カボウ |
(?〜?) |
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袁紹の将。 建安四年(一九九)八月、曹操は軍勢を黎陽に進め、于禁を黄河のほとりに駐留させた《武帝紀》。于禁は歩兵二千人を率いて袁紹軍を撃退したあと、楽進らとともに歩騎五千人を率いて延津から西南へ黄河沿いに進んだ。汲・獲嘉まで行って三十余りの保塁を焼き払い、斬首・捕虜はおのおの数千人であった。袁紹の将何茂・王摩ら二十人余りは降服した《于禁伝》。 |
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カショウ |
(?〜206?) |
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高幹の将。 建安十年(二〇五)、高幹は上党太守を人質に取って曹操に叛き、軍勢を挙げて壺口関に楯籠った。曹操の将楽進・李典が背後に回ろうとしたので壺関城に引き揚げたが、そこで楽進らを打ち破った。翌十一年正月、曹操が自ら軍勢を進めてきたので、高幹は夏昭・鄧升に城を守らせ、自分は匈奴単于に救援を求めにいった。夏昭らは三ヶ月間、曹操軍の包囲を凌いだが陥落した《武帝紀・袁紹伝・楽進伝》 |
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カコウケイ |
(?〜?) |
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字は稚権。沛国譙の人。夏侯淵の六男《夏侯淵伝》。 幼少のころより才能学識をもって称賛され、奏議を綴るのが巧みで、散騎侍郎・黄門侍郎を歴任した《夏侯淵伝》。散騎侍郎であったとき、広く賢者を求める詔勅が下されたので、夏侯恵は散騎常侍劉劭を推薦している《劉劭伝》。しばしば鍾毓と議論を交わし、どの案件でも採用されることが多かった。燕国の相、楽安太守へと昇進したが、三十七歳で卒去した《夏侯淵伝》。 夏侯恵は文・賦を著し、劉劭・蘇林・韋誕・孫該・杜摯らとともに世間で大層流行した《劉劭伝》。その著作は『夏侯恵集』に収められたが、すでに散逸している《隋書経籍志》。ただ『景福殿賦』だけは『芸文類聚』に収録されて現在でも読むことができる《劉劭伝集解》。 【参照】韋誕 / 夏侯淵 / 鍾毓 / 蘇林 / 孫該 / 杜摯 / 劉劭 / 広陽郡(燕国) / 譙県 / 沛国 / 楽安国(楽安郡) / 黄門侍郎 / 散騎侍郎 / 散騎常侍 / 相 / 太守 / 夏侯恵集 / 景福伝賦 / 芸文類聚 / 奏議 / 賦 / 文 |
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カコウジュ |
(?〜?) |
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字は俊林。夏侯尚の従弟である。はじめ驍騎将軍・鄢陵侯曹彰の司馬であった《張既伝》。 黄初二年(二二一)、涼州盧水胡の伊健妓妾・治元多らが反逆し、黄河西岸地域は大混乱に陥った。これを憂慮した文帝(曹丕)は十一月、鎮西将軍曹真を打ち立たせるとともに、涼州刺史を張既に代え、護軍夏侯儒・将軍費曜らに後詰めさせた《文帝紀・張既伝》。張既は鸇陰を経由すると見せかけて且次から進軍し、武威を占拠した。遅れて費曜が到着、ともに賊軍を大破し、万単位の斬首捕虜を出す大勝利を収めたが、夏侯儒らは行軍が遅れて参戦できなかった《張既伝》。 後文に夏侯霸が後任の征蜀護軍になったとあり、ここで護軍と言っているのは征蜀護軍のことだろう。 酒泉の蘇衡が反逆して羌族の隣載および丁令胡一万騎余りとともに隣県を攻撃した。張既は夏侯儒とともにこれを撃破、蘇衡・隣載らはみな降服した。そこで張既は夏侯儒ともに左城を修築したいと上疏、城壁や烽火台、食料庫を築いて胡族に備えたので、西羌族は恐懼し、部落の者二万人を連れて帰服した《張既伝》 正始年間(二四〇〜二四九)、夏侯儒に代わって夏侯霸が征蜀護軍に就任《夏侯淵伝》、夏侯儒は征南将軍となり、荊・予二州を都督することになった《張既伝》。 同二年四月《孫権伝》、呉将朱然・孫倫ら都合五万人が樊城を包囲し《斉王紀》、城将乙修らが救援を要請したとき、夏侯儒は鄧塞まで進軍したものの、軍勢が少なかったためそれ以上進むことができなかった。そこで太鼓を打ち笛を吹き、道案内(?)を設けるだけで、朱然軍から六・七里まで来たところで引き返し、その様子を乙修らにも遠くから眺めさせた。それを何度も何度もくり返して一ヶ月余りが経ち、太傅(司馬懿)が到着してから一緒に進軍し、朱然らを敗走させた《張既伝》。 当時の人々は夏侯儒を臆病だと言う者もあり、また寡兵でもって大軍を惑わす術を心得ており、援護の気勢を挙げる道理に適っていると評価する者もあった。夏侯儒はそれでもこの一件のため召し返され、太僕に異動された《張既伝》。 夏侯儒の用兵は、関羽が樊城を包囲した際に徐晃・趙儼の採った戦術と同じである。臆病との評は失当と思われる。 【参照】伊健妓妾 / 乙修 / 夏侯尚 / 夏侯霸 / 司馬懿 / 朱然 / 蘇衡 / 曹彰 / 曹真 / 曹丕 / 孫倫 / 治元多 / 張既 / 費曜 / 隣載 / 鄢陵県 / 荊州 / 呉 / 黄河 / 左城 / 酒泉郡 / 揟次県(且次県) / 鸇陰県 / 鄧塞 / 樊城 / 武威郡 / 予州 / 涼州 / 盧水 / 驍騎将軍 / 侯 / 護軍 / 刺史 / 司馬 / 将軍 / 征蜀護軍 / 征南将軍 / 太傅 / 太僕 / 鎮西将軍 / 都督 / 西羌 / 丁令胡 / 導従(道案内?) / 盧水胡 |
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カコウ |
(?〜?) |
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字は叔業。京兆新豊の人《王朗伝》。『魏略』では「儒宗伝」に編入されている《王朗伝》。 実家は貧しかったが、学問を愛好して才能があり、『春秋左氏伝』にはとりわけ詳しかった。建安年間(一九六〜二二〇)の初期、本郡に出仕して計掾に推挙され、州からのお召しに応じた。このとき州内には参軍事などの州吏が百人余りいたが、才能・学識が最高水準であったのは賈洪と厳苞だけであった。人々は彼らを称えて「州内きらきら賈叔業、弁論ふつふつ厳文通」と語った《王朗伝・同集解》。賈洪は県令を三たび兼務し、どの任地でも廏舎を開放して(学校とし)、彼自身が学生たちの教授にあたった《王朗伝》。 のちに馬超が反逆して賈洪を拘束し、華陰まで連れて行って宣伝文を作らせた。賈洪は作らざるを得なかった。司徒鍾繇は東方にいたのだが、その宣伝文を見ると「これは賈洪が作ったものだ」と言った。馬超が敗走したのち、太祖(曹操)は賈洪を召しよせて軍謀掾に任じはしたが、かつて馬超のために宣伝文を作ったということで、すぐに叙任を行わず、ずっと後になってようやく陰泉(陽泉?)の県長にした《王朗伝》。 延康年間(二二〇)、白馬国の相へと転任した。言葉遊びがうまかった。白馬王の曹彪もまた文学を愛好したので、つねづね師として尊敬され、三卿を上回る待遇を受けた。数年後、病のため五十歳余りで亡くなった。彼の官位が二千石に及ばなかったことを人々は残念に思った《王朗伝》。 延康年間は曹操の死後、まだ曹丕が受禅していない時期である。よって賈洪が赴任したとき、この白馬王は劉姓だったはずだ。『集解』にも同様の指摘がある。曹彪が白馬に転封されたのは黄初七年(二二六)のこと。 【参照】厳苞 / 鍾繇 / 曹操 / 曹彪 / 馬超 / 華陰県 / 京兆尹 / 新豊県 / 白馬県(白馬国) / 陽泉県(陰泉県) / 王 / 軍謀掾 / 計掾 / 県長 / 県令 / 参軍事 / 三卿 / 司徒 / 相 / 魏略 / 春秋左氏伝 / 二千石 |
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カシン |
(?〜?) |
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曹操の将。 建安八年(二〇四)三月、袁譚・袁尚は黎陽城を出て曹操と戦ったが大敗し、夜陰に乗じて逃走した。四月、曹操は軍を鄴に進めたが、翌五月には許に帰還した。そのとき賈信は黎陽城に残されて留守を守った《武帝紀》。 同十六年、曹操が馬超追討のため西方に出征すると、田銀・蘇伯が河間郡で叛逆した。鄴を守っていた曹丕は賈信を派遣し、賈信は行驍騎将軍曹仁とともに叛乱者を討伐して、千人余りの降服者を受け入れた《曹仁・程昱伝》。 【参照】袁尚 / 袁譚 / 蘇伯 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 田銀 / 馬超 / 河間郡 / 許県 / 鄴県 / 黎陽県 / 驍騎将軍 / 行 |
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カハン |
(?〜237) |
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公孫淵の将軍。 景初元年(二三七)七月、大司馬・楽浪公の公孫淵は魏に対して反乱を起こした。このとき将軍の賈範は、綸直とともに厳しく諫言したが、聞き入れられず、殺された。公孫淵が誅殺されたのち、司馬懿は賈範らの墓を盛ってやった《晋書宣帝紀》。 |
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カイエツ |
(?〜214) |
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字は異度。南郡中廬の人《劉表伝》。劉表の大将《劉表伝》。 蒯越は雄大な容姿を備えた英傑で、精神の奥底に智慧を満たしていた。大将軍何進はその名声を聞き、召し寄せて東曹掾とした。蒯越は宦官どもを誅殺すべきと勧めたが、何進がぐずぐずして決断しなかったので、何進の失敗は必定とみて、汝陽の県令に出向したいと申し出た《劉表伝》。 劉表が荊州刺史になったとき、長江以南には宗賊ども、魯陽には袁術、長沙には蘇代、華容には貝羽らがいて、それぞれが軍勢を抱えて混乱を起こしていた。劉表は赴任するなり宜城に入り、蒯良・蒯越・蔡瑁を招いて協議すると、蒯良は「仁義の道を行くならば百姓たちは川の流れのように帰服するでありましょう」と述べた《劉表伝》。 蒯越は「平和を統治する者は仁義を優先し、混乱を統治する者は策略を優先するものです。軍事は人数の多さではなく人材の任用によって決まるのです。袁術は勇猛ではありますが決断力がなく、蘇代・貝羽は武人に過ぎず、宗賊どもの貪欲さは下々の者に恨まれております。蒯越には昔から養ってやっている連中がおりますから、これを使者として利益を示してやれば、彼らは必ず軍勢を率いて来降いたします。使君が無法者を誅殺し、(それ以外の者を)慰撫し、任用してやれば、州内の人々はみな生命を惜しむとともに、貴君の恩徳を聞いて襁褓を背負って参りましょう。軍勢民衆が集まってから南方は江陵を占め、北方は襄陽を固めるならば、荊州八郡は檄文を飛ばしただけで平定できます。袁術らが来てもなすすべはございますまい。」《劉表伝》 劉表は「子柔(蒯良)どのの言葉は雍季の議論、異度どのの計略は臼犯の策謀ですな」と言い、蒯越に命じて宗賊どもを勧誘させ、五十五人全員を殺し、その軍勢を奪い取った。ある者には部曲を授けた。江夏の賊徒張虎・陳生が軍勢を抱えて襄陽を占拠していたので、蒯越は龐季とともに従者も付けずに出向し、降服を勧告した。こうして長江以南はすっかり平定されたのである《劉表伝》。詔書を賜って章陵太守となり、樊亭侯に封ぜられた《劉表伝》。 曹操と袁紹が官渡で対峙していたとき、袁紹は使者を遣して劉表に救援を求めてきた。劉表はそれに承知しつつも出兵せず、かといって曹操に肩入れすることもなく、長江・漢水の流域を押さえたまま天下の異変を窺っていた。従事中郎韓嵩・別駕従事劉先が「両雄が対立しておりますゆえ、天下の行方を決定するのは将軍次第です。彼らの疲弊に乗じて行動を起こすか、さもなくば荊州をこぞって曹公に帰伏なさいませ」と勧め、蒯越もそれを支持したが、劉表は決断に迷い、韓嵩を曹操のもとに遣して内情を探らせただけだった《劉表伝》。 劉備は劉表のもとに身を寄せて樊城に屯した。劉表は彼を礼遇する一方、その人となりを嫌い、あまり信用しなかった。あるとき劉表が酒宴を催して劉備を招いたが、蒯越・蔡瑁は酒宴を利用して劉備を捕縛しようとしたが、劉備に気付かれて取り逃がしてしまった《先主伝》。 建安十三年(二〇八)、曹操が劉表を征討したとき、まだ到着しないうちに劉表は病死した。人々は劉琮を跡継ぎに据えた。蒯越・韓嵩・傅巽らは曹操に帰服すべきと劉琮を説得した。曹操軍が襄陽に到着すると、劉琮は荊州をこぞって降服した《劉表伝》。 曹操は劉琮を青州刺史に取り立てて列侯に封じ、蒯越を初めとする十五人を封侯した。曹操は荀彧への手紙で「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことが嬉しいのだ」と語っている《劉表伝》。 蒯越はのちに光禄勲にまで昇進し、十九年に卒去した。死を目前にしたとき、曹操に手紙を送って蒯氏一門のことを託すと、曹操は「死者が生き返ったとしても、生者は恥じるものではない。孤(わたし)はあまり推挙できなかったが、そうしたことはたびたび実行してきた。死者に知覚があるならば、孤のこの言葉も聞いているはずだ」と誓いを立てた《劉表伝》。 【参照】袁術 / 袁紹 / 何進 / 蒯良 / 韓嵩 / 臼犯 / 蔡瑁 / 荀彧 / 蘇代 / 曹操 / 張虎 / 陳生 / 貝羽 / 傅巽 / 龐季 / 雍季 / 劉先 / 劉琮 / 劉備 / 劉表 / 華容侯国 / 漢水 / 官渡 / 宜城侯国 / 荊州 / 江夏郡 / 江陵県 / 襄陽県 / 章陵郡 / 汝陽県 / 青州 / 中廬侯国 / 長江 / 長沙郡 / 南郡 / 樊城 / 樊亭 / 魯陽県 / 県令 / 光禄勲 / 刺史 / 従事中郎 / 太守 / 大将軍 / 亭侯 / 東曹掾 / 別駕従事 / 列侯 / 宗賊 / 部曲 |
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カイキ |
(?〜219) |
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襄陽郡の人。諸葛亮の姉婿《襄陽記》。 蒯越と同族であろうか。おそらく曹操か、あるいは劉表が領内の名士から蒯祺を選んで太守に任じたものだろう。 建安二十四年(二一九)、劉備の宜都太守孟達が秭帰から北上し、房陵を攻撃した。太守蒯祺は孟達の兵士に殺された《劉封伝》。 |
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カイリョウ |
(?〜?) |
