三国志人名事典 か行

何平He Ping

カヘイ

王平

何茂He Mao

カボウ

(?〜?)

袁紹の将。

建安四年(一九九)八月、曹操は軍勢を黎陽に進め、于禁を黄河のほとりに駐留させた《武帝紀》。于禁は歩兵二千人を率いて袁紹軍を撃退したあと、楽進らとともに歩騎五千人を率いて延津から西南へ黄河沿いに進んだ。汲・獲嘉まで行って三十余りの保塁を焼き払い、斬首・捕虜はおのおの数千人であった。袁紹の将何茂・王摩ら二十人余りは降服した《于禁伝》。

【参照】于禁 / 袁紹 / 王摩 / 楽進 / 曹操 / 延津 / 獲嘉侯国 / 汲県 / 黄河 / 黎陽県

夏昭Xia Zhao

カショウ
(カセウ)

(?〜206?)

高幹の将。

建安十年(二〇五)、高幹は上党太守を人質に取って曹操に叛き、軍勢を挙げて壺口関に楯籠った。曹操の将楽進・李典が背後に回ろうとしたので壺関城に引き揚げたが、そこで楽進らを打ち破った。翌十一年正月、曹操が自ら軍勢を進めてきたので、高幹は夏昭・鄧升に城を守らせ、自分は匈奴単于に救援を求めにいった。夏昭らは三ヶ月間、曹操軍の包囲を凌いだが陥落した《武帝紀・袁紹伝・楽進伝》

【参照】楽進 / 高幹 / 曹操 / 鄧升 / 李典 / 壺関県 / 壺口関 / 上党郡 / 単于 / 太守 / 匈奴

夏侯恵Xiahou Hui

カコウケイ

(?〜?)
魏楽安太守

字は稚権。沛国譙の人。夏侯淵の六男《夏侯淵伝》。

幼少のころより才能学識をもって称賛され、奏議を綴るのが巧みで、散騎侍郎・黄門侍郎を歴任した《夏侯淵伝》。散騎侍郎であったとき、広く賢者を求める詔勅が下されたので、夏侯恵は散騎常侍劉劭を推薦している《劉劭伝》。しばしば鍾毓と議論を交わし、どの案件でも採用されることが多かった。燕国の相、楽安太守へと昇進したが、三十七歳で卒去した《夏侯淵伝》。

夏侯恵は文・賦を著し、劉劭・蘇林・韋誕・孫該・杜摯らとともに世間で大層流行した《劉劭伝》。その著作は『夏侯恵集』に収められたが、すでに散逸している《隋書経籍志》。ただ『景福殿賦』だけは『芸文類聚』に収録されて現在でも読むことができる《劉劭伝集解》。

【参照】韋誕 / 夏侯淵 / 鍾毓 / 蘇林 / 孫該 / 杜摯 / 劉劭 / 広陽郡燕国) / 譙県 / 沛国 / 楽安国(楽安郡) / 黄門侍郎 / 散騎侍郎 / 散騎常侍 / 相 / 太守 / 夏侯恵集 / 景福伝賦 / 芸文類聚 / 奏議 / 賦 / 文

夏侯儒Xiahou Ru

カコウジュ

(?〜?)
魏太僕

字は俊林。夏侯尚の従弟である。はじめ驍騎将軍・鄢陵侯曹彰の司馬であった《張既伝》。

黄初二年(二二一)、涼州盧水胡の伊健妓妾・治元多らが反逆し、黄河西岸地域は大混乱に陥った。これを憂慮した文帝(曹丕)は十一月、鎮西将軍曹真を打ち立たせるとともに、涼州刺史を張既に代え、護軍夏侯儒・将軍費曜らに後詰めさせた《文帝紀・張既伝》。張既は鸇陰を経由すると見せかけて且次から進軍し、武威を占拠した。遅れて費曜が到着、ともに賊軍を大破し、万単位の斬首捕虜を出す大勝利を収めたが、夏侯儒らは行軍が遅れて参戦できなかった《張既伝》。

後文に夏侯霸が後任の征蜀護軍になったとあり、ここで護軍と言っているのは征蜀護軍のことだろう。

酒泉の蘇衡が反逆して羌族の隣載および丁令胡一万騎余りとともに隣県を攻撃した。張既は夏侯儒とともにこれを撃破、蘇衡・隣載らはみな降服した。そこで張既は夏侯儒ともに左城を修築したいと上疏、城壁や烽火台、食料庫を築いて胡族に備えたので、西羌族は恐懼し、部落の者二万人を連れて帰服した《張既伝》

正始年間(二四〇〜二四九)、夏侯儒に代わって夏侯霸が征蜀護軍に就任《夏侯淵伝》、夏侯儒は征南将軍となり、荊・予二州を都督することになった《張既伝》。

同二年四月《孫権伝》、呉将朱然・孫倫ら都合五万人が樊城を包囲し《斉王紀》、城将乙修らが救援を要請したとき、夏侯儒は鄧塞まで進軍したものの、軍勢が少なかったためそれ以上進むことができなかった。そこで太鼓を打ち笛を吹き、道案内(?)を設けるだけで、朱然軍から六・七里まで来たところで引き返し、その様子を乙修らにも遠くから眺めさせた。それを何度も何度もくり返して一ヶ月余りが経ち、太傅(司馬懿)が到着してから一緒に進軍し、朱然らを敗走させた《張既伝》。

当時の人々は夏侯儒を臆病だと言う者もあり、また寡兵でもって大軍を惑わす術を心得ており、援護の気勢を挙げる道理に適っていると評価する者もあった。夏侯儒はそれでもこの一件のため召し返され、太僕に異動された《張既伝》。

夏侯儒の用兵は、関羽が樊城を包囲した際に徐晃・趙儼の採った戦術と同じである。臆病との評は失当と思われる。

【参照】伊健妓妾 / 乙修 / 夏侯尚 / 夏侯霸 / 司馬懿 / 朱然 / 蘇衡 / 曹彰 / 曹真 / 曹丕 / 孫倫 / 治元多 / 張既 / 費曜 / 隣載 / 鄢陵県 / 荊州 / 呉 / 黄河 / 左城 / 酒泉郡 / 揟次県(且次県) / 鸇陰県 / 鄧塞 / 樊城 / 武威郡 / 予州 / 涼州 / 盧水 / 驍騎将軍 / 侯 / 護軍 / 刺史 / 司馬 / 将軍 / 征蜀護軍 / 征南将軍 / 太傅 / 太僕 / 鎮西将軍 / 都督 / 西羌 / 丁令胡 / 導従(道案内?) / 盧水胡

華雄Hua Xiong

カユウ
(クワユウ)

葉雄

賈洪Jia Hong

カコウ

(?〜?)
魏白馬相

字は叔業。京兆新豊の人《王朗伝》。『魏略』では「儒宗伝」に編入されている《王朗伝》。

実家は貧しかったが、学問を愛好して才能があり、『春秋左氏伝』にはとりわけ詳しかった。建安年間(一九六〜二二〇)の初期、本郡に出仕して計掾に推挙され、州からのお召しに応じた。このとき州内には参軍事などの州吏が百人余りいたが、才能・学識が最高水準であったのは賈洪と厳苞だけであった。人々は彼らを称えて「州内きらきら賈叔業、弁論ふつふつ厳文通」と語った《王朗伝・同集解》。賈洪は県令を三たび兼務し、どの任地でも廏舎を開放して(学校とし)、彼自身が学生たちの教授にあたった《王朗伝》。

のちに馬超が反逆して賈洪を拘束し、華陰まで連れて行って宣伝文を作らせた。賈洪は作らざるを得なかった。司徒鍾繇は東方にいたのだが、その宣伝文を見ると「これは賈洪が作ったものだ」と言った。馬超が敗走したのち、太祖(曹操)は賈洪を召しよせて軍謀掾に任じはしたが、かつて馬超のために宣伝文を作ったということで、すぐに叙任を行わず、ずっと後になってようやく陰泉(陽泉?)の県長にした《王朗伝》。

延康年間(二二〇)、白馬国の相へと転任した。言葉遊びがうまかった。白馬王の曹彪もまた文学を愛好したので、つねづね師として尊敬され、三卿を上回る待遇を受けた。数年後、病のため五十歳余りで亡くなった。彼の官位が二千石に及ばなかったことを人々は残念に思った《王朗伝》。

延康年間は曹操の死後、まだ曹丕が受禅していない時期である。よって賈洪が赴任したとき、この白馬王は劉姓だったはずだ。『集解』にも同様の指摘がある。曹彪が白馬に転封されたのは黄初七年(二二六)のこと。

【参照】厳苞 / 鍾繇 / 曹操 / 曹彪 / 馬超 / 華陰県 / 京兆尹 / 新豊県 / 白馬県(白馬国) / 陽泉県(陰泉県) / 王 / 軍謀掾 / 計掾 / 県長 / 県令 / 参軍事 / 三卿 / 司徒 / 相 / 魏略 / 春秋左氏伝 / 二千石

賈信Jia Xin

カシン

(?〜?)
漢将軍

曹操の将。

建安八年(二〇四)三月、袁譚・袁尚は黎陽城を出て曹操と戦ったが大敗し、夜陰に乗じて逃走した。四月、曹操は軍を鄴に進めたが、翌五月には許に帰還した。そのとき賈信は黎陽城に残されて留守を守った《武帝紀》。

同十六年、曹操が馬超追討のため西方に出征すると、田銀・蘇伯が河間郡で叛逆した。鄴を守っていた曹丕は賈信を派遣し、賈信は行驍騎将軍曹仁とともに叛乱者を討伐して、千人余りの降服者を受け入れた《曹仁・程昱伝》。

【参照】袁尚 / 袁譚 / 蘇伯 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 田銀 / 馬超 / 河間郡 / 許県 / 鄴県 / 黎陽県 / 驍騎将軍 / 行

賈範Jia Fan

カハン

(?〜237)

公孫淵の将軍。

景初元年(二三七)七月、大司馬・楽浪公の公孫淵は魏に対して反乱を起こした。このとき将軍の賈範は、綸直とともに厳しく諫言したが、聞き入れられず、殺された。公孫淵が誅殺されたのち、司馬懿は賈範らの墓を盛ってやった《晋書宣帝紀》。

【参照】公孫淵 / 司馬懿 / 綸直 / 魏 / 楽浪郡 / 公 / 将軍 / 大司馬

蒯越Kuai Yue

カイエツ
(クワイヱツ)

(?〜214)
漢大鴻臚・樊亭侯

字は異度。南郡中廬の人《劉表伝》。劉表の大将《劉表伝》。

蒯越は雄大な容姿を備えた英傑で、精神の奥底に智慧を満たしていた。大将軍何進はその名声を聞き、召し寄せて東曹掾とした。蒯越は宦官どもを誅殺すべきと勧めたが、何進がぐずぐずして決断しなかったので、何進の失敗は必定とみて、汝陽の県令に出向したいと申し出た《劉表伝》。

劉表が荊州刺史になったとき、長江以南には宗賊ども、魯陽には袁術、長沙には蘇代、華容には貝羽らがいて、それぞれが軍勢を抱えて混乱を起こしていた。劉表は赴任するなり宜城に入り、蒯良・蒯越・蔡瑁を招いて協議すると、蒯良は「仁義の道を行くならば百姓たちは川の流れのように帰服するでありましょう」と述べた《劉表伝》。

蒯越は「平和を統治する者は仁義を優先し、混乱を統治する者は策略を優先するものです。軍事は人数の多さではなく人材の任用によって決まるのです。袁術は勇猛ではありますが決断力がなく、蘇代・貝羽は武人に過ぎず、宗賊どもの貪欲さは下々の者に恨まれております。蒯越には昔から養ってやっている連中がおりますから、これを使者として利益を示してやれば、彼らは必ず軍勢を率いて来降いたします。使君が無法者を誅殺し、(それ以外の者を)慰撫し、任用してやれば、州内の人々はみな生命を惜しむとともに、貴君の恩徳を聞いて襁褓を背負って参りましょう。軍勢民衆が集まってから南方は江陵を占め、北方は襄陽を固めるならば、荊州八郡は檄文を飛ばしただけで平定できます。袁術らが来てもなすすべはございますまい。」《劉表伝》

劉表は「子柔(蒯良)どのの言葉は雍季の議論、異度どのの計略は臼犯の策謀ですな」と言い、蒯越に命じて宗賊どもを勧誘させ、五十五人全員を殺し、その軍勢を奪い取った。ある者には部曲を授けた。江夏の賊徒張虎・陳生が軍勢を抱えて襄陽を占拠していたので、蒯越は龐季とともに従者も付けずに出向し、降服を勧告した。こうして長江以南はすっかり平定されたのである《劉表伝》。詔書を賜って章陵太守となり、樊亭侯に封ぜられた《劉表伝》。

曹操と袁紹が官渡で対峙していたとき、袁紹は使者を遣して劉表に救援を求めてきた。劉表はそれに承知しつつも出兵せず、かといって曹操に肩入れすることもなく、長江・漢水の流域を押さえたまま天下の異変を窺っていた。従事中郎韓嵩・別駕従事劉先が「両雄が対立しておりますゆえ、天下の行方を決定するのは将軍次第です。彼らの疲弊に乗じて行動を起こすか、さもなくば荊州をこぞって曹公に帰伏なさいませ」と勧め、蒯越もそれを支持したが、劉表は決断に迷い、韓嵩を曹操のもとに遣して内情を探らせただけだった《劉表伝》。

劉備は劉表のもとに身を寄せて樊城に屯した。劉表は彼を礼遇する一方、その人となりを嫌い、あまり信用しなかった。あるとき劉表が酒宴を催して劉備を招いたが、蒯越・蔡瑁は酒宴を利用して劉備を捕縛しようとしたが、劉備に気付かれて取り逃がしてしまった《先主伝》。

建安十三年(二〇八)、曹操が劉表を征討したとき、まだ到着しないうちに劉表は病死した。人々は劉琮を跡継ぎに据えた。蒯越・韓嵩・傅巽らは曹操に帰服すべきと劉琮を説得した。曹操軍が襄陽に到着すると、劉琮は荊州をこぞって降服した《劉表伝》。

曹操は劉琮を青州刺史に取り立てて列侯に封じ、蒯越を初めとする十五人を封侯した。曹操は荀彧への手紙で「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことが嬉しいのだ」と語っている《劉表伝》。

蒯越はのちに光禄勲にまで昇進し、十九年に卒去した。死を目前にしたとき、曹操に手紙を送って蒯氏一門のことを託すと、曹操は「死者が生き返ったとしても、生者は恥じるものではない。孤(わたし)はあまり推挙できなかったが、そうしたことはたびたび実行してきた。死者に知覚があるならば、孤のこの言葉も聞いているはずだ」と誓いを立てた《劉表伝》。

【参照】袁術 / 袁紹 / 何進 / 蒯良 / 韓嵩 / 臼犯 / 蔡瑁 / 荀彧 / 蘇代 / 曹操 / 張虎 / 陳生 / 貝羽 / 傅巽 / 龐季 / 雍季 / 劉先 / 劉琮 / 劉備 / 劉表 / 華容侯国 / 漢水 / 官渡 / 宜城侯国 / 荊州 / 江夏郡 / 江陵県 / 襄陽県 / 章陵郡 / 汝陽県 / 青州 / 中廬侯国 / 長江 / 長沙郡 / 南郡 / 樊城 / 樊亭 / 魯陽県 / 県令 / 光禄勲 / 刺史 / 従事中郎 / 太守 / 大将軍 / 亭侯 / 東曹掾 / 別駕従事 / 列侯 / 宗賊 / 部曲

蒯祺Kuai Qi

カイキ
(クワイキ)

(?〜219)
漢房陵太守

襄陽郡の人。諸葛亮の姉婿《襄陽記》。

蒯越と同族であろうか。おそらく曹操か、あるいは劉表が領内の名士から蒯祺を選んで太守に任じたものだろう。

建安二十四年(二一九)、劉備の宜都太守孟達が秭帰から北上し、房陵を攻撃した。太守蒯祺は孟達の兵士に殺された《劉封伝》。

【参照】諸葛亮 / 孟達 / 劉備 / 宜都郡 / 秭帰県 / 襄陽郡 / 房陵郡 / 太守

蒯良Kuai Liang

カイリョウ
(クワイリヤウ)

(?〜?)

字は子柔。南郡中廬の人《劉表伝》。

『演義』では蒯越の兄だとしている。

劉表が荊州刺史になったとき、長江以南には宗賊ども、魯陽には袁術、長沙には蘇代、華容には貝羽らがいて、それぞれが軍勢を抱えて混乱を起こしていた。劉表は赴任するなり宜城に入り、蒯良・蒯越・蔡瑁を招いて協議した《劉表伝》。

蒯良は「民衆が懐かぬのは仁が不足しているからです。懐いても安定しないのは義が不足しているからです。仁義の道を行くならば百姓たちは川の流れのように帰服するでありましょう。なぜ任地での不服従を心配し、軍兵を催して策略をお訊ねなさるのですか?」と述べたが、劉表は「利益を示してやれば、彼らは必ず軍勢を率いて来降します」との蒯越の言葉に従い、「子柔どのの言葉は雍季の議論、異度(蒯越)どのの計略は臼犯の策謀ですな」と評した《劉表伝》。

【参照】袁術 / 蒯越 / 臼犯 / 蔡瑁 / 蘇代 / 貝羽 / 雍季 / 劉表 / 華容侯国 / 宜城侯国 / 荊州 / 中廬侯国 / 魯陽県 / 長江 / 長沙郡 / 南郡 / 刺史 / 宗賊

郝凱Hao Kai

カクガイ

(?〜?)

太原の人、郝昭の子《明帝紀》。

【参照】郝昭 / 太原郡

郝昭Hao Zhao

カクショウ
(カクセウ)

(?〜?)
魏雑号将軍・列侯

字は伯道。太原の人《明帝紀》。

郝昭の人となりは雄壮で、若いころから軍隊に入り、部曲督となり、しばしば戦功を立てて雑号将軍に昇進した《明帝紀》。

延康元年(二二〇)五月、西平の麴演が隣郡と手を結んで叛乱を起こすと、張掖の張進は太守杜通を捕らえ、酒泉の黄華は太守辛機を受け入れず、それぞれ太守を自称して麴演に呼応した。もともと郝昭は魏平とともに金城を守っていたが、詔勅を受けても西へ進むことができなかった。金城太守蘇則は郡の重役や郝昭らを招いた《蘇則伝》。

蘇則が「賊徒は数多いが脅迫されて味方している者も多く、そこに付け込んで攻撃すれば善人を帰順させることができよう。大軍の到着を待っていても、善人と悪人を協力させるだけだ」と告げると、郝昭らは彼に賛同した。そこで武威を救援し、武威太守毌丘興とともに張掖の張進に攻撃をかけた。麴演が軍勢を率いて援助を申し出てきたが、蘇則は会見の席上で彼を斬首した。蘇則・郝昭らは張掖を包囲して陥落させ、張進を斬首した。黄華は恐怖して降服し、河西地方は平定された《蘇則伝》。

太和元年(二二七)春正月、西平の麴英が反乱を起こし、臨羌の県令と西都の県長を殺した。郝昭・鹿磐が征討に派遣され、これを斬首した《明帝紀》。

翌二年春、諸葛亮が祁山に進出してきたが、曹真・張郃らの働きによって撃退された。曹真は諸葛亮が矛先を変えて次は陳倉に侵入してくるだろうと予測し、郝昭・王生に陳倉を守らせ、その城を固めさせた《曹真伝》。郝昭は新たに陳倉の下城を築き、元の上城に連結させた《明帝紀集解》。

同年冬十二月、諸葛亮は果たして陳倉に進出して郝昭らを包囲した。諸葛亮はもともと陳倉城は粗悪だと聞いていたのに、実際に見てみるとよく整備されていたので意外に思い、その城内に郝昭がいると知って大いに驚愕した。郝昭が西方にあって威名を轟かせていたことを、諸葛亮はかねて知っていたからである。そして、これを攻撃するのは容易でないことを悟った《明帝紀集解》。

諸葛亮は郝昭と同郷の靳詳を使者として城外から降服を呼びかけさせた。郝昭は矢倉の上から答えた。「魏の法律はあなたもよくご存じだろう。私の人柄もあなたはよくご存じだろう。私は国家の御恩を多大に受け、一門も栄えるようになった。あなたは何も言うな。ただ死を覚悟するだけだ。あなたは帰って諸葛亮に伝えてくれ、すぐに攻撃せよと。」《明帝紀》

『集解』に引く『魏略』によると、郝昭は「むかし防備を固めて祁山を守ったときは安閑として用心が足らず、最終的に守りきることができたとはいえ今でも忸怩たる思いを抱いておるのだ」と語っている。諸葛亮を祁山から先へ進軍させなかったのは、郝昭の功績だということになる。

諸葛亮は郝昭の言葉を聞くと、ふたたび靳詳を使者として「人数が同等ではないのだから自分から無駄死にするような真似はなさるな」と説得させた。郝昭は靳詳に告げた。「以前の言葉でもう決まりだ。私があなたのことを知っていても、矢はあなたのことを知らないのだぞ。」靳詳は立ち去った《明帝紀》。

諸葛亮は軍勢数万を抱えており、郝昭の軍勢がわずか千人余りであるし、東方からの救援軍もすぐには到着しないだろうと考え、そこで軍勢を進めて郝昭を攻撃させた。まず雲梯・衝車を城壁に迫らせると、郝昭は火矢を雲梯に向かって放ち、雲梯に乗っていた者をみな焼死させた。また石臼を繩で繋いで衝車に投げ落とすと、衝車は破壊された《明帝紀》。

諸葛亮が次に百尺もある井闌から城内に矢を注がせつつ、瓦礫で堀を埋め、城壁を直接よじ登らせようとしたが、郝昭はまた内側に二重の壁を作った。諸葛亮が今度は地下道を作って城内に躍り出ようとすると、郝昭は城内で地面を掘り、それを遮断した。こうして昼も夜も戦い続けて二十日余りが経ち、諸葛亮は万策尽き、救援軍が到着したので引き揚げていった《明帝紀》。郝昭がよく守ったということで詔勅によるお褒めに与り、列侯の爵位を賜った《明帝紀》。

河西地域を鎮めること十年余り、民衆も夷族たちも畏服した《明帝紀》。帰国して帝に拝謁したとき、帝は彼を慰労しつつ中書令孫資の方を振り返り、「あなたの郷里にはこのような快男児がおって、将軍としてこれほど輝いておる。朕はもう何を心配することがあろうか」と言った。そこで大役に抜擢しようとしたところ、ちょうど病気にかかって郝昭は亡くなった《明帝紀》。

郝昭は息子郝凱にこう遺言した。「私は将軍となり、将軍になどなるものではないと悟った。たびたび塚を発掘して木材を取り、戦争の道具に使ったから、手厚い埋葬が死者にとって無益であることを知った。必ず季節の服で埋葬せよ。それに人間は生きていてこそ居場所があるのだ。死んだらどこに住まうというのか(場所は関係ないのである)。ここは祖先の墓から遠く離れてはいるが、東西南北どこであろうとお前次第である。」《明帝紀》

【参照】王生 / 郝凱 / 毌丘興 / 魏平 / 麴英 / 麴演 / 靳詳 / 黄華 / 諸葛亮 / 辛機 / 蘇則 / 曹叡(帝) / 曹真 / 孫資 / 張郃 / 張進 / 杜通 / 鹿磐 / 河西 / 魏 / 祁山 / 金城郡 / 酒泉郡 / 西都県 / 西平郡 / 太原郡 / 張掖郡 / 陳倉県 / 武威郡 / 臨羌県 / 県長 / 県令 / 雑号将軍 / 太守 / 中書令 / 列侯 / 雲梯 / 衝車 / 井闌 / 地突(地下道) / 部曲督

郝萌Hao Meng

カクボウ
(カクバウ)

(?〜196)

呂布の将。河内郡の人《呂布伝》。

郝萌は袁術の内意を受けて叛乱を企てていた。その計画について曹性に質問するたび「呂将軍は神性が備わっているため攻撃することは不可能だ」と反対されていたが、建安元年(一九六)六月、ついに郝萌は叛乱を起こし、夜中、軍勢を率いて下邳の治府に侵入し、外から一斉に叫び声を揚げつつ政庁を攻め立てた《呂布伝》。

しかし政庁が堅牢であったため中に入ることができず、呂布はその間に逃げ出してしまった。高順の軍勢が治府へ駆けつけてきて、弓弩を発射したので郝萌勢は潰走し、夜明けまでに自陣へと帰っていった。そこで曹性が呂布方に寝返って一騎打ちとなり、郝萌は彼を突き刺して傷を負わせたが、彼自身も片腕を失った。そこへ高順がやって来て、郝萌は首を斬られた《呂布伝》。

【参照】袁術 / 高順 / 曹性 / 呂布 / 河内郡 / 下邳国 / 政庁(閤) / 府

郭援Guo Yuan

カクエン
(クワクヱン)

(?〜202?)
漢河東太守

袁尚の将。鍾繇の甥《龐悳伝》。

建安七年(二〇二)春、曹操が袁紹を破ったのち黄河を渡って袁尚を討伐したとき、袁尚は匈奴南単于呼廚泉をそそのかして叛乱を起こさせ、河東郡の平陽城を占拠させた。司隷校尉鍾繇が諸軍を統率してこれを包囲したが、まだ陥落しないうち、袁尚は郭援を河東太守に任じて幷州刺史高幹らとともに数万の軍勢で河東に侵入させた。さらに袁尚は馬騰・韓遂らともに密かに通謀していた《鍾繇・張既伝》。

鍾繇配下の諸将は撤退すべきだと主張したが、鍾繇は「それは戦う前に負けを取る考えだ。郭援は強情で負けず嫌いだから我が軍を侮っているはずだ。もし彼らが汾水を渡って陣営を築こうとしたら、渡りきらないうちに攻撃すれば大勝利を得られるだろう」と聞き入れず、郭援らを撃破するよう新豊県令張既・傅幹に馬騰を説得させた。馬騰は説得に応じて子馬超に一万人余りの軍勢を率いさせて鍾繇に合力させた《鍾繇・張既伝》。

郭援らは平陽城を目指して進軍し、道中すべての城を降伏させた。しかし絳邑に到達したとき、絳邑の県長賈逵は城に楯籠って抵抗し、郭援は呼廚泉を呼び出して両軍で激しく攻め立てた。絳の父老は賈逵を殺害しないよう郭援に請願した。絳が潰滅したとき、郭援は賈逵の名声を聞いていたので将軍に取り立てようと思い、武器で彼を脅迫したが、賈逵は「国家の長吏が賊に土下座できるか」と怒鳴った。郭援が彼を殺そうとすると、絳の官民が城壁に登って「約束が違うぞ」と叫び、郭援の側近も賈逵が義士であると考えて赦免を請願した《賈逵伝》。

賈逵は皮氏が郡の要衝であり、先に占拠したほうが勝つと見ていた。そこで郡治(安邑)に使者を送って「急いで皮氏を押さえよ」と告げた。郭援のほうでも絳の軍勢とともに皮氏に進軍しようとしていたが、賈逵が計略を用いて郭援の参謀祝奥を混乱させたので、郭援軍は七日間の足止めをくらった。河東郡の軍勢は賈逵の言葉に従って先に皮氏を占拠したので、敗北を免れた《賈逵伝》。

郭援は汾水を前にすると、鍾繇らを軽視し、諸将の諫言を聞き入れずに渡河しようとした。まだ半分しか渡りきらないうちに鍾繇軍の攻撃を受けた《鍾繇伝》。馬騰軍の先鋒龐悳は郭援の顔を知らなかったが、乱戦の中で自ら郭援の首を斬った《龐悳伝》。高幹・呼廚泉は降伏した《張既伝》。

鍾繇の軍中では、郭援が戦死したはずなのに彼の首が見つからないと言い合っていた。龐悳が遅れて帰陣し、鞬(ゆぎ)の中から首一つを出すと、それを見た鍾繇は大声で泣いた。郭援が鍾繇の甥だったからである。龐悳が謝罪すると、鍾繇は「郭援は我が甥だが国賊である。卿はなぜ謝るのだ?」と言った《龐悳伝》。

【参照】袁尚 / 袁紹 / 賈逵 / 韓遂 / 呼廚泉 / 高幹 / 祝奥 / 鍾繇 / 曹操 / 張既 / 馬超 / 馬騰 / 傅幹 / 龐悳 / 安邑県 / 河東郡 / 絳邑 / 司隷 / 新豊県 / 皮氏県 / 汾水 / 幷州 / 平陽侯国 / 黄河 / 県長 / 県令 / 刺史 / 司隷校尉 / 太守 / 匈奴 / 単于 / 長吏 / 謀人(参謀)

郭汜Guo Si

カクシ
(クワクシ)

(?〜197)
漢車騎将軍・開府・美陽侯

張掖の人。「郭氾」とも書き、また別名を「郭多」という《董卓伝・後漢書同伝》。

郭汜は董卓の校尉となり、李傕・張済らとともに牛輔に属して陝に駐屯し、中牟で朱儁を破ったのち、軍勢を出して陳留・潁川の諸県を荒らしまわっていた《董卓伝・後漢書朱儁伝》。

初平三年(一九二)四月、董卓が司徒王允・呂布らに殺され、牛輔も部下に殺されると、郭汜らは軍勢を解散して郷里に帰ろうとしたが、賈詡が「諸君らが一人で行くなら一介の亭長でも捕まえられるぞ。軍勢をまとめて長安を攻撃し、董公(董卓)の敵討ちをするのがよろしい」と告げると、郭汜らはこれに賛同した《董卓・賈詡伝》。

郭汜らは長安に向かって西上しながら、みちみち軍勢を拾い集め、長安に着くころには十万人以上にふくれあがった。やはり董卓の部曲であった樊稠・李蒙・王方ら、また楊定・胡軫も合流して長安を包囲した《董卓伝・後漢書同伝》。郭汜は長安城を北側から攻撃していたが、呂布が軍勢を押し出して「軍勢を下げよ。一対一で勝負しよう」と言ったので、これに応じて呂布と戦い、矛を突き立てられたが、部下に助けられた《呂布伝》。

六月、十日間の戦闘で長安は陥落し、郭汜は李傕らとともに入城し、多くの高官を殺害した。天子が王允とともに宣平門に昇ったのを見て平伏し、「何をしようとしているのか?」との下問に、「董卓の敵討ちをしたいだけで、叛逆するつもりはございませぬ」と答えた。王允は進退窮まって城門から降りたが、郭汜は王允を一族十人あまりとともに殺害した《董卓伝》。

こうして大赦令を出させ、李傕は揚武将軍、郭汜は揚烈将軍、樊稠らは中郎将を自称した。郿城で董卓の葬儀を行ったのち、九月、さらに李傕は車騎将軍・池陽侯・領司隷校尉・仮節となり、郭汜は後将軍・美陽侯、樊稠は右将軍・万年侯となり、朝政を専断した。張済は鎮東将軍・平陽侯となって陝に駐屯している《董卓伝・後漢書同伝》。

興平元年(一九四)三月、馬騰・韓遂らが長安に攻め寄せると、郭汜は樊稠・李利らとともに長平観で迎撃し、一万人余りを斬った。八月、樊稠とともに馮翊郡の羌族を撃破した。帰還すると郭汜・樊稠も開府の資格を加えられ、人事選抜にも参与するようになった《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

李傕はしばしば郭汜を招いて酒宴を開くことがあったが、郭汜を陣営に宿泊させて帰さないこともあった。郭汜の妻は、郭汜が李傕から婢妾を与えられて自分への愛が奪われるのではないかと思い、二人を仲違いさせようとした。李傕から食膳が贈られたとき、妻は味噌をこねて薬に見せかけ、郭汜が食べようとしたとき取り出して見せた。「一つの巣に二羽の雄鳥は並び立ちません。将軍が李公を信頼なさるのを疑っておりました」という妻の言葉を聞いた郭汜は、後日、李傕に招かれて泥酔し、毒薬を飲まされたのではないかと疑った。こうして二人は仲違いした《董卓伝》。

