三国志人名事典 ら行

雷緒Lei Xu

ライショ

(?〜209)

廬江郡の賊徒。雷薄の一族か。

建安五年(二〇〇)、廬江太守李術が叛逆して揚州刺史厳象を殺害すると、陳蘭・梅乾らとともに軍勢数万人を集めて李術に荷担し、長江・淮水流域の郡県を破壊した。曹操は新たに劉馥を揚州刺史に任じたが、劉馥は空っぽになっていた合肥城に乗り込み、雷緒らを手懐けると、雷緒らは軍勢をこぞって彼に服従した《劉馥伝》。

同十三年、劉備は周瑜とともに赤壁において曹操を撃退すると、劉琦を荊州刺史に任命するよう上表したうえで、長沙・武陵・零陵・桂陽の四郡を攻略したが、このころ雷緒は部曲の民衆数万人を引き連れて彼に服従している《先主伝》。

十四年三月、曹操は孫権征討の軍勢を起こしたが疫病の流行に苦しみ、十二月になると軍勢を引き上げた《武帝紀》。曹操は揚州各県の長官を任命するとともに、夏侯淵に将軍たちを率いさせて雷緒らを攻撃させ、その結果雷緒は敗北した《夏侯淵伝》。

【参照】夏侯淵 / 厳象 / 周瑜 / 曹操 / 孫権 / 陳蘭 / 梅乾 / 李術 / 劉琦 / 劉備 / 劉馥 / 雷薄 / 合肥侯国 / 荊州 / 桂陽郡 / 赤壁 / 長江 / 長沙郡 / 武陵郡 / 揚州 / 零陵郡 / 廬江郡 / 淮水 / 刺史 / 太守 / 領軍 / 行 / 部曲

雷同Lei Tong

ライドウ

雷銅

雷銅Lei Tong

ライドウ

(?〜218?)

劉備の将。「雷同」とも書く《先主伝》。

建安二十二年(二一七)、呉蘭とともに武都郡の下弁に進撃するも、翌年三月、曹洪に敗れて全滅する《先主・周羣伝》。

史書は呉蘭を取り上げて雷銅の事跡を詳しく伝えないが、『周羣伝』に「全滅して帰らず」とあるので、おそらく雷銅も呉蘭とともに殺されたのだろう。

【参照】呉蘭 / 曹洪 / 劉備 / 下弁県 / 武都郡

雷薄Lei Bao

ライハク

(?〜?)

袁術の部曲《袁術伝》。廬江郡灊県の豪族か。

はじめ部曲として袁術に仕えていたが、建安四年(一九九)夏、彼が曹操に敗北して宮殿を自焼すると《後漢書袁術伝》、陳蘭とともに灊山に楯籠り、袁術の入山を拒絶した。そのため袁術は袁紹を頼って青州に逃れようとして道中で飢え死にしてしまう《袁術伝》。

【参照】袁術 / 袁紹 / 曹操 / 陳蘭 / 青州 / 灊県 / 灊山 / 廬江郡 / 部曲

李異Li Yi

リイ

(?〜?)

劉璋・孫権の将《劉璋伝》。

はじめ益州牧劉璋に仕えていた。漢中の張魯が劉璋と反目するようになると、劉璋はたびたび李異・龐羲に彼を討伐させたが勝つことができなかった《華陽国志》。

のちに征東中郎将趙韙の配下になったが、建安五年(二〇〇)、趙韙は蜀郡・広漢・犍為をこぞって劉璋に叛逆し、劉璋配下の東州兵に撃退されて江州まで走った。翌六年、李異は龐楽とともに趙韙を裏切って斬殺した《劉璋伝》。そうした経緯のためか、益州別駕張松の言葉では、李異は龐羲らとともに功績を誇っていたという《劉璋伝》。

その後、益州を出て孫権に仕えたようである。劉備が益州に入って劉璋を攻撃したとき、劉備に心を寄せていた軍議校尉法正は劉璋に手紙を送り、そのなかで「孫車騎将軍(孫権)は自分の弟と李異・甘寧らを派遣して劉備軍を支援させている」と述べている《法正伝》。

劉璋の部将と孫権の部将を別人とする説もあるが《集解》、法正が劉璋を脅迫した文書に、やはり益州出身の甘寧と並んで列名されていることから同人と考えた。

建安二十四年十二月、陸遜は呂蒙とともに関羽を滅ぼし、李異と謝旌に軍勢三千人を与えて劉備の将詹晏・陳鳳を攻撃させた。李異は水軍を率い、謝旌は歩兵を率いて、ともに要衝の地を押さえ、即座に詹晏を撃破して陳鳳を生け捕りにした《陸遜伝》。

黄初二年(二二一)七月、劉備軍の東下にそなえ、陸遜・劉阿にとともに巫・秭帰に駐屯した。しかし劉備の将軍呉班・馮習の攻撃によって撃破された《先主伝》。翌年六月、陸遜が猇亭において劉備軍を破ると、李異は劉阿とともに追撃し、南山まで進出している《先主伝》。

【参照】関羽 / 甘寧 / 呉班 / 謝旌 / 詹晏 / 孫権 / 張松 / 張魯 / 趙韙 / 陳鳳 / 馮習 / 法正 / 龐楽 / 龐羲 / 陸遜 / 劉阿 / 劉璋 / 劉備 / 呂蒙 / 益州 / 猇亭 / 漢中郡 / 犍為郡 / 広漢郡 / 江州県 / 秭帰県 / 蜀郡 / 南山 / 巫県 / 軍議校尉 / 車騎将軍 / 征東中郎将 / 別駕従事 / 牧 / 東州兵

李意其Li Yiqi

リイキ

李意期

李意期Li Yiqi

リイキ

(?〜?)

蜀の神仙。『三国志』先主伝に引く『神仙伝』では「李意其」とある。

李意期はもともと蜀の人である。どの時代にも現れているが、漢の文帝の時代の人である。妻子はいない《神仙伝》。

遠いところへ速く行きたいという人がいたので、李意期は呪符を手渡し、両脇の下へ赤い文字を書いてやると、千里の彼方であっても往復するのに一日もかからなかった《神仙伝》。

四方の国土や宮殿・市場の様子を語り、すべての人間に会ってきたと語ったこともある。それを理解できない者があったので、李意期は粘土を取ってきて(模型を)作り、その大きさは一寸しかないのに、語った通りのことがすべて再現されていた。そして、あっという間に消えてしまった《神仙伝》。

あるとき、行き先は分からないが、出かけてから一年ほどして帰ってきた。それからは乞食となり、何かを手に入れると、そのつど貧者に与えるようになった。成都城の一角に土穴を作って住まいとし、夏でも冬でも単衣の着物で、酒を飲むことはほとんどなく、干し肉か棗を食べていた《神仙伝》。

劉玄徳(劉備)は呉を討伐して関羽の死に報復しようと思い、使者をやって李意期を迎えさせ、李意期がやってくると、たいへんな敬意を払った。それから呉の討伐について吉凶を訊ねると、李意期は答えず、紙を求め、十数万もの兵馬や武器の絵を描いたあと、一枚一枚それを破りすてては、「おっと」と漏らした。さらに一人の巨人を描くと、地面を掘って絵を埋め、そのまま帰っていってしまった。劉備は面白くない気持ちだったが、案の定、呉軍に敗れ、十万人あまりの兵士のうち生還できたのは僅か数百人、武器・物資のほとんどを失った。玄徳は怒りを抱いて永安宮で卒去した《神仙伝》。

李意期はあまりしゃべらず、だれかが質問しても答えることはあまりない。蜀の人々は心配事があると彼のもとを訪ねるが、吉凶はいつでも同じような現れ方をするので、ただ李意期の顔色を見るだけで占う。にこにこしていれば吉、しんみりしていれば凶なのである《神仙伝》。

のちに琅邪の山中に入山し、それからはもう姿を現さなくなった《神仙伝》。

【参照】関羽 / 劉恒(文帝) / 劉備 / 永安宮 / 漢 / 呉 / 蜀郡 / 成都県 / 琅邪国 / 神仙伝 / 神仙

李移子Li Yizi

リイシ

(?〜?)

公孫瓚の義弟《公孫瓚伝》。

もともと絹売りであったが、劉緯台・楽何当とともに公孫瓚に寵愛され、義兄弟の契りを結ぶ。凡庸であったが、公孫瓚の寵愛を嵩にきて勝手気ままに振る舞い、巨万の富を築いた。お互いに女を自分の息子の嫁に迎え、自分たちを曲周侯・灌嬰になぞらえていた《公孫瓚伝》。

【参照】楽何当 / 灌嬰 / 公孫瓚 / 鄜商(曲周侯) / 劉緯台 / 販繒(絹売り)

李恢Li Hui

リカイ
(リクワイ)

李義

李傕Li kue

リカク

(?〜198)
漢大司馬・開府・領司隷校尉・仮節・池陽侯

字は稚然。北地郡の人《後漢書董卓伝》。董卓の部曲、校尉。

初平二年(一九一)、予州刺史孫堅が兵を拾い集めて梁の陽人に入ると、董卓の将胡軫・呂布の軍勢は孫堅に敗れて逃走した。そこで董卓は李傕を使者に立てて孫堅に講和を求めたが、孫堅はそれを固く拒絶した《後漢書董卓伝》。

孫堅が洛陽に入ると、董卓は女婿牛輔を陝県に残して長安に引き上げたが、李傕らは校尉として牛輔に属した《後漢書董卓伝》。朱儁が荊州から洛陽に入って河南尹楊懿を敗走させると、牛輔は李傕・郭汜・張済に数万騎を与えて中牟県で朱儁を破った《後漢書朱儁・董卓伝》。さらに進撃して陳留・潁川の諸県で男を殺し女を誘拐した。彼らの通過するところでは命を永らえた者はなかった《後漢書董卓伝》。

弘農王劉弁が董卓に殺されたとき、唐姫は郷里潁川に帰っていた。このとき唐姫は李傕に拘束され、妻になることを強要されたが固く拒絶した。李傕は唐姫を殺した《後漢書何皇后紀》。また同郡の荀彧は以前「潁川は四方が争奪する地です。天下に変事が起これば大困難を防ぐことができません。速やかに避難いたしましょう」と父老たちに語ったが、父老たちは土地に愛着があって去ろうとしなかったので、荀彧はただ自分の一族だけを連れて冀州に避難していた。このとき李傕らがやってきて、郷里に留まった者のほとんどが殺されたのである《荀彧伝》。

翌三年四月、司徒王允は呂布とともに董卓を誅殺すると、董卓配下の将校のうち官職に就いている者の多くが涼州人であったため、その軍勢を解散させようと計画し、詔勅によって李粛に陝県の牛輔を討たせた。牛輔はそれを迎え撃って李粛を敗走させたが、陣営内で叛乱が起こったので黄河を北に渡って逃亡しようとした《後漢書王允伝・董卓伝》。

李傕らが陝に帰還すると、すでに牛輔は部下に殺されており、人々は寄る辺なく、おのおの故郷に帰ろうとした《董卓伝》。そこで使者を長安に出して赦免を請願したが、王允が「一年に二度の大赦令は出せない」と言って拒絶したうえ、長安では涼州人を皆殺しにしようとしているという風聞が流れており、李傕らは恐怖のため為すすべを知らなかった。王允・呂布らが幷州の人であったため、李傕は従軍していた幷州出身の男女数百人を皆殺しにした《後漢書董卓伝》。

このとき軍中にいた討虜校尉賈詡は李傕らに告げた。「諸君らが軍勢を棄てて身一つで行くならば、一介の亭長ですら君を縛り上げることができますぞ。軍勢を率いて西上するに越したことはありません。道中で兵をかき集めて長安を攻め、董公(董卓)の仇を討つのです。幸いにもうまくいけば国家(天子)を奉じて天下を征することになりますし、もしそうでなくても逃げるのはそれからです」。李傕はその通りだと思った《賈詡伝》。李傕らは互いに「京師(みやこ)は我らを赦してくれない。我らは死を覚悟しなければならないぞ。もし長安を攻めて勝てば天下を取れるし、勝てなければ三輔地方の婦女・財宝を略奪し、西方に帰郷して延命を図ろう」と言い合った。こうして盟約を結び、軍勢数千人を率いて昼夜兼行で西上した《後漢書董卓伝》。

王允はそれを聞いて、董卓の旧将胡軫・徐栄・楊定を呼んで迎え撃たせようとしたが、そのとき優しげな表情を作らずに「関東の鼠らは何をするつもりなのか。卿らが行って説得してきなさい」と言ったので、もともと王允と仲が悪かった胡軫・楊定は、新豊まで行ったところで李傕軍に寝返り、徐栄は戦死した《董卓伝・後漢書同伝》。

李傕らは道々兵を拾い集め、長安に到達したときには十万人を越えていた。ここで董卓の故(もと)の部曲樊稠・李蒙らとも合流し、長安を包囲した。長安城は高く険しく攻めるのが困難であったが、包囲が八日に及ぶと、呂布配下の叟兵が内応して、李傕の軍勢を引き入れた《後漢書董卓伝》。

六月一日戊午、長安城は陥落し、李傕は南宮掖門に軍勢を駐屯させた。この戦いで太常种払・太僕魯旭・大鴻臚周奐・城門校尉崔烈・越騎校尉王頎らが戦死し、官吏・人民のうち死んだ者は数え切れないほどであった《後漢書献帝紀・董卓伝》。このとき种払は「国の大臣となりながら戦争を止めさせ暴虐を取り除くことができないのなら、逃げてどうしようというのか」と言って戦死したのであった《种暠伝》。

呂布は青瑣門外に馬を繋いで王允に「公は行かれないのですか」と問うたが、王允は「社稷の霊を被った上は国家を安んずることこそ我が願いである。それが叶わなければ身を捧げて死ぬまでのこと。朝廷(天子)は幼少であらせられ我だけをお頼みにしておられる。危難に遭遇して保身を図ることは忍びがたいことだ。どうか関東の諸公に陳謝して国家のために尽力してくれ」と言って拒絶した《王允伝》。呂布は武関を抜けて逃走した《呂布伝》。

王允が天子の手を引いて宣平城門に昇って戦闘を避けると、李傕らは城門の下で土下座した。天子(または王允)は「卿は威信・幸福を完成させようとはせず、軍勢を放って好き勝手しておるが、どうして欲しいのか」と訊ねたが、李傕らは答えず、「董卓は陛下に対して忠義でしたが、故なくして呂布に殺されてしまいました。臣らは董卓の敵討ちをしたいだけで、あえて叛逆するものではございません。それが済めば廷尉に出頭して処罰をお受けいたします」と訴え、さらに王允の顔を見せるよう請願し、「太師(董卓)に何の罪があったのだ?」と難詰すると、王允は追い詰められて城門を下りた《董卓伝・後漢書同伝》。

己未、天下に大赦令を出した《後漢書献帝紀》。李傕は揚武将軍に、郭汜は揚烈将軍に、張済は将軍、樊稠らは中郎将に自分で任じた《董卓伝・後漢書同伝》。司隷校尉黄琬を獄に下して殺害した《後漢書献帝紀・黄瓊伝》。

王允は以前、兄王宏を右扶風太守、同郡の宋翼を左馮翊太守としていたが、李傕はその両郡が強力であるのを恐れ、王允を殺したくても手を下すことができなかった。そこでまず詔勅を出させて王宏・宋翼を召し返すことにした。宋翼が「王命背きがたし」と言って王宏の制止も聞かずに出頭したので、やむをえず王宏も出頭した《後漢書王允伝》。甲子、李傕は王允を王宏・宋翼ともども殺害し、彼の一族を皆殺しにした《後漢書献帝紀・同王允伝》。

李傕は郿宮殿で董卓の葬儀を行い、彼の遺灰を集めて棺に収めたが、その日、大風雨となって稲妻が董卓の墓に落ち、その中まで水が流れて彼の棺桶を漂わせた《後漢書董卓伝》。

李傕は大尉周忠・尚書賈詡の進言を受け入れ、中牟から朱儁を召し返した。朱儁は陶謙らの諫言を容れず、李傕のもとに出頭し、太僕に任じられた《後漢書朱儁伝》。また袁術を左将軍・仮節・陽翟侯に、劉表を鎮南将軍・荊州牧・仮節・成武侯に、陶謙を安東将軍・徐州牧・溧陽侯にした《袁術・劉表・後漢書陶謙伝》。八月、大傅馬日磾・太僕趙岐を使者として天下を慰撫させた。馬日磾は洛陽に到着すると、上表して趙岐に勅命を宣言させたが、郡県の至るところで「今日またご使者のお車を見ることができた」と百姓は喜んだ《趙岐伝》。

