三国志人名事典 蜀志12

杜微Du Wei

トビ

(?〜?)
蜀諫議大夫

字は国輔。梓潼郡涪の人。

若いころ任安について学問を修めた。益州牧劉璋に召し出されて従事となったが病気のため退職。劉備が益州を支配したとき、耳が聞こえぬと称して邸の門を閉ざして出仕しなかった。

建興二年(二二四)、丞相諸葛亮は益州牧を兼官したが、このとき徳望をもって知られる人々を属官に登用した。別駕に秦宓、功曹に五梁、主簿に杜微を指名したが、杜微は固辞した。そこで諸葛亮は馬車をやって杜微を連れてこさせた。諸葛亮は直接彼に会って頼んだが、やはり杜微は断った。諸葛亮は杜微の耳が不自由だと聞いて、筆を執って「王連・楊洪・李劭らはいつも貴方を尊敬しておりましたから、貴方の徳行を伝え聞いては餓えるような思いでお会いしたいと考えておりました。私は徳義が薄いのに益州統治の大任を預かったので、その責任を果たせるか心配しております。天子様(劉禅)はまだ十八歳でらっしゃいますが仁愛に富んだ聡明な御方です。貴方と一緒に天子様をお助けして、漢朝復興の勲功を史書に名を残したいと思っています」と出仕を求めた。

それでも杜微は老齢と病気を理由に断ったが、諸葛亮は重ねて「曹丕が簒奪と弑逆の大罪を犯して贋の皇帝を名乗っております。私は賢者たちと協力して彼を滅ぼしたいと考えておりますのに、貴方が山野に帰りたいとおっしゃられることを残念に思います。今は農業を振興して人民を育成し、曹丕の疲弊を見計らって討伐軍を起こせば、戦うことなく天下を平定できるでしょう。ただ貴方は人徳によって時代を導いて頂くだけで充分で、軍事に煩わせることは致しません」と請い、彼を実際の職務のない諫議大夫に任命した。

【参照】王連 / 五梁 / 諸葛亮 / 秦宓 / 任安 / 曹丕 / 楊洪 / 李劭 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 梓潼郡 / 涪県 / 諫議大夫 / 功曹従事 / 従事 / 主簿 / 丞相 / 別駕従事 / 牧

周羣Zhou Qun

シュウグン
(シウグン)

(?〜?)
蜀儒林校尉・茂才

字は仲直。巴西郡閬中の人。

父周舒は図讖術(予知)を学んで董扶・任安に次ぐ名声を得たが、たびたびの招聘には応えなかった。周舒は「当塗高」とは漢に代わって魏が興ることだと予言している。周羣は幼くして父から図讖術を学んだ。自邸の庭に櫓を建てて奴僕たちに天空の異変を観察させ、周羣も朝晩構わず異変の察知に熱中したので、彼の予言の多くが的中した。益州牧劉璋は彼を召し出して師友従事とした。

建安七年(二〇二)に男が女に変わるという事件があったが、周羣は前漢哀帝のときにも同じ事があり、それを王朝が交替する兆しだと述べた。同十二年(二〇七)十二月には彗星が現れて星座の「鶉尾」に入ると、これは荊州牧劉表が死亡する前兆だと予測した。さらに同十七年(二一二)十二月にも「五諸侯」に彗星が出ると、西方の君主はみな領土を失うだろうと予言した。これらはいずれも的中し、後漢献帝は帝位を曹丕に奪われ、劉表は彗星出現の翌年に没し、西方の劉璋・韓遂・張魯・宋建はいずれも滅ぼされた。

のち劉備が益州を平定すると彼を儒林校尉に任命した。劉備は曹操から漢中を奪取したいと考えて周羣に問うた。周羣は「土地を手に入れても住民は手に入らないでしょう。また一部隊しか出さないなら必ず負けます」と答えた。また益州後部司馬張裕も予言術に秀でていたが、やはり漢中攻略に失敗すると述べた。劉備は二人の言葉に従わず、将軍呉蘭・雷銅を武都方面に進出させたが、彼らは漢中に進出したものの全滅して帰還しなかった。周羣は茂才に推挙された。

