太祖の家族は鄄城にいたので、夏侯惇が軽装の車でもって駆け付けたところ、呂布と遭遇して交戦状態になった。呂布は撤退してそのまま濮陽に入城し、夏侯惇軍の輜重を手に入れた。

『集解』では「夏侯惇が(鄄城に)撤退したので、呂布はそのまま濮陽に入城した」の誤りであろうと解する。

(呂布は)将を派遣して降服するふりをさせ、一斉に夏侯惇に縛り上げ、財宝を要求させた。夏侯惇軍は震えおののいた。夏侯惇の将韓浩が手勢を率いて夏侯惇軍の軍門を固め、軍吏や諸将を呼んで、おのおの甲冑に身を固めて持ち場に戻り、無闇に動いてはならぬと言い付けたので、諸将の陣営はようやく落ち着いた。

韓浩は夏侯惇のところまで行って、人質を取った者を叱りつけた。「お前らは不届きにも将軍を人質に取りおって、生き延びられるとでも思っているのか!吾らは賊徒討伐のご命令を受けておるのだ。どうして一介の将軍のためにお前らを見逃してやることができよう?」そして涙を流しながら「国法ですからどうにもなりません!」と夏侯惇に告げ、手の者に攻撃を命じた。

人質を取った者は慌てふためいて土下座し、「我らはただ金目の物を頂戴してから立ち去るつもりだったのです」と言ったが、韓浩は責めなじって残らず斬首した。夏侯惇は助かった。太祖はそのことを聞いて「卿の行動を万世の法とすべきだな」と韓浩に告げ、今後、人質を取る者があれば、人質の身を案じることなく双方を討ち果たせと命令を下した。

太祖が徐州から帰還したのち、夏侯惇は呂布征討に従軍し、流れ矢に当たって左目を傷付けた。以来、軍中では彼を「盲夏侯」と呼んで夏侯淵と区別した。夏侯惇はそれを嫌がり、鏡を見るたびに腹を立て、鏡を地面に叩き付けた。

また陳留・済陰太守を領し、建武将軍の位を付加され、高安郷侯に封ぜられた。そのころ大旱と蝗虫の発生があったので、夏侯惇は太寿水を堰きとめて堤防を作った。彼自身が土砂を背負い、将兵を率いて田植えを奨励した。民衆はその利益を享受した。

栄転して河南尹を領し、太祖が河北を平定する際には大軍の後詰めとなった。鄴が陥落すると伏波将軍に昇進し、これまで通り、河南尹を領することとされた。また職務上の都合によって、規律に束縛されないことになった。

建安三年に董昭が河南尹となり、のちに冀州牧へ栄転している。夏侯惇はその後任であろう。以後、河南尹を拝命した者を見ないので、おそらく夏侯惇は亡くなるまで河南尹を領していたと思われる。

建安十二年(二〇七)、夏侯惇の前後にわたる功績が評価され、食邑千八百戸が加増され、都合二千五百戸となった。同二十一年、孫権征討に従軍したが、(太祖は)引き揚げるとき、夏侯惇を居巣に残して二十六軍を都督させ、楽人と倡伎とを下賜し、布令を下して「魏絳は戎との講和を整えた功績だけでも、金石の楽器を授かった。将軍ならばなおさらだ!」と述べた。

二十四年、太祖が摩陂に着陣したとき、夏侯惇を呼んでずっと同じ車に載るなど、格別の親愛と尊重を被り、寝室までの出入りを許された。諸将のうちでもこれほど(の寵愛を)手に入れた者はなかった。

原文「太祖軍撃破呂布軍於摩陂」とあるが、『集解』では「撃破呂布軍」の五字を衍字とみて削る。

そのころ諸将はみな魏国の官職を拝受していたが、夏侯惇だけは漢朝の官職であったので「不臣の礼をお受けするには相当いたしませぬ」と言上した。太祖は「吾が聞くには、臣下を師とするのが最善、臣下を友とするのが次善であるという。そもそも臣下とは、徳のある者を貴ぶ人のことである。せせこましい魏は、臣下にとって屈服するに相応しい主君であろうか?」と言ったが、夏侯惇がしかと求めたので、前将軍を拝命し、寿春に帰還して諸軍を監督することになった。(のちに)召陵へ屯所を移した。