当時の太僕については未確認。

九月、李傕は自ら車騎将軍・開府・領司隷校尉・仮節・池陽侯となり、郭汜は後将軍、樊稠は右将軍、張済は鎮東将軍となり、いずれも列侯に封ぜられた。李傕・郭汜・樊稠はそろって朝廷の政治を牛耳り、張済は長安を出て陝に駐屯した《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

征西将軍馬騰は李傕に私的な交際を求めて断られたため、益州刺史劉焉が皇室から出た大臣であることから、使者をやって一緒に李傕を誅殺しようとした。劉焉は子左中郎将劉範に兵を率いさせて馬騰に協力させた。故(もと)の涼州刺史种劭は父种払が李傕に殺されていたので、その仇を討つため馬騰らの計画に参加し、侍中(または諫議大夫)の馬宇・中郎将杜稟・劉範とともに内応することにしたが、馬騰が長平観まで来たとき、計画が露見して种劭らは槐里に逃走した。鎮西将軍韓遂は馬騰・李傕を和解させようとしたが、しばらくして馬騰に味方した。馬騰・韓遂は長平観の麓で郭汜・樊稠・李利らと戦ったが敗走し、樊稠が槐里まで追撃すると种劭らはみな戦死した《後漢書献帝紀・同种崧伝・董卓伝》。

樊稠らは馬騰・韓遂を陳倉まで追走したが、韓遂は樊稠に使者を出して「天地は転覆してどうなるか分からない。もともと争っているのは私怨のためじゃない、王家のためなのだ。足下とは同州の出身なのだから、いま小さな行き違いがあるとはいえ、大まかにいって同じ立場じゃないか。一緒によくよく語り合った上で別れよう。出会いが万一にも不本意なものであったら、あとでまた会うことはできないのだから」と告げた。そこで二人は馬をならべて語り合い、手を重ね合って別れた。李傕の兄の子李利は帰還したとき、樊稠・韓遂が親しげに語り合っていたことを告げた《董卓伝》。

樊稠・郭汜の二人も開府を許され、役所は三公と合わせて六つになり、いずれも人事任用に参加した。当時、長安では盗賊がはびこって昼間から略奪を働いていた。李傕・郭汜・樊稠は城内を三分割して統治していたが、盗賊を取り締まることはできず、そのうえ子弟を好き勝手にして百姓に乱暴させた。食糧の値段は高騰し、人々は互いに喰らい合い、白骨が散乱して道路に異臭が充満した《後漢書董卓伝》。

翌年、李傕は樊稠が勇敢で人々の心を掴んでいることを警戒していたが、また韓遂と私淑して謀叛するのではないかと疑った。さらに樊稠は軍勢を率いて関東に出撃したいと言い、李傕に軍勢の増援を求めたので、二月乙亥、彼を会議に招いて酒に酔わせ、待機させていた騎都尉胡封に殺させた《董卓伝・後漢書同伝・同献帝紀》。

李傕はしばしば酒宴を設けて郭汜を招き、ときには彼を自邸に宿泊させていた。郭汜の妻は彼が李傕の婢妾と密通して寵愛を奪われるのではないかと心配し、彼と李傕との仲を裂こうとした。たまたま李傕から食膳が贈られてきたが、妻は味噌を薬に見せかけて作り、郭汜が食べようとしたとき「外から来た食べ物には何かあるかも知れませんよ」と言って味噌の薬を摘み上げて見せ、そして「二羽の雄鳥は巣を一つにしないもの。我はもともと将軍が李公を信じていることが疑問でした」と言った。ある日、郭汜は李傕に招かれて泥酔したが、毒薬を盛られたのではないかと疑い、糞を絞った汁を飲んで解毒した。こうして李傕と郭汜は疑心暗鬼になっていった《董卓伝》。

安西将軍楊定は李傕に殺害されることを恐れ、郭汜とともに自分の陣営に天子を迎え入れようとした。三月丙寅、李傕はそれを知り、兄の子李暹に数千人を率いさせて宮殿を包囲させ、車三乗を用意して天子・皇后を招いた。大尉楊彪が「古今の帝王が臣下の家に入ったことはないのだぞ。諸君らは天の御心に従うべきだ、こんなことをしてどうする」と叱ったが、李暹は「将軍の計画は決まっているのです」と言って、天子を李傕の陣営に移した。李暹の兵たちが宮殿の中に入って宮女や御物を略奪したが、さらに李傕は宮殿を焼き尽くしてしまった《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

天子は楊彪・司空張喜ら十人余りを使者に立てて、李傕と郭汜を和解させようとしたが、郭汜は使者を人質に取った。楊彪は「一人は天子を誘拐し、一人は公卿を人質にする。そんなことはすべきじゃない」と言い、怒った郭汜が刃物を手にして彼を殺そうとすると、「卿は国家ですら大事にしないのだから、吾は生き延びようとするものか!」と言った。左右の者が反対したので郭汜は彼を見逃した《後漢書董卓伝》。

丁酉の夜、郭汜は李傕の将張苞・張龍とともに李傕を誅殺しようと企て、軍勢を率いて李傕陣営の門を攻撃した。斥候が門を開いて郭汜の軍勢を中に入れ、張苞らが建物に放火したが、火は広がらなかった。郭汜軍は弓弩を放ったが、その矢は李傕の耳を貫通したばかりか、天子の御簾の中まで飛んできた。李傕の将楊奉が軍勢を率いて助けに来たので、郭汜は兵を引いた《後漢書董卓伝》。その日、李傕は天子を北塢に遷したが、伏皇后・宋貴人だけが同行を許された。李傕は校尉に命じて門を監視させ、内外の出入りを断絶させた《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

李傕はさらに黄白城に天子を遷座させようと計画したが、司徒・録尚書事趙温は李傕に手紙を送って諫めた。「公は董公の仇を討つのだとおっしゃってましたが、しかし実際には王城を陥落させて大臣を殺戮してしまいました。いま郭汜と争って不倶戴天の敵だとなさっておりますが、人々は塗炭の苦しみにあり、生きるよすがもありません。朝廷(天子)が詔勅を下して和解させようとしても、ご下命は行われず、ご威光は日に日に衰えています。今度はまた御車をお遷ししようとしています。早急に和解して軍勢を引き上げるに過ぎたことはありません」。李傕は激怒して彼を殺そうとしたが、かつて彼の掾を務めていた李傕の従弟李応が数日にわたって諫めた結果、彼を赦免した《後漢書趙典伝》。

天子は詔勅を下し、謁者僕射皇甫酈に李傕と郭汜を和解させることとした。皇甫酈がまず郭汜を説得すると、彼は命令に従った。つぎに李傕を訪れたが、彼は拒絶して「郭多(郭汜)は馬泥棒に過ぎないんだ、我と同列になぞ扱うものか!郭多は公卿を人質にしているがそれはどう思うかね」と言った。皇甫酈が「郭汜は公卿を人質にしておりますが、将軍もご主君を脅迫なさってます。どちらの罪が重いのでしょうか?」と言うと、李傕は激怒して彼を追い払った。さらに虎賁王昌に命じて殺させようとしたが、王昌はわざと追及しなかった《後漢書董卓伝》。

五月壬午、李傕は自分を大司馬に任じた《後漢書献帝紀》。李傕は巫術を愛好し、いつも道人や巫女に歌ったり太鼓を叩いたりさせて神を祭り、また朝廷の門外に董卓の像を作って神とし、たびたび牛や羊を捧げて祭っていた。左中郎将李国(李固とも)が使者となって李傕を大司馬に任じたとき、李傕は鬼神の霊験だと思って巫女に褒美をやった《後漢書董卓伝》。

衛尉楊奇・黄門侍郎鍾繇・丁沖・尚書左丞魯充・尚書郎韓斌は李傕の部曲宋曄・楊昂(楊帛)・楊奉・宋果を味方に誘い、李傕を殺そうとした。ちょうど別件で李傕が楊昂を殺したので、楊奉は部下とともに郭汜のもとに逃れた。しかしこのことから李傕の勢力は衰えてしまった《後漢書楊震伝・董卓伝》。

六月庚午、陝から張済が来てようやく李傕・郭汜を和解させ《後漢書献帝紀》、力づくで天子を弘農に遷そうと計画した《後漢書董卓伝》。天子もまた洛陽を懐かしく思ったので、七月甲子、李傕に使者をやって東方への帰還を懇願した。即日、天子の御車は長安を出立して洛陽を目指し、郭汜・楊定・楊奉・董承らが随行し、張済も驃騎将軍に任じられて一足先に陝に帰還した。李傕は長安を出て曹陽に駐屯した。郭汜は途中で気が変わり、天子を脅迫して郿に遷そうとしたが、楊定・楊奉・董承らが反対したので、変事が起こることを恐れて軍勢を棄てて李傕のもとへ走った《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

李傕・郭汜は天子を東に行かせたことを後悔し、天子をさらって西に連れてこようとした。十月戊戌の夜、郭汜は部下伍習に天子の宿所を焼き討ちさせて乗輿に迫った。壬寅、御車は華陰に到達して野営したが、張済は楊奉・董承と仲が悪かったので李傕・郭汜に味方し、十一月庚午、李傕・郭汜らとともに御車を追撃し、弘農の東の谷間において戦闘となった。官軍は敗北し、光禄勲鄧泉・衛尉士孫瑞・廷尉宣播・大長秋苗祀・歩兵校尉魏桀・侍中朱展・射声校尉沮儁らが殺された。沮儁が負傷して馬から落ちたとき、李傕は側近たちに「まだ生きているのか」と訊ねたが、沮儁は「汝ら叛逆者どもは天子を脅迫しておるが、汝ほどの乱臣賊子はいなかったぞ!」と罵倒して殺されたのである《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

壬辰、天子は曹陽で野宿したが、董承・楊奉は李傕らと偽りの和睦を結ぶ一方、白波賊胡才・李楽・韓暹・匈奴左賢王去卑を呼び寄せた。董承らは彼らとともに李傕らと戦い、李傕らを大敗北させた。十二月庚辰、御車が進もうとしたので、李傕らはまた追いかけて攻撃すると、官軍は大敗した。李傕らは宮女たちを殺したり誘拐したりして、少府田芬・大司農張義・朱儁・周忠らが戦死した《後漢書献帝紀・同周栄・董卓伝》。天子は陝津から黄河を渡り、そこからまた洛陽へ帰還することができた《董卓伝》。

三年四月、謁者裴茂が中郎将段煨ら関中諸将を率いて李傕を討伐し、三族皆殺しとした《後漢書献帝紀》。

【参照】袁術 / 王允 / 王頎 / 王宏 / 王昌 / 賈詡 / 郭汜 / 韓遂 / 韓暹 / 韓斌 / 魏桀 / 牛輔 / 去卑 / 伍習 / 胡才 / 胡軫 / 胡封 / 黄琬 / 皇甫酈 / 崔烈 / 士孫瑞 / 朱儁 / 朱展 / 周奐 / 周忠 / 荀彧 / 徐栄 / 鍾繇 / 宣播 / 沮儁 / 宋貴人 / 宋果 / 宋曄 / 宋翼 / 孫堅 / 段煨 / 种劭 / 种払 / 張喜 / 張義 / 張済 / 張苞 / 張龍 / 趙温 / 趙岐 / 丁沖 / 田芬 / 杜稟 / 唐姫 / 陶謙 / 董承 / 董卓 / 鄧泉 / 馬宇 / 馬日磾 / 馬騰 / 裴茂 / 苗祀 / 樊稠 / 伏皇后 / 楊懿 / 楊奇 / 楊昂(楊帛) / 楊定 / 楊彪 / 楊奉 / 李応 / 李楽 / 李国 / 李粛 / 李暹 / 李蒙 / 李利 / 劉焉 / 劉協(天子) / 劉範 / 劉表 / 劉弁(弘農王) / 呂布 / 魯旭 / 魯充 / 潁川郡 / 益州 / 槐里県 / 華陰県 / 関東 / 冀州 / 荊州 / 黄河 / 弘農郡 / 黄白城 / 三輔 / 徐州 / 新豊県 / 青瑣門 / 成武県 / 陝県 / 陝津 / 宣平城 / 曹陽亭 / 中牟県 / 池陽県 / 長安県 / 陳倉県 / 陳留郡 / 南宮掖門 / 武関 / 郿県 / 馮翊郡(左馮翊) / 扶風郡(右扶風) / 幷州 / 北塢 / 北地郡 / 予州 / 陽人 / 陽翟県 / 洛陽県 / 溧陽県 / 梁県 / 涼州 / 安西将軍 / 安東将軍 / 右将軍 / 衛尉 / 越騎校尉 / 謁者 / 謁者僕射 / 掾 / 河南尹 / 諫議大夫 / 騎都尉 / 侯 / 校尉 / 黄門侍郎 / 光禄勲 / 後将軍 / 虎賁 / 左賢王 / 左将軍 / 左中郎将 / 三公 / 司空 / 刺史 / 侍中 / 司徒 / 車騎将軍 / 射声校尉 / 尚書 / 尚書左丞 / 尚書郎 / 少府 / 城門校尉 / 司隷校尉 / 征西将軍 / 大尉 / 大鴻臚 / 太師 / 大司農 / 大司馬 / 太守 / 太常 / 大長秋 / 大傅 / 太僕 / 中郎将 / 長平観 / 鎮西将軍 / 鎮東将軍 / 鎮南将軍 / 廷尉 / 亭長 / 討虜校尉 / 驃騎将軍 / 牧 / 歩兵校尉 / 揚武将軍 / 揚烈将軍 / 列侯 / 録尚書事 / 夷(皆殺し) / 開府 / 仮節 / 鬼怪・左道之術(巫術) / 匈奴 / 女巫(巫女) / 道人 / 白波賊 / 府(役所) / 部曲 / 叟 / 大赦令 / 領

李堪Li Kan

リカン

(?〜211)

河東郡の人《張魯伝》。「李〓」とする本もある《武帝紀集解》。

『三国志演義』の表現に誘われて西涼の人と見なされているが、実際は河東の人なのである。

興平年間(一九四〜一九六)に関中が混乱したとき、程銀・侯選らとともにおのおの千家余りの部落を有した《張魯伝》。建安十六年(二一一)、司隷校尉鍾繇が漢中の張魯を攻めようとしていることを知ると、その矛先が自分たちに向けられているのではないかと疑い、馬超・韓遂・楊秋・成宜らとともに挙兵した。しかし諸将は曹操の計略によって不和となり、曹操が前後から挟撃したため大敗、李堪・成宜らは戦死した《武帝紀・馬超伝》。

【参照】韓遂 / 侯選 / 鍾繇 / 成宜 / 曹操 / 張魯 / 程銀 / 馬超 / 楊秋 / 河東郡 / 漢中郡 / 関中 / 司隷校尉

李義Li Yi

リギ

(?〜?)
魏太僕

字は孝懿。馮翊郡東県の人《裴潜伝》。一名を李恢という《杜畿伝》。中平年間(一八四〜一八九)の末頃、二十歳余りだった《裴潜伝》。

性質は重厚で葬儀を取り仕切ることが得意だった。もともと東県には官吏を出す名門がなかったが、隣県の名族桓氏・田氏・吉氏・郭氏、また元の侍中鄭文信らは、同県の厳幹とともに彼を認めた。三輔が混乱したとき、人々は難を避けて土地を離れたが、李義と厳幹は知人たちとともに残り、薪取りをして生計を立てた《裴潜伝》。

建安元年(一九六)に東西の交通が回復すると、詔勅によって馮翊郡は東西に分割された。李義の故郷は西側の左内史郡に属すことになったが、李義は厳幹に「左内史郡の小僧らと席を争うのはごめんだ。今は一緒に方牀(?)を作るだけにしよう」と告げ、東側に仕えて重職に就いた。その年末、厳幹は孝廉に推挙され、李義は上計掾に任じられた。のち都に留まって平陵県令となり、冗従僕射に昇進した《裴潜伝》。