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字は子柔。南郡中廬の人《劉表伝》。 『演義』では蒯越の兄だとしている。 劉表が荊州刺史になったとき、長江以南には宗賊ども、魯陽には袁術、長沙には蘇代、華容には貝羽らがいて、それぞれが軍勢を抱えて混乱を起こしていた。劉表は赴任するなり宜城に入り、蒯良・蒯越・蔡瑁を招いて協議した《劉表伝》。 蒯良は「民衆が懐かぬのは仁が不足しているからです。懐いても安定しないのは義が不足しているからです。仁義の道を行くならば百姓たちは川の流れのように帰服するでありましょう。なぜ任地での不服従を心配し、軍兵を催して策略をお訊ねなさるのですか?」と述べたが、劉表は「利益を示してやれば、彼らは必ず軍勢を率いて来降します」との蒯越の言葉に従い、「子柔どのの言葉は雍季の議論、異度(蒯越)どのの計略は臼犯の策謀ですな」と評した《劉表伝》。 【参照】袁術 / 蒯越 / 臼犯 / 蔡瑁 / 蘇代 / 貝羽 / 雍季 / 劉表 / 華容侯国 / 宜城侯国 / 荊州 / 中廬侯国 / 魯陽県 / 長江 / 長沙郡 / 南郡 / 刺史 / 宗賊 |
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カクショウ |
(?〜?) |
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字は伯道。太原の人《明帝紀》。 郝昭の人となりは雄壮で、若いころから軍隊に入り、部曲督となり、しばしば戦功を立てて雑号将軍に昇進した《明帝紀》。 延康元年(二二〇)五月、西平の麴演が隣郡と手を結んで叛乱を起こすと、張掖の張進は太守杜通を捕らえ、酒泉の黄華は太守辛機を受け入れず、それぞれ太守を自称して麴演に呼応した。もともと郝昭は魏平とともに金城を守っていたが、詔勅を受けても西へ進むことができなかった。金城太守蘇則は郡の重役や郝昭らを招いた《蘇則伝》。 蘇則が「賊徒は数多いが脅迫されて味方している者も多く、そこに付け込んで攻撃すれば善人を帰順させることができよう。大軍の到着を待っていても、善人と悪人を協力させるだけだ」と告げると、郝昭らは彼に賛同した。そこで武威を救援し、武威太守毌丘興とともに張掖の張進に攻撃をかけた。麴演が軍勢を率いて援助を申し出てきたが、蘇則は会見の席上で彼を斬首した。蘇則・郝昭らは張掖を包囲して陥落させ、張進を斬首した。黄華は恐怖して降服し、河西地方は平定された《蘇則伝》。 太和元年(二二七)春正月、西平の麴英が反乱を起こし、臨羌の県令と西都の県長を殺した。郝昭・鹿磐が征討に派遣され、これを斬首した《明帝紀》。 翌二年春、諸葛亮が祁山に進出してきたが、曹真・張郃らの働きによって撃退された。曹真は諸葛亮が矛先を変えて次は陳倉に侵入してくるだろうと予測し、郝昭・王生に陳倉を守らせ、その城を固めさせた《曹真伝》。郝昭は新たに陳倉の下城を築き、元の上城に連結させた《明帝紀集解》。 同年冬十二月、諸葛亮は果たして陳倉に進出して郝昭らを包囲した。諸葛亮はもともと陳倉城は粗悪だと聞いていたのに、実際に見てみるとよく整備されていたので意外に思い、その城内に郝昭がいると知って大いに驚愕した。郝昭が西方にあって威名を轟かせていたことを、諸葛亮はかねて知っていたからである。そして、これを攻撃するのは容易でないことを悟った《明帝紀集解》。 諸葛亮は郝昭と同郷の靳詳を使者として城外から降服を呼びかけさせた。郝昭は矢倉の上から答えた。「魏の法律はあなたもよくご存じだろう。私の人柄もあなたはよくご存じだろう。私は国家の御恩を多大に受け、一門も栄えるようになった。あなたは何も言うな。ただ死を覚悟するだけだ。あなたは帰って諸葛亮に伝えてくれ、すぐに攻撃せよと。」《明帝紀》 『集解』に引く『魏略』によると、郝昭は「むかし防備を固めて祁山を守ったときは安閑として用心が足らず、最終的に守りきることができたとはいえ今でも忸怩たる思いを抱いておるのだ」と語っている。諸葛亮を祁山から先へ進軍させなかったのは、郝昭の功績だということになる。 諸葛亮は郝昭の言葉を聞くと、ふたたび靳詳を使者として「人数が同等ではないのだから自分から無駄死にするような真似はなさるな」と説得させた。郝昭は靳詳に告げた。「以前の言葉でもう決まりだ。私があなたのことを知っていても、矢はあなたのことを知らないのだぞ。」靳詳は立ち去った《明帝紀》。 諸葛亮は軍勢数万を抱えており、郝昭の軍勢がわずか千人余りであるし、東方からの救援軍もすぐには到着しないだろうと考え、そこで軍勢を進めて郝昭を攻撃させた。まず雲梯・衝車を城壁に迫らせると、郝昭は火矢を雲梯に向かって放ち、雲梯に乗っていた者をみな焼死させた。また石臼を繩で繋いで衝車に投げ落とすと、衝車は破壊された《明帝紀》。 諸葛亮が次に百尺もある井闌から城内に矢を注がせつつ、瓦礫で堀を埋め、城壁を直接よじ登らせようとしたが、郝昭はまた内側に二重の壁を作った。諸葛亮が今度は地下道を作って城内に躍り出ようとすると、郝昭は城内で地面を掘り、それを遮断した。こうして昼も夜も戦い続けて二十日余りが経ち、諸葛亮は万策尽き、救援軍が到着したので引き揚げていった《明帝紀》。郝昭がよく守ったということで詔勅によるお褒めに与り、列侯の爵位を賜った《明帝紀》。 河西地域を鎮めること十年余り、民衆も夷族たちも畏服した《明帝紀》。帰国して帝に拝謁したとき、帝は彼を慰労しつつ中書令孫資の方を振り返り、「あなたの郷里にはこのような快男児がおって、将軍としてこれほど輝いておる。朕はもう何を心配することがあろうか」と言った。そこで大役に抜擢しようとしたところ、ちょうど病気にかかって郝昭は亡くなった《明帝紀》。 郝昭は息子郝凱にこう遺言した。「私は将軍となり、将軍になどなるものではないと悟った。たびたび塚を発掘して木材を取り、戦争の道具に使ったから、手厚い埋葬が死者にとって無益であることを知った。必ず季節の服で埋葬せよ。それに人間は生きていてこそ居場所があるのだ。死んだらどこに住まうというのか(場所は関係ないのである)。ここは祖先の墓から遠く離れてはいるが、東西南北どこであろうとお前次第である。」《明帝紀》 【参照】王生 / 郝凱 / 毌丘興 / 魏平 / 麴英 / 麴演 / 靳詳 / 黄華 / 諸葛亮 / 辛機 / 蘇則 / 曹叡(帝) / 曹真 / 孫資 / 張郃 / 張進 / 杜通 / 鹿磐 / 河西 / 魏 / 祁山 / 金城郡 / 酒泉郡 / 西都県 / 西平郡 / 太原郡 / 張掖郡 / 陳倉県 / 武威郡 / 臨羌県 / 県長 / 県令 / 雑号将軍 / 太守 / 中書令 / 列侯 / 雲梯 / 衝車 / 井闌 / 地突(地下道) / 部曲督 |
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カクボウ |
(?〜196) |
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呂布の将。河内郡の人《呂布伝》。 郝萌は袁術の内意を受けて叛乱を企てていた。その計画について曹性に質問するたび「呂将軍は神性が備わっているため攻撃することは不可能だ」と反対されていたが、建安元年(一九六)六月、ついに郝萌は叛乱を起こし、夜中、軍勢を率いて下邳の治府に侵入し、外から一斉に叫び声を揚げつつ政庁を攻め立てた《呂布伝》。 しかし政庁が堅牢であったため中に入ることができず、呂布はその間に逃げ出してしまった。高順の軍勢が治府へ駆けつけてきて、弓弩を発射したので郝萌勢は潰走し、夜明けまでに自陣へと帰っていった。そこで曹性が呂布方に寝返って一騎打ちとなり、郝萌は彼を突き刺して傷を負わせたが、彼自身も片腕を失った。そこへ高順がやって来て、郝萌は首を斬られた《呂布伝》。 |
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カクエン |
(?〜202?) |
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袁尚の将。鍾繇の甥《龐悳伝》。 建安七年(二〇二)春、曹操が袁紹を破ったのち黄河を渡って袁尚を討伐したとき、袁尚は匈奴南単于呼廚泉をそそのかして叛乱を起こさせ、河東郡の平陽城を占拠させた。司隷校尉鍾繇が諸軍を統率してこれを包囲したが、まだ陥落しないうち、袁尚は郭援を河東太守に任じて幷州刺史高幹らとともに数万の軍勢で河東に侵入させた。さらに袁尚は馬騰・韓遂らともに密かに通謀していた《鍾繇・張既伝》。 鍾繇配下の諸将は撤退すべきだと主張したが、鍾繇は「それは戦う前に負けを取る考えだ。郭援は強情で負けず嫌いだから我が軍を侮っているはずだ。もし彼らが汾水を渡って陣営を築こうとしたら、渡りきらないうちに攻撃すれば大勝利を得られるだろう」と聞き入れず、郭援らを撃破するよう新豊県令張既・傅幹に馬騰を説得させた。馬騰は説得に応じて子馬超に一万人余りの軍勢を率いさせて鍾繇に合力させた《鍾繇・張既伝》。 郭援らは平陽城を目指して進軍し、道中すべての城を降伏させた。しかし絳邑に到達したとき、絳邑の県長賈逵は城に楯籠って抵抗し、郭援は呼廚泉を呼び出して両軍で激しく攻め立てた。絳の父老は賈逵を殺害しないよう郭援に請願した。絳が潰滅したとき、郭援は賈逵の名声を聞いていたので将軍に取り立てようと思い、武器で彼を脅迫したが、賈逵は「国家の長吏が賊に土下座できるか」と怒鳴った。郭援が彼を殺そうとすると、絳の官民が城壁に登って「約束が違うぞ」と叫び、郭援の側近も賈逵が義士であると考えて赦免を請願した《賈逵伝》。 賈逵は皮氏が郡の要衝であり、先に占拠したほうが勝つと見ていた。そこで郡治(安邑)に使者を送って「急いで皮氏を押さえよ」と告げた。郭援のほうでも絳の軍勢とともに皮氏に進軍しようとしていたが、賈逵が計略を用いて郭援の参謀祝奥を混乱させたので、郭援軍は七日間の足止めをくらった。河東郡の軍勢は賈逵の言葉に従って先に皮氏を占拠したので、敗北を免れた《賈逵伝》。 郭援は汾水を前にすると、鍾繇らを軽視し、諸将の諫言を聞き入れずに渡河しようとした。まだ半分しか渡りきらないうちに鍾繇軍の攻撃を受けた《鍾繇伝》。馬騰軍の先鋒龐悳は郭援の顔を知らなかったが、乱戦の中で自ら郭援の首を斬った《龐悳伝》。高幹・呼廚泉は降伏した《張既伝》。 鍾繇の軍中では、郭援が戦死したはずなのに彼の首が見つからないと言い合っていた。龐悳が遅れて帰陣し、鞬(ゆぎ)の中から首一つを出すと、それを見た鍾繇は大声で泣いた。郭援が鍾繇の甥だったからである。龐悳が謝罪すると、鍾繇は「郭援は我が甥だが国賊である。卿はなぜ謝るのだ?」と言った《龐悳伝》。 【参照】袁尚 / 袁紹 / 賈逵 / 韓遂 / 呼廚泉 / 高幹 / 祝奥 / 鍾繇 / 曹操 / 張既 / 馬超 / 馬騰 / 傅幹 / 龐悳 / 安邑県 / 河東郡 / 絳邑 / 司隷 / 新豊県 / 皮氏県 / 汾水 / 幷州 / 平陽侯国 / 黄河 / 県長 / 県令 / 刺史 / 司隷校尉 / 太守 / 匈奴 / 単于 / 長吏 / 謀人(参謀) |
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カクシ |
(?〜197) |
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張掖の人。「郭氾」とも書き、また別名を「郭多」という《董卓伝・後漢書同伝》。 郭汜は董卓の校尉となり、李傕・張済らとともに牛輔に属して陝に駐屯し、中牟で朱儁を破ったのち、軍勢を出して陳留・潁川の諸県を荒らしまわっていた《董卓伝・後漢書朱儁伝》。 初平三年(一九二)四月、董卓が司徒王允・呂布らに殺され、牛輔も部下に殺されると、郭汜らは軍勢を解散して郷里に帰ろうとしたが、賈詡が「諸君らが一人で行くなら一介の亭長でも捕まえられるぞ。軍勢をまとめて長安を攻撃し、董公(董卓)の敵討ちをするのがよろしい」と告げると、郭汜らはこれに賛同した《董卓・賈詡伝》。 郭汜らは長安に向かって西上しながら、みちみち軍勢を拾い集め、長安に着くころには十万人以上にふくれあがった。やはり董卓の部曲であった樊稠・李蒙・王方ら、また楊定・胡軫も合流して長安を包囲した《董卓伝・後漢書同伝》。郭汜は長安城を北側から攻撃していたが、呂布が軍勢を押し出して「軍勢を下げよ。一対一で勝負しよう」と言ったので、これに応じて呂布と戦い、矛を突き立てられたが、部下に助けられた《呂布伝》。 六月、十日間の戦闘で長安は陥落し、郭汜は李傕らとともに入城し、多くの高官を殺害した。天子が王允とともに宣平門に昇ったのを見て平伏し、「何をしようとしているのか?」との下問に、「董卓の敵討ちをしたいだけで、叛逆するつもりはございませぬ」と答えた。王允は進退窮まって城門から降りたが、郭汜は王允を一族十人あまりとともに殺害した《董卓伝》。 こうして大赦令を出させ、李傕は揚武将軍、郭汜は揚烈将軍、樊稠らは中郎将を自称した。郿城で董卓の葬儀を行ったのち、九月、さらに李傕は車騎将軍・池陽侯・領司隷校尉・仮節となり、郭汜は後将軍・美陽侯、樊稠は右将軍・万年侯となり、朝政を専断した。張済は鎮東将軍・平陽侯となって陝に駐屯している《董卓伝・後漢書同伝》。 興平元年(一九四)三月、馬騰・韓遂らが長安に攻め寄せると、郭汜は樊稠・李利らとともに長平観で迎撃し、一万人余りを斬った。八月、樊稠とともに馮翊郡の羌族を撃破した。帰還すると郭汜・樊稠も開府の資格を加えられ、人事選抜にも参与するようになった《後漢書献帝紀・同董卓伝》。 李傕はしばしば郭汜を招いて酒宴を開くことがあったが、郭汜を陣営に宿泊させて帰さないこともあった。郭汜の妻は、郭汜が李傕から婢妾を与えられて自分への愛が奪われるのではないかと思い、二人を仲違いさせようとした。李傕から食膳が贈られたとき、妻は味噌をこねて薬に見せかけ、郭汜が食べようとしたとき取り出して見せた。「一つの巣に二羽の雄鳥は並び立ちません。将軍が李公を信頼なさるのを疑っておりました」という妻の言葉を聞いた郭汜は、後日、李傕に招かれて泥酔し、毒薬を飲まされたのではないかと疑った。こうして二人は仲違いした《董卓伝》。 翌二年三月、郭汜は自分の陣営に天子を引き入れようと計画したが、配下の者が逃亡して李傕に告げたので、李傕は兄の子李暹に天子を脅迫して連れてこさせ、北塢に軟禁した。天子は大尉楊彪・司空張喜ら十人余りを使者として二人を和解させようとしたが、郭汜の方でも彼らを拘束し、李傕を攻撃しようと計画した。楊彪に「一方は天子を誘拐し、一方は公卿を人質にする。なんでそんなことをするのだ」と言われたので、郭汜は激怒して彼を殺そうとしたが、中郎将楊密たちが諫めたので手を止めた《董卓伝》。 四月、李傕の部将張苞・張龍は郭汜と通謀しており、夜間、郭汜の軍勢が李傕陣営を攻撃すると、家屋に放火して軍勢を迎え入れた。郭汜軍が放った矢は天子の御簾の中まで飛んできた《後漢書董卓伝》。 天子は謁者僕射皇甫酈を使者として李傕・郭汜を和解させようとした。