三国志人名事典 蜀志10

劉封Liu Feng

リュウホウ
(リウホウ)

(?〜221?)
蜀副軍将軍

もともと羅侯寇氏の子で、長沙郡の劉氏の甥にあたる。荊州に入ったとき劉備にはまだ後継がなかったので養子とした。益州攻略では諸葛亮・張飛らとともに長江を遡上、このとき弱冠二十歳余であったが、武芸に練達して気力も他に勝っていたので、行く先々で勝利した。平定後、副軍中郎将に任じられる。

史書に羅侯に封ぜられた寇氏を見ない。鄧氏の誤りではなかろうか。鄧禹の孫鄧騭が失脚して羅侯に転封されている《後漢書鄧禹伝》。

建安二十四年(二一九)、劉備は孟達に命じて房陵郡を攻略させた。孟達はさらに上庸を攻撃しようとしたが、劉封は援軍として漢中を発して上庸に進軍した。上庸太守申耽は一族妻子を人質として降伏した。劉備は申耽の上庸太守留任を許し、その弟申儀を西城太守とした。劉封は副軍将軍に昇任して、孟達の軍勢を統率した。

しばらくして関羽が曹操・孫権の挟み撃ちを受けて孤立したとき、劉封・孟達は援軍出動を求められたが、まだ房陵・上庸を占領したばかりのことで離れられないと言って拒否した。やがて関羽は戦死し、劉備は二人が援軍を出さなかったことを恨んだ。劉封と孟達は仲が悪く、あるとき劉封が孟達の軍楽隊を没収したとき、先の関羽のこともあって身の危険を感じた孟達は魏に亡命する。魏の曹丕は彼を深く愛し、房陵・上庸・西城郡を合併した新城郡の太守に任じて、散騎常侍・建武将軍・平陽亭侯とした。

孟達は夏侯尚・徐晃とともに劉封を攻撃した。そのとき劉封に手紙を送って述べるに「貴方は漢中王(劉備)の骨肉ではないのに権勢を占め、君臣でもないのに高い官職にあり、出陣すれば指揮権を与えられ、平時にも副将の栄誉を守っておられます。心ある人々は阿斗(劉禅)が太子に立てられてから貴方の身を案じております。漢中王はすでに貴方に疑念を持っておられます。おそらく側近の者が貴方のことを必ず讒言するでしょう。もし貴方が今度の戦いに敗れて身一つで帰国なさることになれば災禍は免れないのではないかと危惧いたします。もしお心を改められるならば羅国三百戸の封土を継ぐのみならず、魏は貴方をさらなる大国の主として迎えられるでしょう」。しかし劉封は頑として承諾しなかった。申儀が叛逆し、申耽も魏に降伏した。

劉封は敗れて成都に逃げ帰った。劉封が成都城に到着すると、劉備は関羽を救援しなかったこと、孟達に厳しく接したことで劉封を責め立てた。諸葛亮は劉封が勇猛であったので、劉備亡きあと混乱を起こすだろうと考え、彼を殺してしまうように劉備に勧めた。劉封は死を賜った。

【参照】夏侯尚 / 関羽 / 寇氏 / 徐晃 / 諸葛亮 / 申儀 / 申耽 / 曹操 / 曹丕 / 孫権 / 張飛 / 孟達 / 劉氏 / 劉禅(阿斗) / 劉備 / 益州 / 漢中郡 / 魏 / 荊州 / 上庸郡 / 新城郡 / 西城郡 / 成都県 / 長江 / 長沙郡 / 平陽亭 / 房陵郡 / 羅県 / 王 / 建武将軍 / 侯 / 散騎常侍 / 太守 / 亭侯 / 副軍将軍 / 副軍中郎将

彭羕Peng Yang

ホウヨウ
(ハウヤウ)

(178?〜214?)
蜀益州治中従事

字は永年。広漢郡の人。

身の丈が八尺もあり容貌は非常に魁偉であった。性格は傲岸不遜で他人をぞんざいに扱ったが、ただ秦宓だけを尊敬して、太守許靖に推挙文を上書している。州役人となったが書佐の職に過ぎず、そのうえ人々が劉璋に悪口を吹き込んだので、髠刑(髪を剃り落とす)に処されたうえ労役を課せられた。

