三国志人名事典 呉志10

程普Cheng Pu

テイフ

(?〜?)
漢盪寇将軍・領江夏太守

字は徳謀。右北平土垠の人。

はじめ州郡の役人となって容貌と計略を知られ、人物の応対がよかった。孫堅に付き従って宛城・鄧城の黄巾賊を討伐し、陽人では董卓軍を撃破した。攻城のときも野戦のときも体中に傷だらけになった。

孫堅が薨じると、また孫策とともに淮南に行き、付き従って廬江を攻め落とし、帰還したのち、また長江を東に渡った。孫策は横江・当利に到達して張英・于麋らを破り、転進して秣陵・湖孰・句陽・曲阿を陥落させたが、程普はどの戦いでも功績を挙げ、兵士二千人・騎馬五十匹を加増された。さらに進撃して烏程・石木・波門・陵伝・余杭を撃破したが、程普の武功は多大であった。

孫策が会稽に入部すると、程普は呉郡都尉となって銭唐で政務を執った。のちに丹陽都尉となって石城に居住し、また宣城・涇・安呉・陵陽・春穀の賊徒どもを全て撃破した。孫策はかつて祖郎を攻撃したとき、大勢に包囲されたことがあった。程普は供の一騎と一緒に孫策を守り、馬を駆って大声で叫び、矛で賊どもを突き殺した。賊どもが道を開けたので孫策は脱出することができた。のちに盪寇中郎将となり零陵太守を領した。尋陽での劉勲討伐に従軍し、進撃して沙羨で黄祖を攻め、帰還して石城を固めた。

孫策が薨じると、張昭らとともに孫権を補佐し、三つの郡を走り回って不服従民を討伐した。さらに江夏郡征討に従軍し、その帰還の途上、予章まで来たところで別働隊として楽安を討伐する。楽安が平定されると太史慈と交替して海昬を守備した。

周瑜とともに左右の督となり、烏林で曹操軍を撃破し、さらに南郡に進攻して曹仁を敗走させた。裨将軍の官職を授かり、江夏太守を領して沙羨で統治した。四つの県を食邑として賜った。

はじめ出仕した諸将のなかでも程普は最年長だったので、当時の人々はみな彼を「程公」と呼んでいた。施しを好む性質で、士大夫を喜んで待遇した。周瑜が卒去すると彼に代わって南郡太守を領したが、孫権が荊州を劉備と分かち合うことになると、また戻って江夏を領することになった。盪寇将軍に昇進したが、ある日、叛逆者数百人を焼き殺させたことがあり、その日のうちに癩病にかかり、百日あまりして卒去した。

孫権は帝号を称えると、さかのぼって程普を論功行賞し、彼の子程咨を亭侯に封じた。

【参照】于麋 / 黄祖 / 周瑜 / 祖郎 / 曹仁 / 曹操 / 孫堅 / 孫権 / 孫策 / 太史慈 / 張英 / 張昭 / 程咨 / 董卓 / 劉勲 / 劉備 / 安呉県 / 烏程県 / 右北平郡 / 烏林 / 宛県 / 横江 / 会稽郡 / 海昬県 / 曲阿県 / 涇県 / 呉郡 / 荊州 / 江夏郡 / 句陽県 / 湖孰県 / 沙羨県 / 春穀県 / 尋陽県 / 石木 / 石城県 / 宣城 / 銭唐県 / 丹楊郡(丹陽郡) / 長江 / 鄧城 / 当利 / 土垠県 / 南郡 / 波門 / 秣陵県 / 陽人城 / 余杭県 / 予章郡 / 楽安 / 陵伝 / 陵陽 / 零陵郡 / 廬江郡 / 淮南郡 / 太守 / 都尉 / 盪寇将軍 / 盪寇中郎将 / 督 / 裨将軍 / 黄巾賊 / 癩病

黄蓋Huang Gai

コウガイ
(クワウガイ)

(?〜?)
漢偏将軍・武陵太守

字は公覆。零陵郡泉陵の人。

黄蓋は幼くして父を失い、艱難辛苦をなめ尽くしたが、勇壮な大志を抱き、貧しいからといって凡庸な人々に同調しようとはしなかった。薪取りのあいまにも書を学び、おおまかに軍事を研究した。郡役人となって孝廉に推挙され、三公の役所に招かれた。

孫堅が義兵を起こすと黄蓋は彼に付き従い、孫堅が南進して山賊を撃破し、北進して董卓を敗走させると、黄蓋は別部司馬に任命された。孫堅が薨じると、黄蓋は孫策および孫権に付き従った。甲冑を身にまとって駆け回り、白刃を踏み越え城をほふった。

山越どもは無礼な態度を取っていたが、侵害を受けている県があれば、いつも黄蓋が用いられて県長になった。石城県の役人は(好き勝手なことをしており)検察・制御するのが特に困難であった。そこで黄蓋は二人の掾を任命して、諸曹(各部署)を分割して担当させ、命令書を与えて「令長(ちじ)は不徳であり、ただ武功によって官職に就いたが、文官として評価されたことがない。いま賊徒は平定されていないため(わたしには)軍務がある。そこで命令書を発行して二人の掾に検察を担当させるのである。もし不正行為があれば鞭打ちや棒叩きでは済まさないぞ」と言い渡していた。

はじめはみな威風を恐れ、朝も夕も慎み深く職務にあたっていたが、しばらくすると、黄蓋が文書に目を通していなかったので、次第しだいに私事に寛容になってしまった。黄蓋は職務怠慢の様子が現れてきたのを憎み、二人の掾が法律をないがしろにしているいくつかの事実を知った。そこで役人たちを全て集めて酒食を賜り、そのとき事実を示して詰問すると、二人の掾は土下座して謝罪した。黄蓋は「以前、鞭打ちや棒叩きでは済まさないと言ったはずだ」と言って彼らを死刑にした。県内の人々は震えおののいた。

のちに春穀県長・尋陽県令などに昇進し、およそ九つの県を守護したが、至るところで平定された。丹陽都尉に転任すると、強い者を押さえて弱い者を助けたので、山越どもも彼に懐いて帰属した。黄蓋の姿形は厳格・豪毅であったが、民衆をよくよく養育し、征討することになると、士卒たちはみな先を争って戦った。

建安年間(一九六〜二二〇)、周瑜に随従して赤壁で曹操を防いだとき、黄蓋は火攻めすることを進言した。この戦役で黄蓋は流れ矢にあたって川に落ちた。呉軍の兵士が彼を拾い上げたが、それを黄蓋であるとは知らず廁の中にほうって置いた。当時は寒い季節だったが、黄蓋は自分を励まして一声出して韓当を呼んだ。韓当はそれを聞いて「あれは公覆(黄蓋)の声だ」と言い、彼を見付けると涙を流しながら彼の衣服を取り替えた。こうして黄蓋は一命を取りとめた。

黄蓋は武鋒中郎将に任じられる。武陵蛮が反乱を起こし、城邑を攻め落としてそこに楯籠ったので、黄蓋は武陵太守を領することになった。当時、郡兵は五百人しかおらず、黄蓋は敵対することはできないと考えて城門を開き、賊徒が半分入ったところで攻撃し、数百人の首を斬った。敵は全員逃走して部落に帰って行った。黄蓋は首魁だけを誅殺し、彼らに従っていただけの者は赦免した。春から夏にかけて反乱者はことごとく平定された。辺境の巴・醴・由・誕などの酋長たちは、みな態度を変え、うやうやしく拝謁を求めてきた。郡境はこうして清らかになった。

