三国志地名事典 益州

益州Yi zhou

エキシュウ
(エキシウ)

領郡12 / 領城118
戸数1,525,257
人口7,242,328

【都督】曹仁

【刺史・牧】郤倹 / 劉焉 / 种劭 / 劉璋 / 劉闡 / 黄権 / 師纂 / 皇甫晏

【州吏】譙栄始 / 王商 / 賈龍 / 趙韙 / 張粛 / 張松 / 張任 / 鄭度 / 杜瓊 / 趙筰 / 王甫? / 張裔 / 楊洪 / 費詩 / 常頎 / 李譔 / 譙周 / 司馬勝之 / 何旅 / 何攀

【領郡】漢中郡 / (西城郡) / (上庸郡) / (房陵郡) / (新城郡) / 巴郡 / (巴東郡) / (巴西郡) / (涪陵郡) / (宕渠郡) / 広漢郡 / (梓潼郡) / 蜀郡 / (汶山郡) / 犍為郡 / (江陽郡) / 牂牁郡 / 越巂郡 / 益州郡 / 永昌郡 / (雲南郡) / 広漢属国 / (陰平郡) / 蜀郡属国 / (漢嘉郡) / 犍為属国 / (朱提郡) / (武都郡

漢中Han zhong

カンチュウ

領城9
戸数57,344
人口267,702

【太守】蘇固 / 張魯 / 宗承 / 周泰

【郡吏】趙嵩 / 陳調 / 閻圃

【郡人】

【領城】南鄭 / 成固 / 西城 / 褒中 / 沔陽 / 安陽 / / 上庸 / 房陵 / (蒲池) / (西郷

南鄭Nan zheng

ナンテイ

漢中郡治である。豪族に李・鄭・趙氏らがいた。

【県令】

【県人】趙嵩

成固Cheng gu

セイコ

城固とも書く。嬀の廃墟が県の西北にあり、また舜を祀る祠がある。蜀漢の時代には楽城と改称された。

【県令】

【県人】陳綱 / 陳調

楽城Le cheng

ラクジョウ
(ラクジヤウ)

成固

西城Xi cheng

セイジョウ
(セイジヤウ)

【県公】何攀

【県令】

【県人】

褒中Bao zhong

ホウチュウ
(ハウチユウ)

【県令】

【県人】

沔陽Mian yang

ベンヨウ
(ベンヤウ)

沔の音は莫践の反切《漢書注》。

蜀漢の時代には漢城と呼ばれた。県内に清検と濁検を源とする度水が流れ、毎年二月・八月になると清水からタナゴ、濁水から鮒が捕れる。諸葛亮が葬られた定軍山はこの県にある。鉄を産する。のちに梁州が設置されると州治となった。

【県令】

【県人】

定軍山Ding jun Shan

テイグンサン

遺言により諸葛亮が葬られた山である。

漢城Han cheng

カンジョウ
(カンジヤウ)

沔陽

安陽An yang

アンヨウ
(アンヤウ)

太康年間に安康と改められた。

【県令】郤正

【県人】

Xi

セキ

『漢書』に「鍚」、師古・応劭の音注に「陽」とあるが、錫を産出するため「錫穴」と呼ばれたというのだから、やはり錫が正しいのだろう。

もとは錫穴といい、錫を産出した。

【県令】

【県人】

Yang

ヤウ

上庸Shang yong

ジョウヨウ
(ジヤウヨウ)

【県令】

【県人】

房陵Fang ling

ボウリョウ
(バウリヨウ)

のちにこの県を郡治として房陵郡が立てられている。維山を水源とする維水が東に流れて汴水に注いでいる。

【県令】

【県人】

蒲池Pu chi

ホチ

【県令】

【県人】

西郷Xi xiang

セイキョウ
(セイキヤウ)

【県令】

【県人】

西城Xi cheng

セイジョウ
(セイジヤウ)

領城6
戸数約10,000
人口不明

魏朝は魏興郡と呼んでいた。

【太守】申儀

【領城】西城 / / 安陽 / 平陽 / 鄖郷 / 洵陽

平陽Pin yang

ヘイヨウ
(ヘイヤウ)

魏が設置した県で、のち晋代に興晋県と改称される。

【県侯】徐晃?

【県令】

【県人】

鄖郷Yun xiang

ウンキョウ

鄖の音「云」《漢書注》。

旧名を長利県といった。

【県令】

【県人】

洵陽Xun yang

ジュンヨウ
(ジユンヤウ)

【県令】

【県人】

魏興Wei xing

ギコウ

西城

上庸Shang yong

ジョウヨウ
(ジヤウヨウ)

領城5
戸数約7,000
人口不明

【太守】申耽

【領城】上庸 / 北巫 / 武陵 / 安富 / 微陽

北巫Bei wu

ホクフ

県内に安楽郷があり、蜀の後主劉禅が魏に降り、この地に封ぜられたとする説がある。

【県令】

【県人】

武陵Wu ling

ブリョウ

【県令】

【県人】

安富An fu

アンフウ

【県令】

【県人】

微陽Wei yang

ビヨウ
(ビヤウ)

【県令】

【県人】

房陵Fang ling

ボウリョウ
(バウリヨウ)

領城4
戸数約20,000
人口不明

魏の文帝曹丕は魏興(西城)・上庸の二郡を房陵に合併して新城郡としたが、太守孟達が叛逆したため解体して房陵郡に戻した。

【太守】蒯祺 / 孟達 / 向朗 / 州泰

【領城】房陵 / 沶郷 / 昌魏 / 綏陽

沶郷Qi xiang

キキョウ
(キキヤウ)