翌二年三月、郭汜は自分の陣営に天子を引き入れようと計画したが、配下の者が逃亡して李傕に告げたので、李傕は兄の子李暹に天子を脅迫して連れてこさせ、北塢に軟禁した。天子は大尉楊彪・司空張喜ら十人余りを使者として二人を和解させようとしたが、郭汜の方でも彼らを拘束し、李傕を攻撃しようと計画した。楊彪に「一方は天子を誘拐し、一方は公卿を人質にする。なんでそんなことをするのだ」と言われたので、郭汜は激怒して彼を殺そうとしたが、中郎将楊密たちが諫めたので手を止めた《董卓伝》。

四月、李傕の部将張苞・張龍は郭汜と通謀しており、夜間、郭汜の軍勢が李傕陣営を攻撃すると、家屋に放火して軍勢を迎え入れた。郭汜軍が放った矢は天子の御簾の中まで飛んできた《後漢書董卓伝》。

天子は謁者僕射皇甫酈を使者として李傕・郭汜を和解させようとした。郭汜はその勅命を受け入れたが、李傕は「郭汜は馬泥棒に過ぎないのに、どうして吾らと一緒になろうとするのか。それに郭汜は公卿を誘拐してるではないか」と言い、皇甫酈が「郭汜は張済・楊定らと通謀し、政府高官も頼りにしております」と言うのも聞き入れなかった《董卓伝》。

郭汜と李傕はお互いに何ヶ月にも渡って攻撃しあい、死者は一万人を越えた《董卓伝》。

李傕は楊奉・宋果らの叛乱によって衰退したので、六月、陝から上京してきた張済の仲介によって郭汜と和解し、弘農の曹陽亭に駐屯した。七月、天子は洛陽に帰還したいと思い、即日長安を出立することにした。宣平門の橋を渡ろうとしたとき、郭汜の手勢数百人が行く手を遮って「これは天子か?」と問うた。天子が「なぜ至尊に迫ろうとするのだ?」と言ったので、郭汜の手勢は道を開けた《董卓伝》。

張済は驃騎将軍となって陝に帰還し、郭汜も車騎将軍に昇進した。八月、御車は郭汜・楊定・楊奉・董承らに守られて新豊・霸陵のあたりに到達したところ、郭汜は再び天子を誘拐して郿に遷そうと計画したが、楊奉・楊定・董承はそれに反対した。十月、郭汜は部将五習に御車のある場所を焼き討ちさせたが、楊奉が天子を陣営に迎え入れて迎え撃ったので、郭汜は敗走して南の山に入った《董卓伝・後漢書献帝紀・同董卓伝》。

李傕もまた天子を手放したことを後悔していたので、郭汜と手を結んで一緒に追いかけていった。張済も楊奉・董承と仲違いし、李傕・郭汜に合流し、十一月、弘農の東の谷間で戦闘となった。楊奉は白波賊の韓暹・胡才・李楽らを迎え入れて迎撃させたが、十二月、弘農の曹陽亭で大合戦のすえ敗北した。李傕・郭汜らは兵士を放って公卿百官を殺し、宮女を誘拐した。《董卓伝・後漢書同伝》。

御車が陝から黄河を渡って安邑に到達すると、太僕韓融は弘農に赴き、李傕・郭汜らと講和し、公卿百官・宮女および車馬数乗を返還させた《董卓伝》。

建安二年(一九七)、李傕は謁者僕射裴茂に誅殺され、郭汜も部下の五習に襲われて郿城で死んだ。張済は南陽で略奪を働いたため住民に殺害された《董卓伝》。

【参照】王允 / 王方 / 賈詡 / 韓遂 / 韓暹 / 韓融 / 牛輔 / 五習 / 胡才 / 胡軫 / 皇甫酈 / 朱儁 / 宋果 / 張喜 / 張済 / 張苞 / 張龍 / 董承 / 董卓 / 馬騰 / 裴茂 / 樊稠 / 楊定 / 楊彪 / 楊奉 / 楊密 / 李楽 / 李暹 / 李傕 / 李蒙 / 李利 / 劉協(天子) / 呂布 / 安邑県 / 潁川郡 / 黄河 / 弘農郡 / 新豊県 / 陝県 / 宣平門 / 曹陽亭 / 中牟県 / 池陽県 / 長安県 / 張掖郡 / 長平観 / 陳留郡 / 南陽郡 / 霸陵県 / 郿県 / 美陽県 / 馮翊郡 / 平陽県 / 北塢 / 万年県 / 洛陽県 / 右将軍 / 謁者僕射 / 仮節 / 侯 / 校尉 / 後将軍 / 司空 / 司徒 / 司隷校尉 / 車騎将軍 / 大尉 / 太僕 / 中郎将 / 鎮東将軍 / 亭長 / 驃騎将軍 / 白波賊 / 府 / 領

郭昭Guo Zhao

カクショウ
(クワクセウ)

(?〜?)
漢射声校尉

袁尚の将。射声校尉《檄呉将校部曲文》。

建安九年(二〇四)二月、袁尚は審配・蘇由を鄴の守備に残し、自ら平原の袁譚を討伐した。その留守を衝いて曹操が鄴城を包囲したため、七月、袁尚は鄴の城外まで引き返したが、曹操の逆包囲を恐れて逃走する。このとき曹操が追撃しようとすると、郭昭は矛を交える寸前、馬延・張顗・陰夔らとともに降服した。そのため袁尚軍は大潰滅する《武帝紀・袁紹伝・檄呉将校部曲文》。

【参照】陰夔 / 袁尚 / 袁譚 / 審配 / 蘇由 / 曹操 / 張顗 / 馬延 / 鄴県 / 平原郡

郭祖Guo Zu

カクソ
(クワクソ)

(?〜?)
漢屯騎校尉・都亭侯?

袁紹の将。海賊。

泰山には人々が混乱を避けて隠れ住んでいると言われていたが、郭祖は袁紹から中郎将の官職をもらって泰山に楯籠り、公孫犢らとともに百姓たちを苦しめていた。泰山太守呂虔は家子郎党を率いて着任すると恩愛と信義を示したので、郭祖らは彼に帰服した《呂虔伝》。

郭祖は海賊として楽安・済南の郡境を横行し、州郡の人々を苦しめていたが、曹操は何夔が長広太守だったとき威信があったことを見ていたので、彼を楽安太守に任命した。何夔が着任して数ヶ月のあいだに諸県は全て平定された《何夔伝》。

のちに群臣が尊号を奉る上奏をしたとき、「屯騎校尉・都亭侯の臣祖」が名を連ねているが、郭祖のことではないかと考えられている《呂虔伝集解》。

【参照】袁紹 / 何夔 / 公孫犢 / 曹操 / 呂虔 / 済南国 / 泰山 / 泰山郡 / 長広郡 / 楽安国(楽安郡) / 太守 / 中郎将 / 都亭侯 / 屯騎校尉 / 家兵(家子郎党) / 海賊 / 上尊号奏(尊号を奉る上奏)

郭多Guo Duo

カクタ
(クワクタ)

郭汜

郭図Guo Tu

カクト
(クワクト)

(?〜205)
漢都督

字は公則《後漢書袁紹伝》。潁川の人《荀彧伝》。

南陽の陰脩は潁川太守になると賢明英俊たる者を役職に就けた。五官掾張仲を方正に、功曹鍾繇・主簿荀彧・主記掾張礼・賊曹掾杜祐・孝廉荀攸・計吏郭図を官吏として推挙し、朝廷を輝かせた《鍾繇伝》。

初平元年(一九〇)、冀州牧韓馥が同郡の荀彧を呼び寄せた。荀彧が宗族を連れて冀州に行ったとき、すでに袁紹が韓馥の官位を奪い取っていた。袁紹は上賓の礼をもって荀彧を待遇し、荀彧の兄荀諶、同郡の辛評・郭図もみな任用された。しかし荀彧は袁紹が大事をなすことができないとみて、翌二年に立ち去った《荀彧伝》。郭嘉もまた袁紹に拝謁していたが、辛評・郭図に「袁公は周公の士にへりくだるのを真似ておいでだが、人を任用する機微を知らぬ。ともに天下の大問題を片付け、霸王の業を完成させるのは難しかろう」と告げて去っている《郭嘉伝》。

おそらく郭図は荀彧らとともに韓馥に招かれていたのだろう。韓馥を説得して冀州牧の座を袁紹に譲らせたのは郭図であるが、荀彧が到着したときには既に袁紹が立っていた。郭図の方が一足早く到着していたことになる。

同二年、袁紹は張導・郭図・高幹らに韓馥を説得させ、冀州を袁紹に譲らせている《臧洪伝・後漢書同伝》。

興平二年(一九五)冬、天子が曹陽で追い詰められていると聞き、沮授が天子を迎え入れて鄴を都とすべしと主張した。郭図は淳于瓊とともに「漢室は衰退して日が長く、今さら復興させようとしても困難ではありますまいか。いま天子をお迎えすれば行動するたびに上表することになりますが、それを遵守すれば権威が軽くなり、それに違背すれば命令に背いたことになります。よい計略ではございません」と反対した。もともと帝が即位したのも袁紹の本意ではなかったので、結局見送ることになった《袁紹伝注・後漢書同伝》。

郭図が使者となって天子のもとに遣わされ、帰ってくると、天子を迎えるべきと袁紹を説得したという説があり《袁紹伝》、どちらが正しいか分からない。沮授は当初より天子奉迎を計画していたため、ここでは沮授の計略として採用する。

建安五年(二〇〇)、袁紹が大軍を催して許を攻撃せんとしたとき、沮授・田豊は「まず黎陽に進出してゆっくり黄河南岸に漸進し、艦船を建造して兵器を修繕するとともに、精鋭の騎兵を分遣して辺境を荒らさせて彼らを不安に陥れます。我らが十全の力をもってすれば、三年のうちに平定できるでしょう」と主張したが、郭図は審配とともに「兵書に十倍なら囲み、五倍なら攻め、互角なら全力で戦うとあります。いま明公の神武、河北の強兵をもって曹氏を討伐しており、その勢いは掌を返すが如きもの。今すぐ取らねば、のちのち狙いにくいことになりましょうぞ」と反対した《袁紹伝・後漢書同伝》。

沮授「混乱を救って暴虐を伐つのを義兵、多勢を当てにして精強を頼むのを驕兵と言います。義は無敵ですが、驕った方は先に滅びます。曹操は天子を奉迎して許都に宮殿を建てているのですから、いま軍勢をこぞって南進するのは義に背いているのです。それに勝利を決する策は強弱にあるのではない。曹操の軍令は行き届き、士卒はよく訓練されている。公孫瓚が手をこまねいて包囲を受けたのとは違いますぞ。いま万全の策を棄てて名分のない軍を起こしたことは、密かに公のために危惧されるところです」、郭図ら「武王が紂を討伐したのを不義とは言わぬ。ましてや曹操に軍勢を差し向けるのを名分なしと言うか!それに公の軍は精強で、臣は尽力し、将兵は憤怒して全力を出しきろうとしている。時機に応じて速やかに大事業を完成しようとしないのは、熟慮による失敗です。そもそも天の与うるを取らざればかえって咎を受くもの。これこそ越が霸を唱え、呉が亡んだ所以です。監軍(沮授)の計略は堅牢さを求めるものですが、時機を察知して変化する計略ではありません」。袁紹はこれを採用した《袁紹伝・後漢書同伝》。

郭図はことについでに沮授を讒言した。「沮授は内外を総監して威勢は三軍を震わせております。つけ上がってきたならどうやって制御なさるのですか?そもそも臣下が主君に同意すれば栄え、主君が臣下に同意するようになれば亡ぶもので、これは黄石公の嫌うところです。ましてや外部で軍勢を統御させているのですから内部に干渉させてはなりませぬ」。袁紹は沮授を疑うようになり、監軍職を分割して三都督とし、沮授および郭図・淳于瓊にそれぞれ一軍づつ仕切らせることにした《袁紹伝・後漢書袁紹伝》。

「臣下が主君と等しくなければ栄え、主君が臣下と等しければ亡ぶ」あるいは単に「臣下が主君と等しくなれば亡ぶ」とする説がある。主語の入れ替えがあることから上を正しいとみた。郭図の指摘にはなんら不審な点はなく、いたって正当な発言だと言えるだろう。郭図には讒言者のイメージが強いが、実際にはこの沮授の件と張郃との二例だけである。しかもどちらの説も疑わしい。郭図は讒言していないと結論したい。

二月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を派遣して白馬を包囲させたが、顔良が曹操に斬られると、袁紹は黎陽から黄河を渡って延津の南に塁壁を築いた。このとき沮授が病気を口実に渡河しようとしなかったので、袁紹は許可を下さず、彼を恨んでその手兵を郭図の手に編入した《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。

白馬包囲は顔良単独によるものとの説があるが《袁紹伝》、これは顔良の敗北を予知したという沮授を美化するためのものとみて採用しない。

袁紹は淳于瓊をやって兵糧輸送車を護送させていたが、曹操は彼が烏巣にいると聞いて奇襲を企てた。袁紹の将張郃が言った。「曹公の軍勢は精強ですから行けば必ず淳于瓊を破ります。淳于瓊が破られれば将軍の事業はおしまいですぞ」、郭図「張郃の計略はまずい。奴らの本営を攻撃するに越したことはなく、情勢からいって必ず引き返します。これぞ救わずして自ずと解くというものであります」、張郃「曹公の陣営は堅固であり、これを攻撃してもきっと陥落させられますまい。もし淳于瓊らが生け捕りになったら、吾らも残らず捕虜になってしまいましょうぞ」。袁紹はただ軽騎兵だけを派遣して淳于瓊を救わせ、そして重装兵でもって曹操の陣営を攻撃したが、陥落させられなかった。曹操は果たして淳于瓊らを打ち破り、袁紹軍は潰滅した。郭図は恥ずかしく思い、また改めて張郃を讒言した。「張郃は軍の敗北を喜び、吐く言葉も不遜です」。張郃は恐怖し、そこで曹操のもとに身を寄せた《張郃伝》。

裴松之の指摘するように、『張郃伝』では袁紹軍の敗北のあと張郃が降服したとし、『武帝紀』『袁紹伝』では張郃らが降服したため袁紹軍が敗北したとする矛盾がある。張郃の経歴を美化するため、『張郃伝』側が作り話をしたという見方が有力《張郃伝集解》。よって郭図の讒言は存在しなかったことになる。

袁紹が官渡で敗北すると、審配の子息二人が曹操に捕らえられた。審配と仲が悪かった孟岱は、蔣奇に意を含めて袁紹に伝えさせた。「審配は専政できるほどの位にあり、宗族は多くて軍勢も強い。しかも子息二人が南方にいるのです。必ず叛意を抱きましょうぞ」、と。郭図・辛評もまたその通りだと主張した。袁紹はかくて孟岱を監軍とし、審配の後任として鄴を守らせたのである。しかし護軍の逢紀は審配と仲が悪かったが、彼のために取りなしてやって審配を復帰させた《後漢書袁紹伝》。

七年夏、袁紹は薨去したが、跡継ぎを決めていなかった。逢紀・審配は袁尚と親しく、かねて驕慢・贅沢さを袁譚に疎まれており、辛評・郭図はみな袁譚と親しく、審配・逢紀とは仲が悪かった。人々は袁譚が年長ということで擁立したく思っていたが、審配らは袁譚が立てば辛評らに危害を受けるだろうと恐れ、ついに袁紹の遺命を偽作して袁尚を後継者に立てた。袁譚は到着しても後継者になれず、車騎将軍を自称して黎陽に屯した。これにより袁譚・袁尚は仲違いした《袁紹伝・後漢書袁紹伝》。

曹操が黄河を渡って黎陽を攻撃すると、袁譚は袁尚に危急を告げた。袁尚は審配を鄴の守備に残し、自ら袁譚を救援し、力を合わせて曹操と対峙した。九月から翌年二月まで城下で大戦が続き、袁譚・袁尚は敗退した《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。曹操軍の諸将は勝利に乗じて攻め込もうと主張したが、郭嘉が「袁紹は二人の子を愛して嫡子を立てなかった。郭図・逢紀が彼らの謀臣となっており、そのうち抗争が始まるに違いない。追い詰めれば助け合うだろうが、泳がせれば争いの心が生ずるだろう」と言うので、曹操は南方へ引き揚げた《郭嘉伝》。

袁譚は「我が軍の甲冑が精巧でないため曹操に負けたのだ。いま曹操軍は撤退しようとして兵士どもは帰郷の念にかられている。彼らが渡河を終えぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ。この機会を失ってはならん」と袁尚に告げたが、袁尚は彼を疑い、軍勢を貸すことも甲冑を換えてやることもしなかった。郭図・辛評は激怒する袁譚に告げた。「先公(袁紹)が将軍を外に出して弟を先にしたのは、みな審配の差し金ですぞ」。袁譚はその通りだと思い、そのまま軍勢を率いて袁尚を攻め、外門において戦ったが、敗北して南皮に帰還した《後漢書袁紹伝》。

郭図は言った。「いま将軍の国土は小さく軍勢は少なく、兵糧は底を突いて勢力も弱い。顕甫(袁尚)が来れば長く戦うことはできませんぞ。愚考するに、曹公を呼び出して顕甫を攻撃させるがよろしいでしょう。曹公が来ればまず鄴を攻めるはず。顕甫が救援に戻れば、将軍は軍勢を率いて西進し、鄴以北をみな獲得することができます。もし顕甫が敗北してその軍勢が逃亡してくれば、拾い集めて曹公と対峙することもできましょう。曹公は兵糧を遠方に頼っており、兵糧が続かねば必ず自分から逃走します。さすれば趙国以北はみな我らが領有となり、やはり曹公と対峙するに充分です」。袁譚ははじめ受け入れなかったが、後になって聞き入れた。郭図は曹操への使者として辛毗を推薦した《辛毗伝》。

荊州牧劉表は、袁兄弟が仲違いしていると聞き、和解の手紙を王粲に書かせた。「変事は辛・郭より起こされ、災禍は同胞にもたらされたと聞いております」、と《後漢書袁紹伝》。また審配も袁譚に手紙を書き、「どうして凶悪な臣下郭図なぞに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか」と告げ《後漢書袁紹伝》、あなたのために郭図を取り除きたいのだと言った《袁紹伝》。袁譚はその手紙を受け取ってしょんぼりとし、城郭に登って泣いた。しかし郭図に拘束され、たびたび矛先を交えていたため、結局戦闘は止まなかった《袁紹伝》。

『三国志』袁紹伝では「凶悪な臣下」を逢紀のこととするが、こちらの方が原文に近いようだ《袁紹伝集解》。

九年十二月、曹操は平原に進出して袁譚を討伐し、その軍門で戦おうとしたが、袁譚は出撃せず、夜中に南皮へと逃走した。袁譚は清河の流れを前にして屯した。翌年正月、曹操はこれを急襲した。袁譚は出撃しようとしたが、なかなか軍勢が集合しなかったため破られた。こうして袁譚・郭図らは斬られ、その妻子は処刑された《後漢書袁紹伝》。

【参照】陰脩 / 殷紂王(紂) / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 王粲 / 郭嘉 / 韓馥 / 顔良 / 公孫瓚 / 高幹 / 黄石公 / 周公旦(周公) / 周武王(武王) / 荀彧 / 荀諶 / 荀攸 / 淳于瓊 / 蔣奇 / 審配 / 沮授 / 鍾繇 / 辛毗 / 辛評 / 曹操 / 張郃 / 張導 / 張礼 / 田豊 / 杜祐 / 逢紀 / 孟岱 / 劉協(天子) / 劉表 / 烏巣 / 潁川郡 / 越 / 延津 / 外門 / 河北 / 官渡 / 冀州 / 許県(許都) / 鄴県 / 荊州 / 呉 / 黄河 / 清河 / 曹陽亭 / 趙国 / 南皮県 / 南陽郡 / 白馬県 / 平原郡 / 黎陽県 / 監軍 / 計吏 / 功曹 / 孝廉 / 五官掾 / 護軍 / 車騎将軍 / 主記掾 / 主簿 / 賊曹掾 / 太守 / 都督 / 方正 / 牧 / 上賓之礼

郭氾Guo Fan

カクハン
(クワクハン)

郭汜

郭攸之Guo Youzhi

カクショウ
(クワクイウシ)

(?〜?)
蜀侍中

南陽の人《董允伝》。字は「演長」と見られている《廖立伝集解》。

郭攸之は器量と学業によって名を知られ、中郎から侍中へと昇進した《董允・廖立伝》。丞相諸葛亮は北伐のために漢中へと赴くにあたり、上疏して述べた。「侍中の郭攸之・費禕、侍郎の董允らはみな実直で、心は純粋です。これは先帝が陛下のために選抜してお遺しになった者たちです。国益を計算して見極め、忠言を尽くすことこそ、彼らの任務です。宮中の事柄は大小の区別なく彼らとご相談ください。必ずや遺漏を補って利益をもたらしてくれるでしょう。もし盛徳を高める言葉がなければ、すぐさま処刑してその怠慢を明らかにしてくださいませ。」《諸葛亮・董允伝》

同じく侍中であった董允が公明正大であったのに対し、郭攸之は人なつこい性格であったので、ただ定員を埋めるだけでしかなかった。そのため侍中から長水校尉へと左遷された廖立は「中郎の郭演長は他人の言いなりになるだけで、ともに大事を計るには不足しているのに、それが侍中になっている」と激しく非難している《董允・廖立伝》。

【参照】諸葛亮 / 董允 / 費禕 / 劉禅(陛下) / 劉備(先帝) / 廖立 / 漢中郡 / 南陽郡 / 侍中 / 丞相 / 侍郎 / 中郎 / 長水校尉

霍奴Huo Nu

カクド
(クワクド)

(?〜205)

涿郡故安の人《武帝紀》。

建安十年(二〇五)四月、趙犢とともに幽州刺史・涿郡太守を殺害、その年の八月、曹操に斬られた《武帝紀》。

このとき殺された幽州刺史は焦触ではないようである。名は伝わっていない。

【参照】曹操 / 趙犢 / 故安県 / 涿郡 / 刺史 / 太守

楽何当Yue Hedang

ガクカトウ
(ガクカタウ)

(?〜?)

公孫瓚の義弟《公孫瓚伝》。

もともと大店の主であったが、劉緯台・李移子とともに公孫瓚に寵愛され、義兄弟の契りを結ぶ。凡庸であったが、公孫瓚の寵愛を嵩にきて勝手気ままに振る舞い、巨万の富を築いた。お互いに女を自分の息子の嫁に迎え、自分たちを曲周侯・灌嬰になぞらえていた《公孫瓚伝》。

【参照】灌嬰 / 公孫瓚 / 鄜商(曲周侯) / 李移子 / 劉緯台 / 賈人(大店の主)

楽綝Yue Chen

ガクチン

(?〜257)
魏衛尉・広昌亭愍侯

陽平衛国の人。楽進の子、楽肇の父《楽進伝》。

楽綝は剛毅果断にして父親同等の風格を備えており、父が亡くなるとその家業を継いだ《楽進伝》。

正元二年(二五五)正月、鎮東大将軍毌丘倹・揚州刺史文欽が反乱を起こしたので、二月、大将軍司馬師が歩騎十万人余りを率いてその鎮圧に当たることになった。文欽の子文鴦が騎兵十人余りとともに突出してきたため、司馬師は引き下がり、左長史司馬璉に騎兵八千を授けて背後を襲わせ、将軍楽綝らに歩兵を預けてそれを援護させた。沙陽に到着するなり文欽陣営は陥落し、文欽父子は旗下を連れて呉へと亡命した《晋書景帝紀》。

甘露二年(二五七)五月、鎮東大将軍諸葛誕が中央に徴されて司空に任命されたが、諸葛誕は「我が三公になるのは王文舒の次のはずだ。しかも使者を出さずに兵士に辞令を届けさせているし、軍勢を楽綝に委ねよと言うておる。これは楽綝の仕業だろう」と考え、側近数百人を連れて揚州(の役所)へ押し寄せた《諸葛誕伝》。

同月六日、揚州刺史楽綝は城門を閉ざしたが、諸葛誕は南門から「洛邑へ帰るついでに散歩しておるだけなのに、なぜ門を閉ざすのかね?」と言いながら東門に回った。兵士に城壁を登らせたり城門を攻めさせたりしたので、城兵はみな逃げ去った。諸葛誕が番人を叱りつけて門をくぐったので、楽綝は城郭の矢倉に逃げこんだが、結局、斬られてしまった《諸葛誕伝》。

諸葛誕はこのとき、上表して「楽綝は嘘ばかり言っていて、臣が呉とやり取りをしているとか、詔勅により臣の後任になったなどと申しました。それゆえ臣は国家の命令を奉じ、今月六日に楽綝を討伐し、その日のうちに斬首いたしました次第です」と述べている《諸葛誕伝》。

帝は詔勅により哀悼の辞を述べ、衛尉の官職を追贈し、愍侯と諡した《楽進伝》。

【参照】王昶(王文舒) / 楽進 / 楽肇 / 毌丘倹 / 司馬師 / 司馬璉 / 諸葛誕 / 曹髦(帝) / 文俶文鴦) / 文欽 / 衛公国 / 呉 / 沙陽 / 揚州 / 陽平国 / 雒陽県(洛邑) / 衛尉 / 左長史 / 司空 / 刺史 / 大将軍 / 鎮東大将軍 / 愍侯 / 諡

桓礹Huan Yan

カンガン
(クワンガン)

桓曄

桓厳Huan Yan

カンゲン
(クワンゲン)

桓曄

桓儼Huan Yan

カンゲン
(クワンゲン)

桓曄

桓典Huan Dian

カンテン
(クワンテン)

(?〜201)
漢光禄勲・関内侯

字は公雅。桓焉の孫、桓栄の玄孫にあたる。沛国龍亢の人《後漢書桓栄伝》。

桓典は十二歳のとき父母を失い、実母のように叔母に仕えた。潁川において『尚書』の講義を開き、門徒は数百人に上った。清廉節操を心がけ、他人から物を受けとることはなく、門生故吏が挨拶の品を贈ったときも、いちども受けとっていない《後漢書桓栄伝》。

孝廉に推挙されて郎となった。ほどなく沛相の王吉が罪科に問われて処刑され、知人や親戚でさえ引きとりに行く者がなかったが、桓典だけは官職を捨てて遺体を引きとり、故郷に埋葬してやって三年間の喪に服し、土砂を背負って墳墓を作り、祠堂を建立し、祭礼を尽くしてから帰った《後漢書桓栄伝》。

司徒袁隗の役所に招かれて高第に推挙され、侍御史を拝命した。そのころは宦官どもが権力を握っていたが、桓典は政務にあたって全く遠慮することがなかった。いつも蘆毛の馬を乗りまわし、京師の人々に「行っては止まれ、行っては止まれ、蘆毛の御史どのを避けよ」と畏れられた《後漢書桓栄伝》。

黄巾賊が滎陽で蜂起すると、桓典は勅命をこうむって軍勢を都督した。賊軍を打ちやぶって帰還したが、宦官に楯突いたため恩賞は下されなかった。御史に七年間も在職したが、昇進の沙汰はなく、のちに出向して郎となった《後漢書桓栄伝》。

在職を十年とする史書もある《後漢書桓栄伝注》。

霊帝が崩御すると、大将軍何進が政権を握った。桓典は何進とともに(宦官誅殺の)謀議をこらし、平津都尉、鉤盾令をへて羽林中郎将に昇進した。献帝が即位すると、三公たちが「桓典はかつて何進とともに宦官誅殺を計画いたし、功績は立てられなかったものの、忠義は顕著でございます」と上奏したので、詔勅により家族の一人が郎に取りたてられ、二十万銭が下賜された《後漢書桓栄伝》。

(献帝の)西上に随行して関中に入り、御史中丞を拝命、関内侯の爵位を賜った。御車が許に行幸したとき、光禄勲に昇進する《後漢書桓栄伝》。曹操は司空になったとき自分の後任として趙岐を推挙したが、桓典は少府孔融とともにこれを支持し、そのおかげで趙岐は太常に任命された《後漢書趙岐伝》。

建安六年(二〇一)、在職のまま卒去した《後漢書桓栄伝》。

【参照】袁隗 / 王吉 / 何進 / 桓栄 / 桓焉 / 孔融 / 曹操 / 趙岐 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 潁川郡 / 関中 / 許県 / 滎陽県 / 沛国 / 雒陽県(京師) / 龍亢県 / 羽林中郎将 / 関内侯 / 御史中丞 / 鉤盾令 / 高第 / 孝廉 / 光禄勲 / 三公 / 侍御史 / 司空 / 司徒 / 相 / 少府 / 大将軍 / 太常 / 督軍 / 平津都尉 / 郎 / 尚書 / 宦官 / 黄巾 / 府(役所) / 門生故吏

桓曄Huan Ye

カンヨウ
(クワンエフ)

(?〜?)

字は文林。桓鸞の子、桓良の孫、桓典の又従弟にあたる。沛国龍亢の人《後漢書桓栄伝》。別名を「厳」あるいは「礹」とも「儼」ともいった《後漢書桓栄伝・同集解》。

志操節義を修めることにかけては際だっていた。姑(おば)は司空楊賜の夫人となっていたが、桓曄の父桓鸞が卒去したとき、姑は葬儀に参列すべく帰郷し、到着の間際、駅舎に立ちよって従者におめかしをさせ、それから入城した。桓曄は内心それには批判的で、姑が弔辞を述べても返答せず、ただひたすら号泣を挙げるだけであった。楊賜は役人をやって祭祀を行わせたが、県を通じて祭祀の道具を取りあげようとしたが、桓曄は拒絶して受けいれなかった《後漢書桓栄伝》。

後年、たびたび京師へ出かける用事があったが、いちども楊氏のもとで宿泊することはなかった。その貞節ぶりはこれほどだったのである。賓客や従者たちも、みながその立派な行動を見習い、他人からは一飯の恩義ですら受けとることはなかった《後漢書桓栄伝》。

出仕して郡の功曹となり、のちに孝廉・有道・方正・茂才に推挙された。三公は揃って招聘したが、いずれにも応じなかった。

初平年間(一九〇〜一九四)、天下が混乱したので会稽へ避難することにした。呉郡を通ったとき、揚州刺史劉繇が役所の倉庫を開いて食料・衣服で不足するものを提供したが、なにも受けとらなかった。さらに東進して会稽の山陰県へ行き、故(もと)の魯相である鍾離意の屋敷に宿泊した。太守王朗が食料・絹・牛羊を提供したが、ひとつも受けとらなかった。立ち去るとき、屋敷にあったものはどんなに些細なものでもすべて残らず主人に返した《後漢書桓栄伝》。

住まいを揚州従事屈予の部屋に移した。中庭に一株の蜜柑の木があって、ちょうど実の熟すころであったが、木の四方に竹垣を作り、風が吹いて二つの実が落ちると、繩でもって枝につるして止めた。危急存亡のときでさえ、その節操はますます強固になるので、賓客や従者たちはみな、その行動に粛然とするのであった《後漢書桓栄伝》。海をわたって交阯に仮住まいすると、越の人々はその節義に感化され、村里においても訴訟沙汰を起こさなくなった《後漢書桓栄伝》。

邪悪な人間によって誣告され、合浦の獄中で死去した。

【参照】王朗 / 桓典 / 桓鸞 / 桓良 / 屈予 / 鍾離意 / 楊賜 / 劉繇 / 越 / 会稽郡 / 合浦郡 / 呉郡 / 交阯郡 / 山陰県 / 沛国 / 揚州 / 雒陽県(京師) / 龍亢県 / 魯国 / 功曹 / 孝廉 / 三公 / 司空 / 刺史 / 従事 / 相 / 太守 / 方正 / 茂才 / 有道 / 橘(蜜柑)

管亥Guan Hai

カンガイ

(?〜?)