文帝(曹丕)が魏王に即位すると、夏侯惇は大将軍に任じられたが、数ヶ月後に薨去した。夏侯惇は行軍中であっても、みずから師を招いて学業を授かり、性質は清廉倹約、財産に余裕ができれば、そのつど他人に分け与え、官給だけでは生活するにも不足であったが、家業を営もうとはしなかった。忠侯と諡された。

【参照】夏侯嬰 / 夏侯淵 / 韓浩 / 魏絳 / 曹操 / 曹丕 / 孫権 / 張邈 / 陶謙 / 呂布 / 河北 / 漢 / 魏 / 鄴県 / 居巣侯国 / 鄄城県 / 高安郷 / 譙県 / 召陵県 / 徐州 / 済陰郡 / 太寿水 / 陳留郡 / 東郡 / 沛国 / 白馬県 / 濮陽県 / 摩陂 / 王 / 河南尹 / 郷侯 / 建武将軍 / 司馬 / 折衝校尉 / 前将軍 / 太守 / 大将軍 / 忠侯 / 都督 / 伏波将軍 / 奮武将軍 / 諡 / 裨将 / 不臣之礼 / 盲夏侯

夏侯淵Xiahou Yuan

カコウエン

(?〜219)
漢征西将軍・仮節・博昌亭愍侯

字は妙才。沛国譙の人。夏侯惇の族弟にあたり、妻は太祖(曹操)の妻の妹であった。

太祖は無官のとき、役所の事件に引っかかったことがあり、夏侯淵が身代わりとして重罪を引き受けた。太祖が手立てを尽くして救出したので、助かった。兗・予州が大混乱して飢饉に陥ったとき、夏侯淵は自分の幼子を見捨てて、死んだ弟の遺した女児を救命した。

太祖が挙兵してからは別部司馬・騎都尉となって従軍、陳留・潁川太守に昇進した。官渡において袁紹と戦ったときには督軍校尉を行った。袁紹が撃破されたのち、兗・予・徐州の軍糧を監督した。そのころ本軍の食糧は不足ぎみであったが、夏侯淵が次から次へと輸送していったので、軍はまた勢いを取り戻したのである。

昌豨が反乱を起こしたとき、于禁がその攻撃に派遣されたが陥落させられなかった。改めて夏侯淵が派遣され、于禁に合力するよう命じられた。そして昌豨を攻撃して十余りの屯営を降服させると、昌豨は于禁のもとへ参詣して降服した。夏侯淵は帰還すると典軍校尉を拝命した。夏侯淵は将軍となって以来、勝機に目ざとく迅速に移動し、いつでも敵の不意を突くのであった。そこで軍中では彼について「典軍校尉夏侯淵、三日で五百、六日で一千」と語っていた。

済南・楽安の黄巾賊徐和・司馬倶らが城郭を攻撃し、長吏を殺害すると、夏侯淵は泰山・斉国・平原の郡兵を率いて攻撃し、大いに打ち破って徐和を斬首した。諸県を平定し、彼らの食糧を没収して兵士を給養した。

建安十四年(二〇九)、夏侯淵に領軍を行わせた。太祖は孫権征討から引き揚げるとき、夏侯淵に諸将を監督させて廬江の謀叛人雷緒を攻撃させた。雷緒を打ち破ったのち、また征西護軍を行わせ、徐晃を監督して太原の賊徒を攻撃させた。二十余りの屯営を陥落させ、賊の総帥商曜を斬首、その居城を屠った。韓遂らの征伐に従軍して渭水南岸で戦った。また朱霊を監督して隃麋・汧の氐族を平定し、安定にて太祖と合流して楊秋を降服させた。

十七年、太祖は鄴へ帰還したが、夏侯淵に護軍将軍を行わせ、朱霊・路招らを監督させて長安に屯させた。南山の賊徒劉雄を撃破し、その軍勢を降服させた。韓遂・馬超の残党である梁興を鄠で包囲し、これを陥落させて梁興を斬首し、博昌亭侯に封ぜられた。