郭汜はその勅命を受け入れたが、李傕は「郭汜は馬泥棒に過ぎないのに、どうして吾らと一緒になろうとするのか。それに郭汜は公卿を誘拐してるではないか」と言い、皇甫酈が「郭汜は張済・楊定らと通謀し、政府高官も頼りにしております」と言うのも聞き入れなかった《董卓伝》。 郭汜と李傕はお互いに何ヶ月にも渡って攻撃しあい、死者は一万人を越えた《董卓伝》。 李傕は楊奉・宋果らの叛乱によって衰退したので、六月、陝から上京してきた張済の仲介によって郭汜と和解し、弘農の曹陽亭に駐屯した。七月、天子は洛陽に帰還したいと思い、即日長安を出立することにした。宣平門の橋を渡ろうとしたとき、郭汜の手勢数百人が行く手を遮って「これは天子か?」と問うた。天子が「なぜ至尊に迫ろうとするのだ?」と言ったので、郭汜の手勢は道を開けた《董卓伝》。 張済は驃騎将軍となって陝に帰還し、郭汜も車騎将軍に昇進した。八月、御車は郭汜・楊定・楊奉・董承らに守られて新豊・霸陵のあたりに到達したところ、郭汜は再び天子を誘拐して郿に遷そうと計画したが、楊奉・楊定・董承はそれに反対した。十月、郭汜は部将五習に御車のある場所を焼き討ちさせたが、楊奉が天子を陣営に迎え入れて迎え撃ったので、郭汜は敗走して南の山に入った《董卓伝・後漢書献帝紀・同董卓伝》。 李傕もまた天子を手放したことを後悔していたので、郭汜と手を結んで一緒に追いかけていった。張済も楊奉・董承と仲違いし、李傕・郭汜に合流し、十一月、弘農の東の谷間で戦闘となった。楊奉は白波賊の韓暹・胡才・李楽らを迎え入れて迎撃させたが、十二月、弘農の曹陽亭で大合戦のすえ敗北した。李傕・郭汜らは兵士を放って公卿百官を殺し、宮女を誘拐した。《董卓伝・後漢書同伝》。 御車が陝から黄河を渡って安邑に到達すると、太僕韓融は弘農に赴き、李傕・郭汜らと講和し、公卿百官・宮女および車馬数乗を返還させた《董卓伝》。 建安二年(一九七)、李傕は謁者僕射裴茂に誅殺され、郭汜も部下の五習に襲われて郿城で死んだ。張済は南陽で略奪を働いたため住民に殺害された《董卓伝》。 【参照】王允 / 王方 / 賈詡 / 韓遂 / 韓暹 / 韓融 / 牛輔 / 五習 / 胡才 / 胡軫 / 皇甫酈 / 朱儁 / 宋果 / 張喜 / 張済 / 張苞 / 張龍 / 董承 / 董卓 / 馬騰 / 裴茂 / 樊稠 / 楊定 / 楊彪 / 楊奉 / 楊密 / 李楽 / 李暹 / 李傕 / 李蒙 / 李利 / 劉協(天子) / 呂布 / 安邑県 / 潁川郡 / 黄河 / 弘農郡 / 新豊県 / 陝県 / 宣平門 / 曹陽亭 / 中牟県 / 池陽県 / 長安県 / 張掖郡 / 長平観 / 陳留郡 / 南陽郡 / 霸陵県 / 郿県 / 美陽県 / 馮翊郡 / 平陽県 / 北塢 / 万年県 / 洛陽県 / 右将軍 / 謁者僕射 / 仮節 / 侯 / 校尉 / 後将軍 / 司空 / 司徒 / 司隷校尉 / 車騎将軍 / 大尉 / 太僕 / 中郎将 / 鎮東将軍 / 亭長 / 驃騎将軍 / 白波賊 / 府 / 領 |
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カクショウ |
(?〜?) |
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袁尚の将。射声校尉《檄呉将校部曲文》。 建安九年(二〇四)二月、袁尚は審配・蘇由を鄴の守備に残し、自ら平原の袁譚を討伐した。その留守を衝いて曹操が鄴城を包囲したため、七月、袁尚は鄴の城外まで引き返したが、曹操の逆包囲を恐れて逃走する。このとき曹操が追撃しようとすると、郭昭は矛を交える寸前、馬延・張顗・陰夔らとともに降服した。そのため袁尚軍は大潰滅する《武帝紀・袁紹伝・檄呉将校部曲文》。 |
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カクソ |
(?〜?) |
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袁紹の将。海賊。 泰山には人々が混乱を避けて隠れ住んでいると言われていたが、郭祖は袁紹から中郎将の官職をもらって泰山に楯籠り、公孫犢らとともに百姓たちを苦しめていた。泰山太守呂虔は家子郎党を率いて着任すると恩愛と信義を示したので、郭祖らは彼に帰服した《呂虔伝》。 郭祖は海賊として楽安・済南の郡境を横行し、州郡の人々を苦しめていたが、曹操は何夔が長広太守だったとき威信があったことを見ていたので、彼を楽安太守に任命した。何夔が着任して数ヶ月のあいだに諸県は全て平定された《何夔伝》。 のちに群臣が尊号を奉る上奏をしたとき、「屯騎校尉・都亭侯の臣祖」が名を連ねているが、郭祖のことではないかと考えられている《呂虔伝集解》。 【参照】袁紹 / 何夔 / 公孫犢 / 曹操 / 呂虔 / 済南国 / 泰山 / 泰山郡 / 長広郡 / 楽安国(楽安郡) / 太守 / 中郎将 / 都亭侯 / 屯騎校尉 / 家兵(家子郎党) / 海賊 / 上尊号奏(尊号を奉る上奏) |
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カクト |
(?〜205) |
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字は公則《後漢書袁紹伝》。潁川の人《荀彧伝》。 南陽の陰脩は潁川太守になると賢明英俊たる者を役職に就けた。五官掾張仲を方正に、功曹鍾繇・主簿荀彧・主記掾張礼・賊曹掾杜祐・孝廉荀攸・計吏郭図を官吏として推挙し、朝廷を輝かせた《鍾繇伝》。 初平元年(一九〇)、冀州牧韓馥が同郡の荀彧を呼び寄せた。荀彧が宗族を連れて冀州に行ったとき、すでに袁紹が韓馥の官位を奪い取っていた。袁紹は上賓の礼をもって荀彧を待遇し、荀彧の兄荀諶、同郡の辛評・郭図もみな任用された。しかし荀彧は袁紹が大事をなすことができないとみて、翌二年に立ち去った《荀彧伝》。郭嘉もまた袁紹に拝謁していたが、辛評・郭図に「袁公は周公の士にへりくだるのを真似ておいでだが、人を任用する機微を知らぬ。ともに天下の大問題を片付け、霸王の業を完成させるのは難しかろう」と告げて去っている《郭嘉伝》。 おそらく郭図は荀彧らとともに韓馥に招かれていたのだろう。韓馥を説得して冀州牧の座を袁紹に譲らせたのは郭図であるが、荀彧が到着したときには既に袁紹が立っていた。郭図の方が一足早く到着していたことになる。 同二年、袁紹は張導・郭図・高幹らに韓馥を説得させ、冀州を袁紹に譲らせている《臧洪伝・後漢書同伝》。 興平二年(一九五)冬、天子が曹陽で追い詰められていると聞き、沮授が天子を迎え入れて鄴を都とすべしと主張した。郭図は淳于瓊とともに「漢室は衰退して日が長く、今さら復興させようとしても困難ではありますまいか。いま天子をお迎えすれば行動するたびに上表することになりますが、それを遵守すれば権威が軽くなり、それに違背すれば命令に背いたことになります。よい計略ではございません」と反対した。もともと帝が即位したのも袁紹の本意ではなかったので、結局見送ることになった《袁紹伝注・後漢書同伝》。 郭図が使者となって天子のもとに遣わされ、帰ってくると、天子を迎えるべきと袁紹を説得したという説があり《袁紹伝》、どちらが正しいか分からない。沮授は当初より天子奉迎を計画していたため、ここでは沮授の計略として採用する。 建安五年(二〇〇)、袁紹が大軍を催して許を攻撃せんとしたとき、沮授・田豊は「まず黎陽に進出してゆっくり黄河南岸に漸進し、艦船を建造して兵器を修繕するとともに、精鋭の騎兵を分遣して辺境を荒らさせて彼らを不安に陥れます。我らが十全の力をもってすれば、三年のうちに平定できるでしょう」と主張したが、郭図は審配とともに「兵書に十倍なら囲み、五倍なら攻め、互角なら全力で戦うとあります。いま明公の神武、河北の強兵をもって曹氏を討伐しており、その勢いは掌を返すが如きもの。今すぐ取らねば、のちのち狙いにくいことになりましょうぞ」と反対した《袁紹伝・後漢書同伝》。 沮授「混乱を救って暴虐を伐つのを義兵、多勢を当てにして精強を頼むのを驕兵と言います。義は無敵ですが、驕った方は先に滅びます。曹操は天子を奉迎して許都に宮殿を建てているのですから、いま軍勢をこぞって南進するのは義に背いているのです。それに勝利を決する策は強弱にあるのではない。曹操の軍令は行き届き、士卒はよく訓練されている。公孫瓚が手をこまねいて包囲を受けたのとは違いますぞ。いま万全の策を棄てて名分のない軍を起こしたことは、密かに公のために危惧されるところです」、郭図ら「武王が紂を討伐したのを不義とは言わぬ。ましてや曹操に軍勢を差し向けるのを名分なしと言うか!それに公の軍は精強で、臣は尽力し、将兵は憤怒して全力を出しきろうとしている。時機に応じて速やかに大事業を完成しようとしないのは、熟慮による失敗です。そもそも天の与うるを取らざればかえって咎を受くもの。これこそ越が霸を唱え、呉が亡んだ所以です。監軍(沮授)の計略は堅牢さを求めるものですが、時機を察知して変化する計略ではありません」。袁紹はこれを採用した《袁紹伝・後漢書同伝》。 郭図はことについでに沮授を讒言した。「沮授は内外を総監して威勢は三軍を震わせております。つけ上がってきたならどうやって制御なさるのですか?そもそも臣下が主君に同意すれば栄え、主君が臣下に同意するようになれば亡ぶもので、これは黄石公の嫌うところです。ましてや外部で軍勢を統御させているのですから内部に干渉させてはなりませぬ」。袁紹は沮授を疑うようになり、監軍職を分割して三都督とし、沮授および郭図・淳于瓊にそれぞれ一軍づつ仕切らせることにした《袁紹伝・後漢書袁紹伝》。 「臣下が主君と等しくなければ栄え、主君が臣下と等しければ亡ぶ」あるいは単に「臣下が主君と等しくなれば亡ぶ」とする説がある。主語の入れ替えがあることから上を正しいとみた。郭図の指摘にはなんら不審な点はなく、いたって正当な発言だと言えるだろう。郭図には讒言者のイメージが強いが、実際にはこの沮授の件と張郃との二例だけである。しかもどちらの説も疑わしい。郭図は讒言していないと結論したい。 二月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を派遣して白馬を包囲させたが、顔良が曹操に斬られると、袁紹は黎陽から黄河を渡って延津の南に塁壁を築いた。このとき沮授が病気を口実に渡河しようとしなかったので、袁紹は許可を下さず、彼を恨んでその手兵を郭図の手に編入した《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。 白馬包囲は顔良単独によるものとの説があるが《袁紹伝》、これは顔良の敗北を予知したという沮授を美化するためのものとみて採用しない。 袁紹は淳于瓊をやって兵糧輸送車を護送させていたが、曹操は彼が烏巣にいると聞いて奇襲を企てた。袁紹の将張郃が言った。「曹公の軍勢は精強ですから行けば必ず淳于瓊を破ります。淳于瓊が破られれば将軍の事業はおしまいですぞ」、郭図「張郃の計略はまずい。奴らの本営を攻撃するに越したことはなく、情勢からいって必ず引き返します。これぞ救わずして自ずと解くというものであります」、張郃「曹公の陣営は堅固であり、これを攻撃してもきっと陥落させられますまい。もし淳于瓊らが生け捕りになったら、吾らも残らず捕虜になってしまいましょうぞ」。袁紹はただ軽騎兵だけを派遣して淳于瓊を救わせ、そして重装兵でもって曹操の陣営を攻撃したが、陥落させられなかった。曹操は果たして淳于瓊らを打ち破り、袁紹軍は潰滅した。郭図は恥ずかしく思い、また改めて張郃を讒言した。「張郃は軍の敗北を喜び、吐く言葉も不遜です」。張郃は恐怖し、そこで曹操のもとに身を寄せた《張郃伝》。 裴松之の指摘するように、『張郃伝』では袁紹軍の敗北のあと張郃が降服したとし、『武帝紀』『袁紹伝』では張郃らが降服したため袁紹軍が敗北したとする矛盾がある。張郃の経歴を美化するため、『張郃伝』側が作り話をしたという見方が有力《張郃伝集解》。よって郭図の讒言は存在しなかったことになる。 袁紹が官渡で敗北すると、審配の子息二人が曹操に捕らえられた。審配と仲が悪かった孟岱は、蔣奇に意を含めて袁紹に伝えさせた。「審配は専政できるほどの位にあり、宗族は多くて軍勢も強い。しかも子息二人が南方にいるのです。必ず叛意を抱きましょうぞ」、と。郭図・辛評もまたその通りだと主張した。袁紹はかくて孟岱を監軍とし、審配の後任として鄴を守らせたのである。しかし護軍の逢紀は審配と仲が悪かったが、彼のために取りなしてやって審配を復帰させた《後漢書袁紹伝》。 七年夏、袁紹は薨去したが、跡継ぎを決めていなかった。逢紀・審配は袁尚と親しく、かねて驕慢・贅沢さを袁譚に疎まれており、辛評・郭図はみな袁譚と親しく、審配・逢紀とは仲が悪かった。人々は袁譚が年長ということで擁立したく思っていたが、審配らは袁譚が立てば辛評らに危害を受けるだろうと恐れ、ついに袁紹の遺命を偽作して袁尚を後継者に立てた。袁譚は到着しても後継者になれず、車騎将軍を自称して黎陽に屯した。これにより袁譚・袁尚は仲違いした《袁紹伝・後漢書袁紹伝》。 曹操が黄河を渡って黎陽を攻撃すると、袁譚は袁尚に危急を告げた。袁尚は審配を鄴の守備に残し、自ら袁譚を救援し、力を合わせて曹操と対峙した。九月から翌年二月まで城下で大戦が続き、袁譚・袁尚は敗退した《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。曹操軍の諸将は勝利に乗じて攻め込もうと主張したが、郭嘉が「袁紹は二人の子を愛して嫡子を立てなかった。郭図・逢紀が彼らの謀臣となっており、そのうち抗争が始まるに違いない。追い詰めれば助け合うだろうが、泳がせれば争いの心が生ずるだろう」と言うので、曹操は南方へ引き揚げた《郭嘉伝》。 袁譚は「我が軍の甲冑が精巧でないため曹操に負けたのだ。いま曹操軍は撤退しようとして兵士どもは帰郷の念にかられている。彼らが渡河を終えぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ。この機会を失ってはならん」と袁尚に告げたが、袁尚は彼を疑い、軍勢を貸すことも甲冑を換えてやることもしなかった。郭図・辛評は激怒する袁譚に告げた。「先公(袁紹)が将軍を外に出して弟を先にしたのは、みな審配の差し金ですぞ」。袁譚はその通りだと思い、そのまま軍勢を率いて袁尚を攻め、外門において戦ったが、敗北して南皮に帰還した《後漢書袁紹伝》。 郭図は言った。「いま将軍の国土は小さく軍勢は少なく、兵糧は底を突いて勢力も弱い。顕甫(袁尚)が来れば長く戦うことはできませんぞ。愚考するに、曹公を呼び出して顕甫を攻撃させるがよろしいでしょう。曹公が来ればまず鄴を攻めるはず。顕甫が救援に戻れば、将軍は軍勢を率いて西進し、鄴以北をみな獲得することができます。もし顕甫が敗北してその軍勢が逃亡してくれば、拾い集めて曹公と対峙することもできましょう。曹公は兵糧を遠方に頼っており、兵糧が続かねば必ず自分から逃走します。さすれば趙国以北はみな我らが領有となり、やはり曹公と対峙するに充分です」。