黄巾賊《太史慈伝》。

初平二年(一九一)、北海国の相孔融は黄巾賊を討伐せんと都昌に入城したが、そこで賊将管亥の包囲を受けた。城内に孔融の恩義を蒙っていた太史慈という者がいて、二人の騎兵を連れて城外に出た。包囲陣の兵士たちが驚いて兵馬を繰り出すと、太史慈は馬首を返して堀の内側に入り、騎兵に持たせていた標的を地面に突き立てた。そしてまた堀を出てその標的を弓矢で射抜き、それから城門に入った《太史慈伝》。

太史慈は翌朝も同じようにして標的を射たが、包囲陣の兵士たちには立ち上がる者もいたし、寝そべったままの者もいた。その翌日も同じように城外に出ると、今度は立ち上がる者はなかった。そこで太史慈は馬を鞭打って包囲陣を突破し、平原に向かい、平原国の相劉備から精鋭三千人を借りて戻ってきたので、管亥らは包囲を解いて逃げ去った《太史慈伝》。

【参照】孔融 / 太史慈 / 劉備 / 都昌県 / 平原国 / 北海国 / 相 / 黄巾賊

管承Guan Cheng

カンショウ
(クワンシヨウ)

(?〜?)

長広の人。袁譚の将で海賊である《何夔伝》。

長広郡は泰山・東海に面した地域で、黄巾賊もまだ平定されておらず、豪族たちの多くが叛逆して袁譚から官位をもらっていた。管承もそうした者たちの一人で、三千戸余りを手下にして乱妨狼藉を働いていた《何夔伝》。

諸将は管承を攻撃しようとしたが、長広太守何夔は言った。「管承らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、混乱が習性となって自分で戻れなくなっていて、まだ教育を受けていないので善に立ち返ることを知らないのだ。いま軍勢で彼を脅せば、彼は皆殺しにされる事を恐れて力を合わせて戦うだろう。攻撃しても陥落させることは難しく、勝ったとしても官吏・人民を傷付けることになる。恩徳によって静かに教えさとし、自分で反省する余裕を持たせるとよかろう。軍勢を煩わせずとも平定できる」《何夔伝》。

まず郡丞黄珍を派遣して利害について説明させると、管承らはみな降服を願い出た。そこで役人の成弘をやって校尉の職務を受け持たせると、長広県丞らは城外まで出迎え、郡までやってきて牛肉と酒を献上した《何夔伝》。

建安十一(二〇六)年八月、曹操は淳于に軍を進め、楽進・李典を出して管承を攻撃させた。管承は海の向こうの島に逃れた《武帝紀・楽進・李典伝》。翌十二年八月に柳城で蹋頓を破った張郃は、北方から帰還すると東萊郡に入り、管承を討伐した《張郃伝》。

それぞれの事件が起こった年代がはっきりしない。管承が何夔に降服したのち張遼が東萊郡に入っているが《何夔伝》、それは建安十年正月に袁譚が敗死したのち「別働隊として海浜地帯に赴いた」《張遼伝》ときのことのようである。降服後もたびたび攻撃を受けているが理由はわからない。管承が降服したとき、県丞が牛酒を捧げていることを見ると、長広県は一県を挙げて管承に従っていたものと理解できる。

【参照】袁譚 / 何夔 / 楽進 / 黄珍 / 成弘 / 曹操 / 張郃 / 蹋頓 / 李典 / 淳于県 / 泰山 / 長広県 / 長広郡 / 東海 / 東萊郡 / 柳城 / 郡丞 / 県丞 / 校尉 / 太守 / 黄巾賊

管統Guan Tong

カントウ
(クワントウ)

(?〜?)
漢楽安太守

袁譚の将。

はじめ青州刺史袁譚のもとで東萊太守を務めていた。袁譚が袁尚と仲違いすると劉詢が漯陰で反旗を翻し、諸城はみな彼に呼応した。袁譚が「いま州を挙げて叛逆しているのはわしの不徳のせいなのか」と歎息すると、別駕従事王脩は「管統は叛きません。必ずやってきます」と言った。十日余りして管統は袁譚のもとに馳せ参じてきたが、郡に残した妻子は叛乱軍に殺されてしまった《王脩伝》。

太守でありながら妻子とともに任地にいたことから、彼は東萊郡の豪族であったと考えられる。おそらく管承とは同族でやはり黄巾賊あがりなのだろう。袁譚は領内に割拠する黄巾賊に官位を授けて手懐けていた《袁紹伝》。

そこで管統は楽安太守に任じられ、王脩も楽安で兵糧輸送にあたることになった。しかし袁譚は王脩の諫めを聞かずに袁尚と争い、曹操に付け込まれることになってしまった。王脩はそれを聞いて高城に駆け付けたが、すでに袁譚は曹操に処刑されていた。このとき諸城はみな曹操に降服していたが、管統だけは楽安城に楯籠っていた。曹操は王脩に袁譚の埋葬を許可するとともに、管統を斬ることを命じた。王脩は彼が亡国の忠臣であることから曹操のもとに出頭させたが、結局曹操は喜んで管統を赦免した《王脩伝》。

「高城」は原文に「高密」とあるのを改めた。高密は北海国に属し楽安の東方にあり、高城は勃海郡に属し北方にある。袁譚は西北方にいたので高城とすべきことがわかる。『集解』でも触れられていない。

【参照】袁尚 / 袁譚 / 王脩 / 曹操 / 劉詢 / 高城侯国 / 青州 / 漯陰県 / 東萊郡 / 楽安国 / 刺史 / 太守 / 別駕従事

綸直Guan Zhi

カンチョク
(クワンチヨク)

綸直

関純Guan Chun

カンジュン
(クワンジユン)

閔純

関靖Guan Jing

カンセイ
(クワンセイ)

(?〜199)
漢前将軍長史

字は士起。太原の人。公孫瓚の長史《公孫瓚伝》。

根っからの酷吏であり、媚びへつらうばかりで長期的な計画など持っていなかった。しかし公孫瓚には格別に信頼、寵愛されていた《公孫瓚伝》。

建安三年(一九八)、袁紹が総攻撃をかけてくると、公孫瓚は黒山賊張燕に救援を求めるとともに、みずから城外の包囲を突破、西山を迂回して袁紹軍の背後を衝こうとした。関靖は「いま将軍の将兵のうち脱走を企てぬ者はおりません。それでも彼らが防戦し続けるのは父や子を思い、将軍を頼りにしているからなのです。このまま堅守していれば袁紹の方から撤退するかも知れないのに、もし彼らを置き去りにして突出なさるならば、城を抑える者がいなくなり、易京を危険に陥れてしまいますぞ」と諫め、公孫瓚の出撃をやめさせた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

胡三省は、公孫瓚の計略は、下邳における陳宮の計略と同じであるが、いずれも用いられなかったため敗北したのだと指摘している《後漢書公孫瓚伝集解》。

翌四年、公孫瓚は敗北して易京は陥落した。関靖は恨み歎き、「あのとき将軍の出撃を止めなければ失敗することはなかっただろうに。君子たるもの、他人を危険に陥れてしまったなら、その困難を分かち合うものだと聞いている。一人だけ生き延びるわけにはいかぬ!」と言い、馬に鞭打って袁紹軍に突っ込んで死んだ《後漢書公孫瓚伝》。

【参照】袁紹 / 公孫瓚 / 張燕 / 易京 / 太原郡 / 長史 / 黒山賊 / 酷吏

韓揆Han Kui

カンキ

(?〜?)
漢緜竹主簿

字は伯彦。広漢郡緜竹の人《華陽国志》。

韓揆は県令錡裒の主簿であった。黄巾賊が緜竹県に入ったとき、韓揆は錡裒の手を引いて草むらに潜んだ。錡裒の命令によって彼が身を隠せるところを探していたが、まだ帰らないうちに、錡裒は賊徒に捕らわれて殺されてしまった。韓揆は錡裒の亡骸を棺に収めて地中に埋め、益州の従事賈龍のもとへ赴き、州兵を借りて賊徒を討伐したいと申し入れた。賊徒を撃破したのち、韓揆は「令君(ちじ)の敵討ちをしたかっただけだ。自分だけが生きているなんて忠義じゃないぞ」と言い、自殺して果てた《華陽国志》。

【参照】賈龍 / 錡裒 / 益州 / 広漢郡 / 緜竹県 / 県令 / 従事 / 主簿 / 黄巾賊

韓莒子Han Juzi

カンキョシ

(?〜200)
漢騎督

袁紹の臣、騎督《武帝紀》。韓猛と同人ではないかとも考えられている《荀攸伝集解》。

建安五年(二〇〇)十月、袁紹は官渡において曹操軍と対峙していたが、淳于瓊らの五将に軍勢一万人を授け、北方からの輜重車を護送させることにした。淳于瓊が北方へ四十里行った烏巣で宿営をしたところ、曹操が歩騎五千人を率いて夜襲をかけてきた。韓莒子はこの戦いで眭元進・呂威璜・趙叡とともに曹操軍に斬られている《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 韓猛 / 淳于瓊 / 眭元進 / 曹操 / 趙叡 / 呂威璜 / 烏巣 / 官渡 / 督将

韓玄Han Xuan

カンゲン

(?〜?)
漢長沙太守

建安十三年(二〇八)秋、荊州牧劉表が没すると、その将黄忠は曹操から裨将軍に任じられ、長沙太守韓玄に属して攸県に駐屯した《黄忠伝》。十二月、劉備は周瑜とともに赤壁で曹操を破り、劉琦を荊州刺史に任ずるよう上表したうえ、軍勢を荊州南部に進めると、韓玄は武陵太守金旋・零陵太守劉度・桂陽太守趙範とともに降服した《先主伝》。長沙の督学署に韓玄の墓と祠があるという《黄忠伝集解》。

もし彼が曹操によって北方から派遣された人物で、なおかつ長沙で命を終えたのであれば、降服後すぐさま劉備に殺されたことになるだろう。建安十六年に荊州牧劉備は劉璋に招かれて蜀に入ったが、それ以前、従事廖立を長沙太守に任じている。おそらくこの間に処刑されたのである。あるいはもともと地元の有力者から抜擢された可能性もあり、張羨とも関係があったかも知れない。

【参照】金旋 / 黄忠 / 周瑜 / 曹操 / 趙範 / 劉琦 / 劉度 / 劉備 / 劉表 / 荊州 / 桂陽郡 / 赤壁 / 長沙郡 / 武陵郡 / 攸県 / 零陵郡 / 刺史 / 太守 / 裨将軍 / 牧 / 督学署 / 墓 / 祠

韓珩Han Heng

カンコウ
(カンカウ)

(?〜?)
漢幽州別駕従事

字は子佩。代郡の人。幽州別駕従事《袁紹伝》。

焦触から任命を受けたとは考えられないので、袁煕時代からの別駕従事なのだろう。

清廉なうえ雅量があり、若くして父母を失うと兄や姉に孝養を尽くしたので、一族の者は孝行者と評判した《袁紹伝》。

建安十年(二〇五)正月、幽州刺史袁煕の大将焦触・張南が袁煕に叛き、焦触は幽州刺史を自称して諸郡の太守・県令を駆り出し、曹操に降ることを決めた。白馬を屠って盟約を固めることとし、「命令に背く者は斬る!」と告げたうえで盃を一同に回していった。

別駕従事韓珩は順番が来ると、「吾は袁公父子のご厚恩を蒙ってまいった。いまそれが滅亡したというに、智慧を絞って救済することも、武勇を奮って死ぬこともできずにいる。義を全うできなかったのだ。それを曹氏に北面することなぞよういたさぬ」と拒絶した。座中一同は彼を案じて顔色を失ったが、焦触は「韓珩の志を遂げさせてやって、君主に仕える者を励ますのもよかろう」と言って許した。

太祖(曹操)は韓珩の節義を敬い、たびたび招聘したが、韓珩は応じないまま家で亡くなった《袁紹伝》。

【参照】袁煕 / 焦触 / 曹操 / 張南 / 代郡 / 幽州 / 県令 / 刺史 / 太守 / 別駕従事

韓浩Han Hao

カンコウ
(カンカウ)

(?〜?)
魏中護軍・万歳亭侯

字は元嗣。河内郡の人《夏侯惇伝》。

漢代末期、兵乱が起こると、近くの山林から盗賊どもが何度も現れた。韓浩は人数を集めて本県を守護した。太守王匡が彼を従事に取り立てて軍勢を統率させ、盟津で董卓と対峙させた《夏侯惇伝》。そのころ韓浩の舅杜陽は河陰県令であったが、董卓が彼を捕らえて韓浩に投降を呼びかけさせた。しかし韓浩は承諾しなかった。袁術はそれを聞いて彼を壮士だと思い、騎都尉に任命した《夏侯惇伝》。

のちに夏侯惇が彼の名声を聞いて会いたがり、(実際に会うと)彼を大いに絶賛して軍勢を宰領させ、征伐に随従させた。興平元年(一九四)、張邈らが叛逆して呂布を招き入れた。呂布は濮陽城に入り、夏侯惇を人質に取って金品を要求した。夏侯惇軍は恐慌状態に陥った。韓浩は兵士を連れて夏侯惇陣営に乗り込み、軍吏・諸将を召集し、甲冑に身を固めて部署に戻り、動揺せぬよう言い付けた。その他の陣営もようやく鎮まった《夏侯惇伝》。

韓浩は夏侯惇の元へ行き、彼を縛り上げている連中を叱りつけ、「汝ら悪党は将軍を人質に取りながら生きていられると思っているのか。吾は賊徒討伐の命令を受けているのだから一介の将軍のために汝らの好き勝手させられるか!」と言った。そして夏侯惇には涙を流しながら「国法だから仕方ないのです」と言った《夏侯惇伝》。

韓浩が兵士に命じて攻撃させようとすると、捕縛者は土下座しながら「我はただ費用を頂戴して立ち去ろうとしただけなんです」と言った。韓浩は彼らを責め立てて、一人残らず斬首した。夏侯惇は命拾いした。曹操はそれを聞くと「卿の行動は万世の法とすべきだな」と韓浩に語り、今後は人質を取る者があっても気遣うことはせず、双方まとめて討ち果たすべしと軍令を定めた。このことから人質を取る者が後を絶ったのである《夏侯惇伝》。

建安元年(一九六)、政治上の得失について大々的な議論があり、韓浩は農事こそが急務であると考え、棗祗とともに屯田を始めるべきだと主張した。曹操はそれを評価し、護軍に昇進させた《武帝紀・夏侯惇伝》。韓浩は領軍の史渙とともに忠勇をもって名を挙げ、列侯に封ぜられた《夏侯惇伝》。

ここでは屯田制を建議した建安元年内に護軍へ昇進したように書かれているが、実際の任官はもう少し下るようだ。『晋書』職官志に「中領軍将軍は魏の官職である。建安四年、魏の武帝が丞相府に中領軍を置いた」、また「魏の武帝は宰相となり韓浩を護軍、史渙を領軍としたが、漢の官職ではない」とある。曹操が丞相になったのは建安十三年だから、中領軍が設置されたのは「十四年」の誤りであろうと趙一清は言う《曹休伝集解》。しかし韓浩が十二年の柳城遠征の時点ですでに護軍の官に就いていたのは確実で、また職官志は同年に護軍を中護軍と改名したとしており、趙一清説は間違いである。年代ではなく「丞相府」を「司空府」に改めるべきなのだろう。ただし司空府の属官を魏の官職とするには疑問が残る。

曹操が柳城討伐を計画したとき、史渙は「道程は遠く、深く進入することになるから、万全の計略ではない」と考え、韓浩へ一緒に諫めようと持ちかけた。韓浩は「いま軍勢は強盛で威信は四海に轟いている。戦えば勝利して攻めれば奪取して目的が達せられなかったことはない。このとき天下の患いを取り除かねば後々の憂いになろう。それに公の神武は発動に際して計画に遺漏がない。吾と君とは中軍の要なのだから軍勢を意気阻喪させてはなるまい」と言い、こうして従軍し、柳城を打ち破った《夏侯惇伝》。

同十二年、その官職が改名されて中護軍となり、長史・司馬が設置された《夏侯惇伝・晋書職官志》。十八年五月、献帝より曹操へ魏公に封ずるとの勅命が下った。曹操は再三辞退したが、韓浩は群臣・諸将とともに連署して拝受するよう勧めている。このとき肩書きは「中領軍・万歳亭侯」である《武帝紀》。

連署者のうちに中護軍曹洪があるが、これは都護将軍曹洪の誤りで、韓浩の肩書きも中護軍が正しいのだろう。また荀彧が万歳亭侯に封ぜられ、その子荀惲が食邑を継いでおり、ここに万歳亭侯とあるのも疑わしい。

二十年、張魯討伐に従軍した。張魯が降服したのち、軍議では「韓浩の智略は辺境を鎮めるに充分であります。ここに残して諸軍を都督させ、漢中を鎮められますよう」との意見が持ち上がった。しかし曹操は「吾が護軍を失ってよいものか」と言い、彼と一緒に引き揚げた。これほどまで信任されていたのである《夏侯惇伝》。

韓浩が薨去すると曹操は哀惜し、子がなかったので養子韓栄に跡を継がせた《夏侯惇伝》。

【参照】袁術 / 王匡 / 夏侯惇 / 韓栄 / 史渙 / 曹操 / 棗祗 / 張邈 / 張魯 / 杜陽 / 董卓 / 劉協(献帝) / 呂布 / 河内郡 / 漢中郡 / 魏 / 万歳亭 / 平陰県(河陰県) / 濮陽県 / 孟津(盟津) / 柳城 / 騎都尉 / 県令 / 公 / 護軍 / 司馬 / 従事 / 太守 / 中護軍 / 長史 / 亭侯 / 領軍 / 列侯 / 屯田

韓若Han Ruo

カンジャク

韓猛

韓荀Han Xun

カンジュン

韓猛

韓〓Han Xun

カンシュン

韓猛

韓遂Han Sui

カンスイ
(カンスヰ)

(?〜215)
漢鎮西将軍・開府

字は文約。金城の人《武帝紀》。もとは韓約という名だった《後漢書董卓伝》。

初め同郡の辺允とともに西方で著名だった。辺允は督軍従事となり、韓約は計(報告書)を奉じて京師に参詣したが、大将軍何進はかねてより彼の名声を聞いていたので、特別に彼と会見した。韓約は宦官どもを誅殺せよと説得したが、何進が聞き入れなかったので帰国を願い出た《武帝紀》。

中平元年(一八四)十一月、先零羌および枹罕・河関の盗賊ども、涼州義従宋建・王国らが叛逆し、湟中義従胡北宮伯玉・李文侯を擁立して将軍とした。金城郡まで来ると降参したふりをし、涼州の大人であった故(もと)の新安県令辺允、金城従事韓約との会見を求めた。韓約は会おうとしなかったが、太守陳懿が行って来るよう促した。王国らがすぐさま韓約ら数十人を人質に取ったので、金城は混乱し、陳懿が城を出たところで王国らは彼の手を引いて護羌校尉伶徴の陣営に行き、伶徴と陳懿を殺したが、韓約・辺允は釈放され、軍帥に擁立されて軍政を委ねられた。隴西郡では私情によって封をしない手紙を出し、韓約・辺允の名を挙げて賊徒になったと言った。涼州が韓約・辺允に千戸侯の懸賞をかけたので、韓約は韓遂、辺允は辺章と変名した《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。

韓遂らは州郡を焼き払い、翌年三月には数万騎を率いて三輔地方に侵入し、宦官を誅殺するのだと言いながら園陵を脅かした。詔勅が下り、左車騎将軍皇甫嵩・中郎将董卓が討伐にあたったが、皇甫嵩は成果を挙げられず罷免された。八月、朝廷は改めて司空張温を車騎将軍・仮節とし、執金吾袁滂・破虜将軍董卓・盪寇将軍周慎を統括させ、諸郡の郡兵合せて歩騎十万人余りを美陽に駐屯させて園陵を守ろうとした《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。張温は上表して別部司馬孫堅を参軍事にしてくれるよう要請し、また武将として陶謙も参軍事になっている《破虜・陶謙伝》。

辺章・韓遂らも美陽に着陣し、張温・董卓らと戦って勝利を収めたが、十一月、夜中に火のごとき流星が陣中を照らし出したので、それを不吉に思って金城に帰りたくなった。翌日、董卓が鮑鴻らと合流して辺章・韓遂らを大破し、斬首数千級を挙げた。辺章らは楡中に敗走した。周慎がそれを包囲したが、辺章らは軍勢を分割して葵園狭に駐留させて糧道を断ち切ったので、恐怖した周慎は輜重車を捨てて逃げ去った《後漢書董卓伝》。

三年冬、張温が京師に徴し返されると、韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺し、十万人余りの軍勢を擁して隴西を包囲した。太守李相如は寝返って韓遂と連合した《後漢書董卓伝》。

四年四月、涼州刺史耿鄙が六郡の郡兵を率いて王国・韓遂らを討伐しようとした。傅燮が「軍勢を休息させて賊軍の油断を待つべきです」と諫めるのを聞き入れず、狄道まで行ったところで部下の寝返りによって殺された。韓遂らはそのまま進撃して漢陽郡を包囲し、太守傅燮を殺害した《後漢書霊帝紀・同傅燮伝》。耿鄙の司馬であった馬騰も叛逆して韓遂らと合流し、みんなで漢陽の王国を盟主に推戴して全軍を宰領させると、王国は「合衆将軍」を自称し、三輔地方を侵略した《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。

五年、王国らは陳倉城を包囲したが、左将軍皇甫嵩・前将軍董卓に敗れたので、韓遂らはまた王国を追放し、故の信都県令である漢陽の閻忠を誘拐し、諸軍を統括させようとしたが、閻忠は脅迫されたことを恥じて病死した《後漢書董卓伝》。その後、韓遂らは権力争いを始めて殺し合い、部曲はばらばらになった《後漢書董卓伝》。

初平元年(一九〇)、朝廷の実権を握った董卓に対して、山東で義兵が立ち上がった。董卓は長安に遷都したいと思ったが、司徒楊彪らの反対に遭った。そこで董卓は「辺章・韓約から、朝廷には必ず遷都させるようにとの手紙が来ている。もし大軍が東進してきたら我は救援してやれないぞ」と言っている《董卓伝》。

三年、董卓が暗殺されると李傕・郭汜らが権力を引き継いだ。韓遂・馬騰は軍勢を率いて長安に参詣し、韓遂は鎮西将軍に任じられて金城に帰還し、馬騰は征西将軍に任じられて郿に駐屯するよう命じられた《馬超伝》。

興平元年(一九四)、馬騰は私欲のため李傕に接近したが、何も得られなかったため腹を立て、侍中馬宇・右中郎将劉範・前涼州刺史种劭・中郎将杜稟らと軍勢を糾合して李傕を攻撃した。何日経っても勝負は付かず、韓遂はそれを聞いて両者を和解させようとしたが、けっきょく馬騰に合流することになった《董卓伝》。

三月、李傕が李利・郭汜・樊稠らを出して長平観の下で戦わせると、韓遂・馬騰は斬首一万余りを出す敗北となり、涼州を指して逃走した。樊稠らが追撃してきたが、韓遂は樊稠に人をやって「天下がどうなるかまだ分からないし、お互い州里は同じなのだから、今は些細な食い違いがあるとしても大きく見れば同じ立場だ。一言話し合おうじゃないか」と申し入れ、二人は馬を並べ、肘を交わしてしばらくのあいだ談笑した《董卓伝》。

涼州に帰還すると、韓遂は馬騰と義兄弟の契りを結び、初めは非常に親しくしていたが、後になると一転して部曲を率いて侵入しあう仇敵となった。馬騰の攻撃を受けて韓遂は逃走したが、軍勢を糾合して引き返し、馬騰を攻撃して彼の妻子を殺した。何度も戦って和解することはなかった《馬超伝》。

建安年間(一九六〜二二〇)初め、韓遂と馬騰が攻撃しあっていたときのこと。馬騰の子馬超は壮健であると評判であったが、韓遂の小将閻行もまた若いころから勇名があり、矛で馬超を突き刺した。矛が折れると、その柄で馬超のうなじを叩き、もう少しで殺すところであった《張既伝》。

二年、曹操は山東で問題を抱えていたので、関中での韓遂・馬騰の抗争を危惧し、鍾繇を司隷校尉・持節・督関中諸軍として後方のことを委ねた。鍾繇は長安に着任すると、馬騰・韓遂らに文書を配り、禍福について説明した。馬騰・韓遂はそれぞれ子息を朝廷に参朝させた《鍾繇伝》。また鍾繇や涼州牧韋端の仲介により、韓遂は馬騰と和解した《馬超伝》。

七年、袁尚が高幹・郭援に軍勢数万人を率いさせて匈奴単于とともに河東を侵略し、使者を派遣して馬騰・韓遂と連合しようとした。馬騰は密かに承諾していたが、あとで傅幹の説得に応じ、子息馬超に精兵一万人余りを預け、韓遂らの軍勢とともに鍾繇に協力させたので、鍾繇は郭援を大破することができた《鍾繇伝》。韓遂は征西将軍、馬騰は征南将軍に任じられ、幕府を開くことを許された《後漢書董卓伝》。

十四年、韓遂が閻行を使者に立てて曹操のもとに行かせると、曹操は閻行を手厚く遇した。閻行は帰国して曹操の命令書を伝えた。「文約に謝す。卿がはじめ挙兵したのは追い詰められたからだということを、我はつぶさに明らかにしておいた。早く来なさい。一緒に国政をお助けしようぞ」。閻行はついでに言った。「閻行もまた将軍にお仕えして参りましたが、挙兵以来三十年余りになり、民衆も兵卒も疲弊して領土も狭くなっております。速やかにご自身から(曹操に)お味方なさいませ。以前、鄴に参りましたとき、老父を京師に参詣させたいと自己申告いたしましたが、まことに将軍もまた一子を派遣して赤心をお示しなされませ」。韓遂は言った。「まず数年くらい様子を見てみよう!」。のちに韓遂は我が子を派遣し、閻行の父母とともに東へ行かせた《張既伝》。

この歳、武威太守張猛が涼州刺史邯鄲商を殺害したので、翌十五年、韓遂は自ら西上して張猛を討伐した。張猛は軍勢を動員して東方を防衛させたが、官吏・民衆は韓遂を畏怖しており、一緒に寝返って張猛を攻撃した。張猛は楼に登って自焼して死んだ《龐淯伝》。

そのころ鍾繇は張魯を討伐しようとしていたが、丞相倉曹属の高柔は、いま妄りに大軍を動かすと韓遂・馬超が自分たちへの行動だと思い、煽動しあって叛逆させることになるから、まず三輔地方に招集をかけるべきで、三輔が落ち着けば檄を飛ばすだけで漢中は平定できるだろうと主張した。また衛覬も同じく鍾繇の計画に反対していた《高柔・衛覬伝》。

建安十六年、鍾繇が軍勢三千人を率いて関中に入ると《高柔・衛覬伝》、関中諸将は自分たちが襲撃されるのではないかと疑い《武帝紀》、馬超・侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩・楊秋・韓遂ら、合せて十の部曲が一斉に反乱した。その軍勢は十万、そろって黄河・潼関を占拠し、陣営を築いて連なった《馬超伝》。弘農・馮翊では多くの県邑がこぞって呼応した《杜畿伝》。

韓遂は張猛を討伐したとき、閻行を残して本営を守らせていたが、馬超らが謀叛を企てて韓遂を都督に擁立しようとした。韓遂が帰還すると馬超は言った。「以前、鍾司隷は馬超に将軍を討たせようとしました。関東の者どもは信用なりませぬ。いま馬超は父を棄てて将軍を父と致しまする。将軍も子を棄てて馬超を子としてくだされ」。閻行は韓遂を諫めて馬超に合力させまいとしたが、韓遂は言った。「いま諸将は図らずして一致した。天の定めのようじゃ」。そこで東進して華陰に赴いたのである《張既伝》。

曹操は曹仁を追討に派遣し、馬超らは潼関に駐屯した。曹操は諸将に命令した。「関西の軍勢は精悍である。守りを堅くして戦ってはならぬ」。秋七月、曹操は征西に赴き、潼関を挟んで馬超らと対峙した。曹操は激しく彼と対立する一方、密かに徐晃・朱霊らを送って夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河以西に陣取らせた。曹操は潼関から北へと黄河を渡り、甬道を作りながら黄河沿いに南進した。馬超らは渭口に後退して防いだ《武帝紀》。

曹操が蒲阪津を西へと渡るとき、馬超は韓遂に言った。「渭水北岸でこれを防げば、二十日も経たぬうちに河東の食糧は尽き果て、奴めは必ず逃走するでしょう」。韓遂は言った。「渡るのを見逃してやって、黄河の真ん中で追い詰めるのも愉快なことじゃないか!」馬超の計略は実行に移されなかった《馬超伝》。

曹操は多数の疑兵を設置する一方、密かに渭水上に浮き橋を作り、夜中、渭水南岸に陣営を作らせた。馬超らが陣営に夜襲をかけたが、伏兵によって撃破した。馬超らは渭水南岸に駐屯したまま、黄河以西の割譲を条件に講和を求めたが、曹操は許可しなかった。九月、曹操は軍勢を進めて渭水を(南へ)渡らせたが、馬超らが何度挑戦しても相手にしなかった《武帝紀》。

曹操が賈詡の計略を採用して偽って講和に応じたところ、韓遂は曹操との会見を要求した。曹操は韓遂の父と同歳の孝廉であり、韓遂とも同じくらいの世代だったので、馬を交わして語り合い、軍事には言及せずに京都の昔話ばかりをし、手を打って談笑した。韓遂が帰ってくると馬超らは訊ねた。「公は何と言っていたのか?」韓遂は言った。「何も言わなかったが」。馬超らは彼を疑った。別の日、曹操は韓遂に手紙を送ったが、ところどころ墨で文字を塗りつぶし、韓遂が改竄したように見せかけておいた。馬超らはますます韓遂を疑った。曹操は庚戌の日に約束して会戦したが、まず軽騎兵によって挑戦し、しばらく戦闘が続いてから虎騎を放って挟撃したので、成宜・李堪らは斬られ、韓遂・馬超らは大敗して涼州へと敗走し、楊秋は安定へ奔走した《武帝紀》。

韓遂は華陰から敗走して湟中に帰ってきた。韓遂は(人質に出した息子が殺されて)閻行の父だけが生きていると聞き、一緒に殺害されれば彼の心を固めることができるだろうと思い、むりやり幼い女を閻行に嫁がせた。閻行が拒みきれなかったので曹操は彼を疑った。ちょうどそのとき韓遂は閻行を派遣して西平郡を支配させていたが、夜中、閻行はその部曲を率いて韓遂を攻撃した。閻行は陥落させることができず、家族を引き連れて曹操に参詣した《張既伝》。

韓遂の部曲一党は逃げ散ってしまい、ただ成公英だけが残っていた。韓遂は歎息して「丈夫が困窮しているのに災禍が姻戚から起こるとはな!」と言い、成公英に告げた。「いま親戚が離叛して人数が少なくなったから、羌族の部落をつたって西南へ向かい蜀へと参ろう」。成公英「挙兵してから数十年になります。いま敗北したとはいえ、どうして我が一門を捨てて他人を頼るということがありましょう!」、韓遂「吾は年老いた。子(あなた)ならどう手を打つかね?」、成公英「曹公(曹操)は遠来することができず、ただ夏侯(が来る)のみです。夏侯の軍勢は我らを追うには不足しておりますし、長いあいだ留まることもできますまい。まず羌族の部落で息をつきながら彼らの立ち去るのを待ち、旧知を呼び寄せ、羌族・胡族を糾合すればまだ手はありましょう」。韓遂はその計略に従った。ときに随従する男女はまだ数千人おり、韓遂はかねてより羌族に恩を施していたので、羌族たちが彼を守護した《張既伝》。

十七年、韓遂は軍勢を失い、羌族の部落をつたって西平の郭憲に身を寄せた。人々は韓遂を縛り上げて功績にしようとしたが、郭憲は怒って「人が追い詰められて我を頼りにして来たのに、どうしてそれを危難に陥れられようか?」と言い、彼を擁護して厚遇した《王脩伝》。