建安十八年(二一三)五月、曹操は魏公になると李義を招いて軍祭酒とし、のち尚書左僕射に昇進させた。曹丕が帝位に昇ると李義は諫議大夫となり、のち衛尉に昇進し《裴潜伝》、また太僕に転じたが《杜畿伝》、在職中に卒去した《裴潜伝》。李義は人と付き合うとき、正直さをもって誠実を貫いた。そのため陳羣らも彼と対等に付き合ったのである《裴潜伝》。

子李豊は父の縁故で軍に入って名声を得たが、李義はそれを好ましく思わず、門を閉ざして客の来訪を断った《裴潜伝》。李義は杜畿とも親交を結んでいたが、李豊が杜畿に会ったとき、杜畿は「李義には子がないばかりか、家までなくなってしまうだろう」と嘆じた《杜畿伝》。はたして李豊は大将軍司馬昭の暗殺を企てた廉で、夏侯玄らとともに三族皆殺しとなった《夏侯尚伝》。

【参照】夏侯玄 / 郭氏 / 桓氏 / 吉氏 / 厳幹 / 司馬昭 / 曹操 / 曹丕 / 陳羣 / 鄭文信 / 田氏 / 杜畿 / 李豊 / 魏郡 / 左内史郡 / 三輔 / 東県 / 馮翊郡 / 平陵県 / 衛尉 / 諫議大夫 / 軍祭酒 / 県令 / 公 / 孝廉 / 上計掾 / 冗従僕射 / 尚書僕射(尚書左僕射) / 侍中 / 大将軍 / 夷三族(三族皆殺し)

李休Li Xiu

リキュウ
(リキウ)

(?〜?)
魏議郎

字は子朗。南陽郡の人。李勝の父《曹真伝》。

李休は智略の持ち主で、かつて張魯が鎮北将軍(?)になったとき、司馬として南鄭に住まいを移した《曹真伝》。

張魯は鎮北将軍になったことがない。鎮南将軍の誤りかとも思われるが、張魯がこれに任命されたのは曹操に帰順したのちのことであり、年代が矛盾する。張魯の漢中にいたころの官職は鎮民中郎将《張魯伝》、あるいは鎮夷中郎将であった《後漢書劉焉伝》。

そのころ漢中で甘露が降り注いだことがあり、張魯が精鋭数万人を抱え、四方も堅固であったことから、李休は「赤気は長いあいだ衰えておりますので、黄家が勃興するはずです」と言上し、張魯に王号を称えさせようとした《曹真伝》。しかし張魯は閻圃の諫言をいれて、賛成しなかった《張魯伝》。

発言内容からすれば帝号を称えさせようとしたことになるが、『張魯伝』では「漢寧王」に奉ろうとしたとある。さきざきの帝位簒奪のため、まず王位から窺ったのであろうか。

張魯が曹操に敗れたとき、李休は彼に帰順を勧めた功により関内侯の爵位を賜り、散官騎従に任命され、鄴へ参詣した《曹真伝》。黄初年間(二二〇〜二二七)に上党・鉅鹿の太守を歴任したのち、老年を理由に召し返され、議郎の官を拝命した《曹真伝》。

張魯に帰順を勧めた功績というが、その功績の具体的内容は知られていない。あるいは別項李伏が同人であって、姜合の予言によって張魯に帰服を勧めたことを指しているのかも知れない。

【参照】閻圃 / 曹操 / 張魯 / 李勝 / 漢中郡 / 鄴県 / 鉅鹿郡 / 上党郡 / 南鄭県 / 南陽郡 / 関内侯 / 議郎 / 散官騎従 / 司馬 / 太守 / 鎮北将軍

李衡Li Heng

リコウ
(リカウ)

(?〜?)
呉威遠将軍・丹楊太守

字は叔平。襄陽の人《孫休伝》。

もともと兵卒の家の子であったが、漢代末期、呉に移住して武昌の庶民になった。羊衜が人物を見る目があると聞いて彼の元を訪れたところ、羊衜は「多難な世にあって尚書の激務に耐えうる郎の才覚をお持ちじゃ」と告げた《孫休伝》。また羊衜は自分の女を李衡に嫁がせた《孫休伝集解》。

当時、校事の呂壱が権勢を握って大臣でさえ口出しできないほどであったが、羊衜はみなと一緒に「李衡でなければ懲らしめられる者はおりませぬ」と郎に推挙した。孫権に拝謁すると、李衡は呂壱の悪事を数千語にわたってあげつらったので、孫権は恥ずかしそうな様子を見せた。数ヶ月後、呂壱が誅殺され、李衡は大変なお目こぼしを受けた《孫休伝》。

のちに太傅諸葛恪の司馬となり、いつも役所の事務を取り仕切っていた《孫休伝》。諸葛恪の使者として蜀へ赴き、呉と蜀とで同時に魏を攻撃しようと姜維を説得している《諸葛恪伝》。

諸葛恪が誅殺されると丹陽太守への出向を願い出た。そのころ琅邪王孫休が丹陽郡の役所に住まいしていたが、妻の習氏がそれを諫めるのも聞かず、李衡は法律に則って彼をたびたび取り締まった。孫休はそれをうとましく思い、朝廷への上表の結果、会稽への移住を許された《孫休伝》。

のちに孫休が帝位に昇ると、李衡は復讐を恐れて「そなたの言葉を聞かなかったため、こんなことになってしまったよ」と習氏に告げ、魏へ亡命しようとした。しかし習氏は「なりませぬ。君はもともと庶民の身でしたのを先帝のお引き立てを蒙ったのですよ。もう何度も無礼を働いているのに今さら猜疑心を起こし、保身のために逃亡するなら、北方へ帰っても郷里の人々に何の面目が立ちましょう」と反対した《孫休伝》。

李衡「どうすればよかろう」、習氏「琅邪王さまはもともと善事を好んで名声を慕われるお方。いま天下に自分を誇示しようとお考えですから、私怨によって君を殺すことなど決してなさらないことは明らかです。獄舎に自首して以前の過失を列挙し、処罰を受けたいとの態度をお示しになるのがよろしゅうございましょう。そうすれば、ただ生き延びるのみならず、かえってご加増を賜ることでしょう。」《孫休伝》

李衡が妻の言う通りにすると、孫休は「かつて(管仲が斉桓公の)鉤を射、(披が晋文公の)袖を斬った例もある。主君の元にあれば主君のために尽くすものだ。李衡を郡に戻して疑心を抱かせぬように」と詔勅を下し、さらに威遠将軍の官位を加増し、棨戟を下賜した《孫休伝》。

李衡はいつも家業を営みたいと考えていたが、そのつど習氏が反対していた。そこで妻に内緒で武陵郡龍陽の汎洲に食客十人を住まわせ、みかん千株を植えさせた。李衡は臨終を迎え、「お前たちの母が家業を営むのを反対してのう。それでこんなに貧乏なのだよ。じゃが吾の故郷には木の奴隷が千人おって、衣食は要求せぬのに毎年絹一匹づつ献上してくるので、それで用を足すのがよかろう」と子供たちに遺言した。みかんが成長すると、毎年、絹数千匹の利益を上げて家計を潤した《孫休伝》。後年、汎洲はみかん畑にちなんで「橘洲」「柑洲」とも呼ばれるようになった《孫休伝集解》。

【参照】姜維 / 習氏 / 諸葛恪 / 孫休 / 孫権 / 羊衜 / 呂壱 / 会稽郡 / 漢 / 魏 / 呉 / 襄陽郡 / 蜀 / 丹楊郡(丹陽郡) / 汜洲(汎洲・橘洲・柑洲) / 武昌県 / 武陵郡 / 龍陽県 / 琅邪国 / 威遠将軍 / 王 / 校事 / 尚書 / 太守 / 太傅 / 郎 / 棨戟 / 人物之鑑(人物を見る目) / 府(役所)

李儒Li Ru

リジュ

(?〜?)
漢侍中

字は文優。馮翊郡郃陽の人《曹全碑》。

光和七年(一八四)、妖賊の張角が挙兵して諸州で混乱を起こすと、(郃陽の)県民郭家らがこれに応じて反逆をなし、県城や役所を焼き払って民衆を不安に陥れた。そこで聖主は曹全を郃陽の県令に任じて鎮圧に当たらせたが、曹全は賊軍を滅ぼして根源を絶ち、さらに県の名士たちを訪ねたり起用したりした。中平二年(一八五)十月、県出身の博士李儒は、その領民として商量・司馬集らとともに善政を讃える碑を立てた《曹全碑》。

李儒の名は碑文の中に現れる学者たちの筆頭に挙げられ、碑陰の寄進者一覧にも名を連ねている。この碑文そのものが李儒によって書かれた可能性もあるのではないか。

のちに董卓が朝政を握り、帝を廃して弘農王に下した。初平元年(一九〇)正月、李儒は弘農王の郎中令に任じられていたが、董卓の命により弘農王に「このお薬を服用なされば邪気を払えまするぞ」と毒酒を献じた。王は「我は病気ではない。これは我を殺そうとしたものであろう」と言って受け取ろうとしなかったが、李儒が力づくで飲ませようとした。こうして王はやむなく薬を飲み、死んだ。弟の劉協が董卓によって皇帝に立てられていたが、兄王の死を聞いて玉座から崩れ落ち、限りなく哀しんだ《後漢書皇后紀・後漢紀》。

ここで郎中令とあるのは弘農王国の官職。漢室の光禄勲に相当する。

董卓が死ぬと、代わって李傕が実権を握った。同三年十月、李傕が博士李儒を侍中に推挙すると、帝は「李儒はかつて弘農王の郎中令となり、我が兄に迫って弑逆した。まこと処罰を加えるべき輩である」と詔勅を下した。しかし李傕は飽くまでも「董卓の仕業であって李儒の本意ではありませぬ。罪なき者を処罰してはなりませぬ」と譲らなかった《後漢紀》。

この問答の結末は書かれていないが、李傕の権勢から考えればその要求はまず間違いなく通ったものと思われる。侍中は帝の側近くに控えてご下問に答える役職なので、おそらく李傕は彼に帝を監視させるつもりだったのかも知れない。

【参照】郭家 / 司馬集 / 商量 / 曹全 / 張角 / 董卓 / 李傕 / 劉協(帝) / 劉宏(聖主) / 劉弁(弘農王) / 弘農郡(弘農国) / 郃陽県 / 馮翊郡 / 王 / 県令 / 侍中 / 博士 / 郎中令

【鏈接】《琴詩書画巣》漢碑原文 / 《京大石刻拓本資料》文字拓本(漢)

李続Li Xu

リショク

(?〜?)

毌丘倹の将《晋書景帝紀》。

正元二年(二五五)正月、鎮東大将軍毌丘倹は揚州刺史文欽とともに寿春で反乱を起こした。二月甲申、司馬師が〓橋に進軍すると、毌丘倹の部将であった李続は史招とともに投降する。司馬師はこのことから淮南・淮北の人々が毌丘倹に同調していないことを知り、持久戦を決意した《晋書景帝紀》。

【参照】毌丘倹 / 史招 / 司馬師 / 文欽 / 〓橋 / 寿春県 / 揚州 / 淮南 / 淮北 / 刺史 / 鎮東大将軍

李鄒Li Zou

リシュウ
(リシウ)

(?〜?)

呂布の将《徐晃伝》。

曹操が呂布を征討したとき、徐晃は別働隊として趙庶・李鄒を降服させた《徐晃伝》。

【参照】曹操 / 趙庶 / 呂布

李粛Li Su

リシュク

(?〜192)
漢騎都尉

五原郡の人《董卓伝》。「李順」とする本もある《董卓伝集解》。

初平三年(一九二)四月、司徒王允は尚書僕射士孫瑞と一緒に董卓誅殺を計画し、詔書を偽作して呂布に与えた。そして騎都尉李粛と呂布の仲間の勇者十人余りを集め、衛士の制服を着けさせて未央宮の北掖門に潜ませた。董卓が馬車に乗って門外までやってくると、馬が驚いて歩みを止めてしまったので、董卓は心配になって引き返そうとしたが、呂布に勧められて門に入った。そこへ李粛が飛び出して董卓を戟で刺し、さらに呂布が矛で止めを刺した《後漢書董卓伝》。

呂布は詔勅によって、陝に駐屯する牛輔らを李粛に討伐させた。牛輔らがそれを迎撃して戦ったので、李粛は弘農に敗走した。そこで呂布は李粛を殺してしまった《後漢書董卓伝》。

【参照】王允 / 牛輔 / 士孫瑞 / 董卓 / 呂布 / 弘農県 / 五原郡 / 陝県 / 未央宮 / 北掖門 / 衛士 / 騎都尉 / 司徒 / 尚書僕射

李術Li Shu

リジュツ

(?〜200)
漢廬江太守

李述とも書く《劉馥伝》。汝南の人《討逆伝》。

建安四年(一九九)、廬江太守劉勲が食糧調達のため海昏に遠征すると、これを聞いた孫策は兵を分けて廬江皖城を陥落させる。孫策は朝廷に上表して李術を廬江太守に任じ、兵三千人を預けて皖城を守らせた《討逆伝》。

しかし翌五年に孫策が急死すると、李術は孫権に叛いて揚州刺史厳象を殺し、呉からの逃亡者を多く受け入れた。孫権が逃亡者返還を求めると、「人民は徳のない者に背き、徳のある者に従うのだ」と返答し、孫権を大いに立腹させた《呉主伝》。廬江郡の梅乾・雷緒・陳蘭らも李術に同調し、手勢数万人を集めて長江・淮水流域の郡県を破壊した《劉馥伝》。孫権は李術討伐の許可を得る手紙を曹操に送り《呉主伝》、曹操の方でも劉馥を揚州刺史に任じて雷緒を帰服させた《劉馥伝》。

同年、孫権が皖城を包囲すると、李術は曹操に救援を求めたが、曹操は応じなかった。食糧は底を尽き、城内では泥を喰む有様となって、ついに皖城は陥落し、李術は晒し首にされた《呉主伝》。

【参照】厳象 / 孫権 / 孫策 / 曹操 / 陳蘭 / 梅乾 / 雷緒 / 劉勲 / 劉馥 / 海昏 / 晥県(皖県) / 汝南郡 / 長江 / 揚州 / 廬江郡 / 淮水 / 刺史 / 太守

李進Li Jin

リシン

(?〜?)