馬超が冀城にいた涼州刺史韋康を包囲すると、夏侯淵は韋康を救援しようとしたが、韋康は到着を待たず敗北した。(夏侯淵は)冀城から二百里余り手前にいたが、馬超が押し下って迎撃してくると、戦いは不利となり、汧の氐族も反逆したので、夏侯淵は軍勢をまとめて引き揚げた。

十九年、趙衢・尹奉らが馬超討伐を計画し、西城で挙兵した姜叙と通謀、馬超をだまして姜叙攻めに出撃させ、その後方で馬超の妻子を残らず殺した。馬超は漢中へ脱走したが、また戻ってきて祁山を包囲した。姜叙らは慌てて(夏侯淵に)救援を要請してきた。諸将は太祖のご命令を待つべきだと主張したが、夏侯淵は「公のおられる鄴までは往復四千里、返事を待っているうちに姜叙らは敗北してしまうだろう」と言い、出陣した。

「西城」は原文「鹵城」。『集解』に従って改める。漢陽郡の西県である。「西」の古字「卥」を誤ったもの。

張郃に歩騎五千を監督させて先発とし、陳倉の隘路から進入させ、夏侯淵自身は後方にいて食糧輸送を監督した。張郃が渭水のほとりまで来ると、馬超は氐族・羌族数千人を率いて待ちかまえていたが、まだ戦闘にもならぬうちに馬超は逃走した。張郃は軍勢を進めて馬超軍の武器を回収した。夏侯淵が到着するころには諸県はすっかり降服していた。

夏侯淵は顕親にいる韓遂を襲撃しようとしたが、韓遂が逃走したので、夏侯淵は韓遂軍の食糧を接収しつつ略陽城まで追撃した。韓遂軍まで二十里余りまで迫ったとき、諸将は攻撃を主張したり、あるいは(その前に)興国の氐族を攻撃すべきだと言う者もあった。

夏侯淵は考えた。「韓遂の軍勢は精強、興国の城郭は堅固、攻撃してもすぐに陥落させることはできない。長離の羌族どもを攻撃するに越したことはない。長離の羌族どもは多くが韓遂軍に加わっておるゆえ、きっと自分たちの家族を救援しようとするだろう。もし羌族が単独で防戦するならば孤立であるし、(韓遂が)長離を救援すれば官軍は野戦に持ち込んで手取りにできよう。」

夏侯淵は督将を残して輜重車を守らせ、軽装の歩騎で長離へ行って羌族の屯所を焼き払い、斬首捕虜は極めて多数に上った。韓遂軍中の羌族たちはおのおの種族の部落へと帰り、韓遂は果たして長離を救援しようと夏侯淵軍と対峙した。諸将は韓遂が大軍であるのを恐れ、陣営を築いて塹壕を掘ってから戦いたいと思ったが、夏侯淵は「我らは千里を転戦してきたから、今また陣営塹壕を築くとなると士卒たちは疲弊して持ちこたえられまい。賊軍は大勢であるが与しやすいのだ」と言い、太鼓を打って韓遂軍を大破、その旌麾を奪い、略陽に引き返して興国を包囲した。氐王の千万は馬超のもとへ逃れ、残りはみな降服した。転進して高平の屠各を撃つと、みな散りぢりになって逃げたので、その食糧・牛馬を手に入れた。夏侯淵に節を仮した。

むかし枹罕の宋建は涼州の混乱に乗じて「河首平漢王」と自称していた。太祖は夏侯淵に諸将を率いさせて宋建を討伐することにした。夏侯淵は到着するなり枹罕を包囲し、一ヶ月余りで陥落させて宋建および彼の任命した丞相以下を斬首した。夏侯淵は別働隊として張郃らに河関を平定させた。(張郃が)黄河を渡って小湟中に入ると、河西の羌族たちが残らず降服したので、隴右はすっかり平定された。太祖は布令を下して言った。「宋建は反逆をなして三十年余りになるが、夏侯淵は一度の行軍で滅ぼしてしまった。関右を虎のごとく歩いて向かうところ遮る者なし。仲尼(孔子)も言った。『吾と爾でも(顔回には)敵わない』、と。」