劉備が益州に入って劉璋への攻撃を開始すると、彭羕は彼に仕えようと考えて龐統の陣営を訪れた。互いに面識もないうえ龐統には来客があったが、彭羕は勝手に寝台に上がり「客が帰ったら話をしよう」と言った。しかも来客が帰って龐統が寝台の前に来たとき食事を要求する有様だった。しかし二人は二泊三日にわたって語り合い、龐統は大いに彼を評価した。そこで法正が彼の知人だったので一緒に行って劉備に会わせると、劉備もまた彼を評価し、諸将への伝達役として劉備の命令を伝えさせたが、仕事を見事にこなしてますます信頼された。

益州が平定されると治中従事に任じられた。彼は卑しい身分から抜擢されて一挙に益州を治める立場になったので、ますます思い上がった。諸葛亮は表面上は彼をもてなしたが内心では憎み、劉備に「彭羕は天下への野心を持っております」と内密に言上した。劉備は諸葛亮を信頼しており、また実際に彭羕の振る舞いを調べてその通りだったので、彼を江陽太守に左遷することにした。

彭羕は不満に思い、馬超のもとを訪れたが、馬超が「貴方は才能抜群なので諸葛亮殿・法正殿と一緒に活躍するものだと思っていたが、田舎の太守にされて不満ではないのかね」と問うと、「あの老兵(劉備)は耄碌して話にならぬ」と答え、また「貴方が軍事を司り、私が政治を司れば天下を思い通りにできるのだが」と持ちかけた。馬超は他国から身を寄せたばかりのことで諸将の疑いを恐れていたので、彭羕の言葉を上奏した。

彭羕は処刑された。ときに三十七歳。

【参照】許靖 / 諸葛亮 / 秦宓 / 馬超 / 法正 / 龐統 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 広漢郡 / 江陽郡 / 書佐 / 太守 / 治中従事 / 髠刑

廖立Liao Li

リョウリツ
(レウリツ)

(?〜?)
蜀長水校尉

字は公淵。武陵郡臨沅県の人。

劉備が荊州牧になったときに召し出されて従事とされ、まだ二十代のうちに長沙太守に抜擢された。諸葛亮は孫権からの手紙に答えて「龐統と廖立は楚(荊州)の良才で、後世に伝えるべき功業を補佐し、興隆できる人物です」と述べている。建安二十年(二一五)、呉の呂蒙が長沙・零陵・桂陽の三郡を襲撃すると、廖立は益州に逃れた。劉備は彼を深くは責めず巴郡太守に任じた。

同二十四年に劉備が漢中王に昇ると中央に召されて侍中となり、のち劉禅が帝位に即いたとき長水校尉に転任する。彼は内心、才能・名声ともに諸葛亮に次ぐと自負していたので、閑職に移されたことが不満であった。あるとき丞相掾李劭・蔣琬が訪ねてくるとこう言った。

「先帝(劉備)は漢中を手に入れようとせず、呉と荊州南三郡を争ったすえ奪われ、漢中が曹操の手に落ちると夏侯淵・張郃らが攻めてきて益州も危ないところだった。ようやく漢中に入ったと思ったら関侯(関羽)は一兵卒も残さず滅ぼされ、上庸地方も失った。それは関侯が武力に頼って滅茶苦茶な行動をとったからだ。治中文恭の仕事はでたらめだし、長史向朗などはむかし馬良兄弟を聖人だと思い込んで尊敬さえしていた。郭攸之は人の後ろを付いて行くことしかできないのに侍中の大任に就いている。まさに今は末世なのだ。王連のような俗物が偉ぶってるから民衆は疲弊してこんな事態になったのだ」。

この言葉を李劭・蔣琬が諸葛亮に言上した。諸葛亮は帝に上表して廖立を庶民に落とし、汶山郡に流した。廖立は妻子とともに汶山郡に赴き、農耕を営んで生計を立てていたが、のちに諸葛亮が没したと聞くと「わしは蛮民になってしまう」と涙を流して歎いた。姜維は軍勢を率いて汶山を通過したとき廖立を訪ねたが、彼の気迫が衰えず言論も以前通りだったことを称讃した。廖立は配所で死亡した。

