三国志人名事典 後漢書

王允Wang Yun

オウイン
(ワウイン)

(137〜192)
漢司徒・温侯

字は子師。太原郡祁の人。王宏の弟《集解》。王氏は代々、州郡に仕えてその重役であった。

同郡の郭泰は王允の非凡さを見ると「王生は一日千里、王佐の才である」と称え、親交を結ぶようになった。十九歳のとき郡吏となり、小黄門である晋陽の趙津という者が貪欲で好き勝手を働き、県内の悩みの種となっていたので、これを逮捕して殺した。趙津の兄弟が宦官たちにへつらって王允を讒言したため、桓帝は怒りに震え、太守劉瓆を獄に下して死なせた。王允はその亡骸を平原に送り返して三年の喪に服し、そのあと家に帰った。

ふたたび郡に出仕した。路仏なる者がいて、若いころから立派な行いがまるでなかったのだが、太守王球はそれを召しだして役人に取り立てようとした。王允は面と向かって断固反対した。王球は腹を立て、王允を逮捕して殺そうとした。(幷州)刺史鄧盛はそれを聞くと、使者を急行させて王允を別駕従事に招いた。このことから王允は名を挙げ、路仏は見捨てられるようになった。

王允は若いころから雄大な節義を好み、功業を打ち立てんと志しており、いつも経典を朗読し、朝夕には騎射を練習していた。三公はそろって彼を招聘した。司徒の高第として侍御史になった。

中平元年(一八四)、黄巾賊が蜂起すると、格別の引き立てによって予州刺史を拝命し、荀爽・孔融らを招いて従事とした。党錮の禁を解除すべきと上奏する一方、黄巾賊の別働隊の将を討伐して、これを大破した。

左中郎将皇甫嵩・右中郎将朱儁らとともに数十万の賊徒どもを降服させたが、賊徒は中常侍張譲の賓客からの書状を所持しており、王允は張譲らが黄巾賊と款を通じていることを告発した。霊帝は怒って張譲をなじったものの、張譲が叩頭して陳謝するので処罰できなかった。張譲は逆恨みを抱いて王允を中傷したため、翌年、王允は獄に下されてしまった。ちょうど大赦が下されたため刺史に復帰できたが、十日ほどして、また別の罪を着せられて追補の手がかかった。

司徒楊賜は王允の高潔さを知っており、これ以上の苦痛と恥辱を味わわせたくなかったので、食客を派遣して「君は張譲に関わって一月のあいだに二度も逮捕された。量刑がどれだけ重くなるか分からないぞ。どうかよくよく考えてくれたまえよ」と伝えさせた。また従事たちも涙を流しながら毒薬を差し出した。王允は声を荒げて「わたしは人臣となりながら主君に対して罪に触れた。極刑に服して天下に謝するほかない。服毒自殺などできるか!」と言い、杯を投げ捨てて檻車に乗り込んだ。

廷尉に身柄が移されたのち、左右の者たちがみな(彼を有罪にするように?)その案件をせき立てた。朝臣たちのうち歎息しない者はない。大将軍何進・太尉袁隗・司徒楊賜らが連名で上疏して減刑を歎願したので、死罪だけは免れた。その冬、大赦令が出されたが王允だけは赦免されなかった。三公らはまた取りなしてやり、翌年になってようやく解放された。そのころ宦官たちは横暴を極め、目が合っただけでも死罪に落とされるほどであった。王允は彼らの手にかかることを恐れ、姓名を変えて河内・陳留のあたりを転々とした。

霊帝が崩御すると、王允は喪に服するため京師へ駆けつけた。このとき大将軍何進は宦官たちを誅殺せんと考えていたので、王允を召し寄せて計画を練り、従事中郎に就任させた。河南尹に転任し、献帝が即位すると太僕を拝命、二たび昇進して尚書令となった。

初平元年(一九〇)、楊彪の後任として司徒となり、従来のまま尚書令を守った。董卓が関中へ遷都させたとき、王允は蘭台石室にある図書を重要なものからことごとく押さえ、長安に到着したとき、すべて分類して献納した。また漢朝における採用すべき旧例を一々すべて奏上した。経書が完全に現存するのは王允の尽力によるものなのである。

そのとき董卓はまだ洛陽に残っていたので、朝政は大小の区別なくすべて王允に委ねられていた。王允は本心を抑えて屈服し、いつも董卓の意見に迎合し、また疑念を抱かれぬよう注意を払っていた。そのおかげで危険混乱の中にあっても王室を守り抜くことができたのである。君主も、臣下も、内も外も、彼を頼りにしない者はなかった。

王允は、董卓の害毒がますますひどくなり、今にも簒奪を働きそうなのを見てとり、密かに司隷校尉黄琬・尚書鄭泰らとともに董卓誅殺の計画を立てた。そして護羌校尉楊瓚を行左将軍事、執金吾士孫瑞を南陽太守とするよう上表し、軍勢を与えて武関から袁術を討伐するというのを口実に、その実、進路を分けて董卓を征討し、しかるのち天子を救って洛陽に帰らんと目論んだ。しかし董卓は疑いを抱いてこれを留めおいた。王允はそこで士孫瑞を尚書僕射、楊瓚を尚書として手元に引き寄せた。

翌二年、董卓は長安に引き揚げてくると、遷都の功績を評価して王允を温侯に封じ、食邑五千戸を与えた。王允は固辞するつもりであったが、士孫瑞が「謙譲倹約はその場に応じて対処すべきです。おひとりが高潔であろうとなさるのは和光同塵の道でありましょうか?」と説得したので、王允はその言葉を受け入れて二千戸だけを拝領した。

三年春、六十日余りも雨が続いたので、王允は士孫瑞・楊瓚とともに台に登り、雨の上がるのを祈った。(その機会を利用して)以前の計画を練り直したところ、士孫瑞が言った。「昨年末から太陽が見えず長雨となり、月は執法の星を犯し、彗星が現れ、昼間は暗いのに夜は明るく、霧が立ちこめております。これは内部から行動を起こす者が勝利する兆し。見逃してはなりますまい。公よ、ご決断なされませ。」王允はその言葉にうなづいた。そこで密かに董卓の将呂布と手を結び、彼に内応させる手筈を整えた。ちょうど董卓が祝賀のために参内する運びとなり、呂布はその機会に乗じて董卓を刺殺した。

王允はもともと董卓の部曲を赦免するつもりであったし、呂布もまた何度かそのように勧めていたのだが、しばらくして気が変わり、「かの連中は主君に従ったまでで罪はない。もし逆臣として扱ったうえで特赦するならば、彼らを疑心暗鬼にさせるだけであって、安心させることはできないだろう」と言った。呂布はまた董卓の貯め込んだ財宝を公卿・将校に分配すべきだと主張したが、王允はこれも受け入れなかった。

王允はかねてより呂布を軽蔑していて、剣客として待遇するだけだったし、呂布の方でも、功績の大きさを自負していたのに希望を受け入れてもらえず、両者は次第に険悪になっていった。王允は剛直で悪を憎むといった性格で、最初は董卓の乱暴を恐れて膝を屈していたが、董卓を殲滅してからはもう恐れるものはないと思うようになり、会議のときも温和な表情を捨て、正義と厳重さを前面に押し出して、その場をうまく収めるような対応をしなくなった。そのため群臣たちも彼に従う者は少なくなっていった。

董卓の将校や、彼に官位を与えられた者たちの多くは涼州人であった。王允がその軍勢を解散させようとしたとき、ある人が「涼州人はもともと袁氏や関東軍を恐れておりましたから、いま一度に軍勢を解散させれば、連中は自分たちの危険を感じるでありましょう。皇甫義真を将軍に任じて彼らを接収させ、陝に留めて慰撫し、それからゆっくりと関東軍と計画しつつ変化を待つのがよろしゅうございます」と勧めたところ、王允は「そうではない。関東で義兵を挙げたのは、みな私の仲間だ。もし要害を距てて陝に駐屯させたならば、涼州は安定しても関東が疑心を抱くであろう」と答えた。

そのとき百姓たちが「涼州人は皆殺しになるぞ」と噂しあったため、それが伝播するうちに恐慌状態を巻き起こし、関中にいる者はすべてが手勢を擁して自衛に努め、また「丁彦思・蔡伯喈はただ董公(董卓)に厚遇されたというだけで罪を問われた。(朝廷は)いま我らに大赦令を出さず軍勢を解散させようとしている。今日、軍勢を解散すれば、明日、魚肉として扱われるだろう」と言い合った。

董卓の部曲将李傕・郭汜らは以前、軍勢を率いて関東に出ており、そのことから不安を覚え、ついに謀叛を企てて長安を包囲した。長安が陥落すると呂布は城外へ逃れ、青瑣門外に馬をとめて「公よ、お逃げください」と王允を呼んだ。王允は「国家を安んじることこそ我が願い。もしそれができねば身を捧げて死ぬばかりだ。朝廷はご幼少であらせられ、私を頼りにしてくださる。危険を前に逃げ出すことなど私にはできぬ。どうか関東の諸公に謝意を伝え、国家のためを考えてくだされい。」

はじめ王允は同郡の宋翼を左馮翊太守、王宏を右扶風太守としていた。このとき三輔の民衆は繁栄し、軍糧も豊富であった。李傕らは王允を殺したく思ったが、両郡が反抗することを恐れた。そこでまず宋翼・王宏を召し寄せて廷尉に下し、そのあと王允を逮捕して、宋翼・王宏とともに殺害した。王允、ときに五十六歳であった。

【参照】袁隗 / 袁術 / 王球 / 王宏 / 何進 / 郭泰 / 郭汜 / 孔融 / 皇甫嵩(皇甫義真) / 黄琬 / 蔡邕(蔡伯喈) / 士孫瑞 / 朱儁 / 荀爽 / 宋翼 / 張譲 / 趙津 / 丁彦思 / 鄭泰 / 董卓 / 鄧盛 / 楊瓚 / 楊賜 / 楊彪 / 李傕 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 劉志(桓帝) / 劉瓆 / 呂布 / 路仏 / 温侯国 / 河内郡 / 漢 / 関中 / 関東 / 三輔 / 祁県 / 晋陽県 / 青瑣門 / 陝県 / 太原郡 / 長安県 / 陳留郡 / 南陽郡 / 馮翊郡(左馮翊郡) / 武関 / 扶風郡(右扶風郡) / 平原郡 / 幷州 / 予州 / 雒陽県洛陽県) / 涼州 / 右中郎将 / 河南尹 / 公卿 / 侯 / 高第 / 護羌校尉 / 左将軍 / 左中郎将 / 三公 / 侍御史 / 刺史 / 執金吾 / 司徒 / 従事 / 従事中郎 / 将軍 / 将校 / 小黄門 / 尚書 / 尚書僕射 / 尚書令 / 司隷校尉 / 太尉 / 太守 / 大将軍 / 太僕 / 中常侍 / 廷尉 / 別駕従事 / 王佐之才 / 黄巾賊 / 行事 / 執法 / 彗孛(彗星) / 石室 / 党錮 / 部曲 / 部曲将 / 蘭台