のちに長沙郡益陽県が山賊に攻められると、黄蓋はまたもや征討して平定した。偏将軍の官職を加えられたが、在官のまま病卒した。黄蓋は職務にあたって、案件を決断して滞らせることはなかった。国の人々は彼を思慕し、黄蓋の姿を絵に描いて、季節ごとに祭祀を行った。孫権は践祚すると、黄蓋の功績をさかのぼって論功行賞し、彼の子黄柄に関内侯の爵位を賜った。

【参照】韓当 / 黄柄 / 周瑜 / 曹操 / 孫堅 / 孫権 / 孫策 / 董卓 / 益陽県 / 呉 / 春穀県 / 尋陽県 / 石城県 / 赤壁 / 泉陵県 / 澹水(誕) / 丹楊郡(丹陽郡) / 長沙郡 / 巴陵(巴) / 武陵郡 / 油水(由) / 零陵郡 / 醴陵(醴) / 掾 / 関内侯 / 県長 / 県令 / 孝廉 / 三公 / 太守 / 都尉 / 武鋒中郎将 / 別部司馬 / 偏将軍 / 山越 / 曹 / 武陵蛮 / 府(役所) / 領

韓当Han Dang

カントウ
(カンタウ)

(?〜226)
呉都督・昭武将軍・領冠軍太守・石城侯

字は義公。遼西郡令支の人。

弓馬の巧みさ、膂力の強さによって孫堅に寵愛され、征伐に従軍して駆けずりまわった。しばしば危険を冒して敵陣を陥落させたり捕虜を手に入れたりして、別部司馬になった。韓当は勤勉労苦を重ねて功績を立てたが、軍旅の従僕として英傑たちに囲まれていたため爵位を与えられず、別部司馬になれたのは孫堅時代の末期であった。

孫策が長江を渡って三郡(丹楊・呉郡・会稽)を討伐したとき、先登校尉に昇進して兵士二千人・騎馬五十匹を授けられた。劉勲征討に従軍して黄祖を撃破し、帰還してから鄱陽の賊徒を討伐した。楽安の県長を領すると山越どもは畏服した。

のちに中郎将として周瑜らとともに曹操を迎撃し、さらに呂蒙とともに南郡を奪取し、偏将軍・領永昌太守に昇進した。宜都の戦役(夷陵役)では、陸遜・朱然らとともに涿郷で蜀軍に攻撃をかけて彼らを大破、威烈将軍に転任して都亭侯に封ぜられた。曹真が南郡を攻撃したとき、韓当は東南の一郭を守った。遠方に出征したときは総帥として将兵を励まし、心を一つにして固守し、目付役を尊重して法令を遵守したので、孫権は彼を褒めていた。

黄武二年(二二三)、石城侯に封ぜられ、昭武将軍に昇進して冠軍太守を領した。のちに都督の号を付加され、敢死兵・解煩兵(精鋭部隊)一万人を統率した。五年、丹楊の賊徒を討伐して彼らを撃破したが、ちょうどそのころ病気で卒去した。

本伝では黄武二年の記事に続けて韓当の死に言及しているが、その後文に「その年、孫権は石陽を征討をした」とあり、『呉主伝』と比べると黄武五年にあたることがわかる。

【参照】黄祖 / 朱然 / 周瑜 / 曹真 / 曹操 / 孫堅 / 孫権 / 孫策 / 陸遜 / 劉勲 / 呂蒙 / 永昌郡 / 会稽郡 / 冠軍郡 / 宜都郡 / 呉郡 / 蜀 / 石城県 / 涿郷 / 丹楊郡 / 長江 / 南郡 / 鄱陽県 / 楽安県 / 遼西郡 / 令支県 / 威烈将軍 / 県長 / 侯 / 昭武将軍 / 先登校尉 / 太守 / 中郎将 / 都亭侯 / 都督 / 別部司馬 / 偏将軍 / 解煩兵 / 敢死兵 / 山越 / 督司(目付役) / 陪隷(従僕)

蔣欽Jiang Qin

ショウキン
(シヤウキン)

(?〜219)
漢盪寇将軍・右護軍

字は公奕。九江郡寿春の人。

孫策が袁術に身を寄せたとき、彼に随従して身の回りのことを取り仕切った。孫策が長江を渡ったとき、別部司馬を拝命して軍勢を授かった。周瑜とともに三郡(丹楊・呉郡・会稽)平定に駆けずりまわり、さらに予章平定に従軍した。葛陽県の県尉に任官されてから、三ヶ所の県長を歴任した。

盗賊を討ち平らげて会稽西部都尉に昇進した。東冶の賊徒呂合・秦狼らが反乱を起こすと、蔣欽は軍勢を率いて攻撃し、呂合・秦狼を生け捕りにした。五つの県が平定されたので討越中郎将に転任し、経・拘・昭陽を奉邑とされた。賀斉が黟の賊徒を討伐したとき、蔣欽は軍勢一万人を監督しつつ合流し、黟の賊徒どもは平定された。

合肥征討に従軍したとき、魏将張遼が逍遥津の北岸で孫権に襲撃をかけてきたが、蔣欽は奮戦して功績を立て、盪寇将軍・領濡須督に栄転した。のちに都へと召還されて右護軍に任命され、訴訟ごとを取り仕切った。

孫権はある時、彼の座敷に上がることがあったが、蔣欽の母は粗末な帳に縹色の着物、妻妾は麻布の下袴であった。孫権は彼が貴人でありながら節約を心がけていることに感心し、ただちに御蔵に命じ、母のために錦織の着物を作らせ、帳を交換させ、妻妾の衣服はみんな錦織や刺繍ものにしてしまった。

かつて蔣欽は宣城に駐屯していたが、予章の賊徒を討伐したとき、(彼の留守中に)蕪湖の県令徐盛が蔣欽の軍吏を逮捕し、斬首に処すべしと上奏したところ、蔣欽が遠方にいたため孫権が許可しなかったという事件があった。徐盛はそれ以来、蔣欽を警戒するようになった。曹操が濡須に進出すると、蔣欽が呂蒙とともに諸軍を統括することになり、徐盛はいつも、蔣欽が何かにかこつけて自分を殺すのではないかと恐怖していた。ところが蔣欽は事あるごとに彼の善良さを褒め称えた。徐盛は彼の恩徳に感服し、論者たちも賛美した。

孫権は蔣欽に言った。「徐盛は以前、卿のことで報告してきたが、卿はいま徐盛を推挙した。祁奚に倣うつもりかね?」蔣欽は答えた。「臣は聞いております。公務たる推挙では私怨を持ち出さず、と。徐盛は忠勤に励んで胆略があり、器量は一万人の総督に相応しいのです。いま大事業は完成しておらず、臣は国家をお助けして才能を求めるばかりであって、どうして私怨を持ち出して賢者を遠ざけましょうや」。

孫権が関羽を討伐したとき、蔣欽は水軍を監督して沔水から進入した。帰還する途中、病気のため卒去した。孫権は喪服を着けて哀悼を捧げ、蕪湖の住民二百戸、田二百頃を蔣欽の妻子に給付した。

【参照】袁術 / 賀斉 / 関羽 / 祁奚 / 周瑜 / 徐盛 / 秦狼 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 張遼 / 呂合 / 呂蒙 / 黟県 / 会稽郡 / 会稽西部 / 合肥侯国 / 葛陽県 / 魏 / 九江郡 / 経 / 呉郡 / 拘 / 濡須 / 寿春県 / 昭陽 / 逍遥津 / 宣城県 / 丹楊郡 / 長江 / 東冶 / 蕪湖県 / 沔水 / 予章郡 / 右護軍 / 県尉 / 県長 / 県令 / 都尉 / 討越中郎将 / 盪寇将軍 / 督 / 別部司馬 / 御府(御蔵)

