三国志人名事典 や行

游楚You Chu

ユウソ
(イウソ)

(?〜?)
魏北地太守

字は仲允。馮翊郡頻陽の人《張既伝集解》。游殷の子《張既伝》。

父游殷は同郡の張既に目をかけていた。彼が地方長官の器だと看破した游殷は、我が子游楚の将来を彼に託した《張既伝》。游楚の人となりは天性の憂国志士で、のちに蒲阪の県令になった《張既伝》。

建安十六年(二一一)、曹操は関中を平定したとき、誰を漢興太守にすべきか分からなかった。そこで張既に訊ねると、張既は「游楚の才能は文武を兼ね備えております」と答えたので、曹操は彼を取り立てた《張既伝》。游楚はのちに隴西太守を歴任したが、どの任地でも恩恵をもって統治し、刑罰を用いることは少なかった《張既伝》。

太和二年(二二八)春、蜀の諸葛亮が大軍をもって祁山に侵入し、天水・南安二郡の領民が諸葛亮に呼応して太守を追放した。隴西郡は本国との連絡を絶ちきられたが、太守游楚は官吏民衆を呼び集めて言った。「太守は恩徳なく、いま蜀軍が襲来して諸郡の官民はみな彼に呼応している。これは諸卿らが富貴を得る好機だぞ。太守はもともとお国のため郡を守っているのだから、死を覚悟せねばならんのが道義。卿らはさっさと太守の頭を打ち落とすがよいぞ」。すると官吏も民衆もみな涙を流し、「生死を明府(知事どの)とともにいたし、二心を抱くことはございませぬ」と言った《張既伝》。

游楚は彼らのために計略を立ててやった。「いま東方の二郡が離叛したからには、きっと襲撃して来るに違いない。まずは力を合わせて堅守しよう。もし国家から救援軍が来れば賊軍は撤退するだろうから、一郡を挙げて義を守ったことになり、人々は爵位恩寵を賜うことになろう。もし国家の救援軍が到着せず、蜀の攻撃が日に日に厳しくなるようなら、そのあと太守を討ち取って降服しても遅くはあるまいよ」。こうして官吏民衆は城に楯籠った《張既伝》。

当時、郡県の要職は地元豪族たちによって占められており、太守は身一つで外部からやってきた余所者に過ぎなかった。情勢次第では、これら豪族たちが太守の首を手土産に敵軍に寝返るといったことが常套化しており、ことに涼州では豪族たちの勢力が強力だった。このとき天水太守馬遵が姜維の心意を疑って逃走したのは、決して臆病とは言えないのである。しかし游楚は先手を打ち、まだ進退を迷っているうちに豪族たちを呼び寄せ、自分の首を餌にして未然に彼らの寝返りを防いだ。見事というほかない。

はたして南安郡が蜀の軍勢を引き連れて来て、隴西を攻撃し始めた。游楚は賊軍迫ると聞き、長史馬顒を城門から出して布陣させ、自分は城郭の上から蜀の将帥に諭告した。「卿が隴地方を遮断して東方の軍勢を一ヶ月のあいだ来られないようにすれば、隴西の官民は攻撃せずとも自ら降服するであろう。もし卿がそれをできないのであれば、いたづらに疲弊する結果になるだろう」。そして馬顒に鐘を鳴らし鼓を撃って攻めかけさせると、蜀の人々は撤退した《張既伝》。

十日余りすると諸軍が隴地方に到来し、諸葛亮は敗走した。南安・天水では、だれもが諸葛亮に呼応した罪に連坐し、破滅した両郡の太守はそれぞれ重刑を加えられた。游楚だけは功績を立てて列侯に封ぜられ、長史や掾属もみな官職を賜った《張既伝》。

諸葛亮が大軍を率いて祁山に進出すると、南安・天水・安定の三郡が呼応した。もし隴西が敗れれば涼州は魏の領有ではなくなっていただろう。たとい馬謖が街亭で敗北したとしても、冀城を根拠にして魏軍を拒めば、諸葛亮は涼州支配を確立するに充分な時間を稼ぐことができた。それを阻止したのだから游楚の功績は絶大なものがある。列侯に封ぜられ、昇殿を許されたのは当然である。

明帝は彼の統治を嘉し、詔勅を下し、格別な引き立てによって昇殿を聴許した。游楚は体つきが短小で声だけは大きく、役人になってからというもの一度も参朝したことがなかったので、詔勅を被って階(きざはし)を昇ることになっても、儀式作法が分からなかった。帝が侍中に命じ、手を引かせつつ「隴西太守、前へ」と号令させたが、游楚は「唯」と言うべきところを大声で「諾」と叫んだ。帝はその方向を見やって笑い、彼の労をねぎらった。退出したのち、游楚は上表して宿衛の任務に就きたいと請願し、駙馬都尉の任命を被った《張既伝》。

游楚は学問をせず、遊戯・音楽を愛好した。そこで歌手を召し抱えて琵琶・筝・簫を演奏し、出かけるときはいつも連れて行った。行くところ行くところで樗蒲・投壺をして、自らを楽しませた。数年後、ふたたび出向して北地太守となり、七十歳余りのとき卒去した《張既伝》。