何顒He Yong

カギョウ

(?〜190?)
漢相国長史

字は伯求。南陽郡襄郷の人。

若いころ洛陽に遊学し、若輩ながら郭泰・賈彪らと交流して太学で名を知られた。友人に虞偉高という者がいて、父の仇討ちを果たせぬまま病気が重くなった。何顒が見舞いに行くと虞偉高は涙ながらに無念を訴えた。何顒はその義心に心打たれ、かれの代わりに復讐を果たしてやり、仇敵の首を虞偉高の墓に供えた。

何顒には人を見る目があり、同郡の張機、字を仲景という者がまだ総角だったころ、何顒を訪ねたことがあり、何顒は「君は思慮をこらすも風雅はよろしからず。きっと名医になるだろう」と言った。まさしくその言葉どおりになった《集解》。

曹操に会ったときは、ため息を吐きながら「漢朝は滅びんとしている。天下を落ちつかせるのはこの人物に違いない」と言った。またつねづね「潁川の荀彧は王佐の器である」とも言っていた。

陳蕃・李膺が失敗したとき、二人と親密であった何顒は宦官どもにあらぬ罪を着せられ、姓名を変えて汝南一帯に身を隠した。行く先々でその地の豪傑たちと交わり、荊・予の地方で名声を高めた。袁紹もかれを思慕して密かに往来し、「奔走の友」の契りを結んだ。

そのころ党錮事件が発生し、天下の人々の多くは危険から身を置こうとした。しかし何顒は毎年二・三回《荀攸伝》、いつも洛陽に潜入して袁紹のもとで謀議をこらし、逼塞困窮する者があれば求めに応じて救済してやり、捕縛された者があればさまざまに計略を考えて逃亡を助けてやったりしたので、命をまっとうできた者は非常に多かった。

ただ袁紹と名声を競っていた袁術とは仲が悪く、何顒がかれを訪ねていくことがなかったので恨みを買っていた。袁術は満座の席上で「王徳弥は名声徳義のある先達なのに伯求は軽んじている。許子遠は邪悪かつ不純な人物であるのに伯求は親しくしている。郭泰・賈彪は貧しく財産がないのに伯求は名馬・毛皮で着飾っている」と何顒をなじり、陶丘洪に「王徳弥は賢者ですが時事にうとく、許子遠は不純ですが危難を恐れません。それに伯求は虞偉高の仇討ちをしたことがあり、相手は資産家でした。もし伯求が痩せ牛に乗っていたら、仇敵の手で路上に倒されていたでしょう」と諭されている《荀攸伝》。

袁術はまた「何伯求は悪党だから殺してやるつもりだ」とも言っており、宗承に「何先生は英俊ですぞ。貴殿はかれを礼遇して天下に名声を馳せるべきです」と宥められた《荀攸伝》。

党人に対する禁錮が解除されると、何顒は司空府に招聘された。三府で会議が開かれるたびに、何顒の正しさを支持しない者はなく、昇進を重ねていって北軍中候となった《荀攸伝》大将軍何進は宦官誅殺を計画するにあたり、逢紀・荀攸らとともに何顒を招いて腹心とした《後漢書何進伝》。

董卓は政権を握るとむりやり何顒を長史に任命しようとしたが、病気にかこつけて就任しなかった。尚書鄭泰・侍中伍瓊とともに袁紹を勃海太守に任ずるよう進言した《後漢書鄭泰伝》。何顒は司空荀爽・司徒王允・黄門侍郎荀攸・議郎鄭泰・侍中种輯・越騎校尉伍瓊《荀攸伝》らとともに董卓殺害を計画していたが、荀爽は折あしく薨去し、何顒も董卓によって別件で投獄され、怒りと哀しみのあまり自殺して《荀攸伝》亡くなった。

ここでは長史に就任しなかったとあるが、他所ではすべて董卓の長史と呼ばれている。政権内部から董卓打倒を計画したと考えるのが妥当かと思われる。また『荀攸伝』では鄭泰とともに何顒を議郎としている。

荀彧は尚書令になると、使者を西方に出して叔父荀爽の遺体を取りよせ、同時に何顒の遺体も運んで、かれを荀爽の墓の傍らに埋葬してやった。

【参照】袁紹 / 袁術 / 王允 / 王徳弥 / 何進 / 賈彪 / 郭泰 / 許攸(許子遠) / 虞偉高 / 伍瓊 / 荀彧 / 荀爽 / 荀攸 / 宗承 / 曹操 / 种輯 / 張仲景(張機) / 陳蕃 / 鄭泰 / 陶丘洪 / 董卓 / 逢紀 / 李膺 / 潁川郡 / 荊州 / 襄郷県 / 汝南郡 / 南陽郡 / 勃海郡 / 予州 / 洛陽県 / 越騎校尉 / 議郎 / 黄門侍郎 / 司空 / 侍中 / 司徒 / 尚書 / 尚書令 / 太守 / 大将軍 / 長史 / 北軍中候 / 王佐之器 / 宦官 / 太学 / 公府(司空府・三府) / 奔走之友

韓韶Han Shao

カンショウ
(カンセウ)

(?〜?)
漢嬴長

字は仲黄。潁川郡舞陽の人。韓融の父。「韓攸」とも書く《集解》。

若くして郡に出仕し、司徒の府(役所)に招かれた。当時、泰山の賊徒公孫挙が称号を偽っており、何年ものあいだ太守や県令は彼を破ることができず、その多くが(功績がないことによって)処罰を受けていた。尚書(人事担当官)は三公の府の掾のうち混乱を収める能力のある者を選抜しており、そこで韓韶も嬴の県長になったのである。賊徒どもは彼が賢明であると聞いて、嬴県には入るまいぞとお互いに戒めあった。

近隣諸県の多くは盗賊の被害を受けて、耕地や桑畑は廃棄されていた。その地の住民たちは嬴の県境に入って衣食を求めたが、その人数は非常に大勢であった。韓韶は彼らの飢え苦しみを哀れに思い、そこで米倉を開放して備蓄米を彼らに恵んでやり、一万戸余りが恩恵を被った。食糧担当官は争うように「いけません」と言うと、韓韶は言った。「困っている人々の命を永らえさせる。それで処罰を受けることになったとしても、笑って地下に赴くまでさ」。

泰山太守は日ごろ韓韶の名声徳望を聞いていたので、とうとう韓韶が処罰を受けることはなかった。同郡の荀淑・鍾皓・陳寔もまた県長を務めて徳政を布いていたので、当時の人々は韓韶とともに「潁川の四長」と呼んだ《集解》。韓韶は在官のまま病卒した。同郡の李膺・陳寔・杜密・荀淑らは彼のために碑を立てた。

【参照】韓融 / 公孫挙 / 荀淑 / 鍾皓 / 陳寔 / 杜密 / 李膺 / 嬴県 / 潁川郡 / 舞陽県 / 掾 / 県長 / 県令 / 三公 / 司徒 / 尚書 / 太守 / 潁川四長 / 府

皇甫嵩Huangfu Song

コウホスウ
(クワウホスウ)

(?〜195)
漢太常・都郷侯

字は義真。安定郡朝那の人。度遼将軍皇甫規の兄皇甫節の子である。

若いころから文武を志し、『詩経』『書経』を好み、弓術・馬術を習った。はじめ孝廉・茂才に推挙され、郎中・霸陵県令・臨汾県令となったが、父が亡くなったので官を去った。のち大尉陳蕃や大将軍竇武に招かれたが固辞する。霊帝劉宏が官用車で召し寄せて議郎とし、のちに北地太守に転任させた。

黄巾賊の張角が叛乱を起こすと、皇甫嵩は会議の席で「党錮の禁を解き、国庫の銭や西園の馬を出して軍用にあてましょう」と進言。霊帝はこれを許可し、国中から精鋭を集めて将帥を選り抜き、皇甫嵩を左中郎将・持節とし、右中郎将朱儁とともに五校・三河の騎兵など都合四万人余りを統率させ、おのおの一軍を率いて潁川郡の黄巾賊を討伐させた。

賊の波才に敗れたので長社に退くと、波才は大軍を率いて城を囲んだ。皇甫嵩の軍勢が少なかったので、軍人たちはみな恐れおののいたが、皇甫嵩は「戦いは臨機応変の策にあり、兵の多寡は問題ではない。いま敵は草原に陣取っているので、夜中に火を放ってやれば驚くに違いない。城を出て四方から攻撃すれば、田単の功績を成し遂げられるぞ」と言った。その日の夕方は強風が吹いた。皇甫嵩は兵士に松明を持たせ、精鋭部隊に城の包囲を抜けさせ、放火して鬨の声を挙げさせた。城内でも松明を掲げて呼応し、皇甫嵩は太鼓の音とともに敵陣に突撃した。賊は驚いて敗走した。ちょうど霊帝が派遣した騎都尉曹操がやって来たので、皇甫嵩・曹操・朱儁は合流して敵を追撃し、数万の首級を挙げた。これにより都郷侯に封ぜられる。

皇甫嵩と朱儁は、勝利の勢いに乗って汝南・陳国の黄巾賊を征討し、陽翟では波才を追撃し、西華でも彭脱を攻撃し、すべて撃ち破った。残りの賊はみな降服し、三郡は完全に平定された。さらに東郡に進んで、倉亭で黄巾賊の卜己を生け捕りにし、七千余りの首級を挙げた。

北中郎将盧植・東中郎将董卓は張角を征討できずに帰還していたが、詔勅によって皇甫嵩が討伐に当たることになった。張角の弟張梁と広宗で戦ったが、張梁軍は強力で勝つことができなかった。翌日、軍門を閉鎖して兵士を休ませ、変化が起こるのを待っていると、敵の士気が低下していることがわかったので、夜中に進軍して鶏の鳴き声とともに敵陣を襲った。夕方まで戦って大勝し、張梁の首を挙げた。斬った首級は三万、河に落ちて死んだ敵は五万人、焼き払った車両は三万に上り、彼らの妻や子供もすべて生け捕りにし、敵兵もみな捕縛した。張角はすでに病死していたので、棺を暴いて死体の首を斬り、それを都に送った。