【参照】哀帝 / 韓遂 / 呉蘭 / 周舒 / 任安 / 宋建 / 曹丕 / 張裕 / 張魯 / 董扶 / 雷銅 / 劉協(献帝) / 劉璋 / 劉備 / 劉表 / 益州 / 漢中郡 / 魏 / 荊州 / 巴西郡 / 武都郡 / 閬中県 / 後部司馬 / 師友従事 / 儒林校尉 / 牧 / 茂才 / 五諸侯 / 鶉尾 / 彗星 / 当塗高 / 図讖術

杜瓊Du Qiong

トケイ

(?〜250)
蜀太常

字は伯瑜。蜀郡成都の人。

若くして任安より図讖術(予知)を学んだ。益州牧劉璋に召し出されて従事に任じられる。劉備が益州を支配すると議曹従事となり、劉禅が即位すると諫議大夫に任じられ、そこから左中郎将、大鴻臚、太常と昇進していった。

杜瓊は控えめで口数少なく、世間のことには関わろうとしなかった。蔣琬・費禕は彼の才能を高く評価した。しかし天文を調べて未来を予知するようなことは全くしなかった。譙周が理由を尋ねると、杜瓊「この術は非常に難しく、昼夜通して激しく観察をしなければならない。しかも予言が人に漏れると災いを招いてしまう。だから知らない方がましだ」、譙周「周舒はどういう根拠で『当塗高』を魏と解したのでしょうか」、杜瓊「魏とは城の門のことだから、塗(みち)に当たりて高し、とは魏のこととわかる。昔は官職を『曹』とは呼ばなかったが、漢の時代になって役人を属曹(曹に属す)、その部下を侍曹(曹にはべる)と言うようになった。これが天の意志である」。

延煕十三年(二五〇)、八十余歳で亡くなった。『韓詩章句』を著したが子供たちには伝授せず、図讖術を継承する者はいなくなった。

譙周は杜瓊の言葉を参考にして「先帝陛下の諱の『備』は完結するという意味だし、今上陛下の諱の『禅』は授けるという意味だ。この名付け方は縁起の悪いことだ」と述べて、蜀漢が長く続かないことを予測した。

【参照】周舒 / 蔣琬 / 譙周 / 任安 / 費禕 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 魏 / 蜀(蜀漢) / 蜀郡 / 成都県 / 諫議大夫 / 議曹従事 / 左中郎将 / 従事 / 大鴻臚 / 太常 / 牧 / 韓詩章句 / 当塗高 / 図讖術

許慈Xu Ci

キョジ

(?〜?)
蜀大長秋

字は仁篤。

劉煕に師事して鄭玄流の学問を修め、『易』『尚書』『三礼』『毛詩』『論語』を学び、建安年間に許靖に従って交州から益州に入った。また当時、益州には魏郡出身の胡潜という者がいた。劉備が益州を平定したとき、長いあいだの動乱によって学問が衰退していたので、許慈と胡潜を学士に任命して、また孟光・来敏らとともに古典の学問を復興させようとした。ところが許慈と胡潜のあいだに次々と異論が巻き起こり、そのたび二人は相手の主張を押さえ込んで自説を主張し、互いに非難したり激怒して張り合った。また書物の貸し借りもしようとせず、時には鞭を振って相手を脅したりする有様で、二人の我を通して相手を嫉妬する態度は極めてひどい様子だった。

劉備は呆れはて、二人を教え諭そうと考え、宴会を催したとき音楽が演奏され始めると、俳優に二人の格好を真似させて争う様子を演じさせた。はじめ俳優たちは言葉を使って相手を罵り合っていたが、しまいには刀や棒を持ち出して相手を押さえ付けようとした。こうして許慈と胡潜は反省した。

胡潜は先に亡くなり、許慈は劉禅の時代に出世して大長秋にまでなった。

【参照】許靖 / 胡潜 / 鄭玄 / 孟光 / 来敏 / 劉煕 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 魏郡 / 交州 / 学士 / 大長秋 / 易経(易) / 三礼 / 尚書 / 毛詩 / 論語 / 俳優

孟光Meng Guang

モウコウ
(マウクワウ)

