三国志人名事典 あ行

尹楷Yin Kai

インカイ
(ヰンカイ)

(?〜?)
漢武安長

武安の県長。

建安九年(二〇四)二月、袁尚が平原遠征に出た隙をついて曹操は鄴を包囲した。尹楷は毛城に屯して上党からの兵糧を鄴に搬入していたが、四月、曹操は鄴包囲に曹洪を残して自ら尹楷を攻撃、尹楷の軍勢は打ち破られた《武帝紀》。

【参照】袁尚 / 曹洪 / 曹操 / 鄴県 / 上党郡 / 武安県 / 平原郡 / 毛城 / 県長

尹礼Yin Li

インレイ
(ヰンレイ)

(?〜222?)
漢東莞太守

一名を盧児という《臧霸伝》。

はじめ泰山一帯で臧霸・孫観・呉敦・昌豨らと勢力を合わせ、呂布に荷担していた。呂布が敗北すると、曹操は臧霸を召し寄せて尹礼らを招かせた。尹礼は曹操のもとに参向し、新たに設置された東莞郡の太守に任じられる《武帝紀・臧霸伝》。もともと尹礼が東莞を拠点にしていたためらしい《臧霸伝集解》

黄初三年(二二二)十月に孫権が魏に背くと、翌十一月、征南将軍曹仁は臧霸に命じて強襲をかけさせたが、呉の将軍全琮・徐盛らの反撃に敗れた。このとき全琮の手の者に斬られた将軍「尹盧」が見える《呉主伝・全琮伝》。尹礼のことだろう。

【参照】呉敦 / 徐盛 / 昌豨 / 全琮 / 曹仁 / 曹操 / 臧霸 / 孫観 / 孫権 / 呂布 / 呉 / 泰山 / 東莞郡 / 将軍 / 大司馬 / 太守

尹盧Yin Lu

インロ
(ヰンロ)

尹礼

殷署Yin Shu

インショ

(?〜?)
漢平難将軍

曹操の将。

殷署は平難将軍として関中護軍趙儼に属し、もとの韓遂・馬超らの敗残兵五千人余りを統率した。羌族がしばしば侵入してきたので、殷署は趙儼とともに新平まで追撃して大破した。屯田のための寄留者呂並が将軍を自称して陳倉城を占拠すると、殷署はまたもや趙儼とともに攻撃して賊軍を破滅させた。のちに(二一九?)関中から漢中へ千二百人を増援することになり、殷署がその統率者として斜谷口を出立したが、四十里ほど行ったところで叛乱が起こり趙儼との連絡が取れなくなってしまった。趙儼の奔走によりようやく騒動は収まった《趙儼伝》。

建安二十四年(二一九)秋、于禁の七軍が水没して関羽に降服すると、襄陽・樊城以北は関羽に脅かされた。そこで宛城に駐屯していた徐晃が討伐にあたったが、兵力が不足していたため曹操は徐商・呂建を派遣した。徐晃は少しづつ進んで関羽の樊城包囲陣に間近く陣取った。殷署は朱蓋らとともに徐晃の救援として派遣された。その結果、徐晃は関羽を破って樊城を救出することができたのである《徐晃伝》。

【参照】于禁 / 関羽 / 韓遂 / 朱蓋 / 徐晃 / 徐商 / 曹操 / 趙儼 / 馬超 / 呂建 / 呂並 / 宛県 / 関中 / 漢中郡 / 襄陽県 / 新平郡 / 陳倉県 / 樊城 / 斜谷口 / 関中護軍 / 平難将軍 / 羌族 / 屯田

陰化Yin Hua

インカ
(インクワ)

(?〜?)
蜀武陽令

建安二十四年(二一九)、陰化は武陽県令を務めていたが、県の赤水において九日間にわたって黄龍が姿を現し、また甘露が県内に降り注いだ。蜀の人々はそれを劉氏に対する瑞兆だと考えた。そこで陰化は犍為太守李厳・郡丞宋遠とともに「黄龍甘露碑」を立てた《先主伝・隷続》。

陰化は使者として呉の孫権の元へ赴いたが、孫権を満足させられず、のちに鄧芝が代わって使者になったとき、孫権は「丁厷は上辺だけ、陰化は言葉足らずであったが、鄧芝ならば両国を仲睦まじくできる」と評した《鄧芝伝》。

「言葉足らず」の原文は「不尽」。『華陽国志』では「不実」と作る。

諸葛亮は府(役所)を開くと、蔣琬を茂才に推挙したが、蔣琬は固辞して劉邕・陰化・龐延・廖淳に譲ろうとした。諸葛亮はそれを許さなかった《蔣琬伝》。

【参照】諸葛亮 / 蔣琬 / 宋遠 / 孫権 / 丁厷 / 鄧芝 / 龐延 / 李厳 / 劉邕 / 廖化(廖淳) / 犍為郡 / 呉 / 蜀 / 赤水 / 武陽県 / 県令 / 太守 / 茂才 / 甘露 / 黄龍 / 黄龍甘露碑 / 府

陰夔Yin Kui

インキ

(?〜?)
漢予州刺史

袁尚の将。任官時期は不明だが、故(もと)の予州刺史とされる。

建安七年(二〇二)に袁紹が亡くなったのち、子の袁譚・袁尚兄弟は互いに憎しみあった。二人は競って崔琰という者を味方に引き入れようとしたが、崔琰の方では病気を称していずれにも荷担せず、そのため袁尚の怒りを買って牢獄に繋がれた。彼が助かったのは陰夔が陳琳とともに取りなしてやったからである《崔琰伝》。

九年二月、袁尚は審配・蘇由を鄴の守備に残し、自ら平原の袁譚を討伐した。その留守を衝いて曹操が鄴城を包囲したため、七月、袁尚は鄴の城外まで引き返す。しかし曹操の逆包囲を恐れた袁尚は、陰夔・陳琳を使者として和睦を求めた。曹操は申し入れを断り、袁尚が恐怖を覚えて濫口に逃走すると、これを再び包囲した。そのとき矛を交える寸前、陰夔は馬延・張顗・郭昭らとともに投降した《武帝紀・袁紹伝・檄呉将校部曲文》。

【参照】袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 郭昭 / 崔琰 / 審配 / 蘇由 / 曹操 / 張顗 / 陳琳 / 馬延 / 鄴県 / 平原郡 / 予州 / 濫口 / 刺史

于毒Yu Du

ウドク

(?〜193)

黒山賊の頭目《張燕伝》。

黄巾賊の張角が蜂起すると、于毒らも黒山で叛乱を起こし、賊将はそれぞれ数千から三万の軍勢を率いていた。張燕が黒山賊をたばねるようになると軍勢は百万に脹れあがった。霊帝は討伐することができず、河北諸郡はその損害を被った《張燕伝》。

初平二年(一九一)七月、勃海太守袁紹が韓馥を脅迫して冀州牧の地位を襲うと、同年、于毒は白繞・眭固らとともに十万余りの軍勢で魏郡に侵入した。さらに東郡まで侵出したところ、太守王肱は防ぐことができず、河内に駐屯していた曹操が濮陽に入った。曹操は白繞を撃破し、東郡太守として東武陽に駐屯する《武帝紀》。

翌三年春、曹操が頓丘に陣を移した隙を突き、于毒らは東武陽を攻撃した。しかし曹操はそのまま黒山を急襲しようとしたので、于毒は東武陽攻撃を中止して撤退した。曹操が道中で待ち伏せしており、眭固・於夫羅はそのため敗北した《武帝紀》。

四年三月上巳、袁紹が公孫瓚征討の帰途、薄洛津において賓客たちを集めて大宴会を催していた折り、魏郡の兵士たちが叛逆した。于毒は彼らと手を結んで総勢数万人で鄴城を襲撃、太守栗成を殺害した。韓馥の後任として長安から冀州牧壺寿を迎え入れた《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁紹や彼の部下の家族はみな鄴城内にいたが、袁紹が斥丘に引き返してくると、城内の陶升という者が袁紹に内通して逃がしてしまった。于毒は朝歌の鹿馬山蒼厳谷に楯籠ったが、五日間の包囲を受けたすえ壺寿らとともに斬殺された《袁紹伝》。

年代については栗成の項を参照されること。同じ歳、兗州牧金尚を擁した袁術が兗州に進出しており、これと連動したものと見られる。

【参照】袁紹 / 於夫羅 / 王肱 / 韓馥 / 壺寿 / 公孫瓚 / 眭固 / 曹操 / 張燕 / 張角 / 陶升 / 白繞 / 栗成 / 劉宏(霊帝) / 河内郡 / 河北 / 冀州 / 魏郡 / 鄴県 / 黒山 / 斥丘 / 蒼厳谷 / 朝歌県 / 東郡 / 東武陽県 / 頓丘県 / 濮陽県 / 勃海郡 / 鹿場山 / 太守 / 牧 / 黄巾賊 / 黒山賊 / 上巳

烏延Wuyan

ウエン

(?〜207)
漢右北平烏丸単于

烏丸族。右北平の大人、のち汗魯王を称す《後漢書烏丸伝》。

霊帝の御代の初め、烏延は右北平に八百戸余りの部落を抱え、「汗魯王」を自称した。勇敢で計算高かったという《烏丸伝・後漢書同伝》。

袁紹による単于任命書には「右北平の率衆王汗盧」とある《烏丸伝》。

初平年間(一九〇〜一九四)、遼西烏丸の丘力居が死んで従子の蹋頓がその後を継ぐと、遼東・遼西・右北平三郡の烏丸はみな彼の命令に従うようになった《烏丸伝・後漢書同伝》。袁紹と公孫瓚が紛争を始めると、蹋頓は袁紹のもとに使者を送って連合し、袁紹の援軍として公孫瓚を攻撃、これを打ち破った。袁紹は偽の詔勅を発行して蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延らに単于の印綬を授けてやった《烏丸伝・後漢書同伝》。

袁紹の死後、その子袁尚は曹操に敗れて蹋頓のもとに身を寄せた。建安十二年(二〇七)、曹操は直々に出馬して柳城で蹋頓と戦い、これを斬った《武帝紀・烏丸伝・後漢書同伝》。烏延・蘇僕延・楼班らは部族の者たちを見捨て、袁尚に付き従って遼東に逃走したが、遼東太守公孫康は彼らの首を斬って曹操のもとへ送り届けた《武帝紀・烏丸伝・後漢書同伝》。

【参照】袁尚 / 袁紹 / 丘力居 / 公孫康 / 公孫瓚 / 蘇僕延 / 曹操 / 蹋頓 / 難楼 / 劉宏(霊帝) / 楼班 / 右北平郡 / 柳城 / 遼西郡 / 遼東郡 / 単于 / 太守 / 烏丸族

潁容Ying Rong

エイヨウ

(?〜?)
漢徴士

字は子厳。陳国長平の人《後漢書儒林伝》。

博学で多くのものごとに通じており、『春秋左氏伝』を得意とし、太尉楊賜に師事した。郡より孝廉に推挙され、州から招聘され、公車でもって徴しよせられたが、いずれにも応じなかった《後漢書儒林伝》。

初平年間(一九〇〜一九四)、戦乱を避けて荊州へ行き、学生千人あまりを集めた。劉表が武陵太守に任用しようとしたが、出仕を承諾しなかった。五万語からなる『春秋左氏条例』を著した。建安年間(一九六〜二二〇)に卒去している《後漢書儒林伝》。

【参照】楊賜 / 劉表 / 荊州 / 長平県 / 陳国 / 武陵郡 / 孝廉 / 太尉 / 太守 / 春秋左氏条例 / 春秋左氏伝 / 公車

衛演Wei Yan

エイエン
(ヱイエン)