鉅鹿太守郭典とともに張角の弟張宝を下曲陽で攻撃し、張宝を斬った。首級十万余りを挙げ、城の南で「京観」(死体を積み上げて土で埋めたもの)を築いた。すぐさま左車騎将軍となり、冀州牧を領して槐里侯に封ぜられた。食邑は槐里・美陽の両県で、合わせて八千戸であった。こうして黄巾賊が滅ぼされたので、皇甫嵩は冀州の年貢を一年間免除するように申請した。百姓らは歌にして「天下の大乱で市場は廃墟になり、母は子供を棄て妻は夫を失った。頼みにするのは皇甫さま、また安心して暮らせるだろう」と称えた。

皇甫嵩は兵士を可愛がったので、彼らの信頼を勝ち得た。野営するときはいつも、全軍の幔(テント)が完成するのを待ってから入り、兵士たちがみな食べ終わったのを見てから食事を摂った。軍役人に賄賂を取った者がいたが、皇甫嵩がさらなる金品を彼にやると、その者は恥ずかしく思って自殺した。

皇甫嵩が黄巾賊を破って天下に威信を震わせた一方、朝廷の政治は日に日に乱れて天下を困窮させていたので、もとの信都県令閻忠は皇甫嵩に説得して言った。「得がたく失いやすいものは時節です。時がきて引き返すことのないのは機会です。だから聖人は時節に従って行動し、智者は機会に拠って発起するのです。いま将軍は得がたい幸運に巡り会い、乱れやすい機会に立ち会っておられるのに、機会に臨んでも発起しようとなさりません。いかにして大いなる名誉を保とうというのですか」と。閻忠はさらに韓信の故事を引いて帝位に昇ることを勧めたが、皇甫嵩は恐れを抱いて固く拒絶した。閻忠は亡命した。

そのころ辺章・韓遂が隴右で叛乱を起こしたので、翌年春、詔勅によって長安を警護し、辺章らがふたたび三輔地方に侵攻した場合は、皇甫嵩が彼らを討伐することになった。それ以前、張角を討つため鄴を通過したとき、中常侍趙忠が身分に不相応な邸宅を持っていることを見て、没収するように上奏したことがあった。また中常侍張譲が五千万銭を賄賂として求めたのを拒絶したこともあり、趙忠と張譲の二人は皇甫嵩を恨み、彼が連戦連敗しているうえ軍費がかさんでいると上奏した。そのため秋になると召し返され、左車騎将軍の印綬と所領六千戸を没収され、都郷侯二千戸に戻された。

中平五年(一八八)、涼州の賊王国が陳倉城を包囲したので、皇甫嵩は左将軍に復帰し、前将軍董卓を引き連れ、おのおの二万人を統率して王国を防いだ。董卓は「智者は時節におくれず、勇者は決断にためらわないものだ。急げば城は安泰だが、急がなければ城は破滅してしまうぞ」と、急いで陳倉に駆け付けるべきだと主張したが、皇甫嵩は「違う。百戦百勝するのは、戦わずして敵を屈服させるほど立派なことではない。不敗の原因は我らにあり、勝利の原因は奴らにある。陳倉城は小さいが、城の守りが堅固だし、王国軍は強いが、救援のない城を攻めあぐねている。救援する必要はない」と言って斥けた。

王国は陳倉城を八十日余りにわたって包囲しつづけたが、とうとう陥落させることができずに包囲を解いた。そこで皇甫嵩は追撃することにした。董卓が「だめだ。兵法は困窮した敵を追ってはならない、帰ろうとする軍に近付いてはならないと言っているぞ」と諫めたが、皇甫嵩は「違う。以前私が攻撃しなかったのは鋭鋒を避けるためだった。いま攻撃するのは彼らの矛先が鈍っているからだ。奴らは疲れているのであって帰ろうとしているのではないし、戦意をなくしたのであって困窮しているのではない」と言い、董卓には殿軍を任せて一人で追撃した。何度も戦って大勝利を収め、一万余りの首級を挙げた。王国は逃走したが死亡した。董卓は非常に恥ずかしく思い、皇甫嵩を憎むようになった。

翌六年、董卓は幷州牧となり、詔勅が下って所属の兵士を皇甫嵩に預けるよう命令されたのに、董卓は従わなかった。皇甫嵩の従子皇甫酈が軍中にいて、叔父を説得した。「朝廷の失政によって天下は逆さまになっていますが、これを安定させられるのは大人(皇甫嵩)と董卓だけです。しかし仲違いしてしまって並び立つことは不可能です。董卓は上書して詔勅を拒んだのですから、勅命違反になります。それに都の混乱を理由に軍を動かそうともしてないので、叛逆の心を持っていると言えます。大人は元帥なのですから董卓を誅殺すべきです」。皇甫嵩は言った。「勅命違反は罪悪であるが、勝手に処罰するのも責任を問われることになる。彼のことを報告して朝廷の裁きを待とう」。その結果、董卓は霊帝より厳しいお叱りを受け、ますます皇甫嵩への憎悪を強くした。

初平元年(一九〇)、すでに董卓が政治の実権を握っていたが、皇甫嵩を城門校尉に任命するという口実で呼び寄せ、彼を殺そうとした。皇甫嵩が出かけようとしたとき、長史梁衍が説得して「漢王朝が衰退して宦官が朝廷を混乱させたとき、董卓は彼らを誅殺しましたが、国家に忠誠を尽くす奴ではありません。都を略奪して天子のすげ替えも思い通りにしている有様。いま将軍(皇甫嵩)が出頭すれば、殺されるか侮辱されるかどちらかです。いま董卓は洛陽におりますが、天子は西方におわしますから、将軍の手勢三万を率いて天子をお迎えし、勅命を奉じて逆賊を討つことにすれば、袁氏(袁紹)が東から、将軍が西から迫ることになり、奴を生け捕りにすることもできますぞ」と言った。しかし皇甫嵩は聞き入れずに出頭した。

董卓の内意を受けた係官は彼を処刑しようとした。皇甫嵩の子皇甫堅寿はもともと董卓と仲が良かったが、長安から洛陽の董卓のもとまで駆け付けた。董卓は宴会を開こうとしていたところだったが、皇甫堅寿が進み出て大義を掲げて責めなじり、頭を叩いて涙を流した。居合わせた人々も感動し、みな席を立って懇願してやった。とうとう董卓も立ち上がり、皇甫堅寿の手を引いて一緒に坐った。皇甫嵩は釈放され、また議郎に任じられ、御史中丞に転任した。

董卓が長安に入ったとき、公卿百官は道中まで彼を出迎えたが、董卓は御史中丞以下はみな拝礼せよと命じ、皇甫嵩を打ち負かした。董卓が彼の手を取って「義真よ、参ったか」と言うと、皇甫嵩は笑って彼に陳謝した。皇甫嵩「明公(とのさま)がここまで出世するとは思いませんでした」、董卓「鴻鵠はもともと遠大な志を持っていたのだが、燕雀が知らなかっただけさ」、皇甫嵩「いえ、むかし私と明公はともに鴻鵠だったのですが、今日になって明公が鳳凰になられたのですよ」。こうして董卓の気持ちも解けた。

董卓が誅殺されると征西将軍となり、また車騎将軍に昇進した。その年の秋に大尉となったが、冬になると流星があったとして罷免され、のちにまた光禄大夫に任じられ、太常に転任した。まもなく李傕が混乱を巻き起こすと、皇甫嵩は病没した。驃騎将軍の印綬を追贈される。

皇甫嵩の人となりは愛情深く慎重で、極めて真面目であった。諫言したりして国益を保った上表文は五百余りにもなり、すべて彼自身が筆を執り、草稿は破り捨てて他人に知られないようにした。また立派な人物にへりくだり、門の外に訪問者を待たせることもなかった。当時の人々はみな彼を称えて付き従った。

【参照】袁紹 / 閻忠 / 王国 / 郭典 / 韓信 / 韓遂 / 皇甫規 / 皇甫堅寿 / 皇甫節 / 皇甫酈 / 朱儁 / 曹操 / 張角 / 張譲 / 張宝 / 張梁 / 趙忠 / 陳蕃 / 田単 / 董卓 / 竇武 / 波才 / 辺章 / 彭脱 / 卜己 / 李傕 / 劉宏(霊帝) / 梁衍 / 盧植 / 安定郡 / 潁川郡 / 槐里県 / 下曲陽県 / 冀州 / 鄴県 / 鉅鹿郡 / 広宗県 / 三河 / 三輔 / 汝南郡 / 信都県 / 西華県 / 倉亭 / 長安県 / 長社県 / 朝那県 / 陳国 / 陳倉県 / 東郡 / 霸陵県 / 美陽県 / 幷州 / 北地郡 / 陽翟県 / 洛陽県 / 涼州 / 臨汾県 / 隴右 / 右中郎将 / 騎都尉 / 御史中丞 / 議郎 / 県令 / 侯 / 孝廉 / 光禄大夫 / 五校 / 左車騎将軍 / 左将軍 / 左中郎将 / 車騎将軍 / 城門校尉 / 征西将軍 / 前将軍 / 大尉 / 太守 / 太常 / 大将軍 / 中常侍 / 長史 / 東中郎将 / 都郷侯 / 度遼将軍 / 驃騎将軍 / 牧 / 北中郎将 / 茂才 / 郎中 / 詩経 / 書経 / 宦官 / 京観 / 黄巾賊 / 西園 / 節(持節) / 大人 / 党錮 / 流星 / 領

黄琬Huang Wan

コウエン
(クワウヱン)

(141〜192)
漢司隷校尉・陽泉郷侯

字は子琰、または公琰。江夏郡安陸の人。黄瓊の孫。

黄琬は若くして父を失ったが、幼少より聡明であった。祖父黄瓊は魏郡太守となり、建和元年(一四七)正月の日蝕を目撃した。欠け具合はどれほどかと太后に下問され、どう答えるべきかを思案していると、当時七歳の黄琬が傍らにいて「どうして三日月ほどですとお答えしないのですか?」と言ったので、黄瓊はたいそう驚いた。そしてその言葉通りに言上し、黄琬を深く愛した。

のちに黄瓊が司徒になると、三公の孫だということで童子郎を拝命したが、病気を口実に就任せず、京師に名を知られた。そのころ司空の盛允は病気を患っていたので、黄瓊は黄琬に見舞いをさせた。ちょうど江夏郡から蛮民の叛乱について報告が届けられた。盛允が報告書を開いて読み終わると、黄琬をからかって「江夏は大国じゃが、蛮民が多くて士人が少ないんだのう」と言った。黄琬は両手を捧げて「蛮民が悪さを働くことにつきましては司空どのの責任でございます」と答え、裾を払って退出した。盛允は大いに目を見張った。