(?〜?)
蜀大司農

字は孝裕。河南郡洛陽の人。後漢の大尉孟郁の一族である。

後漢霊帝の時代に講部吏となり、董卓が献帝を拘束して長安に都を移したとき益州に逃亡した。益州牧劉焉・劉璋父子は彼を賓客としてもてなした。孟光は博学で古代の知識に明るく、あらゆる書物を読破していたが、とくに『史記』『漢書』『東観漢記』の研究に打ち込んで、漢王朝の古い制度に詳しかった。また『公羊春秋』を尊んで『春秋左氏伝』を批判し、来敏とその解釈の議論になると大声を上げながら相手を批判した。

劉備が益州を平定すると議郎に任命され、許慈らとともに宮中儀礼の復活の作業にあたった。劉禅が即位すると符節令・屯騎校尉・長楽少府となり、また大司農に昇進した。

延煕九年(二四六)、大赦令が出されることになった。孟光は人々の眼前で大将軍費禕を批判して述べるに「恩赦というのは止むを得ない場合に限るべきものです。いま陛下は慈悲深く聡明な方で、百官は職務に相応しい働きをしておりますのに、なぜ理由もなく悪人たちに恩恵を与えるのでしょうか」と。費禕は恐縮して謝るばかりだった。孟光が人を批判するときはいつもこういった調子だったので、朝廷の人々はみな孟光を憎み、彼を昇進させようとしなかった。

郤正が学問上の質問をするため孟光の邸を訪れると、孟光は尋ねて言うに「皇太子(劉璿)のお人柄はどうかね」、郤正「父帝には孝行を尽し、群臣には仁愛をもって接しておられます」、孟光「それは世間なみのことだ。わしが聞きたいのは権謀才智のことだ」、郤正「お世継ぎというものは父の意志に従うべきで自分勝手なことはできません。才智は胸に秘めておくべきで外に顕わすものではありません。どうして優劣を知ることができましょう」、孟光「わしは直言を好んで遠慮容赦せず人の欠点をあげつらっているから、君はわしを快く思っていないようだが、言葉にはそれを言うだけの根拠があるものだ。乱れた天下に必要になるのは第一に英知であろう。それは天賦の才能でもあるが、努力によって獲得することもできる。皇太子に授ける学問というのは、人が質問するのを待って問題に答えたり、それによって出世を求めるような学問であって良いものか。もっと大切なことを努力すべきではないだろうか」。郤正は孟光の言葉を心から正しいと考えた。

のち孟光は事件に連座して罷免され、九十歳余りで亡くなった。

【参照】許慈 / 郤正 / 董卓 / 費禕 / 孟郁 / 来敏 / 劉焉 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 劉璋 / 劉璿 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 河南尹 / 長安県 / 洛陽県 / 議郎 / 講部吏 / 大尉 / 大司農 / 大将軍 / 長楽少府 / 屯騎校尉 / 符節令 / 牧 / 漢書 / 史記 / 東観漢記 / 公羊春秋 / 春秋左氏伝 / 大赦令

来敏Lai Min

ライビン

(?〜?)
蜀執慎将軍

字は敬達。義陽郡新野県の人。来歙の末裔で、漢の司空来豔の子である。

天下に大乱が起こると姉とともに荊州に逃れた。姉の夫黄琬が益州牧劉璋の祖母の甥だったので、姉弟は劉璋に引き取られた。来敏は書物を広く読み漁って『左氏春秋』に通じ、『三倉』『広雅』の訓詁学に詳しくして校正を好んだ。

劉備が蜀を支配すると典学校尉となり、のち劉禅の太子家令に任じられた。劉禅が即位すると虎賁中郎将に昇進する。諸葛亮とともに漢中に駐留したが、「新入りにどんな手柄や徳行があって私の地位を取り上げて彼らに与えようというのですか。人々はみな私を憎んでいるようですが、なぜそんな態度を取るのでしょうか」と恨み言を言ったため罷免された。諸葛亮の死後、大長秋に再登用されたが、また免職となった。のち光禄大夫に取り立てられたが、またも過失を犯して官職を没収された。