二十年、所領三百戸を加増して都合八百戸とした。(枹罕から)引き返して武都の氐族・羌族および下弁を攻撃し、氐族から食糧十万斛余りを没収した。

太祖が西進して張魯を征討したとき、夏侯淵らは涼州諸将・侯王以下を連れて休亭で太祖に合流した。太祖は羌族・胡族を引見するたびに夏侯淵の名を出して畏怖させた。ちょうど張魯も降服して漢中が平定されたので、夏侯淵に都護将軍を行わせ、張郃・徐晃らを監督させて巴郡を平定した。太祖は鄴へ引き揚げるとき、夏侯淵を残して漢中を守らせ、このとき夏侯淵を征西将軍に任命した。

二十三年、劉備が陽平関に着陣したので、夏侯淵は諸将を率いてそれを防ぎ、対峙したまま年を越した。二十四年正月、劉備は夜中に(夏侯淵軍の)陣営の逆茂木を焼き払った。夏侯淵は張郃に東方の陣営を守らせ、自分では軽装兵を連れて南方の陣営を守った。劉備が張郃に戦いを挑み、張郃軍が不利になったので、夏侯淵は麾下の半数を分けて張郃の救援に向かわせた。そこを劉備に襲撃され、夏侯淵はついに戦死した。諡を愍侯という。

はじめ、夏侯淵はたびたび勝利を重ねていたのだが、太祖はいつも「将軍ともなれば時に怯懦であらねばならぬ。ただ武勇のみを当てにしてはならぬぞ。将軍たる者は武勇を根本となすべきだが、その行動は智略をもってせよ。ただ武勇任せにするばかりでは一介の匹夫の標的になるだけだぞ」と戒めていた。

曹操が軍中に下した命令書に言う。「夏侯淵は今月、賊軍が逆茂木を焼き払ったため、逆茂木は本営から十五里も離れていたのに、兵士四百人を引き連れて逆茂木のところへ行き、兵士に補修させた。賊軍が山上から遠望しており、谷間から突然に飛び出してきた。夏侯淵は兵士たちに賊軍と戦わせつつ、そのまま迂回して彼らの背後を突いたが、兵士たちは後退し、夏侯淵は帰ってこなかった。なんと痛ましいことか。夏侯淵はもともと用兵が得意でなかった。軍中では彼を『白地将軍』と呼んでいたのである。督帥になれば自分では戦闘さえしてはならぬものだ。それなのに逆茂木を補修するとは!」《集解》

【参照】韋康 / 尹奉 / 于禁 / 袁紹 / 夏侯惇 / 韓遂 / 顔回 / 姜叙 / 孔子 / 司馬倶 / 朱霊 / 徐晃 / 徐和 / 昌豨 / 商曜 / 千万 / 宋建 / 曹操 / 孫権 / 張郃 / 張魯 / 趙衢 / 馬超 / 楊秋 / 雷緒 / 劉備 / 劉雄 / 梁興 / 路招 / 安定郡 / 渭水 / 潁川郡 / 兗州 / 河関 / 河西 / 下弁県 / 漢中郡 / 官渡 / 関右 / 冀県 / 祁山 / 休亭 / 鄴県 / 汧県 / 顕親県 / 鄠県 / 黄河 / 興国 / 高平県 / 譙県 / 小湟中 / 徐州 / 西県 / 斉国 / 済南国 / 太原郡 / 泰山郡 / 長安県 / 長離 / 陳倉県 / 陳留郡 / 南山 / 巴郡 / 沛国 / 博昌亭 / 枹罕県 / 武都郡 / 平原郡 / 渝麋侯国(隃麋侯国) / 陽平関 / 予州 / 楽安国 / 略陽県 / 涼州 / 隴右 / 廬江郡 / 河首平漢王 / 仮節 / 騎都尉 / 護軍将軍 / 刺史 / 丞相 / 征西護軍 / 征西将軍 / 太守 / 亭侯 / 典軍校尉 / 督軍校尉 / 都護将軍 / 愍侯 / 別部司馬 / 領軍 / 諡 / 羌族 / 行 / 黄巾賊 / 長吏 / 氐族 / 屠各 / 白地将軍