次第に五官中郎将まで昇進した。光禄勲陳蕃は彼を深く尊敬して厚遇し、相談を持ちかけることがたびたびあった。旧制では、光禄勲が三署の郎を推挙するとき、高い功績を挙げながら官位が据え置かれている者、才能徳行のとりわけ優れた者を茂才や四行としていたが、当時、権力者や富豪の子弟ばかりが私情によって推挙され、貧乏人や大志を抱く者たちは見捨てられていた。京師ではそれを「無能者が欲しければ光禄勲の茂才だ」と歌っていたのである。そこで黄琬・陳蕃は協力して志士を登用し、劉諄・朱山・殷参らが才能・行動によって推挙されたのである。

陳蕃・黄琬はそのことで権力者・富豪出身の郎たちに中傷され、その裁定が御史中丞王暢・侍御史刁韙に委ねられた。刁韙・王暢はかねて陳蕃・黄琬を尊敬していたので、彼らのことを検挙しなかった。ところが(帝の)左右の者たちがまた「あいつらは徒党を組んでおります」と陥れたので、王暢は連座して議郎に左遷され、陳蕃は免官となり、黄琬・刁韙はともに禁錮を命じられた。

黄琬は遠ざけられたまま二十年近くを過ごしたが、光和年間(一七八〜一八四)の末期、太尉楊賜が「黄琬には混乱を払いのける才能がございます」と上書してくれたので、徴し出されて議郎となり、青州刺史への抜擢を経て、侍中に昇進した。中平年間(一八四〜一八九)の初期、右扶風太守に出向し、徴し返されて将作大匠・少府・太僕を歴任、また予州牧となった。そのころ盗賊どもが州境で暴れまわっていたが、黄琬はこれを攻撃して平らげ、威信名声は大いに轟いた。その治績は天下の模範となり、関内侯に封ぜられる。

董卓が政権を握ると、黄琬は名臣として徴し出されて司徒となり、太尉に昇進、改めて陽泉郷侯に封ぜられた。董卓が長安遷都の計画を持ちかけると、黄琬は司徒楊彪とともに諫言し、退出してから「むかし周公が洛邑を経営して姫氏を安定させ、光武が東都を計画して漢朝を興隆させたのは、天の告げるところであり、神の喜ぶところであった。大事業はすでに完成されているのに、どうして軽挙妄動して四海を失望させることがあろう?」と反対論を述べた。人々は董卓が激怒するのを恐れ、黄琬が必ず殺害されるだろうと思い、強く諫めたが、黄琬は「むかし白公が楚で反乱を起こしたときは、屈廬は刃物を恐れず進みでたし、崔杼が斉で君主を殺したとき、晏嬰はその誓約を恐れなかった。私は不徳者であるが、古人の節義を真摯に慕うものである」と答えるばかりだった。

結局、黄琬は免官されたものの、董卓はそれでも彼が名誉恩徳のある古い氏族であることを尊重し、危害を加えようとはしなかった。のちに楊彪とともに光禄大夫を拝命し、西方へ遷都したとき司隷校尉へと転任、司徒王允とともに董卓誅殺を計画した。董卓の将李傕・郭汜が長安を攻め破ったとき、黄琬は逮捕され、牢獄に下されて死んだ。ときに五十二歳。

【参照】晏嬰 / 殷参 / 王允 / 王暢 / 郭汜 / 屈廬 / 黄瓊 / 崔杼 / 朱山 / 周公 / 盛允 / 刁韙 / 陳蕃 / 董卓 / 白公勝(白公) / 楊賜 / 楊彪 / 李傕 / 劉秀(光武) / 劉諄 / 梁太后 / 安陸県 / 魏郡 / 江夏郡 / 斉 / 青州 / 楚 / 長安県 / 扶風郡(右扶風郡) / 陽泉郷 / 予州 / 雒陽(洛邑) / 関内侯 / 郷侯 / 御史中丞 / 議郎 / 光禄勲 / 光禄大夫 / 五官中郎将 / 三公 / 侍御史 / 司空 / 四行 / 刺史 / 侍中 / 司徒 / 将作大匠 / 少府 / 司隷校尉 / 太尉 / 太守 / 太僕 / 童子郎 / 牧 / 茂才 / 郎 / 三署郎 / 日蝕

左慈Zuo Ci

サジ

(?〜?)

字は元放。廬江郡の人。若いころから神秘性を備えていた。

司空曹操の座中にあったとき、曹操はのんびりと賓客たちの方へ振り返りながら「今日の宴会は大いに盛り上がり、珍味もあらかた揃った。呉の松江の鱸だけが足りんがのう」と言った。左慈は末席にあって「それなら手に入れられまするぞ」と答え、銅盤を借りて水を満たし、竹竿でもって盤の中で釣りをした。すぐに一尾の鱸が食い付き、釣れた。曹操は手を打って大笑いし、出席者はみな驚いた。

曹操が「一尾では出席者全員に行き渡らんな。もっと手に入らぬものかね」と言うので、左慈がまた釣り針に餌を付けて垂らすと、またすぐに釣れた。どちらも体長三尺余り、新鮮で実に立派なものだった。曹操は目前でさばかせると、出席者全員に振る舞った。

曹操がまた「魚はもう手に入った。しかし蜀の生姜がないのが残念じゃのう」と言うと、左慈は「それも手に入れられまする」と言う。曹操は彼が近場で間に合わせるのを懸念して、「吾は先日、人を蜀へやって錦の買い付けに行かせたのじゃが、見かけたら二端買い足すように命令を伝えておいてくれい」と言った。言い付けてからしばらくすると、左慈が生姜を入手して帰ってきたが、同時に曹操の出した使者からの報告を携えてきた。後日、曹操の使者が蜀から帰ってきたとき、錦の買い足しをした経緯について質問したところ、日付も時間もすっかり符合していた。

左慈は補導の術を心得ており、郤倹・甘始らとともに(曹操の)軍吏になっていた。左慈が到来したとき、みな競って彼の補導の術を学び、宦官の厳峻でさえ教えを乞いに行くほどであった。

のちに曹操が近郊までお出ましになった際、随行する士大夫は百人ばかりもあった。左慈は酒一升と干し肉一斤を持参し、自分自身で酌をしてまわると、百官は酔い、満腹せぬ者はなかった。曹操が怪訝に思ってそのからくりを調べさせると、樽の中にあったはずの酒も肉も全部なくなっていた。曹操は不快感を抱き、その席上で左慈を逮捕して殺そうとした。

左慈は後ずさりして壁の中に溶け込み、すうっと姿をくらませてしまった。ある者が市場で見たというので、改めて追跡させたが、市場の人々がみな姿を変えて左慈そっくりになっていて、どれが左慈なのだか見分けが付かなかった。

のちにある人が陽城山の頂で左慈に会ったというので、またも彼を追跡したが、(左慈は羊の姿に化けて)そのまま羊の群の中に紛れ込んだ。曹操は捕まえることができず、その羊の群に向かって「もう殺したりはしないよ。もともと君の術を試したかっただけなんだ」と言った。ふと、一頭の年老いた雄羊が前脚を曲げて二本足で立ち上がり、「どうして突然許す気になったのかね」と言った。(曹操の部下たちが)競うように飛びかかったが、群をなしていた数百頭の羊がみな雄羊に変わり、一斉に前脚を曲げて二本足で立ち上がり、「どうして突然許す気になったのかね」と言った。結局、どれを捕まえたらいいのか分からなかった。

【参照】甘始 / 郤倹 / 厳峻 / 曹操 / 呉 / 松江 / 蜀 / 陽城山 / 廬江郡 / 司空 / 士大夫 / 生薑(生姜) / 蜀錦 / 鱸 / 補導之術

朱儁Zhu Jun

シュシュン

(?〜195)
漢大司農・特進・行驃騎将軍事・銭塘侯

字は公偉。会稽郡上虞の人。

『三国志』では「朱儁」、『後漢書』では「朱雋」と作る。

若くして父を失い、母がいつも絹を売って生計を立てていた。朱儁は孝養を尽くして評判となり、県の門下書佐となった。義侠を好んで財貨を軽んじたので、郷里の人々は彼に敬服した。

そのころ同郡の周規という者が公府に召され、出かけるにあたって、郡の倉庫から百万銭を借りて冠を仕立てる費用に充てた。その後、倉庫番が督促したとき、周規の家は貧しくて返済することができなかった。朱儁はそこで母の絹を持ち出して弁済してやった。母は家業の元手を失って激怒し、朱儁を叱りつけたが、朱儁は「少しの損をして大きな利益を得られます。初めが貧しければ後々豊かになるのは当然の理でしょう」と答えた。

県長の度尚は彼を引見して高く評価し、太守韋毅に推薦した。次々に郡職を歴任したのち、太守尹端が朱儁を主簿に取り立てた。熹平二年(一七三)、尹端は賊徒許昭を討伐して敗戦したため、州の弾劾を受けて棄市相当の罪とされた。朱儁はそこで襤褸をまとって密かに出かけ、数百金を携えて京師へ上り、担当役人に賄賂をつかませた。かくて州の弾劾上表を抜き去ることができ、尹端は左校に移されるだけで済んだ。尹端は減刑されて喜んだものの、その理由は分からず、朱儁もまた生涯他言することはなかった。

のちに太守徐珪が朱儁を孝廉に推挙し、二度栄転して蘭陵の県令に任命された。統治にはひときわ目を引くものがあり、(その素晴らしさは)東海の相から上表された。

そのころ交阯の賊徒どもが一斉に蜂起したが、牧守たちは軟弱で制圧することができなかった。また交阯の賊梁龍以下一万人余りが南海太守孔芝とともに叛逆して、郡県を攻め落とした。光和元年(一七八)、朱儁を交阯刺史に任命して本郡で家兵および軍需物資を募集徴発させ、都合五千人が手を分けて二つの道から(交阯へ)入ることになった。州境まで来ると、兵士を留めて前進をやめ、まず郡に使いを出して敵情を探らせ、威光恩徳を喧伝して彼らの心を動揺させた。それから七郡の郡兵とともに進軍して襲いかかり、ついに梁龍を斬った。降服する者は数万人、丸一ヶ月で完全に平定された。功績により都亭侯千五百戸に封ぜられ、黄金五十斤を賜り、中央に徴されて諫議大夫となった。

黄巾賊が蜂起すると、公卿の多くが朱儁には才略があると推薦したので、右中郎将に任じて持節とし、左中郎将皇甫嵩とともに潁川・汝南・陳国のもろもろの賊を討伐させた。ことごとく打ち破り、平定した。皇甫嵩は状況を報告し、功績を朱儁のものとした。こうして西郷侯に栄転し、鎮賊中郎将に昇進した。

このとき南陽の黄巾賊張曼成が挙兵して「神上使」と称し、数万人を集めて太守褚貢を殺害、宛の城下に百日余りも屯していた。後任の太守秦頡が張曼成を殺したが、賊徒は改めて趙弘なる者を総帥に立て、軍勢はますます膨れあがって十万人余りになり、宛城を占拠した。