周泰Zhou Tai

シュウタイ
(シウタイ)

(?〜?)
呉奮威将軍・漢中太守・陵陽侯

字は幼平。九江郡下蔡の人。

蔣欽とともに孫策に随従して左右の側近となり、仕事ぶりは慎ましやかであった。しばしば合戦で功績を立て、孫策が会稽に入ったとき別部司馬に任じられ、軍勢を授けられた。孫権は彼の人となりを愛し、自分で待遇したいと請願したのであった。

孫策が六県の山賊を討伐したとき、孫権は宣城に駐留することになったが、兵士たちに防衛を任せきりにし、千人足らずなのに心構えは粗略で、防壁の修築もしていなかった。突如、そこへ山賊数千人が押し寄せてきた。孫権がようよう馬に跨ったときにはもう、賊徒どもの矛先が左右で飛び交っている有様で、その中の一人が(孫権の)馬の鞍を斬りつけた程であった。

軍中でもよく自制心を保ちえた者はおらず、ただ周泰だけが身を投げ出して奮戦し、孫権を守護した。勇気は人一倍であり、左右の側近たちも周泰のおかげで戦闘に復帰することができた。賊徒どもが退散したころには、身体に十二ヶ所の傷を被っており、長い時間が経ってようやく蘇生した。この日、周泰がいなければ孫権はまず助からなかっただろう。孫策はいたく彼に感謝して、春穀の県長に補任した。

のちに皖城攻略および江夏征討に従軍し、凱旋途中で予章に差し掛かったとき、再び宜春の県長に補任された。いずれの任地でも現地の租税を食んだ。黄祖討伐に従軍して功績を立てている。のちに周瑜・程普とともに赤壁で曹操を防ぎ、南郡で曹仁を攻めた。荊州が平定されると、軍勢を率いて岑に駐屯した。

曹操が濡須に進出すると、周泰はまたもや攻撃に駆けつけ、曹操が撤退すると、そのまま駐留して濡須を監督することになり、平虜将軍を拝命した。このとき朱然・徐盛らがそろって部下に配属されたが、いずれも服従しようとしなかった。孫権は特別に軍中視察をしようと濡須塢に赴き、諸将を集めて盛大に宴会を催した。孫権は自ら酌をして回ったが、周泰の前まで来ると、彼に着物を脱ぐよう命じた。

彼の傷痕を指差しながら孫権が理由を訊ねると、周泰は一つ一つ、昔の戦闘を思い出しながら訳を話した。孫権は彼の腕を手にして涙を流した。「幼平どの、卿(あなた)は孤(わたし)たち兄弟のために熊か虎のように、肉体も生命も惜しまず戦ってくれた。数十ヶ所に傷を被り、皮膚はまるで彫刻のようだ。孤はどうして卿を骨肉の恩愛でもって待遇し、卿に兵馬の重任でもって委任したいと思わずにいられよう。卿は呉の功臣だ。孤は卿と栄誉も恥辱も同じくし、喜びも悲しみも等しくしたい。幼平どの、快く仕事に当たっていただきたい。寒門だからといって辞退することのないようにな」。

説明が終わると、(孫権は)また服を着させて夜が更けるまで酒を楽しんだ。ただちに勅命を発し、常用していた頭巾と、青い絹蓋を下賜した。宴が果てるや、馬に乗り、周泰には兵馬を率いて先導させ、門を出たところで太鼓や角笛を鳴らせて鼓吹とした。こうして、徐盛らは服従するようになった。

のちに関羽を打ち破ったとき、孫権は進撃して蜀を攻略しようと思っていたので、周泰を漢中太守・奮威将軍に任じ、陵陽侯に封じた。黄武年間(二二二〜二二九)、周泰は卒去した。

【参照】関羽 / 黄祖 / 朱然 / 周瑜 / 徐盛 / 蔣欽 / 曹仁 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 程普 / 会稽郡 / 下蔡県 / 晥県(皖県) / 漢中郡 / 宜春県 / 九江郡 / 荊州 / 呉 / 江夏郡 / 濡須 / 春穀県 / 蜀 / 岑 / 赤壁 / 宣城県 / 南郡 / 予章郡 / 六県 / 陵陽 / 県長 / 侯 / 太守 / 奮威将軍 / 平虜将軍 / 別部司馬 / 御幘(頭巾) / 縑蓋(絹蓋)

陳武Chen Wu

チンブ

(?〜215)
漢偏将軍

字は子烈。廬江郡松滋の人。

孫策が寿春にいたとき、陳武は彼のもとに赴いて拝謁したが、当時十八歳でありながら身の丈は七尺七寸もあった。従軍して長江を渡り、征討で功績を立てて別部司馬に任じられる。孫策は、劉勲を破って多くの廬江人民を手に入れたので、その精鋭を選りすぐって陳武をその督にしたが、向かうところ敵なしであった。

孫権が事業を統括するようになると督五校へ異動になった。仁慈に厚く施しを好んだため、郷里や遠方から数多くの客人が彼に身を寄せた。最も孫権の寵愛を蒙り、(孫権は)しばしば陳武の家族を訪ねることがあった。たびたび功労を重ねて官位は偏将軍まで昇った。

建安二十年(二一五)の合肥攻撃に従軍したが、生命を投げ出して奮戦したすえ、討死した。孫権は彼を哀れみ、自ら葬儀に列席し、陳武の愛妾たちを殉死させた。

【参照】孫権 / 孫策 / 劉勲 / 合肥侯国 / 寿春県 / 松滋県 / 長江 / 廬江郡 / 督 / 督五校 / 別部司馬 / 偏将軍 / 五校

董襲Dong Xi

トウシュウ
(トウシフ)

(?〜212?)
漢偏将軍

字は元代。会稽郡余姚の人。

董襲は身の丈が八尺もあり、武力は人並み外れていた。孫策が会稽郡に入ったとき、董襲は高遷亭で出迎えた。孫策は彼を見て偉丈夫だと思い、門下賊曹に任命した。そのころ山陰では、かねてより賊徒の黄龍羅・周勃が数千人の徒党を集めており、孫策は自ら討伐に出かけた。董襲はその手で黄龍羅・周勃の首を斬り、帰国すると別部司馬に任じられ、兵士数千人を授かった。のちに揚武都尉に昇進し、孫策の皖城攻略、尋陽における劉勲討伐、江夏における黄祖征伐に従軍した。

孫策が薨去すると、孫権が年少ながらに事業を統括してゆくことになった。太妃(孫権の母)はそれを危惧して、張昭および董襲らを引見し、江東を保ち得るかどうかを下問した。董襲は答えた。「江東の地勢は山川の堅固さを有しておるうえ、討逆明府(孫策)さまの恩徳は民衆に行き渡り、討虜(孫権)さまが基礎を継承され、大人も小者もご命令を奉っております。張昭どのがもろもろの事務を受け持ち、董襲らが爪牙となるのですから、これぞ地が利し、人が和すときであって、万事憂いないのであります」。人々はみな彼の言葉を勇壮に感じた。

鄱陽の賊徒彭虎らが数万人を集めていた。董襲は淩統・歩騭・蔣欽とともに、おのおの手分けして討伐に当たった。董襲が向かった先ではあっさり打ち破られたので、彭虎らは(董襲の)旌旗が遠くに見えただけですぐさま逃げ散り、十日ほどですっかり平定された。董襲は威越校尉を拝命し、(のちに)偏将軍に昇進した。