閻行の離叛から郭憲に身を寄せるまで、事件の起こった順番がよく分からない。

十九年正月、南安の趙衢、漢陽の尹奉らが馬超を討ち、その妻子を梟首した。馬超は漢中に逃げ込み、韓遂は金城に引き揚げ、氐王千万の部落に逃げ込んだ《武帝紀》。韓遂は羌族・胡族一万騎余りを率いて《武帝紀》顕親にいたが、夏侯淵がそれを襲撃しようとすると逃走した。夏侯淵は彼の軍糧を手に入れて略陽城まで追撃したが、諸将は二十里余り先にいる韓遂を攻撃したいと言ったり、興国の氐族を攻めるべきと言ったりした《夏侯淵伝》。

夏侯淵は考えた。「韓遂の軍勢は精強、興国の城郭は堅固。攻撃してもすぐには陥落させられまい。長離の羌族どもを攻撃するに越したことはない。長離の羌族どもの多くが韓遂に従軍しており、必ずや引き返して我が家を救援しようとするだろう。(韓遂が)もし羌族(の部落)を捨てて単独で守るなら孤立することになり、長離を救援するならば官軍は野戦することができ、どちらの場合でも虜にできるぞ」《夏侯淵伝》。

夏侯淵は督将を残して輜重を守らせ、軽装の歩騎で長離へ行って羌族の屯所を火攻めにし、その軍勢を斬首捕獲した。韓遂に従軍していた羌族どもは、おのおの種族の部落に帰っていった。韓遂は果たして長離を救援しようと夏侯淵軍と対陣した。諸将は韓遂軍が大勢であるのを恐れ、陣営を築き塹壕を掘ってから戦いたいと望んだが、夏侯淵は言った。「我らは千里を駆け抜けてきたから、今また陣営塹壕を築くとなると士卒は疲弊して持ちこたえられない。賊軍は大勢といっても与しやすいのだぞ」。そこで太鼓を打って韓遂軍を大破し、その旌麾を奪い取り、略陽に引き返して興国を包囲した。氐王千万は馬超のもとへ逃走し、残党は降服した《夏侯淵伝》。韓遂はそのまま西平まで逃走した《武帝紀》。

二十年三月、曹操が張魯征討のため陳倉に赴くと《武帝紀》、夏侯淵は閻行を留守に残して引き揚げたので、韓遂は羌族・胡族数万人を糾合して閻行を攻撃したが、追撃する間もなく、ちょうどそのとき病没した《王脩・張既伝》。田楽・陽逵および西平・金城の麴演・蔣石らが韓遂の首を斬り、漢中戦線の曹操のもとに送り届けた《武帝紀・王脩伝》。挙兵から三十二年が経ち、このとき七十歳余りだった《武帝紀》。

これに先立つ十七年十二月、ほうき星が五諸侯に現れたことがある。益州の周羣は、西方で土地を占拠している者がみな領土を失うだろうと言った。翌年冬、曹操が副将を派遣して涼州を攻撃すると、十九年、枹罕の宋建は捕らえられ、韓遂は羌族の部落に逃げ込んで病死し、秋には劉璋が益州を失い、二十年秋には、漢中の張魯が曹操に降ったのであった《後漢書天文志・周羣伝》。

【参照】韋端 / 尹奉 / 衛覬 / 袁尚 / 閻行 / 閻忠 / 袁滂 / 王国 / 何進 / 夏侯淵 / 賈詡 / 郭援 / 郭憲 / 郭汜 / 邯鄲商 / 麴演 / 侯選 / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 高幹 / 高柔 / 朱霊 / 周羣 / 周慎 / 徐晃 / 蔣石 / 鍾繇 / 成宜 / 成公英 / 千万 / 宋建 / 曹仁 / 曹操 / 孫堅 / 种劭 / 張横 / 張温 / 張猛 / 張魯 / 趙衢 / 陳懿 / 程銀 / 田楽 / 杜稟 / 陶謙 / 董卓 / 馬宇 / 馬玩 / 馬超 / 馬騰 / 樊稠 / 傅幹 / 傅燮 / 辺章 / 鮑鴻 / 北宮伯玉 / 陽逵 / 楊秋 / 楊彪 / 李傕 / 李堪 / 李相如 / 李文侯 / 李利 / 劉璋 / 劉範 / 梁興 / 伶徴 / 安定郡 / 渭口 / 渭水 / 益州 / 園陵 / 華陰県 / 河関県 / 河東郡 / 関西 / 関中 / 漢中郡 / 関東 / 漢陽郡 / 葵園狭 / 鄴県 / 金城郡 / 顕親県 / 黄河 / 興国 / 湟中 / 弘農郡 / 山東 / 三輔 / 蜀 / 新安県 / 信都県 / 西平郡 / 長安県 / 長平観 / 長離 / 陳倉県 / 狄道県 / 潼関 / 南安郡 / 郿県 / 美陽県 / 馮翊郡 / 武威郡 / 枹罕県 / 蒲阪津 / 楡中県 / 略陽県 / 涼州 / 隴西郡 / 右中郎将 / 合衆将軍 / 県令 / 侯 / 孝廉 / 護羌校尉 / 左車騎将軍 / 左将軍 / 参軍事 / 司空 / 刺史 / 持節 / 侍中 / 執金吾 / 司徒 / 司馬 / 車騎将軍 / 従事 / 将軍 / 小将 / 丞相 / 司隷校尉 / 征西将軍 / 征南将軍 / 単于 / 前将軍 / 倉曹属 / 太守 / 大将軍 / 中郎将 / 鎮西将軍 / 盪寇将軍 / 督軍 / 督軍従事 / 督将 / 都督 / 破虜将軍 / 別部司馬 / 牧 / 仮節 / 義従 / 羌族 / 匈奴 / 軍帥 / 虎騎 / 五諸侯 / 胡族 / 星孛(ほうき星) / 先零羌 / 大人 / 氐族 / 同歳 / 府(幕府) / 部曲 / 甬道 / 流星

韓嵩Han Song

カンスウ

(?〜?)
漢大鴻臚

字は徳高。南陽郡の人《後漢書劉表伝》。劉表の従事中郎《劉表伝》。

義陽の人ともある《劉表伝》。

若いころから学問を好み、貧しくとも節操を枉げなかった。世が乱れようとしていることを知り、三公の命令にも応じず、数人の友人とともに酈国の西山に隠れ住み、黄巾賊が蜂起すると韓嵩は南方へと避難した《劉表伝》。そこで司馬徽に師事し、徐庶・龐統・向朗らと親しくなった《向朗伝》。荊州牧劉表は彼を脅迫して別駕従事に任じ、従事中郎に転任させた。劉表が天地を祀ろうとしたとき、韓嵩は正論でもって諫めたが聞き入れられず、そのころから次第に疎んじられるようになっていった《劉表伝》。

曹操と袁紹が官渡で対峙したとき、劉表は袁紹の援軍要請に応じず、そのくせ曹操を支援しようともせず、長江・漢水流域にこもって天下に変事が起こることを期待していた。韓嵩は別駕従事劉先とともに劉表を諫めた。「両雄が睨み合っておりますが、天下の重鎮といえば将軍であります。彼らの疲弊に乗じるのもよいでしょうし、そうでなければどちらかに味方すべきです。中立を保つことなどできませぬぞ。曹公は聡明な人物ですので、袁紹を破ったのち荊州に向かってきたならば将軍はおそらく防ぎきることはできますまい。荊州をこぞって曹公にお味方なさるのが万全の計略でありましょう」《劉表伝》。

劉表の大将蒯越も同じように勧めたが、劉表は狐疑逡巡して決断できず、そこで韓嵩を曹操のもとにやって様子を見させようとした。韓嵩は言った。「韓嵩は節義を守る者です。もし天子さまが官職を下されたとしたら、韓嵩は天子の臣下となり、将軍の御為に死ぬことはできなくなります。将軍よ、くれぐれも韓嵩を裏切らないでくだされ」。劉表は彼の言葉を聞き入れず、そのまま派遣した。天子は韓嵩に侍中の官を授け、零陵太守に転任させた《劉表伝》。

韓嵩は荊州に帰国すると朝廷と曹操の恩徳を称賛し、子供を人質に差し出すよう劉表に要求した。劉表は彼に裏切られたと思い、数百人の集まる大宴会の席上、兵士を並ばせて韓嵩を引見した。劉表は「韓嵩よ、よくも裏切ってくれたな」と激怒し、節(はた)を持って彼を斬ろうとした。人々はみな恐怖し、韓嵩に謝罪させようとした。韓嵩は動揺せず、「将軍が韓嵩を裏切ったのです。韓嵩は将軍を裏切っておりませぬ」と言い、出発前の言葉をつぶさに述べた。劉表の妻蔡氏が「韓嵩は楚国の名望家です。それに言葉は正しく、誅殺する理由がございません」と諫めたので、劉表は処刑を中止して彼を牢獄に閉じこめた《劉表伝》。

劉表が亡くなると、子の劉琮が立ったが、ちょうどそのころ曹操の軍勢が新野にまで迫っていた。韓嵩は蒯越・傅巽らとともに曹操への降服を勧めた。曹操は荊州の名士を登用しようとしたが、韓嵩は病気にかかっており、病床のまま大鴻臚の印綬を拝受した《劉表伝》。曹操は彼の名声が重々しかったことから、彼に荊州の人々の優劣を付けさせて抜擢任用し、また交友の礼をもって彼を待遇した《後漢書劉表伝》。

【参照】袁紹 / 蒯越 / 蔡氏 / 司馬徽 / 徐庶 / 向朗 / 曹操 / 傅巽 / 龐統 / 劉協(天子) / 劉先 / 劉琮 / 劉表 / 漢水 / 官渡 / 義陽郡 / 荊州 / 新野県 / 楚 / 長江 / 酈侯国 / 南陽郡 / 零陵郡 / 三公 / 侍中 / 従事中郎 / 大鴻臚 / 太守 / 大将 / 別駕従事 / 牧 / 印綬 / 黄巾賊 / 郊祀天地 / 交友礼 / 節

韓暹Han Xian

カンセン

(?〜197)
漢大将軍・仮節鉞・領司隷校尉

白波賊の頭目。

興平二年(一九五)十一月、献帝劉協の御車が曹陽亭において露営したとき、楊奉・董承によって胡才・李楽・匈奴左賢王去卑とともに御車警護のため呼び出された。彼らは御車を守り、李傕・郭汜らを撃ち破った。翌十一月に御車を進発させると、李傕らはまた追いかけてきたが、天子の軍勢は大敗して多くの大臣を失った《後漢書献帝紀》。

翌建安元年(一九六)二月、韓暹は衛将軍董承と仲違いして彼を攻撃し、董承は出奔して張楊のもとに去っている。八月、天子は洛陽の楊安殿に遷座すると、安国将軍張楊を大司馬に、韓暹を大将軍・領司隷校尉に、楊奉を車騎将軍に任じ、それぞれ仮の節鉞を与えた。楊奉は外に出て梁に駐屯し、韓暹は董承とともに天子の近辺警護にあたった《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

韓暹は功績を誇って好き勝手に政治に干渉していたが、董承は彼を憎み、密かに兗州牧曹操を引き入れようとした《後漢書董卓伝》。議郎董昭もまた楊奉を説得して曹操を迎え入れさせた《董昭伝》。曹操の軍中では、多くが「山東は平定されてないのに、韓暹・楊奉が功績を誇って勝手なことをしており、まだ制御することはできません」と反対したが、荀彧だけは「天子を推戴すれば四方の豪傑が逆らったとしてもどうにもできますまい。韓暹・楊奉など問題ではありません」と主張した。曹操は彼の計略に従って天子を出迎えた《荀彧伝》。

曹操は洛陽に入ると、公卿と審議して韓暹・張楊の罪を上奏した。韓暹は誅伐を恐れて梁の楊奉のもとに脱走した。しかし天子は韓暹・張楊が御車を補佐した功績によって、その罪を不問とした《後漢書董卓伝》。

曹操は天子を許に遷そうと考えたが、楊奉・韓暹が邪魔立てするのではないかと心配した。そこで董昭は進言した。「まず楊奉を手厚くねぎらい、そののち食糧運搬に便利な魯陽に一時的に遷都したいと説得すれば、楊奉は腕っ節だけで思慮がないので疑うことはないでしょう」。曹操はその計略に従った《董昭伝》。

九月、御車が東方に出立すると韓暹・楊奉は後悔し、軍勢を率いて追跡した。軽装騎兵で追い付くことができたが、陽城山の伏兵に襲われて大敗した《後漢書董卓伝》。曹操は定陵を荒らしまわる韓暹らを相手にせず、彼らの本拠地である梁を占領して、その勢力を弱らせた。韓暹らは袁術を頼って落ち延びた《董昭伝》。こうして楊奉・韓暹は、袁術・公孫瓚とともに詔勅によって懸賞金付きのお尋ね者になった《呂布伝》。

翌二年、袁術は使者韓胤が呂布に殺されたことに怒り、大将張勲・橋蕤とともに楊奉・韓暹を出陣させ、歩騎数万人で七手から呂布を攻めさせた。しかし呂布は韓暹らに手紙を送って「二将軍は御車を補佐し、呂布は董卓を誅殺して、ともに史書に功名を記されるものと思っていましたが、どうして袁術の叛逆に同調して呂布を討伐しようとなさるのですか」と言い、すべての戦利品の所有を認めたので、韓暹らは大喜びして彼に内通した。張勲軍が下邳に到達して呂布軍と対峙したとき、韓暹らは寝返って数人の将帥を殺し、橋蕤を生け捕りにした。彼らに殺されたり、水に落ちて死ぬものは数え切れなかった《呂布伝・後漢書呂布伝》。

のちに楊奉が左将軍劉備に殺害されたので、恐れを抱いた韓暹は幷州を目指して逃走した。しかしその道中で人に殺されてしまった《後漢書董卓伝》。

【参照】袁術 / 郭汜 / 韓胤 / 去卑 / 橋蕤 / 胡才 / 公孫瓚 / 荀彧 / 曹操 / 張楊 / 張勲 / 董承 / 董昭 / 楊奉 / 李傕 / 李楽 / 劉協(献帝) / 劉備 / 呂布 / 兗州 / 下邳国 / 許県 / 山東 / 曹陽亭 / 定陵県 / 幷州 / 楊安殿 / 陽城山 / 洛陽県 / 梁県 / 魯陽県 / 安国将軍 / 衛将軍 / 議郎 / 公卿 / 左賢王 / 左将軍 / 車騎将軍 / 司隷校尉 / 大司馬 / 大将軍 / 牧 / 仮節鉞 / 匈奴 / 白波賊 / 領

韓範Han Fan

カンハン

(?〜?)
漢易陽令・関内侯

易陽の県令。袁尚の将。

建安九年(二〇四)二月、袁尚が平原遠征に出た隙をついて曹操は鄴を攻撃した。曹操が毛城の尹楷、邯鄲の沮鵠を破ったのをみて、四月、易陽県令の韓範と渉県長の梁岐は県を挙げて曹操に降服し、関内侯の爵位を賜った《武帝紀》。このとき曹操は降服者に寛容でない態度を取っていたため、韓範は一度気が変わって防備を固めたが、徐晃の説得で改めて降服したのだという《徐晃伝》。

【参照】尹楷 / 袁尚 / 沮鵠 / 徐晃 / 曹操 / 梁岐 / 易陽県 / 邯鄲県 / 鄴県 / 渉県 / 平原郡 / 毛城 / 関内侯 / 県長 / 県令

韓馥Han Fu

カンフク

(?〜?)
漢冀州牧

字は文節。潁川郡の人《武帝紀》。

挙兵後、潁川から荀氏らを招いており、韓韶の一族ではないかと思われる。

はじめ韓馥は御史中丞を務めていたが《武帝紀》、董卓は朝廷の実権を握ると尚書周毖・城門校尉伍瓊らを信任し、彼らの推挙によって当時冷遇されていた士人を多く取り立てており、侍中劉岱は兗州刺史となり、孔伷は予州刺史となり、張咨は南陽太守となり、韓馥も尚書から冀州牧(あるいは刺史とも)に昇進したが、日ごろ董卓が親愛していた人物は将校に留めたままであった《董卓・許靖・後漢書董卓伝》。

韓馥は冀州に着任すると、勃海太守袁紹が挙兵するのではないかと恐れ、何人もの従事を送り込んで彼を監視させていたが、東郡太守橋瑁が偽造した三公からの公文書が冀州に届き、その中には董卓の罪状が連ねられていた。韓馥が従事たちに「袁氏を助けるべきか、董卓を助けるべきか」と質問すると、治中劉子恵は「国家のためです。袁氏も董氏もありません」と述べた。韓馥が恥じ入っていると、劉子恵は続けて「軍事は不吉なものですから口火を切ってはいけません。他州の動きを見て行動を起こす者があれば、それから同調なされればよろしい。冀州は他州より弱くはありませんから、他人の功績も冀州を上回ることはありますまい」と言上した。韓馥はその通りだと思い、袁紹に手紙を出して彼の挙兵を認めた《武帝紀》。

初平元年(一九〇)正月、袁紹らが反董卓の義兵を起こすと、韓馥もそれに呼応した《武帝紀》。董卓は韓馥を推挙した周毖・伍瓊らを殺している《董卓伝》。袁紹・王匡・張楊は河内に、張邈・張超・劉岱・橋瑁・袁遺・孔伷は酸棗に、袁術・孫堅は南陽に進駐し、韓馥は後方の鄴に残って食糧輸送にあたった《武帝紀・張楊・臧洪・破虜伝・後漢書袁紹伝》。このころ郷里の潁川郡から荀彧らを呼び寄せる《荀彧伝》。

翌二年春、韓馥は袁紹らと共謀して、大司馬・幽州牧劉虞を推し立てて皇帝の座に就けようとした。劉虞はそれを承知せず、また袁紹らが尚書の事務を宰領するように勧めたが、やはり聞き入れなかった。それでも劉虞・袁紹・韓馥らは連合を維持し続けた《公孫瓚伝》。

そのころ韓馥の将軍麴義が叛乱を起こし、韓馥を攻撃したが敗退した。袁紹は韓馥を恨んでいたので彼と同盟し、賓客逢紀の計略に従い、公孫瓚に手紙を送って冀州を攻撃させた。公孫瓚はこれに応じて、董卓を討つのだと言いながら韓馥を襲撃しようとした《後漢書袁紹伝》。韓馥は安平で公孫瓚軍を迎え撃ったが、敗北して彼の侵入を許してしまう《袁紹伝》。

夏四月、董卓が洛陽を自焼して長安に引き揚げると、袁紹は軍勢を延津に移し、冀州を窺う姿勢を示した。袁紹は高幹・荀諶・郭図・張導らをやって韓馥に告げさせた。「公孫瓚は勝利に乗じて南進し、諸郡が彼に呼応しております。袁車騎将軍(袁紹)は軍勢を東に返しており何を企てているかわかりません。将軍のために危うく存じております」。韓馥は「一体どうすればいいのか」と恐れおののいた《袁紹・臧洪・後漢書袁紹伝》。

荀諶「君(あなた)はご自身で見て、人徳・寛容さで人々を受け入れ、天下に慕われているのは袁氏と君とどちらでしょうか?」、韓馥「(わたしの方が)及ばない」、荀諶「危機に臨んで決断し、智慧・勇気の点で人一倍なのはどちらでしょうか?」、韓馥「それも及ばない」、荀諶「世に恩徳を施し、天下がその恩恵を被っているのはどちらでしょうか?」、韓馥「やはり及ばない」、荀諶「勃海は一郡に過ぎないとはいえ実態は一州同然です。いま将軍は三つの点で袁紹に及ばないとされましたが、袁氏も一代の英傑ですから将軍の下位ではいられますまい」《後漢書袁紹伝》。

荀諶「公孫瓚の率いる燕・代の兵士は当たるべからざる勢いです。冀州は天下の台所。もし(袁紹・公孫瓚の)両雄が城下で干戈を交えることになれば滅亡は目前でありましょう。もともと袁氏は将軍と旧交があり、かつ同盟軍でもあります。将軍のために計算いたしますと、冀州を挙げて袁氏に譲渡なさるほど良いことはありません。袁氏が冀州を得ることになれば、公孫瓚でも彼と争うことはできますまい。これこそ将軍に謙譲の美名を挙げさせ、泰山の如き安泰さをもたらすものですぞ。将軍よ、お疑いなさらぬよう!」《袁紹伝》。

韓馥はもともと臆病な人柄だったから、その計略を承諾した。長史耿武・別駕閔純・治中李歴が韓馥を諫め、「冀州は田舎とはいえ武装兵百万人と十年分の食糧がございます。袁紹は孤立した余所者で軍勢も困窮し、我らが鼻息を窺っておる有様。譬えてみれば手のひらの上の赤子も同然、乳をやらねば飢え死にさせることもできるというのに、どうして州をくれてやろうとなさるのですか?」と言ったが、韓馥は「吾(わたし)はもともと袁氏の部下だったし、才能も本初(袁紹)には敵わぬ。謙譲の度量は古代の人も貴んだところだ。諸君だけがどうして心配するのか!」と言って聞き入れなかった《袁紹伝》。

韓馥は都督従事趙浮・程奐に強弩部隊一万人を預けて河内に駐屯させていたが、趙浮・程奐は韓馥が冀州を譲渡しようとしていると聞き、孟津を出立して急いで東下した。朝歌の清水口まで来るとそこに袁紹軍が駐留していたので、夜間、軍鼓を打ち鳴らしながら袁紹軍の側を通り過ぎていった。趙浮らは「袁本初の軍勢には一升の米もなく、張楊・於夫羅を新たに味方付けたといってもまだ役立てることはできません。我らに対戦させてくださいませ。十日のうちには土崩瓦解させるでありましょう」と諫言した。韓馥はやはり聞き入れなかった《袁紹伝》。

七月《武帝紀》、韓馥は息子に印綬を預けて黎陽に駐屯していた袁紹に届けさせ、自分は趙忠の旧宅に移り住んだ《袁紹伝》。袁紹が都官従事に任じた朱漢はかつて韓馥に冷遇されたことがあり、また同時に袁紹に気に入られようと思い、勝手に城兵を動員して韓馥邸を包囲した。韓馥は逃走して矢倉に登ったが、息子は朱漢に捕らえられて足を木槌で砕かれた。袁紹はすぐさま朱漢を逮捕して処刑したが、韓馥の恐怖は去らず、袁紹に手紙を送って冀州を去った《袁紹伝》。

韓馥は陳留太守張邈に身を寄せたが、ある日、袁紹の使者がやってきて張邈に耳打ちをしたのを見て、自分を暗殺しようとしているのだと思い込み、しばらくして廁に行き、そこで自殺した《袁紹伝》。

【参照】袁遺 / 袁紹 / 袁術 / 於夫羅 / 王匡 / 郭図 / 麴義 / 橋瑁 / 伍瓊 / 公孫瓚 / 孔伷 / 耿武 / 高幹 / 朱漢 / 周珌(周毖) / 荀彧 / 荀諶 / 孫堅 / 張咨 / 張超 / 張導 / 張邈 / 張楊 / 趙忠 / 趙浮 / 程奐 / 董卓 / 閔純 / 逢紀 / 李歴 / 劉虞 / 劉子恵 / 劉岱 / 安平国 / 潁川郡 / 燕国 / 兗州 / 延津 / 河内郡 / 冀州 / 鄴県 / 酸棗県 / 清水口 / 代郡 / 泰山 / 長安県 / 朝歌県 / 陳留郡 / 東郡 / 南陽郡 / 勃海郡 / 孟津 / 幽州 / 予州 / 洛陽県 / 黎陽県 / 御史中丞 / 三公 / 刺史 / 侍中 / 車騎将軍 / 従事 / 尚書 / 城門校尉 / 大司馬 / 太守 / 治中従事 / 長史 / 都官従事 / 都督従事 / 別駕従事 / 牧 / 録尚書事(尚書事を領す) / 印綬 / 強弩 / 賓客

韓猛Han Meng

カンモウ
(カンマウ)

(?〜?)

袁紹の将。「韓荀」「韓〓」「韓若」などとも書かれ、どれが正しいのか分からない。『資治通鑑』では「韓猛」としている《荀攸伝集解》。また韓莒子と同一視する人もある《荀攸伝集解》。

建安五年(二〇〇)、袁紹は官渡において曹操軍と対峙していた。韓猛は別働隊として曹操軍の西方の道路を占拠したが、雞洛山において曹仁と戦い、大敗した《曹仁伝》。

のちに韓猛は輜重車を守って官渡に届けることになった。荀攸が「袁紹軍の輸送車がまもなく到着いたします。その将韓猛は勇敢ですが敵を侮っておりますから必ず破ることができます」と告げたので、曹操は徐晃・史渙を派遣して迎撃させた。韓猛は彼らと戦ったが敗走し、輜重は焼き払われた《荀攸伝》。

【参照】袁紹 / 韓莒子 / 史渙 / 荀攸 / 徐晃 / 曹仁 / 曹操 / 官渡 / 雞洛山 / 資治通鑑

韓約Han Yue

カンヤク

韓遂

顔良Yan Liang

ガンリョウ
(ガンリヤウ)

(?〜200)

袁紹の大将・将帥《関羽・後漢書袁紹伝》。

顔良は文醜とともに袁紹軍の「名将」と称せられ《武帝紀》、孔融は「田豊・許攸は知謀の士、審配・逢紀は忠臣、顔良・文醜の武勇は三軍に傑出している。とても勝つことはできないだろう」と悲歎している《荀彧伝》。

建安五年(二〇〇)二月、ついに袁紹は曹操と敵対することになり、数十万の軍勢を催して許を攻撃しようと企てた。沮授が「顔良は短気偏狭で、驍勇があるといっても単独で任用してはなりませぬ」と諫めるのを聞き入れず《袁紹伝》、袁紹は顔良・郭図・淳于瓊を白馬に派遣して東郡太守劉延を攻撃させ、自身は黎陽に布陣して黄河を渡る構えを見せた《武帝紀》。四月、曹操は荀攸の計略に従い、延津から黄河を渡って背後を衝くふりをした。袁紹が手を分けてそれを防ごうとしたため、白馬は手薄になってしまった《武帝紀》。

『袁紹伝』では顔良が単独で白馬を包囲したことになっており、『武帝紀』では顔良とともに郭図・淳于瓊を白馬包囲に参加させている。また『後漢書』では沮授の諫言を記載していない。ここでは矛盾したまま両者の記述を併記したが、どちらが正しいのか分からない。

曹操はすぐさま引き返して白馬に急行し《武帝紀》、董昭を魏郡太守に任命するとともに《董昭伝》、張遼・関羽を先鋒として顔良を攻撃させた《関羽伝》。十里余りまで接近したところでそれに気付き、顔良は大いに驚いて迎撃しようとした《武帝紀》。関羽は遠くから顔良の麾蓋を見るや、馬に鞭打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し殺し、その首を斬って引き返したが、袁紹軍諸将のうち関羽に抵抗できる者はいなかった《関羽伝》。

董昭・徐晃らの働きもあり《董昭・徐晃伝》、こうして白馬の包囲陣は解かれた。はじめ荀彧は、孔融の言葉に「顔良・文醜は匹夫の勇を持つに過ぎぬ。一度の戦いで生け捕りにできるだろう」と答えていたが、果たしてその言葉通りになったのである《荀彧伝》。

【参照】袁紹 / 郭図 / 関羽 / 許攸 / 孔融 / 荀彧 / 荀攸 / 淳于瓊 / 徐晃 / 審配 / 沮授 / 曹操 / 田豊 / 張遼 / 董昭 / 文醜 / 逢紀 / 劉延 / 延津 / 魏郡 / 許県 / 黄河 / 東郡 / 白馬県 / 黎陽県 / 将帥 / 太守 / 麾蓋 / 名将

季雍Ji Yong

キヨウ

(?〜192?)

清河の人《徐晃伝》。

鄃県をこぞって袁紹に背き、公孫瓚の軍勢を引き入れた。袁紹の将朱霊が攻め寄せると、城内にいた彼の家族を人質に取って朱霊に寝返りを促した。朱霊は「いちど出仕したからには家族を顧みることはできぬ!」と涙を流し、そのまま奮戦して鄃県を陥落させ、季雍を生け捕りにした《徐晃伝》。

初平三年(一九二)、公孫瓚軍が平原・発干に進出したときのことだろうか。

【参照】袁紹 / 公孫瓚 / 朱霊 / 清河国 / 鄃県

紀騭Ji Zhi

キシツ

紀陟

紀陟Ji Zhi

キチョク

(?〜?)
呉光禄大夫

字は子上。丹楊秣陵の人。紀亮の子、紀孚・紀瞻の父《孫晧伝・晋書紀瞻伝》。「紀騭」とも書かれる《隋書経籍志》。

紀陟は中書郎であったころ、孫峻により南陽王孫和を尋問して自殺に追いこむようにと命令されたことがあった。紀陟はこっそりと正論でもって自己弁護をさせた。孫峻が腹を立てるので、恐怖を抱いた紀陟は門を閉ざして出勤をやめた《孫晧伝》。

孫休の時代、父の紀亮が尚書令を務め、子の紀陟が中書令を務めることになった。詔勅により、朝廷での会議にあたっては、いつも屏風でもって二人の座席を隔てられることになった《孫晧伝》。のちに出向して予章太守となる《孫晧伝》。

孫晧の時代には光禄大夫となり、甘露元年(二六五)三月、五官中郎将弘璆とともに使者として魏へ赴き、地方の産物をたずさえて和睦を申しいれた《陳留王紀・孫晧伝・晋書文帝紀》。(『礼記』の定めに従い)境界を入るときは諱を訊ね、国土を入るときは風俗を訊ねた《孫晧伝》。

寿春の部将王布は馬上から弓術を誇らしげに見せ、終わってから「呉の諸君もこんなことができますかな?」と紀陟に訊ねた。紀陟が「これは軍人や騎士が職業としてこそできることであって、士大夫や君子でここまでできる者はおりませぬ」と答えたので、王布はたいそう恥じいった《孫晧伝》。

魏帝(曹奐)が謁見し、案内役を通じて「お越しになるとき呉主(孫晧)のご機嫌はいかがじゃったか?」と訊ねた。紀陟は「参りますとき、皇帝陛下は軒先にお出ましになりました。官僚百人がそれぞれの位置につき、御膳もお変わりございませんでした」と答えた《孫晧伝》。

晋の文王(司馬昭)が彼らを酒宴に招き、百官が出そろうと、案内役を通じて「あれは安楽公(劉禅)だ」「あれは匈奴単于(劉猛?)だ」と伝えさせた。紀陟は言った。「西の君主は領土を失いましたが、君王(文王)どのの礼遇によって地位は三代(夏・殷・周?)と同じになり、恩義に感動せぬ者はございませぬ。匈奴は辺境にあって制御の難しい国ですが、君王どのの懐柔によって座席をともにしております。これはまことに威信恩恵が遠方にまで顕著であることを示しております。」《孫晧伝》

(文王が)また「呉の守備はいかほどかね?」と訊ねると、「西陵から江都にいたるまで五千七百里でございます」との答え。さらに「道のりがそれだけ遠ければ堅固にするのも難しかろう」と訊ねると、「境界線は長くとも争いになる要害は三つから四つに過ぎませぬ。ちょうど人間に八尺の肉体があり、病気にさらされぬところはなくとも寒さを防ぐのは数ヶ所に過ぎないようなものです」との答え。文王はそれを褒めたたえ、手厚い礼でもってもてなした《孫晧伝》。

紀陟らが洛陽に滞在中、晋の文帝(司馬昭)が崩御したため、十一月、紀陟らは帰国を命じられた《孫晧伝》。

孫晧は、従父たちのうち父の孫和といさかいを起こした者は家族ごと東冶に移住させた。ただし紀陟だけは密命をこうむり(むかし孫峻の命令により尋問したことを許され)、子の紀孚が特別に都亭侯に封ぜられた《孫晧伝》。

【参照】王布 / 紀瞻 / 紀孚 / 紀亮 / 弘璆 / 司馬昭 / 曹奐 / 孫休 / 孫晧 / 孫峻 / 孫和 / 劉禅(安楽公) / 劉猛 / 安楽県 / 殷 / 夏 / 魏 / 呉 / 江都県 / 周 / 寿春県 / 晋 / 西陵県 / 丹楊郡 / 東冶県 / 南陽郡(南陽国) / 秣陵県 / 予章郡 / 洛陽県 / 王 / 光禄大夫 / 五官中郎将 / 尚書令 / 単于 / 中書令 / 中書郎 / 太守 / 都亭侯 / 匈奴

紀亮Ji Liang

キリョウ
(キリヤウ)

(?〜?)
呉尚書令

丹楊秣陵の人。紀陟の父《孫晧伝・晋書紀瞻伝》。

孫休の時代、尚書令となった。このとき子の紀陟が中書令であったため、朝廷での会議の際は、詔勅によりいつも屏風でもって二人の座席が隔てられた《孫晧伝》。皇帝孫亮の諱を避けたはずだが改名後の名は分からない。あるいは「亮」と伝えられているのが誤りかもしれない《孫晧伝集解》。

【参照】紀陟 / 孫休 / 孫亮 / 丹楊郡 / 秣陵県 / 尚書令 / 中書令 / 避諱

紀霊Ji Ling

キレイ

(?〜?)