朱儁は荊州刺史徐璆および秦頡と合流して軍勢一万八千人で趙弘を包囲したが、六月から八月にかけて陥落させられなかった。担当者が朱儁を徴し返すべきと上奏したが、司空張温が「むかし秦は白起を登用し、燕は楽毅を任命いたし、みな年をまたいで敵に打ち勝つことができました。朱儁は潁川を討伐して功績があり、軍を返して南方へ向かい、計略もすでに定まっております。戦闘を目前に将帥を配置換えするのは兵家の戒めるところ。月日に猶予をやって成功を促してやるのがよろしゅうございます」と上疏したので、霊帝は(呼び戻すのを)取り止めた。朱儁は趙弘に急襲をかけ、これを斬った。

賊の残党韓忠がまたも宛城に楯籠って朱儁に抵抗すると、朱儁は軍勢が少なく対抗できなかったため、包囲を張り巡らせて塁壁を立て、土山を築いて城内を見下ろした。太鼓を打ち鳴らして西南側から攻めかけると、賊軍は総員でそこへ向かったので、朱儁はみずから精鋭五千人を率いて東北側から襲いかかり、城内へ乗り込んだ。

韓忠は(宛城を)抜け出して小城に楯籠り、恐れおののいて降服を願い出た。司馬張超および徐璆・秦頡はみな受け入れてやるべきと考えたが、朱儁は「戦いには形が同じでも勢いが違うこともある。むかし秦・項のころは民衆には定まった君主がおらず、それゆえ賞金を出してでも味方に招いたのである。いま海内は一統され、侵害をなしておるのはただ黄巾賊あるのみ。降服を受け入れては善を勧めることにならず、これを討伐してこそ悪を懲らしめることになる。いま受け入れてやるのは改めて叛逆の意志を開くことになり、賊徒どもは有利なとき進んで戦い、不利になれば降服を申し出ようとするだろう。悪党を増長させるのは良計ではない」と言い、厳しく攻め立てたが、何度戦っても勝つことができなかった。

朱儁は土山に登って見下ろし、張超の方を振り返って言った。「吾は分かったぞ。賊軍はいま外周を固められ、内部では追い詰められ、降服を願い出ても許されず、抜け出すこともできないので、死に物狂いで戦うのだ。万人が心を一つにしても当たるべからざるところ、ましてや十万人なのだ!その被害が甚大になるわけだ。包囲を解くと同時に軍勢を入城させるに越したことはない。韓忠は包囲が解けたと見るや、勢い、自分から出てくるだろう。出てくれば志気は散漫になり、容易く打ち破られるのは道理である」。包囲を解いてやると、韓忠は果たして城を出てきた。朱儁はそこで攻撃をかけてこれを大破、勝利に乗じて北方数十里のところまで追撃した。斬首すること数万級、韓忠らはついに投降した。

秦頡は韓忠への恨みを募らせてこれを殺したので、残党どもは恐怖し、また孫夏を総帥として宛の城内へ引き返した。朱儁がこれを急襲すると孫夏は逃走したので、西鄂の精山まで追撃してまたも打ち破り、一万級余りを斬った。賊軍はようやく解散した。

翌年春、使者に節を持たせて派遣して朱儁を右車騎将軍に任命、(彼が)京師に凱旋すると光禄大夫とし、食邑五千戸を加増、銭塘侯に転封し、特進の位を加えた。母が亡くなったため官を去ったが、(服喪を終えると)家を出て、将作大匠に復職、少府・太僕へと異動した。

黄巾賊が蜂起して以来、また黒山・黄龍・白波・左校・郭大賢・于氐根・青牛角・張白騎・劉石・左髭丈八・平漢・大計・司隷・掾哉・雷公・浮雲・飛燕・白雀・楊鳳・于毒・五鹿・李大目・白繞・畦固・苦唒といった輩が、こぞって山谷に蜂起して数え切れず、大きい者では二・三万、小さい者でも六・七千人もあった。

(とりわけ)賊の総帥張燕は士卒の心をよくつかんでおり、中山・常山・趙郡・上党・河内のもろもろの山賊らと手を結び、軍勢は百万人に上り、「黒山賊」と号した。河北もろもろの郡県はいずれも損害を被ったが、朝廷は討伐することができず、張燕が使者を京師に送って降服を願い出たので、ついに張燕を平難中郎将に任じ、河北のもろもろの山谷の事務を宰領させ、年ごとに孝廉・計吏を推挙できる権限を与えたのであった。

張燕はその後、次第に河内を侵害するようになり、京師へと迫ってきた。そこで朱儁を河内太守に任じ、家兵を率いて彼らを撃退させた。再び朱儁を光禄大夫に任じ、屯騎校尉に転任させ、程なく城門校尉・河南尹に任じた。

ときに董卓は朝政を牛耳っていたが、朱儁が宿将であったので、表面上はことさら親しげに受け入れつつも、内心ではひどく憎んでいた。関東の軍勢が盛んになると、董卓は恐怖し、しばしば長安への遷都について公卿に議論させたが、朱儁はそのつど反対した。董卓は自分に楯突く朱儁を憎んだが、その名声の重さを利用したくもあり、太僕に昇任するよう上表して自分の副官にしようとした。

使者が来ても、朱儁は辞退して拝受せず、言った。「国家(天子)が西方へ遷都なされば必ずや天下の希望に背くことになり、山東の罪悪を成功させることになります。臣にはその良さを理解できません」。使者は咎めて言った。「貴君を召し寄せて叙任しようとしておるのに貴君はそれを拒否される。遷都のことは訊ねておらんのに貴君はそれを陳述される。その理由は何であるか?」、朱儁「相国の副官などは臣に務まるものではありませんし、遷都の計画は緊急のことではありません。務まるものでないのを辞退して緊急のことでないのを言うのが、臣の良しとするところです」、使者「遷都のことだが、そんな計画は聞いておらぬ。たといあったとしても発表されておらぬはずだが、どこから聞いたのか?」、朱儁「相国董卓どのが詳細に臣へご説明くださいました。それで知ったのです」。使者はやりこめることができず、こうして副官とするのは取り止められた。

董卓はのちに関中入りしたとき、朱儁を残して洛陽を守らせたが、朱儁は山東諸将と内応すべく計画を通じ、しばらくして董卓の襲撃を恐れ、官職を棄てて荊州に出奔した。董卓は楊懿を河南尹として洛陽を守らせた。朱儁がそれを聞いてまた進軍して洛陽へ帰ると、楊懿は逃走した。朱儁は河南が破壊されて物資になるものがなかったので、東進して中牟に屯し、州郡に書状を回して董卓討伐の軍勢を起こすよう要求した。

徐州刺史陶謙が精鋭三千人を派遣してくれたほか、その他の州郡からも少しづつ補給があった。陶謙はそこで朱儁を行車騎将軍とするよう上表した。董卓はそれを聞いて、その将李傕・郭汜ら数万人を河南に屯させ、朱儁と対抗させた。朱儁は迎撃したが、李傕・郭汜に撃破された。朱儁は自分の力では敵わないことを知り、関所の麓に留まったまま前進することができなかった。

董卓が誅殺されたのち、李傕・郭汜が混乱を巻き起こした。朱儁はこのときなお中牟にあった。陶謙は朱儁が名臣であり、しばしば戦功を立てていたことから、大事を委ねられると考え、もろもろの豪傑たちとともに朱儁を太師に任ずるよう推薦し、牧伯たちに檄文を飛ばして、一緒に李傕らを討って天子を奉迎しようと述べた。

朱儁を推薦する上奏文に曰く、「徐州刺史陶謙・前揚州刺史周乾・琅邪相陰徳・東海相劉馗・彭城相汲廉・北海相孔融・沛相袁忠・太山太守応劭・汝南太守徐璆・前九江太守服虔・博士鄭玄ら、行車騎将軍・河南尹幕府について申し上げます。国家はすでに董卓、重ねて李傕・郭汜の災禍に遭遇いたしました。幼主は人質に取られ、忠義善良な者は殺され、長安は隔絶して吉凶のほども分かりません。それにつき官職に就く者、有識の紳士のうち憂慮せぬ者はございませんが、思うに明哲雄霸の士でない限り、どうして災禍混乱をよく鎮められましょうか!挙兵して以来、これまで三年、州郡は首を振りつつ見回しておりますが、いまだ奮闘の功績を立てる者なく、私欲のために争って疑惑し合う有様です。」

続けて曰く、「陶謙らは互いに相談し、国難解消のために議論いたしましたところ、みな『将軍君侯(朱儁)は文徳を備えたうえ武威を兼ね、天運に応じて現れた。凡百の君子たちに仰ぎ慕わぬ者はない』と申しました。それゆえ互いに率い励まして精鋭を選り抜き、深く進入してまっすぐ咸陽を目指し、多くの物資食糧を抱えて半年は支えられるようになったのであります。謹んで心を一致させ、彼に元帥を委ねたく存じます。」

ちょうどそのとき李傕は太尉周忠・尚書賈詡の献策を用い、朱儁を徴し寄せて入朝させた。軍吏はみな関中入りに危惧を抱き、陶謙らと呼応したく思ったが、朱儁は「君主が臣下を召し寄せたときは馬車を待たぬのが定め。ましてや天子の詔なのだ!それに李傕・郭汜は小倅、樊稠は凡人に過ぎず、別段、長期的計画があるわけでもない。また勢力も拮抗しており、変事は必ず起こる。吾がその隙に乗ずれば、大事は解決できよう」と言い、陶謙の提案を辞退し、李傕のお召しに応じた。再び太僕となり、陶謙らも(太師への推挙を)取り止めた。

初平四年(一九三)、周忠の後任として太尉・録尚書事となり、翌年秋、日蝕によって罷免されたが、また行驃騎将軍事・持節となり、関東を鎮撫することになった。まだ出発せぬうち、李傕が樊稠を殺害したので、郭汜もまた疑心を抱いて李傕と抗争を始め、長安中が混乱した。そのため朱儁は留まって出発せず、残って大司農を拝命した。

献帝は朱儁に詔勅を下し、太尉楊彪ら十人余りとともに郭汜を説得し、李傕と講和させようとした。郭汜は承知せず、朱儁らを勾留して人質に取った。朱儁はもともと剛直な人であったので、その日のうちに発病して卒去した。