建安十三年(二〇八)、孫権は黄祖を討伐した。黄祖は二艘の蒙衝を横に並べ、沔口を両側から挟むようにして守った。しゅろの大綱を石に繋いで錨とし、船上にいる兵千人が代わる代わる弩を発射すると、飛来する矢は雨のように降り注ぎ、孫権の軍勢は前進することができなかった。董襲は淩統とともに先鋒となり、おのおの敢死兵百人を率い、(敢死兵の)人々には鎧を重ね着して大舸船に乗り込ませ、(黄祖軍の)蒙衝と蒙衝の隙間に突入した。

董襲がその手に持った刀で両側の綱を切断すると、蒙衝はでたらめに流れだし、(孫権の)大軍はそのまま進撃した。黄祖はすぐさま城門を開いて逃走したが、兵士が追跡して斬って捨てた。翌日、大宴会が催されたが、孫権は盃を董襲に捧げながら言った。「今日の宴会は、綱を切断した功績があればこそだ!」

曹操が濡須に進出すると、董襲は孫権に随従して駆けつけた。(孫権は)董襲に五隻の楼船を監督させ、濡須口に駐留させた。夜中に突然、暴風が吹いて五隻の楼船は横転した。左右の側近は走舸を切り離し、董襲に脱出するよう請願した。董襲が怒りながら「将軍の任務を受けてここで賊軍に備えておるのだ。どうして投げ出して逃げることができよう!あえてまた言う者があれば斬るぞ」と言うと、彼にあえて逆らおうとする者はなかった。その夜、船は崩壊し、董襲は死んだ。孫権は喪服に着替えて葬儀に参列した。

【参照】呉夫人(太妃) / 黄祖 / 黄龍羅 / 周勃 / 蔣欽 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 張昭 / 歩騭 / 彭虎 / 劉勲 / 淩統 / 会稽郡 / 晥県(皖県) / 江夏郡 / 高遷亭 / 江東 / 山陰県 / 濡須 / 濡須口 / 尋陽県 / 鄱陽県 / 沔口 / 余姚県 / 威越校尉 / 討逆将軍(討逆明府) / 討虜将軍 / 別部司馬 / 偏将軍 / 門下賊曹 / 揚武都尉 / 敢死兵 / 前部(先鋒) / 走舸 / 大舸船 / 蒙衝 / 楼船

甘寧Gan Ning

カンネイ

(?〜215)
漢折衝将軍・西陵太守

字は興霸。巴郡臨江の人。祖先は南陽の人であったが巴郡に旅住まいしたのである。

甘寧は役人となって計掾に推挙され、蜀郡の郡丞に任じられたが、しばらくして官職を棄てて家に帰った。若いころから気力にあふれて遊侠を好み、軽薄な少年たちを集めて彼らの渠帥(親分)になっていた。この連中は手に手に弓弩を持って群れ集い、背中に羽根飾りを腰に鈴を付けたので、人々は鈴の音を聞いただけで甘寧だと分かった。

任侠気取りで人を殺したり、逃亡者をかくまったりして郡中に名を知られ、出入りの際、陸路なら車騎を並べ、水上なら脚早の船を連ね、付き従う者たちは彩り鮮やかな刺繍を身に付けた。行く先々で道路を輝かせ、停泊するときは絹錦の綱でもって船を繋ぎ、出発するときはそれを切り捨てて豪奢ぶりを見せ付けた。他人と出くわしたとき、属城の長吏ほどの者が盛大にもてなして初めて満足するが、そうでなければ、配下の者を放ってその人の財産を奪わせた。長吏の領内で犯罪があれば、その(長吏の)怠慢や罪過を追及した。

こうして十年余りも経ってから乱暴を働くのをやめ、少しは諸子の学問を読むようになり、劉表に身を寄せて南陽に住まいしたが、任用されず、後日改めて黄祖に身を寄せた。しかし黄祖もまた彼を凡人として食わせるだけだった。もともと劉表に身を寄せたとき食客八百人を連れていたが、劉表は儒者であったため軍事に親しまず、当時は英雄たちがそれぞれ挙兵していたので、甘寧は劉表を観察して、この情勢から言えば何も成功させられまいと考え、一日で土崩して巻き添えを受けるのではないかと心配した。そこで東方へ向かって呉に入ろうとしたが、黄祖が夏口にいたため通過することができず、そのまま三年間も滞在したのであった。

黄祖軍が孫権に敗れて逃走したとき、追撃は厳しいものであった。甘寧は射術に巧みだったので兵を率いて後詰めを引き受け、孫権の校尉淩操を射殺した。黄祖はそのおかげで逃げ延びることができたが、甘寧への待遇は以前と変わりなかった。黄祖の都督蘇飛がたびたび甘寧を推薦しても、黄祖は任用しようとせず、人をやって甘寧の食客を手懐けたので、食客たちは次第に数を減らしていった。甘寧は亡命したく思ったが逮捕されまいかと心配して、一人で鬱々としてなすすべを知らなかった。

蘇飛が甘寧の気持ちを知って彼を酒宴に招き、「吾が子(あなた)を邾の県長にするよう言上してやろう」と言ったので、甘寧は「幸甚でございます」と感謝を尽くした。黄祖は蘇飛の言上を聞き入れた。甘寧は邾県に赴任すると、寝返った食客たちを呼び返し、義勇兵を合わせて数百人を手に入れた。こうして甘寧は呉に身を寄せたのである。

周瑜・呂蒙はみな甘寧を推挙し、孫権も旧臣たちとは別格の待遇を与えた。甘寧は計略を述べた。「いま漢の国祚は日ごとに衰え、曹操はいよいよ傲慢になっており、終いに簒奪をなすでありましょう。南荊の地は、誠に国土を西に伸ばす地勢であります。甘寧は劉表を観察したことがありますが、思慮が浅い上に息子たちも劣っております。至尊(孫権)におかれては曹操より先に略取されますよう。黄祖は耄碌して資金食糧に乏しく、金儲けに走って官吏兵士の恨みを買っており、艦船も兵器も整備されておりません。農務をなおざりにして軍紀は守られず、いま出陣なされれば必ず打ち破ることができましょう」。

このとき張昭が座中にあり「呉の城下に不穏な動きがあり、軍が出征すれば異変が起こるのではないかと心配されます」と渋ったので、甘寧は「国家(孫権)は蕭何の任務を君に委ねられたのです。留守を任されて杞憂するばかりでは、どうして古人を慕うことができしょうか」と反駁した。孫権は甘寧に酌を進めながら「興霸よ、今年の軍事はこの酒のように卿(あなた)にお任せしよう。卿は黄祖に勝つことだけをお考えになればよく、張長史の言葉を気にすることはないのだよ」と言い、ついに征西の軍を催して黄祖を捕らえたのである。

もともと孫権は二つの箱を作り、黄祖と蘇飛の首級を収めるつもりであったが、蘇飛が人をやって我が身の危険を甘寧に知らせると、甘寧は「蘇飛から言ってこなくても忘れたりするものか」と言い、孫権が諸将らのために酒宴を開いたとき、甘寧が席を立って叩頭し、血と涙にまみれながら「もし蘇飛と出会わなければ甘寧は死体になって谷間に捨てられるところでございました。その首をお預けくだされ。もし蘇飛が逃亡を企てたなら、代わりに甘寧の首を箱に収めていただきましょう」と蘇飛の助命を歎願した。孫権は蘇飛を赦免してやり、また甘寧に兵士を授けて当口に屯させた。