【参照】王連 / 夏侯淵 / 郭攸之 / 関羽 / 姜維 / 諸葛亮 / 向朗 / 蔣琬 / 孫権 / 曹操 / 張郃 / 馬良 / 文恭 / 龐統 / 李劭 / 劉禅 / 劉備 / 呂蒙 / 益州 / 漢中郡 / 荊州 / 桂陽郡 / 呉 / 上庸郡 / 楚 / 長沙郡 / 巴郡 / 汶山郡 / 武陵郡 / 臨沅県 / 零陵郡 / 王 / 侍中 / 従事 / 丞相掾 / 太守 / 治中従事 / 長史 / 長水校尉 / 牧 / 馬氏五常(馬良兄弟)

李厳Li Yan

リゲン

(?〜234)
蜀驃騎将軍・中都護・統内外軍事・仮節・光禄勲・都郷侯

字は正方。南陽郡の人。

若くして郡役人となって才能を称賛され、荊州牧劉表により多数の郡県の長官を歴任する。曹操が侵攻してくると任地の秭帰県を逃れて益州に入り、州牧劉璋より成都県令に任じられ、ここでも有能だと評価された。建安十八年(二一三)、護軍に任命されて緜竹で劉備軍の侵攻を防ぐことを命じられたが、李厳はそのまま劉備に降伏し、裨将軍に任じられる。劉備は益州を平定すると李厳を犍為太守・興業将軍とした。

同二十三年、盗賊の馬秦・高勝が数万の人々を集めて叛乱を起こしたが、李厳は新兵を徴発することなく、手持ちの軍勢五千人だけで鎮圧し、馬秦・高勝の首級を挙げた。また越巂郡の蛮族の酋長高定元が新道県を攻撃したとき、李厳が救援に駆け付けて賊軍を撃破した。その功により輔漢将軍を加官される。

章武二年(二二二)、劉備より白帝城永安宮に呼ばれて尚書令に任じられ、さらに劉備が重篤に陥ると、諸葛亮とともに幼主劉禅の後見するよう遺命を受け、官を中都護に進め、内外の軍事を統括し、永安に駐屯して鎮撫せよと命じられた。建興元年(二二三)に劉禅が即位すると都郷侯に封じられ、仮節・光禄勲の資格を与えられた。

同四年、前将軍に昇進する。諸葛亮は北伐のため漢中に進駐したが、永安は護軍陳到に任せ、李厳を江州まで下げて前線への輸送を管理させた。同八年に驃騎将軍に昇せられる。曹真が漢中に侵攻しようとしたので、諸葛亮の命により軍勢二万人を率いて漢中を守った。諸葛亮は李厳の子李豊を江州都督督軍として李厳の仕事を引き継がせた。李厳は中都護の官のまま漢中の政務にあたることとなる。李厳は李平と改名した。

建興九年(二三一)、諸葛亮は北征の途につき祁山に布陣した。李平が軍需物資輸送の一切を監督した。夏から秋にかけて雨が止まず、李平は兵糧搬送が間に合わないことを前線に伝えたので諸葛亮は撤退した。ところが李平は驚いたふりをして「兵糧は足りているから撤退する必要はない」と言い、自分の責任を諸葛亮に転嫁した。その一方、皇帝劉禅に「退却のふりをして敵を撃つ作戦です」と上奏した。しかし諸葛亮は李平の自筆の手紙を提出して矛盾を明らかにしたので、李平は罪を認めた。

李平は庶民に落とされたうえ梓潼郡に流された。李平はやがて諸葛亮が自分を復帰させてくれるだろうと期待したが、建興十二年(二三四)に諸葛亮が陣没すると気落ちして発病し、まもなく死んだ。

【参照】高勝 / 高定元 / 諸葛亮 / 曹真 / 曹操 / 陳到 / 馬秦 / 李豊 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 劉表 / 永安宮 / 益州 / 越巂郡 / 漢中郡 / 祁山 / 荊州 / 犍為郡 / 江州県 / 秭帰侯国 / 梓潼郡 / 新道県 / 成都県 / 南陽郡 / 白帝県 / 緜竹県 / 県令 / 興業将軍 / 光禄勲 / 護軍 / 尚書令 / 前将軍 / 太守 / 中都護 / 統内外軍事 / 都督 / 督軍 / 裨将軍 / 驃騎将軍 / 輔漢将軍 / 牧 / 仮節

劉琰Liu Yan

リュウエン
(リウエン)