袁譚ははじめ受け入れなかったが、後になって聞き入れた。郭図は曹操への使者として辛毗を推薦した《辛毗伝》。 荊州牧劉表は、袁兄弟が仲違いしていると聞き、和解の手紙を王粲に書かせた。「変事は辛・郭より起こされ、災禍は同胞にもたらされたと聞いております」、と《後漢書袁紹伝》。また審配も袁譚に手紙を書き、「どうして凶悪な臣下郭図なぞに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか」と告げ《後漢書袁紹伝》、あなたのために郭図を取り除きたいのだと言った《袁紹伝》。袁譚はその手紙を受け取ってしょんぼりとし、城郭に登って泣いた。しかし郭図に拘束され、たびたび矛先を交えていたため、結局戦闘は止まなかった《袁紹伝》。 『三国志』袁紹伝では「凶悪な臣下」を逢紀のこととするが、こちらの方が原文に近いようだ《袁紹伝集解》。 九年十二月、曹操は平原に進出して袁譚を討伐し、その軍門で戦おうとしたが、袁譚は出撃せず、夜中に南皮へと逃走した。袁譚は清河の流れを前にして屯した。翌年正月、曹操はこれを急襲した。袁譚は出撃しようとしたが、なかなか軍勢が集合しなかったため破られた。こうして袁譚・郭図らは斬られ、その妻子は処刑された《後漢書袁紹伝》。 【参照】陰脩 / 殷紂王(紂) / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 王粲 / 郭嘉 / 韓馥 / 顔良 / 公孫瓚 / 高幹 / 黄石公 / 周公旦(周公) / 周武王(武王) / 荀彧 / 荀諶 / 荀攸 / 淳于瓊 / 蔣奇 / 審配 / 沮授 / 鍾繇 / 辛毗 / 辛評 / 曹操 / 張郃 / 張導 / 張礼 / 田豊 / 杜祐 / 逢紀 / 孟岱 / 劉協(天子) / 劉表 / 烏巣 / 潁川郡 / 越 / 延津 / 外門 / 河北 / 官渡 / 冀州 / 許県(許都) / 鄴県 / 荊州 / 呉 / 黄河 / 清河 / 曹陽亭 / 趙国 / 南皮県 / 南陽郡 / 白馬県 / 平原郡 / 黎陽県 / 監軍 / 計吏 / 功曹 / 孝廉 / 五官掾 / 護軍 / 車騎将軍 / 主記掾 / 主簿 / 賊曹掾 / 太守 / 都督 / 方正 / 牧 / 上賓之礼 |
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カクショウ |
(?〜?) |
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南陽の人《董允伝》。字は「演長」と見られている《廖立伝集解》。 郭攸之は器量と学業によって名を知られ、中郎から侍中へと昇進した《董允・廖立伝》。丞相諸葛亮は北伐のために漢中へと赴くにあたり、上疏して述べた。「侍中の郭攸之・費禕、侍郎の董允らはみな実直で、心は純粋です。これは先帝が陛下のために選抜してお遺しになった者たちです。国益を計算して見極め、忠言を尽くすことこそ、彼らの任務です。宮中の事柄は大小の区別なく彼らとご相談ください。必ずや遺漏を補って利益をもたらしてくれるでしょう。もし盛徳を高める言葉がなければ、すぐさま処刑してその怠慢を明らかにしてくださいませ。」《諸葛亮・董允伝》 同じく侍中であった董允が公明正大であったのに対し、郭攸之は人なつこい性格であったので、ただ定員を埋めるだけでしかなかった。そのため侍中から長水校尉へと左遷された廖立は「中郎の郭演長は他人の言いなりになるだけで、ともに大事を計るには不足しているのに、それが侍中になっている」と激しく非難している《董允・廖立伝》。 【参照】諸葛亮 / 董允 / 費禕 / 劉禅(陛下) / 劉備(先帝) / 廖立 / 漢中郡 / 南陽郡 / 侍中 / 丞相 / 侍郎 / 中郎 / 長水校尉 |
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カクド |
(?〜205) |
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涿郡故安の人《武帝紀》。 建安十年(二〇五)四月、趙犢とともに幽州刺史・涿郡太守を殺害、その年の八月、曹操に斬られた《武帝紀》。 このとき殺された幽州刺史は焦触ではないようである。名は伝わっていない。 |
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ガクカトウ |
(?〜?) |
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公孫瓚の義弟《公孫瓚伝》。 もともと大店の主であったが、劉緯台・李移子とともに公孫瓚に寵愛され、義兄弟の契りを結ぶ。凡庸であったが、公孫瓚の寵愛を嵩にきて勝手気ままに振る舞い、巨万の富を築いた。お互いに女を自分の息子の嫁に迎え、自分たちを曲周侯・灌嬰になぞらえていた《公孫瓚伝》。 |
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ガクチン |
(?〜257) |
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陽平衛国の人。楽進の子、楽肇の父《楽進伝》。 楽綝は剛毅果断にして父親同等の風格を備えており、父が亡くなるとその家業を継いだ《楽進伝》。 正元二年(二五五)正月、鎮東大将軍毌丘倹・揚州刺史文欽が反乱を起こしたので、二月、大将軍司馬師が歩騎十万人余りを率いてその鎮圧に当たることになった。文欽の子文鴦が騎兵十人余りとともに突出してきたため、司馬師は引き下がり、左長史司馬璉に騎兵八千を授けて背後を襲わせ、将軍楽綝らに歩兵を預けてそれを援護させた。沙陽に到着するなり文欽陣営は陥落し、文欽父子は旗下を連れて呉へと亡命した《晋書景帝紀》。 甘露二年(二五七)五月、鎮東大将軍諸葛誕が中央に徴されて司空に任命されたが、諸葛誕は「我が三公になるのは王文舒の次のはずだ。しかも使者を出さずに兵士に辞令を届けさせているし、軍勢を楽綝に委ねよと言うておる。これは楽綝の仕業だろう」と考え、側近数百人を連れて揚州(の役所)へ押し寄せた《諸葛誕伝》。 同月六日、揚州刺史楽綝は城門を閉ざしたが、諸葛誕は南門から「洛邑へ帰るついでに散歩しておるだけなのに、なぜ門を閉ざすのかね?」と言いながら東門に回った。兵士に城壁を登らせたり城門を攻めさせたりしたので、城兵はみな逃げ去った。諸葛誕が番人を叱りつけて門をくぐったので、楽綝は城郭の矢倉に逃げこんだが、結局、斬られてしまった《諸葛誕伝》。 諸葛誕はこのとき、上表して「楽綝は嘘ばかり言っていて、臣が呉とやり取りをしているとか、詔勅により臣の後任になったなどと申しました。それゆえ臣は国家の命令を奉じ、今月六日に楽綝を討伐し、その日のうちに斬首いたしました次第です」と述べている《諸葛誕伝》。 帝は詔勅により哀悼の辞を述べ、衛尉の官職を追贈し、愍侯と諡した《楽進伝》。 【参照】王昶(王文舒) / 楽進 / 楽肇 / 毌丘倹 / 司馬師 / 司馬璉 / 諸葛誕 / 曹髦(帝) / 文俶(文鴦) / 文欽 / 衛公国 / 呉 / 沙陽 / 揚州 / 陽平国 / 雒陽県(洛邑) / 衛尉 / 左長史 / 司空 / 刺史 / 大将軍 / 鎮東大将軍 / 愍侯 / 諡 |
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カンテン |
(?〜201) |
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字は公雅。桓焉の孫、桓栄の玄孫にあたる。沛国龍亢の人《後漢書桓栄伝》。 桓典は十二歳のとき父母を失い、実母のように叔母に仕えた。潁川において『尚書』の講義を開き、門徒は数百人に上った。清廉節操を心がけ、他人から物を受けとることはなく、門生故吏が挨拶の品を贈ったときも、いちども受けとっていない《後漢書桓栄伝》。 孝廉に推挙されて郎となった。ほどなく沛相の王吉が罪科に問われて処刑され、知人や親戚でさえ引きとりに行く者がなかったが、桓典だけは官職を捨てて遺体を引きとり、故郷に埋葬してやって三年間の喪に服し、土砂を背負って墳墓を作り、祠堂を建立し、祭礼を尽くしてから帰った《後漢書桓栄伝》。 司徒袁隗の役所に招かれて高第に推挙され、侍御史を拝命した。そのころは宦官どもが権力を握っていたが、桓典は政務にあたって全く遠慮することがなかった。いつも蘆毛の馬を乗りまわし、京師の人々に「行っては止まれ、行っては止まれ、蘆毛の御史どのを避けよ」と畏れられた《後漢書桓栄伝》。 黄巾賊が滎陽で蜂起すると、桓典は勅命をこうむって軍勢を都督した。賊軍を打ちやぶって帰還したが、宦官に楯突いたため恩賞は下されなかった。御史に七年間も在職したが、昇進の沙汰はなく、のちに出向して郎となった《後漢書桓栄伝》。 在職を十年とする史書もある《後漢書桓栄伝注》。 霊帝が崩御すると、大将軍何進が政権を握った。桓典は何進とともに(宦官誅殺の)謀議をこらし、平津都尉、鉤盾令をへて羽林中郎将に昇進した。献帝が即位すると、三公たちが「桓典はかつて何進とともに宦官誅殺を計画いたし、功績は立てられなかったものの、忠義は顕著でございます」と上奏したので、詔勅により家族の一人が郎に取りたてられ、二十万銭が下賜された《後漢書桓栄伝》。 (献帝の)西上に随行して関中に入り、御史中丞を拝命、関内侯の爵位を賜った。御車が許に行幸したとき、光禄勲に昇進する《後漢書桓栄伝》。曹操は司空になったとき自分の後任として趙岐を推挙したが、桓典は少府孔融とともにこれを支持し、そのおかげで趙岐は太常に任命された《後漢書趙岐伝》。 建安六年(二〇一)、在職のまま卒去した《後漢書桓栄伝》。 【参照】袁隗 / 王吉 / 何進 / 桓栄 / 桓焉 / 孔融 / 曹操 / 趙岐 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 潁川郡 / 関中 / 許県 / 滎陽県 / 沛国 / 雒陽県(京師) / 龍亢県 / 羽林中郎将 / 関内侯 / 御史中丞 / 鉤盾令 / 高第 / 孝廉 / 光禄勲 / 三公 / 侍御史 / 司空 / 司徒 / 相 / 少府 / 大将軍 / 太常 / 督軍 / 平津都尉 / 郎 / 尚書 / 宦官 / 黄巾 / 府(役所) / 門生故吏 |
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カンヨウ |
(?〜?) |
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字は文林。桓鸞の子、桓良の孫、桓典の又従弟にあたる。沛国龍亢の人《後漢書桓栄伝》。別名を「厳」あるいは「礹」とも「儼」ともいった《後漢書桓栄伝・同集解》。 志操節義を修めることにかけては際だっていた。姑(おば)は司空楊賜の夫人となっていたが、桓曄の父桓鸞が卒去したとき、姑は葬儀に参列すべく帰郷し、到着の間際、駅舎に立ちよって従者におめかしをさせ、それから入城した。桓曄は内心それには批判的で、姑が弔辞を述べても返答せず、ただひたすら号泣を挙げるだけであった。楊賜は役人をやって祭祀を行わせたが、県を通じて祭祀の道具を取りあげようとしたが、桓曄は拒絶して受けいれなかった《後漢書桓栄伝》。 後年、たびたび京師へ出かける用事があったが、いちども楊氏のもとで宿泊することはなかった。その貞節ぶりはこれほどだったのである。賓客や従者たちも、みながその立派な行動を見習い、他人からは一飯の恩義ですら受けとることはなかった《後漢書桓栄伝》。 出仕して郡の功曹となり、のちに孝廉・有道・方正・茂才に推挙された。三公は揃って招聘したが、いずれにも応じなかった。 初平年間(一九〇〜一九四)、天下が混乱したので会稽へ避難することにした。呉郡を通ったとき、揚州刺史劉繇が役所の倉庫を開いて食料・衣服で不足するものを提供したが、なにも受けとらなかった。さらに東進して会稽の山陰県へ行き、故(もと)の魯相である鍾離意の屋敷に宿泊した。太守王朗が食料・絹・牛羊を提供したが、ひとつも受けとらなかった。立ち去るとき、屋敷にあったものはどんなに些細なものでもすべて残らず主人に返した《後漢書桓栄伝》。 住まいを揚州従事屈予の部屋に移した。中庭に一株の蜜柑の木があって、ちょうど実の熟すころであったが、木の四方に竹垣を作り、風が吹いて二つの実が落ちると、繩でもって枝につるして止めた。危急存亡のときでさえ、その節操はますます強固になるので、賓客や従者たちはみな、その行動に粛然とするのであった《後漢書桓栄伝》。海をわたって交阯に仮住まいすると、越の人々はその節義に感化され、村里においても訴訟沙汰を起こさなくなった《後漢書桓栄伝》。 邪悪な人間によって誣告され、合浦の獄中で死去した。 【参照】王朗 / 桓典 / 桓鸞 / 桓良 / 屈予 / 鍾離意 / 楊賜 / 劉繇 / 越 / 会稽郡 / 合浦郡 / 呉郡 / 交阯郡 / 山陰県 / 沛国 / 揚州 / 雒陽県(京師) / 龍亢県 / 魯国 / 功曹 / 孝廉 / 三公 / 司空 / 刺史 / 従事 / 相 / 太守 / 方正 / 茂才 / 有道 / 橘(蜜柑) |
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カンガイ |
(?〜?) |
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黄巾賊《太史慈伝》。 初平二年(一九一)、北海国の相孔融は黄巾賊を討伐せんと都昌に入城したが、そこで賊将管亥の包囲を受けた。城内に孔融の恩義を蒙っていた太史慈という者がいて、二人の騎兵を連れて城外に出た。包囲陣の兵士たちが驚いて兵馬を繰り出すと、太史慈は馬首を返して堀の内側に入り、騎兵に持たせていた標的を地面に突き立てた。そしてまた堀を出てその標的を弓矢で射抜き、それから城門に入った《太史慈伝》。 太史慈は翌朝も同じようにして標的を射たが、包囲陣の兵士たちには立ち上がる者もいたし、寝そべったままの者もいた。その翌日も同じように城外に出ると、今度は立ち上がる者はなかった。そこで太史慈は馬を鞭打って包囲陣を突破し、平原に向かい、平原国の相劉備から精鋭三千人を借りて戻ってきたので、管亥らは包囲を解いて逃げ去った《太史慈伝》。 |
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カンショウ |
(?〜?) |