【県令】

【県人】

昌魏Chang wei

ショウギ
(シヤウギ)

【県令】

【県人】

綏陽Sui yang

スイヨウ
(スヰヤウ)

【県令】

【県人】

新城Xin cheng

シンジョウ
(シンジヤウ)

房陵

巴郡Ba

領城14→7
戸数310,691→約20,000
人口1,086,049→不明

興平二年(一九五)、征東中郎将趙韙の提案によって三分割され、益州牧劉璋は龐羲を巴郡太守として安漢で政務を執らせ、江州から臨江までを永寧郡、胊忍から魚復までを固陵郡とした。建安六年(二〇一)に魚復の蹇胤が郡名に「巴」の字を付けるよう要求したので、巴郡を巴西郡と改め、永寧郡を巴郡、固陵郡を巴東郡とした。こうして「三巴」と呼ばれるようになったのである。また涪陵の謝本の提案により涪陵郡が設置された。はじめ江州で郡の統治を行っていたが、のちに墊江・平都・閬中と郡治を遷した。前漢の時代には江州巴水の北に郡治があって、柑橘官が設置されていたが、のちに南の城に遷り、もとの役所を北府城と呼ぶようになった。

【太守】蔡琰 / 趙筰厳顔) / 張裔 / 袁約 / 費観 / 怡思和 / 柳隠

【領城】江州 / 宕渠 / 胊忍 / 閬中 / 魚復 / 臨江 / / 涪陵 / 墊江 / 安漢 / 平都 / 充国(西充国) / 宣漢 / 漢昌 / (楽城) / (常安

江州Jiang zhou

コウシュウ
(カウシウ)

巴郡郡治である。県内の塗山に禹王と塗后の祠がある。また清水が湧き出ており、巴郡の人はその水で白粉を作るので、川の名を粉水という。白粉は都に献上され、「江州堕林粉」と呼ばれている。楊貴妃が好んだという果実茘枝の畑があり、その実が熟すたび、太守以下の官吏が木の下に集まって一緒に食す。県の北に稲田があって献上米となっている。豪族には波・鈆・母・謝・然・〓(蓋)・楊・白上官・程・常氏らがあった。中都護李厳は巴東郡永安から江州に移ったとき、江州城を周囲十六里に及ぶ巨大な城に改築する。城の裏山を開削して汶江の水を長江に引き入れようと計画したが、諸葛亮が李厳を漢中に呼び寄せたので中止となった。

【県令】

【県人】孟彪

宕渠Dang qu

トウキョ
(タウキヨ)

鉄を産する。この地の石蜜(砂糖)は山図(仙人)が採取したもの。

【県令】

【県侯】句扶

【県人】

胊忍Chun ren

シュンジン

のちに固陵郡の郡治が置かれた地である。胊忍の山では大小の石が天然の要塞となっている。巴郷名酒や霊寿木、霊亀を産し、蜜柑畑や湯渓の製塩池がある。湯渓の塩は粒の大きさが一寸四方にもなる。霊亀は咸煕元年(二六四)に相国府の司馬昭に献上された。豪族に扶・先・徐氏がある。

【県令】

【県人】

閬中Lang zhong

ロウチュウ
(ラウチユウ)

巴西郡の郡治である。大きな池や沢があり、名山・霊台は孔子の内讖にも見える。豪族には三家の狐氏、五家の馬氏、蒲・趙・任・黄・厳氏があった。

【県令】

【県人】周舒 / 周羣 / 王澹

魚復Yu fu

ギョフク

のちの巴東郡治である。古代の庸国があった。巴と楚の間で戦いになると長江北岸の赤甲城に江関が設置され、のちに南岸に移された。のちに公孫述が県名を白帝と改称し、章武二年(二二二)にまた永安と改められたが、咸煕年間(二六四〜二六七)の初めに魚復に戻された。官営の蜜柑畑・製塩所がある。沢には水神が住んでいて、日照りになったとき側で太鼓を鳴らすと雨を降らす。

【県長】張裔

【県人】

永安宮Yong an Gong

エイアンキュウ

臨江Lin jiang

リンコウ
(リンカウ)

官営の製塩地であるが、土地の豪族たちも自分で製塩施設を持っていた。厳・甘・文・楊・杜氏らが県の豪族である。

【県令】

【県人】甘寧 / 厳顔 / 文立

Zhi

涪陵水会(涪陵水の合流点)に県治が置かれた。土地は石が多くて痩せている。人物を多く輩出する。章・常・連・黎・牟・楊氏らは郡でも代表的な豪族であった。

【県令】

【県人】

涪陵Fu ling

フリョウ

霊帝劉宏の時代に涪陵県は分割されて永寧県が設置された。

【県令】

【県人】

墊江Tia jiang

チョウコウ
(テフカウ)