【参照】韋毅 / 尹端 / 于羝根(于氐根) / 于毒 / 袁忠 / 縁哉(掾哉) / 応劭 / 賈詡 / 郭汜 / 郭大賢 / 楽毅 / 韓忠 / 汲廉 / 許昭 / 苦蝤(苦唒) / 五鹿 / 孔芝 / 孔融 / 項羽(項) / 皇甫嵩 / 黄龍 / 黒山 / 左校 / 左髭丈八 / 司隷 / 周規 / 周乾 / 周忠 / 徐璆 / 徐珪 / 秦頡 / 眭固畦固) / 青牛角 / 孫夏 / 大洪(大計) / 褚貢 / 張燕(飛燕) / 張温 / 張超 / 張曼成 / 張雷公(雷公) / 趙弘 / 鄭玄 / 度尚 / 陶謙 / 陶升平漢) / 董卓 / 白起 / 白雀 / 白繞 / 白波 / 樊稠 / 浮雲 / 服虔 / 楊懿 / 楊彪 / 楊鳳 / 李傕 / 李大目 / 劉馗 / 劉協(献帝・国家・天子) / 劉宏(霊帝) / 劉石 / 梁龍 / 潁川郡 / 宛県 / 燕 / 会稽郡 / 河内郡 / 河南尹 / 河北 / 関中 / 関東 / 咸陽 / 九江郡 / 荊州 / 交阯 / 山東 / 上虞県 / 常山国 / 上党郡 / 徐州 / 汝南郡 / 秦 / 西鄂県 / 西郷 / 精山 / 銭塘県 / 泰山郡(太山郡) / 中山国 / 中牟県 / 趙国 / 長安県 / 陳国 / 東海国 / 都亭 / 南海郡 / 南陽郡 / 沛国 / 彭城国 / 北海国 / 揚州 / 雒陽県洛陽県) / 蘭陵県 / 琅邪国 / 尹 / 右車騎将軍 / 右中郎将 / 諫議大夫 / 郷侯 / 計吏 / 県長 / 県令 / 侯 / 公卿 / 孝廉 / 光禄大夫 / 左校 / 左中郎将 / 司空 / 刺史 / 持節 / 司馬 / 車騎将軍 / 主簿 / 相 / 相国 / 将作大匠 / 尚書 / 少府 / 城門校尉 / 太尉 / 太師 / 大司農 / 太守 / 太僕 / 鎮賊中郎将 / 亭侯 / 特進 / 屯騎校尉 / 博士 / 驃騎将軍 / 平難中郎将 / 牧守 / 牧伯 / 門下書佐 / 録尚書事 / 行 / 黄巾賊 / 黒山賊 / 神上使 / 節 / 府(幕府)

徐璆Xu Qiu

ジョキュウ
(ジヨキウ)

(?〜?)
漢使持節・太常

字は孟玉。広陵郡海西の人。

『武帝紀』注では字を「孟平」とし、また衛尉を経験したともある。

父徐淑は度遼将軍で、辺地において名声を手にした。徐璆は若いころから博学であったので、公府のお召しを受けて高第に推挙された。高潔の道を実践し、朝廷にあっては折り目正しく、後進たちを支援した。恐れるのは(努力の)足りないことだけだった。

荊州刺史に昇進した。当時、董太后の姉の子張忠が南陽太守であったが、権勢を嵩にかけて勝手放題、賄賂数十億銭を受け取っていた。徐璆が赴任するにあたり、董太后は中常侍を使者に立てて張忠のことを(大目に見てくれるよう)徐璆に託した。徐璆は「臣は国家の御為に身を尽くす所存、ご令旨をお受けするわけにはまいりませぬ」と答えた。董太后は腹を立て、急遽、張忠を徴し返して司隷校尉とし、脅迫にかかった。

徐璆は州に着任すると張忠が受け取った賄賂一億銭が残っていたのを告発し、冠軍県に帳簿を持たせて大司農に届けさせ、その悪事を暴露した。さらに五郡の太守および属県のうち汚職に手を染めている者をことごとく呼び出し、罪刑を調べ上げるようにと弾劾奏上したので、威信風紀は大いに行き渡った。

中平元年(一八四)、中郎将朱雋とともに宛城で黄巾賊を攻撃し、打ち破った。張忠は徐璆に恨みを抱いていて、宦官たちとともにありもせぬことをでっち上げたので、徐璆はついに罪人として徴し返されることになった。賊軍撃破の功績があったため官を免ぜられるだけで済み、家に帰った。

のちに再び徴し出されて汝南太守に昇進し、東海国の相へと異動になった。至るところで教化は行き届いた。

献帝は許に遷都したとき、廷尉として徴し返したが、(徐璆は)京師に向かう途中、袁術に身柄を拘束された。(袁術が)上公の位を授けようとしたが、徐璆は「龔勝・鮑宣だけが人間とは限られまい。死んでも守り通すぞ」と歎息した。袁術も無理強いはしなかった。

袁術が死んで軍勢が破られると、徐璆は彼が盗み取った国璽を手に入れ、許に帰還したときにそれを返上し、同時に以前与えられた汝南・東海二郡の印綬を送付した。司徒趙温が「貴君は大変な困難に遭いながら、なおそれだけの余裕があったのかね」と言うと、徐璆は「むかし蘇武は匈奴に追い詰められながら七尺の節を失いませんでした。ましてやこれは一寸四方に過ぎない印なのですから」と言った。

のちに太常を拝命し、使持節として曹操を丞相に任命した。曹操は(その官職を)徐璆に譲ったが、徐璆も受け取ろうとしなかった。在官のまま卒去した。

【参照】袁術 / 龔勝 / 朱儁(朱雋) / 徐淑 / 蘇武 / 曹操 / 張忠 / 趙温 / 董太后 / 鮑宣 / 宛県 / 海西県 / 冠軍邑 / 許県 / 荊州 / 広陵郡 / 汝南郡 / 東海国 / 南陽郡 / 高第 / 刺史 / 使持節 / 司徒 / 司隷校尉 / 相 / 上公 / 丞相 / 大司農 / 太守 / 太常 / 中常侍 / 中郎将 / 廷尉 / 度遼将軍 / 閹官(宦官) / 匈奴 / 黄巾賊 / 国璽 / 節 / 府

徐登Xu Deng

ジョトウ

(?〜?)

閩中の人。もとは女性であったが男性に転化したのである。

徐登は巫術に通じていた。そのころ兵乱や飢饉が盛んに起こっていたが、やはり越方(越地方の方術)に明るい趙炳という者がいて、二人は烏傷の渓水のほとりで出会った。そこで、それぞれの技術を用いて病気治療に当たるべくお互いに誓言を立てた。

二人は「いま志を同じくしたからには、まずおのおのの能力を試してみようではないか」と話し合い、まず徐登が渓水に「禁」をかけると、川は流れを止めた。趙炳が続いて枯れ木に「禁」をかけると、木は生き返って花を咲かせた。二人は顔を見合わせて笑い、その道を二人一緒に修めることとし、徐登が年長であったので趙炳は彼に師事した。

清潔倹約な生き方を尊重し、神を祭るときには東流する川の水だけをお供えし、桑の木の皮を削って干し肉代わりのご供物とした。禁術を施しただけで、診療してもらった者はみな回復した。

のちに徐登は物故した。

【参照】趙炳 / 烏傷県 / 渓水 / 閩中 / 越方 / 禁術 / 巫術

种劭Chong Shao

チュウショウ
(チユウセウ)

(?〜194)
漢益・涼二州刺史

字は申甫。河南尹雒陽の人。种払の子。

种劭は若くして名を知られ、中平年間(一八四〜一八九)末期に諫議大夫となった。

大将軍何進が宦官らを誅殺しようとして幷州牧董卓を呼びよせたとき、董卓が澠池に到着したのに、何進の方ではまた心変わりし、种劭に詔勅を届けさせて董卓を留めようとした。董卓は聞き入れず、そのまま河南まで進軍した。

种劭は彼を迎え入れて労をねぎらうとともに、軍勢を引き返すよう説得した。董卓は「すわ変事出来か」と思い込み、兵士に命じて武器を突きつけて种劭を脅した。种劭は腹を立てて「詔勅である!」と大声で怒鳴りつけ、兵士どもがみな引き下がると、つかつかと進みでて董卓を難詰した。董卓は返す言葉もなく、軍勢を夕陽亭に返した。

何進が敗北して献帝が即位すると、种劭は侍中を拝命した。董卓は権力を欲しいままにすると、种劭の強力さを疎ましく思い、議郎に左遷し、(そののちに)益・涼二州刺史に出向させようとした。ちょうど父の种払が戦死したため、着任せずじまいになった。

ここでは着任していないこととされているが、『後漢書』献帝紀には「前益州刺史」、『後漢紀』には「故涼州刺史」とある。任地への道中で父の訃報を受けて引き返したということだろうか。

服喪を終えると、中央より少府・大鴻臚に徴されたが、みな辞退して受けず、「むかし我が父君は身をもって国家に殉じた。私は臣下でありながら悪党を除いて復讐を果たすこともできずにおるのに、どの面下げて明主に拝謁できようか!」と述べた。こうして馬騰・韓遂および左中郎劉範・諫議大夫馬宇とともに李傕・郭汜を攻め、敵討ちしようとした。興平元年(一九四)三月、長平観の下で郭汜と戦ったが、戦いに敗れ、种劭らはみな死んだ。

【参照】何進 / 郭汜 / 韓遂 / 种払 / 董卓 / 馬宇 / 馬騰 / 李傕 / 劉協(献帝) / 劉範 / 益州 / 河南尹 / 河南県 / 夕陽亭 / 長平観 / 幷州 / 黽池県(澠池県) / 雒陽県 / 涼州 / 諫議大夫 / 議郎 / 左中郎 / 刺史 / 侍中 / 少府 / 大鴻臚 / 大将軍 / 牧

种払Chong Fu

チュウフツ

(?〜192)
漢太常

字は穎伯。河南尹雒陽の人。种暠の子、种劭の父。

はじめ司隷従事となり、宛の県令に任じられた。そのころ南陽郡の役人たちはことあるごとに休暇を取っては娯楽に耽り、市井の百姓たちに迷惑がられていた。种払は外出中に彼らと遭遇すると、必ず馬車を下りて公式の敬礼を行い、そうして彼らに恥じらいを覚えさせようとした。そのため外出しようとする者はいなくなった。その統治ぶりが有能であったと評判になり、次第に昇進して光禄大夫になった。

潁川太守を務めていたころ、劉翊を招いて功曹に任じ、はなはだ彼を敬愛した。郡民の黄綱が程夫人の権勢を嵩にかけて「山沢経営の独占を認めてほしい」と求めてきたので、种払がそれについて訊ねると、劉翊は「(古来の原則として)名山大沢に封侯しないのは民衆のためでございましょう。明府(知事どの)がお認めになれば、おべっか使いとの汚名を被ります。そうやって災禍を引きよせるならば、ご令息の申甫(种劭)どのは(明府と親子の縁を切り、もし明府が処刑されたとしても)孤児になったのではないと自認することになります」と答えた。种払はその言葉を採用して黄綱に荷担しなかった《後漢書劉翊伝》。