こうしてたびたび免職されたのは、彼の言葉に節度がなく、行動が常軌を逸していたからである。同じころ孟光も人々の逆鱗に触れる言葉を吐いたが、来敏は一層ひどかった。しかし二人とも年老いた大学者として世間から大事にされており、しかも来敏は名家出身であったうえ劉禅の皇太子時代からの臣下であったので格別優遇を受けたのである。

のちに執慎将軍に任命され、景耀年間に九十七歳で亡くなった。

【参照】黄琬 / 諸葛亮 / 孟光 / 来豔 / 来歙 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 漢中郡 / 義陽郡 / 荊州 / 蜀 / 新野県 / 光禄大夫 / 虎賁中郎将 / 司空 / 執慎将軍 / 太子家令 / 大長秋 / 典学校尉 / 牧 / 訓詁学 / 広雅 / 三倉 / 春秋左氏伝(左氏春秋)

尹黙Yin Mo

インモク
(ヰンモク)

(?〜?)
蜀太中大夫

字は思潜。梓潼郡涪の人。

益州では今文学が主流で字句の正確な読みを重視しなかったが、尹黙は荊州に遊学して司馬徽・宋忠に師事して古文学を修めた。あらゆる経書・史書に通暁し、『左氏春秋』を厳密に研究し、劉歆の条例を初め、鄭衆・賈徽賈逵父子・陳元・服虔の注説にいたるまで、ほとんど全てを暗唱したので二度書物を開く必要がなかった。

劉備が益州牧となると彼を勧学従事に任命した。のち劉禅が太子に立てられると太子僕に就任して、劉禅に『左氏春秋』の教育を授ける。劉禅が帝位に上ると諫議大夫に昇進。丞相諸葛亮が漢中に駐屯したとき、呼ばれて軍の祭酒とされた。諸葛亮が陣没すると成都に帰って太中大夫に任命され、やがて亡くなった。

【参照】賈逵 / 賈徽 / 司馬徽 / 諸葛亮 / 宋忠 / 陳元 / 鄭衆 / 服虔 / 劉歆 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 漢中郡 / 荊州 / 梓潼郡 / 成都県 / 涪県 / 勧学従事 / 諫議大夫 / 祭酒 / 丞相 / 太子僕 / 太中大夫 / 牧 / 春秋左氏伝(左氏春秋) / 今文学 / 古文学

李譔Li Zhuan

リセン

(?〜?)
蜀右中郎将・太子僕

字は欽仲。梓潼郡涪の人。

父李仁は尹黙とともに荊州に遊学して司馬徽・宋忠に学んだ。李譔は父の学問を継承し、また尹黙に師事して書物の説く道理の研究にあたり、五経・諸子百家を全て読了したうえ、算術・卜筮・医薬・弩・ばね仕掛けのからくりにいたるまで全てにわたって思索を及ぼした。

はじめ益州書佐・尚書令史となり、延煕元年(二三八)、劉璿が皇太子に立てられると太子庶子となり、のち太子僕に昇進。さらに中散大夫や右中郎将に転じたが、引き続き皇太子のお付きを勤めた。太子は李譔の該博な知識を愛し、大変なお気に入りであった。しかし李譔は軽薄な性格で、ふざけてばかりいたので世間の人々は彼を尊敬しなかった。

古文学の『易』『尚書』『毛詩』『三礼』『左氏春秋』『太玄指帰』について著述したが、いずれも賈逵・馬融の説を採り、鄭玄の説とは異なっていた。魏の王粛とは離れた土地に住み、互いの著作を見ていなかったが学問的主張には共通点が多い。李譔は景耀年間に亡くなった。

【参照】尹黙 / 王粛 / 賈逵 / 司馬徽 / 宋忠 / 鄭玄 / 馬融 / 李仁 / 劉璿 / 益州 / 魏 / 荊州 / 梓潼郡 / 涪県 / 右中郎将 / 尚書令史 / 書佐 / 太子庶子 / 太子僕 / 中散大夫 / 易経(易) / 五経 / 三礼 / 春秋左氏伝(左氏春秋) / 尚書 / 諸子百家 / 太玄指帰 / 毛詩 / 医薬 / 機械之巧(ばね仕掛けのからくり) / 弓弩 / 算術 / 卜数(卜筮)

譙周Qiao Zhou

ショウシュウ
(セウシウ)