袁術の将。

『演義』では袁術配下の代表的な将軍とされるが、正史での記述はこれだけである。張勲・橋蕤らより下位にあったと思われるが、それでも歩騎三万人もの大軍を率いる立場にはあったのである。なお『演義』でも、袁術が皇帝を僭称したとき大将軍を張勲とし、橋蕤・陳紀を上将とし、紀霊は七軍の「救応使」(遊軍)ということになっており、紀霊の立場を安易に持ち上げていないことには好感が持てる。

劉備は東征して袁術を攻撃していたが、その留守をついて呂布が徐州を奪取した。劉備が撤退して呂布に降服すると、呂布は彼に小沛の守備を委ね、自分では徐州刺史を称した。そこで袁術は紀霊らを派遣し、歩騎三万人で劉備を攻撃させた。劉備が救援を求めてくると、呂布は「もし袁術が劉備を破ったなら北進して泰山諸将と連合するだろう。吾(わたし)は袁術に包囲されてしまう。助けないわけにはいかないぞ」と言って、歩兵千人騎兵二百人を率いて劉備を救援した《呂布伝》。

呂布は小沛の城外まで軍勢を進めると、人をやって劉備を陣営に招き入れ、同時に紀霊らを招聘して宴会を開いた。呂布は紀霊に言った。「劉備は呂布の弟です。弟が諸君のおかげで困っていたので助けにやってきました。呂布の性格は争いごとが好きでなく、争いごとをやめさせるのが好きなんです」《呂布伝》。

そして呂布は軍候に命じて陣門に一本の戟を突き立てさせ、弓を引き絞りながら振り返って言った。「諸君、呂布が戟の小枝を射当てるのを見ていてください。もし当たったならどちらも軍勢を解散してください。当たらなければそのまま勝負を付ければいいでしょう」。呂布が一矢放つと、まっすぐに戟の小枝に命中した。紀霊らは驚いて「将軍は天の威光そのものです!」と言った。翌日、ふたたび宴会を開き、そのまま引き揚げた《呂布伝》。

「弓を引き絞りながら振り返って言った」というのは『後漢書』の記述による。『三国志』では発言のあとで弓を引いたことになっている。

【参照】袁術 / 劉備 / 呂布 / 沛県(小沛) / 徐州 / 泰山 / 刺史 / 軍候

魏越Wei Yue

ギエツ
(ギヱツ)

(?〜?)

呂布の将。

『後漢書』では「健将」、『三国志』では「親近将」とある。

呂布は袁紹に身を寄せたとき、袁紹とともに常山の張燕を攻撃した。張燕は精鋭一万人、騎馬数千匹を抱えていたが、呂布は成廉・魏越ら数十騎を率いて張燕陣営に突撃、それは一日に三度にも四度にも及び、みな敵将の首を取ってから帰陣した。十日余りも戦っているうちに張燕軍は打ち破られた《後漢書呂布伝》。

【参照】袁紹 / 成廉 / 張燕 / 呂布 / 常山郡

魏続Wei Xu

ギショク
(ギシヨク)

(?〜?)

呂布の将。呂布とはそれぞれの一族から妻を交わしあう間柄であった《呂布伝》。

建安元年(一九六)、高順は郝萌の反乱を鎮圧してからも、ますます呂布に遠ざけられるようになり、配下の兵士を全て取りあげられ、親戚だということで魏続がそれを授かった。ただし戦闘に際しては、魏続配下の兵士を高順が統率するよう命じられていた《呂布伝》。

同三年、呂布が下邳において曹操に包囲されると、魏続は侯成・宋憲とともに陳宮を縛りあげ、城ごと曹操に降服した。これにより呂布は捕らえられる《武帝紀・呂布伝》。呂布は「諸将が恩義を忘れて寝返ったからだ」と弁解したが、曹操は「あなたは妻を裏切って諸将の妻を愛した。どこに恩義があるのか?」と指摘している《呂布伝》。

【参照】郝萌 / 侯成 / 高順 / 宋憲 / 曹操 / 陳宮 / 呂布 / 下邳県

魏続Wei Xu

ギゾク

魏続

魏諷Wei Feng

ギフウ

(?〜219)
魏相国西曹掾

字は子京。沛国、あるいは済陰郡の人《武帝紀・王昶・晋書鄭袤伝》。

群衆を惑わす才能の持ち主で、鄴の都をひっくり返すほどであったため、魏の相国鍾繇に招聘されて西曹掾となった《武帝紀》。その名声は高く、九卿・宰相以下、ことごとく彼に心を寄せて交流を結んだ《劉曄伝》。しかし傅巽・劉曄・劉廙・鄭袤らは、魏諷が反乱を起こすであろうと述べていた《劉表・劉曄・劉廙・晋書鄭袤伝》。

建安二十四年(二一九)九月、太祖(曹操)が漢中に出征して留守のあいだ、魏諷は密かに徒党を組んで義勇の士を集め、長楽衛尉陳禕とともに鄴を襲撃する計画を立てた。その期日になる以前、陳禕が太子(曹丕)に告発したため、魏諷は誅殺された《武帝紀・同集解》。

長楽衛尉は皇后の宮殿長楽宮を守護する官職。おそらく曹皇后を脅迫して宣旨を取り、それを利用して雒陽・鄴を制圧するつもりだったのだろう。伏皇后の生んだ皇太子はすでに毒殺されており、ここにいう太子とは魏王曹操の太子すなわち曹丕を指すものと思われる。

任峻の子任覧は早くから魏諷と距離を取っており《晋書鄭袤伝》、劉廙の弟劉偉、文稷の子文欽も極刑を免れたが《劉廙・毌丘倹伝》、相国鍾繇、中尉楊俊は罷免され《鍾繇・楊俊伝》、張繡の子張泉、王粲の息子二人、宋忠の息子をはじめ、数十人もの連中が罪にかかり処刑された《武帝紀・張繡・王粲・鍾会・尹黙伝》。

あるいは数千人が処刑されたともいう《資治通鑑・後漢紀》。盧弼は、各伝の記載によれば魏諷の忠烈才智は明らかであり、ただ計画が成功しなかったために誹謗されているのだ、と評している《武帝紀集解》。

【参照】王粲 / 鍾繇 / 任峻 / 任覧 / 宋忠 / 曹操 / 曹丕 / 張繡 / 張泉 / 陳禕 / 鄭袤 / 傅巽 / 文欽 / 文稷 / 楊俊 / 劉偉 / 劉廙 / 劉曄 / 漢中郡 / 魏 / 鄴県 / 済陰郡 / 沛国 / 九卿 / 相国 / 西曹掾 / 中尉 / 長楽衛尉

魏攸Wei You

ギユウ
(ギイウ)

(?〜193?)
漢大司馬東曹掾

右北平の人。大司馬劉虞の東曹掾《公孫瓚伝》。

劉虞は薊城にあって公孫瓚と対立し、これを討伐せんとの考えを魏攸に告げた。しかし魏攸が「いま天下は首を長くして公に帰服しておりますし、謀臣・爪牙は無くてはならぬものです。公孫瓚の文武にわたる才能は頼りになりますゆえ、些細な悪事はあってもご容赦なさるべきです」と反対したため中止した。一年後、魏攸が病没する。初平四年(一九三)冬、劉虞はふたたび属官たちと協議して公孫瓚を襲撃したが、反撃にあって殺された《公孫瓚伝》。

【参照】公孫瓚 / 右北平郡 / 薊県 / 大司馬 / 東曹掾

戯志才Xi Zhicai

ギシサイ

(?〜197?)

潁川の人。曹操の籌画士《郭嘉伝》。

戯志才は世俗の人々とは付き合おうとしなかったが、建安元年(一九六)に曹操が献帝を推戴したとき、荀彧が計謀の士として推薦したので、その謀臣となった《荀彧伝》。曹操は彼には見所があると思って非常に尊重したが、惜しくも早くに亡くなった《郭嘉伝》。曹操は「戯志才が亡くなってしまい、一緒に計画を立てられる相手がいなくなってしまった」と歎いている。荀彧は代わりに郭嘉を推挙した《郭嘉伝》。

司空府に軍師祭酒が設置されたのは建安三年正月、呂布が滅ぼされたのは同年十二月のことだから、初めて曹操に会ったとき軍師祭酒となり、呂布の討伐にも参加した郭嘉の出仕がやはり建安三年だったのは間違いない。戯志才が没したのはその前年と考えられよう。郭嘉は袁紹や司徒府に歴仕していたとはいえ、戯志才の死後ようやく推挙されたものであり、つまり戯志才一人がいれば郭嘉は不要だったわけである。郭嘉の上をゆく才知の持ち主だったのだろうが、残念ながら戯志才の計略は伝わっていない。

【参照】郭嘉 / 荀彧 / 曹操 / 劉協(献帝) / 潁川郡

麴義Qu Yi

キクギ

(?〜?)

韓馥・袁紹の将。涼州西平郡の人か。

はじめ麴義は冀州牧韓馥に仕えていた。初平二年(一九一)、麴義は韓馥に背いた。麴義は韓馥との戦いに勝利を収めることができなかったが、勃海太守袁紹は韓馥を恨んでいたので麴義と同盟を結んだ《後漢書袁紹伝》。袁紹は張楊らとともに河内に駐屯していたが、匈奴単于於夫羅が叛逆を企てて張楊を誘拐して去った。麴義が彼を追撃し、鄴の南で於夫羅を撃ち破った《張楊伝》。

その年の冬、公孫瓚が広宗に進出すると、冀州の長吏(県令・県長)は彼が接近していると聞いただけで開門して受け入れた。袁紹は彼を征討するため軍を起こし、界橋の南二十里のところで対陣した。公孫瓚は軍勢三万人に方陣を組ませ、騎兵五千人づつを左右両翼にし、白馬義従が中央を固めた。さらに弓弩部隊を左右に散開させていた。一方、袁紹は麴義に八百人を与えて先鋒とし、強弩兵千人をその左右から進ませ、袁紹自身は数万人を率いてその後に続いた《袁紹伝》。

麴義は長いあいだ涼州にいて羌族の戦法を習熟していたうえ、兵士もまた勇敢であった。公孫瓚は彼が小勢であると見て、騎兵を放って彼らを足止めしようとした。麴義の兵士はみな楯のかげに伏せて動かず、敵が数十歩のところまで来た刹那一斉に立ち上がり、砂塵を揚げ大声を上げながらまっしぐらに衝突した。強弩部隊は雷鳴のごとく発射され、矢が当たれば敵は必ず倒れた。白兵戦となり公孫瓚が任命した冀州刺史厳綱を斬り、兜首千級あまりを挙げたので、公孫瓚軍は敗走した。麴義はさらに追撃して公孫瓚の本陣に到達し、その牙門(陣門)を突破すると陣中の敵兵は全て逃げ散った《袁紹伝》。

袁紹は界橋の手前十数里のところにいたが、馬を下りて鞍を外し、公孫瓚軍が敗れたのを見て備えをゆるめた。そこへ公孫瓚の騎兵二千人が突然襲いかかり、袁紹を幾重にも囲んだ。袁紹麾下には強弩兵数十人と大戟兵百人あまりしかおらず、敵の矢は雨のように降り注いだ。袁紹の強弩兵が乱発して多くを殺傷したので、これが袁紹本陣であるとは知らない敵兵は引き揚げようとした。そこへ麴義が帰ってきて袁紹を救い出した《袁紹伝》。

初平四年(一九三)十二月、幽州牧劉虞が公孫瓚に殺害されると、彼の従事鮮于輔・斉周・騎都尉鮮于銀らは閻柔を烏丸司馬に擁立し、州兵と烏丸・鮮卑族の兵都合数万人を率いて潞県の北で戦い、公孫瓚の任命した漁陽太守鄒丹を殺した。袁紹の方でも劉虞の子劉和に麴義を付けて、鮮于輔らとともに公孫瓚を挟み撃ちにさせた。麴義らは総勢十万人にもなり、公孫瓚軍は何度も敗北した。興平二年(一九五)、麴義が鮑丘で公孫瓚と戦って二万人を斬首すると、公孫瓚は易京に逃げ帰ってそこに楯籠った《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

麴義の易京包囲は一年あまりにもなったので、軍糧が底をついて兵士数千人が逃亡した。そこへ公孫瓚が出撃して、ことごとく輜重車を奪われた《後漢書公孫瓚伝》。麴義は功績を誇って自分勝手に振る舞ったため、袁紹から召し寄せられ誅殺された《後漢書袁紹伝》。その残党は処刑されることを恐れて逃走したが、袁紹の大軍は進軍をやめ、別働隊を派遣して彼らを殲滅させ、残りは自軍に編入した。公孫瓚は印綬を偽造して彼らに報復せよと命じていたが、けっきょく救援しなかった《公孫瓚・後漢書袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 閻柔 / 於夫羅 / 韓馥 / 厳綱 / 公孫瓚 / 鄒丹 / 斉周 / 鮮于銀 / 鮮于輔 / 張楊 / 劉虞 / 劉和 / 易京 / 界橋 / 河内郡 / 冀州 / 鄴県 / 漁陽郡 / 広宗県 / 西平郡 / 鮑丘 / 勃海郡 / 幽州 / 涼州 / 潞県 / 烏丸司馬 / 騎都尉 / 県長 / 県令 / 刺史 / 従事 / 単于 / 太守 / 長吏 / 牧 / 印綬 / 烏丸族 / 牙門 / 羌族 / 匈奴族 / 鮮卑族 / 白馬義従

牛蓋Niu Gai

ギュウガイ
(ギウガイ)

朱蓋

牛金Niu Jin

ギュウキン
(ギウキン)

(?〜?)
魏後将軍

曹仁・司馬懿の将。

はじめ部曲の将校として行征南将軍曹仁に属し、ともに江陵の守備にあたった。建安十三年(二〇八)冬、周瑜が数万の軍勢を引き連れて江陵に攻め寄せた。牛金は曹仁の命を受けて三百人を募って迎え撃った。しかし周瑜は彼が寡兵であったためすっかり包囲してしまった。これを見た曹仁は憤怒し、わずか数十騎だけを率いて城を飛び出して包囲網に突入した。そのおかげで牛金は脱出することができたが、まだ牛金の部下が包囲網のなかに取り残されていた。曹仁はふたたび引き返して彼らを救い出した《曹仁伝》。

太和四年(二三一)三月、諸葛亮が祁山に進出すると、明帝曹叡は司馬懿に討伐させた。司馬懿が昼夜兼行で駆け付けると、諸葛亮は砂塵を見ただけで逃走した。さらに漢陽まで進んで諸葛亮軍と対峙すると、司馬懿は牛金に軽騎兵を率いさせて囮部隊としたが、わずかに衝突しただけで諸葛亮は逃走する。諸葛亮は鹵城に駐屯したが、司馬懿の追撃を受けて敗走した《晋書宣帝紀》。

青龍三年(二三五)、蜀の将軍馬岱が国境地帯を侵犯したので、司馬懿は牛金を派遣して迎撃させた。牛金は馬岱を敗走させ、千人余りの首級を挙げた。景初二年(二三八)、司馬懿は牛金・胡遵らを率いて歩騎四万人をもって京都を進発し、遼東の公孫淵を討伐した《晋書宣帝紀》。牛金の官職は後将軍にまで昇った《曹仁伝》。

むかし玄石図というのがあって、石の表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という言葉が浮かび上がっていた。そのため司馬懿は牛氏を深く恨んでいた。そこで一つのお膳に二つの酒樽を載せ、一方を司馬懿が自分で飲み、もう一方の鴆毒が入ったのを牛金に飲ませて殺した。しかしながら司馬懿の曾孫司馬覲の妃夏侯銅環は、小役人の牛氏と密通して司馬睿を生んだのであった《晋書元帝紀》。

【参照】夏侯銅環 / 胡遵 / 公孫淵 / 司馬懿 / 司馬睿 / 司馬覲 / 周瑜 / 諸葛亮 / 曹叡(明帝) / 曹仁 / 馬岱 / 漢陽郡 / 祁山 / 江陵県 / 蜀 / 遼東郡 / 鹵城 / 後将軍 / 征南将軍 / 玄石図 / 行 / 鴆毒 / 部曲

牛輔Niu Fu

ギュウホ
(ギウホ)

(?〜192)
漢中郎将

董卓の女婿。中郎将《董卓伝》。

董卓が朝廷で実権を握ると中郎将となり、中平六年(一八九)十月、白波賊十万余りの討伐にあたったが勝つことができなかった《後漢書献帝紀》。ちょうど山東で反董卓の義兵が起こったため、董卓は献帝を擁して長安に都を遷した。そのとき東中郎将董越が弘農郡澠池を、中郎将段煨が華陰を守り、牛輔も河東郡安邑に駐屯して反董卓軍を防いだ《後漢書董卓伝》。

太僕朱儁は董卓の西遷計画に反対していたが、このとき河南尹として洛陽に残って山東の諸将と通謀していた。董卓は校尉李傕・郭汜・張済を牛輔を預け、歩騎数万を率いて陝に進出させた。牛輔は中牟で朱儁を撃破、陳留・潁川の諸県で男女を殺したり誘拐したりして、その軍勢が通り過ぎたところでは命を永らえた者はなかった《後漢書朱儁伝・同董卓伝》。

初平三年(一九二)四月、董卓が長安において王允・呂布に殺された。呂布は李粛を陝に派遣して詔勅によって牛輔を討伐させたが、牛輔らは李粛と戦って弘農に敗走させたので、呂布は李粛を殺した《董卓伝》。そののち牛輔の軍中では訳もなく大騒ぎとなり、牛輔は陣中みなが謀叛をしていると思い、金銀財宝を持ち出して陝城から逃げ出した。日ごろ可愛がっていた攴胡の赤児ら五・六人だけを連れて黄河を北に渡ったが、赤児らは彼の財宝に目がくらみ、牛輔の首を斬って長安に送り届けた《董卓伝》。

【参照】王允 / 郭汜 / 朱儁 / 赤児 / 段煨 / 張済 / 董越 / 董卓 / 李傕 / 李粛 / 劉協(献帝) / 呂布 / 安邑県 / 潁川郡 / 華陰県 / 河東郡 / 弘農郡 / 弘農県 / 山東 / 陝県 / 中牟県 / 長安県 / 陳留郡 / 黽池県(澠池県) / 洛陽県 / 河南尹 / 校尉 / 太僕 / 中郎将 / 東中郎将 / 白波賊 / 攴胡

去卑Qubei

キョヒ

(?〜?)
南匈奴右賢王

南匈奴右賢王《武帝紀・後漢書南匈奴伝》。烏利の子《新唐書宰相世系表》、劉猛・誥升爰の父《魏書劉虎伝》。南匈奴単于の子孫という《魏書劉虎伝》。

『新唐書』に、後漢光武帝の子孫劉進伯が匈奴に捕らえられて尸利を生み、その子烏利が去卑を生んだとあるが、大いに疑わしい。また『新唐書』では去卑を劉猛の兄とするが、活動時期からみて『魏書』の方が正しいと思われる。『後漢書董卓伝・晋書江統伝・同赫連勃勃伝』では右賢王、『後漢書献帝紀・魏書劉虎伝』では左賢王とする。

興平二年(一九五)、長安を出立して洛陽に向かっていた天子は、十一月庚午、弘農の東の谷間にて李傕・郭汜・張済に攻められて敗北、多くの大臣を失った。壬申、曹陽亭の田園で野営したところで、随行していた楊奉・董承は李傕らと講和するふりをし、密かに使者を河東郡に遣して白波賊の頭目胡才・李楽・韓暹および右賢王去卑を呼び寄せた。去卑らはそれぞれ数千騎の軍勢を率いて参陣して天子を奉じ、董承・楊奉とともに李傕らと戦い、これを打ち破って首級数千を挙げた《後漢書献帝紀・同董卓伝》。御車はようやく進むことができるようになり、去卑は胡才らとともに後詰めしたが、李傕の追撃を受けて大敗した《後漢書董卓伝》。

去卑はそのまま天子に随行して洛陽に帰り、許への遷都にも従い、それから故郷の河東郡平陽に帰国した《後漢書南匈奴伝》。

建安二十一年(二一六)五月、曹操が爵位を魏公に進められると、七月、南匈奴単于呼廚泉が配下の名王たちを連れて入朝したので、曹操は彼らをそのまま魏国に留め、去卑に匈奴らの監督を命じた《武帝紀》。これは呼廚泉が身をもって人質になるよう去卑が勧めたものと伝わる《晋書江統伝》。

【参照】烏利 / 郭汜 / 韓暹 / 胡才 / 呼廚泉 / 誥升爰 / 曹操 / 張済 / 董承 / 楊奉 / 李傕 / 李楽 / 劉協(天子) / 劉猛 / 河東郡 / 魏 / 許県 / 弘農郡 / 曹陽亭 / 長安県 / 平陽県 / 雒陽県洛陽県) / 右賢王 / 公 / 単于 / 名王 / 南匈奴族 / 白波賊

許儀Xu Yi

キョギ

(?〜263)
魏牙門将

沛国譙の人。許褚の子、許綜の父《許褚伝》。

父許褚が亡くなると牟郷侯七百戸を相続した。景元四年(二六三)秋、鎮西将軍鍾会に従って蜀討伐に参加した。許儀は先遣隊として斜谷・駱谷の道路整備を担当したが、橋に穴が開いて、後方の馬が足を踏みはずしたため、鍾会に処刑された。許儀は許褚の子として王室に功績があったが、それでも減免されず、諸軍は震えおののいた《鍾会伝》。

【参照】許綜 / 許褚 / 鍾会 / 譙県 / 蜀 / 沛国 / 牟郷 / 斜谷 / 駱谷 / 郷侯 / 鎮西将軍

許汜Xu Si

キョシ

(?〜?)
漢奮武将軍従事中郎

襄陽の人《襄陽記》。曹操・呂布の賓客。

若いころ同里の楊慮に師事し、のちに曹操の従事中郎になった《襄陽記》。

興平元年(一九四)に曹操が徐州へ出征したとき、許汜は王楷・張超・陳宮とともに叛逆を企てた。陳宮が陳留太守張邈を説得して呂布を兗州牧に迎え入れると、郡県はみな呼応した《呂布伝》。しかし呂布は敗北して徐州に身を寄せ、のちに劉備から徐州を奪い取った《呂布伝》。

従事中郎は将軍府の属官で、通常、賓客が充てられるようだ。

建安三年(一九八)、呂布は袁術方に寝返り、高順を沛に派遣して劉備を攻撃させた。曹操は夏侯惇を派遣して劉備を救援させ、みずから征討軍を起こして下邳の城下に着陣した《呂布伝》。

呂布は許汜・王楷を使者として袁術に救援を求めたが、袁術は「呂布は我に女をくれなかったのだから敗北するのが当然だ。いまさら何を言うのか」と難色を示す。許汜らが重ねて「明上(陛下)におかれては呂布の自滅だと思し召しでございますが、呂布が敗れれば明上もまた敗れることになりますぞ」と訴えたので、袁術は承知して武装を固め、呂布に呼応した《呂布伝》。結局、三ヶ月の籠城のすえ、呂布は敗北して斬られた《呂布伝》。

のちに許汜は劉備とともに荊州牧劉表に身を寄せた。宴席の最中、劉表と劉備とが天下の人物について話し合っていたので、許汜は「陳元龍(陳登)は天下の士ではありますが驕慢さは否めませんな」と言った。劉備が「許君のお言葉をどう思われますか」と問うと、劉表は「間違ってると言おうにも、この善士が虚言するはずはないし、正しいと言おうにも、元龍の名声は天下に轟いておるからのう」と困惑した《呂布伝》。

劉備が許汜に「貴君は驕慢とおっしゃいましたが、何かあったのですかな」と訊ねると、許汜は「むかし下邳で元龍に会うことがございましたが、客をもてなす心を持っておりませんでした。長いあいだ口をきこうともせず、自分は大きな牀(とこ)の上で寝て、客人を牀の下に寝かせたのです」と答える《呂布伝》。

劉備は言った。「貴君は国士として名声をお持ちですが、いま天下は大混乱して至尊は居場所を失っておられます。国を憂えて家を忘れ、救世の志を立てることを期待されているのに、なんと貴君は田畑や邸宅を求める有様、発言には取り柄もない。それが元龍の憎んだ理由です。何を話題に貴君と語り合えとおっしゃるのでしょう。小人(わたし)ならば百尺の矢倉の上で寝て、貴君を地べたに寝かせたいところですな。牀の上下どころではありませんよ」《呂布伝》

【参照】袁術 / 王楷 / 夏侯惇 / 高順 / 曹操 / 張超 / 張邈 / 陳宮 / 陳登 / 楊慮 / 劉協(至尊) / 劉備 / 劉表 / 呂布 / 兗州 / 下邳県 / 荊州 / 襄陽郡 / 徐州 / 陳留郡 / 沛県 / 従事中郎 / 太守 / 牧

許綜Xu Zong

キョソウ

(?〜?)
晋牟郷侯

沛国譙の人。許儀の子、許褚の孫《許褚伝》。泰始年間(二六五〜二七五)の初め、父許儀の遺領を相続した《許褚伝》。

【参照】許褚 / 譙県 / 沛国 / 牟郷 / 郷侯

許定Xu Ding

キョテイ

(?〜?)
魏振威将軍

沛国譙の人。許褚の兄《許褚伝》。軍功によって振威将軍となり、王道巡回の虎賁を都督した《許褚伝》。

【参照】許褚 / 譙県 / 沛国 / 振威将軍 / 虎賁

許攸Xu You

キョユウ
(キヨイウ)

(?〜?)

字は子遠。南陽の人《崔琰伝》。

若いころは袁紹や曹操と親しかった《崔琰伝》。袁術は何顒を憎んでいて「許子遠は凶淫の人であり、性質も行動も不純である。それなのに伯求(何顒)は彼と親しくしている」と非難したが、陶丘洪は「許子遠は不純ではありますが、危難に向かっては足の濡れるのを嫌いません。伯求は善人としては王徳弥を挙げ、危難を解決する者としては子遠を挙げているのです」と弁護している《荀攸伝》。

許攸は冀州刺史王芬や周旌らとともに豪傑どもと連繋し、霊帝を廃して合肥侯を擁立せんと企てた。その計画を曹操にも打ち明けたが、これには断られている。霊帝が河北の旧宅へと巡幸したさい、王芬らは黒山賊を鎮圧するため軍勢出動を許可を出されたいと言上した。このとき天に赤気が上るという妖兆が観測されたため、霊帝は出動停止命令を出して王芬を呼び返した。王芬は恐怖を感じて自殺し、計画は失敗に終わった《武帝紀》。

初平年間(一九〇〜一九四)、袁紹が董卓の元を去って出奔したとき、許攸・逢紀は彼とともに冀州に入った。許攸はいつも座中にあって議論に参画していた《袁紹・崔琰伝》。

建安三年(一九八)、曹操はついに袁紹と対峙することになった。孔融は荀彧に告げた。「袁紹の領地は広くて軍勢は強い。田豊・許攸は智計の士であるが、彼のために策略を立てている。審配・逢紀は尽忠の臣であるが、その事務を仕切っている。まず勝つことは難しかろうな!」、荀彧が答えた。「袁紹は軍勢多しとはいえ法令が行われず、田豊は剛直で上の者に逆らい、許攸は貪欲でけじめがなく、審配は専制的であるが計画がなく、逢紀は決断力があるが自分のことしか考えない。この二人が後方の事務を仕切っているのだ。もし許攸の家族が法を犯せば放ってはおけまいし、そうなれば許攸が必ず変事を起こすだろう」《荀彧伝》。

五年、袁紹は精鋭十万人、騎兵一万人を選りすぐり、審配・逢紀に軍事を統べさせ、田豊・荀諶・許攸を謀主、顔良・文醜を将帥として許を攻めんとした《袁紹伝》。

八月、袁紹軍は官渡において曹操軍と対峙した。許攸は「公は曹操と戦ってはなりませぬ。早急に諸軍を展開して対峙するとともに、間道を通って天子をお迎えすれば事業を打ち立てることができましょう」と袁紹を説得したが、彼が「吾は何がなんでも、まず奴めを包囲して生け捕りにせねばならんのだ」と言うので、許攸は腹を立てた《武帝紀》。

対峙は百日余りも続いた。許攸は進み出て言った。「曹操の軍勢は少ないのに全軍挙げて我らと対峙しておりますから、許城下の留守はきっと足弱の者ばかりです。もし軽装兵を分遣して夜襲いたし、もし許が陥落すれば曹操を生け捕りにすることもできましょうし、もし奴らを潰滅させられなくても前後から翻弄することになり、必ず打ち破ることができます」。袁紹は採用しなかった《後漢書袁紹伝》。

ちょうどそのころ許攸の家族が法を犯し、審配が彼の妻子を逮捕した。また許攸は袁紹のために計画を立ててやることが不可能であるとも考えていたため、十月、ついに部曲をこぞって曹操に身を寄せた《武帝紀・荀彧・崔琰伝・後漢書袁紹伝》。曹操は許攸がやって来たと聞くと、裸足で飛び出して彼を迎え入れ、手のひらを撫でつつ笑いながら言った。「子卿が遠来したからには、吾が事業は完成だ!」《武帝紀》。

許攸は座に着くなり曹操に言った。「袁氏の軍勢は盛強ですのに、どうやって彼らと対峙なさるのですか?いま食糧はいかほどありますか?」、曹操「まだ一年は支えられるよ」、許攸「左様なことはございますまい。もう一度おっしゃってください!」、「半年は支えられる」、許攸「足下は袁氏を打ち破りたくはないのですか。どうして事実でないことを言うのでしょう!」《武帝紀》

曹操「さっきの言葉はただの戯れだ。その実、一ヶ月までなのだが、この点どうすればいいのだろう?」、許攸「公は孤立した軍で独り守っておられ、外に救援はなく、そのうえ食糧はすでに尽き果てており、これこそ危急の日でございます。いま袁氏の輜重車は一万乗もあり、故市・烏巣におりますが、駐屯軍には厳重な警戒がございません。いま軽騎兵によってそれを襲撃し、不意を突いて出て、その集積物資を焼けば、三日もせぬうちに袁氏は自壊いたしましょう」《武帝紀》。

曹操は大いに喜び、そこで歩騎の精鋭を選りすぐり、夜、間道に沿って出陣した。到着するなり屯営を包囲し、大いに火を放つと、陣中では驚いて混乱をきたした。これを大破し、将軍淳于仲簡の鼻を削ぎ落としたが、まだ死ななかった。曹操は心底から殺すまいと思っていたが、許攸が「明朝、鏡を見れば、こいつはいよいよ他人(への恨み)を忘れますまいぞ」と言ったので、彼を殺した《武帝紀》。

許攸は自分の立てた功労を嵩にして、ときどき曹操をからかうことがあった。いつも同席したときは身を正そうとせず、曹操の小字を呼びながら「阿瞞よ、卿は我を手に入れなければ、冀州を手に入れられなかったのですよ」と言うほどだった。曹操は笑いながら「汝の言葉通りだ」と言っていたが、内心では憎悪していた《崔琰伝》。

曹操は激怒して彼を討ち果たそうと思い、杜襲が諫言しようとすると出会い頭に「吾の計画は決まっている。卿はもう言うな」と言い放った。杜襲「殿下の計略が正しければ臣は殿下をお助けして計画を遂行いたしますし、殿下の計画が間違っていれば成功したものでも改めていただきます。殿下は出会い頭に物言うなとご命令されましたが、なんと部下の処遇に不明なことでありましょうか」《杜襲伝》。

曹操「許攸が吾を侮辱しておるのに、どうして放置しておけようか?」、杜襲「許攸がいかなる人物であると殿下はお考えですか?」、「凡人だ」、「そもそも賢者だけが賢者を理解し、聖人だけが聖人を理解するものです。凡人がどうして非凡の人を理解できましょうや?いま豺狼どもが道を塞いでいるのに狐狸を優先なさるならば、人々は殿下が強者を避けて弱者を攻めたと思い、勇であるとも仁であるとも取らぬでありましょう。いまちっぽけな許攸なぞにどうして神武を煩わせる必要がありましょうや?」。曹操はその通りだと思い、許攸を手厚くねぎらったので、許攸はすぐさま帰服した《杜襲伝》。

その後、曹操に随従して鄴の東門を出たさい、許攸は左右の者に「この家は我を手に入れなければ、この門を出入りすることはできなかっただろうな」と言った。それを報告する者がいて、ついに逮捕された。曹操は憎悪の深い性質で、許攸が旧交を恃みとして慎みがなかったので、誅殺した《崔琰伝》。

【参照】袁紹 / 袁術 / 王徳弥 / 王芬 / 何顒 / 合肥侯 / 顔良 / 孔融 / 周旌 / 淳于瓊淳于仲簡) / 荀彧 / 荀諶 / 審配 / 曹操 / 田豊 / 杜襲 / 陶丘洪 / 董卓 / 文醜 / 逢紀 / 劉協(天子) / 劉宏(霊帝) / 烏巣 / 河北 / 官渡 / 冀州 / 許県 / 鄴県 / 故市 / 南陽郡 / 刺史 / 黒山賊 / 小字 / 謀主

姜合Jiang He

キョウゴウ
(キヤウガフ)

(?〜?)