(?〜238?)
燕侍中

公孫淵の臣、侍中。

景初二年(二三八)、司馬懿が襄平を包囲すると、公孫淵は相国王建・御史大夫柳甫を使者として包囲解除を条件に降伏を願いでた。司馬懿はそれを許さず、王建らを捕縛して全て斬首した。公孫淵は改めて侍中衛演を使者に立て、月日を決めて人質を送ると約束した《晋書宣帝紀》。

司馬懿は衛演に向かって告げた。「軍事には五つの要諦がある。戦うことが可能であれば戦い、戦うことが不可能であれば守り、守ることが不可能であれば走る。残りの二つは降伏と死あるのみ。おまえらは自分を縛りあげて降伏することをしなかったのだから、その時点で死ぬことが決定したのだ。人質など送ってくる必要はない。」《晋書宣帝紀》

公孫淵は包囲陣を突破して逃げようとしたが、司馬懿の放った兵士に斬られた《晋書宣帝紀》。

【参照】王建 / 公孫淵 / 司馬懿 / 柳甫 / 襄平県 / 御史大夫 / 侍中 / 相国

衛茲Wei Zi

エイジ
(ヱイジ)

(?〜190)

字は子許。陳留郡襄邑の人。衛臻の父《衛臻伝》。

衛茲は弱冠にして圏文生とともに立派な徳を称えられた。郭泰が二人を連れて市場に出かけたとき、衛茲は値札通りに支払ったが、圏文生は傷物だと怒鳴り、値切ってから買った。郭泰は言った。「子許(衛茲)は寡欲で、文生は貪欲だ。この二人はただの兄弟ではない。まるで父子だ」。のちに圏文生は財貨に溺れて人望を失い、衛茲は壮烈な節義によって名を知られたのである《衛臻伝》。

衛茲は雄大な節義を持っており、偽善を奨励するような振る舞いをせず、世俗の名声を追い求めなかった。思慮は明瞭深淵、計略は広大無限であった。車騎将軍何苗に招かれ、司徒楊彪から二度も旌をもって招聘された(が、応じなかった)《衛臻伝》。のちに陳留太守張邈に仕えた《張邈伝》。

曹操は京師を出奔して陳留に逃走したが、衛茲は「天下を平定する者はきっとこの人だ」と言い、曹操のほうでも彼を立派だと思って、しばしば彼の邸宅を訪れて国家の一大事について語り合った《衛臻伝》。衛茲は言った。「もう長らく混乱が続いており、軍隊でなければこれを鎮めることはできませぬ」「挙兵する者が今後出始めるでしょう」。(群雄のうち)興隆する者、滅亡する者を深く見極め、(曹操が立てた)広大な謀略の筆頭の翼賛者となった。彼は軍勢三千人を糾合した《衛臻伝》。

初平元年(一九〇)正月、関東では董卓を討伐するため義兵が起こり、その軍勢は河内・酸棗・南陽・潁川・鄴に駐屯した。しかし董卓軍が強力であったため、率先して進む者はいなかった。曹操は「いま董卓が宮室を焼いて天子を連れ去ってしまった。そのため天下は震動しており、ただ一度の戦いで天下を平定することができよう」と主張して、西に進軍して成皋を占拠しようとした。衛茲は張邈の指示によって曹操の軍勢に随行した《武帝紀》。

曹操は滎陽県の汴水に到達したが、そこで董卓の部将徐栄に遭遇して大敗した。曹操は乗馬を失ったうえ、敵の追撃も急激であったが、曹洪が乗馬を差し出したためようやく脱することができた《武帝紀・曹洪伝》。この戦いで衛茲は戦死してしまった。のちに曹操は陳留の郡境にさしかかるたび、使者をやって彼を祀ったのであった《衛臻伝》。

【参照】衛臻 / 何苗 / 郭泰 / 圏文生 / 徐栄 / 曹洪 / 曹操 / 張邈 / 董卓 / 楊彪 / 劉協(天子) / 潁川郡 / 河内郡 / 関東 / 鄴県 / 滎陽県 / 酸棗県 / 襄邑県 / 成皋県 / 陳留郡 / 南陽郡 / 汴水 / 司徒 / 車騎将軍 / 太守 / 旌

袁嗣Yuan Si

エンシ
(ヱンシ)

(?〜?)
漢陳相

袁嗣は袁術の任命で陳国の相を務めていたが、建安元年(一九六)正月、曹操の軍勢が武平に到達したので降服した《武帝紀》。

【参照】袁術 / 曹操 / 陳国 / 武平県 / 相

袁叙Yuan Xu

エンジョ
(ヱンジヨ)

(?〜?)
漢済陰太守

袁紹の従弟。済陰太守。

袁叙は袁術が死んだのち、袁紹に手紙を送って言った。「いま海内は崩壊しており、天意は実に我らが家にあります。神秘的な働きには兆しがあるものですが、まず尊兄に注がれるでありましょう。南兄(袁術)の臣下が(彼を)即位させようといたしましたが、南兄は言いました。年齢では北兄が長け、位階では北兄が重い、と。すぐさま御璽を送ろうとしましたが、ちょうどそのとき曹操が道を遮ったのであります」《武帝紀》。

文面から察するに袁叙はもともと袁術方に附いていたのだろう。この手紙が袁氏の叛逆の証拠として提出されるのである。

【参照】袁紹 / 袁術 / 曹操 / 済陰郡 / 太守

袁譚Yuan Tan

エンタン
(ヱンタン)

(?〜205)
漢車騎将軍・青州刺史

字は顕思。汝南郡汝陽の人。袁紹の長子、袁基の養嗣子《袁紹伝》。

初平三年(一九二)、公孫瓚が青州刺史田楷を派遣して斉の地を占拠させたので、袁紹は軍勢数万人を派遣して田楷と戦わせること二年、両軍ともに食糧が底を突き、士卒は疲労困憊した。そこで百姓たちを奪い合い、野原には青草がなくなる有様であった《後漢書公孫瓚伝》。

袁紹には袁譚・袁煕・袁尚と三人の子がいて、袁譚は年長でもあり恵みぶかく、袁尚は年少で美貌があった。袁紹の後妻劉氏は寵愛をえて袁尚を偏愛し、しばしば彼の才能を褒め称え、袁紹もその容姿を立派だと思って後継者にしようと考えた。そこで袁譚を兄袁基の後継者として青州に出向させた《後漢書袁紹伝》。

沮授が「万人が兔を追っていても一人がそれを捕まえれば貧しい者さえ諦めると言います。持ち分が定まったからです。年齢が等しければ賢明さ、徳行が等しければ卜占で決めるのが古代の制度です。先代の成敗の戒めを思い、兔の持ち分が定まる掟をお考えください」と諫めたが、袁紹は「吾は息子たちに一州づつ任せて能力を確かめたいのだ」と聞き入れなかった。沮授は退出して「災禍はここから始まるのか!」と言った《袁紹伝》。

『後漢書』で沮授は、袁紹に対して「災禍はここから始まりましょうぞ」と言ったことになっている。

袁譚は田楷と戦ったが、敗退して戻ってきた《後漢書公孫瓚伝》。袁譚は初めて青州に来たとき都督であり、まだ刺史ではなかったが、のちに曹操が青州刺史に任命した。その領土は黄河以西、ただ平原があるに過ぎなかったが、そのまま北進して田楷を追放した《袁紹伝》。建安元年(一九六)春、袁譚は北海国の相孔融を攻撃、夏のある夜、城は陥落して孔融は東山に逃走し、袁譚は彼の妻子を捕虜にした《後漢書孔融伝》。かくて軍威は海岸にまで輝いた《袁紹伝》。

そのころ百姓たちは君主がいなかったので喜んで彼を推戴したが、袁譚は小人どもを信任して浅薄な言葉を受け入れ、奢侈淫乱にふけって殖産の困難を省みなかった。華彦・孔順はみな邪悪な小人であったが信用して腹心とし、王脩は袁譚に招かれて治中従事になっていたが、ただ官職に就いているだけであった。その一方、賓客たちをよく待遇して名士を尊重したりもした《袁紹・王脩伝》。

妻の弟に軍勢を授けて城内に入れ、市井で盛大に盗みを働かせたり、城外で田畑を荒らさせたりした。また部将二人を諸県に下向させて兵士を募集したが、賄賂を出す者は見逃し、出さない者から取り込んでいった。貧しい者が数多くいて山野に潜伏したのを、兵を放って捕まえさせたが、あたかも鳥獣狩りのような風情であった。一万戸ある城でも戸籍には数百しか編入されず、賦役・租税収入は三分の一にもならなかった。賢者を招聘しても応じる者なく、徴兵期日に来ないで一族と暮らす者がいても、処罰することができなかった《袁紹伝》。

東萊郡では泰山・東海に接していたため、黄巾賊が平定されず豪族の多数が叛逆していたが、袁譚は彼らに官位を送って手懐けた《何夔伝》。

建安五年(二〇〇)、劉備が青州に逃走したとき、袁譚はむかし彼の茂才であったので歩騎を率いて出迎え、一緒に平原まで行って袁紹に使者を飛ばして報告した《先主伝》。また袁紹の命を受けて鄭玄に従軍を強要した。鄭玄はやむを得ず病身を押して元城まで行ったが、病気がひどくなって進むことができず、六月、卒去した《後漢書鄭玄伝》。

袁紹は官渡において曹操軍と対峙していたが、曹操が淳于瓊を攻撃していると聞いて、袁譚に「曹操が淳于瓊を破るならば、吾は奴の陣営を落とすまでだ。奴めは帰る場所を失うぞ」と語り、高覧・張郃らに曹操の陣営を攻撃させたが、陥落させられなかった。二人は淳于瓊の敗北を聞いてそのまま曹操に投降した。そのため袁紹軍は大混乱となって潰滅、袁紹は袁譚らとともに幅巾のまま馬に乗り、ただ八百騎だけを連れて黄河を渡り、黎陽に逃げ込んだ《袁紹伝》。

七年夏、袁紹は薨去した。まだ後継者を定めていなかったが、逢紀・審配はかねて奢侈贅沢を袁譚に憎まれており、辛評・郭図がみな袁譚と仲が良く、審配・逢紀とは仲が悪かったため、人々が年長の袁譚を立てようとしたのに対し、袁譚が立てば辛評らに危害を加えられるだろうと恐怖し、袁紹の遺命を偽作して袁尚に後を継がせた《後漢書袁紹伝》。

袁譚は到着しても後を継ぐことができず、車騎将軍を自称して黎陽に進出した。袁尚はわずかな兵を与える一方、(目付として)逢紀を彼に付き添わせた。袁譚は兵力増強を要求したが、審配らは改めて協議したすえ承知しなかった。袁譚は腹を立てて逢紀を殺した《袁紹伝・後漢書同伝》。

九月、曹操が黄河を渡って攻撃してきたので、袁譚は袁尚に危急を告げた。袁尚はみずから袁譚救援に向かい、黎陽において曹操と対峙した《袁紹伝》。袁譚は郭援・高幹らに河東を侵略させたが、曹操は鍾繇に関中諸将を率いさせてこれを打ち破った《龐悳伝》。翌年二月まで黎陽城下で大いに合戦したが、袁譚・袁尚方が敗退した。三月、曹操が黎陽を包囲しようとしたので袁譚らは出撃したが大敗、夜中に鄴へと逃走した。四月、曹操が鄴へ軍を進めるのを袁尚が迎撃、五月、曹操は賈信を黎陽に残して許へと引き揚げた《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