初平元年(一九〇)、荀爽の後任として司空となった。翌年、地震が起きたため罷免され、太常に復職した。

同三年六月《後漢書献帝紀》、李傕・郭汜が反乱を起こして長安城が陥落すると、百官らの多くは戦闘を避けようとしたが、种払は剣を振りまわしながら飛び出し、「国家の大臣となりながら戦争を止めさせ暴虐を取り除くこともできず、賊徒どもの凶器が宮殿に突き付けられているというのに、逃げてどこへ行こうというのか!」と言い、とうとう戦ったすえに死んだ。

【参照】郭汜 / 黄綱 / 荀爽 / 种暠 / 种劭 / 程夫人 / 李傕 / 劉翊 / 潁川郡 / 宛県 / 河南尹 / 長安県 / 南陽郡 / 雒陽県 / 県令 / 功曹 / 光禄大夫 / 司空 / 従事 / 司隷校尉 / 太守 / 太常

傅燮Fu Xie

フショウ
(フセフ)

(?〜187)
漢漢陽太守・壮節侯

字は南容。北地郡霊州の人。傅幹の父。傅玄の祖父にあたる《晋書傅玄伝》。

身長は八尺あり、容貌には威厳があった。本来の字は「幼起」といったが、孔子の弟子南容が『(詩経)白圭』を一日三度読んだことにあやかって字を変えたのである。若いころは大尉劉寛に師事していた。孝廉に推挙されることは二度に及んだが、彼を推挙した郡将(太守)が亡くなったと聞くと、傅燮は官を棄てて喪に服した。

のちに護軍司馬となり、左中郎将皇甫嵩とともに張角を討伐した。傅燮はかねてより宦官を憎んでおり、天子に上疏して言った。「臣(わたくし)は天下の禍は外側から来るのではなく、内側から起こるものだと聞いております。舜が朝廷に昇ったとき、まず四凶を取り除いてから十六人の宰相を用いたのはそのためです。いま張角が趙・魏で蜂起して、黄巾賊は六つの州を乱していますが、臣は軍務を受けて罪人を討伐して潁川に到着しましたが、戦って勝てないことはありませんでした。黄巾賊といえども朝廷を悩ませるほどではありません。陛下におかれましては、舜が四凶を検挙するのが速やかであったことを思い起こされ、讒言・姦佞の輩を誅伐されるべきです」。

傅燮は張角を撃ち破ることに多大な功績を挙げ、侯に封ぜられるべきであったが、宦官趙忠は彼の上疏を見て怒り憎んでいたので、霊帝に彼のことを誣告した。霊帝は傅燮の言葉を知っていたので罪に陥れることはしなかったが、それでも侯に封ずることはできず、彼を安定郡都尉に任じた。のちに病気のため免官となり、改めて議郎に任じられた。

西の羌族が叛逆して辺章・韓遂が混乱を起こしたとき、涼州は中国各地から軍勢や物資を集めて際限がなかった。そこで司徒崔烈は、公卿百官が集まる会議の席で「涼州を切り捨てよ」と主張した。すると傅燮は声を荒げて「司徒を斬って天下を安んじましょう」と言った。尚書郎楊賛が「傅燮は大臣を侮辱しています」と奏上したので、帝は傅燮を呼んで問責した。傅燮は答えた。「むかし冒頓が叛逆したとき、樊噲は上将軍となって軍勢十万で匈奴の地を横行しようとしたので、季布が樊噲を斬るべきだと言いました。いま涼州は天下の要衝、国家の垣根であります。もし野蛮な奴らがこの地を奪ったなら、天下・社稷の憂慮となりましょう」。帝は傅燮の言葉をもっともだと考え、このことから傅燮は厳正さによって朝廷で重んじられることになった。

車騎将軍趙忠は詔勅によって黄巾討伐の論功行賞をすることになったが、執金吾甄挙らは「傅南容が功績を立てたのに侯に封ぜられていないので天下は失望しております。賢者を任用することによって民衆の心に沿うのがよろしいでしょう」と趙忠に告げた。趙忠はその言葉に従って弟の城門校尉趙延を使者に立てたが、極めて慇懃な様子だった。傅燮は色を正して「この傅燮がどうして私的なご褒美など求めましょう」と拒絶した。趙忠はますます恨みを抱いたが、彼の名声を憚って危害を加えることもできなかった。また貴人・権力者の多くも彼を憎んだ。そのため朝廷に留まることができず、漢陽太守に出向させられた。

漢陽太守范津は人物を見る目があり、もともと傅燮を孝廉に推挙した人だったが、このとき傅燮が後任者としてやって来たのである。郷里の人々はそれを栄誉だと思った。傅燮は人民を慈しんだので、叛逆した羌族たちも彼の恩情になつき、連れ立って降伏しに来た。また開墾事業を行い、四十余りの陣営が連なって屯田した。

そのころ涼州刺史耿鄙は治中従事程球に政治を委ねていたが、程球は賄賂を取ったりしていたので人々の恨みを買っていた。中平四年(一八七)、耿鄙は涼州六郡の兵を率いて金城の賊王国・韓遂らを討伐しようとしたが、傅燮は彼が必ず敗北すると知り、「使君(知事どの)の統治は日に日に浅薄になっており、人民は教育を受けていません。孔子は『教育のない人を戦わすというのは、それを棄てるということだ』と言っています。万一、内部から変事が起きてから後悔しても取り返しはつきませんぞ。軍を休息させて信賞必罰を徹底すれば、賊は我らが臆病だと思って必ず仲間割れするでしょう。そののち教育された人を率いて攻撃すれば、坐ったままでも功績を立てられるでしょう」と諫めた。耿鄙は聞き入れず、はたして狄道まで軍を進めたところで謀叛が起こり、まず程球が殺され、続いて耿鄙も殺害された。

四月、賊の韓遂らは進撃して漢陽城を包囲したが、城中の兵は少なく兵糧も底を突いていた。それでも傅燮は城を固守した。北地郡の胡族騎兵数千人が賊徒の言いなりになって郡を攻撃していたが、彼らはみな昔から傅燮の恩徳になついていたから、城外で土下座して彼を故郷に帰したいと懇願した。

傅燮の子傅幹はこのとき十三歳で、父に随行して官舎にいたが、父の性格が剛直で高い節義を持っていることを知っていたので、意志をまげて危険から逃れることをしないのではないかと心配した。そこで進み出て諫めた。「国家が混乱したのは大人(ちちうえ)を受け入れなかったせいです。いま天下は叛乱が巻き起こり、軍勢は自分を守ることさえできません。郷里の羌胡どもはかつて恩徳に浴しており、(父上が)郡を棄てて帰郷されることを望んでおります。これをお聞き届けになり、郷里に帰って義挙を奨励し、道義を実践する者があれば支援してやり、それによって天下を清めましょう」。

その言葉が終わらぬうち、傅燮は怒りをあらわにして「別成!」と傅幹の幼名を叫び、「汝(おまえ)は吾(わし)が死を決意していることを知っているだろう。聖人は節義を達成し、それに次ぐ者は節義を守るのだ。殷の紂王は暴虐であったが、それでも伯夷は(殷を討伐した)周の粟を食べずに死んだ。仲尼(孔子)は彼が賢者であったと称賛している。いま朝廷は紂王ほどひどくはないし、吾の徳も伯夷に遠く及ばないとも限らない。禄を食(は)んでいるくせに危難を避けることなどできるか!汝には才智がある。努力せよ。主簿の楊会が吾の程嬰だ」と言った。傅幹はのどを詰まらせて言葉を発することができなかった。左右の者もみな涙を流した。

賊の王国は故(もと)の酒泉太守黄衍を使者として「勝負はすでに付いている。天下は漢の所有するものではなくなった。府君(知事どの)にその気持ちがあるなら我が将軍にならないか」と傅燮を説得させたが、傅燮は剣を押さえて黄衍を叱りつけた。「割り符を与えられた臣下のくせに、謀叛して賊徒のために説教するのか!」。ついに左右の者を引き連れて進軍し、軍陣に臨んで戦没した。諡されて壮節侯という。

【参照】王国 / 韓遂 / 季布 / 甄挙 / 孔子(仲尼) / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 黄衍 / 崔烈 / 舜 / 紂 / 張角 / 趙延 / 趙忠 / 程嬰 / 程球 / 南容 / 伯夷 / 范津 / 樊噲 / 傅幹 / 傅玄 / 辺章 / 冒頓単于 / 楊会 / 楊賛 / 劉寛 / 劉宏(天子・霊帝) / 安定郡 / 殷 / 潁川郡 / 漢 / 漢陽郡 / 魏郡 / 金城郡 / 周 / 酒泉郡 / 趙国 / 狄道県 / 北地郡 / 涼州 / 霊州県 / 議郎 / 侯 / 公卿 / 孝廉 / 護軍司馬 / 左中郎将 / 刺史 / 執金吾 / 司徒 / 車騎将軍 / 主簿 / 上将軍 / 尚書郎 / 城門校尉 / 大尉 / 太守(郡将) / 治中従事 / 都尉 / 詩経 / 諡 / 宦官 / 羌族 / 匈奴 / 黄巾賊 / 胡族 / 四凶 / 使君 / 十六相(十六人の宰相) / 大人 / 屯田 / 府君 / 剖符(割り符)

法雄Fa Xiong

ホウユウ
(ハフユウ)

(?〜?)
漢南郡太守

字は文彊。扶風郡郿の人。法真の父。法正の曾祖父《法正伝》。

法氏は代々二千石を出す家柄だった。はじめ郡に出仕して功曹となり、大傅の府(役所)に招かれて高第に推挙され、平氏県長・宛陵県令を歴任した。そのころ海賊どもが将軍を自称し、海沿いの九つの郡で太守や県令を殺害していた。御史中丞が幽州・冀州諸郡の郡兵数万人を率いて討伐にあたったとき、法雄は青州刺史に任じられた。討伐に従軍して連戦連勝し、海賊どもはなりを潜めた。

法雄は青州刺史を四年間務めたのち南郡太守に昇進した。南郡では虎狼の被害が甚だしく、前任の太守は虎狼を退治した者に賞金を出していた。法雄は「虎狼が山林に住むのは人間が城市に住むようなものだ」と言い、檻や罠を破棄させた。虎狼を捕まえようとしてむやみに山林に入る者がいなくなり、けっきょく虎狼の被害はなくなった。南郡にあること数年、元初年間(一一四〜一二〇)、法雄は在官のまま卒去した。

【参照】法真 / 法正 / 菀陵県(宛陵県) / 冀州 / 郿県 / 青州 / 南郡 / 扶風郡 / 平氏県 / 幽州 / 御史中丞 / 県長 / 県令 / 功曹従事 / 刺史 / 将軍 / 高第 / 太守 / 大傅 / 府