【参照】諸葛亮 / 曹叡(明帝) / 曹操 / 張既 / 馬顒 / 游殷 / 関中 / 漢安郡(漢興郡) / 祁山 / 蜀 / 漢陽郡(天水郡) / 南安郡 / 馮翊郡 / 頻陽県 / 北地郡 / 蒲阪県 / 隴 / 隴西郡 / 掾属 / 県令 / 侍中 / 太守 / 長史 / 駙馬都尉 / 列侯 / 筝 / 簫 / 樗蒲 / 投壺 / 琵琶

姚貢Yao Gong

ヨウコウ
(エウコウ)

(?〜?)
漢甘陵相

もと甘陵国の相であった。初平元年(一九〇)に挙兵して山東諸将の盟主となった勃海太守袁紹は、貪欲な気持ちを起こして姚貢や上谷太守高焉に金銭を要求した。姚貢らは金額を揃えられずに出奔した《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

『三国志』では、袁紹が姚貢らを弾劾上表して彼らの金銭を横取りしようとしたとある。

【参照】袁紹 / 高焉 / 清河国甘陵国) / 上谷郡 / 勃海郡 / 相 / 太守

姚静Yao Jing

ヨウセイ
(エウセイ)

(?〜?)

蜀将。

太和二年(二二八)正月、新城太守孟達が謀叛の罪により司馬懿に斬られたとき、鄭他とともに軍勢七千人余りを連れて降服した《晋書宣帝紀》。

【参照】司馬懿 / 鄭他 / 孟達 / 蜀 / 新城郡 / 太守

葉雄Ye Xiong

ヨウユウ
(エフユウ)

葉雄

楊懐Yang Huai

ヨウカイ
(ヤウクワイ)

(?〜212)
漢白水軍督

劉璋の将。白水軍督。

楊懐は益州牧劉璋配下の名将として名を知られ、高沛とともに白水関を守備していた。劉璋が劉備を引き入れて漢中の張魯を防ごうとしたとき、しばしば書簡を出して劉備を荊州に帰還させるよう諫言したが聞き入れられなかった《龐統伝》。

建安十七年(二一二)、劉備が益州簒奪を企てていることが露見し、劉璋は関所の守将に文書を出して劉備を通過させないようにと命じた《先主伝》。劉備はそうした扱いに激怒したが、龐統の献策を容れて荊州に引き揚げるふりをした《龐統伝》。

楊懐が高沛・劉禕とともに軽騎を率いて見送りのために駆け付けると、劉備は酒宴を開いて彼らを出迎えた。宴席中、楊懐が匕首を身に帯びているのを見た劉備は、それを話の種に「将軍の匕首は立派なものだなぁ。それを見せてくれないか」と言った。楊懐が匕首を手渡すと、劉備は「お前ら小僧どもがどうして我ら兄弟の仲を裂こうとするのか!」と言った。楊懐は劉備を罵りながら斬殺された《先主伝集解》。

【参照】高沛 / 張魯 / 龐統 / 劉璋 / 劉闡劉禕) / 劉備 / 益州 / 漢中郡 / 荊州 / 白水県(白水関) / 軍督 / 牧

楊弘Yang Hong

ヨウコウ

(?〜?)
仲長史

袁術の臣、長史。「楊大将」とも作る《三国志演義》。

原文に「長史楊弘・大将張勲」とあるのを読み誤ったもの。

袁術の死後、張勲らとともに袁術の軍勢を連れて孫策に身を寄せようとしたが、廬江太守劉勲に襲撃され、身柄を拘束された《討逆伝》。

このほか袁胤・黄猗らが袁術の棺をかついで劉勲を頼ったとあるが、孫策を頼ろうとしたとも劉勲に襲われたとも記さず、単に劉勲に身を寄せたとあるだけである。楊弘らとは別行動を取っていたのだろうか。

【参照】袁術 / 孫策 / 張勲 / 劉勲 / 廬江郡 / 太守 / 長史

楊昂Yang Ang

ヨウコウ
(ヤウカウ)

(?〜?)

張魯の将。

おそらく楊帛と同人である。紙に書かれた名を写し間違えたものと考えられる。

建安十八年(二一三)正月、馬超が蛮兵を率いて涼州諸郡を攻撃しとき、張魯は楊昂を派遣して彼に助勢させた。郡県のほとんどが呼応し、ただ冀城だけが残っていた。八月、涼州刺史韋康は楊阜の諫めを聞き入れず、馬超に使者をやって降服した。楊昂は韋康を漢陽太守とともに殺害した《楊阜伝》。

二十年七月、曹操の大軍が陽平関に押し寄せると、張魯の弟張衛は独断で兵を出し、楊昂とともに陽平関を守った。曹操軍はこれを攻撃したが多くの死傷者を出し、食糧も底を突いたので引き揚げようとしたが、高祚らの部隊が誤って張衛陣営に迷い込み、張衛は敵の奇襲だと思って敗走した《武帝紀・張魯伝》。