袁譚は「我が軍は甲冑が精巧でないため曹操に負けてしまったのだ。いま曹操軍は撤退しようとして兵士どもは帰郷の念にかられている。彼らが渡河を終えぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ。この機会を失ってはならん」と言ったが、袁尚は(彼を)疑って許可しなかった《後漢書袁紹伝》。

袁譚はかつて兵力増強を断られ、このとき甲冑補充も断られたため激怒した。郭図・辛評が「先公が将軍を兄の後継者に出したのも、みな審配の差し金ですぞ」と言うので、袁譚はうなづき、軍勢を率いて袁尚を攻撃、外門において戦った。しかし袁譚は敗北し、軍勢をまとめて南皮に帰還した。袁尚はさらに袁譚を攻撃してきた。袁譚は合戦のすえ大敗して南皮に楯籠ったが、袁尚の包囲が厳しく、平原へと逃走した《後漢書袁紹伝》。

袁尚が館陶に陣を布いたのをみて、袁譚はこれを攻撃して打ち破った。袁尚が敗走して険(要害?)に楯籠ったので、袁譚は追撃を加えたが、袁尚が設けていた伏兵が袁譚軍をさんざんに打ち破った。倒れる死体、流れる血は計り知れない。袁譚は平原に逃げ帰った《後漢書袁紹伝》。

郭図が進言した。「いま将軍の国土は小さく軍勢は少なく、兵糧は底を突いて勢力も弱い。顕甫(袁尚)が来れば長くは戦えますまい。愚考するに、曹公を呼び出して顕甫を攻撃させるのがよろしゅうございます。曹公が来ればまず鄴を攻撃いたしますから、顕甫は救援に引き返します。将軍が軍勢を率いて西進すれば鄴以北をみな獲得することができます。もし顕甫が敗北してその軍勢が逃げ散ったなら、拾い集めて曹公と対峙することができます。曹公は遠来しているのですから食糧が持たず、必ず撤退します。そうなれば趙国以北はみな我らの所有となり、曹公と敵対するには充分です」。袁譚ははじめ聞き入れなかったが、のちに採用して、辛毗を使者として曹操の元へ送った《辛毗伝》。

別駕従事の王脩が官吏・民衆を連れて青州から救援に訪れた。袁譚は「吾が軍を成り立たせているのは王別駕である」と喜んだ。劉詢らが漯陰で挙兵して諸城がみな呼応したので、袁譚が「いま州を挙げて叛逆したのは孤の不徳のせいか」と歎息すると、王脩は「東萊太守管統は叛きません。必ずやってきます」と約束した。十日余りして、管統が妻子を棄てて来着したので、袁譚は改めて管統を楽安太守に任じた《王脩伝》。

袁譚は改めて袁尚を攻撃しようと思い、王脩に諮問したところ、王脩は「兄弟は左右の手です。それは人と戦おうとして自分の右手を切り、『我は必ず勝つぞ』と言うようなもの。だいたい兄弟を棄てて親しまないなら、天下の誰と親しむのでしょうか?近ごろ讒言者が双方で争って当面の利益を追求しておりますが、どうか耳を塞いでお聞き入れなきよう。もし佞臣数人を斬って(弟御と)仲直りし、四方を制御するならば天下を自由に往来できましょうぞ」と反対した。袁譚は聞き入れなかった《王脩伝・後漢書袁紹伝》。

荊州牧劉表は手紙を書いて袁譚を諫めた。「戦国時代以前には君臣・父子・兄弟が殺し合った例もありますが、王業を成し、霸業を定めたいと願っても、みな逆手で取って順手で守るというもので、繁栄は一代限りでありました。冀州(袁尚)どのが弟としての分を弁えておらぬとしても、仁君(袁譚)は気持ちを抑えて身を屈められ、仕事を成し遂げることを考えるべきです。百もの怒りを捨てられ、また本来の母子兄弟に戻られますように」《後漢書袁紹伝》。

十月、曹操が袁譚を救援すべく黎陽に着陣したので、袁尚は平原の包囲を解いて鄴に引き揚げた。袁尚の将呂曠・高翔が曹氏に寝返ったが、袁譚は密かに将軍印を彫って呂曠・高翔に与えた。曹操は袁譚の企みに気付いていたが、袁譚の女を息子曹整の妻に迎えて彼を安心させ、軍勢をまとめて引き揚げた《後漢書袁紹伝》。

九年三月、袁尚が鄴の守備に審配を残し、またも平原の袁譚を攻撃した。審配は手紙を書いて袁譚に告げた。「かつて先公が将軍を廃嫡して賢兄の後継者とされ、我が将軍を嫡統とされたことは天下みな知らぬ者はありません。どうして凶悪な臣下郭図なぞに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか。もしご改心なさらぬなら災禍は今にも参りますぞ」《後漢書袁紹伝》。袁譚は手紙を受け取ると城郭の上で泣いたが、郭図に脅迫され、たびたび矛先を交えていたため戦争をやめることができなかった《袁紹伝》。

五月、曹操が鄴を包囲したので、袁尚は平原包囲を解いて帰還したが、曹操の迎撃を受けて中山に逃走した。曹操が鄴を包囲しているうちに、袁譚はまた彼に背いて甘陵・安平・勃海・河間を奪い取り、中山において袁尚を敗走させ、彼の軍勢をことごとく手に入れた《後漢書袁紹伝》。袁尚の主簿李孚が主君とはぐれ、袁譚の元へ参詣した。袁譚は彼を改めて主簿に任じ、軍を返して龍湊に屯した《賈逵伝・後漢書袁紹伝》。

八月、曹操は鄴を陥落させて審配を斬り、袁譚に手紙を送り、その違約を責めて婚姻を絶ち、彼の女を帰してから軍を進めた。十二月、曹操は袁譚をその陣門において攻撃した。袁譚は恐怖を抱き、夜中に平原を抜け出して南皮へと逃走し、清河を前に陣を布いた。曹操は平原に入城して諸県を平定する《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

柳城の烏丸蘇僕延は五千騎を派兵して袁譚に加勢しようとしたが、曹操が牽招を柳城に送って説得させたので、蘇僕延は派兵を取り止めた《牽招伝》。

翌十年正月、曹操は南皮を包囲したが、袁譚が突出したため多くの士卒が死亡した。曹純が虎豹騎を率いて強襲をかけた。袁譚は出撃しようとしたが軍勢の集結が間に合わなかった。明け方から真昼まで戦って決着が付かなかったが、曹操がみずから枹を手にして太鼓を叩くと、すぐ打ち破ることができた。袁譚は髪を振り乱して馬を飛ばせたが、曹純麾下の騎兵が「只者にあらじ」とみて急追する。袁譚は落馬し、振り返りながら「ちょっと、我を見逃してくれたら富貴にしてやろう」と言いかけたが、その言葉も終わらぬうちに首は地面に落ちていた《武帝紀・曹仁伝・後漢書袁紹伝》。

南皮城内では降服することに決定していたが、まだ混乱が続いていて落ち着かなかった。李孚は馬に乗って曹操陣営に行き、「冀州主簿李孚、密かに申し上げたき儀あり」と叫んだ。曹操が彼を呼び入れると、李孚は「いま城内では強者と弱者が争って落ち着きませぬ。降服者のうち城内でも信頼されている者に、ご命令を伝えさせるのがよろしかろうと存じます」と進言した。曹操は「卿の考えによって伝えよ」と命じた。李孚が城内へ帰り、「おのおの本来の持ち場へ帰れ、でしゃばってはならぬ」と命じると、城内は落ち着きを取り戻した《賈逵伝》。

王脩は楽安にいて食糧輸送に携わっていたが、袁譚の危急を聞き、手勢と諸従事たち数十人を率いて袁譚の元へと急いだ。しかし高城まで来たところで訃報を受け、馬を下りて号泣、「主君なくして帰れようか」と言って曹操の元へ参詣する。曹操は袁譚を梟首して「哭する者があれば妻子もろとも処刑する」と命じてあったが、王脩は首級の下で哭泣し、全軍を感動させた。軍正が処刑にすべきと報告したが、曹操は「義士である」と言って赦免、王脩が「袁氏のご厚恩を受けておりますので袁譚さまのご遺体を葬らせてください。そのあと死刑にしていただければ恨みはございません」と訴えたので、埋葬を許可してやった《王脩伝》。

「高城」は原文「高密」。袁譚のいた南皮とは逆方向になるため上の通りとした。

【参照】袁基 / 袁煕 / 袁尚 / 袁紹 / 王脩 / 華彦 / 賈信 / 郭援 / 郭図 / 管統 / 牽招 / 公孫瓚 / 孔順 / 孔融 / 高幹 / 高覧 / 淳于瓊 / 沮授 / 鍾繇 / 辛毗 / 辛評 / 審配 / 蘇僕延 / 曹純 / 曹整 / 曹操 / 張郃 / 鄭玄 / 田楷 / 逢紀 / 李孚 / 劉氏 / 劉詢 / 劉備 / 劉表 / 呂曠 / 呂翔高翔) / 安平国 / 河間国 / 河東郡 / 関中 / 官渡 / 館陶県 / 甘陵国 / 冀州 / 許県 / 鄴県 / 荊州 / 元城県 / 黄河 / 高城侯国 / 湿陰県漯陰県) / 汝南郡 / 汝陽県 / 斉国 / 清河 / 青州 / 泰山 / 中山国 / 趙国 / 東海 / 東萊郡 / 南皮県 / 平原郡 / 北海国 / 勃海郡 / 楽安国(楽安郡) / 柳城 / 龍湊 / 黎陽県 / 刺史 / 車騎将軍 / 従事 / 主簿 / 相 / 太守 / 治中従事 / 都督 / 別駕従事 / 牧 / 茂才 / 印 / 烏丸 / 軍正 / 黄巾賊 / 虎豹騎

袁霸Yuan Ba

エンハ
(ヱンハ)

(?〜?)
魏大司農

陳国扶楽の人。袁渙の従弟、袁亮の父、袁徽・袁敏の兄《袁渙伝》。

はじめ丞相府に属して長史となり、建安十八年(二一三)五月、曹操を魏公に封じて九錫を賜うとの勅命が下されたとき、それを固辞する曹操に対し、荀攸以下の諸官とともに受諾せよと勧進している《武帝紀》。その功績が認められたものか、魏国が創建されると、その最初の大司農となった《袁渙伝》。

袁霸は公正厳格な人柄であり、公務に秀でており、同郡の何夔とともに名を知られていた《袁渙伝》。

【参照】袁渙 / 袁徽 / 袁敏 / 袁亮 / 何夔 / 荀攸 / 曹操 / 魏郡 / 陳国 / 扶楽県 / 公 / 丞相 / 大司農 / 長史 / 九錫

袁買Yuan Mai

エンバイ
(ヱンバイ)

(?〜207?)