(?〜234)
蜀行中軍師・衛尉・車騎将軍・都郷侯

字は威碩。魯国の人。

劉備が予州にいたとき召し出されて従事となる。同姓でもあり、また風雅の心があるうえ議論を好んだので劉備に愛され、随行して各地を巡ったが、いつも賓客としてお側近くにあった。益州が平定されると固陵太守に任じられる。

劉禅が皇帝に即位すると都郷侯に封じられる。席次は李厳に次ぎ、衛尉・中軍師・後将軍に任じられ、のち車騎将軍に昇進したが、国政には参加せず、諸葛亮の側近くにいて議論や風刺をするだけだった。その生活は車馬・衣服・飲食の全てに贅沢を極め、奴婢数十人はみな歌や音楽に通じ、その全員が王延寿の『魯霊光殿賦』を暗唱できた。

建興十年(二三二)、魏延と不仲となり、泥酔したおり彼に対してでたらめな発言をした。諸葛亮が詰問すると陳謝したので、彼は官位は据え置かれたまま成都に返された。

同十二年正月、妻の胡氏が参内して皇太后に年賀の礼を捧げた。皇太后は胡氏がしばらく後宮に留まるよう命じ、劉琰の屋敷に帰したのは一ヶ月も後のことになった。劉琰は胡氏が美貌を持っていたため皇帝劉禅と姦通したのではないかと疑い、彼女を何度も鞭打ち、草履で顔を殴りつけたすえ離縁した。はたして胡氏が夫を告訴し、劉琰は処刑された。

【参照】王延寿 / 魏延 / 胡氏 / 諸葛亮 / 穆皇后(皇太后) / 李厳 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 固陵郡 / 成都県 / 都郷 / 予州 / 魯国 / 衛尉 / 郷侯 / 後将軍 / 車騎将軍 / 従事 / 太守 / 中軍師 / 魯霊光殿賦

魏延Wei Yan

ギエン

(?〜234)
蜀使持節・前軍師・征西大将軍・涼州刺史・南鄭侯

字は文長。義陽郡の人。

劉備の益州攻略で戦功を挙げ、一部隊長から牙門将軍に昇進した。劉備が漢中王になると首都を成都に定めたので、漢中を守る将軍が必要となった。人々は張飛こそが相応しいと考え、張飛自身もそう自負していた。ところが魏延が抜擢され督漢中・鎮遠将軍・漢中太守に任じられると、人々はみな驚いた。劉備は群臣の居並ぶなか魏延に尋ねるに「君はこの重任をどう考えているのか」。魏延は答えて「曹操が中国全土の軍勢を催してきたなら全力で防ぎます。曹操の副将が十万の軍勢で来たなら呑み込んでやります」。この言葉に劉備は頷いて群臣も感嘆した。

蜀が建国されると鎮北将軍に昇任し、建興元年(二二三)には都亭侯に封じられる。同五年、諸葛亮が漢中に駐屯すると督前部となり、丞相司馬・涼州刺史を兼任した。同八年に羌中に西進、陽谿にて魏の費瑤・郭淮と戦って大いに撃破した。前軍師・征西大将軍・仮節となり、南鄭侯に封じられる。

魏延はつねづね、軍勢一万を率いて山道づたいに長安を奇襲する作戦を採りたいと考えていた。しかし諸葛亮が許可しなかったので、魏延はいつも彼が臆病だから自分の才能が発揮できないと歎いていた。魏延は人並み外れて勇猛だったうえ誇り高い性格だったので、人々はみな彼にへりくだったが、ただ楊儀だけが頭を下げなかったので、二人は互いに憎しみ合っていた。

建興十二年(二三四)の秋、諸葛亮が北伐の陣中で病を発すると、魏延が殿軍を担当して撤退するよう作戦が示された。諸葛亮が没すると、楊儀は費禕を遣わして魏延の意向を探らせた。魏延は「丞相(諸葛亮)が亡くとも私がいるではないか。丞相の直属である貴方たちは御遺体を担いで帰国なされ。私は諸軍の指揮を引き継いで敵を討伐する所存だ」と言った。費禕が帰ったあと魏延が楊儀たちの動向を調べさせると、諸葛亮の軍勢はみな撤退を始めていたので大いに腹を立て、先回りして彼らが帰国できないようにした。