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長広の人。袁譚の将で海賊である《何夔伝》。 長広郡は泰山・東海に面した地域で、黄巾賊もまだ平定されておらず、豪族たちの多くが叛逆して袁譚から官位をもらっていた。管承もそうした者たちの一人で、三千戸余りを手下にして乱妨狼藉を働いていた《何夔伝》。 諸将は管承を攻撃しようとしたが、長広太守何夔は言った。「管承らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、混乱が習性となって自分で戻れなくなっていて、まだ教育を受けていないので善に立ち返ることを知らないのだ。いま軍勢で彼を脅せば、彼は皆殺しにされる事を恐れて力を合わせて戦うだろう。攻撃しても陥落させることは難しく、勝ったとしても官吏・人民を傷付けることになる。恩徳によって静かに教えさとし、自分で反省する余裕を持たせるとよかろう。軍勢を煩わせずとも平定できる」《何夔伝》。 まず郡丞黄珍を派遣して利害について説明させると、管承らはみな降服を願い出た。そこで役人の成弘をやって校尉の職務を受け持たせると、長広県丞らは城外まで出迎え、郡までやってきて牛肉と酒を献上した《何夔伝》。 建安十一(二〇六)年八月、曹操は淳于に軍を進め、楽進・李典を出して管承を攻撃させた。管承は海の向こうの島に逃れた《武帝紀・楽進・李典伝》。翌十二年八月に柳城で蹋頓を破った張郃は、北方から帰還すると東萊郡に入り、管承を討伐した《張郃伝》。 それぞれの事件が起こった年代がはっきりしない。管承が何夔に降服したのち張遼が東萊郡に入っているが《何夔伝》、それは建安十年正月に袁譚が敗死したのち「別働隊として海浜地帯に赴いた」《張遼伝》ときのことのようである。降服後もたびたび攻撃を受けているが理由はわからない。管承が降服したとき、県丞が牛酒を捧げていることを見ると、長広県は一県を挙げて管承に従っていたものと理解できる。 【参照】袁譚 / 何夔 / 楽進 / 黄珍 / 成弘 / 曹操 / 張郃 / 蹋頓 / 李典 / 淳于県 / 泰山 / 長広県 / 長広郡 / 東海 / 東萊郡 / 柳城 / 郡丞 / 県丞 / 校尉 / 太守 / 黄巾賊 |
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カントウ |
(?〜?) |
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袁譚の将。 はじめ青州刺史袁譚のもとで東萊太守を務めていた。袁譚が袁尚と仲違いすると劉詢が漯陰で反旗を翻し、諸城はみな彼に呼応した。袁譚が「いま州を挙げて叛逆しているのはわしの不徳のせいなのか」と歎息すると、別駕従事王脩は「管統は叛きません。必ずやってきます」と言った。十日余りして管統は袁譚のもとに馳せ参じてきたが、郡に残した妻子は叛乱軍に殺されてしまった《王脩伝》。 太守でありながら妻子とともに任地にいたことから、彼は東萊郡の豪族であったと考えられる。おそらく管承とは同族でやはり黄巾賊あがりなのだろう。袁譚は領内に割拠する黄巾賊に官位を授けて手懐けていた《袁紹伝》。 そこで管統は楽安太守に任じられ、王脩も楽安で兵糧輸送にあたることになった。しかし袁譚は王脩の諫めを聞かずに袁尚と争い、曹操に付け込まれることになってしまった。王脩はそれを聞いて高城に駆け付けたが、すでに袁譚は曹操に処刑されていた。このとき諸城はみな曹操に降服していたが、管統だけは楽安城に楯籠っていた。曹操は王脩に袁譚の埋葬を許可するとともに、管統を斬ることを命じた。王脩は彼が亡国の忠臣であることから曹操のもとに出頭させたが、結局曹操は喜んで管統を赦免した《王脩伝》。 「高城」は原文に「高密」とあるのを改めた。高密は北海国に属し楽安の東方にあり、高城は勃海郡に属し北方にある。袁譚は西北方にいたので高城とすべきことがわかる。『集解』でも触れられていない。 【参照】袁尚 / 袁譚 / 王脩 / 曹操 / 劉詢 / 高城侯国 / 青州 / 漯陰県 / 東萊郡 / 楽安国 / 刺史 / 太守 / 別駕従事 |
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カンセイ |
(?〜199) |
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字は士起。太原の人。公孫瓚の長史《公孫瓚伝》。 根っからの酷吏であり、媚びへつらうばかりで長期的な計画など持っていなかった。しかし公孫瓚には格別に信頼、寵愛されていた《公孫瓚伝》。 建安三年(一九八)、袁紹が総攻撃をかけてくると、公孫瓚は黒山賊張燕に救援を求めるとともに、みずから城外の包囲を突破、西山を迂回して袁紹軍の背後を衝こうとした。関靖は「いま将軍の将兵のうち脱走を企てぬ者はおりません。それでも彼らが防戦し続けるのは父や子を思い、将軍を頼りにしているからなのです。このまま堅守していれば袁紹の方から撤退するかも知れないのに、もし彼らを置き去りにして突出なさるならば、城を抑える者がいなくなり、易京を危険に陥れてしまいますぞ」と諫め、公孫瓚の出撃をやめさせた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。 胡三省は、公孫瓚の計略は、下邳における陳宮の計略と同じであるが、いずれも用いられなかったため敗北したのだと指摘している《後漢書公孫瓚伝集解》。 翌四年、公孫瓚は敗北して易京は陥落した。関靖は恨み歎き、「あのとき将軍の出撃を止めなければ失敗することはなかっただろうに。君子たるもの、他人を危険に陥れてしまったなら、その困難を分かち合うものだと聞いている。一人だけ生き延びるわけにはいかぬ!」と言い、馬に鞭打って袁紹軍に突っ込んで死んだ《後漢書公孫瓚伝》。 |
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カンキ |
(?〜?) |
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字は伯彦。広漢郡緜竹の人《華陽国志》。 韓揆は県令錡裒の主簿であった。黄巾賊が緜竹県に入ったとき、韓揆は錡裒の手を引いて草むらに潜んだ。錡裒の命令によって彼が身を隠せるところを探していたが、まだ帰らないうちに、錡裒は賊徒に捕らわれて殺されてしまった。韓揆は錡裒の亡骸を棺に収めて地中に埋め、益州の従事賈龍のもとへ赴き、州兵を借りて賊徒を討伐したいと申し入れた。賊徒を撃破したのち、韓揆は「令君(ちじ)の敵討ちをしたかっただけだ。自分だけが生きているなんて忠義じゃないぞ」と言い、自殺して果てた《華陽国志》。 |
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カンキョシ |
(?〜200) |
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袁紹の臣、騎督《武帝紀》。韓猛と同人ではないかとも考えられている《荀攸伝集解》。 建安五年(二〇〇)十月、袁紹は官渡において曹操軍と対峙していたが、淳于瓊らの五将に軍勢一万人を授け、北方からの輜重車を護送させることにした。淳于瓊が北方へ四十里行った烏巣で宿営をしたところ、曹操が歩騎五千人を率いて夜襲をかけてきた。韓莒子はこの戦いで眭元進・呂威璜・趙叡とともに曹操軍に斬られている《武帝紀・後漢書袁紹伝》。 |
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カンゲン |
(?〜?) |
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建安十三年(二〇八)秋、荊州牧劉表が没すると、その将黄忠は曹操から裨将軍に任じられ、長沙太守韓玄に属して攸県に駐屯した《黄忠伝》。十二月、劉備は周瑜とともに赤壁で曹操を破り、劉琦を荊州刺史に任ずるよう上表したうえ、軍勢を荊州南部に進めると、韓玄は武陵太守金旋・零陵太守劉度・桂陽太守趙範とともに降服した《先主伝》。長沙の督学署に韓玄の墓と祠があるという《黄忠伝集解》。 もし彼が曹操によって北方から派遣された人物で、なおかつ長沙で命を終えたのであれば、降服後すぐさま劉備に殺されたことになるだろう。建安十六年に荊州牧劉備は劉璋に招かれて蜀に入ったが、それ以前、従事廖立を長沙太守に任じている。おそらくこの間に処刑されたのである。あるいはもともと地元の有力者から抜擢された可能性もあり、張羨とも関係があったかも知れない。 【参照】金旋 / 黄忠 / 周瑜 / 曹操 / 趙範 / 劉琦 / 劉度 / 劉備 / 劉表 / 荊州 / 桂陽郡 / 赤壁 / 長沙郡 / 武陵郡 / 攸県 / 零陵郡 / 刺史 / 太守 / 裨将軍 / 牧 / 督学署 / 墓 / 祠 |
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カンコウ |
(?〜?) |
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字は子佩。代郡の人。幽州別駕従事《袁紹伝》。 焦触から任命を受けたとは考えられないので、袁煕時代からの別駕従事なのだろう。 清廉なうえ雅量があり、若くして父母を失うと兄や姉に孝養を尽くしたので、一族の者は孝行者と評判した《袁紹伝》。 建安十年(二〇五)正月、幽州刺史袁煕の大将焦触・張南が袁煕に叛き、焦触は幽州刺史を自称して諸郡の太守・県令を駆り出し、曹操に降ることを決めた。白馬を屠って盟約を固めることとし、「命令に背く者は斬る!」と告げたうえで盃を一同に回していった。 別駕従事韓珩は順番が来ると、「吾は袁公父子のご厚恩を蒙ってまいった。いまそれが滅亡したというに、智慧を絞って救済することも、武勇を奮って死ぬこともできずにいる。義を全うできなかったのだ。それを曹氏に北面することなぞよういたさぬ」と拒絶した。座中一同は彼を案じて顔色を失ったが、焦触は「韓珩の志を遂げさせてやって、君主に仕える者を励ますのもよかろう」と言って許した。 太祖(曹操)は韓珩の節義を敬い、たびたび招聘したが、韓珩は応じないまま家で亡くなった《袁紹伝》。 |
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カンコウ |
(?〜?) |
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字は元嗣。河内郡の人《夏侯惇伝》。 漢代末期、兵乱が起こると、近くの山林から盗賊どもが何度も現れた。韓浩は人数を集めて本県を守護した。太守王匡が彼を従事に取り立てて軍勢を統率させ、盟津で董卓と対峙させた《夏侯惇伝》。そのころ韓浩の舅杜陽は河陰県令であったが、董卓が彼を捕らえて韓浩に投降を呼びかけさせた。しかし韓浩は承諾しなかった。袁術はそれを聞いて彼を壮士だと思い、騎都尉に任命した《夏侯惇伝》。 のちに夏侯惇が彼の名声を聞いて会いたがり、(実際に会うと)彼を大いに絶賛して軍勢を宰領させ、征伐に随従させた。興平元年(一九四)、張邈らが叛逆して呂布を招き入れた。呂布は濮陽城に入り、夏侯惇を人質に取って金品を要求した。夏侯惇軍は恐慌状態に陥った。韓浩は兵士を連れて夏侯惇陣営に乗り込み、軍吏・諸将を召集し、甲冑に身を固めて部署に戻り、動揺せぬよう言い付けた。その他の陣営もようやく鎮まった《夏侯惇伝》。 韓浩は夏侯惇の元へ行き、彼を縛り上げている連中を叱りつけ、「汝ら悪党は将軍を人質に取りながら生きていられると思っているのか。吾は賊徒討伐の命令を受けているのだから一介の将軍のために汝らの好き勝手させられるか!」と言った。そして夏侯惇には涙を流しながら「国法だから仕方ないのです」と言った《夏侯惇伝》。 韓浩が兵士に命じて攻撃させようとすると、捕縛者は土下座しながら「我はただ費用を頂戴して立ち去ろうとしただけなんです」と言った。韓浩は彼らを責め立てて、一人残らず斬首した。夏侯惇は命拾いした。曹操はそれを聞くと「卿の行動は万世の法とすべきだな」と韓浩に語り、今後は人質を取る者があっても気遣うことはせず、双方まとめて討ち果たすべしと軍令を定めた。このことから人質を取る者が後を絶ったのである《夏侯惇伝》。 建安元年(一九六)、政治上の得失について大々的な議論があり、韓浩は農事こそが急務であると考え、棗祗とともに屯田を始めるべきだと主張した。曹操はそれを評価し、護軍に昇進させた《武帝紀・夏侯惇伝》。韓浩は領軍の史渙とともに忠勇をもって名を挙げ、列侯に封ぜられた《夏侯惇伝》。 ここでは屯田制を建議した建安元年内に護軍へ昇進したように書かれているが、実際の任官はもう少し下るようだ。『晋書』職官志に「中領軍将軍は魏の官職である。建安四年、魏の武帝が丞相府に中領軍を置いた」、また「魏の武帝は宰相となり韓浩を護軍、史渙を領軍としたが、漢の官職ではない」とある。曹操が丞相になったのは建安十三年だから、中領軍が設置されたのは「十四年」の誤りであろうと趙一清は言う《曹休伝集解》。しかし韓浩が十二年の柳城遠征の時点ですでに護軍の官に就いていたのは確実で、また職官志は同年に護軍を中護軍と改名したとしており、趙一清説は間違いである。年代ではなく「丞相府」を「司空府」に改めるべきなのだろう。ただし司空府の属官を魏の官職とするには疑問が残る。 曹操が柳城討伐を計画したとき、史渙は「道程は遠く、深く進入することになるから、万全の計略ではない」と考え、韓浩へ一緒に諫めようと持ちかけた。韓浩は「いま軍勢は強盛で威信は四海に轟いている。戦えば勝利して攻めれば奪取して目的が達せられなかったことはない。このとき天下の患いを取り除かねば後々の憂いになろう。それに公の神武は発動に際して計画に遺漏がない。吾と君とは中軍の要なのだから軍勢を意気阻喪させてはなるまい」と言い、こうして従軍し、柳城を打ち破った《夏侯惇伝》。 同十二年、その官職が改名されて中護軍となり、長史・司馬が設置された《夏侯惇伝・晋書職官志》。十八年五月、献帝より曹操へ魏公に封ずるとの勅命が下った。曹操は再三辞退したが、韓浩は群臣・諸将とともに連署して拝受するよう勧めている。このとき肩書きは「中領軍・万歳亭侯」である《武帝紀》。 連署者のうちに中護軍曹洪があるが、これは都護将軍曹洪の誤りで、韓浩の肩書きも中護軍が正しいのだろう。また荀彧が万歳亭侯に封ぜられ、その子荀惲が食邑を継いでおり、ここに万歳亭侯とあるのも疑わしい。 二十年、張魯討伐に従軍した。張魯が降服したのち、軍議では「韓浩の智略は辺境を鎮めるに充分であります。ここに残して諸軍を都督させ、漢中を鎮められますよう」との意見が持ち上がった。しかし曹操は「吾が護軍を失ってよいものか」と言い、彼と一緒に引き揚げた。これほどまで信任されていたのである《夏侯惇伝》。 韓浩が薨去すると曹操は哀惜し、子がなかったので養子韓栄に跡を継がせた《夏侯惇伝》。 【参照】袁術 / 王匡 / 夏侯惇 / 韓栄 / 史渙 / 曹操 / 棗祗 / 張邈 / 張魯 / 杜陽 / 董卓 / 劉協(献帝) / 呂布 / 河内郡 / 漢中郡 / 魏 / 万歳亭 / 平陰県(河陰県) / 濮陽県 / 孟津(盟津) / 柳城 / 騎都尉 / 県令 / 公 / 護軍 / 司馬 / 従事 / 太守 / 中護軍 / 長史 / 亭侯 / 領軍 / 列侯 / 屯田 |