袁尚の弟、あるいは兄の子。字は顕雍か《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁尚の兄袁煕の字を『三国志』は顕奕とし、『後漢書』では顕雍としている。王粲が袁尚に与えた手紙に「貴弟顕雍」とあることから、恵棟は顕奕が袁煕の字で、顕雍を袁買の字ではないかと推測。一方「煕」「雍」の字義が対応する(やわらぐの意)ことから、潘眉は袁煕の字が顕雍であろうと推定する。しかし「煕」は「奕」とも対応する(広大あるいは光明の意)ので潘眉説も全幅の信をおくことはできない。

建安十二年(二〇七)、袁尚とともに遼東の公孫康に身を寄せた。しかし、おそらく袁尚と同時に殺されたであろう《袁紹伝》。

【参照】袁尚 / 公孫康 / 遼東郡

袁約Yuan Yue

エンヤク
(ヱンヤク)

(?〜?)
漢巴郡太守

巴郡の人で、巴夷の王である《華陽国志》。「任約」ともある《資治通鑑》。

建安五年(二〇〇)、袁約は杜濩・朴胡とともに漢中の張魯に従属したので、益州牧劉璋は張魯の母と弟を殺した。そこで張魯は袁約らとともに反旗を翻した《華陽国志》。劉璋は龐羲・李異らに張魯を討たせたが勝つことができなかった《華陽国志》。

同二〇年七月に曹操が漢中を攻略したので、同九月に杜濩と朴胡は曹操に降った。十一月には張魯も曹操のもとに出頭した《武帝紀》。この間、袁約も曹操に帰服して巴郡太守となっている《華陽国志》。

このとき黄権が「漢中を失えば三巴の力を失います」と進言したので、劉備は黄権を護軍に任じて張魯を迎え入れようとした。張魯が曹操に降服したあとだったので、黄権は杜濩・朴胡・袁約らを撃破した《黄権伝・華陽国志》。袁約は杜濩・朴胡・李虎・楊車・李黒らとともに北方に逃れ、略陽に移住した《華陽国志》。

【参照】黄権 / 曹操 / 張魯 / 杜濩 / 朴胡 / 龐羲 / 楊車 / 李異 / 李虎 / 李黒 / 劉璋 / 益州 / 漢中郡 / 三巴 / 巴郡 / 略陽県 / 護軍 / 太守 / 牧 / 巴夷

閻宇Yan Yu

エンウ

(?〜?)
蜀右大将軍・巴東都督

字は文平。南郡の人《馬忠伝》。

馬忠・張表に続いて庲降都督となり、長年に渡って業績があった《馬忠伝》。

延煕十九年(二五六)、呉で孫綝が実権を握ると、呂拠・滕胤・孫憲らが謀叛を企てて誅殺された。呉の驃騎将軍朱績は、この混乱に乗じて魏が攻めてくるのではないかと恐れ、白帝城の駐留軍を増員するよう蜀に要請した《朱然伝》。翌年、そのため閻宇は右大将軍のまま巴東都督となり、羅憲を副将として巴東に駐屯することになる《霍峻伝》。

景耀五年(二六二)、宦官の黄皓と親しみ、黄皓は姜維を罷免して閻宇を立てようとしたが、姜維の方でも警戒していたので果たせなかった《姜維伝》。諸葛瞻・董厥らも、姜維が軍事を好んで国を疲弊させていることを理由に、彼から軍事権を奪って閻宇を後任とするよう上奏している《諸葛亮伝》。

魏軍が蜀に侵攻を始めると、召し返されて防御にあたった《霍峻伝》。

【参照】姜維 / 黄皓 / 朱績 / 諸葛瞻 / 孫憲 / 孫綝 / 張表 / 董厥 / 滕胤 / 馬忠 / 羅憲 / 呂拠 / 南郡 / 巴東郡 / 白帝県 / 庲降 / 右大将軍 / 巴東都督 / 驃騎将軍 / 庲降都督 / 領軍

閻豔Yan Yan

エンエン

閻行

閻行Yan Xing

エンコウ
(エンカウ)

(?〜?)
漢犍為太守・列侯

字は彦明。金城の人。韓遂の女婿。後に「閻豔」と改名する《張既伝》。

若いころから勇名を馳せ、初めは小将として韓遂に付き従った。建安年間(一九六〜二二〇)の初め、韓遂と馬騰が攻撃しあったとき、馬騰の子馬超にも勇名があったが、閻行は馬超を突き刺し、矛が折れてしまうと、その柄で馬超のうなじを殴り、殺す寸前だった《張既伝》。

同十四年、韓遂は閻行を曹操への使者に立てた。曹操は彼を厚遇し、上表して犍為太守にしてやった。閻行は自分の父を宿衛の任務に入れて欲しいと請願した。西方に帰って韓遂に会うと、曹操の言葉を伝えた。「文約(韓遂)に謝辞を伝える。卿(おんみ)が始めて兵を起こしたのは追い詰められたからであった。我(わたし)がつぶさに明らかにしておいた。早く来なさい。一緒に国家・朝廷を補佐しよう」。ついでに閻行は言った。「閻行は将軍が挙兵してから三十年余りも尽くしてきました。民衆も軍兵も疲労し、領土も狭くなっています。速やかに自分から味方すべきです。それゆえ鄴に行ったとき、老父を京師(みやこ)に行かせることを自分から申し出たのです。将軍も一子を出して忠誠心を示されませ」。韓遂は「数年のあいだ様子を見よう」と言ったが、のちには閻行の父母とともに一子を人質に出すことにした《張既伝》。

韓遂は西方に行って張猛を征伐したとき、閻行に本営の留守を任せた。ところが馬超らが叛逆を企て、韓遂を都督に祭り上げることにした。韓遂が帰国すると、馬超は彼に向かって「以前、鍾司隷(鍾繇)は馬超に将軍を討ち取らせようとしました。関東の人間はもう信用できません。いま馬超は父を棄てて、将軍を父と仰ぎます。将軍も子を棄てて馬超を息子だと思ってください」と言った。閻行は馬超と合力しないようにと諫めたが、韓遂は「いま諸将は相談していないのに意見が一致した。それが天命であるようだ」と言って聞き入れなかった《張既伝》。

そこで東方に進軍して華陰に到達した。韓遂は曹操と馬を交えて語り合うことになったが、閻行が彼の後ろに控えているのを見て、曹操は彼を眺めながら「孝子になることを考えなさい」と言った。馬超らが敗走すると閻行も韓遂に付き従って金城に帰ったが、曹操は閻行の気持ちを知っていたので、京師にいた韓遂の子孫を処刑しただけだった《張既伝》。

曹操は自ら筆を執って閻行に手紙を送った。「観察してみると、文約のやっていることは笑いぐさだぞ。吾(わたし)は前後して彼に手紙をやって抜かりなく説明したのに、こんな風だともう我慢できない。卿の父は諫議(大夫)として無事である。しかし牢獄の中は親を養う場所ではないぞ。それに国家としても長いあいだ他人の親を養うことはできないのでな」。韓遂は閻行の父親だけが安泰であると聞き、(我が子と)一緒に殺させることによって彼に二心を抱かせまいと考えた。そこで無理やり末女を閻行に嫁がせると、閻行は断り切れなかった。はたして曹操は閻行を疑い始めた《張既伝》。

建安十九年(二一四)、ちょうど閻行は韓遂の指示で西平郡を宰領しているところだったので、そのまま彼の部曲を率いて韓遂と攻撃しあった。閻行は勝つことができず、家族を引き連れて東方へ行き、曹操のもとに出頭した。曹操は上表して彼を列侯に封じた。翌二十年、夏侯淵が軍勢を引き揚げたとき、閻行が留守を守った。韓遂らが羌族・胡族数万人を率いて攻撃をしかけてくると、閻行は逃げようとしたが、たまたま韓遂は部下に殺害された《張既伝》。

【参照】夏侯淵 / 韓遂 / 鍾繇 / 曹操 / 張猛 / 馬超 / 馬騰 / 華陰県 / 関東 / 鄴県 / 金城郡 / 犍為郡 / 西平郡 / 諫議大夫 / 侯 / 司隷校尉 / 太守 / 都督 / 羌族 / 胡族 / 小将 / 部曲

閻忠Yan Zhong

エンチュウ

(?〜188)
漢信都令

漢陽の人《賈詡伝》。かつて信都の県令を務めていた《後漢書皇甫嵩伝》。

武威の賈詡は若いころ、名を知られていなかった。しかし閻忠だけが「賈詡には張良・陳平ほどの奇策がある」と言っていた《賈詡伝》。

中平元年(一八四)、皇甫嵩が黄巾賊を破り、天下に威名を轟かせたとき、閻忠は皇甫嵩を批判して言った。「得がたくして失いやすきものは時節、時節いたらば事を起こすは機敏であります。それゆえ聖人はつねに時節にしたがって行動し、智者はかならず機敏によって行動したのです。ただいま将軍は得がたき幸運に遭遇し、失いやすき機敏に行きあわれました。しかしながら足元の幸運をつかもうとせず、直面した機敏にも行動されませぬ。いかにして大いなる名声を維持できましょうか?」《賈詡伝・後漢書皇甫嵩伝》

皇甫嵩「どういう意味かね?」、閻忠「天の道理に親疎はなく、百姓すべてが関わることができるのです。それゆえ優秀なる人物は功績を立てても凡庸なる君主の褒賞を受けないのです。いま将軍は春の終わりに鉞をさずかり、年末には功績を収められました。作戦活動は鬼神の謀略のごとく、計画の修正は必要とせず、大軍を破るにも枯れ木を折るほど容易に、堅陣を破るにも雪に湯をそそぐほどでございました。七つの州を席巻し、三十六の方を屠殺し、黄巾の軍勢を皆殺しとし、邪悪な災いを取りのぞかれたのです。死体を山盛りにして石碑を刻み、南方に向かって君恩に報い、威光を本朝に振るわせ、名声を海外に広められました。かくて群雄たちは振りかえり、百姓たちは向きなおったのであります。湯武の行動でさえ将軍の偉大さには及びませぬ。身に賢者の功績を立てながら、凡庸な君主に北面して仕えるのでは、どうして安全を計れましょうや。」《賈詡伝・後漢書皇甫嵩伝》

皇甫嵩「朝から晩まで公務を心がけて忠義を忘れておらんのに、なにゆえ安全でないというのか」、閻忠「いいえ。むかし韓信は一飯の恩義を絶てなかったために天下三分の偉業を捨てることとなり、鋭利な剣が喉もとに突きつけられて歎息する羽目になりました。時機を逸して計略に従わなかったからです。いま主上の勢力は劉・項より弱く、将軍の権威は淮陰(韓信)より重いのです。指図すれば風雲を振るわすこともでき、叱咤すれば雷電を起こすこともできるのですから、冀州の人士を集めて七州の軍勢を動かし、漳河をわたり孟津で馬に飲ませて宦官を誅殺すべきです。」《賈詡伝・後漢書皇甫嵩伝》

閻忠「功業すでに成り、天下すでに安まれば、しかるのち上帝をお招きして天命を示し、上下四方を合わせて南面し、詔勅を発して宝器を移すのです。推察するに、亡国の失墜はまこと神々しき機運の極致であり、風雲発起の好機なのでございます。早々に決行しなければ、後悔しても間に合いませんぞ」、皇甫嵩は恐怖して「非常の計画は通常の形勢からは起こせないものだ。大業を創始するなど、どうして凡才の成せることであろう。黄巾は小悪党にすぎず、秦・項に並ぶものではない。新たに結集したばかりで分散させやすかったのだ。業績は成しがたく、人々は主君を忘れておらず天道は逆臣を助けぬもの。もし不逞の功績を企てたとて、早晩の災禍を招くだけであろう。本朝に忠誠を尽くして臣下の節義を守るのと、どちらがよいだろうか。」《賈詡伝・後漢書皇甫嵩伝》。

閻忠は計略が用いられないことを悟ると、狂人のふりをして巫術師に身を落とし、すぐさま亡命した《後漢紀・後漢書皇甫嵩伝・賈詡伝》。

同五年、涼州の賊王国らが挙兵すると、閻忠の身柄を拘束して車騎将軍に祭りあげ、三十六部を統率させようとした。閻忠は大勢で脅迫されたのを恥じ、怒りのあまり病気にかかって死んだ《賈詡伝・後漢書皇甫嵩伝・同董卓伝》。