曹仁Cao Ren

ソウジン

(168〜223)
魏大司馬・仮節・都督荊揚益州諸軍事・陳忠侯

字は子孝。沛国譙の人。太祖曹操の従弟にあたる。祖父を曹褒、父を曹熾といった。

曹仁は若いころから弓馬や狩猟を好み、のちに豪傑たちが一斉に立ち上がると、曹仁もまた密かに少年たちと組んで千人余りを手に入れ、淮水・泗水の一帯を駆けずりまわった。

太祖に従って別部司馬となり、厲鋒校尉を行った。太祖が袁術を撃破したときには、曹仁の斬首捕獲が大変多かった。徐州征討に従軍し、曹仁はいつも騎兵を監督して先鋒を務め、別働隊として陶謙の将呂由を攻撃、これを打ち破った。引き返して彭城にて本隊に合流し、陶謙軍を大破した。費・華・即丘・開陽の攻撃にも従軍し、陶謙が別働隊を派遣してそれらを救援しようとしたので、曹仁は騎兵でもってこれを撃破した。太祖が呂布を征討すると、曹仁は別働隊として句容を攻撃、これを陥落させて呂布の将劉何を生け捕りにした。

『集解』に従い「即墨」を「即丘」と改める。

太祖が黄巾賊を平定して天子を迎え入れ、許へ遷都させたとき、曹仁はたびたび武功を立てて広陽太守に任じられた。太祖は彼の武勇軍略に期待していたので任地へ行かせたくなく、議郎として騎兵を監督させた。

太祖が張繡を征伐したときには、曹仁は別働隊として近隣の諸県を平定、男女三千人余りを生け捕りにした。太祖の軍勢が引き揚げようとして張繡の追撃を受け、合戦は不利、士気は喪失したとき、曹仁が将兵を率いつつ励まし、はなはだ勇猛であったので、太祖はそれを壮快に思った。こうして張繡を打ち破ることができた。

太祖と袁紹とが官渡にて長いあいだ対峙していたとき、袁紹が劉備を派遣して〓彊を攻略させると、近隣諸県の多くが挙兵してこれに呼応したため、許以南では官吏も民衆も不穏であった。太祖が憂慮していると曹仁が言った。「大軍が目前の急務に追われている情勢により、南方では救援を期待できないだろうと思っております。劉備が精兵を率いて向かってくれば、彼らが叛逆するのも当然です。(しかし)劉備は袁紹の兵を率いるのが初めてなので、まだ思い通りに扱うことができません。攻撃すれば撃破することができましょう。」太祖はその言葉に喜び、騎兵を率いさせて劉備を攻撃させ、彼らを潰走させた。曹仁は叛逆した諸県をことごとく回復してから帰還した。

袁紹が別働隊として韓荀に西道を遮断させると、曹仁は鶏洛山にて韓荀を攻撃し、これを大破した。それ以来、袁紹はもう軍勢を分けて出そうとはしなくなった。(曹仁は)また史渙らとともに袁紹の輜重車を襲い、その食糧を焼き払った。

河北が平定されたのち、壺関包囲に従軍した。太祖は「城が陥落したら一人残らず生き埋めにせよ」と命じてあったが、月をまたいでも陥落させられなかった。曹仁は太祖に言上した。「城を包囲するときに必ず抜け道を見せておくのは、彼らの生きる道を開いてやるためです。いま公は必殺を予告しておられますので、彼らは自分の意志で守備に就き、しかも城郭は堅固で食糧も多く、これを攻撃しても士卒が傷付くだけ、包囲を固めても日にちがかかるだけです。いま堅城の下で軍勢をつまづかせ、必死の敵を攻めるのは良計ではございませぬ。」太祖がそれを聞き入れると、城は降服した。これにより、曹仁は前後の功績が評価されて都亭侯に封ぜられた。