済陰郡乗氏の人という《武帝紀》。

興平元年(一九四)九月、曹操との対峙中、飢えに苦しんだ呂布軍が乗氏へ来たが、李進はこれを攻撃して山陽に追い出している《武帝紀》。

李典の従父李乾が数千家を集めて乗氏に屯していたとあり、李進もその一族と見られている。そうすると李進は済陰郡乗氏ではなく山陽郡鉅野の人ということになる。このように単独で呂布軍に対抗できるだけの軍事力を李進は持っていたが、曹操の兗州支配は、これら在地豪族の力によるものだった。

【参照】曹操 / 呂布 / 山陽郡 / 乗氏県 / 済陰郡

李旻Li Min

リビン

(?〜190)
漢潁川太守

初平元年(一九〇)正月、董卓打倒の義兵が起こると、予州刺史孔伷もこれに呼応したが、彼はまもなく没し、長沙太守孫堅が代わって刺史となった。李旻は潁川太守として孫堅に付き従って梁に進出したが、ここで董卓の部将徐栄と遭遇戦となり、生け捕りにされて董卓のもとに送られた《破虜伝・後漢書董卓伝》。このとき張安という者も捕虜となっており、董卓は李旻と張安を畢圭苑の中に連れてきて煮殺すことにした。二人は鼎を前にして「同じ日に生まれることはなかったが、同じ日に煮られることになったな」と語り合い、そして生きたまま煮られた《後漢書董卓伝集解》。

【参照】孔伷 / 徐栄 / 孫堅 / 張安 / 董卓 / 潁川郡 / 長沙郡 / 畢圭苑 / 予州 / 梁県 / 刺史 / 太守

李孚Li Fu

リフ

(?〜?)
魏陽平太守

字は子憲。鉅鹿郡の人《賈逵伝》。本姓を馮氏といったが、のちに李氏と改めた《賈逵伝》。馮員の父、馮紞の祖父《晋書馮紞伝》。

『晋書』では安平の人とあり、名を「浮」とする。

興平年間(一九四〜一九六)、李孚は学生であったが、韮を植えて、成熟を待ってから収穫するつもりだった。鉅鹿では人々が飢えに苦しんでいて、彼に韮を求める者もいたが、李孚は一本も分け与えず、自分でも食べようとしなかった。そのため当時の人々は強い意志を持っていると評価した《賈逵伝》。

のちに役人となり、建安年間(一九六〜二二〇)に袁尚が冀州を宰領するようになると、その主簿となった。のちに袁尚は兄袁譚と諍いを起こし、別駕審配を鄴城に残して平原へ遠征に出かけた。そのとき曹操が鄴城を包囲したため、袁尚は引き返したが、その途中、鄴城内の守備が少ないことを案じ、また審配に外部の動静を知らせたく思い、誰を派遣すべきかと李孚に相談した《賈逵伝》。

李孚は言った。「いま小者を行かせれば、内外の状況を充分に知らせることもできず、しかも到達できない恐れさえあります。李孚がみずから参りましょう」、袁尚「必要なものはあるか」、李孚「鄴の包囲は非常に厳しいと聞きます。大勢ならば気付かれますゆえ、ただ三騎のみ率いていけば充分です」。袁尚はそれを聞き入れた《賈逵伝》。

李孚はみずから穏健な者を三人選び、行き先は告げず、「食糧を準備せよ、武器を持ってはならぬ」と命じ、それぞれに悍馬を支給した。袁尚に別れを告げて南方へ向かい、駅舎で休息をとりながら梁淇までやってきた。従者には問事の杖三十本を乗馬に付けさせ、自分は平上幘を着用し、従者三騎を連れて日暮れどきに鄴の城下に到着した。このとき大将軍(曹操?)が禁令を出していたにも関わらず、(包囲する者の中には)馬草を食わせる者が多かったので、李孚はそれを利用して夜中に到着したのである《賈逵伝》。

太鼓を鳴らしながら真っ直ぐ(包囲陣へ)入り、「都督だ」と自称しつつ北側の陣を通過、立て札に当たって東へ歩き、東側の陣の立て札からは、さらに包囲陣沿いに南へ歩いていった。歩いて行くごとに包囲の将兵を叱りつけ、過失の重さに従って処罰を行った。太祖(曹操)の本陣の前を通り過ぎ、真っ直ぐ南へ横切り、南側の陣の角からは西に折れ、章門まで来ると、またもや包囲の者を怒鳴りつけて縛り上げた。その場所の包囲の者を下がらせておいて城下に駆け寄り、城壁の上の人を呼ぶと、上の人が李孚を繩で引っ張り上げた。審配らは李孚の姿を見ると泣いて喜び、太鼓の音も騒がしく万歳を唱えた。包囲の者が報告すると、太祖は「こやつめはただ入ったばかりではない、また抜け出してくるだろう」と笑った《賈逵伝》。

李孚は役目を終えたので帰ろうとしたが、外の包囲が厳しくなっていて、もう出ていくことはできないと思った。おのれの使命を考えれば早く帰らなければならない。そこで心の底で計略を固め、審配に「いま城内の食糧は少ないので年寄り子供のために使ってはなりませぬ。こいつらを放り出して食糧を節約しましょう」と言った。審配はそれを聞きとどけ、次の夜、数千人を選んで白旗を持たせ、三つの門から一斉に降服させた。また一人一人に松明を持たせ、李孚はやがて、連れてきた従者に降服者と同じ衣服を着せて、みなと一緒に出ていった《賈逵伝》。

そのとき包囲の将兵たちは、城内の者が全員降服すると聞いていたし、松明の光が明るく輝いていたので、みんなでただ光を眺めるだけで包囲のことを忘れていた。李孚は北門を出ると、西北の角から包囲を突破して抜け出すことができた。翌日、太祖は李孚が脱出したと聞き、「吾の言った通りだったな」と手を打って笑った《賈逵伝》。

李孚が北方へ行き袁尚に拝謁すると、袁尚は非常に喜んだ。しかし袁尚は鄴を救援することができず、敗走して中山へ落ち延びたが、そこへ袁譚がさらに追撃したので、袁尚は逃走する。李孚は袁尚を見失ったため、袁譚の元へ参詣して今度は袁譚の主簿となり、東方の平原に帰った《賈逵伝》。

このとき袁尚は城北十七里、滏水の向こう岸にいた。だから「北方へ行った」と言うのである。このあと城内の審配が出撃して、袁尚とともに包囲陣を挟み撃ちにしようとしている。李孚の伝えた計略なのだろう。なお彼が袁譚から授かった官職は青州主簿ではなく、冀州主簿であることが後文に見える。

太祖が進撃して袁譚を攻撃すると、袁譚が戦死してしまったので李孚は城に戻った。城内では降服することが決まったが、まだ混乱が続いていて落ち着かなかった。李孚はひとまず太祖に拝謁しておくべきだと考え、馬に乗って牙門まで行き、「冀州主簿李孚、密かに申し上げたき儀あり」と叫んだ。太祖が彼を呼び入れると、李孚は土下座して陳謝した《賈逵伝》。

太祖が何を申したいのかと訊ねると、李孚は「いま城内では強者と弱者が争い、みな心が落ち着きませぬ。降服者のうち城内でも信頼されている者に、ご命令を伝えさせるのがよろしかろうと存じます」と答えた。公(曹操)は「卿が即時帰城して伝えてくれ」と言った。李孚が平伏して命令を乞うと、公が「卿の考えによって伝えよ」と言ったので、李孚は城内へ帰り、「おのおの本来の持ち場へ帰れ、でしゃばってはならぬ」と命じた。城内はこうして落ち着いた。そこで報告に帰ると、公は役立つ者だと李孚を評価した。このとき離間を図る者がいたため、遠ざけられて閑職に回された《賈逵伝》。

出向して解の県長を兼務し、厳格有能であると名を高めた。次第に昇進して司隷校尉まで昇り、当時七十歳余りだったが、彼の精密さと決断力は衰えを見せず、策略は昔のままだった。陽平太守を務めていたとき亡くなった《賈逵伝》。

【参照】袁尚 / 袁譚 / 審配 / 曹操 / 馮員 / 馮紞 / 解県 / 冀州 / 鄴県 / 鉅鹿郡 / 章門 / 中山国 / 平原郡 / 陽平郡 / 梁期県(梁淇県) / 県長 / 主簿 / 司隷校尉 / 太守 / 大将軍 / 都督 / 別駕従事 / 問事 / 牙門 / 表(立て札) / 平上幘 / 問事杖

李伏Li Fu

リフク

(?〜?)
魏左中郎将

李伏は漢中の張魯に仕えていた。曹操が魏国を建立したとき、辺境の人々は彼が王位に就いたのだと思っていたが、姜合が「公になられたのであって、まだ王位に就かれておりません。しかし、いずれ天下を定めるのは魏公の子桓(曹丕)さまです。神がそう命じられているので予言書に符合しておるのです」と李伏に語った。李伏がその言葉を言上し、密かに議論した結果、張魯は曹操に帰服したいと考えるようになった《文帝紀》。

李伏は魏朝に出仕したのち、たびたび姜合の言葉を奏上したいと考えていたが、自分が新参者であったため咎を恐れて発言できなかった。しかし、曹丕が魏王に即位したのち、瑞兆が相次いで報告されたことから、ついに姜合の言葉を奏上することになった。このとき李伏は左中郎将である。曹丕が受禅したのは李伏の言葉がきっかけなのだ《文帝紀》。

【参照】姜合 / 曹操 / 曹丕 / 張魯 / 漢中郡 / 魏 / 王 / 公 / 左中郎将

李平Li Ping

リヘイ

李厳

李封Li Feng

リホウ

(?〜195)
漢兗州治中従事

興平元年(一九四)、兗州牧曹操が国許を空けたとき、陳宮・張邈が叛逆して呂布を州牧に迎え入れた《武帝紀・呂布伝》。呂布は薛蘭を別駕従事、李封を治中従事に任命した。薛蘭・李封は、乗氏に勢力を持っていた李乾を仲間に引き入れようとしたが、李乾がそれを拒絶したので彼を殺害した《李典伝》。

翌二年春、曹操が定陶城を包囲した。李封は薛蘭とともに鉅野に駐屯したが、夏、李乾の子李整が曹操の諸将とともに攻撃をかけてきたので敗北し、斬首された《武帝紀・李典伝》。

【参照】薛蘭 / 曹操 / 張邈 / 陳宮 / 李乾 / 李整 / 呂布 / 兗州 / 鉅野県 / 乗氏県 / 定陶県 / 治中従事 / 別駕従事 / 牧

李〓Li Man

リマン

李堪

李蒙Li Meng

リモウ

(?〜195)
漢撫軍中郎将

董卓の部曲《董卓伝》。誤って「李象」とも書かれる《後漢紀》。

董卓の命により、李蒙は徐栄とともに四方に出征し、略奪を働いていた《後漢書董卓伝》。初平三年(一九二)四月に董卓が王允に殺されると、まもなく李傕らが十万人余りの軍勢を糾合しつつ長安へ西上した。李蒙は樊稠・王方らとともに合流し、一斉に長安城を包囲、十日間でこれを陥落させた《董卓伝》。

興平二年(一九五)二月、撫軍中郎将李蒙は、李傕の手にかかり樊稠とともに誅殺された《後漢紀》。

【参照】王允 / 王方 / 徐栄 / 董卓 / 樊稠 / 李傕 / 長安県 / 撫軍中郎将 / 部曲

李立Li Li

リリツ

(?〜?)
漢荊州刺史

字は建賢。涿郡の人。

後漢末期、劉表の部将である李氏はたいそう富み栄えており、数百もの使用人を抱え、漢水沿岸に城塁を築いたという。これが李立のことと考えられている《劉表伝集解》。しかし李立は涿郡の人である。劉表の部将であったとしても異国の地において城塁を築いたり多数の使用人を抱えたりしていたと考えるのは困難だろう。また荊州を平定したばかりで、曹操が劉表の旧将を登用するとも考えにくい。やはり別人と見るべきである。

建安十三年(二〇八)、曹操の軍勢が襄陽に到着すると、劉琮は荊州をこぞって降服し、劉備は夏口へと逃走した。曹操は荊州を平定すると、李立を荊州刺史とした《劉表伝》。

それ以前のこと、華容県に一人の女子があり、「荊州で大きなお葬式があるよ」と言ったので、県役人は妖しげな風説を吐いているとして牢獄に閉じ込めた。一ヶ月余りして、その女子は「劉荊州(劉表)どのが今日亡くなられた」と号泣した。華容県は州府まで数百里も離れていたが、すぐさま使者を出して確認させると、劉表は本当に死んでいたのであった。女子は赦免されて外に出ると「李立が貴人になるとは思わなかった」と歌い出した。李立が荊州刺史に任じられたのは、それから間もなくのことであった《劉表伝》。

【参照】曹操 / 劉琮 / 劉備 / 劉表 / 夏口 / 華容侯国(華容県) / 荊州 / 襄陽県 / 涿郡 / 刺史

栗成Li Cheng

リッセイ

(?〜193)
漢魏郡太守

「栗攀」ともある《董昭伝》

初平四年(一九三)三月上巳、冀州牧袁紹が公孫瓚征討の帰途、薄洛津において賓客たちを集めて大宴会を催していた折り、魏郡の兵士たちが叛逆して黒山賊于毒らと手を結び、総勢数万人で鄴城を襲撃した。太守栗成はこれらに殺害された《袁紹伝・後漢書同伝》。

『三国志』袁紹伝に引く『英雄記』ではこの魏郡占拠を界橋会戦と同時期に起こった事件のように記載し、同武帝紀でもこの事件を初平二年に編入し、曹操が黒山賊と戦って東郡太守に任じられたとしている。ところが『後漢書』袁紹伝では界橋会戦を同二年冬のこととしたうえで、この事件を四年三月上巳に編入しており、日付の詳細さからも信頼できる根拠に基づいているように見える。確かに、その前年に兗州牧を自称していた曹操が改めて東郡太守に任じられるはずはない。しかしながら『英雄記』に「公孫瓚を破ったのち軍勢をまとめて南進し、薄洛津に着陣した」とあるのは薄洛津が界橋の西方にあることと矛盾しており、さすれば『後漢書』の言うように北征からの帰還途上と見るのが正しいと考えられる(ただし『水経注』では易京遠征からの帰還途上とする)。やはり魏郡占拠は初平四年だったのだろう。黒山賊による作戦行動は二度にわたって行われ、おそらく武帝紀に魏郡の陥落したのが初平二年とあるのは同四年の事件と混同しているのではないだろうか。初平四年、兗州刺史金尚を擁した袁術は兗州に進出するとともに黒山賊と手を結んでいたと記されており、魏郡占拠は彼に連動した動きではないかと推測される。

【参照】于毒 / 袁紹 / 公孫瓚 / 魏郡 / 冀州 / 鄴県 / 薄洛津 / 太守 / 牧 / 黒山賊 / 上巳

栗攀Li Pan

リッパン

栗成

留賛Liu Zan

リュウサン
(リウサン)

(183〜255)
呉左将軍・使持節・左護軍

字は正明。会稽郡長山の人《孫峻伝》。

若くして郡役人となり、黄巾賊と戦って首領の呉桓を斬ったが、留賛も負傷して足が曲がってしまった《孫峻伝》。

兵法書や三史を好んだが、古代の将軍の戦いぶりを読むたびに歎息していた。そこで親戚を呼び寄せて告げた。「誰もが富貴の身になることができるのに、私は足が萎えてしまい、生きていても死んだのと同然だ。いっそのこと足の筋を切って、伸ばしたいと思う。もし死なずに足が伸びればお役に立てるだろうし、死んだらそれまでのことだ」と。親戚たちはみな反対した。そののち留賛はひとりで足の筋を切断した。血が滂沱として流れ、留賛は気絶した。家人はそれを知って驚き心配したが、もう後戻りはできないと考えて足を引き伸ばしてやった。傷が癒えると、つまづきながらも歩くことができるようになった《孫峻伝》。

淩統はそのことを聞いて彼を招き、会ってみて立派だと思い、上表して彼を推薦した。こうして試験的に採用されることになった。留賛はたびたび戦功を立てて屯騎校尉に任じられた《孫峻伝》。時事問題が話題になったときは、いつも正論を好み、他人におもねるような発言はしなかった。そのため孫権は彼を恐れ憚っていた《孫峻伝》。

留賛は部将として出陣し、敵に遭遇すると、必ず髪を振り乱しながら天に向かって叫び、そして声を張り上げて歌い、左右の者がそれに応じた。それが終わると進撃し、戦えば勝てないことはなかった《孫峻伝》。

建興元年(二五二)十月、大傅諸葛恪に従って東興に進出する。このとき冠軍将軍丁奉が山岳地帯を通過して川の上流を占拠することを提案したので、留賛は呂拠・唐咨とともに丁奉とは別の道を通って上流に向かった。徐塘にはすでに魏の陣営が築かれていたが、彼らが油断して酒に酔っていたので丁奉はこれを攻撃した。そのとき留賛らも到着して攻撃をかけたので、魏の軍勢は潰走した《諸葛恪伝・丁奉伝》。その戦功により留賛は左将軍に任じられる《孫峻伝》。

五鳳二年(二五五)正月、魏の毌丘倹・文欽が叛乱を起こしたと聞き、翌閏月、丞相孫峻は留賛・驃騎将軍呂拠を伴って寿春に攻め上り、敗北した文欽と合流した。留賛は節を授かって左護軍に任じられたが、行軍中に病気にかかってしまった。そこで孫峻は輜重車を指揮して帰還させたが、二月、魏の部将蔣班が歩騎四千人を率いて留賛を菰陂まで追跡してきた。留賛は病のため布陣を整えることもできず、敗北を悟った《孫亮伝・孫峻伝・高貴郷侯紀・諸葛誕伝》。

そこで曲蓋と印綬を子弟に預けながら、「私は部将となってからというもの、敵を撃ち破って旗を奪い、一度も負けたことはなかった。しかしいま病気が重く、兵士は数少ないうえ貧弱だ。お前たちは早く逃げよ。一緒に死んでも無益で、敵を喜ばせるだけだ」と言った。子弟が言うとおりにしなかったので、留賛が刀を抜いて斬り付けようとすると、ようやく彼らは去っていった。そこへ蔣班らが襲ってきて、留賛は殺害された。七十三歳であった《孫峻伝》。

【参照】毌丘倹 / 呉桓 / 諸葛恪 / 蔣班 / 孫権 / 孫峻 / 丁奉 / 唐咨 / 文欽 / 呂拠 / 淩統 / 会稽郡 / 菰陂 / 寿春県 / 徐塘 / 長山県 / 東興 / 冠軍将軍 / 左護軍 / 左将軍 / 丞相 / 大傅 / 屯騎校尉 / 驃騎将軍 / 印綬 / 曲蓋 / 黄巾賊 / 三史 / 節

柳隠Liu Yin

リュウイン
(リウイン)

(188?〜267?)
蜀騎都尉・黄金囲督
晋西河太守

字は休然。蜀郡成都の人《華陽国志》。

若いころから同郡の杜禎・柳伸とともに名を知られていた。柳隠は誠実正直で、交友するときは手厚さを心がけ、正しい道に従うさまは極みに達していた。たびたび大将軍姜維の征伐に従軍し、戦陣に臨んだときは計略を立て、敵軍にぶつかったときは陣営を陥落させ、武勇計略は軍の筆頭であった。牙門将、巴郡太守、騎都尉を経て、漢中黄金囲の督に昇進した《華陽国志》。

黄金囲はのちに黄金県となっている。よって柳隠は漢城(沔陽)の蔣斌、楽城(成固)の王含に準ずる地位であったと考えられる。

景耀六年(二六三)、魏の鎮西将軍鍾会が蜀を征討しようと漢川に侵入してきた。多くの要害が陥落してしまったが、ただ柳隠の守る黄金囲だけは鉄壁不動で、鍾会の別将が攻撃をかけても打ち勝つことができなかった。後主劉禅が降服して直筆の命令書を柳隠に与えたのち、ようやく鍾会の元に出頭した。司馬昭はそれを聞いて義士だと思った《華陽国志》。

翌咸煕元年(二六四)、河東郡に移住して議郎に任命された。泰始二年(二六五)春、武帝司馬炎より西河太守に任じられる。在職すること三年、高齢を理由に官職を去り、隠居を告げて蜀に帰った。家で八十歳で卒去した《華陽国志》。

【参照】姜維 / 司馬炎 / 司馬昭 / 鍾会 / 杜禎 / 柳伸 / 劉禅 / 河東郡 / 漢川 / 漢中郡 / 魏 / 黄金県(黄金囲) / 蜀 / 蜀郡 / 西河郡 / 成都県 / 巴郡 / 牙門将軍 / 騎都尉 / 議郎 / 太守 / 大将軍 / 鎮西将軍 / 督

柳毅Liu Yi

リュウキ
(リウキ)

(?〜205?)