【参照】殷湯王(湯) / 王国 / 賈詡 / 韓信 / 皇甫嵩 / 項羽(項) / 周武王(武) / 張良 / 陳平 / 劉宏(凡庸な君主) / 劉邦(劉) / 漢陽郡 / 冀州 / 漳水(漳河) / 秦 / 信都県 / 武威郡 / 孟津 / 涼州 / 県令 / 車騎将軍 / 宦官 / 黄巾賊 / 上帝 / 巫(巫術師) / 部曲(部) / 方

閻圃Yan Pu

エンホ

(?〜?)
魏建節将軍・平楽亭侯

漢寧太守張魯の功曹従事《張魯伝》。巴西郡安漢の人。閻璞の父、閻纉の祖父《晋書閻纉伝》。父は閻穆であろうか《新唐書世系表》。

ある人が地中から玉印を掘り当てて張魯に献上した。そこで臣下たちは張魯を漢寧王に推し立てようとしたが、閻圃は諫めて言った。「漢水一帯の民衆は十万戸もあり、四方は堅固、財産豊かで土地も肥えております。最善なら天子をお助けして斉桓公・晋文公となり、次善でも竇融となられれば富貴を失うことはございません。いま勅命を称して任免を行うならば、斬首の憂き目にあっても仕方ありません。あわてて王号を称すれば先々の禍根となりますぞ」《張魯伝・後漢書劉焉伝》。

建安二十年(二一五)、張魯は陽平が陥落したと聞き、曹操軍に降服しようとした。閻圃は「いま追いつめられたからと言って出ていけば功績を軽んじられます。巴郡に楯籠って、そのあと礼物をお贈りなされば、功績は多大に評価されるでしょう」と勧めた。曹操は南鄭に入ると、張魯が財宝を焼いていなかったことを知り、同時に彼の善意を理解していたので、使者をやって彼を安心させた《張魯伝・後漢書劉焉伝》。

張魯が閻圃の勧めで曹操に帰順すると、閻圃は列侯に封ぜられ《張魯伝・晋書閻纉伝》、また馬超の側室董氏を賜った《馬超伝》。帰順後は河南新安県に住まいしたという《新唐書世系表》。

延康元年(二二〇)、閻圃は「建節将軍・平楽亭侯」の肩書きで群臣とともに署名し、漢朝から受禅して帝位に上るべしと魏王曹丕に勧めている《文帝紀集解》。黄初年間(二二〇〜二二七)、曹丕は即位したのち閻圃の爵邑を加増し、手厚い礼をもって宮中に招いた。閻圃は、それから十年余りして病死した《張魯伝》。

曹丕に受禅を勧める「魏公卿上尊号奏」では、雑号将軍が上下二つのグループに分かれて署名している。上位のものは漢朝の将軍、下位のものは魏国の将軍だろう。閻圃は下位グループに属している。また、ここでは「平楽亭侯」としているが、『晋書』では「平楽郷侯」とする。魏が受禅したのち爵位を引き上げられたのだろうか。

【参照】閻纉 / 閻璞 / 閻穆 / 晋文公 / 斉桓公 / 曹操 / 曹丕 / 張魯 / 董氏 / 竇融 / 馬超 / 安漢県 / 河南尹 / 漢 / 漢水 / 漢中郡(漢寧郡) / 魏 / 新安県 / 南鄭県 / 巴郡 / 巴西郡 / 平楽亭 / 陽平 / 王 / 郷侯 / 建節将軍 / 功曹従事 / 太守 / 亭侯

於夫羅Wufuluo

オフラ
(ヲフラ)

(?〜195)
南匈奴単于

南匈奴単于、右賢王。「於扶羅」とも書く。羌渠の子、劉豹の父、呼廚泉の兄。前趙の劉淵の祖父にあたる《晋書劉元海記》。

中平四年(一八七)に叛逆者張純・鮮卑討伐のため詔勅によって匈奴兵が徴発されたとき、右賢王於夫羅が統率者となって参朝することになったが、翌五年、国許で叛乱が起こって父羌渠が殺され、叛乱者は須卜骨都侯を立てて単于とした。於夫羅は朝廷に赴いて告訴し、統率していた兵をそのまま手元に置いて中国に留まった《武帝紀・後漢書南匈奴伝》。

霊帝が崩御すると天下に混乱が起こったので、於夫羅は数千騎を率いて西河郡の白波賊と合流し、太原・河内などの諸郡を荒らし回った《武帝紀・後漢書南匈奴伝》。そこで勅命が下り、幷州牧董卓が於夫羅を討伐することになったが、ちょうど大将軍何進が宦官に殺害される事件があり、董卓は都に引き返していった《董卓伝》。

初平元年(一九〇)正月、曹操らが董卓打倒の義兵が起こすと、於夫羅は張楊とともに袁紹に従い、漳水のほとりに駐屯する。のち(翌二年七月以降)に於夫羅は張楊を人質に取って叛逆し、鄴の南において袁紹の大将麴義に追撃された。於夫羅はそのまま黎陽に逃れ、度遼将軍耿祉の軍勢を奪って勢力を盛り返した《張楊伝》。

同三年、黒山賊于毒らは東郡太守曹操の本拠地東武陽を攻撃したが、曹操が黒山を急襲したため、于毒らは引き返した。曹操は彼らを待ち伏せて撃ち破り、さらに内黄に進んだ。ここで於夫羅と戦いとなり、於夫羅は曹操に大敗した《武帝紀》。翌四年春、袁術が陳留に侵出すると、於夫羅は黒山賊とともに彼を支援したが、袁術は曹操に敗れて揚州に逃れている《武帝紀》。

当時の民衆はみな軍勢を抱えていたので、略奪しようとしても何も得られなかった。そのうえ軍勢も傷付いてしまったので於夫羅は国に帰ろうとしたが、国許では彼を拒絶したので河東郡に留まった。須卜骨都侯は一年で死去したが、朝廷ではそのまま単于の座を空位として、年老いた王に国を管理させた。於夫羅は興平二年(一九五)に死去した。弟呼廚泉が単于となり、於夫羅の子劉豹を左賢王とした《後漢書南匈奴伝》。

【参照】于毒 / 袁術 / 袁紹 / 何進 / 麴義 / 羌渠 / 呼廚泉 / 耿祉 / 須卜骨都侯 / 曹操 / 張純 / 張楊 / 董卓 / 劉宏(霊帝) / 劉豹 / 河内郡 / 河東郡 / 鄴県 / 黒山 / 漳水 / 西河郡 / 太原郡 / 陳留郡 / 東郡 / 東武陽県 / 内黄県 / 幷州 / 揚州 / 黎陽県 / 右賢王 / 左賢王 / 大将軍 / 度遼将軍 / 牧 / 宦官 / 匈奴 / 黒山賊 / 単于 / 前趙 / 鮮卑 / 白波賊

王威Wang Wei

オウイ
(ワウヰ)

(?〜?)

劉琮の臣。

建安十三年(二〇八)、曹操の軍勢が襄陽に到着すると、劉琮は荊州をこぞって降服し、劉備は夏口へと逃走した。このとき王威は「曹操は将軍の帰参と劉備の敗走を受けて、必ずや懈怠して防備をせず、軽々しく単独で進んでまいりましょう。王威に奇兵数千をお貸しいただき、要害に潜んで迎撃すれば曹操を生け捕りにできます。曹操を生け捕りにいたせば威光は天下に轟き、いながらにして虎のごとく歩み、中原広しとはいえ檄文を飛ばすだけで平定できましょう。一度の勝利や急場凌ぎに留まるものではございませぬ。これこそまたとない機会。逃してはなりませんぞ!」と進言したが、劉琮は聞き入れなかった《劉表伝》。

【参照】曹操 / 劉琮 / 劉備 / 夏口 / 荊州 / 襄陽県

王楷Wang Kai

オウカイ
(ワウカイ)

(?〜?)
漢奮武将軍従事中郎

曹操・呂布の賓客。

興平元年(一九四)に曹操が徐州へ出征したとき、王楷は許汜とともに従事中郎を務めていたが、張超・陳宮とともに叛逆を企てた。陳宮が陳留太守張邈を説得して呂布を兗州牧に迎え入れると、郡県はみな呼応した《呂布伝》。しかし呂布は敗北して徐州に身を寄せ、のちに劉備から徐州を奪い取った《呂布伝》。

従事中郎は将軍府の属官で、通常、賓客が充てられるようだ。

建安三年(一九八)、呂布は袁術方に寝返り、高順を沛に派遣して劉備を攻撃させた。曹操は夏侯惇を派遣して劉備を救援させ、みずから征討軍を起こして下邳の城下に着陣した《呂布伝》。

呂布は許汜・王楷を使者として袁術に救援を求めたが、袁術は「呂布は我に女をくれなかったのだから敗北するのが当然だ。いまさら何を言うのか」と難色を示す。許汜らが重ねて「明上(陛下)におかれては呂布の自滅だと思し召しでございますが、呂布が敗れれば明上もまた敗れることになりますぞ」と訴えたので、袁術は承知して武装を固め、呂布に呼応した《呂布伝》。結局、三ヶ月の籠城のすえ、呂布は敗北して斬られた《呂布伝》。

【参照】袁術 / 夏侯惇 / 許汜 / 高順 / 曹操 / 張超 / 張邈 / 陳宮 / 劉備 / 呂布 / 兗州 / 下邳県 / 徐州 / 陳留郡 / 沛県 / 従事中郎 / 太守 / 牧

王含Wang Han

オウガン
(ワウガン)

(?〜?)
蜀監軍

蜀の監軍。

景耀元年(二五八)、大将軍姜維の建議により、漢中の諸陣営を引き払って楽城・漢城に集め、敵軍が侵入しても食糧を得られなくなるよう取りはからうことになり、監軍王含は楽城を、護軍蔣斌が漢城を守った《鍾会・姜維伝》。

同六年、魏の鎮西将軍鍾会が漢中に侵攻してくると、蜀の諸陣営は対抗することもできず、みな漢城・楽城に逃れて楯籠った。両城にはそれぞれ五千人が詰めていたが、鍾会は護軍荀愷、前将軍李輔に一万人づつを預けて、荀愷には漢城、李輔には楽城を包囲させ、鍾会自身はそのまま進撃して陽安関を落としたのであった《鍾会伝》。

その後、王含がどのような行動を取ったかは分からないが、おそらく漢城の蔣斌と同じく、鍾会の軍門に降ったのではないだろうか。

【参照】姜維 / 荀愷 / 蔣斌 / 鍾会 / 李輔 / 漢中郡 / 魏 / 蜀 / 成固県楽城) / 沔陽県漢城) / 陽安関 / 監軍 / 護軍 / 前将軍 / 大将軍 / 鎮西将軍

王匡Wang Kuang

オウキョウ
(ワウキヤウ)

(?〜191?)
漢河内太守

字は公節。泰山郡の人《武帝紀》。

侠気ある人物で、財貨を軽んじて人に施すことを好んだ。若いころは蔡邕と親しくしていた。大将軍何進は彼を召し出し、割符を持たせ、徐州から強弩五百張を都に運ぶ任務を与えた。都に帰ると、何進が殺されたため、王匡は官を棄てて故郷に帰った。まもなく王匡は河内太守に抜擢される《武帝紀》。

初平元年(一九〇)正月、曹操らに呼応して、反董卓の義兵を起こした《武帝紀》。韓浩を従事に任命して孟津に駐屯させ《夏侯惇伝》、自身も故郷泰山郡の兵を率いて河陽津(孟津か)に進駐したが、董卓は平陰から渡河するように見せかけて、密かに精鋭部隊を小平で北に渡河させ、背後から王匡を襲撃させた。王匡の軍勢は壊滅し、泰山に逃げ帰った《董卓伝》。故郷で兵を募り、数千人を手に入れたので、張邈らに合流しようとした《武帝紀》。