【参照】韋康 / 高祚 / 曹操 / 張衛 / 張魯 / 馬超 / 楊阜 / 漢陽郡 / 冀県 / 陽平関 / 涼州 / 刺史 / 太守

楊秋Yang Qiu

ヨウシュウ
(ヤウシウ)

(?〜?)
魏討寇将軍・特進・臨涇侯

魏の将軍。安定郡臨涇の豪族だろう。

建安年間(一九六〜二二〇)初め、たびたび孔桂を使者として曹操のもとに送った。曹操は孔桂を騎都尉に推挙している《明帝紀》。

同十六年三月、司隷校尉鍾繇が漢中を征討せんと軍勢を催したとき、身の危険を感じた楊秋は、馬超・韓遂・李堪・成宜らとともに挙兵して潼関に布陣した。しかし曹操軍は蒲阪津から迂回して渭水を渡り、南岸に陣を布いた。馬超・韓遂らは曹操軍に敗れ、楊秋は安定に逃走した《武帝紀》。十月、長安から出撃した曹操軍が安定を包囲し、これに夏侯淵・張郃が合流すると楊秋は降服した《武帝紀・夏侯淵・張郃伝》。これまでの爵位を保証され、引きつづき安定に駐留して領民を鎮撫する《武帝紀》。

冠軍将軍に昇進し、延康元年(二二〇)、征羌護軍郭淮のもと、左将軍張郃とともに山賊の鄭甘や叛逆した盧水胡を討伐、すべて平定した。関中はこのとき初めて平穏になったのである《郭淮伝》。同年、楊秋は冠軍将軍・好畤郷侯として、漢朝からの禅譲を受けて帝位に登るよう、諸将・群臣とともに曹丕を説得している《文帝紀集解》

黄初年間(二二〇〜二二七)、楊秋は討寇将軍・特進・臨涇侯に昇進し、のちに寿命を全うした《武帝紀》。

【参照】夏侯淵 / 郭淮 / 韓遂 / 孔桂 / 鍾繇 / 成宜 / 曹操 / 曹丕 / 張郃 / 鄭甘 / 馬超 / 李堪 / 安定郡 / 渭水 / 関中 / 漢中郡 / 好畤郷 / 長安県 / 潼関 / 蒲阪津 / 臨涇県 / 盧水 / 冠軍将軍 / 騎都尉 / 郷侯 / 侯 / 左将軍 / 司隷校尉 / 征羌護軍 / 討寇将軍 / 特進 / 盧水胡

楊任Yang Ren

ヨウジン
(ヤウジン)

(?〜215)

張魯の将。

建安二十年(二一五)七月、曹操が大軍を催して陽平関に攻め寄せたとき、張魯の弟張衛は独断で軍を動かして陽平関に楯籠った。曹操はこれを攻撃したものの数多くの死傷者を出し、食糧も少なくなっていたので撤退しようとした。ところが高祚らの部隊が誤って張衛陣営に踏み込んだため、張衛軍は大混乱に陥って敗走した。楊任は、この戦いで戦死している《武帝紀・張魯伝》。

【参照】高祚 / 曹操 / 張衛 / 張魯 / 陽平関

楊整脩Yang Zhengxiu

ヨウセイシュウ
(ヤウセイシウ)

楊定

楊祚Yang Zuo

ヨウソ
(ヤウソ)

(?〜?)

公孫淵の将軍。

景初二年(二三八)春、魏は太尉司馬懿を派遣して公孫淵を討伐した。六月、司馬懿が遼東に到着すると、公孫淵は将軍の卑衍・楊祚らに歩騎数万人を授けて遼隧に行かせ、二十里あまりの塹壕を掘らせた。卑衍は司馬懿を迎え撃ったが、司馬懿の将軍胡遵らに敗れた。そのあと司馬懿がまっすぐ襄平に向かったので、卑衍らは襄平が無防備であることを心配し、夜中に撤退した《公孫度伝》。

司馬懿が襄平を包囲して三十日あまり、長雨はやまず、矢玉は城内に降りそそぎ、食糧も尽きはてて死者は数えきれなかった。楊祚らは司馬懿に投降した《公孫度伝》。

【参照】胡遵 / 公孫淵 / 司馬懿 / 卑衍 / 魏 / 襄平県 / 遼隧 / 遼東郡 / 太尉

楊大将Yang Dajiang

ヨウタイショウ
(ヤウタイシヤウ)

楊弘

楊定Yang Ding

ヨウテイ
(ヤウテイ)

(?〜?)
漢後将軍・開府・列侯

字は整脩。涼州の大人《董卓伝集解》。

はじめ董卓の部曲の将であったが《後漢書董卓伝》、初平三年(一九二)五月、李傕・郭汜らが兵を率いて長安に迫ると、司徒王允は胡軫・楊定らに迎撃させた。もともと彼らは王允と仲が悪く、このときも王允は二人を呼びつけて、優しげな表情を作らずに「関東の鼠めは何をするつもりか。卿らは行って呼んできなさい」と言ったので、楊定らは彼を憎み、新豊まで行って李傕に降伏した《董卓伝・後漢書董卓伝》。