その後、周瑜に随行して烏林で曹公(曹操)を撃破し、南郡で曹仁を攻囲した。まだ陥落してないとき、甘寧はまず直行して夷陵を奪取すべきとの計略を立て、出陣してすぐ城を落とし、入城して守りを固めた。配下には兵士数百人のほか、新附の人数を合わせて千人足らずしかいなかったが、曹仁の派遣した五・六千人の軍勢が甘寧を包囲した。攻撃は何日も続き、敵が高楼を設けて雨の如く城内に矢を射かけてきたので、兵士たちはみな恐怖したが、甘寧だけは普段通りに談笑していた。使者を出して周瑜に知らせ、周瑜が諸将を率いてきたので包囲から解放された。

のちに魯粛に随行して益陽を守り、関羽と対峙した。関羽は軍勢三万人を号しつつ、精鋭五千人を選抜して県の上流十里余りのところにある浅瀬に投入し、夜中に渡るぞと喧伝した。魯粛が諸将と協議したとき、甘寧は「吾に五百人をお貸しくだされ。吾がそこに対処すれば関羽は渡ろうといたしますまい。もし渡れば吾の捕虜になりますからな」と言った。甘寧は兵士三百人しか持っていなかったので、魯粛は精鋭千人を貸してやった。甘寧が夜中に出陣すると、関羽はそれを聞いて渡ろうとせず、逆茂木の陣営を作るだけだった。孫権は甘寧の功績を評価して西陵太守に任じ、陽新・下雉の二県を宰領させた。

皖城攻略に従軍したときは升城督となり、練り絹を手にして城壁に身を委ね、官吏兵士を先導した。ついに敵を打ち破って(城将の)朱光を捕らえ、論功の結果、呂蒙が第一、甘寧はそれに次ぐものとされ、折衝将軍を拝命した。

ここでは本伝に従ったが、皖城攻略を関羽との対戦以前とするのが正しい。

曹公が濡須に侵出してきたときは前部督となり、出陣して敵の先鋒を伐つよう命ぜられた。孫権が格別に賜った米や酒、多くの料理を、甘寧は百人余りの配下に選り分けた。食事が終わると、甘寧は銀杯で酒を二杯呑み、そのあと都督に酌をしたが、都督はうつ伏せたまますぐには承けようとしなかった。甘寧は白刃を抜いて膝上に置き、「卿が至尊から受けている待遇は甘寧と比べてどうでしょうか?甘寧さえ死を惜しまないのに卿だけがどうして死を惜しまれるのですか?」と叱りつけた。都督は甘寧の険しい顔色を見ると、すぐ体を起こして杯を受け取り、兵士に銀杯一杯づつ酌をしてまわった。

二更の刻、馬に枚を含ませて出陣し、ひたすら曹公の陣営を目指し、逆茂木を抜いて城塁を乗り越え、斬首すること数十級に昇った。北軍は驚いて太鼓を打ち鳴らし、松明を星の如く掲げたが、甘寧はすでに本営に帰還しており、鼓吹を鳴らして万歳を称えた。夜分を押して孫権に拝謁すると、孫権は「年寄りを驚かせるには充分であったかのう?少しは卿の大胆さを見られたぞ」と喜び、その場で絹千匹と刀百振りを賜り、軍勢二千人を加増した。孫権は「孟徳(曹操)には張遼がおり、孤には興霸がおって、釣り合いが取れているのだ」と言った。

甘寧は粗暴で殺人を好んだものの、爽快な人柄で計略を持ち、財貨を軽んじて士人を敬い、手厚く勇者たちを育てたので、勇者たちもまた役立ちたいと願った。

建安二十年(二一五)、合肥攻撃に従軍したが、疫病が流行したため軍勢はみな撤退し、車下虎士千人余りと、呂蒙・蔣欽・淩統・甘寧だけが(後詰めとして)逍遥津の北岸で孫権に従っていた。張遼がそれをはるかに眺めて、歩騎を率いて急襲をかけてきた。甘寧は弓を引き絞って敵兵に射かけ、淩統らとともに決死の覚悟で戦った。甘寧は声を荒げて「なぜ演奏しないのか」と鼓吹を責めたが、(戦争が終わると)その毅然たる勇壮さを、孫権はとりわけ評価した。

淩統は父淩操が甘寧に殺されたことを怨んでおり、甘寧はいつも淩統を警戒して顔を合わせようとせず、孫権もまた報復してはならぬと淩統に命じていた。あるとき呂蒙の邸宅で宴会が催され、盛り上がったところで淩統が刀を抜いて舞を始めた。「甘寧は双戟の舞をうまくやりますよ」と、甘寧も立ち上がった。呂蒙が「甘寧がうまいといっても、呂蒙ほどではないだろう」と言い、刀を振りながら楯を持ち、体ごと割って入った。後日、孫権は淩統の気持ちを知り、甘寧には軍勢を率いて半州へ移駐させた。

甘寧の廚房の少年が過失を犯し、呂蒙の元へ逃げ込んだ。呂蒙は甘寧が彼を殺してしまうことを心配し、すぐには帰さなかった。後日、甘寧は礼物を提げて呂蒙の母に贈るため、直接、座敷に参上することになった。そこで(呂蒙は)少年を甘寧に返してやり、甘寧も殺したりはしないと呂蒙に約束した。しばらくして船へ戻り、(少年を)桑の木に縛り付け、自ら弓を引いて射殺した。そのあと船頭に纜(ともづな)を幾重にもかけさせ、着物を脱いで船内に寝転んだ。呂蒙は激怒し、太鼓を打ち鳴らして兵士を集め、船を追いかけて甘寧を攻撃しようとした。甘寧はそれを聞いても、あえて立ち上がろうとはしなかった。

呂蒙の母が裸足で駆け付けて「至尊は汝(おまえ)を骨肉のように待遇なさり、重要な任務を汝に授けられました。どうして私怨によって甘寧を殺してよいものでしょう?甘寧が死んだなら、たとい至尊が不問に付したとしても、汝は臣下の法を犯したことになるのですよ」と諭すと、呂蒙はもともと孝心篤き人であったので、からりと気持ちが解け、甘寧の船まで行き、「興霸よ、老母が食事を作って卿を待ってるんだ。急いで来いよ!」と笑いながら呼びかけた。甘寧は涙を流しながら「取り返しのつかないことをしてしまった」と、むせび泣いた。呂蒙と一緒に引き返して彼の母に会い、ひねもす酒宴を楽しんだ。

同年冬《建康実録》、甘寧が卒去すると、孫権はそれを痛惜したものであった。

【参照】関羽 / 黄祖 / 朱光 / 周瑜 / 蔣欽 / 蕭何 / 蘇飛 / 曹仁 / 曹操 / 孫権 / 張昭 / 張遼 / 劉表 / 呂蒙 / 淩操 / 淩統 / 魯粛 / 夷陵県 / 烏林 / 益陽県 / 下雉県 / 夏口 / 合肥侯国 / 晥県(皖県) / 漢 / 呉 / 呉県 / 邾県 / 濡須 / 逍遥津 / 蜀郡 / 西陵郡 / 当口 / 南郡 / 南荊 / 巴郡 / 半州 / 陽新県 / 臨江県 / 郡丞 / 計掾 / 県長 / 校尉 / 升城督 / 折衝将軍 / 前部督 / 太守 / 長史 / 長吏 / 都督 / 鼓吹 / 車下虎士 / 廚下児(廚房の少年) / 枚 / 毦(羽根飾り)