王匡は軍資金と軍糧を徴発するため、領内に腹心の書生を放って官民の罪過を探らせ、罪過を犯した者はすぐさま逮捕して、金銭や穀物で罪過をあがなわせた。それに従わない者があれば一族皆殺しにして、自分の威信を高めた。常林の叔父もそうした嫌疑にかかったが、王匡と同県の胡毋彪が常林の依頼を受け、処罰の中止を求めたので、常林の叔父は釈放された《常林伝》。

同年六月(または翌二年七月以降)、董卓は執金吾胡毋班らを河内に派遣して、袁紹らに解散するよう説得した。王匡は袁紹の命によって胡毋班らを投獄した。胡毋班は王匡と同郡の出身であり、また妹婿でもあった。胡毋班は「董卓を憎むのは当然ですが、私は天子の遣した勅使です。あなたは董卓への怒りを私に転嫁していますが、なんと残酷な仕打ちでしょう」と王匡に手紙を送り、獄中で死んだ。王匡は胡毋班の二人の遺児を抱いて泣いた《袁紹伝》。

胡毋班の親族たちは怒りを押さえることができず、曹操と協力して王匡を殺した《武帝紀》。

興平元年(一九四)に呂布が兗州入りしたとき、すでに王匡の部下であった韓浩が夏侯惇の将として活躍している。王匡が死んだのはそれ以前のことだろう。

【参照】袁紹 / 何進 / 蔡邕 / 韓浩 / 胡毋班 / 胡毋彪 / 常林 / 曹操 / 張邈 / 董卓 / 徐州 / 河内郡 / 河陽津 / 小平 / 泰山郡 / 平陰県 / 孟津 / 従事 / 執金吾 / 太守 / 大将軍 / 符(割り符)

王建Wang Jian

オウケン
(ワウケン)

(?〜238)
燕相国

公孫淵の臣、相国。

景初二年(二三八)、司馬懿は襄平において公孫淵を攻め、雨がやんだので包囲陣を作り、土山を盛って地下道を掘り、矢倉を建てて雨のごとく矢を注ぎ、昼夜分かたず攻めたてた。そのころ、襄平城の西南から東北へ彗星が落ち、城内の人々は震えおののいた《晋書宣帝紀》。

公孫淵は恐怖を覚え、相国王建・御史大夫柳甫を使者として包囲解除を条件に降伏を願いでた。司馬懿はそれを許さず、王建らを捕縛して全て斬首した《晋書宣帝紀》。

司馬懿は公孫淵に檄文を回して言った。「むかし楚と鄭は対等の列国であったが、鄭伯は肌脱ぎになり羊をつれて楚を出迎えた。わしは君主に仕える身であり上公の地位にある。それなのに王建どもは、わしに包囲を解除して退けなどと言いおった。二人は耄碌しており、あなたの意図をうまく伝えられなかったのであろう。すでに斬首した。若くて決断力のある者を寄こしたまえ。」そこで公孫淵は改めて侍中衛演を使者に立てた《晋書宣帝紀》。

【参照】衛演 / 公孫淵 / 司馬懿 / 鄭伯 / 柳甫 / 襄平県 / 楚 / 鄭 / 御史大夫 / 相国 / 彗星

王宏Wang Hong

オウコウ
(ワウクワウ)

(?〜192)
漢右扶風太守・緜竹侯

字は長文《後漢書王允伝》。太原郡祁の人で、司徒王允の兄である《後漢書王允伝集解》。王淩の父であろうか。また「王宏は河東太守・緜竹侯だったが、叔父王允が遭難すると官を捨てて北方の新興に逃れた」とする説もある《王淩伝集解》。

若いころから気力があり、些細な行いにはこだわらなかった。はじめ弘農太守となり、冀州刺史に転任した。酷薄な性質だったので、私信を出して豪族たちと交わろうとはしなかった。そこで賓客たちは「王(宏)はひとり坐っている」と言っていた。のちに弟の司徒王允によって右扶風太守に任じられた。このとき同郡の宋翼も左馮翊太守となっており、李傕らは長安に入ったとき、王允を殺そうと望んだものの二つの郡を恐れて手を下せなかった《後漢書王允伝・同集解校補》。

そこで李傕らは勅命によって王宏・宋翼を召し寄せた。王宏は宋翼に使者を出して「郭汜・李傕は我ら二人が外にいるから王公(王允)に危害を加えないのだ。今日お召しに応じれば明日にも一族皆殺しにされよう。出ていくわけにはいくまい」と言ったところ、宋翼は「禍福は予測しがたいとはいえ、王命に背くわけにはいかぬ」と答えた。王宏はまた「董卓に対する義兵が鼎のごとく沸き立っている。ましてや董卓の手下に過ぎないのだ。もし兵を挙げて君側の悪人を討伐すれば、山東も必ず呼応するだろう。これこそ禍を転じて福となすの計略だ」と説得したが、宋翼は従わなかった。王宏は独立することもできず、宋翼とともにお召しに応じた《後漢書王允伝》。

王宏は廷尉に下され、李傕は王允を王宏・宋翼とともに収監した。もともと王宏は司隷校尉胡种と仲が悪く、王宏が獄に下されたとき、胡种は(担当役人に)彼を殺すよう脅迫した。王宏は死刑の命が下されると罵って言った。「宋翼は豎儒に過ぎず大計を議するには不足だった。胡种は他人の禍を望みとしているが、やがて禍は我が身にふりかかるであろう」。王宏は王允・宋翼とともに殺害された。そののち胡种は眠るたび、いつも王宏が現れて杖で彼を叩いた。そのため病気となって数日で死んでしまった《後漢書王允伝》。

【参照】王允 / 王淩 / 郭汜 / 胡种 / 宋翼 / 董卓 / 李傕 / 河東郡 / 祁県 / 冀州 / 弘農郡 / 山東 / 司隷 / 新興郡 / 太原郡 / 長安県 / 馮翊郡(左馮翊郡) / 扶風郡(右扶風郡) / 緜竹県 / 県侯 / 刺史 / 司徒 / 司隷校尉 / 太守 / 廷尉 / 族(一族皆殺し)

王思Wang Si

オウシ
(ワウシ)

(?〜?)
魏大司農

済陰の人《梁習伝》。薛悌・郤嘉と同じく低い身分から出世した人物である。

梁習とともに(丞相府の?)西曹令史となったが、政治に関する意見書を提出し、曹操の怒りに触れた。曹操は役人に命じて彼を逮捕させたが、たまたま王思は外出しており、代わりに梁習が逮捕された。王思は馬を走らせて自首し、「私の罪は死刑に相当します」と言った。曹操は梁習が王思をかばったことと、王思が責任逃れをしなかったことに感心し、「わが軍中に二人の義士がいたとは思いもよらなかった」と述べた。のちに二人同時に刺史に抜擢され、王思は予州を治めた《梁習伝》。

文帝曹丕は詔勅を下し、「薛悌はまだらな官吏、王思・郤嘉は純粋な官吏である。それぞれ関内侯の爵位を授ける」と述べた《梁習伝》。王思は細かいことにうるさい性質だったものの、法律に明るく、優れた人物に礼を尽くし、状況の変化を機敏に悟ったため、高い評判を得られた《梁習伝》。

明帝曹叡の時代、中書監劉放と中書令孫資が政治を壟断していた。冗従僕射畢軌が「尚書僕射王思は古くからの官僚でありますが、忠誠心と計略の点では辛毗に及びません。辛毗を王思に替えるべきと存じます」と上奏したので、曹叡は劉放と孫資に尋ねた。劉放・孫資は「陛下が王思を起用なさったのは、彼の努力を認め、そらぞらしい名声を尊ばれなかったからです。辛毗は実直ではありますが、強情で自分勝手です」と言上した《辛毗伝》。こうして王思は解任されずに済んだ。

正始年間(二四〇〜二四九)に大司農に昇った。しかし老いのため目がよく見えず、始終怒り狂っていた。部下たちはただ騒ぎ回るばかりで理由がわからなかった。ほとんど他人を信用しない性質で、父が危篤だという役人がいたが、王思はそれを疑い、「妻恋しさに母親を病気にする者がいるが、お前もそういうことなのか」と腹を立て、彼に休暇を与えなかった。その役人の父は翌日死んでしまったが、王思はまるで気にも留めなかった《梁習伝》。

そのうえ性急でもあった。あるとき文書を作成しているとき、筆先に蠅が集まったきたので、それを追い払ったが、また集まってくる。こうしたことを二・三回も繰り返しているうち、王思は腹を立て、立ち上がって蠅を追い払おうとしたが、それでも思い通りにならず、とうとう筆を手にとって地面に投げつけ、足で踏み潰してしまった《梁習伝》。

【参照】郤嘉 / 辛毗 / 薛悌 / 曹叡 / 曹操 / 曹丕 / 孫資 / 畢軌 / 劉放 / 梁習 / 済陰郡 / 予州 / 関内侯 / 侯 / 刺史 / 冗従僕射 / 丞相 / 尚書僕射 / 西曹令史 / 大司農 / 中書監 / 中書令 / 府

王儁Wang Jun

オウシュン
(ワウシユン)

(?〜?)
漢徴士

字は子文。汝南の人《武帝紀》。

若くして范滂・許章らに認められ、南陽の岑晊と仲が良かった。曹操はまだ布衣だったとき格別に王儁を愛し、王儁もまた曹操には治世の才を備えていると称揚していた《武帝紀》。

袁紹・袁術が母を亡くし、汝南に帰郷して葬儀を行ったとき、王儁は曹操とともに参列した。曹操は密かに「天下はいまや乱れんとしているが、擾乱の先駆けとなるのはきっとこの二人だろう。この二人を誅殺せねば擾乱は今に起こるぞ」、と王儁に語った。王儁は答えた。「卿(あなた)の言葉通りだとすれば、天下を鎮めるのは卿でなくて誰だろうね」。顔を合わせて笑いあった《武帝紀》。

王儁の人となりは外面は静かでも内面は明るく、州郡や三公の府からの命令も応じず、公車でお徴しにも赴かず、場所を変えて武陵に住まいした。王儁に帰属(して移住)する者が百家余りもあった。献帝は許に遷都すると、再び徴し出して尚書に任じようとしたが、やはり出仕しなかった《武帝紀》。

荊州牧劉表が袁紹の強力なのをみて彼と通じようとしたが、王儁は劉表を諫め、「曹公は天下の雄でございます。必ずや霸道を興し、桓文(斉桓公・晋文公)の功績を継ぐでしょう。いま近き者を棄てて遠き者に味方なさいますと、一朝急あれば、はるか北方からの救援を望んでも困難ではございますまいか」と言った。劉表は従わなかった《武帝紀》。

王儁は武陵で六十四歳の寿命を全うした。曹操はそれを聞いて哀しみにくれ、荊州を平定したとき長江まで遺体を出迎え、江陵に改葬した。上表して述べた。「先賢であった」、と《武帝紀》。

【参照】袁紹 / 袁術 / 許章 / 岑晊 / 晋文公 / 斉桓公 / 曹操 / 范滂 / 劉協(献帝) / 劉表 / 許県 / 荊州 / 江陵県 / 汝南郡 / 長江 / 南陽郡 / 武陵郡 / 三公 / 尚書 / 徴士 / 牧 / 公車 / 府 / 布衣

王商Wang Shang

オウショウ
(ワウシヤウ)