公孫度の吏。

遼東太守公孫度に仕えて彼の親愛を得た。初平元年(一九〇)、中原で兵乱が起こっていることを知った公孫度は、柳毅・陽儀らに「讖書に『孫登が天子になる』とあるが、太守の姓は公孫であるし、字が升済で、『升』とは登るということだ。いまや漢の祚は絶えんとしている。諸卿らとともに王者への道を行きたいものだ」と語っている《公孫度伝》。

「王者への道を行く」の原文は「図王」。霸道に対する王道を指すものかも知れない。

公孫度は勃海を渡って東萊郡の諸県を攻略し、新たに営州刺史を設置した《公孫度伝》。幽州の精兵が徐州で騒乱を起こして北海城まで到達すると、北海の領民はみな恐慌状態に陥った。北海国相孔融は官舎を出て彼らを説得して二心を抱かせないようにした。別働隊長と計画し、幽州軍に夜襲をかけた。幽州軍は敗北して全てが捕虜となった。しかし、またすぐに離叛して逃亡した《崔琰伝》。

建安十年(二〇五)正月、曹操は袁譚を斬ると、行中堅将軍張遼を派遣して海浜地帯を平定させた。柳毅はこのとき張遼に敗れた《張遼伝》。

前に公孫度が東萊郡を攻略したという記事に基づき、『崔琰伝注』に見える「幽州の精兵」は公孫度の軍勢で、柳毅はその統率者として「東萊郡の海浜地帯」に留屯し、袁譚に協力していたと見るべきではないだろうか。張遼が東萊郡の賊を討伐していることは『何夔伝』にも見える。孔融は遼東から軍馬を買い付けて山東に売却することで利益を図ったというが《崔琰伝》、柳毅がその交渉の窓口になっていた可能性もある。

【参照】孔融 / 公孫度 / 曹操 / 張遼 / 陽儀 / 営州 / 徐州 / 中原 / 東萊郡 / 勃海 / 北海国 / 幽州 / 遼東郡 / 刺史 / 相 / 太守 / 中堅将軍 / 行 / 讖書

柳甫Liu Fu

リュウホ
(リウホ)

(?〜238)
燕御史大夫

公孫淵の臣、御史大夫。「柳浦」とも書かれる。

景初元年(二三七)、幽州刺史毌丘倹が詔勅を奉じて公孫淵を召しだし、軍隊を動員した。公孫淵は防備を固めるとともに、属官らに命じて弁解をさせた。その上表文で大司馬長史郭昕に続いて列名しているのが「参軍柳浦」である《公孫度伝》。

翌二年、司馬懿は襄平において公孫淵を攻め、雨がやんだので包囲陣を作り、土山を盛って地下道を掘り、矢倉を建てて雨のごとく矢を注ぎ、昼夜分かたず攻めたてた。そのころ、襄平城の西南から東北へ彗星が落ち、城内の人々は震えおののいた《晋書宣帝紀》。

公孫淵は恐怖を覚え、相国王建・御史大夫柳甫を使者として包囲解除を条件に降伏を願いでた。司馬懿はそれを許さず、王建らを捕縛して全て斬首した《晋書宣帝紀》。

司馬懿は公孫淵に檄文を回して言った。「むかし楚と鄭は対等の列国であったが、鄭伯は肌脱ぎになり羊をつれて楚を出迎えた。わしは君主に仕える身であり上公の地位にある。それなのに王建どもは、わしに包囲を解除して退けなどと言いおった。二人は耄碌しており、あなたの意図をうまく伝えられなかったのであろう。すでに斬首した。若くて決断力のある者を寄こしたまえ。」そこで公孫淵は改めて侍中衛演を使者に立てた《晋書宣帝紀》。

【参照】衛演 / 王建 / 郭昕 / 毌丘倹 / 公孫淵 / 司馬懿 / 鄭伯 / 襄平県 / 楚 / 鄭 / 幽州 / 御史大夫 / 参軍 / 刺史 / 相国 / 大司馬 / 長史 / 彗星

柳浦Liu Pu

リュウホ
(リウホ)

柳甫

劉禕Liu Yi

リュウイ
(リウイ)

劉闡

劉緯Liu Wei

リュウイ
(リウヰ)

劉闡

劉緯台Liu WeiTai

リュウイダイ
(リウヰダイ)

(?〜?)

公孫瓚の義弟《公孫瓚伝》。

もともと占師であったが、李移子・楽何当とともに公孫瓚に寵愛され、義兄弟の契りを結ぶ。凡庸であったが、公孫瓚の寵愛を嵩にきて勝手気ままに振る舞い、巨万の富を築いた。お互いに女を自分の息子の嫁に迎え、自分たちを曲周侯・灌嬰になぞらえていた《公孫瓚伝》。

【参照】楽何当 / 灌嬰 / 公孫瓚 / 鄜商(曲周侯) / 李移子 / 卜数師(占師)

劉何Liu He

リュウカ
(リウカ)

(?〜?)

呂布の将《曹仁伝》。

曹操が呂布を征伐したとき、別将の曹仁は句陽を陥落させ、劉何を生け捕りにした《曹仁伝》。

おそらく曹操が済陰・山陽を平定した興平二年(一九五)のことである。

【参照】曹仁 / 曹操 / 呂布 / 句陽県

劉璝Liu Gui

リュウカイ
(リウクワイ)

(?〜?)

劉璋の将《先主伝》。「璝」の音は姑回の反切(カイ)《先主伝集解》。

建安十七年(二一二)に劉備が涪城を占拠すると、翌十八年、劉璝は劉璋の命により冷苞・張任・鄧賢・呉懿らとともに涪におもむいて劉備を防いだ。しかし、みな敗退して緜竹に立てこもり、呉懿は劉備に降伏した。緜竹の諸将を監督すべく、劉璋はさらに李厳・費観を派遣したが、二人はともに軍勢をあげて投降した《先主伝・華陽国志》。

劉璝は雒城に逃げこみ、劉璋の子劉循とともに城を守った。しかし、雒城は一年近く持ちこたえたすえ、陥落した《先主伝》。

【参照】呉壱呉懿) / 張任 / 費観 / 鄧賢 / 李厳 / 劉循 / 劉璋 / 劉備 / 冷苞 / 涪県 / 緜竹県 / 雒県

劉括Liu Kuo

リュウカツ
(リウクワツ)

(?〜?)

扶風の人《後主伝》。

混乱を避けて漢中に移住し、そこで奴隷商人から一人の若者を買い取った。その若者が良家の出身であったらしいことから、彼を養子として妻を世話してやった。のちに劉備が益州を平定して簡将軍を漢中に行かせたが、若者は簡将軍に会いに行き、彼が劉備の子であることが判明した《後主伝》。

裴松之は劉禅との年齢が一致しないことから一連のエピソードを否定しているが、これはむしろ裴松之の勇み足であろう。劉備はたびたび戦いに敗れて妻子を棄てており、この若者がそうした劉禅の兄たちの一人であってもおかしくはない。『魏略』は聞き取りを中心に著述されているが、その過程で、この若者を弟にあたる劉禅と混同するのは充分あり得る話なのである。

【参照】簡雍(簡将軍) / 劉備 / 漢中郡 / 扶風郡 / 良家

劉琦Liu Qi

リュウキ
(リウキ)

(?〜209)
漢荊州刺史

荊州牧劉表の長子、劉琮の兄。

はじめ風貌が父に似ていたので、劉表は劉琦を大変可愛がっていた。しかし異母弟劉琮が生まれると、その母で劉表後妻の蔡氏は毎日劉琦の悪口を言ったので、劉表も彼女を信じて劉琮を可愛がるようになった《後漢書劉表伝》。

身の危険を感じた劉琦は諸葛亮に相談しようとしたが、諸葛亮は答えようとしなかった。そこで劉琦は彼と一緒に高楼に昇り、部下に命じて梯子を取り外させた。そこで劉琦が言うには、「いま上は天に届かず、下は地に届かず、あなたの口から言葉が出ても私の耳に入るばかりです」。諸葛亮は答えた。「貴君は申生が内にいて危難に遭い、重耳が外にいて安全だったことをご存じではないですか」と。劉琦はその言葉の意味を悟り、密かに計画を練った。ちょうど江夏太守黄祖が孫権に殺されたので、劉琦はその後任になることを願い出た《諸葛亮伝・後漢書劉表伝》。

こうして江夏郡に出たが、建安十三年(二〇八)に劉表が危篤になったと聞くと、もともと孝心篤い人だったので帰省しようとした。蔡氏の外甥張允らは、劉表が彼に会って父子の情愛を起こし、後事を託すのではないかと恐れ、劉琦に「将軍は貴君に江夏鎮撫の重任をお命じになられました。いま貴君がお帰りになったことを知れば必ずお怒りになり、将軍のお体にさわりましょう。それは孝行の道から外れたものですぞ」と言い、戸外で劉琦を遮った。劉琦は涙を流して江夏に帰っていった。人々はそれを聞いて悲しんだ《後漢書劉表伝》。

弟劉琮が跡を継いで、劉琦に侯の印を授けた。劉琦は怒って印を地に投げ捨てた。出奔してしまおうと考えたとき、曹操が荊州攻めを開始して新野に入ったので、劉琦は長江の南に逃れた。また樊城に駐屯していた劉備も長阪で敗れ、劉琮は曹操に降服した《後漢書劉表伝》。

劉備は夏口に逃れ、ここで劉琦軍一万と合流した。劉備は孫権と結んで赤壁において曹操を破り、劉琦を荊州刺史に任ずるよう上表した。翌年、劉琦は病没した《先主伝・後漢書劉表伝》。

【参照】黄祖 / 蔡氏 / 諸葛亮 / 申生 / 曹操 / 孫権 / 重耳 / 張允 / 劉琮 / 劉備 / 劉表 / 夏口 / 荊州 / 江夏郡 / 新野県 / 赤壁 / 長江 / 長阪 / 樊城 / 侯 / 刺史 / 太守 / 牧 / 印

劉勲Liu Xun

リュウクン
(リウクン)

(?〜?)
漢平虜将軍・華郷侯

字は子台。琅邪の人《司馬芝伝》。「征虜将軍」ともある《司馬芝伝》。

中平年間(一八四〜一八九)に沛国建平県長となり、曹操と交流した《司馬芝伝》。袁術配下の孫策が廬江太守陸康を攻め滅ぼすと、もともと袁術の部下であった劉勲は廬江太守に任じられた《討逆伝》。

建安四年(一九九)、袁術が横死すると、彼の従弟袁胤や女婿黄猗らは袁術の棺を担ぎ、その妻子を連れて劉勲のもとに身を寄せた。また袁術の将軍張勲・長史楊弘らは軍勢を伴って孫策を頼ろうとしたが、劉勲が迎撃してみんな生け捕りにしてしまった《袁術・討逆伝》。袁術の軍勢を手に入れたものの食糧不足に悩み、従弟劉偕を使者として予章太守華歆に援助を求めた。華歆は郡内の上繚・海昏の宗民から食糧を借りたが、それでも充分な量は得られなかった。劉偕はこのことを劉勲に伝えて上繚を襲撃すべきだと述べた。孫策はそれを聞いて劉勲と同盟し、上繚の宗民一万家余りを攻撃するよう依頼した《討逆伝》。

それ以前、揚州の侠客鄭宝らが高貴な家の名士であった劉曄を擁立しようとしたが、劉曄は酒席で鄭宝を斬り捨て、その部下を説得して服従させ、彼らを引き連れて廬江に行って劉勲に身を寄せていた《劉曄伝》。このとき劉曄は「上繚城の守りは堅固です。十日以内に片付けられなければ、軍勢は疲労するうえ国内はがら空きになります。孫策に襲撃されれば帰る場所がなくなりますぞ」と諫言した。劉勲は聞き入れずに上繚を攻撃した《劉曄伝》。

劉勲は密かに海昏まで軍勢を進めたが、宗民たちが城邑を空っぽにして逃げ隠れしたので何も得られなかった。孫策は黄祖討伐にあたっていたが、劉勲が本拠地廬江を留守にしていると聞き、軍勢を二手に分けて、孫賁・孫輔八千人には彭沢で劉勲の退路を遮断させ、孫策自身は周瑜とともに軍勢二万を率い、がら空きになっていた廬江皖城を占拠した。袁術配下の三万人余りと袁術・劉勲の妻子も孫策の手に落ちた《討逆伝》。

劉勲は海昏を出発して彭沢まで引き返したが孫賁らに敗れ、尋陽で周瑜・程普・董襲らの追撃を受けたので、徒歩で置馬亭まで遡ったが、そこで皖城陥落の報を聞いて西塞山に潜伏した。そして山中にある流沂城に楯籠り、劉表・黄祖に急を告げた。黄祖は太子黄射に水軍五千を預けて劉勲を救援させたが、孫策は西塞山に入って劉勲を撃破した。そこで劉勲・劉偕は北方に逃走した《討逆・周瑜・程普・董襲伝》。

劉勲は孫策に敗れて曹操を頼り、列侯に封じられた《武帝紀・司馬芝伝》。曹操の側近として平時にも議論に参加した《司馬芝伝》。

のちに河内太守に任じられたが、身分は尊貴なうえ寵愛を集め、傲慢不遜であった。賓客や子弟の者も郡境を越えて不法行為を繰り返したが、劉勲は広平県令司馬芝に手紙を送り、彼らのことを(大目に見るよう)依頼した。しかし司馬芝は返事を送らず、法律の定める通りに彼らを処罰した《司馬芝》。また鄴県令楊沛も法律に厳格であった。そこで彼が任地に到着する前に、劉勲は子弟に使者をやって自重させている《賈逵伝》。また河東太守杜畿に大きな棗を所望したが拒絶されている《杜畿伝》。