墊の音は徒浹の反切《漢書注》。

養蚕や牛馬の畜産が行われている。豪族に黎・夏・杜氏らがいた。

【県令】

【県人】龔楊 / 趙敏 / 黎景

安漢An han

アンカン

人物を多く輩出した。豪族には陳・范・閻・趙氏。劉璋は漢中の張魯に対抗するため、龐羲を巴郡(巴西)太守に任じて安漢に駐屯させた。

【県令】

【県人】趙韙 / 陳実 / 閻圃 / 閻璞 / 閻纉

平都Ping du

ヘイト

和帝劉肇の時代に枳県から分割され、一時は郡治となった県である。豪族に殷・呂・蔡氏があった。延煕十七年(二五四)に楽城・常安とともに廃止された。

【県令】

【県人】

西充国Xi chong Guo

セイジュウコク

永元二年に閬中県から分割された。初平四年に再び分割されて西充国県と改称される。製塩池があり、豪族には侯・譙氏があった。

【県令】

【県人】譙栄始 / 譙周

宣漢Xuan han

センカン

和帝劉肇が宕渠県の東部を分割して県としたものである。のちに廃止された。

【県令】

【県人】

漢昌Han chang

カンショウ
(カンシヤウ)

永元年間に宕渠県の北部を分割して設置された県である。豪族に句氏があった。県内に賨族が多く住み、彼らは勇猛であったので前漢高祖は関中を平定できたのである。のち巴西太守龐羲が賨族を募って私兵とすると、益州牧劉璋に疑われることとなる。

【県令】程畿

【県人】句扶

楽城Le cheng

ガクジョウ
(ガクジヤウ)

延煕十七年(二五四)に平都・常安とともに廃止された。

【県令】

【県人】

常安Chang an

ジョウアン
(ジヤウアン)

延煕十七年(二五四)に平都・楽城とともに廃止された。

【県令】

【県人】

永寧Yong ning

エイネイ

巴郡

巴東Ba dong

ハトウ

領城6
戸数不明
人口不明

興平二年(一九五)、益州牧劉璋によって巴郡は三分割され、胊忍から魚復までを固陵郡とした。建安六年(二〇一)に魚復の蹇胤が「巴」の付く郡名を要求したので巴東郡と改称された。劉備が益州に入ると再び巴郡に編入され、江関都尉が統治に当たったが、建安二十一年に巴郡四県と宜都郡二県を併合して固陵郡が立てられ、章武元年(二二一)に胊忍の徐慮・魚復の蹇機の要求により巴東郡と改められた。

【太守】朴胡 / 輔匡

【領城】胊忍 / 魚復 / (漢豊) / (羊渠) / () / (北井) / (南浦

漢豊Han feng

カンホウ

建安二十一年(二一六)、郡の西北の彭渓原に新設された県である。

【県令】

【県人】

羊渠Yang qu

ヨウキョ
(ヤウキョ)

漢の末期に設置されたが、孫呉が平定されると南浦県に併合された。

【県令】

【県人】

Wu

北井Bei jing

ホクセイ

もとは荊州宜都郡の属県だったが、建安二十一年(二一六)に再編されて巴東郡に属した。のちに建平郡に属す。

【県令】

【県人】

南浦Nan pu

ナンポ

蜀漢の時代に設置されたようである。楚の地方に隣接しているため、県民は身軽で力強い者が多く、学問をする者が少ない。将帥に相応しい人物を輩出する。

【県令】

【県人】

白帝Bai di

ハクテイ

魚復

永安Yong an

エイアン

魚復

固陵Gu ling

コリョウ

巴東

巴西Ba xi

ハセイ

領城7
戸数不明
人口不明

興平二年(一九五)、益州牧劉璋は巴郡を三分割して、安漢以下を従来通り巴郡として龐羲を太守に任命した。建安六年に巴西郡と改称される。土地は山がちだが平で、牛馬の畜産や蚕の飼育が行われる。前漢以来、多くの傑出した人物を輩出し、郡が「三巴」に分割されてからも周舒・譙栄始・譙周・程祁らが現れ、また馬勲・龔禄・龔皦・黄権・馬忠・王平・句扶・張嶷らが活躍した。そこで「巴に将あり。蜀に相あり」と謳われたのである。はじめ譙周が出て、続いて陳寿が出て、抜群の才能を世に輝かせた。このほか優れた人物も多かったが数えきれない。

【太守】龐羲 / 向朗 / 杜濩

【郡人】趙筰 / 閻乂

【領城】閬中 / 充国(西充国) / (南充国) / 安漢 / (平州) / 宕渠 / 漢昌

南充国Nan chong guo

ナンジュウコク

初平四年に充国県から分割されて西充国県となる。豪族に張氏があった。

【県令】

【県人】

平州Ping zhou

ヘイシュウ
(ヘイシウ)

太康元年に新設された県である。

【県令】

【県人】

涪陵Fu ling

フリョウ

領城6
戸数不明
人口不明

もともと秦と楚の国境地帯にあたり、秦の将軍司馬錯が黔中郡とし、漢の時代になると都尉を配置して守らせていた。山は険しく川も急である。山では大亀を捕ることができ、甲羅で占卜をすることができる。人柄は愚直で勇気があり、学問をする者は少ない。獽族・蜑族の民が多く住む。県では彼らにおもねり、訴訟になると必ず死人が出る。蚕を育てることはせず、茶・丹・漆・蜂蜜・蝋を産出する。漢のとき赤甲軍はいつも彼らを兵として徴用し、諸葛亮も彼らから三千人を選抜して連弩士とし、彼らの家族ごと漢中に移した。豪族に徐巨という者があったが、延煕十三年(二五〇)に叛乱を起こして車騎将軍鄧芝に鎮圧された。そのほか徐・藺・謝・范氏がいたが、五千家を蜀に移住させて猟射官とした。体の弱い者は督将の韓某・蔣某らに預けて助郡軍としたが、督将らは彼らを私有して土地の豪族になった。晋の時代になると、連弩士らは馮翊郡蓮勺に移されたが、彼らの性質は剛直であったので生活習慣を変えなかった。