興平元年(一九四)七月甲子、楊定は鎮南将軍から安西将軍に昇進し、三公のごとく開府した《後漢紀》。翌二年春、李傕が樊稠を殺したことから諸将は疑心暗鬼となり、楊定は李傕に殺されることを恐れ、郭汜とともに献帝(劉協)を自分たちの陣営に招き入れた。李傕はそれを知って、兄の子李暹に数千人を与えて攻撃させた《董卓伝・後漢書同伝》。李暹は天子を誘拐し、郭汜も公卿を人質に取った。楊定は郭汜・張済らと手を結んで李傕を脅かせた《董卓伝》。六月、張済が李傕・郭汜を和睦させた《董卓伝・後漢書献帝紀》。

七月丙寅、楊定は張済・郭汜・楊奉・董承とともに取り立てられ、後将軍となって列侯に封ぜられ、天子の長安出立に随行して洛陽を目指した。八月甲辰、侍中尹忠を自分の長史にしてくれるよう請願したが、帝は「侍中は側近であるゆえ、そのような任務に就けて関東の笑い物になってはならぬ。どうして官職爵位の濫発ができようか?」と述べて却下した《後漢書献帝紀・後漢紀》。

九月丙子、郭汜が御車を郿に移そうと企てたので、侍中种輯・城門校尉衆(楊衆?)は楊定・董承・楊奉に急いで新豊へ行くようにと告げた。郭汜は計画が洩れたと知って逃走した《後漢書献帝紀・後漢紀》。十月戊戌、郭汜の一味夏育・高碩らが反逆して御車を連れ去ろうとしたので、楊定・董承は天子を迎えて楊奉陣営に移し、楊奉とともに夏育らを撃破、首級五千を斬った《後漢紀》。

壬寅、御車が華陰に到達すると、寧輯将軍段煨が衣服と食事を献上して、自分の陣営に天子を招いた。楊定はかねて段煨と仲が悪く、彼が御車の前でも下馬しなかったので、仲の良かった种輯に「段煨は謀叛を企てています」と誣告させた。董承も「郭汜が七百騎を率いて段煨の陣営に入りました」と言ったので、天子は野宿することになった《後漢書董卓伝》。

丁未、楊定・楊奉・董承は段煨を攻撃すべく、种輯・左霊を通じて(段煨追討の)詔勅を引き出そうとした。帝は「王者が征伐を行う場合、天意に沿い民心に従うもの。どうして詔勅が必要なのか?」と延べ、却下した。その夜、段煨陣営に攻撃をかけたが、十日余り経っても陥落させられなかった。司隷校尉管命が包囲を解かせようとしたので、楊定らはそれをうるさがり、楊奉を副官にしてくれるよう要請して管命を殺そうとした。帝はその下心を察知して許可せず、楊定らに帰陣を命じた《後漢紀》。

十一月、李傕・郭汜は天子を長安から出したことを後悔していたので、楊定が段煨を攻撃していると聞いて、段煨を救援するぞと言いつつ、また誘拐して西方へ連れてこようと計画した。楊定は彼らの到来を聞いて藍田に帰ろうとしたが、郭汜に遮られたため、ただ一騎にて荊州に出奔した《後漢書董卓伝・後漢紀》。

【参照】尹忠 / 王允 / 夏育 / 郭汜 / 管命 / 胡軫 / 高碩 / 左霊 / 段煨 / 种輯 / 張済 / 董承 / 董卓 / 樊稠 / 楊衆 / 楊奉 / 李傕 / 李暹 / 劉協(献帝) / 華陰県 / 関東 / 荊州 / 新豊県 / 長安県 / 郿県 / 雒陽県洛陽県) / 藍田県 / 涼州 / 安西将軍 / 興義将軍 / 後将軍 / 三公 / 侍中 / 司徒 / 城門校尉 / 司隷校尉 / 長史 / 鎮南将軍 / 寧輯将軍 / 列侯 / 大人 / 府

楊沛Yang Pei

ヨウハイ
(ヤウハイ)

(?〜?)
魏議郎

字は孔渠。馮翊郡万年の人《賈逵伝》。

初平年間(一九〇〜一九四)に公府の令史となり、辞令を授かって新鄭の県長になった。興平年間(一九四〜一九六)末期、人々の多くが飢えに苦しんでいたので、楊沛は干した桑の実の備蓄を増やすよう県民に義務付け、(代わりに)野生の豆を採らせ、余裕のある者にはそうでない者に分けさせ、こうして千斛余りも集まったので小さな蔵にしまっておいた《賈逵伝》。

そのころ太祖(曹操)が兗州刺史として西方から天子を奉迎しようとしていたが、配下の千人余りはみな食糧に事欠いていた。新鄭に差し掛かったとき、楊沛が拝謁して干した桑の実を残らず献上したところ、太祖は非常な喜びようだった《賈逵伝》。