劉勲には二十歳に近い女(むすめ)がいたが、七・八年ほどかゆみのある腫れ物をわずらっていた。医者の華佗を呼んで診察させたところ、華佗は「これは簡単に治る」と言って馬と赤犬を用意させた。赤犬の首に縄を巻いて馬に引っ張らせ、その馬が疲れると別の馬に繋ぎ、その馬も疲れると人間が赤犬を引っ張った。女に薬を飲ませて眠らせ、赤犬の腹を切って患部に近付けると、長さ三尺で目がなく逆さまの鱗をもつ蛇のようなものが患部から出てきた。華佗がそれを串刺しにして引っ張り出すと、腫れ物は七日で治った《華佗伝》。

建安十八年(二一三)五月、献帝劉協が曹操を魏公に封じようとしたところ、曹操は三度にわたって固辞した。劉勲は平虜将軍・華郷侯の肩書きで、群臣と連名で拝受するように訴えている《武帝紀》。

劉勲は奮威将軍鄧展らとともに曹丕の酒席に同座したことがある。このとき鄧展が撃剣について語ったが、曹丕は「将軍の法は間違っている」と言い、ともに杖を取って手合わせをし、曹丕が鄧展を打ち負かした。左右の者は大笑した。鄧展がふたたび願って手合わせをしたところ、曹丕は彼の突きを避けて額を切った。劉勲らは目を見張った《文帝紀》。

劉勲は曹操との旧縁があったことから日に日に思い上がり、不法行為や誹謗中傷を重ね、とうとう李申成が告発することになった。曹操に逮捕されて処刑となり、兄の子劉威も予州刺史を罷免された《司馬芝伝》。

【参照】袁胤 / 袁術 / 華歆 / 華佗 / 黄猗 / 黄射 / 黄祖 / 司馬芝 / 周瑜 / 曹操 / 曹丕 / 孫策 / 孫輔 / 孫賁 / 張勲 / 程普 / 鄭宝 / 杜畿 / 董襲 / 鄧展 / 楊弘 / 楊沛 / 李申成 / 陸康 / 劉威 / 劉偕 / 劉協(献帝) / 劉表 / 劉曄 / 海昬侯国(海昏侯国) / 華郷 / 河内郡 / 河東郡 / 晥県(皖県) / 魏 / 鄴県 / 建平県 / 広平県 / 上繚 / 尋陽県 / 西塞山 / 置馬亭 / 沛国 / 彭沢 / 揚州 / 予州 / 予章郡 / 流沂城 / 琅邪国 / 廬江郡 / 郷侯 / 県長 / 県令 / 公 / 侯 / 刺史 / 征虜将軍 / 太守 / 長史 / 奮威将軍 / 平虜将軍 / 撃剣 / 宗民

劉勲Liu Xun

リュウクン
(リウクン)

(?〜191?)
漢京兆虎牙都尉

字は子璜か。故(もと)の虎牙都尉、あるいは虎牙将軍《臧洪・公孫瓚伝》。

劉勲と劉子璜とを同人視するのは裴松之の説。『公孫瓚伝』注では「故の虎牙都尉」とあるが、それを引く『臧洪伝』注では「故の虎牙将軍」となっている。

初平元年(一九〇)正月の挙兵にあたっては、袁紹らとともに中心人物であった。張楊を帰服させるなど数多くの功績を立てる《公孫瓚伝》。のちに使者の任務を授かったが、期限に間に合わなかった。威光を恐れるとともに肉親を懐かしみ、なんとか帰国しようとしたが、袁紹は怒りのあまり劉勲を殺害した《臧洪・公孫瓚伝》。

初平二年七月の段階で、韓馥の従事趙浮らは「張楊は袁紹の味方になったばかり」と言っている《袁紹伝》。公孫瓚が袁紹による劉勲殺害に言及しているのは同年冬なので《後漢書袁紹伝》、劉勲が殺害されたのはおおよそこの間のことだろう。

【参照】袁紹 / 張楊 / 京兆虎牙都尉(虎牙都尉) / 虎牙将軍

劉子璜Liu Zihuang

リュウシコウ
(リウシクワウ)

劉勲

劉修Liu Xiu

リュウシュウ
(リウシウ)

(?〜?)
魏東安太守

字は季緒。劉表の子。官位は東安太守まで昇った《陳思王曹植伝》。

詩・賦・頌六篇を著した文人で、楊脩の文章の長所・短所を挙げて批判した。曹植は楊脩に宛てて「劉季緒は作者の才能にも及ばないのに批評をしていますが、あたかも田巴が五帝・三王・五霸を誹謗しながら魯仲連に論破されたようなものです」と手紙を送り、楊脩も「あなたの知遇が得られたので劉季緒のことは気にも留めません」と答えている《陳思王曹植伝》。

【参照】五帝 / 五霸 / 三王 / 曹植 / 田巴 / 楊脩 / 劉表 / 魯仲連 / 東安郡 / 太守 / 詩 / 頌 / 賦

劉修Liu Xiu

リュウシュウ
(リウシウ)

劉循

劉脩Liu Xiu

リュウシュウ
(リウシウ)

劉循

劉循Liu Xun

リュウジュン
(リウジユン)

(?〜?)
蜀奉車中郎将

劉璋の長子、劉闡の兄、龐羲の女婿《劉璋伝》。「劉脩」「劉修」とも書かれる《華陽国志》。

祖父の益州牧劉焉は緜竹から雒城へと移って城門を建設したが、「ここは王者の地ではありません」と言う者があったので、孫の劉循をこの地に残して成都へと移っていった《華陽国志》。

葭萌に駐屯していた劉備が叛逆し、建安十八年(二一三)、進軍して雒城を包囲した。このとき劉循は城を固めて一年近くも攻撃を防ぎ続けた《先主伝》。この戦闘では劉備の軍師中郎将龐統が流れ矢に当たって落命している《龐統伝》。しかし翌十九年夏、ついに陥落する《先主伝》。

劉備が蜀を平定したとき、龐羲は左将軍司馬に任じられたが、劉璋の時代、劉循を留めておくようにとの龐羲の進言に従っていたので(?)、劉備は奉車中郎将に任命した《劉璋伝》。

龐羲の進言うんぬんは意味が採りにくい。雒城が陥落したのち、劉璋が劉循を成都に呼び返したということであろうか。

【参照】龐羲 / 龐統 / 劉焉 / 劉璋 / 劉闡 / 劉備 / 葭萌県 / 蜀 / 成都県 / 緜竹県 / 雒県 / 軍師中郎将 / 左将軍 / 司馬 / 奉車中郎将 / 牧

劉先Liu Xian

リュウセン
(リウセン)

(?〜?)
魏尚書令

字は始宗。零陵郡の人《劉表伝》。「劉光」とも書かれるが《後漢書劉表伝》、おそらく誤り《同集解》。

甥の周不疑が零陵重安の人であるという。劉先もまた重安の人だろうか。

劉先は博学で記憶力がよく、とりわけ黄老学を好み、また漢朝の有職故実に詳しかった《劉表伝》。荊州牧劉表により別駕に任じられた《劉表伝》。

袁紹が官渡において曹操と対峙していたとき、劉表は援軍を求められて承諾しつつも出発せず、また曹操を支援することもなく、天下の成りゆきを見計らっていた。劉先は従事中郎韓嵩とともに劉表を諫め、「天下の行く末は将軍次第であります。もし興業を目指すなら彼らの疲弊に乗じるべきですし、さもなくば一方を選んで従うべきです。曹操は用兵に巧みで賢者の多くを帰服させておりますから、必ずや袁紹を片付けることでしょう。そのあと向かってきたならば将軍では防ぎきれませんぞ」と言った。劉表は迷ったすえ韓嵩を使者として曹操のもとへ送った《劉表伝》。

また、劉先も手紙を携えて許へ行き、曹操に会見した。賓客たちが居並ぶなか、曹操が劉先に訊ねる。「劉牧(劉表)どのはなぜ天地を祭ったのか?」劉先は答えた。「劉牧は漢室の肉親にして州牧の地位におられますが、王道が滞って賊徒どもが道を塞いでおるため、玉や絹を抱えながらお目見えするすべもなく、上表文をしたためながらお届けすることもできませんでした。それゆえ天地を祭って真心を明らかにしたのであります」、と《劉表伝》。

曹操が「賊徒とは誰のことかな?」と言うと、劉先は「目に付く者はみなそれでございます」と答えた。曹操は「いま孤(わたし)には歩騎十万人の羆熊(ひぐま)のごとき兵士がおる。叡慮を奉じて罪人を討つならば服従せぬ者はあるまい」と言ったが、劉先が「漢の政道が衰えて庶民が苦しんでおりますのに、天子を奉じて天下を鎮め、国中を恩徳に帰服させるような忠義の士はなく、それどころか軍勢を頼って残忍に振る舞い、自分に並ぶ者はないと称するのは、ちょうど蚩尤・智伯がこの世によみがえったようなものです」と答えたので、黙りこんでしまった《劉表伝》。曹操は劉先を武陵太守に任じた《劉表伝》。

荊州が平定されたとき、劉先は漢の尚書となり、のちに魏国の尚書令まで昇った《劉表伝》。甥に周不疑がいて、同郡の劉巴に弟子入りさせようとしたが、これは劉巴に断られている《劉巴伝》。

【参照】袁紹 / 韓嵩 / 蚩尤 / 周不疑 / 曹操 / 智伯 / 劉巴 / 劉表 / 漢 / 官渡 / 魏 / 許県 / 荊州 / 武陵郡 / 零陵郡 / 従事中郎 / 尚書 / 尚書令 / 太守 / 別駕従事 / 牧 / 郊天地 / 黄老学 / 典故(有職故実)

劉闡Liu Chan

リュウセン
(リウセン)

(?〜?)
呉御史中丞

劉璋の子、劉循の弟《劉璋伝》。一名「劉緯」《劉璋伝》、または「劉禕」《先主伝集解》。

劉闡の人となりは慎み深く、財貨を軽んじて義侠を愛し、仁慈謙譲の風格を持っていた《劉璋伝》。

建安十七年(二一二)、益州に滞在していた劉備が荊州に引き揚げると聞き、白水関守将の楊懐・高沛とともに劉備を見送った。劉備は酒宴を設けて彼らを出迎えたが、その席上で楊懐らを斬殺している《先主伝集解》。

父の益州牧劉璋は劉備に降り、振威将軍の印綬を返してもらって公安の駐屯を命じられた。孫権が荊州を襲撃して関羽を殺したとき、劉璋は改めて益州牧に任じられて秭帰の駐屯し、その地で没した。のちに南中の豪族雍闓が益州郡を占拠して呉に味方したとき、孫権は劉闡を益州刺史に任じて交州・益州の境界を占領させたが、諸葛亮が南方を平定したので、劉闡は呉に帰国し、御史中丞に任じられた《劉璋伝》。

のちに病気にかかり、家で臨終を迎えた《劉璋伝》。

【参照】関羽 / 高沛 / 諸葛亮 / 孫権 / 楊懐 / 雍闓 / 劉循 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 益州郡 / 荊州 / 呉 / 公安 / 交州 / 秭帰県 / 南中 / 白水県(白水関) / 御史中丞 / 刺史 / 振威将軍 / 牧 / 印綬

劉琮Liu Cong

リュウソウ
(リウソウ)

(?〜?)
漢諫議大夫・参同軍事

荊州牧劉表の子、劉琦の弟。

劉表の後妻蔡氏が生んだ子で、蔡氏が日ごとに劉琦の悪口を言ったため父の寵愛を集めた。劉琮は蔡氏の姪を娶ったが、蔡氏の弟蔡瑁、同じく外甥の張允とも親密になっていった。建安十三年(二〇八)七月に曹操が荊州に侵入してきたが、劉表は翌八月に病没した。兄劉琦が外に出されていたため、劉琮は父の跡を継ぐことができた。劉琦に侯の印を授けたが、劉琦はこれを地に投げ捨てている《後漢書劉表伝》。

蒯越・韓嵩・傅巽らは曹操に帰順すべしと進言した。劉琮「いま諸君らとともに荊州を守り、先君の事業を引き継ぎたいと思う」、傅巽「順逆には道理があり、強弱には状勢があります。臣下が君主に刃向かうのは道理に逆らうことで、新興国が天子に抵抗することも状勢に逆らうことで、また劉備も曹操に対抗することはできません。将軍はご自身を劉備と比べてどう思われますか」、劉琮「わしのほうが及ばない」、傅巽「劉備が曹操に対抗できないなら荊州を自力で守ることは不可能です。もし劉備が曹操に対抗できたなら将軍の下風には就かないでしょう」。そこで劉琮は曹操に降伏した《劉表伝》。

劉備は樊城に駐屯していたが、曹操の侵入を知って使者を派遣してきたので、宋忠を使者に立てて降伏したことを説明した。劉備は宋忠の首筋に刀を突きつけて怒り、軍勢を率いて襄陽に撤退した。このとき諸葛亮が劉琮を攻撃して荊州を支配すべきだと進言したが、劉備は退けている。劉備は城下から劉琮を呼んだが、劉琮は恐怖を抱いて立つことができなかった《先主伝》。

曹操は劉琮を青州刺史に任じて列侯とし、のちに諫議大夫・参同軍事に異動させた《劉表伝》。

【参照】蒯越 / 韓嵩 / 蔡氏 / 蔡瑁 / 諸葛亮 / 宋忠 / 曹操 / 張允 / 傅巽 / 劉備 / 劉琦 / 劉表 / 荊州 / 襄陽郡 / 青州 / 樊城 / 諫議大夫 / 侯(列侯) / 参同軍事 / 刺史 / 牧 / 印

劉岱Liu Dai

リュウタイ
(リウタイ)

(?〜?)
漢司空長史

字は公山。沛国の人《武帝紀》。兗州刺史劉岱とは同名異人である《集解》。

曹操に仕えて司空長史となった。建安四年(一九九)冬、劉備が徐州刺史車胄を殺害して叛逆すると、王忠とともに劉備を追討するも勝つことができなかった。このとき劉備は「汝らが百人来ても俺をどうにもできんぞ。曹公(曹操)自ら来ればわからないがな」と劉岱らを侮辱している。遠征に従軍して功績を立てたことから列侯に封ぜられた《武帝紀》。

【参照】王忠 / 車胄 / 曹操 / 劉岱(兗州刺史) / 劉備 / 劉繇 / 兗州 / 徐州 / 沛国 / 司空 / 刺史 / 長史 / 列侯

劉昶Liu Chang

リュウチョウ
(リウチヤウ)

(?〜?)
魏兗州刺史

字は公栄。沛国の人《胡質伝・世説新語注》。あるいは済陰の人ともされる《晋書范喬伝》。劉昶はものごとに通じ、生まれつきの酒好きだった《世説新語注》。出仕して兗州刺史にまで昇った《世説新語注》。

劉昶がのちに兗州刺史になったことから考えれば、沛国の人とすべきである。済陰郡は兗州に属す。

劉昶は人を見る目があることで知られていた。かつて同郡の武周のもとを訪れたとき、その三人の息子を見て、「きみの息子たちはみな国士だ。元夏の器量がもっとも優れ、輔佐(宰相)の風格がある。仕官して努力すれば三公に次ぐだろう。叔夏と季夏も、常伯・納言を下ることはあるまい」と言い、のちにその言葉の通りとなった《胡質伝》。また、范喬を見ると、その大器ぶりをしかと重んじた《晋書范喬伝》。

王戎が二十歳のころ、阮籍のもとを訪ねて一緒に酒を飲んだとき、その座中に兗州刺史の劉昶がいた。阮籍は「ちょうど二斗のうまい酒があるから、きみと一緒に飲もう。あの公栄のやつにはやらぬから」と言い、二人で杯を交わしあった。劉昶はただの一杯もありつけなかったが、まるで恨むような様子もなく、三人で議論したり冗談を言ったりした。王戎がそれを不思議に思い、後日、阮籍に「あれはどなたですか?」と訊ねると、阮籍は「劉公栄だよ」と答えた。そこで王戎は言った。「公栄よりすぐれた者なら一緒に飲まぬわけにはゆかぬし、公栄ほどでなければわざわざ一緒に飲まぬ理由はない。唯一、公栄だけが一緒に飲まないで済むのだ。」《晋書王戎伝・世説新語》