(?〜211)
漢益州治中従事・守蜀郡太守

字は文表。広漢郡郪の人《華陽国志》。将作大匠王堂の後裔、王遵の子、王彭の父、王士・王甫の従兄《華陽国志》。

才能学識によって州里で名声があり、益州牧劉焉(劉璋は誤り)に招かれて治中従事になった《許靖伝》。王商は安漢の趙韙・陳実、墊江の龔楊・趙敏・黎景、閬中の王澹、江州の孟彪を推薦したが、いずれも太守や州の高官となった《華陽国志》。ただ秦宓にも手紙を送って出仕を勧めたが、秦宓は隠者として暮らしたいと断っている《秦宓伝》。

初平四年(一九三)、征西将軍馬騰が郿に駐屯し、劉焉とその子劉範とともに長安を襲撃しようと企てたとき、王商は何度も諫言した。しかし劉焉は聞き入れず、計画が漏れ、劉範は弟劉誕とともに誅殺されてしまった《華陽国志》。子供たちを失った劉焉は、気落ちして病気にかかり卒去した《劉焉伝》。

王商は劉焉の子劉璋が穏やかな性格だったので、益州帳下司馬趙韙とともに劉璋を擁立した《華陽国志》。当時は牧や刺史が戦国の七雄のごとく振る舞っていたが、劉璋は惰弱で大臣を信任することができなかった。王商が手紙で彼を諫めると、劉璋はすこぶる悟るところがあった《許靖伝》。

むかし韓遂・馬騰が関中で混乱を起こしたとき、劉璋の父劉焉は彼らと款を通じていたが、馬騰の子馬超もまた劉璋と手を結ぼうとした。王商は諫めて言った。「馬超は勇猛でありながら仁慈の心がなく、唇歯の間柄になってはいけません。『老子』は国の利器を人に見せるなと言っておりますが、益州の土地は肥え、民衆は豊かで、宝物を産出する場所です。それこそ狡猾な奴らが転覆させようとし、馬超らが西方を窺う理由なのです。もし彼を引き入れて近付けるなら、虎を養って自分から災いを招くようなものですぞ」。劉璋は彼の言葉に従って馬超を拒絶した《許靖伝》。

荊州牧劉表や南陽の儒学者宋忠は彼の名声を聞き、彼に手紙を出して慇懃に挨拶した。許靖は人物評価で有名だったが、「王商が華夏(中原)に生まれていれば、王景興(王朗)でさえも彼を上回ることはできないだろう」と評した。劉璋は王商に蜀郡太守を兼任させた。そのころ宋忠は王商に手紙をやって「文休(許靖)は独立不羈、当世に役立つ能力を持っております。足下(あなた)は彼を指南役にすべきです」と勧めている《許靖伝》。

王商は蜀郡太守として、学問を修め農業を広めたので、百姓たちは暮らしやすくなった。また成都の禽堅が親孝行を尽くしていたので、上表して墓を作って孝廉を追贈してやり《許靖伝》、李苾に命じて碑文を書かせた《華陽国志》。厳君平・李弘のために祠と石碑を作って先賢として顕彰したとき《許靖伝》、それを聞いた秦宓は彼の施策を歓迎するとともに、揚雄や司馬相如のために祠を建てることを請願している《秦宓伝》。

建安十六年(二一一)、治中従事として十七年《華陽国志》、蜀郡太守として十年で卒去し、広漢太守許靖が後任となった《許靖伝》。

【参照】王士 / 王遵 / 王澹 / 王堂 / 王甫 / 王彭 / 王朗 / 韓遂 / 許靖 / 龔楊 / 禽堅 / 厳君平 / 司馬相如 / 秦宓 / 宋忠 / 趙韙 / 趙敏 / 陳実 / 馬超 / 馬騰 / 孟彪 / 揚雄 / 李弘 / 李苾 / 劉焉 / 劉璋 / 劉誕 / 劉範 / 劉表 / 黎景 / 安漢県 / 益州 / 華夏 / 関中 / 荊州 / 広漢郡 / 江州県 / 郪県 / 蜀郡 / 成都県 / 長安県 / 墊江県 / 南陽郡 / 郿県 / 閬中県 / 孝廉 / 刺史 / 将作大匠 / 征西将軍 / 太守 / 治中従事 / 帳下司馬 / 牧 / 老子 / 七雄

王象Wang Xiang

オウショウ
(ワウシヤウ)

(?〜222?)
魏散騎常侍・領秘書監・列侯

字は羲伯。河内郡の人《楊俊伝》。

幼くして父を失い、奴隷として幷州に売り飛ばされた。十七・八歳まで羊飼いとしてこき使われていたが、人の目を盗んでは書物を読み、見つかっては笞で打たれていた《楊俊伝》。同郡の楊俊は彼を見るなり才能と性質を褒め、すぐさま身請けしてやり、住む家と嫁とを用立ててやってから立ち去った《楊俊伝》。

のちに幷州刺史梁習が王象・楊俊・荀緯らを推挙したので、曹操は彼らを県長に取り立てた《常林伝》。荀緯らとともに曹丕の礼遇を受け、王粲・陳琳・阮瑀・路粋らの没後では、後進のうち王象の才覚が抜群であった《楊俊伝》。

魏が天下を領有すると散騎侍郎に任じられ、散騎常侍に昇進して列侯に封ぜられる。詔勅によって『皇覧』を編纂することになり、秘書監を兼務した。延康元年(二二〇)に着手して数年で完成したが、都合四十部余り数十篇となり、秘書府に所蔵された《楊俊伝》。王象は温厚な性質であったうえ、さらに優雅な文彩も兼ね備えており、京師の人々は「儒宗」と称賛した《楊俊伝》。その文才は尚書衛覬と並び称される《衛覬伝》。

黄初三年(二二二)、文帝曹丕は南陽の宛に巡幸し、あらかじめ「百官は郡県に干渉せぬよう」と詔勅を出しておいた。宛の県令は詔勅を誤解し、市場の門を閉ざし(市民の往来を禁じ)た。御車が宛に到達すると、ひっそりと静まりかえっている。文帝は「吾(わたし)は盗賊なのかね!」と激怒し、南陽太守楊俊を県令とともに逮捕した《楊俊伝》。

楊俊が罪を免れないと思い、王象は司馬懿・荀緯とともに罪一等の減免を請願し、土下座して床に頭を叩き付け、顔中を血に染めた。帝は答えず、放っておいて禁中に入ろうとしたので、王象は帝の御服を引っ張った。帝は振り返って言った。「我(わたし)は楊俊と卿(あなた)との一部始終を知っておる。いま卿の言う通りにすれば、我が存在しないことになろう。卿は楊俊を無視するのか、我を無視するのか!」、と。帝の言葉の激しさに、王象は手を引いてしまった《楊俊伝》。

裁決が下り、楊俊は処刑された。王象は楊俊を救うことができなかったことから自分を責め、とうとう病気になって死んでしまった《楊俊伝》。

【参照】衛覬 / 王粲 / 阮瑀 / 司馬懿 / 荀緯 / 曹操 / 曹丕 / 陳琳 / 楊俊 / 梁習 / 路粋 / 宛県 / 河内郡 / 魏 / 南陽郡 / 幷州 / 県長 / 散騎常侍 / 散騎侍郎 / 刺史 / 尚書 / 太守 / 秘書監 / 列侯 / 皇覧 / 儒宗 / 領(兼務)

王忠Wang Zhong

オウチュウ
(ワウチユウ)

(?〜?)
漢軽車将軍・都亭侯

扶風の人《武帝紀》。

若いころは亭長をしていたが、三輔地方が混乱したとき、飢えに苦しんで人肉を喰らったことがある。仲間とともに南下して武関まで行ったところ、婁圭が人をやって彼らを出迎えた。王忠は婁圭の手の者を攻撃して武器を奪い、仲間千人を連れて曹操に帰服し、中郎将に任命された《武帝紀》。

建安四年(一九九)冬、劉備が徐州刺史車胄を殺害したとき、劉岱とともに追討したが勝つことができず、「汝らが百人来ても俺をどうにもできんぞ。曹公(曹操)自ら来ればわからないがな」と嘲弄される《武帝紀》。

五官中郎将曹丕は父曹操の遠征に従軍したとき、芸人に墓場から髑髏を持ってこさせ、王忠の馬の鞍に結び付けて、彼が人肉を喰らったことを笑い物にした。

揚武将軍に就任して都亭侯に封ぜられる。建安十八年(二一三)五月、曹操は魏公に封ぜられることを拒絶したが、王忠は群臣とともに受諾することを勧めた《武帝紀》。

魏文帝(曹丕)のとき軽車将軍となった。黄初五年(二二四)、都の呉質の宿所に大将軍曹真以下の諸将が集まり、酒宴が催された。曹真が肥え太っていることを酒の肴にしようと、呉質は芸人に命じて肥満と痩身のことをしゃべらせた。王忠は腹を立てる曹真をなだめるため、驃騎将軍曹洪とともに「まず自分が痩せていることを認めるべきだな」と言ったが、結局双方を抑えることはできなかった《王粲伝》。

【参照】呉質 / 車胄 / 曹洪 / 曹真 / 曹操 / 曹丕 / 劉岱 / 劉備 / 婁圭 / 扶風郡 / 魏郡 / 三輔 / 徐州 / 武関 / 軽車将軍 / 五官中郎将 / 公 / 大将軍 / 中郎将 / 亭長 / 都亭侯 / 驃騎将軍 / 揚武将軍 / 食人 / 優(芸人)

王必Wang Bi

オウヒツ
(ワウヒツ)

(?〜218)
漢丞相長史

王必は兗州従事として曹操に仕えていた。李傕・郭汜が天子を推戴して長安を混乱させていたとき、曹操は王必を使者として国家のために奉公したいと長安に伝えた。李傕らは「関東では勝手に天子を立てようとしている。曹操は使者を送ってきたが本心ではなかろう」と考え、王必の身柄を拘束したが、黄門侍郎鍾繇が曹操の忠誠心を保証したので、李傕らは曹操に対してねんごろに応答することになった《鍾繇伝》。

建安三年(一九八)、曹操は下邳城で呂布を捕らえたとき、彼を生かしておきたいと思ったが、主簿を務めていた王必は走り出て「呂布は強力な賊です。彼の軍勢はすぐ近くにいるのですから縄目をゆるめてはいけません」と諫めた。曹操は「本当は縄目を解いてやりたいのだが、主簿が許してくれないのでな。仕方あるまい」と言い、呂布を処刑した《呂布伝》。

曹操は布令を下して言った。「領長史王必は、吾(わたし)が茨を切り開いていた時代からの役人で、まじめによく仕事をし、心は鉄石のごとくで、国家の善良な役人である。足踏みしたまま彼を召し出さずにいたが、駿馬を見捨てて乗らず、どうしてあたふたと別のを探すことがあるだろうか。それゆえ彼を召し出して然るべき地位に就けたが、領長史として事務を統括することは以前通りとする」。

建安二十三年(二一八)正月、太医令吉本・少府耿紀・司直韋晃・吉邈・吉穆らが謀叛を起こし、許を襲撃した。このとき曹操は鄴におり、王必が許を守っていた。また南方では関羽の勢力が強く、吉本らは王必を殺害したのち、天子を擁して関羽らの支援を仰ごうと考えていた。王必と親しかった金禕という者も計画に参加し、夜中、吉邈らとともに王必の軍門に放火し、王必を弓で射た《武帝紀》。