太祖が朝政を補佐するようになると楊沛は長社の県令に昇進した。そのころ曹洪の賓客が県境あたりにいて、税法に定める物品を納めようとしなかった。楊沛はまずその者の脚を叩き折り、(それでも承知しなかったので)最終的には彼を殺すことになった。このことから太祖は有能であると思い、九江・東平・楽安太守を歴任させたが、どの任地でも治績を立てた《賈逵伝》。

楊沛はある人から「八月一日に曹公(曹操)がお越しになり、君に杖を渡して薬酒を飲ませられるだろう」と告げられる夢を見た。郡吏の周宣にその意味を占わせると、周宣は「杖は弱者を立たせるもの、薬は病人を治すもの。八月一日になればきっと賊徒どもは潰滅いたしましょう」と答えた。そのころ楽安では黄巾賊が蜂起していたのだが、その日が来ると、賊徒どもは本当に打ち破られた《周宣伝》。

督軍と私闘を起こした廉により、楊沛は五年間の髠刑に処された。そのころ太祖は遠征中に譙へ立ち寄り、鄴の城下では禁令を守らぬ者が非常に多いことを聞き、命令書を発行して鄴の県令を選抜させたが、(候補者のうち)厳格さと有能さにかけて楊沛ほどの者こそを任命すべきと考え、まだ刑期を終えていなかったのであるが、服役中の身から鄴の県令へと抜擢したのである《賈逵伝》。

太祖は任命を済ませたのち彼を引見して「どうやって鄴を治めるつもりかね?」と問うた。楊沛が「身も心も尽くし果たし、ご命令を奉じて法律を施行します」と答えると、太祖は「よいぞ」と言い、座席の方を振り返って「諸君、こやつは恐ろしいぞ」と言った。奴婢十人と絹百匹を下賜したが、これは彼を励ます気持ちでもあり、桑の実への恩返しでもあった。楊沛が退出して鄴へと向かう途中、軍中の豪右であった曹洪・劉勲らは楊沛の威名を畏怖し、家子の騎士を子弟の元へと飛ばし、おのおの自分を戒めるようにと言い聞かせた。楊沛は数年にわたって県令を務めたが、功績能力によって護羌校尉へと転任になった《賈逵伝》。

建安十六年(二一一)、馬超が反逆すると大軍は討伐軍を起こして西進した。楊沛も従軍して、孟津の渡河に関する仕事を都督した。太祖が先に渡り終えて他の者がまだ残っていたとき、先に渡っていた中黄門が行軒の持参を忘れたのでひっそり北岸へと引き返して取りに行き、役人に小舟を要求して(行軒より)先に一人で渡ろうとした。役人が承知しなかったので、黄門は言い争いを始めた《賈逵伝》。

楊沛が黄門に「書類はございますか」と訊ねると、黄門は「ない」と答えた。楊沛は「汝(おまえ)が逃亡しないとも限らないではないか」と怒り、彼の頭を人につかませ、杖を渡して殴らせようとした。(黄門は)なんとか逃げ延びたが、着物も被り物もずたずたに引き裂かれ、自ら太祖に訴えて出たが、太祖は「汝は死ななかったのが幸いだと思えよ」と言ったのであった。この事件があって楊沛はますます名声を高めた。関中(の馬超)が打ち破られると、張既の後任として京兆尹を領した《賈逵伝》。

黄初年間(二二〇〜二二七)、儒学の教養を備えた優雅な者たちばかりが昇進し、もともと事務の有能さによって任用されていた楊沛は、結局、議郎として街角をぶらぶらするだけになった。楊沛は前後して城守(郡県の長)を歴任していたが、私的な利益は意に介さなかったし、また貴人に追従することも我慢ならなかったので、引退したとき、家に余計な蓄えはなかった《賈逵伝》。

在宅で病気の療養をしたが、官舎(?)から丁稚を借りるだけで、それ以外に奴婢はいなかった。のちに河南几陽亭にある荒廃した田地二頃を買って瓜牛廬を建て、その中で寝起きした。妻子は寒さと飢えに苦しんだ。楊沛は病気で亡くなり、郷里の親友や故吏、領民たちが殯をした《賈逵伝》。

【参照】周宣 / 曹洪 / 曹操 / 張既 / 馬超 / 劉協(天子) / 劉勲 / 兗州 / 河南尹 / 関中 / 九江郡 / 鄴県 / 几陽亭 / 京兆尹 / 譙県 / 新鄭県 / 長社県 / 東平国(東平郡) / 馮翊郡 / 万年県 / 孟津 / 楽安国(楽安郡) / 議郎 / 京兆尹 / 県長 / 県令 / 公 / 護羌校尉 / 刺史 / 中黄門(黄門) / 督軍 / 都督 / 令史 / 瓜牛廬 / 黄巾賊 / 行軒 / 故吏 / 髠刑 / 従児(丁稚) / 府

楊白Yang Bai

ヨウハク
(ヤウハク)

楊帛

楊帛Yang Bo

ヨウハク
(ヤウハク)

(?〜?)