(199?〜270)
蜀光禄大夫
晋騎都尉・陽城亭侯

字は允南。巴西郡西充国の人。

父譙栄始は『尚書』を学び、もろもろの経典や図讖術に通じていた。州郡より招聘されたが出仕しなかったので、州は彼の邸まで出向して師友従事の官を授けた。彼が亡くなったとき譙周はまだ幼かったが、成長してから古代を愛好して学問に打ち込み、書物を朗読しては笑顔を浮かべ、寝食を忘れるほどだった。六経を詳細に研究し、とくに書簡に巧みで、さらに天文学にも明るかった。ただ諸子百家には興味を持たず全ては目を通さなかった。身の丈は八尺もあり、容貌や性格は素朴で飾り気がなく、とっさの質問に答えるような機転は持たなかったが、優れた見識を秘めて頭脳は明晰であった。

建興年間に丞相諸葛亮が益州牧を兼任したとき勧学従事に任じられた。諸葛亮が敵地で陣没したと聞くと、家にいた譙周は急いで出かけていった。外出禁止の命令が出たときには既に城を出ていたので、諸葛亮の陣所に行き着くことができた。大将軍蔣琬が益州刺史を兼ねたとき典学従事に転任した。

延煕元年(二三八)、劉璿が皇太子に立てられると太子僕となり、のち太子家令に転任。劉禅はしばしば遊覧に出かけ、また宮中の歌手・楽員を増やした。譙周は諫めて言った。「むかし王莽が失敗したとき次々と豪傑たちが州郡を占拠しました。しかし更始帝・公孫述らは広大な勢力を持ちながら、遊猟飲食にふけって民衆をいたわらなかったため滅ぼされました。いま天下は三つに分かれており歓楽を尽す時期ではありません」と。皇太子のお付きのまま中散大夫に転任した。

当時はたびたび軍勢が動員されて民衆は疲弊していた。しばしば尚書令陳祗と話し合い、自分の主張を『仇国論』にまとめて述べた。「因余国(蜀をさす)は弱小、肇建国(魏をさす)は強大だったが互いに宿敵同士でした。因余国の高賢卿は伏愚子に質問して『過去、弱国が強国に勝った例では、どのような方法だったのか』と言いますと、伏愚子『強大な者は必ず奢り、弱小な者は必ず善を思うものです。周文王や越王勾践が前例です』、高賢卿『むかし項羽と劉邦が争ったとき、張良は積極的に戦わなければ天下が項羽の物になってしまうと主張した。いま肇建国は弱点があるから攻撃しようと思うのだが』、伏愚子『周文王の時代は安定していて民衆は変化を求めませんでしたが、劉邦の時代には始皇帝が天下を混乱させたばかりで月ごとに君主が変わるような有様でした。いま因余国と肇建国は長く対立状態にありますので、周文王の方法に倣うことはできても劉邦の方法は通用しないでしょう』」。

のち光禄大夫に昇進した。 譙周は職務に携わるようなことはなかったが、学識・品行によって礼遇され、大事が発生して意見を求められると経典に基づいた応答をした。また若い学生で意欲ある者はみな彼に質問した。

景耀六年(二六三)、魏の大将軍鄧艾が侵入してくると、人々は甘い見通しを立てて防備を怠ったが、鄧艾が陰平まで進出したと聞くと大騒動となった。群臣のうちある者は皇帝劉禅を呉に逃れるよう薦め、またある者は南方の要害に籠るべきだと言上した。ただ譙周だけは「呉の臣下となる恥辱を受けたうえ重ねて魏に臣従するよりは、初めから魏に屈服する方がましです。南方に逃れるのであれば早く準備をするべきでしたが、今になって動こうとすれば混乱した人々が何をしでかすか予測できません」と主張し、誰も反論できなかった。こうして劉禅は魏に降伏した。