【太守】龐宏

【領城】涪陵 / (丹興) / (漢平) / (永寧) / (漢髪) / (漢葭

丹興Dan xing

タンコウ

山から良質の丹を採ることができる。蜀漢のとき廃止された。

【県令】

【県人】

漢平Han ping

カンペイ

延煕十三年(二五〇)に設置された。

【県令】

【県人】

永寧Yong ning

エイネイ

霊帝劉宏の時代に涪陵県から分割設置され、劉璋の時代には郡に昇格される。のちに名を万寧県と改められた。

【県令】

【県人】

漢髪Han fa

カンハツ

塩田がある。県の北に獽族・蜑族・蟾族・夷族が住んでいる。

【県令】

【県人】

漢葭Han jia

カンカ

のちに涪陵県に併合された。

【県令】

【県人】

宕渠Dang qu

トウキョ
(タウキョ)

領城3
戸数不明
人口不明

古くは賨族の国で、賨城・盧城が残っている。劉備が宕渠郡を設置して王士が太守となったが、郡を立てて九年で廃止された。延煕年間にまた設置されたが、すぐに廃止された。秦の始皇帝の時代に身長二十五丈もの巨人が現れ、秦の官僚の胡毋敬は「五百年後に異民族から英雄が現れるだろう」と言ったが、果たして賨族から李雄が現れたのだった。前漢以来、賢人や貞女を輩出し、車騎将軍馮緄・大司農玄賀・大鴻臚龐雄・桂陽太守李温らが現れた。馮緄と李温は任所で葬られたが、毎年三月になると彼らの霊魂が故郷に帰るので、川の水かさが増えて荒れ狂う。そこで県の吏民らは水上で祭祀をするのである。

【太守】王士

【領城】宕渠 / 漢昌 / 宣漢

広漢Guang han

コウカン
(クワウカン)

領城11
戸数139,865
人口509,438

雒城には益州治が置かれた。土地は肥沃で人物も傑出しており、「三蜀」の一つとして徳の高い人物が太守に選ばれた。

【太守】許靖 / 張粛 / 張存 / 夏侯纂 / 鄧芝 / 張微

【郡吏】司馬勝之

【領城】 / 新都 / 緜竹 / 什邡 / / 梓潼 / 白水 / 葭萌 / / 広漢 / 徳陽 / (五城

Luo

ラク

沈郷に孝子姜詩の田宅がある。豪族に鐔・李・郭・翟氏がある。緜竹を離れた益州牧劉焉は雒県を州治としたが、王者の地でないと考え、孫劉循に雒城を守らせて(成都に?)州治を移した。建安十八年(二一三)に劉備がこの城を攻め、戦いは一年余りにも及び、龐統が戦死した。

【県令】

【県人】

新都Xin du

シント

蜀では新都・広都・成都を「三都」と呼び、いずれも名城であった。金堂山から川が流れて巴郡に注いでいる。漢の時代、五つの米倉があって万安倉と呼ばれていた。棗や魚梁を産する。名士が多く、楊厚や董扶を輩出した。また四家の豪族があって馬・史・汝・鄭氏という。

【県令】法正 / 呂乂

【県人】王累

緜竹Mian zhu

メンチク

益州牧劉焉ははじめ緜竹県を州治とした。のち州治は雒に遷る。緜竹から雒にかけて稲の栽培が盛んで、一畝で三十斛、多いときには五十斛を収穫することができる。任安が儒学の講義を行い、彼は孔子に匹敵すると称えられた。人物を多く輩出し、中でも秦・杜氏がその頭となっていた。

【県侯】王宏 / 呉班

【県令】錡裒 / 李升 / 王甫 / 馬謖 / 費詩 / 呂乂

【県吏】韓揆

【県人】馬相 / 趙祗 / 韓揆 / 鄭度 / 司馬勝之 / 司馬尊 / 司馬賢 / 司馬佐

什邡Shi fang

ジュウホウ
(ジフハウ)

『漢書』では「汁方」と作り、汁の音「十」とある《漢書注》。

前漢の功臣雍歯の封地である。彼は高祖劉邦に最も憎まれていたため、諸将は自分たちが厚遇されるだろうと喜んだ。諸葛亮に滅ぼされた雍闓は雍歯の末裔。什邡の山では良い茶が採れる。また美田や塩井がある。楊氏がこの地の豪族である。

【県令】蔣琬 / 王連

【県人】

Fu

涪の音「浮」《漢書注》。

川は巴郡に通じており、蜀漢では東北の要として大将軍を配備した。宕田・平稲田がある。県に孱山があって孱水が湧き出ているが、その源では金銀の鉱石を採ることができる。これを洗って火で溶かすと金銀になる。陽泉では石丹を採取することができ、大司馬蔣琬はこの地に葬られた。豪族には楊・杜・李氏ら。

【県令】

【県人】杜微 / 尹黙 / 李譔

梓潼Zi tong

シトウ

潼の音「童」《漢書注》。

県内の五婦山から馳水が湧きだしている。劉備の時代に郡に格上げされた。善板という祠があり、別名を悪子と言ったが、住民は毎年「雷杼」十枚をお供えする。ところが年末になると「雷杼」は無くなってしまうが、雷が持ち去ったのだと言っている。四家の豪族があって、文・景・雍・鄧氏という。