武都の人《文帝紀》。

姜合は内学(予言術)に長け、関右で名を知られていたという。同郡の李庶とともに漢中の張魯に身を寄せた《文帝紀》。

曹操が魏国を建立したという報が届いたとき、辺境の人々は彼が王位に就いたのだろうと思ったが、姜合は李伏という者に「公になられたのであって、まだ王位に就かれておりません。しかし、いずれ天下を定めるのは魏公の子桓(曹丕)さまです。神がそう命じられているので予言書に符合しておるのです」と語った《文帝紀》。

李伏がその言葉を張魯に言上すると、張魯は「根拠となる書物を知っているのか」と訊ねた。姜合は「孔子の玉版(玉に文章が刻まれたもの)でございます。天子の命運は百代のちまで知ることができます」と答えた。このことから張魯は曹操に帰服したいと考えるようになった《文帝紀》。

曹操が漢中平定の軍勢を催すと、姜合は一足早く帰順したが、しばらくして鄴で病没した。李伏が姜合の言葉を奏上したことから、曹丕は受禅すべしとの議論が起こったのである《文帝紀》。

【参照】孔子 / 曹操 / 曹丕 / 張魯 / 李庶 / 李伏 / 関西(関右) / 漢中郡 / 魏 / 鄴県 / 武都郡 / 王 / 公 / 玉版 / 内学

喬蕤Qiao Rui

キョウズイ
(ケウズヰ)

橋蕤

橋蕤Qiao Rui

キョウズイ
(ケウズヰ)

(?〜197)
仲大将

袁術の大将。「喬蕤」ともある《討逆伝》。

袁術は揚州刺史陳温を殺してその州を手に入れると、張勲・橋蕤らを大将軍に任じた《袁術伝》。橋蕤らは孫策を高く評価していたという《討逆伝》。のちに袁術は橋蕤とともに蘄陽を包囲したが、蘄陽は曹操に味方して固守している《何夔伝》。

このとき袁術はまだ僭号しておらず大将軍を任命することはできない。「大将」の誤りだろう。『何夔伝』では蘄陽包囲の記事を建安二年以前に置き、またこのとき何夔が「臣」ではなく「吾」と称しており、事件が僭号以前であったことはほぼ確実である。

建安二年(一九七)、袁術は帝号を称し、韓胤を使者としてそれを呂布に知らせるとともに、彼の女を我が子の妻へ迎えようとした。ところが呂布は韓胤を捕らえて許へ送り飛ばしてしまったため、袁術は怒り、大将張勲・橋蕤ら、それに韓暹・楊奉に加勢させ、合わせて歩騎数万人を七手から進めて呂布を攻撃させた《袁術伝・後漢書同伝・同呂布伝》。

呂布はこのとき歩兵三千人と騎馬四百匹しか持っていなかった。そこで韓暹・楊奉に手紙を送り、「両将軍は御車警護、呂布は董卓誅殺と、ともに功名を挙げて竹帛に記されるべきであり、いま袁術が叛逆を企てておるうえは共同して誅伐すべきですのに、どうして賊軍と一緒になって呂布を討伐なさろうというのですか。いま力を合わせて袁術を打ち破り、国家の害を取り除くならば、天下に功績を挙げることになります。この機会を失ってはなりますまいぞ」と告げ、同時に袁術軍の物資を与えようと約束したので、韓暹らは大いに喜んだ《呂布伝》。

張勲・橋蕤らは下邳に進軍して陣を布き、呂布はそこから百歩離れたところまで進んだ。そのとき韓暹・楊奉の軍勢が時を同じくして反旗を翻し、袁術の将十人を斬ったので、袁術軍はさんざんに打ち破られ、橋蕤は生け捕りにされ、川に落ちて死ぬ者数知れずという有様となった《呂布伝・後漢書同伝》。

生け捕りになったとするのは『後漢書』の説だが、『三国志』には見えず、また九月の条に橋蕤の名が見えていることから『後漢書』の誤りと考えられている《集解》。

秋九月、袁術は陳国に侵出したが、曹操がみずから東征の途に就いたと聞いて、軍勢を棄てて逃走し、張勲・橋蕤・李豊・梁綱・楽就を苦県に残して曹操を防がせた。曹操は于禁らとともに苦城を包囲、さらに蘄陽を陥落させて張勲を敗走させ、橋蕤以下四人を斬首した《武帝紀・于禁伝・後漢書袁術伝》。

蘄陽を、『後漢書』李注が江夏郡蘄春のこととするのは誤りで、これは沛国蘄県を指しているのだが、「陽」を衍字とみる『通鑑』胡注も正しくない。沛国を流れる蘄水の北岸という意味において蘄県を指すのである《後漢書袁術伝集解》。『武帝紀』建安二年の条では橋蕤の守った地名を記していない。同十八年の条に引く献帝の策命に「蘄陽の戦役では橋蕤が首を授けた」とあるが、『于禁伝』では「苦における橋蕤包囲に従軍し、橋蕤ら四将を斬った」とあり、彼の落命した場所が食い違っている。ここでは初め苦城で包囲を受け、逃走したのち改めて蘄城に楯籠ったものと解す。しかし『何夔伝』では、蘄陽が、陳郡の何夔と同郡とも言っており、蘄県が陳国から遠く離れていることも含めて考えると、あるいは苦県の別名を蘄陽といったのかも知れない。

【参照】于禁 / 袁術 / 楽就 / 韓胤 / 韓暹 / 曹操 / 孫策 / 張勲 / 陳温 / 董卓 / 楊奉 / 李豊 / 呂布 / 梁綱 / 下邳国 / 許県 / 蘄陽 / 苦県 / 陳国 / 揚州 / 刺史 / 大将軍

金旋Jin Xuan

キンセン

(?〜208?)
漢中郎将・武陵太守

字は元機。京兆尹の人。金禕の父《先主伝》、金日磾の後裔《武帝紀》。

黄門郎・漢陽太守・議郎を歴任したのち、中郎将・武陵太守に任じられた《先主伝》。建安十三年(二〇八)十二月、赤壁において曹操を破った劉備が荊州南部に進出すると、金旋は長沙太守韓玄・零陵太守劉度・桂陽太守趙範とともに降服したが《先主伝》、許されず劉備に殺されている《先主伝》。

【参照】韓玄 / 金禕 / 金日磾 / 曹操 / 趙範 / 劉度 / 劉備 / 漢陽郡 / 荊州 / 京兆尹 / 桂陽郡 / 赤壁 / 長沙郡 / 武陵郡 / 零陵郡 / 議郎 / 黄門郎 / 太守 / 中郎将

靳詳Jin Xiang

キンショウ
(キンシヤウ)

(?〜?)
蜀右将軍監軍

太原の人《明帝紀》。郝昭の旧友《同集解》。

靳詳は若いころ同郡の郝昭と親しかったが、のちに蜀に捕らえられた。太和二年(二二八)十二月、諸葛亮が陳倉城の郝昭を包囲したとき、その監軍であった靳詳は使者として城外から郝昭に降服を呼びかけた。郝昭は矢倉の上から答えた。「魏の法律はあなたもよくご存じだろう。私の人柄もあなたはよくご存じだろう。むかし防備を固めて祁山を守ったときは安閑として用心が足らず、最終的に守りきることはできたとはいえ今でも忸怩たる思いを抱いておるのだ。私は死を覚悟している。あなたは帰って諸葛亮に伝えてくれ、すぐに攻撃せよと。」《明帝紀・同集解》

諸葛亮は郝昭の言葉を聞くと、ふたたび靳詳を使者として「人数が同等ではないのだから自分から無駄死にするような真似はなさるな」と説得させた。郝昭は靳詳に告げた。「以前の言葉でもう決まりだ。私があなたのことを知っていても、矢はあなたのことを知らないのだぞ。」靳詳は立ち去った《明帝紀》。

【参照】郝昭 / 諸葛亮 / 魏 / 祁山 / 蜀 / 太原郡 / 陳倉県 / 監軍

虞羡Yu Yi

グイ

(228〜284)
呉牙門将・裨将軍

字は敬悌。呉の牙門将・裨将軍《虞羡碑》。太康五年(二八四)秋八月二十七日庚子、正午、五十七歳で卒去したという《虞羡碑》。

【参照】呉 / 牙門将軍 / 裨将軍

【鏈接】《養山堂蔵拓》

畦固Qi Gu

ケイコ

眭固

郄慮Xi Lu

ケキリョ

郗慮

厳顔Yan Yan

ゲンガン

(?〜?)

劉璋の将。巴郡臨江県の人《華陽国志》。『華陽国志』は彼を「壮烈、将軍厳顔」と評している。

厳顔は巴郡太守趙筰のもとで将軍を務めていたが《華陽国志》、劉備が劉璋に招かれて巴郡を通過したとき、胸を叩きながら「一人で奥山にいて、猛虎を放って身を守るようなものだ」と歎いている《張飛伝》。

『張飛伝』では厳顔を巴郡太守としているが、彼の本郡であるため誤りとわかる《華陽国志》。

張飛が諸葛亮らとともに益州に侵入し、巴郡に迫ると、厳顔は降伏せずに抗戦した。戦いに敗れて生け捕りになり、張飛が「なぜ降伏しなかったのだ」と怒鳴ると、「益州には首を刎ねられる将軍はいても、降伏する将軍はいないのだ」と答えた。張飛が怒って首を斬ろうとすると、「首を斬りたければさっさと斬れ。わざわざ腹を立てる必要はあるまい」と言った。張飛はその意気に感心し、縄をほどいて彼を賓客としてもてなした《張飛伝》。

〔雒城までの道筋は厳顔の部下が固めていたが、厳顔が張飛の軍に随行して彼らを降伏させた。益州が平定されると前将軍に任じられる。張郃が葭萌関を攻撃すると、黄忠とともに加勢となり、天蕩山の守将夏侯徳を斬った。〕

当時劉備は左将軍であって、厳顔がたとえ張飛の賓客であったとしても前将軍に任ずることはできないし、また劉備と同列に扱うことも適当でないように思われる。羅貫中の誤りである。

【参照】夏侯徳 / 黄忠 / 諸葛亮 / 張郃 / 張飛 / 趙筰 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 葭萌関 / 天蕩山 / 巴郡 / 雒県 / 臨江県 / 将軍 / 前将軍 / 太守 / 華陽国志

厳綱Yan Gang

ゲンコウ
(ゲンカウ)

(?〜191)
漢冀州刺史

公孫瓚の将帥《後漢書公孫瓚伝》。

初平二年(一九一)冬《後漢書袁紹伝》、公孫瓚は従弟公孫越が袁紹に殺されたことから、復讐の兵を挙げて界橋に進撃し、厳綱を冀州刺史、田楷を青州刺史、単経を兗州刺史に任じた《公孫瓚伝》。袁紹軍が少数であると見て攻撃をしかけたが、左右から弩を浴びせかけられて大敗、厳綱は生け捕りとなり、斬られた《袁紹・公孫瓚伝》。

『後漢書』献帝紀が界橋決戦を初平三年のこととするのはおそらく誤り。

【参照】袁紹 / 公孫越 / 公孫瓚 / 単経 / 田楷 / 兗州 / 界橋 / 冀州 / 青州 / 刺史

厳象Yan Xiang

ゲンショウ
(ゲンシヤウ)

(163〜200)
漢揚州刺史

字は文則。京兆の人《荀彧伝》。厳像とも書く《王粲伝》。

もともと博学聡明であったうえ、胆力もあり、建安年間(一九六〜二二〇)の初め、同郡の路粋とともに尚書郎に抜擢される《荀彧・王粲伝》。同郡の趙岐は『三輔決録』を著したが、当時の人々が理解できないことを恐れ、ただ厳象だけに見てもらった《荀彧伝》。

荀彧に才能を評価されて曹操に任用され、文武両才に秀でていたので、督軍御史中丞となって袁術討伐にあたったが、ちょうど袁術が病死したので、厳象はその地に留まって揚州刺史に任じられた《荀彧伝》。

曹操は袁紹と対峙していたので、背後の孫策を手懐けようと考え、孫氏の子弟と縁組みを結んだ。また同時に、厳象に命じて孫権を茂才に推挙させた《討逆伝》。孫策は廬江太守劉勲を追放して李術を太守としていたが、孫策の死後、李術は孫権に従わず、揚州刺史厳象を殺害した《荀彧・劉馥・呉主伝》。建安五年(二〇〇)、厳象が三十八歳のときのことであった《荀彧伝》。

【参照】袁術 / 袁紹 / 荀彧 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 趙岐 / 李術 / 劉勲 / 路粋 / 京兆尹 / 揚州 / 廬江郡 / 刺史 / 尚書郎 / 太守 / 督軍御史中丞 / 茂才 / 三輔決録

厳像Yan Xiang

ゲンゾウ
(ゲンザウ)

厳象

胡脩Hu Xiu

コシュウ
(コシウ)

(?〜?)
漢荊州刺史

曹操の臣。荊州刺史。

荊州刺史となって南郷太守傅方とともに関羽の北進に備えていたが、軍司馬司馬懿は曹操に「荊州刺史胡脩は性格が粗暴ですし、南郷太守傅方も傲慢です。どちらも辺境を任せられるべきでありません」と進言している。曹操はそれを聞き入れることができなかった。関羽が樊城の曹仁を包囲し、于禁らの七軍が水没してしまうと、はたして胡脩らは関羽に投降してしまった《晋書宣帝紀》。

【参照】于禁 / 関羽 / 司馬懿 / 曹仁 / 曹操 / 傅方 / 荊州 / 南郷郡 / 樊城 / 軍司馬 / 刺史 / 太守

胡遵Hu Zun

コジュン

(?〜256)
魏車騎将軍

安定郡臨涇の人。胡広・胡奮・胡烈の父《晋書胡奮伝》。

胡遵は文武の才能を兼ねそなえており《鍾会伝》、龐延・楊阜・龐淯・張恭・周生烈らとともに、雍州・涼州刺史張既により礼儀でもって招聘された。彼らはみな最終的に地位と名誉を手にすることになった《張既伝》。

青龍元年(二三三)秋九月、安定城塞の匈奴の大人である胡薄居姿職らが叛乱を起こしたので、胡遵は司馬宣王の命令を受けてこれを追討、打ちやぶって降服させた《明帝紀》。

翌二年、蜀の諸葛亮がまた十万人あまりを率いて斜谷に進出してきた。帝(司馬懿)は将軍周当を囮部隊として陽遂に進駐させたが、諸葛亮は数日しても動かなかった。帝は「諸葛亮は平原地帯を奪うつもりだから陽遂へ向かわないのだ。やつの意図は分かったぞ」と言い、将軍胡遵・揚州刺史郭淮に陽遂を守らせ、積石で諸葛亮と対峙した。諸葛亮は進むことができず五丈原に引き返した《晋書宣帝紀》。

景初二年(二三八)春、太尉司馬宣王は公孫淵を征討すべく牛金・胡遵らの歩騎四万人を率いて京都を出立。六月、官軍は遼東に到達した。公孫淵は将軍卑衍・楊祚らに歩騎数万人を与えて遼隧に屯させ、二十里あまりにわたって塹壕を掘らせておき、宣王の軍隊が到来すると卑衍に反撃させた。宣王は胡遵らにそれを撃破させた。宣王がまっすぐ襄平に向かったので、卑衍らは襄平に防備のないことを心配して撤退した《公孫度伝・晋書宣帝紀》。

嘉平四年(二五二)春正月、帝(司馬師)が大将軍・録尚書事に昇進した。このとき諸葛誕・毌丘倹・王昶・陳泰・胡遵が四方を都督し、王基・州泰・鄧艾・石苞が州郡を司り、盧毓・李豊が人事を担い、傅嘏・虞松が計略に参画し、鍾会・夏侯玄・王粛・陳本・孟康・趙酆・張輯が朝議に参与しており、天下の人々はすっかり心を寄せた《晋書景帝紀》。

同年四月、呉の孫権が死去した。征東将軍胡遵は征南大将軍王昶・鎮南将軍毌丘倹らとともに呉を征討すべきと上表した。傅嘏は胡遵らの計画を評価しつつ、万全の策を用いるべきと唱えたが、その意見は採用されず、同年十一月、王昶らに呉征討の詔勅が下された《斉王紀・傅嘏伝》。十二月朔日丙申、胡遵・諸葛誕らは七万人を率いて東興を包囲、王昶が南郡を攻撃し、毌丘倹が武昌に向かい、司馬昭がこれらの諸将を統括した《孫亮・諸葛恪伝・晋書文帝紀》。

胡遵らは配下の諸軍に命じて浮き橋を作らせて渡し、堤防の上に布陣し、手を分けて二つの砦を攻撃したが、砦は高みにあってなかなか陥落させられなかった。呉の諸葛恪は四万人を動員して救援に駆けつけ、留賛・呂拠・唐咨・丁奉を先鋒として派遣した。雪の降るさなか、魏の諸将は酒宴を開いていた。留賛らは兵士が少ないのに鎧を脱ぎすてて矛も持たず、堤防にしがみついた。(魏の兵士は)それを笑いものにして武器を構えようともしなかった《諸葛恪伝》。

戊午、丁奉が麾下三千人を率いて直行し、短兵に持ちかえて敵前衛を大破した。ちょうど呂拠らも到着し、兵士が(堤防の)上に登れるようになったので、太鼓を鳴らしてしゃにむに斬りこむと、魏軍は驚いて逃げちり、さきを争って浮き橋を渡ろうとした。しかし朱異が水軍を監督して浮き橋を破壊していたため退路がなく、川に飛びこんだり踏みつけあったりして、将軍韓綜・楽安太守桓嘉らは一斉に倒れ、死者は数万人に上った《孫亮・丁奉・朱桓・諸葛恪伝》。

正元二年(二五五)正月、鎮東将軍毌丘倹・揚州刺史文欽が寿春で反乱を起こした《高貴郷公紀》。大将軍司馬師は中外の軍隊を統括してこれを討伐し、別働隊として諸葛誕に予州諸軍を監督させて安風津より寿春を惑わせ、征東将軍胡遵には青・徐州の諸軍を監督させて譙・宋一帯に出して退路を断たせた。司馬師は汝陽に進駐し、監軍王基に先鋒の諸軍を監督させて南頓で待ちかまえさせた。毌丘倹は敗走して草むらに身を潜めたが、安風津都尉の領民である張属に射殺された《毌丘倹伝・晋書景帝紀》。

大将軍司馬師が薨去したため、二月丁巳、弟の衛将軍司馬昭が大将軍・録尚書事に昇進した。秋七月、胡遵は征東大将軍から衛将軍に昇進、代わって鎮東大将軍諸葛誕が征東大将軍となった《高貴郷公紀》。

甘露元年(二五六)秋七月己卯、衛将軍に在職のまま薨去した《高貴郷公紀》。

『鍾会伝』注および『晋書』胡奮伝では車騎将軍まで昇ったとしている。おそらく死後に追贈されたものだろう。

【参照】王基 / 王粛 / 王昶 / 夏侯玄 / 郭淮 / 毌丘倹 / 桓嘉 / 韓綜 / 牛金 / 虞松 / 胡広 / 胡奮 / 胡烈 / 胡薄居姿職 / 公孫淵 / 司馬懿(司馬宣王・帝) / 司馬師(帝) / 司馬昭 / 朱異 / 州泰 / 周当 / 周生烈 / 諸葛恪 / 諸葛誕 / 諸葛亮 / 鍾会 / 石苞 / 孫権 / 張既 / 張恭 / 張輯 / 張属 / 趙酆 / 陳泰 / 陳本 / 丁奉 / 唐咨 / 鄧艾 / 卑衍 / 傅嘏 / 文欽 / 龐淯 / 龐延 / 孟康 / 楊祚 / 楊阜 / 李豊 / 留賛 / 呂拠 / 盧毓 / 安定郡 / 安風津 / 魏 / 呉 / 五丈原 / 寿春県 / 譙県 / 襄平県 / 蜀 / 徐州 / 汝陽県 / 青州 / 積石 / 宋公国 / 東興 / 南郡 / 南頓県 / 武昌県 / 斜谷 / 雍州 / 揚州 / 陽遂 / 楽安国(楽安郡) / 洛陽(京都) / 涼州 / 遼隧 / 遼東郡 / 臨涇県 / 衛将軍 / 監軍 / 刺史 / 征東将軍 / 征東大将軍 / 征南大将軍 / 太尉 / 太守 / 大将軍 / 鎮東将軍 / 鎮東大将軍 / 鎮南将軍 / 都尉 / 録尚書事 / 匈奴 / 水軍 / 大人 / 短兵

胡軫Hu Zhen

コシン

(?〜?)
漢司隷校尉

字は文才《破虜伝》。涼州の大人《董卓伝》。

初平元年(一九〇)正月、反董卓の義兵が起こったとき東郡(または陳郡)太守を務めていたが、翌二年になって予州刺史孫堅が梁の陽人城に進出してくると、董卓は胡軫を大督護、呂布を騎督に任じ、歩騎五千人で攻撃させた。胡軫は性急なたちで、あらかじめ「今こうして軍を進めているが、とどのつまり青綬(太守)一人を斬れば静かになるのだ」と宣言していた。呂布以下の諸将は彼を憎んだ《破虜伝》。

陽人城まで数十里の広成に到着したとき、ちょうど日が暮れて人馬ともに疲労を極めており、董卓の指示通り、ここで野営して人馬に糧秣を取らせ、夜明けとともに城攻めをすべきであった。諸将は胡軫を憎悪していたので、いっそのこと敵が胡軫を撃ち破ってくれればよいと思った。そこで呂布は「陽人城内の敵はもう逃走した。追わなければ逃げられてしまうぞ」と言い、軍は真夜中に進軍した。城中の守備は万全で、陥落させられそうになかった。軍吏も兵士も飢えや渇きに苦しみ、人馬ともに疲労していた。そのうえ夜中に到着したので、塹壕も堡塁もなかった《破虜伝》。

鎧を脱いで休息していると、また呂布は「城内の賊が出てきたぞ」と兵士たちを驚かせた。軍勢は混乱して潰走した。みな鎧を棄て、馬の鞍を失い、十里余りも逃げてきて賊がいないことに気付いた。ちょうど夜明けとなり、また城攻めに戻った。武器を拾い、城を攻めようとしたが、城の守備は固く、塹壕も深く掘られていて、胡軫らは陥落させることができず撤退した《破虜伝》。軍は孫堅に敗れて都尉葉雄を失った《破虜伝》。

翌三年四月、司徒王允が董卓を誅殺すると、胡軫は王允に属した。五月、董卓の旧将李傕・郭汜らが軍を率いて長安に攻め上ると聞き、王允は胡軫と徐栄に防がせた《後漢書董卓伝》。もともと胡軫は王允と仲が悪く、李傕らが叛くと聞いた王允は胡軫と楊定を呼び、李傕らを説得して解散させようとしたが、優しげな表情を作らず「関東の鼠めは何をするつもりだ。卿らは行って呼んできなさい」と言った《董卓伝》。それを憎んだ胡軫と楊定は、新豊まで来ると李傕らに降伏し、徐栄は戦死した《後漢書董卓伝》。

のち司隷校尉となったが、もともと馮翊郡の功曹游殷と仲が悪く、無実の罪に陥れて死刑とした。それから一ヶ月余りすると病気になり、「罪を認めます。罪を認めます。游功曹が亡者を連れてきた」と言いながら死んでしまった《張既伝》。

【参照】王允 / 郭汜 / 胡种 / 徐栄 / 孫堅 / 董卓 / 游殷 / 葉雄 / 楊定 / 李傕 / 呂布 / 広成聚 / 司隷 / 新豊県 / 陳国(陳郡) / 長安県 / 東郡 / 馮翊郡 / 予州 / 陽人城 / 梁県 / 涼州 / 騎督 / 功曹 / 刺史 / 司徒 / 司隷校尉 / 太守 / 大督護 / 都尉 / 青綬 / 大人

胡种Hu Chong

コチュウ

(?〜?)
漢司隷校尉

李傕が長安に入ったころの司隷校尉で、もともと右扶風太守王宏と不仲であったため、彼が勅命によって長安に出頭してきたとき(担当役人を)脅迫して殺させようとした。死刑の命を下された王宏は「胡种は他人の禍を願っているが、やがて自分に禍がふりかかるだろう」と吐き捨てた。のちに胡种が眠りに就いたとき、夢に王宏が現れて胡种を杖で叩いた。こうしたことがあって胡种は病を発し、数日で死んでしまった《後漢書王允伝》。

董卓配下の東郡太守胡軫と同人とも思われるが、確証はない。

【参照】王宏 / 胡軫 / 董卓 / 李傕 / 司隷 / 扶風郡(右扶風郡) / 長安県 / 東郡 / 司隷校尉 / 太守

胡封Hu Feng

コホウ

(?〜?)
漢騎都尉

騎都尉。車騎将軍李傕の外甥《後漢書董卓伝》。興平二年(一九五)二月乙亥、外伯父の李傕は右将軍樊稠を会議の席に招いて酒に酔わせ、韓遂と通謀したとの嫌疑により、胡封に力づくで樊稠を絞め殺させた《後漢書董卓伝》。

李傕の姉妹が胡氏に嫁いで生んだ子で、騎都尉の要職にある。胡軫の縁者ではなかろうか。

【参照】韓遂 / 樊稠 / 李傕 / 右将軍 / 騎都尉 / 車騎将軍

壺寿Hu Shou

コジュ

(?〜193)
漢冀州牧

初平四年(一九三)三月上巳《後漢書袁紹伝》、冀州牧を自称していた袁紹が薄洛津において大宴会を催していた折り、魏郡の兵士たちが叛逆して黒山賊于毒らと手を結び、総勢数万人で鄴城を襲撃、太守栗成を殺害した。壺寿は漢朝の任命した正規の冀州牧として于毒らに迎えられたが、朝歌の鹿場山蒼厳谷で袁紹軍と戦闘になり、于毒とともに斬られた《袁紹伝》。

年代については栗成の項を参照されること。同じ歳、兗州牧金尚を擁した袁術が兗州に進出しており、これと連動したものと見られる。

【参照】于毒 / 袁紹 / 栗成 / 漢 / 魏郡 / 冀州 / 鄴県 / 蒼厳谷 / 朝歌県 / 薄洛津 / 鹿場山 / 太守 / 牧 / 黒山賊

狐忠Hu Zhong

コチュウ

馬忠

狐篤Hu Du

コトク

馬忠

伍瓊Wu Qiong

ゴケイ

(?〜190)
漢城門校尉

字は徳瑜《董卓伝》。汝南の人《董卓伝・後漢書同伝》。伍孚とは別人である《董卓伝集解》。

中平六年(一八九)、朝政の実権を握った董卓は、少帝劉弁を廃して陳留王劉協を帝位に即けようと計画し、袁紹にそれを相談したところ、袁紹は官職を棄てて逃亡した。董卓は袁紹の首に賞金をかけようとしたが、伍瓊と侍中周珌・鄭泰・長史(または議郎)何顒は袁紹のためを図り、「袁紹は廃立の大事に恐れをなして逃げただけで、大それた野心など持っておりませぬ。いま賞金をかければ変事が起こるに違いありません。袁氏は四代にわたって三公を出す家柄で、門生故吏が天下に大勢おりますから、彼らが集結して挙兵すれば山東は公のものでなくなりますぞ」と董卓を説得した。そこで董卓は袁紹を勃海太守に任じた《袁紹伝・後漢書同伝・同鄭太伝》。

董卓は伍瓊・吏部尚書周珌・尚書鄭泰・長史何顒らに人事を委ね、処士荀爽を司空、尚書韓馥を冀州刺史、侍中劉岱を兗州刺史、孔伷を予州刺史、張咨を南陽太守、張邈を陳留太守に抜擢した《董卓伝・後漢書同伝》。

初平元年(一九〇)正月、韓馥・袁紹らが山東で挙兵すると、伍瓊は周珌らとともに密かに朝廷内の(董卓打倒の)仕切り役になった《後漢書董卓伝》。二月、董卓は長安に遷都しようと計画するが、伍瓊は督軍校尉周珌・太尉黄琬・司徒楊彪とともに固く諫めた。董卓は激怒して「董卓がはじめ入朝したとき、あなた方二人が善良の士を採用するよう勧めたから聞き入れたのだ。それなのに(任用してやった)諸君らは着任するや挙兵して殺そうとする。これはあなた方が董卓を売り飛ばしたんだ。どうして董卓を裏切るのか!」と言い、庚辰、伍瓊を周珌とともに斬首した《董卓伝・後漢書献帝紀・同董卓伝》。

袁紹の勃海太守任命を薦めたときの伍瓊の官名を『後漢書鄭太伝』では侍中、『三国志袁紹伝』『後漢書同伝』では城門校尉とする。また韓馥らの抜擢を進めていたころを『後漢書』は侍中、『三国志』は城門校尉とし、董卓に殺害されたときは『董卓伝』『後漢書献帝紀』ともに城門校尉とする。『三国志』では一貫して彼の官名を城門校尉で通すのに対し、『後漢書』では侍中とすることもあり、しかも時系列からみて矛盾している。思うに、袁紹らが挙兵したとき伍瓊は周珌とともに朝廷内で董卓打倒を企てているが、それは彼らが軍権を委ねられていたからではないだろうか。また武官として人事に関与したとも考えにくい。伍瓊ははじめ侍中として袁紹・韓馥らの任命に携わり、程なく城門校尉に転任し、その軍権を利用して董卓打倒を計画したのではないか。