張魯の将。

『典略』では彼の名を楊白とする。また、楊昂と同人である可能性が高い。これは紙に書かれた楊帛の名を写し間違えたものである。

建安十八年(二一三)、劉備が益州牧劉璋を裏切って成都に攻め上ったとき、中郎将霍峻が葭萌関を守っていた。楊帛は張魯の命を受けて(軍勢を率い)「一緒に城を守ろうではないか」と霍峻に持ちかけたが、「拙者の首を取っても、城を手に入れることはできぬぞ」と断られ、退却した《霍峻伝》。

翌十九年、漢中の張魯の許には馬超が身を寄せていたが、楊帛は彼が能力を発揮できないように画策した。そのため馬超は武都から氐族の地に逃げ込み、それから蜀へと出奔した《馬超伝》。

【参照】霍峻 / 張魯 / 馬超 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 葭萌関 / 漢中郡 / 蜀 / 成都県 / 武都郡 / 中郎将 / 牧 / 氐族

楊奉Yang Feng

ヨウホウ
(ヤウホウ)

(?〜197)
漢車騎将軍・仮節鉞

もと白波賊の頭目で、のちに李傕の部将となった。曹操や董昭は彼の軍勢が精強だったと言っている《董昭伝》。

興平二年(一九五)二月、李傕が樊稠を殺害したことから長安の諸将のあいだでは疑念が起こり、李傕と郭汜が互いに攻撃しあうようになった。安西将軍楊定は李傕の残虐さを恐れ、郭汜とともに献帝劉協を自分の陣営に迎え入れようとした。それを知った李傕は兄の子李暹に命じて数千人に宮殿を包囲させ、天子・皇后を我が方に招いた。天子はやむを得ず李傕の陣営に入った《後漢書董卓伝》。郭汜のほうでも大尉楊彪らを人質に取り、李傕と争った。このとき楊奉は軍勢を率いて李傕に味方したので、郭汜の軍勢は敗走した《後漢書董卓伝》。

楊奉は李傕の非を知り、軍吏宋果とともに彼を暗殺しようと計画したが、計画が漏れたため即座に兵を率いて叛逆した。こうして李傕の権勢は衰えていった《董卓伝》。

同年七月、天子が東方の洛陽に帰ろうとしたとき、郭汜は車騎将軍、楊定は後将軍、楊奉は興義将軍、董承は安集将軍を自称し、ともに天子の御車を護送した。冬十月のある夜、郭汜の部将伍習が天子のお泊まりになっている学舎を焼き討ちし、御車に迫ろうとした。楊奉は楊定とともに郭汜の軍勢を撃破した《後漢書献帝紀》。

翌十一月になると李傕・郭汜・張済が追いかけてきて、弘農郡の東の谷間で官軍を攻撃した。天子の軍勢は敗北し、多くの大臣が殺された。御車を曹陽亭に入れると、楊奉と董承は白波賊の頭目胡才・李楽・韓暹、また匈奴左賢王去卑を呼び寄せた。こうして董承・李楽が左右を固め、楊奉・胡才・韓暹・去卑が殿軍となって李傕らを撃退することができた《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

翌十二月、御車を進めたところ、また李傕らが追いかけてきたので、天子の軍勢は大敗して数人の大臣を失った。陝に到達したところで黄河を北に渡り、安邑に落ち着き、翌建安元年(一九六)、天子はようやく洛陽に帰還することができた。安国将軍張楊は「朝廷には公卿大臣がいるのだから」と言って野王に帰還し、楊奉も外に出て梁に駐屯した。そこで張楊は大司馬に、韓暹は大将軍に、楊奉は車騎将軍になった《後漢書献帝紀・同董卓伝》。韓暹は朝廷にあって功績を楯に政治に干渉した。董承はそれを憂慮し、兗州牧曹操を招き入れた《後漢書董卓伝》。

また朝廷には議郎董昭がおり、楊奉が最強の軍勢を抱えておりながら仲間が少ないのを見て、曹操に利益を与えようとして楊奉に進言した。その手紙にいわく「将軍の勲功は天下比類ありません。賢者を用いて王政を進めるべきですが、将軍お一人で支えることはできません。いま私は食糧を持っていますし、将軍は軍勢をお持ちですから、助け合うことにしましょう」。楊奉は手紙を読んで喜び、諸将に「兗州(曹操)諸軍が許に近在していて、軍隊も兵糧もあるんだ。国家が依頼すべきところだ」と語った。こうして連名で上表して曹操を鎮東将軍に任じ、父の費亭侯の爵位を継がせた《董昭伝》。