淩統Ling Tong

リョウトウ

(189〜217)
漢偏将軍・沛相・都亭侯

字は公績。呉郡余杭の人。

父淩操は孫策に従って破賊校尉となっていたが、建安八年(二〇三)、孫権の江夏征討に従軍して敵先鋒の軽舟を打ち破り、ただ一人で突き進んでいるうちに流れ矢に当たって戦死した。淩統は十五歳であったが、(孫権の)左右の者たちの多くが褒め称え、孫権もまた淩操が国事で死んだことを思い、淩統を別部司馬に任じ、行破賊都尉として父の軍勢を仕切らせた。

のちに山賊攻撃に従軍したが、孫権が保の屯所を打ち破って一足先に引き揚げたとき、麻の屯所には一万人が残っていた。淩統は督の張異らとともに攻囲に残り、日にちを定めて攻撃することにした。期日に先立ち、淩統は督の陳勤と酒を呑むことになった。陳勤は剛勇で気ままな性質であり、酒宴の主人役を務めたのだが、一座の面々を虚仮にしたばかりか、罰杯のやり方も道を外したものだった。淩統はその傲慢ぶりに嫌悪感を覚え、面と向かって批判し、言いなりにならなかった。陳勤は腹を立てて淩統や父淩操を罵倒し、淩統は涙を流しながら黙り込んだ。それを見て、人々は帰っていった。

陳勤は酔った勢いで凶悪になり、路上でも淩統を侮辱し続けた。淩統は堪忍袋の緒が切れて、刀を抜いて陳勤を切った。陳勤は(その傷のせいで)数日後に死んでしまった。

屯所を攻撃すべき日になると、淩統は「死ぬ以外に罪を償うすべはない」と言って、士卒を励まし、身をもって矢石に飛び込んだ。(淩統が)攻撃をかけた一角は即座に崩壊し、諸将は勝利に乗じて屯所を大破した。帰還したとき軍正に自首したが、孫権はその剛毅果断を壮快に思い、手柄を立てて罪を贖うことができるようにした。

のちに孫権が再び江夏を征討したとき、淩統は先鋒となり、可愛がっている勇者たち数十人とともに一艘の船に乗った。ずっと大軍から数十里も離れたまま航行し、右江に入ると、黄祖の将張碩を斬って水兵をことごとく川に落とした。(本隊に)戻って孫権に報告したあと、手勢を率いて全速で進航したので、(淩統と孫権の)水陸両軍が一斉に集結した。このとき呂蒙が敵水軍を打ち破り、さらに淩統が率先して敵城を叩いたので、大勝利を収めることができたのである。

孫権は淩統を承烈都尉に任じ、周瑜らとともに烏林で曹公(曹操)を迎えて打ち破らせ、そのまま曹仁を攻撃させて、校尉に昇進させた。(淩統は)軍中にあっても賢者や士人に親しく接し、財貨を軽んじて義理を重んじ、国士の風格を漂わせていた。

また皖城攻略に従軍して盪寇中郎将を拝命、沛国の相となった。呂蒙らとともに西進して(長沙・零陵・桂陽の)三郡を攻略し、益陽から引き揚げると(その足で)合肥に着陣、右部督となった。この戦いでは孫権軍が撤退することになり、先発隊が出たあと、魏将張遼らが渡し場の北岸へと急襲をかけてきた。孫権は先発隊を呼び戻そうとしたが、彼らはすでに遠くまで行っていて間に合いそうになかった。淩統は側近三百人を率いて包囲を突破、孫権を守護しつつ脱出した。

(しかし)橋はすでに敵兵によって破壊され、二枚の板で繋がっているだけだった。孫権は馬に鞭打って強行し、淩統はまた引き返して戦った。左右の者たちはみな死んで、彼自身も傷付いていた。数十人ばかり殺しつつ、孫権が落ち延びる頃合いを見計らって、ようやく引き返す。橋が崩壊して道がなかったので、淩統は具足を身に付けたまま(水中を)潜って行った。孫権は船の上から彼の姿を見付けて驚喜した。

淩統は側近たちが帰ってこないのを痛惜し、悲しみのあまり立つことさえできなかった。孫権は袖で(彼の涙を)拭いながら「公績よ、死者は帰ってこないよ。卿(あなた)さえ健在であれば、ここにおらぬ人を思うことはない」と慰めた。淩統の怪我は深く、孫権は淩統を船に置いて衣服をすっかり替えてやった。卓氏の良薬が怪我に効き、おかげで死なずにすんだのである。偏将軍に任じ、以前の二倍にあたる兵士を支給した。

ときに、同郡の盛暹という人を孫権に推薦する者がいて、大いなる節義を持った梗概の士であり、淩統以上の者であると主張した。孫権は「淩統と同等であれば充分だ」と言った。後日、盛暹がお召しを受けて夜中に到着したとき、淩統はもう横になっていたところだったが、報告を聞くと、着物を抱えて門まで出迎え、その手を引いて中へ通した。彼が善士を愛して悪意を持たなかった様子は、このようなものだった。

孫権の言葉には、淩統ほど傑出した人物はそうそういない、ましてやそれ以上の者などいるはずがない、という思いが込められている。

淩統は、山中には勇壮精悍な人々がまだ多く、威厳と恩恵によって誘い入れるべきだと言上した。孫権は東方を占拠して一応の攻撃を加えさせた上で、およそ淩統が要求するものがあれば、すべて先に供出して報告は後回しにせよ、と属城に命令を下した。

淩統は日ごろから士人を愛し、士人もまた彼を慕った。精鋭一万人余りを手に入れても(威勢を嵩にかけることなく)、本県を通行するときには(馬から下りて)徒歩で役所の門へ入り、長吏に拝謁するときも三枚の版(名刺)を携え、うやうやしく礼儀を尽くした。知人と旧交を温めるときも、恩情は以前にも増して手篤くなった。用事を済ませて出発しようとした矢先、突然病気にかかって卒去した。時に四十九歳。

『建康実録』に建安二十二年、偏将軍・都亭侯淩統が二十九歳で卒去したとあり、『三国志』本伝とは一致しない。陳景雲は言う。建安八年で十五歳だったのだから、淩統は中平六年(一八九)生まれである。淩統の死後、駱統がその軍勢を引き継いだのは夷陵戦役の以前なのだから、淩統は三十歳には達していなかっただろう。享年は二十九歳とするのが正しい《集解》。

孫権は報告を受けると牀に手をついて体を起こしたが、哀しみを抑えることができず、数日間は食膳を減らし、彼のことが話題になれば涙を流した。張承に命じて銘誄を作らせた。

【参照】黄祖 / 周瑜 / 盛暹 / 曹仁 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 卓氏 / 張異 / 張承 / 張碩 / 張遼 / 陳勤 / 呂蒙 / 淩操 / 右江 / 烏林 / 益陽県 / 合肥県 / 晥県(皖県) / 魏 / 桂陽郡 / 呉郡 / 江夏郡 / 逍遥津(渡し場) / 長沙郡 / 沛国 / 保屯 / 麻屯 / 余杭県 / 零陵郡 / 右部督 / 軍正 / 校尉 / 相 / 承烈都尉 / 長吏 / 盪寇中郎将 / 督 / 破賊校尉 / 破賊都尉 / 別部司馬 / 偏将軍 / 行 / 銘誄

徐盛Xu Sheng

ジョセイ

(?〜?)
呉安東将軍・領廬江太守・蕪湖侯

字は文嚮。琅邪莒の人。

戦乱に遭遇したため呉に仮住まいし、勇気によって評判された。孫権は事業を統括するようになると、徐盛を別部司馬として兵士五百人を授け、柴桑の県長を守らせて(兼務させて)、黄祖への備えとした。