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カンスイ |
(?〜215) |
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字は文約。金城の人《武帝紀》。もとは韓約という名だった《後漢書董卓伝》。 初め同郡の辺允とともに西方で著名だった。辺允は督軍従事となり、韓約は計(報告書)を奉じて京師に参詣したが、大将軍何進はかねてより彼の名声を聞いていたので、特別に彼と会見した。韓約は宦官どもを誅殺せよと説得したが、何進が聞き入れなかったので帰国を願い出た《武帝紀》。 中平元年(一八四)十一月、先零羌および枹罕・河関の盗賊ども、涼州義従宋建・王国らが叛逆し、湟中義従胡北宮伯玉・李文侯を擁立して将軍とした。金城郡まで来ると降参したふりをし、涼州の大人であった故(もと)の新安県令辺允、金城従事韓約との会見を求めた。韓約は会おうとしなかったが、太守陳懿が行って来るよう促した。王国らがすぐさま韓約ら数十人を人質に取ったので、金城は混乱し、陳懿が城を出たところで王国らは彼の手を引いて護羌校尉伶徴の陣営に行き、伶徴と陳懿を殺したが、韓約・辺允は釈放され、軍帥に擁立されて軍政を委ねられた。隴西郡では私情によって封をしない手紙を出し、韓約・辺允の名を挙げて賊徒になったと言った。涼州が韓約・辺允に千戸侯の懸賞をかけたので、韓約は韓遂、辺允は辺章と変名した《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。 韓遂らは州郡を焼き払い、翌年三月には数万騎を率いて三輔地方に侵入し、宦官を誅殺するのだと言いながら園陵を脅かした。詔勅が下り、左車騎将軍皇甫嵩・中郎将董卓が討伐にあたったが、皇甫嵩は成果を挙げられず罷免された。八月、朝廷は改めて司空張温を車騎将軍・仮節とし、執金吾袁滂・破虜将軍董卓・盪寇将軍周慎を統括させ、諸郡の郡兵合せて歩騎十万人余りを美陽に駐屯させて園陵を守ろうとした《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。張温は上表して別部司馬孫堅を参軍事にしてくれるよう要請し、また武将として陶謙も参軍事になっている《破虜・陶謙伝》。 辺章・韓遂らも美陽に着陣し、張温・董卓らと戦って勝利を収めたが、十一月、夜中に火のごとき流星が陣中を照らし出したので、それを不吉に思って金城に帰りたくなった。翌日、董卓が鮑鴻らと合流して辺章・韓遂らを大破し、斬首数千級を挙げた。辺章らは楡中に敗走した。周慎がそれを包囲したが、辺章らは軍勢を分割して葵園狭に駐留させて糧道を断ち切ったので、恐怖した周慎は輜重車を捨てて逃げ去った《後漢書董卓伝》。 三年冬、張温が京師に徴し返されると、韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺し、十万人余りの軍勢を擁して隴西を包囲した。太守李相如は寝返って韓遂と連合した《後漢書董卓伝》。 四年四月、涼州刺史耿鄙が六郡の郡兵を率いて王国・韓遂らを討伐しようとした。傅燮が「軍勢を休息させて賊軍の油断を待つべきです」と諫めるのを聞き入れず、狄道まで行ったところで部下の寝返りによって殺された。韓遂らはそのまま進撃して漢陽郡を包囲し、太守傅燮を殺害した《後漢書霊帝紀・同傅燮伝》。耿鄙の司馬であった馬騰も叛逆して韓遂らと合流し、みんなで漢陽の王国を盟主に推戴して全軍を宰領させると、王国は「合衆将軍」を自称し、三輔地方を侵略した《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。 五年、王国らは陳倉城を包囲したが、左将軍皇甫嵩・前将軍董卓に敗れたので、韓遂らはまた王国を追放し、故の信都県令である漢陽の閻忠を誘拐し、諸軍を統括させようとしたが、閻忠は脅迫されたことを恥じて病死した《後漢書董卓伝》。その後、韓遂らは権力争いを始めて殺し合い、部曲はばらばらになった《後漢書董卓伝》。 初平元年(一九〇)、朝廷の実権を握った董卓に対して、山東で義兵が立ち上がった。董卓は長安に遷都したいと思ったが、司徒楊彪らの反対に遭った。そこで董卓は「辺章・韓約から、朝廷には必ず遷都させるようにとの手紙が来ている。もし大軍が東進してきたら我は救援してやれないぞ」と言っている《董卓伝》。 三年、董卓が暗殺されると李傕・郭汜らが権力を引き継いだ。韓遂・馬騰は軍勢を率いて長安に参詣し、韓遂は鎮西将軍に任じられて金城に帰還し、馬騰は征西将軍に任じられて郿に駐屯するよう命じられた《馬超伝》。 興平元年(一九四)、馬騰は私欲のため李傕に接近したが、何も得られなかったため腹を立て、侍中馬宇・右中郎将劉範・前涼州刺史种劭・中郎将杜稟らと軍勢を糾合して李傕を攻撃した。何日経っても勝負は付かず、韓遂はそれを聞いて両者を和解させようとしたが、けっきょく馬騰に合流することになった《董卓伝》。 三月、李傕が李利・郭汜・樊稠らを出して長平観の下で戦わせると、韓遂・馬騰は斬首一万余りを出す敗北となり、涼州を指して逃走した。樊稠らが追撃してきたが、韓遂は樊稠に人をやって「天下がどうなるかまだ分からないし、お互い州里は同じなのだから、今は些細な食い違いがあるとしても大きく見れば同じ立場だ。一言話し合おうじゃないか」と申し入れ、二人は馬を並べ、肘を交わしてしばらくのあいだ談笑した《董卓伝》。 涼州に帰還すると、韓遂は馬騰と義兄弟の契りを結び、初めは非常に親しくしていたが、後になると一転して部曲を率いて侵入しあう仇敵となった。馬騰の攻撃を受けて韓遂は逃走したが、軍勢を糾合して引き返し、馬騰を攻撃して彼の妻子を殺した。何度も戦って和解することはなかった《馬超伝》。 建安年間(一九六〜二二〇)初め、韓遂と馬騰が攻撃しあっていたときのこと。馬騰の子馬超は壮健であると評判であったが、韓遂の小将閻行もまた若いころから勇名があり、矛で馬超を突き刺した。矛が折れると、その柄で馬超のうなじを叩き、もう少しで殺すところであった《張既伝》。 二年、曹操は山東で問題を抱えていたので、関中での韓遂・馬騰の抗争を危惧し、鍾繇を司隷校尉・持節・督関中諸軍として後方のことを委ねた。鍾繇は長安に着任すると、馬騰・韓遂らに文書を配り、禍福について説明した。馬騰・韓遂はそれぞれ子息を朝廷に参朝させた《鍾繇伝》。また鍾繇や涼州牧韋端の仲介により、韓遂は馬騰と和解した《馬超伝》。 七年、袁尚が高幹・郭援に軍勢数万人を率いさせて匈奴単于とともに河東を侵略し、使者を派遣して馬騰・韓遂と連合しようとした。馬騰は密かに承諾していたが、あとで傅幹の説得に応じ、子息馬超に精兵一万人余りを預け、韓遂らの軍勢とともに鍾繇に協力させたので、鍾繇は郭援を大破することができた《鍾繇伝》。韓遂は征西将軍、馬騰は征南将軍に任じられ、幕府を開くことを許された《後漢書董卓伝》。 十四年、韓遂が閻行を使者に立てて曹操のもとに行かせると、曹操は閻行を手厚く遇した。閻行は帰国して曹操の命令書を伝えた。「文約に謝す。卿がはじめ挙兵したのは追い詰められたからだということを、我はつぶさに明らかにしておいた。早く来なさい。一緒に国政をお助けしようぞ」。閻行はついでに言った。「閻行もまた将軍にお仕えして参りましたが、挙兵以来三十年余りになり、民衆も兵卒も疲弊して領土も狭くなっております。速やかにご自身から(曹操に)お味方なさいませ。以前、鄴に参りましたとき、老父を京師に参詣させたいと自己申告いたしましたが、まことに将軍もまた一子を派遣して赤心をお示しなされませ」。韓遂は言った。「まず数年くらい様子を見てみよう!」。のちに韓遂は我が子を派遣し、閻行の父母とともに東へ行かせた《張既伝》。 この歳、武威太守張猛が涼州刺史邯鄲商を殺害したので、翌十五年、韓遂は自ら西上して張猛を討伐した。張猛は軍勢を動員して東方を防衛させたが、官吏・民衆は韓遂を畏怖しており、一緒に寝返って張猛を攻撃した。張猛は楼に登って自焼して死んだ《龐淯伝》。 そのころ鍾繇は張魯を討伐しようとしていたが、丞相倉曹属の高柔は、いま妄りに大軍を動かすと韓遂・馬超が自分たちへの行動だと思い、煽動しあって叛逆させることになるから、まず三輔地方に招集をかけるべきで、三輔が落ち着けば檄を飛ばすだけで漢中は平定できるだろうと主張した。また衛覬も同じく鍾繇の計画に反対していた《高柔・衛覬伝》。 建安十六年、鍾繇が軍勢三千人を率いて関中に入ると《高柔・衛覬伝》、関中諸将は自分たちが襲撃されるのではないかと疑い《武帝紀》、馬超・侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩・楊秋・韓遂ら、合せて十の部曲が一斉に反乱した。その軍勢は十万、そろって黄河・潼関を占拠し、陣営を築いて連なった《馬超伝》。弘農・馮翊では多くの県邑がこぞって呼応した《杜畿伝》。 韓遂は張猛を討伐したとき、閻行を残して本営を守らせていたが、馬超らが謀叛を企てて韓遂を都督に擁立しようとした。韓遂が帰還すると馬超は言った。「以前、鍾司隷は馬超に将軍を討たせようとしました。関東の者どもは信用なりませぬ。いま馬超は父を棄てて将軍を父と致しまする。将軍も子を棄てて馬超を子としてくだされ」。閻行は韓遂を諫めて馬超に合力させまいとしたが、韓遂は言った。「いま諸将は図らずして一致した。天の定めのようじゃ」。そこで東進して華陰に赴いたのである《張既伝》。 曹操は曹仁を追討に派遣し、馬超らは潼関に駐屯した。曹操は諸将に命令した。「関西の軍勢は精悍である。守りを堅くして戦ってはならぬ」。秋七月、曹操は征西に赴き、潼関を挟んで馬超らと対峙した。曹操は激しく彼と対立する一方、密かに徐晃・朱霊らを送って夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河以西に陣取らせた。曹操は潼関から北へと黄河を渡り、甬道を作りながら黄河沿いに南進した。馬超らは渭口に後退して防いだ《武帝紀》。 曹操が蒲阪津を西へと渡るとき、馬超は韓遂に言った。「渭水北岸でこれを防げば、二十日も経たぬうちに河東の食糧は尽き果て、奴めは必ず逃走するでしょう」。韓遂は言った。「渡るのを見逃してやって、黄河の真ん中で追い詰めるのも愉快なことじゃないか!」馬超の計略は実行に移されなかった《馬超伝》。 曹操は多数の疑兵を設置する一方、密かに渭水上に浮き橋を作り、夜中、渭水南岸に陣営を作らせた。馬超らが陣営に夜襲をかけたが、伏兵によって撃破した。馬超らは渭水南岸に駐屯したまま、黄河以西の割譲を条件に講和を求めたが、曹操は許可しなかった。九月、曹操は軍勢を進めて渭水を(南へ)渡らせたが、馬超らが何度挑戦しても相手にしなかった《武帝紀》。 曹操が賈詡の計略を採用して偽って講和に応じたところ、韓遂は曹操との会見を要求した。曹操は韓遂の父と同歳の孝廉であり、韓遂とも同じくらいの世代だったので、馬を交わして語り合い、軍事には言及せずに京都の昔話ばかりをし、手を打って談笑した。韓遂が帰ってくると馬超らは訊ねた。「公は何と言っていたのか?」韓遂は言った。「何も言わなかったが」。馬超らは彼を疑った。別の日、曹操は韓遂に手紙を送ったが、ところどころ墨で文字を塗りつぶし、韓遂が改竄したように見せかけておいた。馬超らはますます韓遂を疑った。曹操は庚戌の日に約束して会戦したが、まず軽騎兵によって挑戦し、しばらく戦闘が続いてから虎騎を放って挟撃したので、成宜・李堪らは斬られ、韓遂・馬超らは大敗して涼州へと敗走し、楊秋は安定へ奔走した《武帝紀》。 韓遂は華陰から敗走して湟中に帰ってきた。韓遂は(人質に出した息子が殺されて)閻行の父だけが生きていると聞き、一緒に殺害されれば彼の心を固めることができるだろうと思い、むりやり幼い女を閻行に嫁がせた。閻行が拒みきれなかったので曹操は彼を疑った。ちょうどそのとき韓遂は閻行を派遣して西平郡を支配させていたが、夜中、閻行はその部曲を率いて韓遂を攻撃した。閻行は陥落させることができず、家族を引き連れて曹操に参詣した《張既伝》。 韓遂の部曲一党は逃げ散ってしまい、ただ成公英だけが残っていた。韓遂は歎息して「丈夫が困窮しているのに災禍が姻戚から起こるとはな!」と言い、成公英に告げた。「いま親戚が離叛して人数が少なくなったから、羌族の部落をつたって西南へ向かい蜀へと参ろう」。成公英「挙兵してから数十年になります。いま敗北したとはいえ、どうして我が一門を捨てて他人を頼るということがありましょう!」、韓遂「吾は年老いた。子(あなた)ならどう手を打つかね?」、成公英「曹公(曹操)は遠来することができず、ただ夏侯(が来る)のみです。夏侯の軍勢は我らを追うには不足しておりますし、長いあいだ留まることもできますまい。まず羌族の部落で息をつきながら彼らの立ち去るのを待ち、旧知を呼び寄せ、羌族・胡族を糾合すればまだ手はありましょう」。韓遂はその計略に従った。ときに随従する男女はまだ数千人おり、韓遂はかねてより羌族に恩を施していたので、羌族たちが彼を守護した《張既伝》。 十七年、韓遂は軍勢を失い、羌族の部落をつたって西平の郭憲に身を寄せた。人々は韓遂を縛り上げて功績にしようとしたが、郭憲は怒って「人が追い詰められて我を頼りにして来たのに、どうしてそれを危難に陥れられようか?」と言い、彼を擁護して厚遇した《王脩伝》。 閻行の離叛から郭憲に身を寄せるまで、事件の起こった順番がよく分からない。 十九年正月、南安の趙衢、漢陽の尹奉らが馬超を討ち、その妻子を梟首した。馬超は漢中に逃げ込み、韓遂は金城に引き揚げ、氐王千万の部落に逃げ込んだ《武帝紀》。韓遂は羌族・胡族一万騎余りを率いて《武帝紀》顕親にいたが、夏侯淵がそれを襲撃しようとすると逃走した。夏侯淵は彼の軍糧を手に入れて略陽城まで追撃したが、諸将は二十里余り先にいる韓遂を攻撃したいと言ったり、興国の氐族を攻めるべきと言ったりした《夏侯淵伝》。 夏侯淵は考えた。「韓遂の軍勢は精強、興国の城郭は堅固。攻撃してもすぐには陥落させられまい。長離の羌族どもを攻撃するに越したことはない。長離の羌族どもの多くが韓遂に従軍しており、必ずや引き返して我が家を救援しようとするだろう。(韓遂が)もし羌族(の部落)を捨てて単独で守るなら孤立することになり、長離を救援するならば官軍は野戦することができ、どちらの場合でも虜にできるぞ」《夏侯淵伝》。 夏侯淵は督将を残して輜重を守らせ、軽装の歩騎で長離へ行って羌族の屯所を火攻めにし、その軍勢を斬首捕獲した。韓遂に従軍していた羌族どもは、おのおの種族の部落に帰っていった。韓遂は果たして長離を救援しようと夏侯淵軍と対陣した。諸将は韓遂軍が大勢であるのを恐れ、陣営を築き塹壕を掘ってから戦いたいと望んだが、夏侯淵は言った。「我らは千里を駆け抜けてきたから、今また陣営塹壕を築くとなると士卒は疲弊して持ちこたえられない。賊軍は大勢といっても与しやすいのだぞ」。そこで太鼓を打って韓遂軍を大破し、その旌麾を奪い取り、略陽に引き返して興国を包囲した。氐王千万は馬超のもとへ逃走し、残党は降服した《夏侯淵伝》。韓遂はそのまま西平まで逃走した《武帝紀》。 