【県令】王連

【県人】

白水Bai shui

ハクスイ

県を流れる白水は東南に流れて長江に注いでいる。関尉を配備して、益州牧劉璋は楊懐・高沛に関所を守らせた。このころ漢中の張魯の勢力が強かったための措置である。

【県令】

【県人】

葭萌Jia mang

カボウ
(カバウ)

『漢書』では「葭明」と作り、葭明の音「家盲」、また明の音「萌」とある《漢書注》。

県を流れる川は巴西に通じ、さらに漢水に注いでいる。金銀の鉱石が出るので、住民は毎年これを採取して洗う。漆・薬・蜂蜜の産地である。劉備は益州に入ると霍峻に葭萌城を守らせた。霍峻が守兵八百人で劉璋軍一万を斥けたので、広漢郡から分割して梓潼郡を立て、霍峻をその太守とした。蜀漢の時代には漢寿県と改称された。大将軍の駐在地であり、大将軍費禕は県の北山に葬られた。豪族たちのうちにも北山に葬られる者が多い。のち晋寿県と改められる。

【県令】

【県人】

葭萌関Jia meng Guan

カボウカン
(カバウクワン)

荊州牧劉備が、益州牧劉璋の援軍として駐留していた場所である。建安十八年(二一三)、劉備が寝返って益州を攻撃したとき、霍峻が葭萌関を守った。張魯が楊帛を送り込んで「一緒に城を守ろうではないか」と持ちかけさせたが、霍峻は「拙者の首を取っても、城を手に入れることはできぬぞ」と拒絶した。また劉璋の手の扶禁・向存が一万人を率いて包囲したが、霍峻は手勢わずか数百人ながら一年近くも持ちこたえ、敵の油断を衝いて攻撃をかけて向存の首を斬り、葭萌関を守り通した。

Qi

郪の音「妻」または千私の反切《漢書注》。

山原田や富国塩井がある。濮では良質の棗が採れ、宜君山では麋が捕まえられる。尾はとくに上質であるので貢ぎ物になっている。豪族には王・李氏がある。また高・馬氏は代々部曲を司っていた。しかし蜀漢の時代、高勝・馬秦は叛乱を起こして誅伐される。

【県令】

【県人】王商 / 王士 / 王甫 / 高勝 / 馬秦

広漢Guang han

コウカン
(クワウカン)

山原田がある。蜀漢の彭羕は俊才として知られ、また晋の段容も人格者であると称えられた。そのため彭・段氏は豪族となったのである。

【県令】黄権

【県人】彭羕

徳陽De yang

トクヨウ
(トクヤウ)

青石の祠がある。山原は肥沃で、沢でも漁業の利益を上げる。また賢人・貞女も多い。山の麓にあって川の流れも穏やか、土地は生産に向いている。車騎将軍鄧芝はこの地で生を全うしたいものだといつも考えていたが、のちに彼が亡くなるとこの地の山に葬られた。康・古・袁氏がこの地の豪族で、広漢太守夏侯纂は古濮を功曹に任命した。

【県令】

【県人】古濮

陌下Mo xia

ハッカ

張飛は益州を侵攻するとき、この地を通過して張裔を撃破した。

五城Wu cheng

ゴジョウ
(ゴジヤウ)

広漢郡の東南にあって川は巴郡に通じている。漢の時代、五倉を設置して五つの県から住民を徴発し、部尉に司らせたが、それをのちに県にしたものである。玄武山は別名を三隅山といい、県の東二里にあるが、山や谷が六つも折り重なっており、山からは龍骨(薬の材料となる恐龍の化石)が採れる。この山から天に登ろうとした龍が、天門が閉じていたため到達できず、ここに堕ちて死んだのだという。

【県令】

【県人】

漢寿Han shou

カンジュ

葭萌

梓潼Zi tong

シトウ

領城6
戸数約10,000
人口不明

建安十八年(二一三)、劉備は益州牧劉璋を攻略する際、中郎将霍峻に兵八百を与えて葭萌城を守らせた。霍峻は張魯の将軍楊帛の誘いを「わしの首を奪っても、この城を奪うことはできないぞ」と断った。劉璋が将軍向存・扶禁ら一万人に霍峻を攻めさせたが、霍峻は固く守って向存らを撃退した。劉備は彼の功績を評価し、同二十二年に広漢郡から分割して梓潼郡を立て、霍峻を太守に任じた。この地では金・銀・丹・漆・薬・蜂蜜を産する。また俊才を多く輩出する。

【太守】霍峻

【領城】梓潼 / / 葭萌 / 白水 / (昭歓) / (漢徳

昭歓Zhao huan

ショウカン
(セウカン)

【県令】

【県人】

漢徳Han de

カントク

剣閣道は三十里に及ぶが、道は至って険しい。閣尉を配置して、桑下の兵民を配下として守らせた。

【県令】

【県人】

蜀郡Shu

ショク

領城11
戸数300,452
人口1,350,476

「三蜀」の一つ。前漢文帝の時代に文翁という者が太守となり、湔江を開削して郫・繁県の田千七百頃を灌漑し、学問所を設立して官吏の子弟を選んで学問を授け、成績優秀な張叔ら十八人を東方の学者に預けて七経を学ばせ、彼らが帰国すると教育係とした。こうして蜀郡の学問は斉・魯地方に匹敵するまで盛んになった。