【参照】袁紹 / 何顒 / 韓馥 / 伍孚 / 孔伷 / 黄琬 / 周珌 / 荀爽 / 張咨 / 張邈 / 鄭泰 / 董卓 / 楊彪 / 劉協(陳留王) / 劉岱 / 劉弁(少帝) / 兗州 / 冀州 / 山東 / 汝南郡 / 長安県 / 陳留郡 / 南陽郡 / 勃海郡 / 予州 / 議郎 / 三公 / 司空 / 刺史 / 侍中 / 司徒 / 尚書 / 太尉 / 太守 / 長史 / 督軍校尉 / 吏部尚書 / 処士 / 門生故吏

伍瓊Wu Qiong

ゴケイ

伍孚

伍孚Wu Fu

ゴフ

(?〜190)
漢越騎校尉

字は徳瑜。汝南郡呉房の人《後漢書董卓伝》。伍瓊とは別人である《董卓伝集解》。

裴松之は伍孚と伍瓊が、同姓同字で本郡も同じであることから、同人かも知れないと言っている。しかし伍瓊は長安遷都以前に殺されており、遷都以後に殺された伍孚と同人と見ることはできない。また伍瓊の官名は侍中または城門校尉とされ、『荀攸伝』に越騎校尉伍瓊とあるのを除けば一度も越騎校尉と呼ばれてはいない。おそらく『荀攸伝』は伍孚とすべきところを伍瓊と誤ったのである。陳景雲説もほぼ同じで、ただ伍孚は別名を伍瓊といって、それが『荀攸伝』に記されたと推測している。

性質は剛毅勇壮で義挙を好み、力量は人一倍であった《後漢書董卓伝》。若くして立派な節義があり、門下書佐になった。彼の故郷である呉房の県長が罪を犯したので、汝南太守は伍孚に文書を発行させ、部下にあたる督郵に県長を逮捕させた。伍孚は命令書の受け取りを拒絶し、地面に伏せて諫言した。「主君が主君らしくなくとも、臣下は臣下らしくない態度は取らないものです(穀梁伝)。明府(知事どの)は、どうして伍孚に命令書を下して故郷の県長を逮捕させようとなさるのですか。どうか他の役人にお申し付けくださいませ」。太守は立派なことだと思って、それを聞き入れた《董卓伝》。

のち大将軍何進に召されて東曹属となり、次第に侍中・河南尹・越騎校尉と昇進していった。董卓が長安に都を遷し、衛尉張温を殺害すると、伍孚は彼の凶悪さに怒り、我が手で彼を殺してやろうと志した《董卓伝・後漢書同伝》。伍孚は黄門侍郎荀攸・議郎鄭泰・何顒・侍中种輯らと計画を立てた。荀攸は「董卓の無道ぶりは桀・紂より甚だしく、天下はみな彼を恨んでいる。強力な軍勢を力の源にしているが、実際は一人の匹夫に過ぎない。いまただちに彼を刺し殺し、それによって百姓に謝罪しよう。そのあと殽山・函谷関を占拠し、王命を奉じて天下に号令すれば、それこそ斉桓公・晋文公の美挙であろう」と言った《荀攸伝》。そこで小さな鎧を朝服の下に着込んで佩刀を忍ばせ、董卓に会ったとき、隙を見て彼を刺し殺そうと考えた《董卓伝・後漢書同伝》。

伍孚は(機会があって)董卓と語り合ったのち辞去を告げ、董卓が彼を小門の下まで見送ったとき、刀を取り出して彼を刺した。董卓は力持ちであったうえ身をかわしたので、命中しなかった。董卓が即座に彼を逮捕して「卿(あなた)は謀反するつもりか?」と言うと、伍孚は大声で「汝(おまえ)は吾(わたし)の主君ではないし、吾は汝の臣下ではない。どこに謀反など存在するのだ?汝が国家を混乱させ、主君を簒奪した罪悪は絶大である。いまこそ吾の死ぬ日だ。だから姦賊を誅殺しにやってきたのだ。汝を市場で車裂きにして天下に謝罪できなかったのが残念だよ!」と叫んだ。こうして伍孚は殺されてしまった《董卓伝》。

【参照】何顒 / 何進 / (斉)桓公 / (夏)桀王 / 伍瓊 / 荀攸 / 种輯 / (殷)紂王 / 張温 / 鄭泰 / (晋)文公 / 河南尹 / 函谷関 / 殽山 / 呉房県 / 汝南郡 / 長安県 / 尹 / 衛尉 / 越騎校尉 / 議郎 / 県長 / 黄門侍郎 / 侍中 / 太守 / 大将軍 / 東曹属 / 督郵 / 門下書佐

呉懿Wu Yi

ゴイ

呉壱

呉壱Wu Yi

ゴイツ

(?〜237)
蜀車騎将軍・仮節・督漢中・雍州刺史・済陽侯

字は士遠。陳留郡の人《楊戯伝》。司馬懿の諱を避けて「呉壱」と書かれたと言われ、『華陽国志』には「呉懿」とある。

幼くして両親を亡くしたが、父の旧知劉焉が益州牧を拝命したので、一族を引き連れて劉焉とともに蜀に入る。人相見が呉壱の妹を見て高貴の身になることを予言すると、劉焉は彼女を我が子劉瑁の夫人に迎えた《穆皇后伝》。劉焉の没後、劉璋によって中郎将に任命されたが、涪県で劉備の侵攻を防ぐことができず降伏した。劉備が益州を支配すると護軍・討逆将軍に任じられ、妹を差し出して劉備の夫人とした《楊戯伝》。

章武元年(二二一)、劉備が帝位に就くと妹は皇后となり《穆皇后伝》、呉壱は関中都督(?)となる《楊戯伝》。建興六年(二二八)、北伐にあたって諸将は呉壱か魏延を先鋒とするように主張したが、諸葛亮は馬謖を任用し、馬謖の独断専行のため敗戦を喫してしまった《馬良伝》。同八年に魏延とともに北方の南安に進出、敵将費瑤を撃破し、左将軍・高陽郷侯に封じられた《楊戯伝》。また荊州刺史を領し、翌九年に李厳の罷免を報告する上表文に名を連ねる《李厳伝》。同十二年、諸葛亮が没すると督漢中となり、車騎将軍・仮節・雍州刺史に昇進し、済陽侯に封じられる《楊戯伝》。

同十五年(二三七)に亡くなった《楊戯伝》。

【参照】魏延 / 司馬懿 / 諸葛亮 / 馬謖 / 費瑤 / 李厳 / 劉焉 / 劉備 / 劉瑁 / 益州 / 漢中郡 / 関中 / 荊州 / 高陽郷 / 済陽県 / 陳留郡 / 南安郡 / 涪県 / 雍州 / 仮節 / 関中都督 / 郷侯 / 侯 / 護軍 / 左将軍 / 刺史 / 車騎将軍 / 中郎将 / 討逆将軍 / 督漢中 / 都督 / 牧 / 華陽国志

呉匡Wu Kuang

ゴキョウ
(ゴキヤウ)

(?〜?)
漢大将軍属

陳留郡の人。呉班の父《楊戯伝》。

『後漢書集解』が弘農太守となった呉匡伯康と同人とするのは誤り。弘農太守は河内の人であり、また活躍時期も若干離れている。

中平六年(一八九)八月戊辰《後漢書霊帝紀》、大将軍何進が宮中で殺害されたとき、その部曲将であった呉匡・張璋は日ごろから何進に可愛がられていたので、軍勢を率いて宮中に突入しようとした。宮門は閉じられていたが、呉匡は虎賁中郎将袁術とともにこれをぶち破った《後漢書何進伝》。

司隷校尉袁紹は、何進の弟である車騎将軍何苗とともに朱雀門の前に軍勢を集め、趙忠らを捕縛、これを斬首した。呉匡らはもともと何進に協力しなかった何苗を怨んでおり、また彼が宦官どもと通謀していたのではないかとも疑い、「大将軍を殺したのは車騎将軍だぞ。だれか仇討ちする者はおらぬか!」と号令をかけると、何進から恩恵を被っていた士卒たちはみな涙を流しながら「たとい死すとも!」と応じた。呉匡は軍勢を率いて奉車都尉董旻とともに朱雀門前の何苗を攻め殺し、その遺骸を御苑に放棄した《後漢書霊帝紀・同何進伝》。

呉匡による何苗殺害を『後漢書』霊帝紀では庚午、同天文志では己巳としている。

【参照】袁紹 / 袁術 / 何進 / 何苗 / 呉班 / 張璋 / 趙忠 / 董旻 / 朱雀門 / 陳留郡 / 虎賁中郎将 / 車騎将軍 / 司隷校尉 / 大将軍 / 奉車都尉 / 部曲将

呉敦Wu Dun

ゴトン

(?〜?)
漢利城太守

一名を「黯奴」という《臧霸伝》。

臧霸・孫観・尹礼らとともに開陽に屯して呂布に味方していたが、呂布が曹操に滅ぼされると、臧霸に招かれて曹操のもとへ出頭した。呉敦は利城太守に任じられる《臧霸伝》。

【参照】尹礼 / 曹操 / 臧霸 / 孫観 / 呂布 / 開陽県 / 利城郡 / 太守

呉班Wu Ban

ゴハン

(?〜?)
蜀驃騎将軍・仮節・緜竹侯

字は元雄。陳留郡の人。呉匡の子、呉壱の族弟にあたる《楊戯伝》。あるいは従弟ともいう《華陽国志》。

豪快任侠でもって評価され、官位はつねに呉壱に次ぎ、先主(劉備)の時代、領軍まで昇った《楊戯伝》。

章武元年(二二一)七月、先主が諸軍を率いて呉を討伐したとき、呉将陸遜・李異・劉阿らは巫・秭帰に布陣していた。呉班は馮習とともに巫の方面から攻撃をかけて李異らを撃破し、秭帰に陣を進めた。翌二年正月、先主本隊が秭帰に進駐すると、呉班は陳式とともに水軍を率いて夷陵へ進み、長江を東西から挟んで駐屯した《先主伝》。

先主は諸将を率いて秭帰を進発、夷道の猇亭に進駐した。呉軍は夷陵でこれに対抗した《先主伝》。劉備は呉班に数千人を授けて平地に布陣させ、戦いを挑ませた。呉の諸将はこれを攻撃しようとしたが、陸遜は「あれにはきっと裏がある。まずは様子を見てみよう」と言った。劉備は計略の失敗を悟り、伏兵八千人を谷間から引き揚げさせた。陸遜は言った。「諸君に呉班攻撃を許可しなかったのは、推理してみれば、企みのあるのが確実だったからだ。」《陸遜伝》

建興九年(二三一)、丞相諸葛亮が祁山に進出すると、魏の司馬懿は上邽の東でこれを防ぎ、諸葛亮が撤退を始めると鹵城まで追跡してきた。五月辛巳、司馬懿は張郃に(祁山の)南方を固める何平を攻撃させ、自分は中央の道を辿って諸葛亮に迫った。呉班は諸葛亮の命を受けて、魏延・高翔とともに迎撃、これを大破した。兜首三千級、鉄鎧五千領、角弩三千一百張を手に入れた《諸葛亮伝》。

この戦いのとき、中都護李平(李厳)が兵糧輸送を怠ったので、諸葛亮は諸将と連名で李平を弾劾した。呉班も呉壱・高翔に次いで「督後部・後将軍・安楽亭侯の臣呉班」と名を連ねている《李厳伝》。

呉班は後主(劉禅)の時代を通じて驃騎将軍まで昇進し、仮節を与えられ、緜竹侯に封ぜられた《楊戯伝》。一説に驃騎将軍・持節・郷侯になったともある《華陽国志》。

【参照】王平何平) / 魏延 / 呉壱 / 呉匡 / 高翔 / 司馬懿 / 諸葛亮 / 張郃 / 陳式 / 馮習 / 李異 / 李厳 / 陸遜 / 劉阿 / 劉禅 / 劉備 / 安楽亭 / 夷道県 / 夷陵県 / 魏 / 祁山 / 呉 / 猇亭 / 秭帰県 / 上邽県 / 長江 / 陳留郡 / 巫県 / 緜竹県 / 鹵城 / 郷侯 / 侯 / 後将軍 / 丞相 / 中都護 / 亭侯 / 督後部 / 驃騎将軍 / 領軍 / 角弩 / 仮節 / 持節

呉蘭Wu Lan

ゴラン

(?〜218)

劉備の将。

建安二十二年(二一七)、劉備は軍勢を率いて漢中に進出し、呉蘭・雷銅に武都郡の下弁を攻略させ、張飛・馬超にこれを支援させた。曹洪が曹休・張既らを率いて防ごうとすると、張飛は固山に迂回して曹洪の背後を断ち切ろうとする。曹休は「もし本当に背後を襲うつもりなら隠密裏に行動するはず。わざわざ声を張り上げているのは、そのつもりがないからです。呉蘭を撃てば張飛も逃げていくでしょう」と進言した《武帝紀・曹休・張既・先主伝》。

翌年三月、曹洪は呉蘭を攻撃して大いに打ち破り、任夔の首を挙げた。呉蘭は陰平に、張飛・馬超は漢中に逃走したが、陰平の氐族強端が呉蘭を斬り殺し、その首を曹操に送り届けた《武帝紀・曹休伝》。

【参照】強端 / 任夔 / 曹休 / 曹洪 / 曹操 / 張既 / 張飛 / 馬超 / 雷銅 / 劉備 / 陰平郡 / 下弁県 / 漢中郡 / 固山 / 武都郡 / 氐族

公孫越Gongsun Yue

コウソンエツ
(コウソンヱツ)

(?〜191)

公孫瓚の従弟《公孫瓚伝》。

初平二年(一九一)、劉虞は献帝を董卓の元から救出するため、袁術に騎兵数千人を預けて武関から迎えさせようとした。公孫瓚ははじめ袁術の二心を疑い、劉虞に派兵せぬよう諫めていたが聞き入れられなかった。公孫瓚は袁術に恨まれることを恐れ、公孫越に騎兵千人余りを授けて袁術に協力させると同時に、機会があれば劉虞の軍勢を横取りするよう言い含めた《公孫瓚伝》。

同年、袁術は孫堅を予州刺史に任じ、公孫越とともに周グを討たせた。この戦いで公孫越は流れ矢に当たって討死し、それを恨んだ公孫瓚は界橋決戦に乗り出すのである《公孫瓚伝》。

【参照】袁術 / 公孫瓚 / 周グ / 孫堅 / 董卓 / 劉協(献帝) / 劉虞 / 界橋 / 武関 / 予州 / 刺史

公孫紀Gongsun Ji

コウソンキ

(?〜?)
漢幽州従事

幽州牧劉虞の従事《後漢書劉虞伝》。

初平四年(一九三)冬、幽州牧劉虞はみずから諸将の軍勢十万人を糾合して公孫瓚を討とうとした。州従事の公孫紀は同姓であることから公孫瓚に手厚く待遇されていたので、劉虞の計画を知るや、夜中に公孫瓚にそれを伝えた。そこで公孫瓚は精鋭数百人を募って劉虞に反撃し、これを大破したのである《後漢書劉虞伝》。

【参照】公孫瓚 / 劉虞 / 幽州 / 従事 / 牧

公孫続Gongsun Xu

コウソンゾク

(?〜199?)

公孫瓚の子《公孫瓚伝》。

建安三年(一九八)、公孫瓚は袁紹の総攻撃を受けると、子息公孫続を黒山賊張燕の元にやって救援を求めた。翌四年、張燕は公孫続とともに軍勢十万人を率い、三手に分かれて公孫瓚の救援に駆けつけた。しかし袁紹が出した偽の合図をみて公孫瓚は城外に突出し、大敗北となり、易京は陥落した。公孫続は屠各に殺された《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

【参照】袁紹 / 公孫瓚 / 張燕 / 易京 / 黒山賊 / 屠各

公孫犢Gongsun Du

コウソントク

(?〜?)
漢中郎将

袁紹の将。

人々は混乱を避けて泰山に隠れ住んでいたが、公孫犢・郭祖は袁紹から中郎将に任じられ、泰山に楯籠って百姓たちを苦しめていた。曹操から泰山太守に任命された呂虔が家子郎党を率いて着任し、恩愛と信義を示すと、公孫犢らは彼に帰服した《呂虔伝》。

【参照】袁紹 / 郭祖 / 曹操 / 呂虔 / 泰山 / 泰山郡 / 太守 / 中郎将 / 家兵(家子郎党)

公孫範Gongsun Fan

コウソンハン

(?〜?)
漢勃海太守

公孫瓚の従弟。

初平二年(一九一)、公孫瓚は従弟公孫越を殺されたことを怒り、袁紹に復讐戦を誓って軍勢を催し、冀州に侵入すると諸城のほとんどが呼応した。袁紹は彼を恐れ、自分が帯びていた勃海太守の印綬を公孫範に与えて講和しようとしたが、公孫範は勃海に着任するなり郡兵を率いて公孫瓚軍に合流した。かくて界橋決戦の火蓋が切られる《公孫瓚伝》。

挙兵以来、諸将は人質を出して袁紹に預けていたらしく、公孫範も袁紹の元にいたのだろう。

【参照】袁紹 / 公孫越 / 公孫瓚 / 界橋 / 冀州 / 勃海 / 太守 / 印綬

勾扶Gou Fu

コウフ

句扶

句扶Gou Fu

コウフ

(?〜?)
蜀左将軍・宕渠侯

字は孝興《華陽国志》。巴西郡漢昌の人《王平伝・華陽国志》。「勾扶」とも作る。句氏は漢昌の大姓であった《華陽国志》。

句扶は忠勇の持ち主で、寛容で温厚な人柄であった。しばしば戦功を立て、功名爵位は王平に次ぐものであった。官位は左将軍(または右将軍)まで昇り、宕渠侯に封ぜられた。のちに張翼・廖化が大将になると、人々は「前に王・句あり、後に張・廖あり」と語り合った《王平伝・華陽国志》。

【参照】王平 / 張翼 / 廖化 / 漢昌県 / 宕渠県 / 巴西郡 / 右将軍 / 侯 / 左将軍 / 大将 / 大姓

侯音Hou Yin

コウオン

(?〜219)

曹操の大将《高貴郷公紀》。南陽郡の人《田予伝》。

侯音は曹操の将軍として宛城を守り、南方の関羽に備えていた。しかし南陽郡では軍役の重さに苦しんでいたので、侯音は衛開とともに城を挙げて叛逆して関羽に呼応し、山民を煽動し、近隣の県で数千人の官吏・民衆を捕らえた。太守東里袞は混乱のさなか、郡の功曹応余とともに城を脱出することができた。侯音は騎兵を出して追跡させ、十里先で追い付くことができた。騎兵が東里袞に矢を射かけると応余が前に出て、我が身で矢を防いで七ヶ所の傷を負った。応余の忠誠心を見て、騎兵たちは東里袞を見逃したが、彼らが立ち去ったあと応余は死んだ《武帝紀・高貴卿公紀・曹仁・龐悳伝》。

侯音は結局東里袞を人質にすることができたが、功曹宗子卿が「足下が民衆の心に従って大事を起こされたことは遠近で仰ぎ慕わない者はありません。しかしながら郡将を捕まえてしまったのは無益な叛逆です。どうして追い出さないのですか。吾(わたし)は子(あなた)と一緒に力を合わせましょう。曹公の軍が到着するころには関羽の兵もやってくるでしょう」と進言すると、侯音はそれに従って東里袞を釈放した《武帝紀》。

図らずも宗子卿が吐露したように侯音の叛逆は野心によるものではなく、南陽領民を労苦から解放するためであった。だから数多くの山民が彼を支持したのである。のちに東里袞は彼の支持者を捕縛して「死刑相当」と上奏しているが《田予伝》、その統治がいかに苛酷であったかが窺われよう。

宗子卿は夜の闇に紛れて城を脱出すると、東里袞とともに敗残兵を駆り集めて宛城を包囲した。まもなく樊城に駐屯していた曹仁の軍が到着し、翌二十四年正月、宛城は陥落し、侯音も斬首された《武帝紀》。侯音が煽動した山民数千人は郡内で盗賊行為を働いていたが、東里袞によって五百人余りが逮捕収監された《田予伝》。

【参照】衛開 / 応余 / 関羽 / 宗子卿 / 曹仁 / 曹操 / 東里袞 / 宛県 / 南陽郡 / 樊城 / 功曹 / 太守

侯諧Hou Xie

コウカイ

(?〜?)
漢彭城相

呂布の将。

建安三年(一九八)九月、曹操は呂布を東征した。十月、彭城を屠り、その相の侯諧を捕らえた《武帝紀》。このとき呂布は下邳を出立し、城を築いて曹操と対峙したが、彭城を救うことはできなかった《武帝紀集解》。

【参照】曹操 / 呂布 / 下邳県 / 彭城国 / 呂布城 / 相

侯成Hou Cheng

コウセイ

(?〜?)

呂布の騎将《呂布伝》。

侯成は食客に命じて馬十五匹を飼育させていたが、食客は馬をすべて連れて沛城へ逃亡し、劉備に身を寄せようとした。侯成は騎兵たちを率いて追いかけ、馬を残らず取りかえした。諸将がそろって祝いに来たので、侯成は(返礼をするため)五・六斛の酒をかもし、十頭あまりの猪を狩った。飲食する前に、猪肉を半分と五斗の酒をたずさえて呂布の御前に参った《呂布伝》。

侯成がひざまづいて「将軍のおかげで逃げた馬を取りかえすことができました。諸将が祝いに来てくれましたので僅かばかりの酒をかもし、猪を狩りました。まずは感謝の気持ちを申しあげます」と挨拶すると、呂布は激怒して言った。「呂布は酒を禁じていたはずなのに貴卿は酒をかもした。諸将と飲み食いして兄弟の契りをむすび、呂布を殺さんと共謀するつもりか?」《呂布伝》

侯成は恐怖におののきながら退出し、かもした酒を捨て、諸将からの贈り物を返還した。それ以来、疑心暗鬼にとらわれるようになった《呂布伝》。

建安三年(一九八)十月、曹操が下邳城を包囲した。三ヶ月もすると、城内の将兵の心はすっかりばらばらになり、侯成は宋憲・魏続とともに陳宮・高順を縛りあげ、配下の兵士をつれて曹操に投降した《呂布伝・後漢書同伝》。

『後漢書』呂布伝では、侯成が酒をかもしたのを曹操の包囲中のこととしているが、誤りだろう。なお『檄呉将校部曲文』では張遼が侯成とともに投降したとある。

【参照】魏続 / 高順 / 宋憲 / 曹操 / 陳宮 / 劉備 / 呂布 / 下邳県 / 沛県 / 騎将

侯選Hou Xuan

コウセン

(?〜?)

河東郡の人《張魯伝》。

『三国志演義』の印象から西涼人のイメージが強いが、実は河東の人である。

興平年間(一九四〜一九六)に関中で動乱が起こったとき、程銀・李堪らとともにおのおの千家余りの部落を領した《張魯伝》。建安十六年(二一一)、司隷校尉鍾繇が漢中の張魯を攻めようとしたとき、その矛先が自分たちに向けられることを恐れ、馬超・韓遂・楊秋・李堪・成宜らとともに挙兵した《武帝紀・馬超伝》。馬超が敗走すると、侯選は程銀とともに漢中に逃げ込んだ。漢中が打ち破られると、侯選らは曹操に降参し、みな本来の官爵に復帰した《張魯伝》。

【参照】韓遂 / 鍾繇 / 成宜 / 曹操 / 張魯 / 程銀 / 馬超 / 楊秋 / 李堪 / 河東郡 / 漢中郡 / 関中 / 司隷校尉

皇甫晏Huangfu An

コウホアン
(クワウホアン)

(?〜272)
晋益州刺史

甘露五年(二六〇)五月己丑、魏帝曹髦が弑殺された。尚書王経は飽くまでも帝の側を離れず、そのため東市において母とともに処刑された。皇甫晏は王経が雍州刺史だったころの部下であったので、私財を投じて彼らを埋葬した《夏侯玄伝》。

泰始八年(二七二)五月、蜀では空から白い毛が降ってきた。このとき益州刺史皇甫晏は汶山胡を討伐しようとしていて、従事の何旅が断固として諫めても、聞き入れなかった。益州牙門の張弘は皇甫晏に対して私怨を抱いており、六月、皇甫晏が反逆したと主張しながら彼を殺し、その首を京師に送った。益州主簿の何攀が梁州に参詣して皇甫嵩の無実を証明したので、皇甫晏の冤罪が再審されることになり、張弘は三族皆殺しに処された《晋書武帝紀・同五行志・同何攀伝》。

【参照】王経 / 何攀 / 何旅 / 曹髦 / 張弘 / 益州 / 魏 / 蜀 / 汶山郡 / 雍州 / 梁州 / 牙門 / 刺史 / 従事 / 主簿 / 尚書 / 東市 / 夷三族 / 雨白毛 / 胡族

浩周Hao Zhou

コウシュウ
(カウシウ)

(?〜?)
魏都尉

字は孔異。上党の人《呉主伝》。

建安年間(一九六〜二二〇)に出仕して蕭の県令となり、のちに徐州刺史に昇った。左将軍于禁の護軍を兼任したが、于禁軍が潰滅したとき関羽の捕虜となり、孫権が関羽を捕らえたとき浩周もまた彼の手に渡った。浩周は極めて鄭重な礼をもって遇せられた《呉主伝》。

建安二十五年(二二〇)、曹丕が魏王に即位すると、孫権は浩周を東里袞とともに魏に帰し、へりくだった言葉で和睦を申し入れた。曹丕の下問に、東里袞が「彼を屈服させることはできますまい」と答えたのに対し、浩周は「孫権はかならずや臣従するでしょう」と答えたので、曹丕は浩周の言葉には根拠があるのだろうと思って喜んだ《呉主伝》。

その歳の冬、曹丕は漢朝からの禅譲を受けて帝位に上った。翌年十一月、孫権を呉王に封じたとき、都尉浩周を副使に立てた。浩周が「呉王がご令息を入朝させないのではないかと陛下は疑っておいででしたが、浩周が一族百人を質にかけてお約束して参りました」と告げると、孫権は「浩孔異よ、卿(あなた)は家族百人で私をかばってくれた。私は何と言えばいいのだろう」と言って襟を涙で濡らした。浩周が帰国する際にも、太子孫登を人質として魏に差し出すことを、天を指差して誓ったのだった《呉主伝》。

しかし浩周が帰国したのち、孫権はいろいろと言い訳をして、翌年八月になっても孫登を人質として差し出さなかった。曹丕ははじめ「彼は、十二月までに我が子を張昭・孫邵の子息とともに入朝させると言っている。孫権が異心を持っていない明証である」と言っていたが、結局、孫権には子供を差し出すつもりなどなかったのである《呉主伝》。

黄武元年(二二二)九月、ついに曹丕は大軍を催して呉を攻撃した。以来、曹丕は浩周を遠ざけ、生涯用いようとはしなかった《呉主伝》。

【参照】于禁 / 関羽 / 曹丕 / 孫権 / 孫邵 / 孫登 / 張昭 / 東里袞 / 漢 / 魏 / 呉 / 蕭県 / 上党郡 / 徐州 / 王 / 県令 / 護軍 / 左将軍 / 刺史 / 太子 / 都尉 / 任子(人質) / 領(兼任)

耿武Geng Wu

コウブ
(カウブ)

(?〜?)
漢冀州別駕従事

字は文威。韓馥の別駕従事、のち長史《後漢書袁紹伝》。「耿彧」と書く本もあるが《袁紹伝集解》誤りだろう。

兗州刺史劉岱から書状を受け取った治中従事劉子恵は、その書状を冀州牧韓馥に差し出した。韓馥は「董卓は恐るるに足らず。彼が死んだら韓馥を討つべきだ」とするその内容に恐れを抱き、劉子恵を咎めたうえ斬首しようとした。当時、耿武は別駕従事であったが、劉子恵を出し抜いて自分が上に立つことを嫌がり、「いっそのこと自分たちも一緒に斬刑に処してくだされ、もし死罪を免れるなら、労役囚となって赤い着物で宮殿の門外を掃除いたします」と懇願した《後漢書袁紹伝》。

公孫瓚が冀州を侵犯したのに乗じ、袁紹が説客を遣して冀州譲渡を迫ると、長史耿武は別駕閔純・騎都尉沮授・治中李歴とともに韓馥を諫めた。「冀州は田舎ではありますが武装兵は百万を数え、兵糧も十年は持ちます。袁紹なぞは孤立して追い詰められ、我らが鼻息を窺っておる有様。譬えていえば手のひらの上の赤子のようなものです。乳をやらねば飢え死にさせることもできますのに、どうして冀州をくれてやろうとなさるのですか」。韓馥は聞き入れず、冀州牧の地位を袁紹に譲った《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁紹が冀州に入城すると、十人の従事らは韓馥を見捨てて亡命しようとした。ただ袁紹の追っ手が心配であった。そこで耿武と閔純は刀を手に取って追っ手を拒んだが、防ぎきることはできなかった。のちに袁紹は田豊に命じて耿武・閔純を殺させた《後漢書袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 韓馥 / 公孫瓚 / 沮授 / 田豊 / 董卓 / 閔純 / 李歴 / 劉子恵 / 劉岱 / 兗州 / 冀州 / 騎都尉 / 刺史 / 従事 / 治中従事 / 長史 / 別駕従事 / 牧 / 徒(労役囚)

耿包Geng Bao

コウホウ
(カウハウ)

耿苞

耿苞Geng Bao

コウホウ
(カウハウ)

(?〜199)
漢大将軍主簿

「耿包」とも書く《後漢書袁紹伝》。

袁紹に仕えて主簿となった。建安四年(一九九)、袁紹は易京を落として公孫瓚の軍勢を吸収すると、漢朝への献上物を怠り、密かに耿苞をそそのかして「赤徳は衰退しきっております。袁氏は黄徳でありますゆえ天意に従われますよう」と言上させ、その文言を大将軍府の属官たちに見せた。しかし「耿苞は妖しげな奴ゆえ誅殺すべきです」とみなが言うので、耿苞は袁紹に殺された《袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 公孫瓚 / 易京 / 漢 / 主簿 / 府

高焉Gao Yan

コウエン
(カウエン)

(?〜?)
漢上谷太守

高焉はもともと上谷太守であった。勃海太守袁紹は、初平元年(一九〇)に挙兵して山東諸将の盟主となったが、貪欲な気持ちを起こして高焉や甘陵国の相姚貢に金銭を求めた。高焉は要求された金額を揃えられず、姚貢とともに出奔した《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

『三国志』では、袁紹が高焉らを弾劾上表して彼らの金銭を横取りしようとしたとある。

【参照】袁紹 / 姚貢 / 清河国甘陵国) / 山東 / 上谷郡 / 勃海郡 / 相 / 太守

高奐Gao Huan

コウカン
(カウクワン)

高覧

高幹Gao Gan

コウカン
(カウカン)

(?〜206)
漢幷州刺史

字は元才。陳留郡圉の人。高躬の子で、袁紹の外甥、高柔の従父にあたる《高柔伝》。

初平二年(一九一)七月、勃海太守袁紹は公孫瓚に冀州を奪うよう勧める一方、高幹を荀諶とともに冀州牧韓馥のもとに送り、「公孫瓚が南下して諸郡が呼応しています。冀州を袁紹に譲渡なさいませ」と脅迫させた。韓馥は臆病な人であったので、それに従い、子を使者に出して牧の印綬を袁紹に送付した《袁紹伝》。

袁紹は河北四州を支配すると、長子袁譚を疎んじて青州刺史に出向させた。沮授がそれを諫めたが、袁紹は「吾は子供たちに一州づつ与えて才能を見極めたいのだ」と言って次子袁煕を幽州刺史に、高幹を幷州刺史(あるいは幷州牧)に任じ、四州の兵数十万をこぞって許を攻めようとした。袁紹は官渡において曹操と対峙したが敗北し、憂いのあまり病死した《袁紹伝》。

建安七年(二〇二)九月、曹操が黎陽に進撃して袁譚・袁尚を攻撃すると、袁尚らは郭援を河東太守に任命し、高幹とともに河東郡に侵入させた《鍾繇・張既・龐悳伝》。その将兵は数万人に上り、匈奴単于呼廚泉と合流して平陽城を占拠した。また使者をやって馬騰・韓遂ともに手を結び、関中を脅かさせた《鍾繇伝》。