荊州平定に従軍したあと、(太祖は)曹仁に征南将軍を行わせて江陵に残し、呉将周瑜を防がせた。周瑜が数万の軍勢を率いて来襲し、先鋒数千人が最初に着陣した。曹仁は城郭に登ってそれを眺めると、三百人を募集し、部曲将牛金を迎撃に出して戦わせた。賊兵は多く、牛金の軍勢は少なく、すっかり包囲されてしまった。長史陳矯は曹仁と一緒に城郭の上にいて、牛金らが今にも殺されそうになっているのを見て、左右の者はみな顔色を失った。曹仁の気迫憤怒は激しく、左右の者に「馬を引けい」と命じた。

陳矯らが一斉に彼を押しとどめて「賊軍は多勢、対抗できませぬ。数百人を棄てたとて何の苦になりましょうや。それを将軍おんみずからお出ましとは!」と言った。曹仁は答えず、甲冑に身を固めて馬に跨り、麾下の勇者数十騎を連れて城外へ討って出た。賊軍の手前百歩余りの塹壕まで行ったとき、陳矯らは曹仁が塹壕の傍らに留まって牛金支援の構えを取るものと思っていたところ、曹仁はそのまま塹壕を越えてまっすぐ賊軍の包囲陣へ突き入った。

牛金らはようよう抜け出したが、残りの連中がまだ抜け切れていなかったので、曹仁はすぐさま引き返して突入し、牛金の手勢を救い出した。配下の数人を失っただけで、賊軍はとうとう撤退した。陳矯らは曹仁が城を出たとき、みな恐怖したが、曹仁が帰ってくるのを見ると「将軍はまことの天人でございます!」とため息を吐いた。三軍はその勇敢さに心服した。太祖はますます壮快に思い、安平亭侯に転封してやった。

太祖は馬超を討伐したとき、曹仁に安西将軍を行わせ、諸将を監督して潼関を守りつつ、渭水の南岸で馬超を撃破した。蘇伯・田銀が反乱すると、曹仁に驍騎将軍を行わせ、七軍を都督させて田銀らを討伐させ、これを打ち破った。また曹仁に征南将軍を行わせて節を仮し、樊城に屯して荊州を鎮めさせた。侯音が宛城をこぞって叛逆し、近隣の諸県を攻略して数千人を集めると、曹仁は諸軍を率いて侯音を攻め破り、その首を斬って樊城へ帰還した。即日、征南将軍を拝命した。

関羽が樊城に攻撃をかけてきたとき、漢水が氾濫して于禁らの七軍が水没してしまい、于禁は関羽に投降した。曹仁は人馬数千人で城を守っていたが、城は数板を残してすっかり水没していた。関羽が船に乗って城外に現れ、幾重にも包囲したため内外(の連絡)は断絶し、食糧も底を突きそうだったが援軍は到着しなかった。曹仁が将兵を激励して決死の覚悟を示すと、将兵は感銘を受けてみな二心を捨てた。徐晃の救援が到着し、また水位も少しづつ減ってきた。徐晃が城外から関羽を攻撃したので、曹仁は包囲陣をもみ潰しながら城外へ出ることができた。関羽は退却した。

曹仁は若いころ行儀が悪かったが、成長して将軍になってからは、厳正粛々と法令を守り、いつも左右に控えた法律書を検討しながら職務にあたった。鄢陵侯曹彰が烏丸の北征に出るとき、文帝(曹丕)は東宮から曹彰へ手紙を送って「将軍として法令を守るには、征南ほどでなければならぬ!」と戒めた。(文帝は)王に即位すると、曹仁を車騎将軍、都督荊・揚・益州諸軍事に任じ、封爵を陳侯に進め、二千戸を加増して都合三千五百戸とした。曹仁の父曹熾に諡して陳穆侯とし、墓守十戸を与えた。曹仁は群臣諸将とともに帝位に上るよう曹丕に勧めた《隷釈》。