魏延と楊儀は互いに相手が叛逆したと皇帝劉禅に訴えた。劉禅は量りかねて董允・蔣琬に問うと、二人とも魏延が疑わしいと言上した。魏延は先に南谷口に到着して楊儀の軍勢を迎え撃ったが、楊儀の先鋒王平が「丞相が亡くなられたばかりなのに、なぜそんなことをするのだ」と怒鳴りつけると、魏延の部下たちは魏延の非を知っていたのでみな去った。魏延は力を失って漢中に逃げようとしたが、追い付いた馬岱に斬殺された。かくて魏延の三族は処刑された。

【参照】王平 / 郭淮 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 曹操 / 張飛 / 董允 / 馬岱 / 費禕 / 費瑤 / 楊儀 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 漢中郡 / 魏 / 義陽郡 / 羌中 / 蜀 / 成都県 / 長安県 / 都亭 / 南谷口 / 南鄭県 / 陽谿 / 涼州 / 王 / 仮節 / 牙門将軍 / 侯 / 刺史 / 丞相 / 丞相司馬 / 征西大将軍 / 前軍師 / 太守 / 鎮遠将軍 / 鎮北将軍 / 亭侯 / 督漢中 / 督前部

楊儀Yang Yi

ヨウギ
(ヤウギ)

(?〜235)
蜀中軍師・丞相長史・綏軍将軍

字は威公。襄陽郡の人。

建安年間に魏の荊州刺史傅羣の主簿となったが彼に背いて関羽のもとに走った。関羽は楊儀を襄陽郡の功曹に任じ、劉備への使者として益州に派遣した。劉備は彼と軍事や国政について話し合い、大いに気に入ったので左将軍(劉備)の兵曹掾に任命した。劉備が漢中王になると尚書に抜擢される。しかし上司である尚書令劉巴と折り合いが悪く、弘農太守に左遷された。当時、弘農は魏の領有するところだったので、太守といっても名ばかりであった。

建興三年(二二五)、丞相諸葛亮が南中鎮圧の軍を起こすと彼を参軍に任じ、軍の事務を司らせた。同五年、諸葛亮に随行して漢中に駐留。同八年には長史・綏軍将軍に昇進する。楊儀は部隊編成や兵糧の需要を計算したりしたが、行き詰まることもなく短時間で仕事を終えた。諸葛亮は彼の才幹を愛し、また魏延の武勇を頼りとしていたので、その二人がつねにいがみ合っていることを非常に残念がっていたが、どちらかを辞めさせようとはしなかった。

建興十二年(二三四)に丞相諸葛亮が陣没したのち、命令違反をした魏延を誅伐したことで、楊儀は自らの功績が莫大であり、自分が諸葛亮の仕事を引き継ぐべきであると考えるようになる。しかし諸葛亮は生前、楊儀は心が狭い性格なので蔣琬に後事を任せたいと周囲に語っていた。はたして蔣琬が尚書令・益州刺史に任じられ、楊儀は実際の仕事がない中軍師の官職を与えられただけであった。

蔣琬はかつて楊儀が尚書だったころ尚書郎(見習い)に過ぎず、のち諸葛亮の遠征にはいつも楊儀が活躍していたので、年齢・官位・実績において自分が勝っていると思っていた楊儀は不満を抱いた。彼の怨念と憤怒は声色や顔色にあらわれ、心の底から沸き上がる溜息や舌打ちは周囲の人々を不安に陥れた。ただ後軍師費禕だけが彼を気遣い、不満を聞いてやった。すると楊儀は「丞相が亡くなられたとき曹魏に降っていれば後悔せずに済んだのに」と言ってしまい、費禕はこの言葉を上奏した。

建興十三年、庶民に落とされ漢嘉郡に流された。楊儀は配所で朝廷に上書して、激烈な誹謗の言葉を吐いたので、郡役人が彼を逮捕しようとやってきた。楊儀は自殺した。

【参照】関羽 / 魏延 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 費禕 / 傅羣 / 劉巴 / 劉備 / 益州 / 漢嘉郡 / 漢中郡 / 魏(曹魏) / 荊州 / 弘農郡 / 襄陽郡 / 南中 / 王 / 功曹 / 後軍師 / 左将軍 / 左将軍兵曹掾 / 参軍 / 刺史 / 主簿 / 尚書 / 丞相 / 尚書令 / 尚書郎 / 綏軍将軍 / 太守 / 中軍師 / 長史