そのころ曹操は天子を迎えようと計画していたが、彼の軍中では多くの者が「山東は平定されていないし、楊奉・韓暹が功績を誇って好き勝手しているので、まだ制御できないでしょう」と主張した。ただ荀彧だけは「天子を奉じるならば、四方の豪傑が逆らったとて何ほどのことがありましょう。楊奉・韓暹など問題になりません」と言った。こうして曹操は洛陽に入って天子を推戴することになった《荀彧伝》。曹操は公卿以下と稟議して韓暹・張楊の罪を弾劾した。すると韓暹は誅殺されることを恐れ、単騎で楊奉のもとに出奔した。天子は御車を援助した功績を思い起こし、詔勅によって楊奉・韓暹を不問とした《後漢書董卓伝》。

董昭は都を許に遷すよう曹操に進言した。曹操が「楊奉が精鋭を率いて梁にいるので困難だろう」と訊ねると、董昭は「将軍が鎮東将軍・費亭侯になられたのは、すべて楊奉が画策したことですが、それは彼に味方が少なかったため将軍に頼ろうと考えたからです。楊奉を手厚く持てなしたうえで、都に食糧がないので魯陽に遷都したいと説明すれば、彼は勇猛でありながら思慮が浅いので、疑うことはありますまい」と述べた《董昭伝》。

九月、曹操はまず天子を魯陽に遷し、そのまま許に遷そうとした。楊奉と韓暹は行く手を遮ったが、曹操が陽城山の谷間に伏兵を置いていたので大敗した。楊奉らは定陵に流れて荒らしまわったが、曹操が彼らの本拠地である梁を平定したので軍勢を失い、楊奉らは袁術を頼って落ち延びた。こうして楊奉らは揚州・徐州のあたりで乱暴狼藉を働くようになり《董昭伝・後漢書董卓伝》、詔勅によって袁術・公孫瓚とともに懸賞金が掛けられた《呂布伝》。

翌二年、袁術が呂布と通好しようとしたが、呂布は彼が帝位を僭称しようとしていると知り、それを拒絶して使者韓胤を殺した。袁術は呂布を恨み、大将張勲・橋蕤・楊奉・韓暹らに歩騎数万人を率いさせ、七手に分かれて呂布を攻撃させた。沛国相陳珪は呂布に「楊奉・韓暹がにわかに袁術と合力したのは、もともと計略あってのことではないので維持することはできません」と言上した。そこで呂布は楊奉・韓暹に手紙を送って言った。「二将軍は御車をお守りになり、呂布は董卓を殺しました。ともに史書に名を連ねるべき功績を立てたのです。いま袁術が叛逆したからには一緒に討伐すべきですのに、どうして賊軍どもと呂布を討とうとするのですか」と。また袁術を破ったのち戦利品を我が物にすることを許可した。楊奉らは大喜びし、下邳で両軍が対峙したとき一斉に寝返って十人の将帥を斬り、呂布とともに張勲軍を大破して橋蕤を生け捕りにした《呂布伝・後漢書呂布伝》。

徐州牧劉備は呂布の襲撃を受けて海西に逃れたが、楊奉らが周辺を荒らしまわっていたので、彼を招いて殺した。韓暹は恐怖のため幷州に逃れようとしたが、道中で人に殺害された《先主伝・後漢書董卓伝》。

【参照】袁術 / 郭汜 / 韓胤 / 韓暹 / 去卑 / 橋蕤 / 胡才 / 伍習 / 公孫瓚 / 荀彧 / 宋果 / 曹操 / 張勲 / 張済 / 張楊 / 陳珪 / 董承 / 董昭 / 董卓 / 樊稠 / 伏皇后 / 楊定 / 楊彪 / 李傕 / 李楽 / 李暹 / 劉協(献帝) / 劉備 / 呂布 / 安邑県 / 兗州 / 海西県 / 下邳国 / 許県 / 黄河 / 弘農郡 / 山東 / 徐州 / 陝県 / 曹陽亭 / 長安県 / 定陵県 / 沛国 / 費亭 / 幷州 / 野王県 / 揚州 / 陽城山 / 洛陽県 / 梁県 / 魯陽県 / 安国将軍 / 安集将軍 / 安西将軍 / 興義将軍 / 公卿 / 後将軍 / 左賢王 / 車騎将軍 / 相 / 大尉 / 大司馬 / 大将軍 / 鎮東将軍 / 亭侯 / 牧 / 匈奴 / 白波賊

楊慮Yang Lu

ヨウリョ
(ヤウリヨ)

(?〜?)
漢処士

字は威方。襄陽の人。楊儀の兄にあたる《楊儀伝・襄陽記》。

若くして徳行があり、沔南地方では最も優れた人物であった。州郡や三公から手厚い礼をもって招かれたが、いずれにも屈さなかった。許汜を初めとして門弟は数百人を数えたが、楊慮はわずか十七歳で夭折した。弟子たちは彼の徳義規範を尊敬して「徳行の楊君」と呼んでいたという《楊儀伝・襄陽記》。