のちに召し返されて宛城に屯した。孫権が将陳邵に命じて襄陽を占拠させたとき、詔勅によって曹仁がこれを討伐した。曹仁は徐晃とともに陳邵を攻め破り、そのまま襄陽に入城し、将軍高遷らに命じて漢水南岸の従順な民衆を北岸へ移住させた。文帝は使者を派遣して曹仁をその場で大将軍に任じ、さらに詔勅を下して曹仁を臨潁に移駐させた。大司馬に昇進させ、また諸軍を監督させて烏江を押さえさせた。(のちに)召し返して合肥に屯させた。

黄初四年(二二三)に薨去、諡を忠侯という。

【参照】于禁 / 袁術 / 袁紹 / 関羽 / 韓猛韓荀) / 牛金 / 侯音 / 高遷 / 史渙 / 周瑜 / 徐晃 / 蘇伯 / 曹熾 / 曹彰 / 曹操 / 曹丕 / 曹褒 / 孫権 / 張繡 / 陳矯 / 陳邵 / 田銀 / 陶謙 / 馬超 / 劉何 / 劉協(天子) / 劉備 / 呂布 / 呂由 / 安平亭 / 渭水 / 〓強侯国(〓彊侯国) / 烏江 / 益州 / 宛県 / 鄢陵県 / 華県 / 開陽県 / 合肥侯国 / 河北 / 漢水 / 官渡 / 許県 / 荊州 / 鶏洛山 / 呉 / 広陽郡 / 句容県 / 江陵県 / 壺関県 / 泗水 / 譙県 / 襄陽県 / 徐州 / 即丘侯国 / 陳県 / 潼関 / 沛国 / 樊城 / 費侯国 / 彭城国 / 揚州 / 臨潁県 / 淮水 / 安西将軍 / 王 / 仮節 / 驍騎将軍 / 議郎 / 侯 / 車騎将軍 / 征南将軍 / 大司馬 / 太守 / 大将軍 / 忠侯 / 長史 / 亭侯 / 都亭侯 / 都督 / 別部司馬 / 穆侯 / 事N校尉 / 烏丸 / 諡 / / 黄巾賊 / 部曲将

曹洪Cao Hong

ソウコウ

(?〜232)
魏驃騎将軍・特進・楽成恭侯

字は子廉。太祖曹操の従弟。

曹洪の伯父曹鼎は尚書令であったので、曹洪は蘄春の県長にしてもらった。

太祖が董卓討伐の義兵を起こし、熒陽で徐栄に敗北して乗馬を失ったとき、敵軍が肉薄するなか、曹洪は馬から飛びおりて太祖に進呈した。太祖は遠慮したが、曹洪は「天下に曹洪なくとも、君なくばなりませぬ」と言い、徒歩で付いていった。汴水が深くて渡ることができなかったが、曹洪は川べりで船を探し出したので、太祖と一緒に渡って譙へ帰ることができた。

曹洪はもともと揚州刺史陳温と親しかったので、家兵千人余りを連れて陳温のもとで兵士を募集した。廬江の精鋭武装兵二千人、東行して丹陽でさらに数千人を手に入れ、龍亢で太祖に合流した。

太祖が徐州を征討したとき、張邈が兗州をこぞって叛逆し、呂布を迎え入れた。このとき大飢饉に襲われていたので、曹洪は軍兵を率いて先鋒となり、あらかじめ東平の范を押さえておき、食糧を集めて本軍に供給した。太祖が張邈・呂布を濮陽で討ち、呂布が敗走すると、(曹洪は)そのまま東阿を占拠し、転戦して済陰・山陽・中牟・陽武・京・密など十県余りをみな陥落させた。前後する功績により鷹揚校尉を拝命し、のちに揚武中郎将に昇進した。

天子(劉協)は許へ遷都すると曹洪を諫議大夫に任命した。別働隊として劉表を征討し、舞陽・陰・葉・堵陽・博望において劉表の別将を撃破、功績により厲鋒将軍に昇進し、国明亭侯に封ぜられた。その後もたびたび征伐戦に従軍、都護将軍を拝命した。