黄祖の子黄射があるとき数千人を率いて川を下り、徐盛に攻撃をかけてきた。徐盛はこのとき官吏兵士を二百人足らずしか抱えていなかったが、防戦に努め、黄射の官吏兵士のうち一千余りに傷を負わせた。それから城門を開いて出撃し、彼らをさんざんに打ち破った。黄射はそれ以来、もう侵攻してくることはなくなった。孫権は徐盛を校尉・蕪湖県令に取り立てた。さらに臨城の南の阿山の賊徒を討伐させ、ここでも功績を立てたので中郎将に昇進させ、軍兵を監督させることにした。

曹公(曹操)が濡須へ侵出してくると、孫権に付き従って防御にあたった。魏軍が一斉に横江まで進んできたとき、徐盛は諸将とともに討伐に向かったのだが、ちょうど蒙衝に乗り込んだところで強風が吹き、敵地の岸辺に流れ着いてしまった。諸将は恐怖のあまり一人として船を出られなかったが、徐盛だけは手勢を率いて上陸し、敵兵を突いたり斬ったりした。敵軍はばらばらになって逃げ、(数多くの)死傷者を出した。風がやむとすぐさま帰還したが、孫権はこれをいたく壮快に思った。

孫権が「藩」を称して魏に臣従したとき、魏は邢貞を使者として孫権を呉王に任じた。孫権が都亭まで出ていって邢貞に挨拶したが、邢貞には驕慢な風情があって、張昭を怒らせた。徐盛も憤怒して列席者の方を振り向きながら「徐盛らが身命を投げ出し、国家のために許・洛を併合し、巴蜀を併呑できなかったせいで、わがご主君に邢貞ごときと盟約を結ばせてしもうた。屈辱ではないか」と言い、とめどなく涙を流して泣いた。邢貞はそれを聞いて同行者に言った。「江東の将校・宰相がこれほどであれば、久しく他人に屈服しつづけることはあるまい。」

のちに建武将軍に昇進して都亭侯に封ぜられ、廬江太守を領し、臨城県を奉邑として賜った。劉備が西陵まで来ると、徐盛はもろもろの敵陣を攻略し、行く先々で武功を挙げた。曹休が洞口に侵出したとき、徐盛は呂範・全琮とともに長江を渡って防備を固めることになった。強風が吹いて水手の多くが死んでしまったが、徐盛は残りの軍兵を拾い上げ、長江を挟んで曹休と対峙した。曹休は兵士を徐盛の船に乗り込ませて攻撃したが、徐盛が寡兵ながらに多勢を防いだので、敵軍は勝利を得られず、それぞれ軍勢をまとめて撤退した。安東将軍に昇進して蕪湖侯に封ぜられた。

のちに魏の文帝(曹丕)が大挙して現れ、長江を渡らんと企てた。徐盛は「建業から囲いを築いてすだれを垂らし、囲いの上に矢倉を仮設し、長江の水上に船を浮かべるべきです」との計略を言上した。諸将は無益なことだと主張したが、徐盛は聞く耳を持たず、断固として提議した。文帝は広陵まで来たところで、囲いを見て驚いた。延々と数百里も連なり、しかも長江の水かさが増えていたので、「魏に千の武騎があっても使い道がないな」と言い、すぐさま軍勢をまとめて撤退した。諸将はようやく感服したのであった。

徐盛は、黄武年間(二二二〜二二九)に卒去した。

【参照】邢貞 / 黄射 / 黄祖 / 全琮 / 曹休 / 曹操 / 曹丕 / 孫権 / 張昭 / 劉備 / 呂範 / 阿山 / 魏 / 莒県 / 許県 / 建業県 / 呉 / 江東 / 広陵郡 / 柴桑県 / 濡須 / 西陵県 / 長江 / 洞口 / 都亭 / 巴蜀 / 蕪湖県 / 雒陽県(洛) / 臨城県 / 琅邪国 / 廬江郡 / 安東将軍 / 王 / 県長 / 建武将軍 / 県令 / 侯 / 校尉 / 太守 / 中郎将 / 都亭侯 / 別部司馬 / 守 / 藩 / 奉邑 / 蒙衝

潘璋Pan Zhang

ハンショウ
(ハンシヤウ)

(?〜234)
呉右将軍・襄陽太守・溧陽侯

字は文珪。東郡発干の人。

陽羨の県長を務めていた孫権のもとへ出かけていって身を寄せた。尊大な性格で酒を好み、貧しいころはつけで酒を買い、債権者が門前に来ても「いつか富豪になったら返してやろう」といつも言っていた。孫権はたいそう彼に目をかけて愛し、そこで募兵をさせると百人余りが手に入ったので、そのままその統率者とした。

山賊を討伐した功績により別部司馬を拝命し、のちに呉の大市場の刺姦となると盗賊はすっかり姿を消した。こうしたことから名を知られるようになり、予章の西安県長に昇進する。劉表が荊州にあって領民はたびたび侵害を被っていたが、潘璋が着任してからは賊軍が国境に侵入してくることもなくなった。隣県の建昌県が反乱を起こしたので建昌を領することになり、武猛校尉を加えられた。悪しき県民を討伐すると丸一ヶ月ですっかり平定された。逃散した者どもを召集して八百人を手に入れると、彼らを率いて建業に帰還した。

合肥の戦役において張遼が奇襲をかけてきたとき、諸将は油断しており、陳武は戦死して宋謙・徐盛らはみな敗退した。潘璋自身は後方にいたが、すぐさま前線へ駆けつけて馬を横につけ、逃げてくる宋謙・徐盛の兵士二人を斬った。兵士どもはみな戦場に引き返した。孫権はいたく勇壮だと思い、偏将軍に任じて百校(五校の誤り)を領させ、半州に駐屯させた。

孫権が関羽を征討したとき、潘璋は朱然とともに関羽の退路を遮断すべく臨沮へ行き、夾石へ向かったところで潘璋の司馬馬忠が関羽および子の関平、都督趙累らを捕らえた。孫権はただちに宜都郡の巫・秭帰二県を分割して固陵郡を立て、潘璋を固陵太守・振威将軍・溧陽侯とした。甘寧が卒去すると、その軍勢も併合することになった。

劉備が夷陵へ侵出してきたとき、潘璋は陸遜と合力して防ぎ、潘璋の部下が劉備の護軍馮習らを斬ったほか、極めて多くの人数を殺傷した。平北将軍・襄陽太守を拝命した。

魏将夏侯尚が南郡を包囲し、先鋒三万人に浮橋を作らせて百里洲に渡した。諸葛瑾・楊粲が手勢を合わせて救援に駆けつけたが、なすすべを知らなかった。魏兵は毎日、途切れることなく百里洲へ渡っていく。潘璋は「魏の士気は頂点に達して長江もまだ浅く、まだ戦うべきではありませぬ」と言い、ただちに手勢を率いて魏軍より五十里ほど上流へ行き、数百万束の葦を刈って大筏を作り、火を着けて流し、浮橋を焼き払おうとした。ちょうど筏を作り終えて増水に乗せて流そうとしたとき、夏侯尚はすぐに引き揚げた。潘璋は長江を下って陸口を固めた。孫権が尊号を称すると右将軍を拝命した。

潘璋の人となりは粗暴であり、禁令は粛然と行き届いた。功績を立てることを望み、配下の兵馬は数千人しかいなかったのに彼の行くところではいつも一万人に相当した。征伐が終わるとすぐさま軍用市場を立て、よその部隊で不足があればみな潘璋の市場で補充したのである。