二十年三月、曹操が張魯征討のため陳倉に赴くと《武帝紀》、夏侯淵は閻行を留守に残して引き揚げたので、韓遂は羌族・胡族数万人を糾合して閻行を攻撃したが、追撃する間もなく、ちょうどそのとき病没した《王脩・張既伝》。田楽・陽逵および西平・金城の麴演・蔣石らが韓遂の首を斬り、漢中戦線の曹操のもとに送り届けた《武帝紀・王脩伝》。挙兵から三十二年が経ち、このとき七十歳余りだった《武帝紀》。 これに先立つ十七年十二月、ほうき星が五諸侯に現れたことがある。益州の周羣は、西方で土地を占拠している者がみな領土を失うだろうと言った。翌年冬、曹操が副将を派遣して涼州を攻撃すると、十九年、枹罕の宋建は捕らえられ、韓遂は羌族の部落に逃げ込んで病死し、秋には劉璋が益州を失い、二十年秋には、漢中の張魯が曹操に降ったのであった《後漢書天文志・周羣伝》。 【参照】韋端 / 尹奉 / 衛覬 / 袁尚 / 閻行 / 閻忠 / 袁滂 / 王国 / 何進 / 夏侯淵 / 賈詡 / 郭援 / 郭憲 / 郭汜 / 邯鄲商 / 麴演 / 侯選 / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 高幹 / 高柔 / 朱霊 / 周羣 / 周慎 / 徐晃 / 蔣石 / 鍾繇 / 成宜 / 成公英 / 千万 / 宋建 / 曹仁 / 曹操 / 孫堅 / 种劭 / 張横 / 張温 / 張猛 / 張魯 / 趙衢 / 陳懿 / 程銀 / 田楽 / 杜稟 / 陶謙 / 董卓 / 馬宇 / 馬玩 / 馬超 / 馬騰 / 樊稠 / 傅幹 / 傅燮 / 辺章 / 鮑鴻 / 北宮伯玉 / 陽逵 / 楊秋 / 楊彪 / 李傕 / 李堪 / 李相如 / 李文侯 / 李利 / 劉璋 / 劉範 / 梁興 / 伶徴 / 安定郡 / 渭口 / 渭水 / 益州 / 園陵 / 華陰県 / 河関県 / 河東郡 / 関西 / 関中 / 漢中郡 / 関東 / 漢陽郡 / 葵園狭 / 鄴県 / 金城郡 / 顕親県 / 黄河 / 興国 / 湟中 / 弘農郡 / 山東 / 三輔 / 蜀 / 新安県 / 信都県 / 西平郡 / 長安県 / 長平観 / 長離 / 陳倉県 / 狄道県 / 潼関 / 南安郡 / 郿県 / 美陽県 / 馮翊郡 / 武威郡 / 枹罕県 / 蒲阪津 / 楡中県 / 略陽県 / 涼州 / 隴西郡 / 右中郎将 / 合衆将軍 / 県令 / 侯 / 孝廉 / 護羌校尉 / 左車騎将軍 / 左将軍 / 参軍事 / 司空 / 刺史 / 持節 / 侍中 / 執金吾 / 司徒 / 司馬 / 車騎将軍 / 従事 / 将軍 / 小将 / 丞相 / 司隷校尉 / 征西将軍 / 征南将軍 / 単于 / 前将軍 / 倉曹属 / 太守 / 大将軍 / 中郎将 / 鎮西将軍 / 盪寇将軍 / 督軍 / 督軍従事 / 督将 / 都督 / 破虜将軍 / 別部司馬 / 牧 / 仮節 / 義従 / 羌族 / 匈奴 / 軍帥 / 虎騎 / 五諸侯 / 胡族 / 星孛(ほうき星) / 先零羌 / 大人 / 氐族 / 同歳 / 府(幕府) / 部曲 / 甬道 / 流星 |
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カンスウ |
(?〜?) |
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字は徳高。南陽郡の人《後漢書劉表伝》。劉表の従事中郎《劉表伝》。 義陽の人ともある《劉表伝》。 若いころから学問を好み、貧しくとも節操を枉げなかった。世が乱れようとしていることを知り、三公の命令にも応じず、数人の友人とともに酈国の西山に隠れ住み、黄巾賊が蜂起すると韓嵩は南方へと避難した《劉表伝》。そこで司馬徽に師事し、徐庶・龐統・向朗らと親しくなった《向朗伝》。荊州牧劉表は彼を脅迫して別駕従事に任じ、従事中郎に転任させた。劉表が天地を祀ろうとしたとき、韓嵩は正論でもって諫めたが聞き入れられず、そのころから次第に疎んじられるようになっていった《劉表伝》。 曹操と袁紹が官渡で対峙したとき、劉表は袁紹の援軍要請に応じず、そのくせ曹操を支援しようともせず、長江・漢水流域にこもって天下に変事が起こることを期待していた。韓嵩は別駕従事劉先とともに劉表を諫めた。「両雄が睨み合っておりますが、天下の重鎮といえば将軍であります。彼らの疲弊に乗じるのもよいでしょうし、そうでなければどちらかに味方すべきです。中立を保つことなどできませぬぞ。曹公は聡明な人物ですので、袁紹を破ったのち荊州に向かってきたならば将軍はおそらく防ぎきることはできますまい。荊州をこぞって曹公にお味方なさるのが万全の計略でありましょう」《劉表伝》。 劉表の大将蒯越も同じように勧めたが、劉表は狐疑逡巡して決断できず、そこで韓嵩を曹操のもとにやって様子を見させようとした。韓嵩は言った。「韓嵩は節義を守る者です。もし天子さまが官職を下されたとしたら、韓嵩は天子の臣下となり、将軍の御為に死ぬことはできなくなります。将軍よ、くれぐれも韓嵩を裏切らないでくだされ」。劉表は彼の言葉を聞き入れず、そのまま派遣した。天子は韓嵩に侍中の官を授け、零陵太守に転任させた《劉表伝》。 韓嵩は荊州に帰国すると朝廷と曹操の恩徳を称賛し、子供を人質に差し出すよう劉表に要求した。劉表は彼に裏切られたと思い、数百人の集まる大宴会の席上、兵士を並ばせて韓嵩を引見した。劉表は「韓嵩よ、よくも裏切ってくれたな」と激怒し、節(はた)を持って彼を斬ろうとした。人々はみな恐怖し、韓嵩に謝罪させようとした。韓嵩は動揺せず、「将軍が韓嵩を裏切ったのです。韓嵩は将軍を裏切っておりませぬ」と言い、出発前の言葉をつぶさに述べた。劉表の妻蔡氏が「韓嵩は楚国の名望家です。それに言葉は正しく、誅殺する理由がございません」と諫めたので、劉表は処刑を中止して彼を牢獄に閉じこめた《劉表伝》。 劉表が亡くなると、子の劉琮が立ったが、ちょうどそのころ曹操の軍勢が新野にまで迫っていた。韓嵩は蒯越・傅巽らとともに曹操への降服を勧めた。曹操は荊州の名士を登用しようとしたが、韓嵩は病気にかかっており、病床のまま大鴻臚の印綬を拝受した《劉表伝》。曹操は彼の名声が重々しかったことから、彼に荊州の人々の優劣を付けさせて抜擢任用し、また交友の礼をもって彼を待遇した《後漢書劉表伝》。 【参照】袁紹 / 蒯越 / 蔡氏 / 司馬徽 / 徐庶 / 向朗 / 曹操 / 傅巽 / 龐統 / 劉協(天子) / 劉先 / 劉琮 / 劉表 / 漢水 / 官渡 / 義陽郡 / 荊州 / 新野県 / 楚 / 長江 / 酈侯国 / 南陽郡 / 零陵郡 / 三公 / 侍中 / 従事中郎 / 大鴻臚 / 太守 / 大将 / 別駕従事 / 牧 / 印綬 / 黄巾賊 / 郊祀天地 / 交友礼 / 節 |
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カンセン |
(?〜197) |
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白波賊の頭目。 興平二年(一九五)十一月、献帝劉協の御車が曹陽亭において露営したとき、楊奉・董承によって胡才・李楽・匈奴左賢王去卑とともに御車警護のため呼び出された。彼らは御車を守り、李傕・郭汜らを撃ち破った。翌十一月に御車を進発させると、李傕らはまた追いかけてきたが、天子の軍勢は大敗して多くの大臣を失った《後漢書献帝紀》。 翌建安元年(一九六)二月、韓暹は衛将軍董承と仲違いして彼を攻撃し、董承は出奔して張楊のもとに去っている。八月、天子は洛陽の楊安殿に遷座すると、安国将軍張楊を大司馬に、韓暹を大将軍・領司隷校尉に、楊奉を車騎将軍に任じ、それぞれ仮の節鉞を与えた。楊奉は外に出て梁に駐屯し、韓暹は董承とともに天子の近辺警護にあたった《後漢書献帝紀・同董卓伝》。 韓暹は功績を誇って好き勝手に政治に干渉していたが、董承は彼を憎み、密かに兗州牧曹操を引き入れようとした《後漢書董卓伝》。議郎董昭もまた楊奉を説得して曹操を迎え入れさせた《董昭伝》。曹操の軍中では、多くが「山東は平定されてないのに、韓暹・楊奉が功績を誇って勝手なことをしており、まだ制御することはできません」と反対したが、荀彧だけは「天子を推戴すれば四方の豪傑が逆らったとしてもどうにもできますまい。韓暹・楊奉など問題ではありません」と主張した。曹操は彼の計略に従って天子を出迎えた《荀彧伝》。 曹操は洛陽に入ると、公卿と審議して韓暹・張楊の罪を上奏した。韓暹は誅伐を恐れて梁の楊奉のもとに脱走した。しかし天子は韓暹・張楊が御車を補佐した功績によって、その罪を不問とした《後漢書董卓伝》。 曹操は天子を許に遷そうと考えたが、楊奉・韓暹が邪魔立てするのではないかと心配した。そこで董昭は進言した。「まず楊奉を手厚くねぎらい、そののち食糧運搬に便利な魯陽に一時的に遷都したいと説得すれば、楊奉は腕っ節だけで思慮がないので疑うことはないでしょう」。曹操はその計略に従った《董昭伝》。 九月、御車が東方に出立すると韓暹・楊奉は後悔し、軍勢を率いて追跡した。軽装騎兵で追い付くことができたが、陽城山の伏兵に襲われて大敗した《後漢書董卓伝》。曹操は定陵を荒らしまわる韓暹らを相手にせず、彼らの本拠地である梁を占領して、その勢力を弱らせた。韓暹らは袁術を頼って落ち延びた《董昭伝》。こうして楊奉・韓暹は、袁術・公孫瓚とともに詔勅によって懸賞金付きのお尋ね者になった《呂布伝》。 翌二年、袁術は使者韓胤が呂布に殺されたことに怒り、大将張勲・橋蕤とともに楊奉・韓暹を出陣させ、歩騎数万人で七手から呂布を攻めさせた。しかし呂布は韓暹らに手紙を送って「二将軍は御車を補佐し、呂布は董卓を誅殺して、ともに史書に功名を記されるものと思っていましたが、どうして袁術の叛逆に同調して呂布を討伐しようとなさるのですか」と言い、すべての戦利品の所有を認めたので、韓暹らは大喜びして彼に内通した。張勲軍が下邳に到達して呂布軍と対峙したとき、韓暹らは寝返って数人の将帥を殺し、橋蕤を生け捕りにした。彼らに殺されたり、水に落ちて死ぬものは数え切れなかった《呂布伝・後漢書呂布伝》。 のちに楊奉が左将軍劉備に殺害されたので、恐れを抱いた韓暹は幷州を目指して逃走した。しかしその道中で人に殺されてしまった《後漢書董卓伝》。 【参照】袁術 / 郭汜 / 韓胤 / 去卑 / 橋蕤 / 胡才 / 公孫瓚 / 荀彧 / 曹操 / 張楊 / 張勲 / 董承 / 董昭 / 楊奉 / 李傕 / 李楽 / 劉協(献帝) / 劉備 / 呂布 / 兗州 / 下邳国 / 許県 / 山東 / 曹陽亭 / 定陵県 / 幷州 / 楊安殿 / 陽城山 / 洛陽県 / 梁県 / 魯陽県 / 安国将軍 / 衛将軍 / 議郎 / 公卿 / 左賢王 / 左将軍 / 車騎将軍 / 司隷校尉 / 大司馬 / 大将軍 / 牧 / 仮節鉞 / 匈奴 / 白波賊 / 領 |
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カンハン |
(?〜?) |
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易陽の県令。袁尚の将。 建安九年(二〇四)二月、袁尚が平原遠征に出た隙をついて曹操は鄴を攻撃した。曹操が毛城の尹楷、邯鄲の沮鵠を破ったのをみて、四月、易陽県令の韓範と渉県長の梁岐は県を挙げて曹操に降服し、関内侯の爵位を賜った《武帝紀》。このとき曹操は降服者に寛容でない態度を取っていたため、韓範は一度気が変わって防備を固めたが、徐晃の説得で改めて降服したのだという《徐晃伝》。 【参照】尹楷 / 袁尚 / 沮鵠 / 徐晃 / 曹操 / 梁岐 / 易陽県 / 邯鄲県 / 鄴県 / 渉県 / 平原郡 / 毛城 / 関内侯 / 県長 / 県令 |
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カンフク |
(?〜?) |
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字は文節。潁川郡の人《武帝紀》。 挙兵後、潁川から荀氏らを招いており、韓韶の一族ではないかと思われる。 はじめ韓馥は御史中丞を務めていたが《武帝紀》、董卓は朝廷の実権を握ると尚書周毖・城門校尉伍瓊らを信任し、彼らの推挙によって当時冷遇されていた士人を多く取り立てており、侍中劉岱は兗州刺史となり、孔伷は予州刺史となり、張咨は南陽太守となり、韓馥も尚書から冀州牧(あるいは刺史とも)に昇進したが、日ごろ董卓が親愛していた人物は将校に留めたままであった《董卓・許靖・後漢書董卓伝》。 韓馥は冀州に着任すると、勃海太守袁紹が挙兵するのではないかと恐れ、何人もの従事を送り込んで彼を監視させていたが、東郡太守橋瑁が偽造した三公からの公文書が冀州に届き、その中には董卓の罪状が連ねられていた。韓馥が従事たちに「袁氏を助けるべきか、董卓を助けるべきか」と質問すると、治中劉子恵は「国家のためです。袁氏も董氏もありません」と述べた。韓馥が恥じ入っていると、劉子恵は続けて「軍事は不吉なものですから口火を切ってはいけません。他州の動きを見て行動を起こす者があれば、それから同調なされればよろしい。冀州は他州より弱くはありませんから、他人の功績も冀州を上回ることはありますまい」と言上した。韓馥はその通りだと思い、袁紹に手紙を出して彼の挙兵を認めた《武帝紀》。 初平元年(一九〇)正月、袁紹らが反董卓の義兵を起こすと、韓馥もそれに呼応した《武帝紀》。董卓は韓馥を推挙した周毖・伍瓊らを殺している《董卓伝》。袁紹・王匡・張楊は河内に、張邈・張超・劉岱・橋瑁・袁遺・孔伷は酸棗に、袁術・孫堅は南陽に進駐し、韓馥は後方の鄴に残って食糧輸送にあたった《武帝紀・張楊・臧洪・破虜伝・後漢書袁紹伝》。このころ郷里の潁川郡から荀彧らを呼び寄せる《荀彧伝》。 翌二年春、韓馥は袁紹らと共謀して、大司馬・幽州牧劉虞を推し立てて皇帝の座に就けようとした。劉虞はそれを承知せず、また袁紹らが尚書の事務を宰領するように勧めたが、やはり聞き入れなかった。それでも劉虞・袁紹・韓馥らは連合を維持し続けた《公孫瓚伝》。 そのころ韓馥の将軍麴義が叛乱を起こし、韓馥を攻撃したが敗退した。袁紹は韓馥を恨んでいたので彼と同盟し、賓客逢紀の計略に従い、公孫瓚に手紙を送って冀州を攻撃させた。公孫瓚はこれに応じて、董卓を討つのだと言いながら韓馥を襲撃しようとした《後漢書袁紹伝》。韓馥は安平で公孫瓚軍を迎え撃ったが、敗北して彼の侵入を許してしまう《袁紹伝》。 夏四月、董卓が洛陽を自焼して長安に引き揚げると、袁紹は軍勢を延津に移し、冀州を窺う姿勢を示した。袁紹は高幹・荀諶・郭図・張導らをやって韓馥に告げさせた。「公孫瓚は勝利に乗じて南進し、諸郡が彼に呼応しております。袁車騎将軍(袁紹)は軍勢を東に返しており何を企てているかわかりません。将軍のために危うく存じております」。韓馥は「一体どうすればいいのか」と恐れおののいた《袁紹・臧洪・後漢書袁紹伝》。 荀諶「君(あなた)はご自身で見て、人徳・寛容さで人々を受け入れ、天下に慕われているのは袁氏と君とどちらでしょうか?」