【太守】王商 / 許靖 / 法正 / 楊洪 / 王連 / 楊洪 / 劉敏

【郡吏】甘寧

【郡人】李意其? / 張任 / 杜禎 / 柳伸

【領城】成都 / / 江原 / / 広都 / 臨邛 / 湔氐道 / 汶江道 / 八陵蚕陵) / 広柔 / 緜虒道

成都Cheng du

セイト

蜀郡の郡治であり、五部尉を置いて十二郷を治めた。前漢のとき戸数は七万六千二百五十六戸を数えたが、統治の困難な地として知られた。順帝の時代馮顥が県令となり、太守劉宣の不法を訴えて罷免させた。学問所を設置すると集まった学生は八百人になった。また稲田百頃を開発し、治績は目を見張るものがあった。のちに劉龐が県令となった。豪族が自分勝手に振る舞っており、とくに濮陽太守趙子真が横暴であったので、劉龐は彼の犯罪を取り締まった。彼を恐れて静まらぬ者はなかった。豪族には柳・張・趙・郭・楊氏があった。はじめ市場を管理する成都市長が設置されていたが、建安十八年(二一三)に廃止された。

【県令】馬謖

【県人】禽堅 / 張粛 / 張松 / 張表 / 張裔 / 杜瓊 / 柳隠 / 寿良

Pi

郫の音「疲」《漢書注》。

郫県は郡の西北六十里にあり、代表的な豪族は何・羅・郭氏があった。

【県令】

【県吏】鄧芝

【県人】何包 / 何逵 / 何攀 / 何璋 / 何逢

江原Jiang yuan

コウゲン
(カウゲン)

成都から長江をへだてて西百二十里にある。県に青城山があって江祠と呼ばれている。安漢・上朱・下朱邑では良質な麻が採れ、目の細かくつややかな黄色い布が作られる。小亭には良い稲田がある。東方では常氏が豪族となっており、文井江のほとりに常氏が作った三十里の堤防がある。

【県長】董和

【県人】

Fan

ハン

郡の北九十里にある県で、泉水や稲田があった。三家の張氏が豪族であった。

【県令】司馬勝之

【県人】

広都Guang du

コウト
(クワウト)

むかし蜀王は広都の樊郷を都としていた。成都・新都と合わせて蜀の「三都」と称される。製塩池があり、漁場では豊富な収穫がある。豪族の馮氏も魚池・塩井を私有している。山からは鉄鉱石が採掘できる。県に望川の源流がある。後漢の時代、二十里に渡って石を削り、郫江の水を引いて広都の田を灌漑した。県民の朱辰という者が巴郡太守となって非常な恩恵を顕した。朱辰が任地で没すると、巴郡の獽族らが遺体を担いで墓に送り、鼓を打ちながら刀舞をして道中で人々を感歎させた。いま朱氏は土地の豪族となっている。

【県令】蔣琬 / 王連 / 司馬勝之

【県人】

臨邛Lin qiong

リンキョウ

もともと邛族の人々の居住地であったが、秦の始皇帝が人々を郡に移住させてしまった。鉄を産する。古石山では蒜子ほどの大きさの鉄鉱石を採取することができ、火で溶かして鉄にする。そこで鉄官を置いたのであるが、鉄祖廟祠もある。前漢文帝のとき鉄山・銅山を鄧通に賜ったが、鄧通が住民の卓王孫に貸してやると、毎年千匹も取ることができて卓王孫は億万長者となった。県城の南百里に深さ二〜三丈の「火井」があり、ここから火を取りたいときは、まず家から持ってきた火を投げ入れる。その瞬間、雷のような音を立てて火柱が上がって天に届き、あたり数十里を明るく照らす。そこで竹筒で火を集めるのだが、その炎に触れても竹筒が炭になることはない。その火でこの井戸の水一斛を煮ると、四・五斗の塩が採れる。もし家の火で煮ると、二・三斗の塩しか採れない。県民の陳立は巴郡・牂牁・天水太守を歴任して業績を挙げ、鄭氏とともに豪族となった。

【県令】

【県人】

湔氐道Zian di Dao

センテイドウ
(センテイダウ)

湔の音は子千の反切、氐の音は丁奚の反切《漢書注》。

県城の前に一対の石が城門のようになっていて、彭門と呼ばれている。県境の西に汶山があり、そこから湧き出た汶江が長江の源流である。汶江には良質な亀が多く、また金や玉も多い。流域には犀や象、虁といった獣がいる。虁というのは、蜀の山中に棲息する体重数千斤にもおよぶ大牛である。汶山には薬がことに多く、とりわけ椒の良質さは、天下の逸品を集めても超絶している。

【県令】

【県人】

汶江道Min jiang Dao

ビンコウドウ
(ビンカウダウ)

穢水・駹水の発する地だが、それらはいつも凍結しており、盛夏のおりでも解けることはない。延光三年(一二四)に郡に昇格された。

【県令】

【県人】

八陵Ba ling

ハチリョウ

蚕陵

蚕陵Can ling

サンリョウ

【県令】

【県人】

広柔Guang rou

コウジュウ
(クワウジウ)

県に石紐邑がある。禹の生まれた地である。異民族はその四方百里を囲んで、あえて放牧しようとはしない。罪人がこの中に逃れても入って追いかけることもない。禹を神として畏れているからである。罪人は三年間ここに隠れ続け、けっきょく逮捕されたが釈放された。禹の神が彼を加護したと言うのである。

【県令】

【県人】

緜虒道Mian si Dao

メンシドウ
(メンシダウ)

虒の音「斯」《漢書注》。

湔水の水源地である。この地に玉塁山があり、璧玉を産出する。

【県令】

【県人】

汶山Min shan

ビンザン

領城不明
戸数不明
人口不明

【太守】陳震

【領城】

平康Ping kang

ヘイコウ
(ヘイカウ)