劉昶が阮籍の酒にありつけなかったこと、一緒に飲まずにいられる相手であるとの評価は、『晋書』王戎伝、『世説新語』任誕篇、同書簡傲篇に記載があるが、それぞれ文に異同がある。王戎伝および簡傲篇では、劉昶を論評したのが阮籍ということとなっており、簡傲篇の注に引く『晋陽秋』では王戎の言葉となっており、任誕篇では劉昶自身の言葉となっている。ただ、任誕篇では「公栄と同じくらいの人もまた一緒に飲まぬわけには参るまい」と、意味が正反対となっている。また、羽目を外すのを非難されたときの返答としており、こう答えたあと、非難した者と一緒に、日が暮れるまで酒を飲んで酔いつぶれた、とする。『世説新語箋疏』の推測するように、一つのできごとが、伝聞の過程で内容が変わってしまったのだろう。

【参照】王戎 / 阮籍 / 范喬 / 武陔(元夏) / 武周 / 武韶(叔夏) / 武茂(季夏) / 兗州 / 済陰郡 / 沛国 / 三公 / 刺史 / 常侍 / 尚書 / 常伯 / 納言

劉展Liu Zhan

リュウテン
(リウテン)

鄧展

劉度Liu Du

リュウド
(リウド)

(?〜?)
漢零陵太守

建安十三年(二〇八)十二月、赤壁において周瑜とともに曹操の南征軍を撃退した劉備は、地歩を固めるべく荊州南部を攻略し、長沙太守韓玄・武陵太守金旋・桂陽太守趙範・零陵太守劉度を下し、その四郡を支配下に置いた《先主伝》。

【参照】韓玄 / 金旋 / 周瑜 / 曹操 / 趙範 / 劉備 / 荊州 / 桂陽郡 / 赤壁 / 長沙郡 / 武陵郡 / 零陵郡 / 太守

劉敏Liu Min

リュウビン
(リウビン)

(?〜?)
蜀中書侍郎・左護軍・揚威将軍・成都尹・雲亭侯

零陵郡泉陵の人《蔣琬伝》。劉優の孫、蔣琬の外弟《蔣琬伝・同集解》。

祖先はもともと彭城の人であったが、曾祖父劉綽が零陵太守に任じられて、住まいを移したのである。その子が劉優、劉優の孫が劉敏である。劉敏は弱冠にして蔣琬とともに名を知られ、孝廉に推挙された。後主の御代、侍御史に任じられて検察にあたり、名声実力ともに朝廷内で称賛された《蔣琬伝・同集解》。

行右護軍・偏将軍となって丞相諸葛亮の北征に従事、李厳の職務怠慢が明らかになると、諸葛亮らと名を連ねてそれを告発した《李厳伝》。

のちに左護軍・揚威将軍に昇進し、鎮北大将軍王平とともに漢中の重鎮となった《蔣琬伝》。延煕七年(二四四)春、魏の大将軍曹爽が歩騎十万人余りを率いて駱谷から侵入してきたとき、諸将は「漢城・楽城に楯籠って援軍を待つべし」と主張した《王平伝》。

王平は「もし関所が陥落すれば大変なことになる。劉護軍・杜参軍を興勢に入れ、王平が後詰めしよう」と述べ、劉敏もまた「男女が野にあって農務に励んでいるのだ。敵の侵入を許しては一大事である」と言い、麾下の軍勢を率いて王平とともに興勢へ入り、百里余りにわたって多数の旗幟を盛んに立てた。(こうして時間を稼ぐうちに)大将軍費禕が到着したので、魏軍は撤退した《王平・蔣琬伝》。

劉敏は功績によって雲亭侯に封ぜられ《蔣琬伝》、中書侍郎を付加されて成都尹を拝命した《同集解》。

公孫述が皇帝を僭称したとき蜀郡を成都尹に改めたというが、蜀漢の時代には見えず、また西晋にもこの官職はなかった。あるいは李氏成漢の官職であろうか。なお『永州府志』には「草書に巧みであった」とあるという《古今図書集成》。

【参照】王平 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 曹爽 / 杜祺(杜参軍) / 費禕 / 李厳 / 劉綽 / 劉禅(後主) / 劉優 / 雲亭 / 漢中郡 / 魏 / 興勢 / 蜀郡(成都尹) / 成固県楽城) / 泉陵県 / 沔陽県漢城) / 彭城国 / 陽平関(関所) / 駱谷 / 零陵郡 / 右護軍 / 孝廉 / 左護軍 / 参軍 / 侍御史 / 丞相 / 成都尹 / 太守 / 大将軍 / 中書侍郎 / 鎮北大将軍 / 亭侯 / 偏将軍 / 揚威将軍 / 行

呂威璜Lu Weihuang

リョイコウ
(リヨヰクワウ)

(?〜200)
漢騎督

袁紹の臣、騎督《武帝紀》。

建安五年(二〇〇)十月、袁紹は官渡において曹操軍と対峙していたが、淳于瓊らの五将に軍勢一万人を授け、北方からの輜重車を護送させることにした。淳于瓊が北方へ四十里行った烏巣で宿営をしたところ、曹操が歩騎五千人を率いて夜襲をかけてきた。呂威璜はこの戦いで眭元進・韓莒子・趙叡とともに曹操軍に斬られている《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 韓莒子 / 淳于瓊 / 眭元進 / 曹操 / 趙叡 / 烏巣 / 官渡 / 督将

呂介Lu Jie

リョカイ

呂公

呂義Lu Yi

リョギ

呂乂

呂君Lu jun

リョクン

(161〜221)
魏横海将軍・領章陵太守・西鄂都郷侯

曹操の将。章陵太守。南陽郡博望の人《隷釈》。

実名は不詳。ここでは仮に呂君と称することにする。もすさんは呂常と同人であると推定されている。章陵は襄陽城に近く、その可能性も充分に高い。

呂君は生まれながら決断力に優れ、武勇に秀でながらも他人を傷付けることはなかった《隷釈》。

漢代末期、帝室は支配力を失って群雄が勢力を競い、海内は分裂して王道は断絶していた。呂君は忠勇でもって武名を馳せ、刺史により試験的に雉の県長に任じられた。矛を手にして鎧を着け、県境をしっかり守ったので、敵国に対して武器を使うこともなく、四方に対して侵略することもなかった。武猛都尉を拝命、厲節中郎将・裨将軍と昇進して関内侯に封ぜられた《隷釈》。

官軍の南征に加勢して長江・漢水流域を制圧し、功績が認められて陰徳亭侯に封ぜられ、章陵太守を領し、逃散した者どもをかき集めて領民とした。三度の昇進試験に合格して平狄将軍に栄転、盧亭侯へ転封となった《隷釈》。

領国に赴いて政治を敷くこと十三年。みずから率先して配下の者を導き、出費を節約、食事は一膳のみ、座るときも蓆を重ねず、廏舎に粟を食う馬なく、外出のときも副車で従う者なく、生きているときも家財を増やさず、死ぬときも孤児を託さず、良き大夫というべき態度は楚の叔敖、斉の晏嬰でも勝てなかっただろう。軍勢を統率するときは、暑くても日傘を差さず寒くても毛皮を着けず、戦闘が始まれば、矢石の降るところ、矛先の届くところまで踏み込み、古代の名将でも勝てないほどであった《隷釈》。

領国に赴くとは盧亭侯に封ぜられたことを指すと思われる。西鄂への転封から逆算すると、入封したのは建安十三年(二〇八)のことと推定される。昇進試験は三年ごとに行われ、九年後、三度目の合格で官位が上がる。裨将軍に任じられたのは建安四年(一九九)ごろのことだろうか。

そのころ水かさが増して関羽が荒れ狂い、辺境を揺るがして人民を殺戮した。洪水が溢れかえって樊城を水浸しにし、平原でも十仞も漬かって城の外堀と繋がり、猛将も悍馬もぷかぷかと浮いたり沈んだりした。そのため不逞邪悪な連中が鼎の沸くが如く満ちあふれ、ある者は城に楯籠って叛逆し、ある者は軍勢を連れて敵の軍門に降り、平民以下、異心を抱かぬ者はなかった《隷釈》。

しかし呂君の威厳恩徳による信義は危難にあってますます明らかとなり、そのため毅然として邪悪な者どもを撃ち払うことができ、ひたすら社稷を守って十三城を連ね、民衆に損害を被らせなかったのである。帝(劉協?)はその一貫性を嘉して横海将軍に栄転させ、西鄂都郷侯に封じ、食邑は合わせて七百戸となった。こうして名声は地方に轟きわたり、南方から悪人どもが一掃されたのである《隷釈》。

こうして魏国に対する大功を立て、宗廟に対する業績を挙げたものの、病の床に伏して十日、黄初二年(二二一)正月、六十一歳で薨去した。帝(曹丕)も群僚も彼のために哀悼し、謁者を派遣して弔辞を述べさせ、臣下を加増してやった。民衆士人に悲しまぬ者はなく、故吏の楊向らが彼のために石碑を立てたのであった《隷釈》。

「魏国に対する大功」「宗廟に対する業績」とは、おそらく漢から魏への禅譲を推進したことを指している。

【参照】晏嬰 / 関羽 / 叔敖 / 曹操 / 曹丕(帝) / 楊向 / 劉協(帝) / 陰徳亭 / 漢 / 漢水 / 魏 / 章陵郡 / 斉 / 西鄂県 / 楚 / 雉県 / 長江 / 南陽郡 / 博望県 / 盧亭 / 謁者 / 横海将軍 / 関内侯 / 県長 / 刺史 / 太守 / 亭侯 / 都郷侯 / 裨将軍 / 武猛都尉 / 平狄将軍 / 厲節中郎将 / 故吏 / 三考(三度の昇進試験)

呂建Lu Jian

リョケン

(?〜?)

曹操の将軍。

建安二十四年(二一九)、曹仁の守る樊城が関羽に包囲され、于禁の七軍も水没してしまった。そこで太祖(曹操)は徐晃を派遣したが、徐晃の手は新附の兵ばかりで関羽に対抗できなかった。太祖は(漢中から)引き揚げると将軍徐商・呂建らを徐晃の元へ送り、「歩騎の集結を待ってから進め」と伝えさせた。さらに殷署・朱蓋らが前後して遣され、都合十二将が徐晃の下に集結したので、徐晃は関羽を破ることができた《徐晃伝》。

【参照】殷署 / 于禁 / 関羽 / 朱蓋 / 徐晃 / 徐商 / 曹仁 / 曹操 / 樊城

呂公Lu Gong

リョコウ

(?〜?)

劉表の将。「呂介」とも書く《後漢書劉表伝》。

初平二年(一九一)、袁術の命を受けた孫堅が荊州に入って劉表を攻撃したとき、劉表は襄陽城に楯籠り、将軍黄祖を夜陰に乗じて城外に出した。黄祖は城外で兵を集めて城に帰ろうとしたが、孫堅の待ち伏せに遭って峴山に敗走した。孫堅がただ一騎で峴山に入って黄祖を追跡したが、呂公は山陰に伏せていて、石を落として孫堅の頭を割った《破虜伝》。

【参照】袁術 / 黄祖 / 劉表 / 荊州 / 峴山 / 襄陽県

呂曠Lu Kuang

リョコウ
(リヨクワウ)

(?〜?)
漢列侯

袁尚の将。東平国の人《武帝紀》。

建安八年(二〇三)十月、袁尚は平原の袁譚を包囲していたが、曹操が黄河を渡って黎陽に入ったと聞くと、包囲を解いて鄴に引き揚げた。このとき呂曠は、呂翔とともに袁尚に背き、陽平に軍勢を集めて曹操に帰服し、列侯に封ぜられた。袁譚は将軍の印綬を密造して呂曠らに贈り、彼らを味方に引き入れようとしたが、呂曠らはそれを曹操に送って彼の裏切りを知らせた《武帝紀・袁紹伝》。

【参照】袁尚 / 袁譚 / 曹操 / 呂翔 / 鄴県 / 黄河 / 東平国 / 平原郡 / 陽平県 / 黎陽県 / 印綬

呂昭Lu Zhao

リョショウ
(リョセウ)

(?〜?)
魏鎮北将軍・領冀州刺史

字は子展。東平の人《杜畿伝》。呂巽・呂安・呂粋の父《杜畿伝》。

才能・実績によって昇進を重ね、鎮北将軍になった。兗州刺史桓範は自分が冀州牧に昇進になりそうだと聞いたとき、かつて自分の後輩だった呂昭が上司になることを嫌がり、「むしろ九卿になって三公に拝跪するほうがいい。呂子展なんぞに膝を屈することなどできるか」と妻仲長氏に語った。妻が「君(あなた)が部下の徐州刺史(鄭岐)を殺そうとしたとき、みんな君の下にいることは難しいと言っておりました。今度はまた呂氏に屈服するのが恥ずかしいとおっしゃいましたが、それなら君の上に立つのも難しいことになりますね」と返したので、桓範は図星を突かれて激怒し、刀の柄で彼女の腹を突いて殺してしまった《曹真伝》。

黄門侍郎杜恕は、刺史は民政に専念して軍事に携わるべきでないと考えていた。ちょうど鎮北将軍呂昭が冀州刺史を兼任することになり、その機会に杜恕は言上した。「領土のうち荊州・揚州・青州・徐州・幽州・幷州・雍州・涼州はみな州兵を持っており、国庫充実と前線への補給を担っているのは兗州・予州・司隷・冀州だけです。兵を持った州は民政をなおざりにすることがあるので、別途将軍を任命すべきと申し上げましたが、陛下は冀州を呂昭へのご褒美となさいました。呂昭には才能があるのでまだましなほうですが…」《杜畿伝》。

【参照】桓範 / 仲長氏 / 鄭岐 / 杜恕 / 呂安 / 呂粋 / 呂巽 / 兗州 / 冀州 / 荊州 / 徐州 / 司隷 / 青州 / 東平郡 / 幷州 / 幽州 / 予州 / 雍州 / 揚州 / 涼州 / 九卿 / 黄門侍郎 / 三公 / 刺史 / 鎮北将軍 / 牧

呂翔Lu Xiang

リョショウ
(リヨシヤウ)

(?〜?)
漢列侯

袁尚の将。東平国の人《武帝紀》。「高翔」ともある《後漢書袁紹伝》。

建安八年(二〇三)十月、曹操が黄河を渡って黎陽に入ったと聞き、袁尚は袁譚に対する包囲を解いて、平原から鄴に引き揚げた。呂翔・呂曠は袁尚から離叛して陽平に軍勢を集め、曹操に帰服して列侯に封ぜられた。袁譚は将軍の印綬を密造して呂翔らに贈り、彼らを味方に引き入れようとした《武帝紀・袁紹伝》。

【参照】袁尚 / 袁譚 / 曹操 / 呂曠 / 鄴県 / 黄河 / 東平国 / 平原郡 / 陽平県 / 黎陽県 / 印綬

呂納Lu Na

リョノウ
(リヨナウ)

(?〜?)
漢武猛都尉

曹操の将、武猛都尉。

曹操が河内獲嘉の諸陣営を攻略したとき、捕虜から「河内に宋金生という神人がおりまして、それが犬を使って私どもの代わりに守ってやると申したのでございます」と聞いた。曹操はすぐさま武猛都尉呂納を連れ、兵士を率いて宋金生を逮捕し、ただちに軍法を執行、これを奏上した《太平御覧》。

【参照】宋金生 / 曹操 / 獲嘉侯国 / 河内郡 / 武猛都尉 / 神人

呂布Lu Bu

リョフ

(?〜219?)

関羽の将。五原郡の呂布とは別人。

建安二十四年(二一九)、関羽は樊城で曹仁を包囲したとき、別働隊として郟の城下に部将を派遣した《満寵伝》。呂布はその別働隊の指揮官であったようだ《夏侯惇伝集解》。しかし曹操は徐晃を派遣して関羽を撃破する一方《徐晃・関羽伝》、自ら軍勢を率いて郟県の摩陂において呂布軍を撃破した《夏侯惇伝》。

原文「太祖軍撃破呂布軍於摩陂」《夏侯惇伝》。これについて「呂布」を「関羽」の誤りとする趙翼・潘眉・陳景雲らの説が有力。しかし『満寵伝』には「関羽が別将を郟の城下へ派遣した」とあり、また同名呂布の存在を否定する理由はないと思われる。原文を尊重すべきである。なお盧弼は「撃破呂布軍」を衍字とみて削る。

【参照】関羽 / 徐晃 / 曹仁 / 曹操 / 呂布(五原郡の人) / / 樊城 / 摩陂

冷苞Ling Bao

リョウホウ
(リヤウハウ)

(?〜?)