王必は金禕が叛乱に参加していることを知らず、陣営から走り出て彼の邸宅に向かった。その門前で「徳禕」と彼の字を叫ぶと、金禕の家人はそれが吉邈たちだと思って「王長史を殺したのか。卿らの計画は成功だ」と言った。そこで金禕が叛乱の一味であることを知り、許の南の城に逃走した。王必は典農中郎将厳匡とともに彼らを討伐した。こうして吉邈らの軍勢は鎮圧されたが、十四日後、王必も矢傷のため死んでしまった。曹操は王必の死を悲しみ、漢朝の諸官僚を集めて消火に参加した者と参加しなかった者に分け、「消火に参加したのは謀叛人に違いない」と言って全て殺してしまった《武帝紀》。

【参照】韋晃 / 郭汜 / 関羽 / 吉邈 / 吉穆 / 吉本 / 金禕 / 厳匡 / 耿紀 / 鍾繇 / 曹操 / 李傕 / 劉協(天子) / 呂布 / 兗州 / 下邳県 / 関東 / 許県 / 鄴県 / 長安県 / 黄門侍郎 / 司直 / 主簿従事 / 従事 / 少府 / 太医令 / 長史 / 典農中郎将 / 領

王甫Wang Fu

オウホ
(ワウホ)

(?〜222)
蜀荊州議曹従事

字は国山。広漢郡郪の人《楊戯伝》。王商・王士の従弟《華陽国志》。

人物評価や議論を愛好した。劉璋の時代には州の書佐であった。先主(劉備)が蜀を平定したのち緜竹の県令となり、荊州議曹従事に昇進した。先主の呉征討に従軍したが、秭帰の敗戦によって殺害された《楊戯伝》。

『華陽国志』の「先賢志」では緜竹県令から州の高官に昇ったとあり、「士女目録」では「別駕従事王甫」とある。緜竹県令から益州別駕従事を経て、呉征討に際して荊州議曹従事に移ったのかもしれない。

従兄王士や李朝・李邵とともに「李王四子」と称され、いずれも琳瑯(美玉)のようだと評された《華陽国志》。

【参照】王士 / 王商 / 李邵 / 李朝 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 荊州 / 呉 / 広漢郡 / 郪県 / 秭帰県 / 蜀 / 緜竹県 / 議曹従事 / 県令 / 書佐

王方Wang Fang

オウホウ
(ワウハウ)

(?〜?)

董卓の部曲《董卓伝》。

初平三年(一九二)四月に董卓が王允に殺されると、まもなく李傕らが十万人余りの軍勢を糾合しつつ長安へ西上した。王方は樊稠・李蒙らとともに合流し、一斉に長安城を包囲、十日間でこれを陥落させた《董卓伝》。

【参照】王允 / 董卓 / 樊稠 / 李傕 / 李蒙 / 長安県 / 部曲

王摩Wang Mo

オウマ
(ワウマ)

(?〜?)

袁紹の将。

建安四年(一九九)八月、曹操は軍勢を黎陽に進め、于禁を黄河のほとりに駐留させた《武帝紀》。于禁は歩兵二千人を率いて袁紹軍を撃退したあと、楽進らとともに歩騎五千人を率いて延津から西南へ黄河沿いに進んだ。汲・獲嘉まで行って三十余りの保塁を焼き払い、斬首・捕虜はおのおの数千人であった。袁紹の将何茂・王摩ら二十人余りは降服した《于禁伝》。

【参照】于禁 / 袁紹 / 何茂 / 楽進 / 曹操 / 延津 / 獲嘉侯国 / 汲県 / 黄河 / 黎陽県

王門Wang Men

オウモン
(ワウモン)

(?〜?)

公孫瓚の将。

もともと公孫瓚に味方していたが、袁紹方に寝返り、軍勢一万人余りを率いて東州に攻め寄せた。しかし県令の田予に「卿が公孫氏に厚遇されながら立ち去ったのは、やむを得ない事情があるからだと思っていた。いま戻ってきて悪事をなしたので、卿が謀叛人に過ぎないことが分かった。水汲み人ほどの智力があれば器を大切にして貸したりしないものだが、吾はそれを引き受けている。どうしてさっさと攻撃してこないのだ?」と言われ、すっかり恥じ入ってそのまま撤退した《田予伝》。

東州を河間国「束州」の誤りとみる説、漁陽郡「泉州」の誤りとみる説があり、盧弼は泉州説を採用する《集解》。

【参照】袁紹 / 公孫瓚 / 田予 / 泉州県(東州県) / 県令

王邑Wang Yi

オウユウ
(ワウイフ)

(?〜?)
漢使持節・行太常事・大司農・安邑亭侯

字は文都。北地郡泥陽の人《隷釈劉寛碑陰》。

王邑は離石の県長を務めていたが、かつて劉寛に師事していたので、彼のために碑が立てられると門生として名を連ねている《隷釈劉寛碑陰》。

興平二年(一九五)十二月乙亥、長安を脱出した天子劉協が安邑に行幸した。王邑はこのとき河東太守であったので、綿や絹を献上して公卿以下に振る舞い、列侯に封ぜられた《後漢書献帝紀・同董卓伝》。また後年の鍾繇の上表に鎮北将軍であったともいうが《鍾繇伝》、このころの任官であろうか。

建安七年(二〇二)春、郭援が河東太守と称して郡に攻め込み、絳邑の県長賈逵を捕虜にした。賈逵は「王府君が着任して何年にもなる。足下はどこの馬の骨なのだ?」と言い、飽くまでも屈服しなかった。のちに賈逵は釈放されると、賊軍より先に皮氏を押さえるようにと王邑に訴えた。河東郡が無事だったのはその進言のおかげなのである《賈逵伝》。郭援は司隷校尉鍾繇に打ち破られた《鍾繇伝》。

同十年、詔勅によって徴し返されたが、天下がまだ安定していなかったため、王邑は内心、お徴しを希望せず、そのうえ官吏民衆も王邑を恋い慕い、郡掾衛固・中郎将范先らが鍾繇の元に参詣して王邑の留任を求めた。しかし詔勅により後任の太守杜畿がすでに入部していたので、鍾繇は許可しなかった。鍾繇は割り符を返還せよと王邑に督促したが、王邑は印綬を帯びたまま河北から直接、許へと帰国した《鍾繇・杜畿伝》。

鍾繇は命令が守られないことを恥じ、「臣は以前、故の鎮北将軍・領河東太守・安邑亭侯の王邑が巧みな言葉でもって職務に当たっており、弾劾のうえ査察を入れるべきだと上奏いたしました。告発した通りの事実はあったが、すでに帰参しておるゆえ寛大に処置せよとの詔勅を被り、臣はまた、官吏民衆がみな野望を抱き、王邑を任地に戻せと言って太守杜畿を拒絶したことを言上いたしました。現在、みな反省して杜畿を迎えたとはいえ、王邑を詔勅に違背させ、郡掾衛固に官吏民衆を脅迫させたのは、みな鍾繇が厳罰を執行しなかったためであります」と述べて辞職を願い出たが、認められなかった《鍾繇伝》。

十八年秋七月、天子が魏公曹操の女三人を貴人に迎え入れることになり、大司農王邑は使持節・行太常事として鄴へ下向し、璧および絹五万匹を携えて結納の儀式を行った。翌年正月、ふたたび持節・宗正劉艾らとともに鄴へ赴き、下の女一人は国許で成長を待つこととして、二月乙亥、上の二人を洛陽の宮殿に送り届けた《武帝紀》。

【参照】衛固 / 賈逵 / 郭援 / 鍾繇 / 曹華(曹操の末女) / 曹憲(曹操の長女) / 曹節(曹操の次女) / 曹操 / 杜畿 / 范先 / 劉艾 / 劉寛 / 劉協(天子) / 安邑県 / 河東郡 / 河北 / 魏 / 許県 / 鄴県 / 絳邑県 / 長安県 / 泥陽県 / 皮氏県 / 北地郡 / 雒陽県洛陽県) / 離石県 / 貴人 / 郡掾 / 県長 / 公 / 公卿 / 使持節 / 持節 / 司隷校尉 / 宗正 / 大司農 / 太守 / 太常 / 中郎将 / 鎮北将軍 / 亭侯 / 列侯 / 行 / 符(割り符) / 門生

王林Wang Lin

オウリン
(ワウリン)

(?〜?)

蜀将。

延煕七年(二四四)閏二月、魏の大将軍曹爽・征西将軍夏侯玄らが漢中に攻め寄せ、夏侯玄の副将である征蜀将軍司馬昭が駱谷から興勢へと侵出してきたので、蜀将王林は司馬昭の陣営に夜襲をかけた。しかし司馬昭は堅く閉じこもって揺るぎもせず、王林は引き揚げた《夏侯尚・後主伝・晋書文帝紀》。

【参照】夏侯玄 / 司馬昭 / 曹爽 / 漢中郡 / 魏 / 興勢 / 駱谷 / 征蜀将軍 / 征西将軍 / 大将軍

王累Wang Lei

オウルイ
(ワウルヰ)

(?〜211)
漢益州従事

劉璋の従事。広漢郡新都の人《華陽国志》。『華陽国志』は「忠烈、従事王累」と称えている。

建安十六年(二一一)、曹操が張魯討伐のため漢中に軍勢を差し向けたと聞き、それを恐れた益州牧劉璋は、別駕従事張松の献策を容れて荊州から劉備を招き入れようとした。王累は我が身を州城の城門に逆さ吊りにして諫めたが、劉璋は聞き入れなかった《劉璋伝》。王累はその計画の不可を主張するため、城門において自刎して果てた《華陽国志》。

【参照】曹操 / 張松 / 張魯 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 漢中郡 / 荊州 / 広漢郡 / 新都県 / 従事 / 別駕従事 / 牧 / 華陽国志

応余Ying Yu

オウヨ

(?〜218)
漢南陽功曹従事

字は子正。南陽郡の人《高貴郷公紀》。

生まれつき毅然とした容姿の持ち主で、志は仁義を尊んでいた。建安二十三年(二一八)、郡の功曹に任命されたが、同年冬十月、宛城を守っていた侯音が叛逆し、山中の人々を煽動しつつ自分は宛城に楯籠った《武帝紀・高貴郷公紀》。

応余と太守東里袞は混乱を目の当たりにすると、身を隠しつつ城外に脱出したが、侯音がすぐに追捕の騎兵を差し向けてきた。城外十里のところで追いつかれ、賊軍は東里袞に向かって矢を浴びせかけてくる。応余は東里袞の前に立って彼をかばい、我が身に七ヶ所の傷を被った《高貴郷公紀》。

応余は言った。「侯音がとち狂って叛逆しておるが、大軍は今にもやって来て謀叛人を誅殺してしまうだろう。卿曹(あなたがた)は本来善人であって悪意はないのだから、善の道に帰るべきだ。どうして彼の指揮など受けているんだ?我はご主君の身代わりになって重傷を負ったが、もしご主君が無事ならば、我が身は亡ぶとも恨みなど抱かぬ」。天を仰いで号泣し、涙とともに血が流れ落ちた。賊徒は彼の義烈ぶりを見て東里袞を見逃してやったが、応余は命を落としてしまった《高貴郷公紀》。

征南将軍曹仁は侯音を討ち平らげたのち、応余のことを上表するとともに祭祀を行った。曹操は彼のことを聞いて長いあいだ歎息し、荊州に命令を下して故郷で表彰させ、食糧一千斛を賜った。のち甘露三年(二五八)六月丙子、魏帝曹髦もまた彼の忠烈を称え、彼の孫応倫を役人に取り立てるよう司徒に命じている《高貴郷公紀》。

【参照】応倫 / 侯音 / 曹仁 / 曹操 / 曹髦 / 東里袞 / 宛県 / 魏 / 荊州 / 南陽郡 / 功曹従事 / 司徒 / 征南将軍 / 太守