【県長】

【県人】

犍為Jian wei

ケンイ
(ケンヰ)

領城9
戸数137,713
人口411,378

むかし前漢武帝は蜀から僰道・青衣への道を開通するよう僰道県令に命じたが、費用がかさむばかりで完成せず、百姓の恨みが高じた。司馬相如が諫めたので、武帝は唐蒙を使者として僰道県令を逮捕し、斬首しようとした。このとき僰道県令が「成都を見られなかったのが残念だ」と言ったので、彼を成都に送って処刑した。唐蒙は石を斬って道路を切り開き、犍為都尉に任命されて南夷道で政務を執った。のち郡治は南広、僰道、武陽と遷る。男の性質は仁徳・孝心に篤く、女は貞淑である。公孫述が蜀を領有したとき功曹朱遵は従わず殺され、また門を閉ざしたり隠棲する者があった。そのため光武帝は「士大夫の郡である」と評している。成都を去ること百五十里にあり長江を渡らなければならないが、昔の人は長さ一里半にもなる大橋を架けていた。夏になると水かさが増して橋が落ちてしまうので、毎年修理しなければならず、百姓は苦しんでいた。しかし建安二十一年(二一六)に太守李厳が天社山を開削して尋江に車道を通し、三つの渡し場を設けて橋を廃止したので官吏・人民はともに喜んだ。李厳はさらに役所を改築し、壮麗な展望台は益州名物となった。同二十四年に武陽県に黄龍が現れ、川には赤い水が九日も流れた。蜀漢では劉氏が勃興する瑞兆だと考えた。

【太守】任岐 / 閻行 / 李厳

【郡吏】宋遠 / 楊洪

【郡人】程瓊 / 費立 / 費緝

【領城】武陽 / 資中 / 牛鞞 / 南安 / 僰道 / 江陽 / 荷節符節) / 南広 / 漢安

武陽Wu yang

ブヨウ
(ブヤウ)

郡治である。王喬・彭祖の祠がある。蒲江の大堤防が郡下を灌漑している。六水門には朱遵の祠がある。山からは鉄や白玉を採掘することができる。この県には特に豪族が多く、七家の陽氏、五家の李氏の十二氏があった。名茶を産する。彭亡聚という集落があるが、岑彭が死んだ地であるためその名で呼ばれるのである。建安二十四年(二一九)、県の赤水において黄龍が現れ、甘露が降ったので、太守李厳・県令陰化らは「黄龍甘露碑」を立てた。

【県令】陰化

【県人】楊洪 / 張翼 / 張微 / 楊戯

資中Zi zhong

シチュウ

牛鞞を流れる川はこの県を通過する。はじめ王延世が治水の功績を顕し、のちに董鈞が漢の礼法を定めた。王・董・張・趙氏が県の豪族である。牛鞞と資中県には沱江が流れている。棚田が多いが、稲種の少ない地である。

【県令】

【県人】

牛鞞Niu bi

ギュウヒ
(ギウヒ)

鞞の音「髀」Biまたは必爾の反切《漢書注》。

元鼎二年に設置された県である。新都江がここに流れ込む。陽明塩井がある。程・韓氏が土地の有力者である。

【県長】董和 /

【県人】

南安Nan an

ナンアン

青衣江会(青衣江と長江の合流点)に役所が置かれた。李氷が県の急流を治水工事をして、その堤は雷垣または塩漑と呼ばれている。柑橘官社がある。漢の時代には塩井があった。名茶を産する。県の西に熊耳峡があり、県の南八十里に峨眉山がある。孔子地図によると山に仙薬があり、前漢武帝が使者をやって祭りを行い、薬を探させたが見つからなかったという。県の豪族に能・宣・謝・審・五氏、また楊・費氏がある。むかし唐蒙が作った魚符津(渡し場)は県の北三十里にあり、幅は四・五尺、深さは百丈の所もあり、今でも鑿で穿った跡が残っている。

【県令】

【県人】費詩

僰道Pei dao

ホクドウ
(ホクダウ)

僰の音は蒲北の反切《漢書注 》。

前漢呂后の時代に城を築き、馬湖江会(馬湖と長江の合流点)で統治した。もともと僰族が住んでいたが、漢民族が増えるにつれ、彼らを他の場所に追いやった。茘枝・薑・蒟が採れる。長江のほとりに兵蘭(物見櫓)があって、水神が住み着いて長江を荒らしていたが、李氷がこれを焼いたところ川岸は五色になって楚(荊州)から魚が集まり、岸壁を掘削して水を鎮めることができた。韓原素の祠がある。むかし孝子隗通が母のために長江の水を汲もうとすると、川の中から平たい石が飛び出してきた。今でも馬湖江にその石がある。また呉順が母に孝養を尽くすと、家の門に赤い烏が巣を作った。長江が干上がると多くの魚が死ぬが、ぴかぴかの石を採ることができる。住民は鬼術・妖術を好む。豪族に呉・隗氏、また楚・石・薛・相氏がある。

【県令】

【県人】

江陽Jiang yang

コウヨウ
(カウヤウ)