陰県は葉・堵陽・博望の諸県と遠く離れており、舞陰の誤りと考えられている《集解》。

文帝(曹丕)が即位すると衛将軍となった。驃騎将軍に昇進して封爵を野王侯に進められ、一千戸を加増されて都合二千一百戸となり、特進の位を賜った。のちに都陽侯に移封された。

もともと曹洪の実家は裕福であったのに、曹洪はしわい性格であった。文帝は若いころ借金を求めたことがあったが、叶わず、ずっと恨みを抱いていた。そこで黄初七年(二二六)正月《晋書天文志》、食客に違法行為があったことを口実に獄へ下し、死刑相当とした。群臣はみな救済しようとしたがうまくいかない。曹真が「いま曹洪が誅殺されれば、曹洪は曹真が讒言したのだと思うでしょう」と口添えしても、帝は「我がみずから処罰するのだ、貴卿はなにを心配しているのか?」と聞き入れなかった。

卞太后が「曹洪を今日死なせたなら、吾は明日、帝に命じて皇后を廃位させます」と郭后に告げたので、郭后が泣きながら何度も(曹洪の助命を)歎願し、太后も「梁・沛の辺りは、子廉がなければ今日はなかったのだぞ」と叱責したので、ようやく官職・爵位を没収されるだけで済んだ。太后がまた取りなしたので、後日、ようやく返還された。曹洪は先帝の功臣であったので、人々の多くは失望した。

曹洪が梁・沛一帯を制圧したことは他に見えない。誤記だろうか。

むかし太祖は司空であったとき、自分が率先して部下を導こうと考え、毎年の徴税のとき、本県に命じて資産を調査させた。ときの譙の県令は曹洪の資産は調査し、公(曹操)と同等であると評価した。太祖は言った。「我が家の資産がどうして子廉ほどもあろうか!」

文帝が東宮にあったとき、曹洪から絹百匹を借りようとして断られたことがあった。そのため曹洪は法律を犯したとき、自分が絶対に処刑されるだろうと思っていた。だから赦免されると大喜びして上書した。「臣は若いころから素行が悪かったのに、うっかり人々に混じって久しく要職を盗み、それを大目に見てもらって参りました。もともと節度満足を知らず、豺狼のごとき意地汚い性質でありましたが、年食ってからますます貪欲になり、国法に抵触してしまいました。罪状は三千に近く、赦免など望むべくもなく、誅伐を受けて市場に棄てられて当然でありましたが、なんと天恩を蒙って肉体はふたたび生き返ったのでございます。臣はお天道様を仰ぐたび、御心に背いたことが恥ずかしく、俯いて罪過を思うたび、ぶるぶると慚愧に振るえるのであります。首をくくって自分の後始末もできず、宮殿の門前にて顔に泥を塗り、謹んで真心を申し上げるのでございます。」

明帝(曹叡)が即位すると後将軍を拝命し、改めて楽城侯一千戸に封ぜられ、特進の位を賜った。さらに驃騎将軍を拝命したが、太和六年(二三二)、薨去し、恭侯と諡された。

【参照】郭皇后 / 徐栄 / 曹叡 / 曹真 / 曹操 / 曹鼎 / 曹丕 / 張邈 / 陳温 / 董卓 / 卞皇后(卞太后) / 劉協 / 劉表 / 呂布 / 陰県 / 兗州 / 蘄春侯国 / 許県 / 京県 / 滎陽県(熒陽県) / 国明亭 / 山陽郡 / 堵陽侯国 / 葉県 / 譙県 / 徐州 / 済陰郡 / 丹楊郡(丹陽郡) / 中牟県 / 東阿県 / 東平国 / 都陽県 / 沛国 / 博望県 / 范県 / 舞陽邑 / 汴水 / 濮陽県 / 密県 / 野王県 / 揚州 / 陽武県 / 楽成県(楽城県) / 龍亢県 / 梁国 / 廬江郡 / 衛将軍 / 鷹揚校尉 / 諫議大夫 / 恭侯 / 県長 / 侯 / 後将軍 / 司空 / 刺史 / 尚書令 / 亭侯 / 特進 / 都護将軍 / 驃騎将軍 / 揚武中郎将 / 厲鋒将軍 / 諡 / 家兵 / 東宮