劉璋の将。「冷」の音は魯杏の反切(呉音ならばリョウ)、姓を「泠」と書く本もあり、その場合は魯経の反切(レイ)《先主伝集解》。

建安十七年(二一二)に劉備が涪城を占拠すると、翌十八年、冷苞は劉璋の命により劉璝・張任・鄧賢・呉懿らとともに涪におもむいて劉備を防いだ。しかし、みな敗退して緜竹に立てこもり、呉懿は劉備に降伏した。緜竹の諸将を監督すべく、劉璋はさらに李厳・費観を派遣したが、二人はともに軍勢をあげて投降した《先主伝・華陽国志》。

その後は、張任らとともに雒城に逃げこみ、劉璋の子劉循を支えて城を守ったとみていいだろう。

【参照】呉壱呉懿) / 張任 / 鄧賢 / 費観 / 李厳 / 劉璝 / 劉璋 / 劉備 / 涪県 / 緜竹県

梁岐Liang Qi

リョウキ
(リヤウキ)

(?〜?)
漢渉長・関内侯

渉の県長。袁尚の将。

建安九年(二〇四)二月、袁尚が平原遠征に出た隙をついて曹操は鄴を攻撃した。曹操が毛城の尹楷、邯鄲の沮鵠を破ったのをみて、四月、渉県長の梁岐と易陽県令の韓範は県を挙げて曹操に降服し、関内侯の爵位を賜った《武帝紀》。

【参照】尹楷 / 袁尚 / 韓範 / 沮鵠 / 曹操 / 易陽県 / 邯鄲県 / 鄴県 / 渉県 / 平原郡 / 毛城 / 関内侯 / 県長 / 県令

梁鵠Liang Hu

リョウコク
(リヤウコク)

(?〜?)
漢仮司馬

字は孟黄。安定烏氏の人で、字は「孟皇」とも書く《武帝紀集解》。『襄陽記』に見える「梁孟星」も同人と思われる。

霊帝は書を好んだので、世間には書を得意とする者が多かった。なかでも師宜官がもっとも秀で、その才能を自負しており、いつも文字を書いたあとは木簡を削ったり焼いたりして、筆跡が盗まれないようにしていた。梁鵠はあらかじめ沢山の木簡を作っておいて師宜官に酒を振る舞い、彼が酔っぱらったのを見計らって木簡を盗み取った。こうして書法を研究したのである《武帝紀》。梁鵠は若いころから書を好んでいたが、また師宜官の八分の書体を会得して有名になり、孝廉に推挙されて郎となり、鴻都門下(学問所)を歴て侍中となり、選部尚書に昇った《武帝紀集解》。

曹操は洛陽県令になりたいと思っていたが、梁鵠は彼を洛陽北部尉に任じた。のちに梁鵠は荊州牧劉表を頼ったが、曹操は荊州を平定すると賞金を出して梁鵠を探し求めた。梁鵠は恐怖を抱き、自縛して軍門に出頭した。曹操は彼を仮の司馬として秘書の任にあて、書によって功績を立てさせた。曹操はいつも帳のなかの壁に釘で打ち付けて、彼の書を掲げて師宜官の書より優れていると言って愛玩した。魏の宮殿の額はみな梁鵠が書いたものである《武帝紀》。

当時、邯鄲淳も王次仲の書法を会得していたが、梁鵠の筆遣いの勢いよさには敵わない。衛恒の『四体書勢』は、邯鄲淳は繊細な字、梁鵠は雄大な字をうまく書いたと述べている《武帝紀集解》。

【参照】衛恒 / 王次仲 / 邯鄲淳 / 師宜官 / 曹操 / 劉宏(霊帝) / 劉表 / 安定郡 / 烏枝県(烏氏) / 荊州 / 洛陽県 / 県令 / 鴻都門下 / 孝廉 / 侍中 / 司馬 / 尚書 / 選部尚書 / 牧 / 洛陽北部尉 / 郎 / 四体書勢 / 襄陽記 / 書 / 八分体

梁孟星Liang Menxing

リョウモウセイ
(リヤウマウセイ)

梁鵠

廖化Liao Hua

リョウカ
(レウクワ)

(?〜264)
蜀右車騎将軍・仮節・領幷州刺史・中郷侯

字は元倹。襄陽郡中廬の人《宗預伝・襄陽記》。もとの名を「廖淳」といい、「廖敦」とするのは誤りである《宗預伝・明帝紀集解》。廖氏は代々、沔南地方でも筆頭の名族であった《襄陽記》。

廖化は前将軍関羽の主簿を務めていて、関羽が敗死したため呉に所属したものの、先主(劉備)の元へ帰りたく思っていた。そこで自分が死んだと人々に思い込ませ、老母を抱えて昼も夜も歩いて西へ向かった。ちょうど先主が東征軍を起こしていたので秭帰で遭遇した。先主は大層喜んで廖化を宜都太守に任命する《宗預伝》。決戦に臨んで、大督馮習の元で別働隊を務めた《陸遜伝》。

先主が崩御すると丞相諸葛亮の参軍となり、のちに督広武に任じられた《宗預伝》。蔣琬は諸葛亮から茂才に推挙されると、固辞して廖化らに譲っている《蔣琬伝》。

廖化は陰平太守となり、景初二年(二三八)九月、守善羌侯である宕蕈の陣営を攻撃した。魏の雍州刺史郭淮は広魏太守王贇・南安太守游奕に軍勢を預け、山の東西から廖化を挟み撃ちさせた。魏の明帝は「軍隊というものは分散を避けるものだ」と言い、郭淮に「別働隊のうち必要でない者は引き揚げて要地を守らせるよう游奕に伝えよ」と勅命を下した。その詔勅が届かぬうち、廖化は游奕軍を打ち破り、王贇は流れ矢に当たって死んだ《明帝紀》。

延煕十一年(二四八)、姜維は石営に進出、彊川を通過して西方へ向かい、羌族の治無戴を出迎えた。廖化は成重山に留まって城を築き、羌族たちから人質を取り立てる。魏の郭淮は諸将の反対を押し切って軍勢を二手に分け、夏侯霸には沓中へ姜維を追わせ、自分は諸軍を率いて廖化を攻撃した。姜維は引き返して廖化を救援し、北征は未発に終わった《郭淮伝》。

翌十二年秋、姜維はまた北方へ進出したが郭淮に阻まれて撤退した。郭淮が勝利に乗じて羌族を攻撃するため西方へ出かけた隙を突き、三日後、廖化が軍を返して白水の南岸に布陣して鄧艾と対峙した。もともと廖化が鄧艾を釘付けにして姜維が東進して洮城を奪取する計画であったが、鄧艾に見抜かれ、姜維が洮城に着いたころにはすでに鄧艾が引き返して楯籠っていた《鄧艾伝》。

廖化は次第に昇進して右車騎将軍・仮節・領幷州刺史となり、中郷侯に封ぜられる。果断激烈をもって称えられ、官位は張翼と同等、宗預より右であった《宗預伝》。廖化が張翼とともに大将になったとき、人々は「前に王・句あり、後に張・廖あり」と語り合った《華陽国志》。

『華陽国志』劉後主志は「大将」とし、『三国志』王平伝は同じ文を引用して「大将軍」とする。廖化は大将軍になったことがなく、『華陽国志』が正しい。

諸葛瞻が朝政を統括することになったとき、廖化は宗預の屋敷を訪ねて諸葛瞻に挨拶しに行こうと誘ったが、「吾らは七十歳を越えて望むことは一日でも死を遅らせることのみ。年少の輩に何を望んでこせこせと訪問せねばならんのだ」と断られている《宗預伝》。

景耀五年(二六二)、姜維が軍勢を率いて狄道に進出したとき、廖化は言った。「戦いはやめなければ必ず我が身を焼くことになる(『左伝』)。それは伯約(姜維)のことだ。智略は敵に勝らず、力量も賊に劣っているのだから、それを飽くまで仕掛け続けたとしても、どうやって成功させられようか?『詩経』に、我より先んじず我より後れず、というのは今日のことだ」《宗預伝》。

六年夏、魏の征西将軍鄧艾・鎮西将軍鍾会が大軍を催して侵攻してきた。姜維は上表して援軍を要請、後主劉禅は廖化を姜維の元へ派遣して支援させる一方、張翼・董厥を陽安関へ派遣した。しかし鍾会軍は張翼らが到着する前に陽安関を陥落させたので、姜維・廖化は陰平を放棄して張翼らとともに剣閣に楯籠った。姜維らが鍾会と対峙している隙を突いて、鄧艾が迂回して成都に迫ったので、劉禅は降服した《鄧艾・鍾会・後主・姜維伝》。姜維・廖化らは成都に引き返そうとしたが、鍾会軍に包囲されて全軍降服した《鍾会伝》。

咸煕元年(二六四)春、宗預とともに洛陽に移住することになったが、道中で病気のため卒去した《宗預伝》。

【参照】王贇 / 王平(王) / 夏侯霸 / 郭淮 / 関羽 / 姜維 / 句扶(句) / 諸葛瞻 / 諸葛亮 / 鍾会 / 蔣琬 / 宗預 / 曹叡(明帝) / 治無戴 / 張翼 / 宕蕈 / 董厥 / 鄧艾 / 馮習 / 游奕 / 劉禅 / 劉備 / 陰平郡 / 魏 / 宜都郡 / 彊川 / 剣閣 / 呉 / 広魏郡 / 広武 / 秭帰県 / 襄陽郡 / 成重山 / 成都県 / 石営 / 中郷 / 中廬侯国 / 狄道県 / 沓中 / 洮城 / 南安郡 / 白水 / 幷州 / 沔南 / 陽安関 / 雍州 / 洛陽 / 右車騎将軍 / 仮節 / 郷侯 / 参軍 / 刺史 / 守善羌侯 / 主簿 / 丞相 / 征西将軍 / 前将軍 / 太守 / 大将 / 大督 / 鎮西将軍 / 督 / 茂才 / 詩経 / 羌族

廖淳Liao Chun

リョウジュン
(レウジユン)

廖化

廖敦Liao Dun

リョウトン
(レウトン)

廖化

綸直Lun Zhi

リンチョク

(?〜237)

公孫淵の将軍。

景初元年(二三七)七月、大司馬・楽浪公の公孫淵は魏に対して反乱を起こした。このとき将軍の綸直は、賈範とともに厳しく諫言したが、聞き入れられず、殺された。公孫淵が誅殺されたのち、司馬懿は綸直らの墓を盛ってやった《晋書宣帝紀》。

【参照】賈範 / 公孫淵 / 司馬懿 / 魏 / 楽浪郡 / 公 / 将軍 / 大司馬

泠苞Ling Bao

レイホウ
(レイハウ)

冷苞

路招Lu Zhao

ロショウ
(ロセウ)

(?〜?)

曹操の将。『三国志演義』では「路昭」の名で登場する。

建安四年(一九九)、袁術が徐州を通過して袁紹を頼ろうとしたので、曹操は朱霊と路招を劉備に付けて迎え撃たせたが、到着しないうちに袁術は病死した《先主伝》。

同十三年、曹操が荊州を征伐するにあたっては、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・馮楷とともに都督護軍趙儼に属していた《趙儼伝》。

同十七年、朱霊とともに行護軍将軍夏侯淵に属し、長安に駐屯している《夏侯淵伝》。

史書では名前に触れられるだけだが、朱霊と行動をともにすることが多く、于禁・張遼らとほぼ同格の高位の将軍であったと思われる。

【参照】于禁 / 袁紹 / 袁術 / 夏侯淵 / 朱霊 / 曹操 / 張郃 / 張遼 / 趙儼 / 馮楷 / 李典 / 劉備 / 荊州 / 徐州 / 長安県 / 護軍将軍 / 都督護軍 / 三国志演義 / 行

路昭Lu Zhao

ロショウ
(ロセウ)

路招

婁圭Lou Gui

ロウケイ

(?〜?)

字は子伯。南陽の人《崔琰伝》。『三国志演義』では「夢梅居士」の名で登場する。

若いころからの野心家で、「男たる者、この世に生まれたからには、軍勢数万・騎馬千匹を手に入れて名声を顕したいものだ」と歎息して朋輩に嘲笑されていた。また曹操とも付き合いがあった《崔琰伝》。のちに亡命者を匿ったため捕縛され、その罪は死刑に相当したが、牢獄を乗り越えて脱出することができた。追捕の手は急であったが、婁圭は服を着替えて追っ手を助けるふりをしたので、役人はそれに気付かず、とうとう逃げおおせることができた《崔琰伝》。

初平年間(一九〇〜一九四)、天下に義兵が巻き起こると、婁圭も荊州の北境あたりで軍勢を集めて劉表と手を組んだ《崔琰伝》。しばらくして三輔地方で動乱が起こり、飢えに苦しんだ人々が武関を越えて南陽に入ってくると、婁圭は彼らを客人として出迎えた。ただ扶風で亭長を務めていた王忠だけは、婁圭のもとに行きたくなかったので、仲間数人を従えて彼を攻撃し、婁圭の兵士を奪い取っている《武帝紀》。

のちに曹操のもとに身を投じ、彼の信任を得て大将となったが、軍勢を指揮することはなく、いつも議論に出席して軍事・国政に携わっていた《崔琰伝》。河北が平定されたときは、曹操に付き従って冀州まで赴いた《崔琰伝》。

建安元年(一九六)、陝に駐屯していた張済が食糧を求めて南陽郡に来たところ、南陽郡民が彼を射殺したが、劉表は彼の死を喜ばず、その子張繡と手を組んだ。張済を殺したのが婁圭だとすれば、彼が曹操を頼ったのは張繡の報復を恐れて逃亡したものと理解できる。

劉表が亡くなったので曹操は荊州に進軍したが、劉表の子劉琮が彼を出迎え、割り符を持って降服を申し出た。諸将はみな真意を疑ったが、曹操が婁圭に質問すると、婁圭は「天下は混乱して、誰もが(刺史・太守任官の)王命を貪って尊大に振る舞っております。いま割り符を持って来たのは、きっと真心からでしょう」と答えた。曹操は「大変よろしい」と言って軍を進めた《崔琰伝》。

曹操は婁圭に格別の秩禄を与え、その家には千金が積み重ねられた。(曹操は)「婁子伯(婁圭)は孤(わたし)より富み栄えておる。ただ権勢が及ばないだけだ」と言っていた《崔琰伝》。

建安十六年(二一一)閏八月、曹操は馬超・韓遂を討伐するためたびたび渭水を渡ろうとしたが、そのつど馬超の騎兵が攻撃してくるので陣営を立てることができなかった。しかも地面には砂が多く、防塁を築くこともできなかった。そこで婁圭は「いま空の寒いときで、砂を盛って城を造り水を注ぎかければ、一夜にして完成しますぞ」と曹操に告げた。曹操はこれを採用して、あらかじめ水を運ぶための嚢を沢山作っておき、真夜中に渭水を渡って城を作った。明け方までには城を築きおえ、軍勢全てが渭水を渡ることができた。馬超・韓遂は何度も戦いを挑んだが勝つことができず、曹操が虎騎を放って挟み撃ちにし、彼らを大破した。馬超・韓遂は涼州に逃走した《崔琰伝》。

馬超らを打ち破ったのは婁圭の功績が多大であり、曹操は常々「子伯の計略には孤でも及ばぬ」と感歎していた《崔琰伝》。

のちに曹操は子供たちと一緒に外遊することがあったが、婁圭もしばしば随行した。ある日、婁圭と習授が同じ車に乗って出かけたとき、曹操父子が(宮殿を)出るところに行き会った。婁圭は「この家の父子は今日を楽しんでいるようだな」と言った。習授が「父子がこのような有様であるとは、なんと素晴らしいことか!」とつぶやくと、婁圭は「(下克上の)世界に生まれたのだから自分でそうなればよい。それなのに他人をただ見ているだけとはな!」と言い捨てた。その発言を習授が告発したので、曹操は彼を逮捕して誅殺した《崔琰伝》。

【参照】王忠 / 韓遂 / 習授 / 曹操 / 馬超 / 劉琮 / 劉表 / 渭水 / 河北 / 冀州 / 荊州 / 三輔 / 南陽郡 / 武関 / 扶風郡 / 涼州 / 大将 / 亭長 / 三国志演義 / 虎騎 / 節(割り符)

婁子伯Lou Zibo

ロウシハク

婁圭