いかに優れた人物であったとはいえ、十七歳で門弟数百人も抱えていたとはにわかに信じがたい。しかし原文には確かに「夭」とあるのだから否定はできないだろう。

【参照】許汜 / 楊儀 / 襄陽郡 / 沔南 / 三公

雍闓Yong Kai

ヨウカイ

(?〜225)
呉永昌太守

益州郡の豪族。什邡侯雍歯の末裔であるという《呂凱伝》。

雍闓はもともと南方において恩徳・信義によって有名だった《張裔伝》。章武三年(二二三)四月、雍闓は蜀帝劉備が永安宮で崩御したと聞くと、次第に傲慢な態度を取るようになり《呂凱伝》、ついには太守正昂を殺害した《張裔伝》。交州刺史歩騭・交趾太守士燮が郡民を引き連れて東に味方するよう誘ったので《歩騭・士燮伝》、雍闓ははるばる呉に通じ《張裔・呂凱伝》、新たに張裔が太守として赴任すると、巫女のお告げにかこつけて「張府君(ちじ)はひょうたんの壺のようなものだ。外側は光沢があるが内側は粗雑である。殺すまでもない、呉のために縛るまでだ」と言い、彼を呉に送り飛ばしてしまった《張裔伝》。

また越巂の叟族高定元や牂牁郡丞朱褒らも彼に同調した《後主・李恢伝》。丞相諸葛亮は先帝の喪のため軍を起こすことができず《諸葛亮伝》、中都護李厳に手紙を書かせて利害を説得した《呂凱伝》。前後六通の手紙をやったが、雍闓は一通の返書しか出さず、しかも「天に二日なく地に二王なしと聞いておりますが、いま天下は鼎立して暦は三つもあり、田舎者は戸惑って誰に帰服したらよいのかわからないのです」といった慢心ぶりだった《呂凱伝》。

益州の夷(えびす)たちは雍闓に従おうとしなかったので、孟獲を使者として味方するように誘った。孟獲は彼らに「お上は斲木(樹木の種類?)の材木三丈のものを三千枚差し出せと言っている。汝(おまえ)たちにそれができるか」と嘘をついた。斲木は材質が堅いうえ曲がって伸びるので、高さは二丈にもならないのであった。夷たちは彼の言うとおりだと思って雍闓に荷担することにした《華陽国志》。

呉の孫権は彼を永昌太守に任命するとともに《呂凱伝》、前益州牧劉璋の子劉闡を益州刺史に任じて交州との境に進出させた《劉璋伝》。永昌郡は益州郡から西方にいったところにあり、(雍闓によって)道路は封鎖されて成都とは切り離され、太守は召し返されていた。雍闓は太守として永昌郡に入ろうとしたが、郡の五官掾功曹呂凱と郡丞王伉が官吏・人民を集めて郡境を封鎖していた。雍闓は何度も檄文を発したが、呂凱らが固く拒絶したため入ることができなかった《呂凱伝》。

建興三年(二二五)春、諸葛亮は南征の軍を起こし、水路を取って安上から越巂郡に入った。ここで軍勢を分けて馬忠を牂牁に派遣し、平夷に駐屯していた李恢を益州郡に進入させた《華陽国志》。李恢は道を探りながら昆明まで進んだが、そこで益州郡の大軍に包囲され、諸葛亮との連絡も途絶えてしまう。李恢の軍勢は敵の半分しかなかった。李恢が「官軍の兵糧は底を突いて撤退の準備を始めている。吾(わたし)は長らく郷里を離れていたが、やって帰ってくることができたのだ。ふたたび北には帰らないぞ。汝たちと一緒に計画したいのだ」と言うと、益州郡の軍勢は彼を信じて包囲をゆるめた。そこで李恢は出撃して益州郡の軍勢を大破した《李恢伝》。

李恢と戦った軍勢の正体が今一つわからない。この軍勢のなかに雍闓がいて指揮を執っていたのだろうか。あるいは永昌郡に赴いた雍闓に代わって孟獲らが統括していたのかも知れない。

一方、高定元は全軍を卑水に集結させて諸葛亮と戦っていたが、やはり大敗した。そのさなか高定元の部曲が益州太守王士もろともに雍闓を殺害した《華陽国志》。その高定元も諸葛亮に斬られている《華陽国志》。

益州太守とともに殺されていることを考慮すると、このとき雍闓はすでに降服していたものと推測される。南方が平定されると、諸葛亮は現地住民のうち足弱の者を豪族の焦・婁・爨・孟・量・毛・李氏らと並んで雍氏に預けているのである《華陽国志》。

【参照】王伉 / 王士 / 高定元 / 士燮 / 朱褒 / 諸葛亮 / 正昂 / 孫権 / 張裔 / 馬忠 / 歩騭 / 孟獲 / 雍歯 / 李恢 / 李厳 / 劉璋 / 劉闡 / 劉備 / 呂凱 / 安上県 / 永安宮 / 永昌郡 / 益州 / 益州郡 / 越巂郡 / 呉 / 交趾郡 / 交州 / 什邡県 / 蜀 / 成都県 / 牂牁郡 / 滇池県(昆明) / 卑水県 / 平夷県 / 郡丞 / 侯 / 五官掾功曹 / 刺史 / 丞相 / 太守 / 中都護 / 牧 / 鬼(巫女) / 叟族 / 大姓(豪族) / 斲木 / 部曲