司隷校尉鍾繇が平陽城を包囲してまだ陥落させられないうちに、郭援・呼廚泉は諸県を攻略しながら平陽救援に向かった。鍾繇は張既を使者に立てて馬騰を説得していた。郭援は平陽城の東を流れる汾水まで到達したが、まだ軍勢が渡りきらないうちに攻撃を受けて大敗し、馬騰の将龐悳に斬られた。高幹は呼廚泉とともに降伏した《鍾繇・張既・龐悳伝》。

このとき高幹は釈放されて幷州に帰ったようである。次段、幷州を挙げて曹操に降っているのが見える。

同九年八月に曹操が鄴を陥落させると、袁尚は中山に逃れたが、上党で兵糧を監督していた牽招が「ここ幷州には黄河・恒山の要害があり、武装兵五万人と北方の強力な胡族がおります。袁尚さまを迎え入れて変化が起こるのを待ちましょう」と進言したのも聞き入れず、高幹は幷州を挙げて降伏した《袁紹・牽招伝》。曹操は彼に引き続いて幷州刺史を務めさせた《袁紹伝》。

高幹が方々から士を招聘すると、多くは彼に帰属した。仲長統もその一人で高幹は彼を手厚く持てなした。高幹が時勢について訊ねると、仲長統は「ご主君は英雄の志をお持ちですが英雄の才能がございません。士を愛好されますが人を見分けることがおできになりません。ご主君のために深い戒めとしたいものです」と答えたが、常日ごろ自尊心の高かった高幹は受け入れることができなかった。そこで仲長統は立ち去った《後漢書仲長統伝》。

十年八月、曹操が烏桓討伐のため北方に出陣すると、高幹は再び敵対し、上党太守を捕らえ、軍勢を挙げて壺関の入口を守るとともに《武帝紀》、軍兵を派遣して鄴を襲撃させた《荀彧伝》。河東郡民衛固は太守杜畿を傀儡化して郡政を取り仕切り、黒山賊張白騎は弘農から黄河を渡って垣県に進出し、上党郡の諸県は長吏を殺し《杜畿伝》、弘農郡民張琰も兵を挙げて太守を人質に取り《杜畿・賈逵伝》、いずれも高幹に呼応した。しかし鄴奇襲軍は監軍校尉荀衍に察知され、ことごとく誅殺された《荀彧伝》。また曹操の将楽進が北道から迂回して背後を脅かしたため、高幹は敗れて壺関城に楯籠り、楽進・李典の包囲を受ける《武帝紀・楽進・李典伝》。

翌十一年正月、曹操は自ら高幹征伐にあたった。高幹はそれを聞き、部将夏昭・鄧升に守備を任せて壺関城から立ち去り《武帝紀》、濩沢に入った《杜畿伝》。杜畿が河東郡城を出て張辟に楯籠り、領民四千人余りが彼に味方したので、高幹は衛固・張白騎とともに数十日にわたって攻め立てたが、陥落させることができず、諸県を略奪しても何も得られなかった《杜畿伝》。三月、壺関は曹操の包囲によって陥落する《後漢書献帝紀》。河東郡にも大軍が押し寄せてきたので《杜畿伝》、高幹は匈奴の土地に入って救援を求めたものの、呼廚泉は受け入れなかった。高幹はわずか数騎だけを連れて荊州を目指したが、上洛都尉王琰に捕縛されて斬罪となった《武帝紀・袁紹伝》。

【参照】衛固 / 袁煕 / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 王琰 / 夏昭 / 郭援 / 楽進 / 韓遂 / 韓馥 / 呼廚泉 / 牽招 / 公孫瓚 / 高躬 / 高柔 / 荀衍 / 荀諶 / 鍾繇 / 沮授 / 曹操 / 仲長統 / 張琰 / 張白騎 / 杜畿 / 鄧升 / 馬騰 / 龐悳 / 李典 / 垣県 / 濩沢 / 河東郡 / 河北 / 関中 / 官渡 / 冀州 / 許県 / 圉県 / 鄴県 / 荊州 / 黄河 / 恒山 / 弘農郡 / 壺関県 / 壺関口(壺関の入口) / 上党郡 / 上雒県(上洛) / 司隷 / 青州 / 中山国 / 張辟 / 陳留郡 / 汾水 / 幷州 / 平陽県 / 勃海郡 / 幽州 / 黎陽県 / 監軍校尉 / 刺史 / 司隷校尉 / 太守 / 都尉 / 牧 / 印綬 / 烏桓 / 匈奴 / 胡 / 黒山賊 / 単于 / 長吏

高順Gao Shun

コウジュン
(カウジユン)

(?〜198)
漢中郎将

呂布の督将、都督《呂布伝・後漢書同伝》。

高順の人となりは清廉で威厳があり、酒を嗜まず、贈り物も受け取らなかった。七百人余りの兵を率いて千人だと号し、武器装甲の類はみな高性能でよく管理されており、攻撃をかければ打ち破れないことはなく、「陥陣営」と称されていた《呂布伝》。

建安元年(一九六)六月、夜中に呂布の郝萌が反乱を起こした。呂布は下邳の治府に逃げ込み、頭巾も被らず着物をはだけ、妻の手を引きながら廁の天井から壁をこじ開けて脱出し、都督高順の軍営に逃れた。呂布は反乱者が何者かを知らなかったが、高順に「将軍、意中の者がありますか」と訊ねられて「河内の言葉だった」と答えると、高順は「それは郝萌でしょう」と言った《呂布伝》。

高順はすぐさま軍装を整えて治府に駆け付け、弓弩を一斉に発射したので郝萌勢は潰走し、夜が明けぬうちに自陣へと帰っていった。そこで郝萌の将曹性が呂布方に寝返って一騎打ちとなり、郝萌が曹性を突き刺して傷を負わせ、曹性が郝萌の片腕を切り落としたところへ、高順が駆け付けて郝萌の首を落とした《呂布伝》。

高順はいつも「およそ国家が破滅するのは忠臣や明智の者がいないからではなく、ただ(彼らが)用いられないのが問題なのです。将軍の行動には熟慮した上での決定がなく、たびたびでたらめを口にすることを喜ばれます。こうした誤りは数え切れませんぞ」と諫めていた。呂布は彼の忠誠心を知りつつも任用することができなかった。郝萌の反乱以後、ますます高順を遠ざけ、魏続とは内外の親戚であったため、高順所属の兵を残らず没収して魏続に与え、いざ戦争が起きてから、わざわざ魏続所属の兵を高順に率いさせた。高順はそれでも終生恨みを抱かなかった《呂布伝》。

琅邪の相蕭建が呂布に上礼をとって良馬五匹を進呈したが、ほどなく泰山の賊臧霸がこれを襲撃して物資を我が物とした。呂布がみずから歩騎を率いて莒へ向かおうとしたので、督将高順は「将軍は手ずから董卓を殺され、威光は夷狄さえも震わせております。端座して睨みつけるだけで遠きも近きも自然と畏服いたしましょうに、軽々しく直々に出馬してはなりませぬ。もし勝利できなければ名声を少なからず損ねることになりますぞ」と諫めたが、呂布は聞き入れなかった。臧霸は呂布の乱妨を恐れて城に楯籠り、呂布は陥落させられず下邳に帰還した《呂布伝》。

三年春、呂布は人に金を預けて馬を買いに河内へ行かせたが、劉備の兵に横取りされた。呂布はそこで中郎将高順・北地太守張遼らに劉備を攻撃させた《先主伝》。曹公は夏侯惇を救援に差し向けたが、高順がこれを打ち破った《呂布・先主伝》。九月、ついに沛城を攻め落とし、劉備が単身で逃走したので、その妻子を手に入れて呂布の元に送った《先主伝》。曹操は東征の軍を催し、十月、梁国の国境あたりで劉備を拾い、一緒に下邳を包囲した《武帝紀・先主伝》。

『先主伝』では劉備が二回、高順に破られたように書かれているが、『武帝紀』や『呂布伝』と食い違っており、おそらく誤りなのではないだろうか。

呂布は陳宮・高順に城を固めさせ、みずから騎兵を率いて曹操の糧道を断とうとしたが、妻が「陳宮と高順は平素より仲が悪く、将軍が出撃されればきっと協力して城を守ろうとはしないでしょう」と言うので、出撃を取り止めた《呂布伝》。

包囲が三ヶ月に及ぶと君臣の心はばらばらになり、呂布の将侯成・宋憲・魏続が陳宮・高順を縛り上げ、その手勢を引き連れて曹操に降った。高順は呂布・陳宮らとともに梟首されて許に送られた《呂布伝・後漢書同伝》。

【参照】夏侯惇 / 郝萌 / 魏続 / 侯成 / 蕭建 / 宋憲 / 曹性 / 曹操 / 臧霸 / 張遼 / 陳宮 / 董卓 / 劉備 / 呂布 / 河内郡 / 下邳県 / 莒県 / 許県 / 泰山 / 沛県 / 北地郡 / 梁国 / 琅邪国 / 相 / 太守 / 督将 / 都督 / 陥陣営 / 上礼 / 府

高翔Gao Xiang

コウショウ
(カウシヤウ)

呂翔

高岱Gao Dai

コウタイ
(カウタイ)

(?〜?)
漢孝廉

字は孔文《討逆伝》。呉郡無錫の人《後漢書文苑伝》。高彪の子《後漢書文苑伝》。

父高彪は名文家として知られていたが《後漢書文苑伝》、高岱もまた生まれつき聡明で、財貨を軽んじて義心を尊んだ。彼が付き合ったのは無名の中から見いだされた奇才ばかりで、友人八人は一代の英傑ばかりであった。呉郡太守盛憲が彼を上計に任じ、孝廉に推挙した《討逆伝》。

許貢という者がやってきて郡を支配すると、高岱は盛憲を連れて許昭の邸宅に避難し、(そこから徐州に出かけて)陶謙に救援を求めた。陶謙はなかなか救援しようとはしなかったが、高岱は憔悴しきって血の涙を流し、飲み物も喉を通らなかった。陶謙は、彼の忠義雄壮さには申包胥の義心があると感動し、軍勢を送ることを許可するとともに許貢へ(高岱らに危害を加えぬようにとの)手紙を書いた《討逆伝》。

高岱が帰ってきたとき、彼の母親は許貢に収監されていた。高岱は人々の制止を振り切り、殺されるのを覚悟して許貢に会いに行った。彼の才能弁舌の優秀さ、陳謝する様子の慇懃さをみて、許貢はすぐさま母親を解放してやった。高岱は母親を引き連れて役所を出た。あらかじめ友人の張允・沈〓に船を用意させていたので、これに乗って逃走した。許貢は後悔して追っ手を差し向けたが、すでに高岱が長江を渡っていたので追っ手は追及を諦めた《討逆伝》。

その後、会稽の余姚に隠棲していたところ、孫策が郡丞陸昭を使者として鄭重に出仕を請うた。孫策は、彼が『左伝』を得意としていると聞いたので、自分も熟読して議論をしようと考えた。ある人が彼に言った。「高岱は将軍がただ武勇に秀でているだけで、文学の才能を持っていないと思っております。もし議論してみて『存じ上げません』と答えるようなら、それは私の言葉通りだということです」。その人は高岱にも「孫将軍は自分より優れた人物を憎まれます。もし『存じ上げません』とお答えすれば、ご好意を得られるでしょう」と語っていた《討逆伝》。

高岱はときどき孫策の質問に「存じ上げません」と答えたので、孫策は軽蔑されたと思い、彼を収監してしまった。友人や居合わせた人々が地べたに座って赦免を請うた。そうした人々が数里にわたって充満しているのを矢倉の上から見た孫策は、彼が民衆の心をつかんでいることを憎み、とうとう彼を殺してしまった。ときに高岱、三十歳余りだった《討逆伝》。

【参照】許貢 / 許昭 / 高彪 / 申包胥 / 沈〓 / 盛憲 / 孫策 / 張允 / 陶謙 / 陸昭 / 会稽郡 / 呉郡 / 徐州 / 長江 / 無錫侯国 / 余姚県 / 郡丞 / 孝廉 / 上計 / 太守 / 左伝

高定Gao Ding

コウテイ
(カウテイ)

高定元

高定元Gao Dingyuan

コウテイゲン
(カウテイゲン)

(?〜225)

越巂郡の叟族の大帥《華陽国志》。『三国志』では彼を「高定」と呼ぶがここでは『華陽国志』に従う。

単に「定元」とも呼ばれていることから彼が「高」を姓としたのは確実。あるいは「元」というのは匈奴における「単于」のような叟族の王号かも知れない。

建安二十三年(二一八)、高定元は軍勢を派遣して新道県を包囲させていたが、犍為太守李厳が郡境を越えて進軍してきたため高定元軍は敗走している《李厳伝》。

章武三年(二二三)、蜀帝劉備が崩御すると《李恢伝》、高定元は王を自称し、都督李承之を派遣して太守焦璜を殺害した《華陽国志》。益州郡の豪族雍闓も太守正昂を殺害し、後任の太守張裔を呉の孫権のもとへ送り飛ばした《張裔伝》。また牂牁郡でも郡丞朱褒が太守を僭称している《後主・李恢・馬忠伝》。孫権は前益州牧劉璋の子劉闡を交州との境に派遣して益州刺史としている《劉璋伝》。このとき丞相諸葛亮は先帝の喪に服して軍勢を起こすことができず《諸葛亮伝》、その間、高定元は旄牛から定莋・卑水にかけて防塁を数多く築いていた《華陽国志》。

建興三年(二二五)春、諸葛亮は南征の軍を起こすと、水路を取って安上から越巂郡に入り、高定元の軍勢が結集するのを待ってから卑水で攻撃をかけた《華陽国志》。高定元は部曲を遣わして益州太守王士と雍闓を殺害し、新たに孟獲を指導者に立てたが《華陽国志・呂凱伝》、結局、高定元は諸葛亮に斬られてしまった《華陽国志》。しかし越巂郡の叟族はその後も太守龔禄を殺害するなど、しばしば叛乱を起こしている《張嶷伝》。

諸葛亮が水路を取ったのは、成都から越巂郡に直結する陸路が旄牛族によって塞がれていたため。旄牛ルートのほうが近いうえ平坦であった《張嶷伝》。賊軍の結集を待ったのは一度の戦いで勝敗を決するためで、曹操が馬超を破ったときと同じ戦略。各個撃破が兵法のセオリーだが、郡内各所に点在する敵拠点を一つづつ攻略するのは時間がかかりすぎると思われたのだろう。高定元が雍闓を殺したのは、彼がいち早く諸葛亮に降服してしまったためと思われる。

【参照】王士 / 龔禄 / 朱褒 / 諸葛亮 / 焦璜 / 正昂 / 孫権 / 張裔 / 孟獲 / 雍闓 / 李厳 / 李承之 / 劉璋 / 劉闡 / 劉備 / 安上県 / 益州 / 益州郡 / 越巂郡 / 犍為郡 / 呉 / 交州 / 蜀 / 新道県 / 牂牁郡 / 定莋県 / 卑水県 / 旄牛県 / 郡丞 / 刺史 / 丞相 / 太守 / 都督 / 牧 / 華陽国志 / 叟族 / 大帥 / 大姓(豪族)

高沛Gao Pei

コウハイ
(カウハイ)

(?〜212)

劉璋の将。

楊懐とともに益州牧劉璋配下の名将として知られ、白水関を守備しており、劉璋が劉備を招き入れたとき、たびたび彼を荊州に追い返すよう諫言していたが聞き入れられることはなかった《龐統伝》。

建安十七年(二一二)、劉備の益州簒奪計画が露見すると、劉璋は劉備に関所を通過させないよう文書を出した《先主伝》。劉備は龐統の献策を採用して荊州に引き揚げるふりをした《龐統伝》。高沛は楊懐・劉禕とともに軽騎だけを率いて見送りに訪れたが、劉備は彼らを招いて酒宴を開き、その席上で楊懐を斬殺した《先主伝集解》。高沛も楊懐とともに斬られてしまう《龐統伝》。

【参照】龐統 / 楊懐 / 劉璋 / 劉闡劉禕) / 劉備 / 益州 / 荊州 / 白水県(白水関) / 牧

高蕃Gao Fan

コウハン

(?〜?)
漢魏郡太守

袁尚の将。

建安七年(二〇二)九月、曹操が黎陽城の袁譚を攻撃したので《武帝紀・袁紹伝》、袁尚はみずから軍を率いて袁譚を救援するとともに、魏郡太守高蕃を黄河のほとりに差し向けて曹操軍の水上輸送を遮断させた《袁紹・李典伝》。

曹操軍の軍糧を水上輸送していたのは程昱と李典であったが、曹操から「船を渡すことができなければ陸路を使え」と命じられていた。しかし李典は「高蕃の軍勢には甲冑を身に着けた者が少なく、川の流れを当てにして懈怠の心が見られる。攻撃すれば必ず勝利できるだろう。軍は中央の束縛を受けない。国家に利益があるならば独断が許されるのだ。早急に攻撃すべし」と主張し、程昱もそれに賛同した《李典伝》。

こうして李典らは黄河の北岸へ渡って高蕃を攻撃し、これを打ち破って曹操軍の糧道を回復させた《李典伝》。

【参照】袁尚 / 袁譚 / 曹操 / 程昱 / 李典 / 魏郡 / 黄河 / 黎陽県 / 太守

高覧Gao Lan

コウラン
(カウラン)

(?〜?)

袁紹の将。『檄呉将校部曲文』では「高奐」と書いている《武帝紀集解》。

建安五年(二〇〇)、袁紹は官渡において曹操軍と対峙していた。十月、袁紹は淳于瓊らに軍勢一万人を授けて輜重車を護送させたが、曹操が本陣に曹洪を残してこれを急襲したので、本陣が手薄とみて張郃・高覧に攻撃をかけさせた。しかし高覧らは、淳于瓊の敗北を聞き、攻撃用の櫓を自焼して曹洪に降服した《武帝紀・袁紹・荀攸・張郃伝》。

【参照】袁紹 / 淳于瓊 / 曹洪 / 曹操 / 張郃 / 官渡 / 呉 / 攻櫓(攻撃用の櫓) / 檄呉将校部曲文

康泰Kang Tai

コウタイ
(カウタイ)

(?〜?)
呉中郎

孫権の時代、康泰は中郎の職にあった。命令により宣化従事朱応とともに海南の諸国を訪れた《梁書海南諸国伝》。扶南国を訪れたとき、ちょうど中天竺国から陳・宋という二人の使者が扶南へ来ており、こと細かに天竺の習俗を聞き知った《同》。こうして通過したところ、噂に聞いたところ、合わせて百数十ヶ国となり、そこで伝記を作ったのである《同》。

『呂岱伝』に、交州を平定したのち、従事を南方へ遣して帰服を勧告させると、扶南・林邑・堂明などの国王が貢ぎ物を献上してきた、とある。これが康泰・朱応を指すと考えられる。

著書に『呉時外国伝』がある《太平御覧》。「扶南伝」というのはその一部であろう《水経注疏》。

【参照】朱応 / 宋 / 孫権 / 陳 / 海南 / 中天竺 / 天竺 / 扶南 / 宣化従事 / 中郎 / 呉時外国伝 / 扶南伝

黄射Huang Yi

コウエキ
(クワウエキ)

(?〜?)
漢章陵太守

黄祖の太子(長子?)。章陵太守。「射」の音「亦」とある《後漢書禰衡伝》。

はじめ父黄祖と別れて襄陽の劉表のもとにいたが、劉表を訪れた禰衡とともに父のいる夏口に行った《荀彧伝》。黄射は章陵太守となって禰衡と大変親しくなった。あるとき黄射は彼と一緒に旅行に出かけて蔡邕の書いた碑文を見たことがあり、そこに書かれた言葉が気に入った。帰国してから書き写さなかったことを後悔したが、それを禰衡が暗記していたので彼に感服した《後漢書禰衡伝》。

また賓客たちを大々的に集めて酒宴を開いたが、座中に鸚鵡を献上した者があった。黄射は杯を禰衡に捧げながら、「先生、これを賦にして賓客の方々を楽しませてくだされ」と所望した。禰衡は筆を手に取って賦を作ったが、文章には過不足なく、言葉もはなはだ流麗であった《後漢書禰衡伝》。

黄祖も禰衡の才能を評価して、客人が来たときはいつも同席させていたが、のちに罵倒されたと思って彼を殺害した《荀彧伝》。黄射は裸足のまま駆けつけて救おうとしたが間に合わず、涙を流して「この人は異才の持ち主で曹操も劉荊州も殺さなかったのに、大人(ちちうえ)はどうして殺してしまったのですか」と歎き悲しんだ《後漢書禰衡伝・同集解》。

建安四年(一九九)、孫策が太守劉勲を欺いて廬江郡を占拠すると、劉勲は西塞山に楯籠って黄祖に来援を求めた。黄射は黄祖から水軍五千を預かって救援に赴いたが、劉勲はすでに孫策に敗れて北方に逃走していたので軍を帰還させた《討逆伝》。

同十一年、部将鄧龍とともに数千の軍勢を率い、柴桑城を攻撃した。柴桑県長徐盛の手勢はわずか二百人足らずだったが、果敢に戦って黄射の軍勢のうち千人を負傷させた。宮亭に駐屯していた周瑜が駆け付けてくると、徐盛も城を出て黄射を追撃し、鄧龍が生け捕りとなった。こうしたことから黄射は柴桑を窺おうとはしなくなった《周瑜・徐盛伝》。

【参照】黄祖 / 蔡邕 / 周瑜 / 徐盛 / 曹操 / 孫策 / 禰衡 / 鄧龍 / 劉勲 / 劉表(劉荊州) / 夏口 / 宮亭 / 柴桑県 / 襄陽県 / 章陵郡 / 西塞山 / 廬江郡 / 県長 / 太守 / 鸚鵡 / 大人 / 賦

黄射Huang She

コウシャ
(クワウシヤ)

黄射

黄承彦Huang Chengyan

コウショウゲン
(クワウシヨウゲン)

(?〜?)

襄陽郡の人。蔡諷の女婿、諸葛亮の岳父。

豪族の蔡諷は姉を大尉張温に、末女を荊州牧劉表に嫁がせた有力者だったが、黄承彦は彼の長女を娶っている《襄陽記》。

人柄は高邁で爽やか、かつ朗らかで、沔南地方の名士だった。彼は諸葛亮にこう言った。「君は嫁探しをしているそうだね。身(わたし)に醜い女がおってね、白髪頭で色黒なんだが、才知はつれあいとして釣り合うと思うんだ」。諸葛亮が承諾すると、すぐさま女を車に載せて諸葛亮に送りつけた。当時の人々は笑いぐさにして、郷里ではことわざを作った。「孔明の嫁取りやっちゃあいけない、阿承(黄承彦)の醜女がやってくる」《諸葛亮伝・襄陽記》。

ちくま訳本などでは「黄頭」を赤茶けた髪と解釈するが、ここでは白髪頭を「黄髪」と呼ぶことを参考にした。「阿承」と呼ばれたことから「承彦」というのが彼の字であることがわかる。一般に実名を呼ぶことは忌まれるからである。

【参照】蔡諷 / 諸葛亮 / 張温 / 劉表 / 荊州 / 襄陽郡 / 沔南 / 大尉 / 牧

黄祖Huang Zu

コウソ
(クワウソ)

(?〜208)
漢江夏太守

劉表の将《破虜伝》。江夏太守。

江夏太守として知られるが、いつごろ任命されたかは分からない。司隷校尉黄琬は江夏郡安陸の人だが、黄祖もその一族で江夏の大姓だったのかも知れない。

初平二年(一九一)、袁術の意を受けた孫堅が荊州を攻撃してきたので、劉表の将軍黄祖は樊城・鄧城で迎え撃った。黄祖が敗北すると、孫堅はそのまま漢水を渡って襄陽城を包囲した。黄祖は夜陰に紛れて城外に脱出し、兵を集めた。孫堅の待ち伏せのため帰城できず、峴山に敗走した。このとき、樹木の影に隠れていた黄祖の部下が、後を追ってきた孫堅を射殺した《破虜伝》。

黄祖は江夏太守となったが、孫策は廬江太守劉勲と黄祖を攻撃し、黄祖らは敗れた。孫策は凱旋帰国する途中、たまたま劉繇が死んだとの報を受け取り、軍を予章郡に向けている《孫賁伝》。

曹操に逐われた禰衡が劉表の元にやってきた。黄祖の子黄射は禰衡と親しくなったので、彼を夏口に連れてきた。黄祖も彼の才能を評価し、客人が来たときはいつも同席させていた。しかし、黄祖の言葉に俳優のように饒舌な口調で返答したので、罵倒されたと感じて立腹した黄祖は、部下に命じて彼を殺害してしまった《荀彧伝》。

建安四年(一九九)、袁術の遺臣たちが廬江太守劉勲の元に身を寄せると、劉勲は食糧調達のため海昏に兵を進めた。孫策は黄祖討伐の軍を進めていたが、これを聞いて引き返し、廬江皖城を攻め落として劉勲を撃破した。劉勲は西塞山の流沂城に籠城し、劉表・黄祖に来援を求めた。黄祖は太子黄射に水軍五千を指揮させて劉勲を助けさせたが、孫策が西塞山を襲撃し、劉勲が曹操に身を寄せたと聞くと、黄射は逃げ帰ってきた。孫策は劉勲の兵二千と軍船千艘を手に入れ、夏口に進軍して黄祖を攻撃した。十二月十一日、劉表の従子劉虎と南陽の韓晞が指揮する長矛部隊五千を先鋒として戦ったが、孫策勢の周瑜・呂範・程普・孫権・韓当・黄蓋らの一斉攻撃に敗北、劉虎・韓晞は首を斬られ、黄祖は身一つで走り去った《討逆伝》。この戦いでは孫策側でも徐琨を失っている《孫権徐夫人伝》。

同八年、孫権が兵を進めてきた。黄祖の水軍は敗れ、孫権の追撃は非常に厳しかったが、食客の甘寧が淩操を射殺したので、逃げ延びることができた《甘寧伝》。黄祖が江夏城を守っているうち、背後で混乱が起こったため孫権は撤退した《呉主伝》。黄祖は甘寧を軽んじていたが、都督蘇飛の推挙を納れて、甘寧を邾県長に任じる《甘寧伝》。

十一年、太子黄射・部将鄧龍に兵数千を与えて柴桑に進出させた。柴桑には県長徐盛ら二百人しかいなかったが、彼らの猛反撃に遭って千人余りが負傷した。城を出てきた徐盛らと戦ったが《徐盛伝》、宮亭に駐屯していた周瑜が駆け付けたので、鄧龍は捕虜となってしまった《周瑜伝》。これ以後、黄射の方から攻撃を仕掛けることはなくなった《徐盛伝》。

十二年、孫権が来襲して、領民を連れ去っていった《呉主伝》。

十三年春、また孫権が攻め寄せてきたので、黄祖は水軍を出して侵入を阻止しようとした《呉主伝》。水軍の部将張碩が孫権軍の先行部隊淩統に斬られた《淩統伝》。黄祖は二隻の蒙衝(軍船)を沔口に浮かべ、船上の兵千人に弩を撃たせたので、孫権軍は進むことができなくなった。しかし淩統・董襲らが矢の雨をかいくぐって船に近付き、碇を切り落としたので船は流れてしまった《董襲伝》。黄祖軍先鋒の水軍都督陳就は呂蒙に討たれ《呂蒙伝》、淩統が先頭に立って攻撃を掛けたので江夏城は陥落した《淩統伝》。黄祖は陳就が死んだと聞いて一人で逃走していたが、追ってきた騎士馮則に捕らえられ、殺された《呉主伝》。

【参照】袁術 / 甘寧 / 韓晞 / 韓当 / 黄射 / 黄蓋 / 周瑜 / 徐琨 / 徐盛 / 孫堅 / 孫権 / 孫策 / 蘇飛 / 曹操 / 張碩 / 陳就 / 程普 / 禰衡 / 董襲 / 鄧龍 / 馮則 / 劉勲 / 劉虎 / 劉表 / 劉繇 / 呂範 / 呂蒙 / 淩操 / 淩統 / 夏口 / 海昬侯国(海昏) / 晥県(皖県) / 漢水 / 宮亭 / 荊州 / 峴山 / 江夏郡 / 柴桑県 / 邾県 / 襄陽郡 / 西塞山 / 鄧県 / 南陽郡 / 樊城 / 沔口 / 予章郡 / 流沂城 / 廬江郡 / 騎士 / 県長 / 太守 / 都督 / 蒙衝

黄龍羅Huanglong Luo

コウリョウラ
(クワウリヨウラ)

(?〜?)

会稽郡山陰の賊《董襲伝》。

「賊黄龍羅周勃」を、「賊の黄龍・羅勃」と読んで「周」を衍字とみる説があるが、おそらく誤りだろう《董襲伝集解》。後文に「斬羅勃首」とあり、すなわち「黄龍」は複姓。

黄龍羅は周勃とともに数千人の徒党を集めて長らく山陰に盤踞していたが、会稽入りした孫策が自ら討伐に乗りだし、その将董襲の手でじかに斬首された《董襲伝》。

【参照】周勃 / 孫策 / 董襲 / 会稽郡 / 山陰県

谷朗Gu Lang

コクロウ
(コクラウ)

(219〜272)
呉九真太守

字は義先。桂陽郡耒陽の人《谷朗碑》。

谷朗は三歳で母を失い、十一歳で父を失い、弟と二人で暮らしていた。のちに養親になってくれる人が現れた。いつもにこやかな笑顔を保ち、養親にはうやうやしく、弟にはあたたかく接し、曾参・閔子騫のような行いがあった。道義を行って正道を思い、徳行をしっかりと備えていた《谷朗碑》。

弱冠にして郡に仕えて要職を歴任、陽安県長を兼務した。それから朝廷に招かれて郎中を拝命、尚書令史や郡の中正を経て、長沙の劉陽の県令に昇進した。恩恵を施して人々を教育し、仁慈を垂れて領内を教化した。任期が残っているうちに、中央に徴し返されて立忠都尉・尚書郎を拝命、同僚のなかでも一番の名声だった《谷朗碑》。

部広州(?)・督軍校尉に昇進すると、襟を正して部下を率先し、権力者をも恐れなかった。清らかな流れは汚濁を一掃し、万里四方が威信に服した。治績を挙げて退職したところ、また五官郎中に任じられ、大中正に昇進した。人事選抜にあたり公平厳正であったので、人倫はゆったりと広がっていった《谷朗碑》。

当時、交州は城邑を奪ったり国家に叛いたりしており、戦闘は留まるところを知らなかった。帝(孫晧?)が鎮圧するすべを担当官らに諮問したところ、みなが、谷朗が南方に勤務していたとき威信恩恵が明らかであったことを言上したので、九真太守に昇進させた《谷朗碑》。

交州が叛乱して呉の支配を去ったのは孫休の永安六年(二六三)五月、交州が回復されたのが孫晧の建衡三年(二七一)四月のことである。谷朗の太守就任は建衡三年だろうか。

谷朗は生まれながらにして徳義は明らか、至るところで功績を挙げて皇室を光り輝かせた。しかし鳳凰元年(二七二)四月乙未、惜しくも病気のため五十四歳で卒去した。君子たちに嘆き悲しまぬ者はなく、彼のために石碑を立てて顕彰したのであった《谷朗碑》。

【参照】曾参 / 孫晧(帝) / 閔子騫 / 九真郡 / 桂陽郡 / 交州 / 長沙郡 / 陽安県 / 耒陽県 / 劉陽県 / 県長 / 県令 / 五官郎中 / 尚書令史 / 尚書郎 / 太守 / 大中正 / 中正 / 督軍校尉 / 部広州 / 立忠都尉 / 郎中

【鏈接】《京大石刻拓本資料》九真太守谷朗碑 / 《逸聞三国志》逍遥雑記 / 《耒陽之窗》耒陽名人