、韓馥「(わたしの方が)及ばない」、荀諶「危機に臨んで決断し、智慧・勇気の点で人一倍なのはどちらでしょうか?」、韓馥「それも及ばない」、荀諶「世に恩徳を施し、天下がその恩恵を被っているのはどちらでしょうか?」、韓馥「やはり及ばない」、荀諶「勃海は一郡に過ぎないとはいえ実態は一州同然です。いま将軍は三つの点で袁紹に及ばないとされましたが、袁氏も一代の英傑ですから将軍の下位ではいられますまい」《後漢書袁紹伝》。 荀諶「公孫瓚の率いる燕・代の兵士は当たるべからざる勢いです。冀州は天下の台所。もし(袁紹・公孫瓚の)両雄が城下で干戈を交えることになれば滅亡は目前でありましょう。もともと袁氏は将軍と旧交があり、かつ同盟軍でもあります。将軍のために計算いたしますと、冀州を挙げて袁氏に譲渡なさるほど良いことはありません。袁氏が冀州を得ることになれば、公孫瓚でも彼と争うことはできますまい。これこそ将軍に謙譲の美名を挙げさせ、泰山の如き安泰さをもたらすものですぞ。将軍よ、お疑いなさらぬよう!」《袁紹伝》。 韓馥はもともと臆病な人柄だったから、その計略を承諾した。長史耿武・別駕閔純・治中李歴が韓馥を諫め、「冀州は田舎とはいえ武装兵百万人と十年分の食糧がございます。袁紹は孤立した余所者で軍勢も困窮し、我らが鼻息を窺っておる有様。譬えてみれば手のひらの上の赤子も同然、乳をやらねば飢え死にさせることもできるというのに、どうして州をくれてやろうとなさるのですか?」と言ったが、韓馥は「吾(わたし)はもともと袁氏の部下だったし、才能も本初(袁紹)には敵わぬ。謙譲の度量は古代の人も貴んだところだ。諸君だけがどうして心配するのか!」と言って聞き入れなかった《袁紹伝》。 韓馥は都督従事趙浮・程奐に強弩部隊一万人を預けて河内に駐屯させていたが、趙浮・程奐は韓馥が冀州を譲渡しようとしていると聞き、孟津を出立して急いで東下した。朝歌の清水口まで来るとそこに袁紹軍が駐留していたので、夜間、軍鼓を打ち鳴らしながら袁紹軍の側を通り過ぎていった。趙浮らは「袁本初の軍勢には一升の米もなく、張楊・於夫羅を新たに味方付けたといってもまだ役立てることはできません。我らに対戦させてくださいませ。十日のうちには土崩瓦解させるでありましょう」と諫言した。韓馥はやはり聞き入れなかった《袁紹伝》。 七月《武帝紀》、韓馥は息子に印綬を預けて黎陽に駐屯していた袁紹に届けさせ、自分は趙忠の旧宅に移り住んだ《袁紹伝》。袁紹が都官従事に任じた朱漢はかつて韓馥に冷遇されたことがあり、また同時に袁紹に気に入られようと思い、勝手に城兵を動員して韓馥邸を包囲した。韓馥は逃走して矢倉に登ったが、息子は朱漢に捕らえられて足を木槌で砕かれた。袁紹はすぐさま朱漢を逮捕して処刑したが、韓馥の恐怖は去らず、袁紹に手紙を送って冀州を去った《袁紹伝》。 韓馥は陳留太守張邈に身を寄せたが、ある日、袁紹の使者がやってきて張邈に耳打ちをしたのを見て、自分を暗殺しようとしているのだと思い込み、しばらくして廁に行き、そこで自殺した《袁紹伝》。 【参照】袁遺 / 袁紹 / 袁術 / 於夫羅 / 王匡 / 郭図 / 麴義 / 橋瑁 / 伍瓊 / 公孫瓚 / 孔伷 / 耿武 / 高幹 / 朱漢 / 周珌(周毖) / 荀彧 / 荀諶 / 孫堅 / 張咨 / 張超 / 張導 / 張邈 / 張楊 / 趙忠 / 趙浮 / 程奐 / 董卓 / 閔純 / 逢紀 / 李歴 / 劉虞 / 劉子恵 / 劉岱 / 安平国 / 潁川郡 / 燕国 / 兗州 / 延津 / 河内郡 / 冀州 / 鄴県 / 酸棗県 / 清水口 / 代郡 / 泰山 / 長安県 / 朝歌県 / 陳留郡 / 東郡 / 南陽郡 / 勃海郡 / 孟津 / 幽州 / 予州 / 洛陽県 / 黎陽県 / 御史中丞 / 三公 / 刺史 / 侍中 / 車騎将軍 / 従事 / 尚書 / 城門校尉 / 大司馬 / 太守 / 治中従事 / 長史 / 都官従事 / 都督従事 / 別駕従事 / 牧 / 録尚書事(尚書事を領す) / 印綬 / 強弩 / 賓客 |
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カンモウ |
(?〜?) |
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袁紹の将。「韓荀」「韓〓」「韓若」などとも書かれ、どれが正しいのか分からない。『資治通鑑』では「韓猛」としている《荀攸伝集解》。また韓莒子と同一視する人もある《荀攸伝集解》。 建安五年(二〇〇)、袁紹は官渡において曹操軍と対峙していた。韓猛は別働隊として曹操軍の西方の道路を占拠したが、雞洛山において曹仁と戦い、大敗した《曹仁伝》。 のちに韓猛は輜重車を守って官渡に届けることになった。荀攸が「袁紹軍の輸送車がまもなく到着いたします。その将韓猛は勇敢ですが敵を侮っておりますから必ず破ることができます」と告げたので、曹操は徐晃・史渙を派遣して迎撃させた。韓猛は彼らと戦ったが敗走し、輜重は焼き払われた《荀攸伝》。 |
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ガンリョウ |
(?〜200) |
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袁紹の大将・将帥《関羽・後漢書袁紹伝》。 顔良は文醜とともに袁紹軍の「名将」と称せられ《武帝紀》、孔融は「田豊・許攸は知謀の士、審配・逢紀は忠臣、顔良・文醜の武勇は三軍に傑出している。とても勝つことはできないだろう」と悲歎している《荀彧伝》。 建安五年(二〇〇)二月、ついに袁紹は曹操と敵対することになり、数十万の軍勢を催して許を攻撃しようと企てた。沮授が「顔良は短気偏狭で、驍勇があるといっても単独で任用してはなりませぬ」と諫めるのを聞き入れず《袁紹伝》、袁紹は顔良・郭図・淳于瓊を白馬に派遣して東郡太守劉延を攻撃させ、自身は黎陽に布陣して黄河を渡る構えを見せた《武帝紀》。四月、曹操は荀攸の計略に従い、延津から黄河を渡って背後を衝くふりをした。袁紹が手を分けてそれを防ごうとしたため、白馬は手薄になってしまった《武帝紀》。 『袁紹伝』では顔良が単独で白馬を包囲したことになっており、『武帝紀』では顔良とともに郭図・淳于瓊を白馬包囲に参加させている。また『後漢書』では沮授の諫言を記載していない。ここでは矛盾したまま両者の記述を併記したが、どちらが正しいのか分からない。 曹操はすぐさま引き返して白馬に急行し《武帝紀》、董昭を魏郡太守に任命するとともに《董昭伝》、張遼・関羽を先鋒として顔良を攻撃させた《関羽伝》。十里余りまで接近したところでそれに気付き、顔良は大いに驚いて迎撃しようとした《武帝紀》。関羽は遠くから顔良の麾蓋を見るや、馬に鞭打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し殺し、その首を斬って引き返したが、袁紹軍諸将のうち関羽に抵抗できる者はいなかった《関羽伝》。 董昭・徐晃らの働きもあり《董昭・徐晃伝》、こうして白馬の包囲陣は解かれた。はじめ荀彧は、孔融の言葉に「顔良・文醜は匹夫の勇を持つに過ぎぬ。一度の戦いで生け捕りにできるだろう」と答えていたが、果たしてその言葉通りになったのである《荀彧伝》。 【参照】袁紹 / 郭図 / 関羽 / 許攸 / 孔融 / 荀彧 / 荀攸 / 淳于瓊 / 徐晃 / 審配 / 沮授 / 曹操 / 田豊 / 張遼 / 董昭 / 文醜 / 逢紀 / 劉延 / 延津 / 魏郡 / 許県 / 黄河 / 東郡 / 白馬県 / 黎陽県 / 将帥 / 太守 / 麾蓋 / 名将 |
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キヨウ |
(?〜192?) |
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清河の人《徐晃伝》。 鄃県をこぞって袁紹に背き、公孫瓚の軍勢を引き入れた。袁紹の将朱霊が攻め寄せると、城内にいた彼の家族を人質に取って朱霊に寝返りを促した。朱霊は「いちど出仕したからには家族を顧みることはできぬ!」と涙を流し、そのまま奮戦して鄃県を陥落させ、季雍を生け捕りにした《徐晃伝》。 初平三年(一九二)、公孫瓚軍が平原・発干に進出したときのことだろうか。 |
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キチョク |
(?〜?) |
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字は子上。丹楊秣陵の人。紀亮の子、紀孚・紀瞻の父《孫晧伝・晋書紀瞻伝》。「紀騭」とも書かれる《隋書経籍志》。 紀陟は中書郎であったころ、孫峻により南陽王孫和を尋問して自殺に追いこむようにと命令されたことがあった。紀陟はこっそりと正論でもって自己弁護をさせた。孫峻が腹を立てるので、恐怖を抱いた紀陟は門を閉ざして出勤をやめた《孫晧伝》。 孫休の時代、父の紀亮が尚書令を務め、子の紀陟が中書令を務めることになった。詔勅により、朝廷での会議にあたっては、いつも屏風でもって二人の座席を隔てられることになった《孫晧伝》。のちに出向して予章太守となる《孫晧伝》。 孫晧の時代には光禄大夫となり、甘露元年(二六五)三月、五官中郎将弘璆とともに使者として魏へ赴き、地方の産物をたずさえて和睦を申しいれた《陳留王紀・孫晧伝・晋書文帝紀》。(『礼記』の定めに従い)境界を入るときは諱を訊ね、国土を入るときは風俗を訊ねた《孫晧伝》。 寿春の部将王布は馬上から弓術を誇らしげに見せ、終わってから「呉の諸君もこんなことができますかな?」と紀陟に訊ねた。紀陟が「これは軍人や騎士が職業としてこそできることであって、士大夫や君子でここまでできる者はおりませぬ」と答えたので、王布はたいそう恥じいった《孫晧伝》。 魏帝(曹奐)が謁見し、案内役を通じて「お越しになるとき呉主(孫晧)のご機嫌はいかがじゃったか?」と訊ねた。紀陟は「参りますとき、皇帝陛下は軒先にお出ましになりました。官僚百人がそれぞれの位置につき、御膳もお変わりございませんでした」と答えた《孫晧伝》。 晋の文王(司馬昭)が彼らを酒宴に招き、百官が出そろうと、案内役を通じて「あれは安楽公(劉禅)だ」「あれは匈奴単于(劉猛?)だ」と伝えさせた。紀陟は言った。「西の君主は領土を失いましたが、君王(文王)どのの礼遇によって地位は三代(夏・殷・周?)と同じになり、恩義に感動せぬ者はございませぬ。匈奴は辺境にあって制御の難しい国ですが、君王どのの懐柔によって座席をともにしております。これはまことに威信恩恵が遠方にまで顕著であることを示しております。」《孫晧伝》 (文王が)また「呉の守備はいかほどかね?」と訊ねると、「西陵から江都にいたるまで五千七百里でございます」との答え。さらに「道のりがそれだけ遠ければ堅固にするのも難しかろう」と訊ねると、「境界線は長くとも争いになる要害は三つから四つに過ぎませぬ。ちょうど人間に八尺の肉体があり、病気にさらされぬところはなくとも寒さを防ぐのは数ヶ所に過ぎないようなものです」との答え。文王はそれを褒めたたえ、手厚い礼でもってもてなした《孫晧伝》。 紀陟らが洛陽に滞在中、晋の文帝(司馬昭)が崩御したため、十一月、紀陟らは帰国を命じられた《孫晧伝》。 孫晧は、従父たちのうち父の孫和といさかいを起こした者は家族ごと東冶に移住させた。ただし紀陟だけは密命をこうむり(むかし孫峻の命令により尋問したことを許され)、子の紀孚が特別に都亭侯に封ぜられた《孫晧伝》。 【参照】王布 / 紀瞻 / 紀孚 / 紀亮 / 弘璆 / 司馬昭 / 曹奐 / 孫休 / 孫晧 / 孫峻 / 孫和 / 劉禅(安楽公) / 劉猛 / 安楽県 / 殷 / 夏 / 魏 / 呉 / 江都県 / 周 / 寿春県 / 晋 / 西陵県 / 丹楊郡 / 東冶県 / 南陽郡(南陽国) / 秣陵県 / 予章郡 / 洛陽県 / 王 / 光禄大夫 / 五官中郎将 / 尚書令 / 単于 / 中書令 / 中書郎 / 太守 / 都亭侯 / 匈奴 |
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キリョウ |
(?〜?) |
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丹楊秣陵の人。紀陟の父《孫晧伝・晋書紀瞻伝》。 孫休の時代、尚書令となった。このとき子の紀陟が中書令であったため、朝廷での会議の際は、詔勅によりいつも屏風でもって二人の座席が隔てられた《孫晧伝》。皇帝孫亮の諱を避けたはずだが改名後の名は分からない。あるいは「亮」と伝えられているのが誤りかもしれない《孫晧伝集解》。 |
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キレイ |
(?〜?) |
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袁術の将。 『演義』では袁術配下の代表的な将軍とされるが、正史での記述はこれだけである。張勲・橋蕤らより下位にあったと思われるが、それでも歩騎三万人もの大軍を率いる立場にはあったのである。なお『演義』でも、袁術が皇帝を僭称したとき大将軍を張勲とし、橋蕤・陳紀を上将とし、紀霊は七軍の「救応使」(遊軍)ということになっており、紀霊の立場を安易に持ち上げていないことには好感が持てる。 劉備は東征して袁術を攻撃していたが、その留守をついて呂布が徐州を奪取した。劉備が撤退して呂布に降服すると、呂布は彼に小沛の守備を委ね、自分では徐州刺史を称した。そこで袁術は紀霊らを派遣し、歩騎三万人で劉備を攻撃させた。劉備が救援を求めてくると、呂布は「もし袁術が劉備を破ったなら北進して泰山諸将と連合するだろう。吾(わたし)は袁術に包囲されてしまう。助けないわけにはいかないぞ」と言って、歩兵千人騎兵二百人を率いて劉備を救援した《呂布伝》。 呂布は小沛の城外まで軍勢を進めると、人をやって劉備を陣営に招き入れ、同時に紀霊らを招聘して宴会を開いた。呂布は紀霊に言った。「劉備は呂布の弟です。弟が諸君のおかげで困っていたので助けにやってきました。呂布の性格は争いごとが好きでなく、争いごとをやめさせるのが好きなんです」《呂布伝》。 そして呂布は軍候に命じて陣門に一本の戟を突き立てさせ、弓を引き絞りながら振り返って言った。「諸君、呂布が戟の小枝を射当てるのを見ていてください。もし当たったならどちらも軍勢を解散してください。当たらなければそのまま勝負を付ければいいでしょう」。呂布が一矢放つと、まっすぐに戟の小枝に命中した。紀霊らは驚いて「将軍は天の威光そのものです!」と言った。翌日、ふたたび宴会を開き、そのまま引き揚げた《呂布伝》。 「弓を引き絞りながら振り返って言った」というのは『後漢書』の記述による。『三国志』では発言のあとで弓を引いたことになっている。 |
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