しかしながら性格は傲慢であって、晩年になるとますますひどくなり、衣服も器物も規定以上のものを用いた。官吏・兵士のうち富裕な者があれば、それを殺して財物を奪い取ることもあり、法令を遵守しないことがたびたびあった。検察官が告発しても、孫権はその功績を惜しんでいつも大目にみて不問に付すのであった。

嘉禾三年(二三四)に卒去した。

【参照】夏侯尚 / 甘寧 / 関羽 / 関平 / 朱然 / 諸葛瑾 / 徐盛 / 宋謙 / 孫権 / 張遼 / 趙累 / 陳武 / 馬忠 / 馮習 / 楊粲 / 陸遜 / 劉備 / 劉表 / 夷陵県 / 合肥県 / 魏 / 宜都郡 / 夾石 / 荊州 / 建業県 / 建昌県 / 襄陽郡 / 固陵郡 / 秭帰県 / 西安県 / 長江 / 東郡 / 南郡 / 発干県 / 半州 / 百里洲 / 巫県 / 陽羨県 / 予章郡 / 陸口 / 溧陽亭 / 臨沮県 / 右将軍 / 県長 / 護軍 / 五校(百校) / 司馬 / 振威将軍 / 太守 / 亭侯 / 都督 / 武猛校尉 / 平北将軍 / 別部司馬 / 偏将軍 / 監司(検察官) / 山越(山賊) / 刺姦

丁奉Ding Feng

テイホウ

(?〜271)
呉右大司馬・左軍師・仮節・左右都護・領徐州牧・安豊侯

字は承淵。廬江安豊の人。

若いころから驍勇で知られて小将となり、甘寧・陸遜・潘璋らに属した。しばしば征伐に従軍して、戦闘ぶりはいつも全軍筆頭、戦うたびに敵将を斬ったり軍旗を奪ったりして、我が身に傷を負っていた。順当に昇進して偏将軍となり、孫亮が即位すると冠軍将軍となり、都亭侯に封ぜられた。

魏が諸葛誕・胡遵らに東興を攻撃させたので、諸葛恪が軍勢を率いて防いだ。諸将はみな「敵は太傅(諸葛恪)が直々に来られたと聞き、岸辺に上がれば逃げだすに違いありません」と言ったが、丁奉は「いえ、彼らが国内を動揺させてまで許・洛の軍勢を大挙して来たからには、必ずや勝利の見込みがあるのです。どうして手ぶらで引き返したりいたしましょう。敵の来ないことを当てにするのではなく、我らの優位を当てにすべきです」と主張した。

諸葛恪が岸辺に上がると、丁奉は将軍唐咨・呂拠・留賛らとともに山沿いに(船に乗って)西上したが、「いま諸軍の行軍速度は遅く、もし敵に有利な地点を押さえられたら矛を交えるのは難しくなってしまう」と言い、諸軍を分けて街道まで戻らせ、自分は麾下の三千人を率いて最短距離を直進した。北風が吹いていたので、丁奉が帆を上げると二日で到着し、徐塘を占拠することができた。

雪の降るような寒い日で、敵将たちは集まって盛大な酒宴を開いている。丁奉は彼らの先鋒部隊が少ないのを見て「封侯・恩賞を賜るのは今日こそがその日だぞ」と言い聞かせ、そこで兵士たちに鎧を脱がせて兜を被らせ、短刀を持たせた。敵兵はそれを見ても暢気に笑うばかりで警戒しようともしない。丁奉は軍兵を放って斬り込むと、敵の先鋒部隊を大破した。ちょうど呂拠らも到着し、魏軍はついに潰走した。滅寇将軍に昇進、封爵を都亭侯(都郷侯の誤り)に進められた。

魏将文欽が投降してきたので、丁奉は虎威将軍となり、孫峻に付いて寿春まで迎えに行くことになった。高亭において敵の追っ手と戦闘になり、丁奉は馬に跨って矛を持ち、敵陣に突入、首級数百を挙げて武器などを奪取した。封爵を安豊侯に進められた。

太平二年(二五七)、魏の大将軍諸葛誕が寿春を占拠して帰服を申し入れてきたが、魏の人々は彼を包囲した。朱異・唐咨らが救援に遣され、さらに丁奉・黎斐も包囲を解くよう命じられた。丁奉が先登に立って黎漿に布陣し、奮戦のすえ武功を立てたので左将軍を拝命した。

孫休は即位してから、張布と相談して孫綝を誅殺しようとした。張布が「丁奉は事務処理は苦手ですが、人並み以上の計略を持ち、大仕事を遂行できます」と言うので、孫休は丁奉を召し寄せて告げた。「孫綝は国家の威光を嵩にかけ、叛逆をなそうとしておる。将軍とともに奴めを誅殺したいものじゃが。」丁奉は答えた。「丞相(孫綝)は兄弟や仲間が非常に多く、人々の心が一致しない限り、すぐには片付かない恐れがございます。臘祭の会合を利用し、陛下の手兵で誅殺なさいませ。」孫休はその計略を聞き入れ、孫綝を会合に招き、丁奉と張布が左右の者に目くばせして彼を斬らせた。大将軍に昇進し、左右都護の職を加えられた。

永安三年(二六〇)、仮節・領徐州牧となった。六年、魏が蜀に攻め込んだとき、丁奉は諸軍を率いて寿春に向かい、蜀を支援する構えを見せたが、蜀が滅亡してしまったので軍勢を引き揚げた。

孫休が薨去したのち、丁奉は丞相濮陽興らとともに、万彧の言葉に従って孫晧を擁立し、右大司馬・左軍師に昇進した。宝鼎三年(二六八)、孫晧は丁奉・諸葛靚に命じて合肥を攻撃させた。丁奉は晋の大将石苞に手紙を送り、彼らの離間を計ったので、石苞は中央に徴し返された。建衡元年(二六九)、丁奉はまた軍勢を率いて徐塘を修築し、そこから晋の穀陽に攻め込んだ。穀陽の領民はそれを予測して退去していたので、丁奉は何も得られず、孫晧は腹を立てて丁奉の道案内役を斬った。

三年、丁奉は卒去した。丁奉は尊貴の身であるうえ功績も立てており、次第に傲慢になっていった。(丁奉の死後)ある人が彼の悪口を言ったので、孫晧は過去の軍事行動にまでさかのぼって取りあげ、丁奉の家族を臨川に流したのであった。

【参照】甘寧 / 胡遵 / 朱異 / 諸葛恪 / 諸葛靚 / 諸葛誕 / 石苞 / 孫休 / 孫晧 / 孫峻 / 孫綝 / 孫亮 / 張布 / 唐咨 / 潘璋 / 万彧 / 文欽 / 濮陽興 / 陸遜 / 留賛 / 呂拠 / 黎斐 / 安豊県 / 合肥侯国 / 魏 / 許県 / 高亭 / 穀陽県 / 寿春県 / 徐州 / 徐塘 / 蜀 / 晋 / 東興 / 洛陽県(洛) / 臨川郡 / 黎漿 / 廬江郡 / 右大司馬 / 右都護 / 仮節 / 冠軍将軍 / 郷侯 / 虎威将軍 / 侯 / 左軍師 / 左将軍 / 左都護 / 丞相 / 大将軍 / 太傅 / 亭侯 / 都郷侯 / 都亭侯 / 偏将軍 / 牧 / 滅寇将軍 / 小将 / 短兵(短刀) / 導軍(道案内役) / 臘(臘祭)