魏の相国司馬昭は彼の功績を称えて陽城亭侯に封じ、中央に呼び寄せた。しかし漢中まで進んだところで譙周は発病してしまった。そのとき「典午(馬を司る役人)は忽として月酉(酉の月)に没す」と司馬昭の死を予言した。はたせるかな司馬昭が没し、跡を継いだ司馬炎が晋を興して帝位に上った。司馬炎は詔勅を下して譙周の上洛の便を手配させた。泰始三年(二六七)、洛陽に到着した。騎都尉に任ずる旨の辞令を受けたが、功績なく封地を与えられたので封地と爵位を返上したいと申し入れ、聴き入れられなかった。同六年秋、散騎常侍に指名されたが重病のため拝受せず、冬にいたって亡くなった。

譙周による著述・撰定は『法訓』『五経論』『古史考』など百篇余りに上る。

【参照】越王勾践 / 王莽 / 項羽 / 更始帝 / 公孫述 / 始皇帝 / 司馬炎 / 司馬昭 / 周文王 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 譙栄始 / 張良 / 陳祗 / 鄧艾 / 劉璿 / 劉禅 / 劉邦 / 陰平郡 / 益州 / 漢中郡 / 魏 / 呉 / 晋 / 西充国県 / 巴西郡 / 陽城亭 / 洛陽県 / 勧学従事 / 騎都尉 / 光禄大夫 / 散騎常侍 / 刺史 / 師友従事 / 相国 / 丞相 / 尚書令 / 太子家令 / 太子僕 / 大将軍 / 中散大夫 / 亭侯 / 典学従事 / 牧 / 仇国論 / 五経論 / 古史考 / 尚書 / 諸子百家 / 法訓 / 六経 / 図讖術

郤正Xi Zheng

ゲキセイ

(?〜278)
蜀秘書令
晋巴西太守・関内侯

字は令先。河南郡偃師の人。

祖父郤倹は漢の霊帝の時代のすえ益州刺史であったが盗賊に殺害された。父郤揖は将軍孟達の営都督となったが孟達とともに魏に降っている。郤正は若くして父と死別し、母は再縁したので孤独であったが、貧しいながら学問に励み、広く古典を読破した。二十歳には巧みな文章を書けるようになり、宮廷に仕えて秘書吏となったのち秘書令史に移り、秘書郎、秘書令と昇進していった。司馬相如・王褒・揚雄・班固・傅毅・張衡・蔡邕らの文章や辞賦、現代の書簡・議論まで益州にあるものほとんどを研究考察した。利益や名誉には無関心で、宦官黄皓とは邸が隣同士だったが、気に入られることも憎まれることもなかった。

『釈譏』という対話形式の文章を書いて、人々の批判に弁明して曰く「ある人が問うに『あなたは才能があるのに発揮しようとせず時折陛下に意見するだけだ。それなら安楽な道を歩んで我々に利益をもたらしてくれまいか』。私は答えて『私は愚か者ながら陛下のお役に立てばと思い意見いたしますが、その意見が聡明な君主と一致すれば名誉に思いますし、一致しなければ愚かな意見を引っ込めるだけのことです。得ることも失うこともないのですから何も心配していません。それで才能を発揮してないよう見えたのでしょう。優れた人物は山のようにいらっしゃるのですから、私は運命に身を任せて無欲の生活を楽しみたいと思っております』」と。

景耀六年(二六三)に皇帝劉禅が魏に降伏したとき、魏の鄧艾に提出した降伏文書は郤正が書いたものである。劉禅が上洛したとき、魏の鍾会の叛乱したため郤正と張通の二人しか随行できなかった。そのとき郤正の補佐が適切だったので、劉禅は溜息をついて彼を早く認めるべきだったと悔やんだ。魏の人々は郤正を称え、彼は関内侯に封じられた。泰始年間に安陽県令となり、巴西太守に昇進した。咸寧四年(二七八)に亡くなった。

【参照】王褒 / 郤倹 / 郤揖 / 黄皓 / 蔡邕 / 司馬相如 / 鍾会 / 張衡 / 張通 / 鄧艾 / 班固 / 傅毅 / 孟達 / 揚雄 / 劉宏(霊帝) / 劉禅 / 安陽県 / 益州 / 匽師県(偃師県) / 河南尹 / 魏 / 巴西郡 / 洛陽県 / 営都督 / 関内侯 / 県令 / 刺史 / 将軍 / 太守 / 秘書吏 / 秘書令 / 秘書令史 / 秘書郎 / 釈譏 / 宦官