劉翊Liu Yi

リュウヨク
(リウヨク)

(?〜?)
漢陳留太守

字は子相。潁川潁陰の人。

劉氏の家は代々にわたる資産家であり、いつも施しをよく行い、物惜しみすることはなかった。あるとき汝南の郡境を越えて出かけたことがあった。そこで、陳国の張季礼という者がいて、師匠の葬儀に参列するための長旅の途中、寒さと氷のために車を壊してしまい、途方に暮れているのに出くわした。劉翊はすぐに車を下りて「道義を全うするつもりなら、君は急いで行きなさい」と言い、車を譲ると、姓名も告げず、馬に直接またがり立ち去った。張季礼は「あれは子相どのだな」と思い、後日、わざわざ潁陰を訪ねて乗り物を返しに行ったが、劉翊は門を閉ざして別れを告げ、面会しようとはしなかった。

劉翊は志を全うするため、いつも病気の(ふりをして)床に伏せ、お召しの命令に応じなかった。河南の种払が(太守として)郡に着任すると、彼を功曹に招いた。种払は名高い三公の子息であったので、劉翊はようやく出仕した。种払は、彼が時機を選んで出仕したことから非常に尊敬し、信任した。

陽翟の黄綱は程夫人の権力を嵩にかけ、山沢の利殖を独占したいと申し入れてきた。种払が「程氏は権勢のある貴族であり帝(霊帝)の左右に侍っておるから、認めてやらねば怨みを買うことになるだろう。(しかし)認めてやれば民衆の利益を取り上げることになってしまう。どうしたものかのう?」と訊ねると、劉翊は答えた。「名山・大沢に封侯しない(という規律がある)のは民衆のためでしょう。明府どのが認めれば、おべっか使いとの汚名を被ります。もしそのせいで災禍に巻き込まれたなら、ご令息の申甫(种劭)どのに(父とは絶縁したから)遺児ではないと自認させることになりますぞ。」种払はその言葉に従って黄綱に許可を与えず、さらに劉翊を孝廉に推挙したが、劉翊は就任しなかった。

のちに黄巾賊が蜂起すると、郡県では飢えに苦しむことになった。劉翊は困窮する者たちに救援物資を与え、その食糧で助かった者が数百人にもなった。郷里の一族の貧しい者が死亡したときは丁重に葬ってやり、独り者や後家があれば結婚を世話してやった。

献帝が西京(長安)に遷都したとき、劉翊は上計掾に選ばれた。このとき盗賊どもが蜂起して道路は断絶しており、通行できる使駅(駅舎)はほとんどなかった。劉翊は夜中に進行して昼間は潜伏し、ようやく長安にたどり着いた。詔書により忠勤が褒められ、格別に議郎を拝命、陳留太守に昇進した。

劉翊は拝領した珍品を放棄して、ただ車馬だけを残し、自分で操縦しながら東方へ帰ることにした。関所を出てから数百里、路上で士大夫が病死しているのを見つけると、馬を売って棺を買い、自分の着物をかけて納棺してやった。さらに旧知の人が路上で飢えに苦しんでいるのに出くわし、見捨てるには忍びず、「困っている人を見て助けないのは志士ではない」と言い、人々が制止するのも聞かず、乗っていた牛を殺して窮乏を救ってやった。結局、全員が餓死した。

【参照】黄綱 / 种劭 / 种払 / 張季礼 / 程夫人 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 潁陰県 / 潁川郡 / 河南尹 / 汝南郡 / 長安県 / 陳国 / 陳留郡 / 陽翟県 / 議郎 / 功曹 / 孝廉 / 三公 / 上計掾 / 太守 / 黄巾賊 / 使駅 / 士大夫

盧植Lu Zhi

ロショク

(?〜192)
漢車騎将軍軍師

字は子幹。涿郡涿の人。

盧植は身長八尺二寸、鐘のような声色だった。剛毅にして雄大なる節義の持ち主で、つねづね世を救済せんとの志を抱き、韻文の技術は好まず、一石もの酒を呑むことができた。

若くして鄭玄とともに馬融に師事、古今の学問に精通し、精密な研究は好んだが字句をもてあそぶようなことはしなかった。馬融は外戚の豪族であり、女たちを並ばせて眼前で歌や舞をさせることが多く、盧植は何年ものあいだ師範役を務めたが、一度も振り返ることはなかった。馬融はそのことから彼を尊重した。学業を終えて帰郷すると、古里で教育を行った。

皇后の父である大将軍竇武が霊帝を擁立し、政治の中枢に携わると、朝廷では封爵を追加しようと議論された。盧植は布衣の身ながら、手紙を送って諫めた。「あなたは漢朝において周の旦・奭のような立場であり、天下の注目するところです。いま系図を調べて下位の者(霊帝)を立てられましたが、それは天の仕事を横取りして自分の手柄にするものです!外部に跡継ぎを求めるとは危険なことですぞ。」しかし竇武は受け入れられなかった。

州郡から何度かの(出仕の)命令が届いたが、盧植はどれにも応えなかった。建寧年間(一六八〜一七二)、中央から博士に徴し出されると、初めて出仕した。熹平四年(一七五)、九江郡の蛮民が反乱を起こした。盧植は文武の才能を兼ね備えておりますとの四府(三公と大将軍の役所)の推薦を受け、九江太守を拝命すると、蛮民どもは服従した。病気を口実に退職した。

『尚書章句』『三礼解詁』を著述した。そのころ太学に石経が立てられることになり、五経の校正が求められた。盧植はそこで上書した。「臣は馬融から古学を学び、現在の『礼記』に回りくどさが多いのを熟知しております。また『周礼』などが誤謬に基づいているので、浅学ながら『解詁』を作成いたしました。願わくば書生二人を連れて東観へ行き、官費でもって経典の校正を行いたく存じます。」

南方の異民族が反乱を起こすと、盧植がかつて九江で恩徳信義を示していたことから廬江太守を拝命した。盧植は政治に精通しており、職務上は静粛さを心がけ、大ざっぱな方針を宣言するだけであった。

一年余りしてまた議郎に徴し出され、諫議大夫馬日磾・議郎蔡邕・楊彪・韓説らとともに東観へ入り、秘蔵の五経や紀伝を校正し、『漢記』の続きを書いた。急ぎの仕事ではないことから、帝は侍中に転任させたあと、尚書に昇進させた。

光和元年(一七八)に日蝕があり、盧植は上書して諫めた。「漢は火徳であり、女色に溺れて讒言を信ずるのは、火が水をかぶるほど危険なことです。今年の異変はみな陽気が陰気に蝕まれたせいであります。一、良き人物を任用すること。二、党錮の禁を解除すること。三、疫病を防ぐこと。四、侵略に備えること。五、礼儀を慎むこと。六、堯帝の人事制度を採用すること。七、部下を監督すること。八、私利私益を捨てること。以上、八つの務めを陳情いたします。」帝は反省できなかった。

中平元年(一八四)、黄巾賊が蜂起した。四府の推挙により盧植は北中郎将・持節を拝命し、護烏桓中郎将宗員を副官とし、北軍五校の兵士を率い、諸郡の郡兵を動員して出征した。度重なる戦いで賊の総帥張角を破り、斬首・捕虜は一万人を越えた。張角らが敗走して広宗に楯籠ると、盧植は包囲陣を築いて雲梯を建造し、今にも陥落しそうな状況であった。

そこへ帝の派遣した小黄門左豊が両軍の形勢を視察しにきた。ある人が左豊に賄賂をお渡しなさいと勧めたが、盧植は承知しなかった。左豊は帰国すると「広宗の賊は容易に打ち破れるのに、盧中郎将は陣を固めて軍を休め、天罰が下るのを待っているかのようです」と帝に言上した。帝は腹を立て、檻車を送り付けて盧植を徴し返した。ただ罪一等を減じられて死刑だけは免れた。

車騎将軍皇甫嵩は黄巾賊を平定したあと、「盧植の行軍は軍略にかなったものであり、私どもは彼の計画を元にして手柄を立てられたのです」と絶賛した。そのおかげで盧植はその年のうちに尚書へ復帰できた。

霊帝が崩御したのち、大将軍何進は宦官を誅殺するため、幷州牧董卓を召し寄せて太后を脅迫しようと企てた。董卓は凶悪であり操縦することは難しく、必ずやのちのち問題を起こすであろうと考え、盧植は断固として諫めたが、何進は聞き入れなかった。結局、董卓は到着すると朝廷を混乱させたのであった。

董卓が百官を集めて帝の廃立を提案したとき、官僚たちは反論できなかったが、ただ盧植だけは同調せずに抗議した。董卓は腹を立てて会議を中止し、盧植を殺そうとした。盧植はもともと蔡邕と親しく、かつて蔡邕が朔方郡に流されたときも盧植だけが減免を請願していた。蔡邕はこのとき董卓に信頼されていたので、(董卓の元へ)出かけて盧植の赦免を願いでた。また議郎の彭伯も「盧尚書は海内の大儒であり、人々の希望の星です。いま殺せば天下を恐怖させるだけです」と諫めたので、董卓は盧植の殺害をやめて免官するだけにした。

盧植は老いと病気を訴えて帰郷を求めたが、暗殺を恐れ、道を変えて轘轅から脱出した。案の定、董卓は追っ手を差し向けたが、懐まで行っても見付けられなかった。盧植はそのまま上谷に潜伏し、他人と交流しなかった。冀州牧袁紹が招聘して軍師とした。

初平三年(一九二)、卒去した。臨終のとき、息子に「地面に穴を掘って埋葬せよ、棺は使うな、副葬品は一反の絹だけでよい」と遺言した。著作した碑、誄、表、記は合わせて六篇あった。

【参照】袁紹 / 何進 / 何太后 / 韓説 / 堯 / 皇甫嵩 / 左豊 / 蔡邕 / 周公旦(旦) / 召公奭(奭) / 宗員 / 張角 / 鄭玄 / 董卓 / 竇武 / 馬日磾 / 馬融 / 彭伯 / 楊彪 / 劉宏(霊帝) / 懐県 / 漢 / 轘轅 / 冀州 / 九江郡 / 広宗県 / 朔方郡 / 周 / 上谷郡 / 涿県 / 涿郡 / 幷州 / 廬江郡 / 諫議大夫 / 議郎 / 軍師 / 護烏桓中郎将 / 持節 / 侍中 / 車騎将軍 / 小黄門 / 尚書 / 太守 / 大将軍 / 博士 / 牧 / 北中郎将 / 漢記 / 三礼解詁 / 周礼 / 尚書章句 / 礼記 / 雲梯 / 檻車 / 熹平石経 / 今学 / 黄巾賊 / 古学 / 五経 / 太学 / 東観 / 党錮 / 府 / 北軍五校