長江と洛水の合流地点に県治があり、この県は犍為郡治でもあった。富世という製塩所があった。郡から百二十里下ったところに伯塗の魚梁(やな)があるが、伯氏の女が塗氏に嫁いで作ったものだという。四人の豪族に王・孫・程・鄭氏があり、八族という場合は加えて魏・趙・先・周氏を数える。むかし光武帝が江陽で子を儲けたとき、占師が「江陽に尊貴な子供の気がある」と述べたため、県人は王莽のために子供を殺した。のちに光武帝は子のために祠を作ったが、県人は罰として数世代のあいだ官吏に登用されなかった。

【県令】

【県人】

荷節He jie

カセツ

符節

符節Fu jie

フセツ

元鼎二年に設置され、安楽水の合流地点で統治した。永建元年十二月に先叔和が巴郡太守に任じられたが、この県の成湍灘で溺れ死んだ。子の先賢は遺体を回収できなかった。女(むすめ)先絡は小舟に乗って父の亡くなった場所に行き、入水自殺した。先賢の夢に先絡が現れて「父上のご遺体とともに出て参ります」と言うので、先賢が行ってみると先叔和と先絡の遺体が浮かび上がった。県が郡に通報し、太守蕭登が尚書に上表したので、戸曹掾が下向して先絡のために碑を建てた。

【県令】

【県人】

南広Nan guang

ナンコウ
(ナンクワウ)

【県令】

【県人】

漢安Han an

カンアン

土地は狭隘であるが、山も水も格別に豊かである。養蚕が盛んで製塩池もある。百を越える家が魚池を私有している。程・姚・郭・石氏らを四豪族とし、張・季・李・趙氏を加えて八族という。なかでも程・石氏は抜きんでており、郡ではいつも彼らを呼んで政治を議論させていた。

【県令】

【県人】

江陽Jiang yang

コウヨウ(カウヤウ)

領城
戸数
人口

【太守】彭羕

【領城】

牂牁Zang ge

ソウカ
(サウカ)

領城16
戸数31,523
人口267,253

【太守】向朗 / 費詩 / 朱褒

【郡吏】朱褒

【郡人】

【領城】故且蘭 / 平夷 / / 毋斂 / 談指 / 夜郎 / 同並 / 談藁 / 漏江 / 毋単 / 宛温 / 鐔封 / 漏臥 / 句町 / 進乗 / 西随

故且蘭Gu ju lan

コショラン

且の音「苴」または子閭の反切《漢書注》。

【県令】

【県人】

平夷Ping yi

ヘイイ

【県長】

【県人】

Bi

ヘツ

鄨の音「鷩」または不列の反切《漢書注》。

【県令】

【県人】

毋斂Wu lian

ブレン

【県令】

【県人】

談指Tan zhi

ダンシ

【県令】

【県人】

夜郎Ye lang

ヤロウ
(ヤラウ)

【県令】

【県人】

同並Tong ban

ドウハン

並の音「伴」《漢書注》。

【県令】

【県人】

談藁Tan gao

ダンコウ
(ダンカウ)

『漢書』では「稾」と作る。稾の音は工老の反切《漢書注》。

【県令】

【県人】

漏江Lou jiang

ロウコウ
(ロウカウ)

【県令】

【県人】

毋単Wu dan

ブタン

毋の音「無」、単の音「丹」《漢書注》。

【県令】

【県人】

宛温Wuan wen

エンオン
(ヱンヲン)

宛の音は於元の反切《漢書注》。

【県令】

【県人】

鐔封Xun feng

ジンホウ

鐔の音「尋」または「淫」《漢書注》。

【県令】

【県人】

漏臥Lou wo

ロウガ
(ロウグワ)

【県令】

【県人】

句町Qu ting

クテイ

句町の音「劬挺」《漢書注》。

【県令】

【県人】

進乗Jin cheng

シンジョウ

【県令】

【県人】

西随Xi sui

セイズイ
(セイズヰ)

【県令】

【県人】

越巂Yue xui

エッスイ
(ヱツスヰ)

領城14
戸数130,120
人口623,418

巂の音は先蕊の反切《漢書注》。

【太守】馬謖 / 焦璜 / 龔禄

【郡人】高定元

【領城】邛都 / 遂久 / 霊関道 / 台登 / 青蛉 / 卑水 / 三縫 / 会無 / 定莋 / / 蘇示 / 大莋 / 莋奏莋秦) / 姑復 / (新道

邛都Qiong du

キョウト

【県令】

【県人】

遂久Sui jiu

スイキュウ
(スヰキウ)

【県令】

【県人】

霊関道Ling guan Dao

レイカンドウ
(レイクワンダウ)

【県令】

【県人】

台登Tai deng

タイトウ

【県令】

【県人】

青蛉Qing ling

セイレイ

蛉の音「零」《漢書注》。

【県令】

【県人】

卑水Ban shui

ハンスイ
(ハンスヰ)

卑の音「班」《漢書注》。

【県令】

【県人】

三縫San bo

サンパ

【県令】

【県人】

会無Hui wu

カイブ
(クワイブ)

【県令】

【県人】

定莋Ding Ce

テイサク

莋の音は才各の反切《漢書注》。

【県令】

【県人】

Chan

セン

【県令】

【県人】

蘇示Su qi

ソキ

【県令】

【県人】

大莋Da ce

タイサク

莋の音は才各の反切《漢書注》。

【県令】

【県人】

莋奏Je zou

サクソウ

→莋秦

莋秦Je qin

サクシン

【県令】

【県人】

姑復Gu fu

コホク

復の音は扶目の反切《漢書注》。

【県令】

【県人】

新道Xin dao

シンドウ
(シンダウ)

【県令】

【県人】

益州Yi zhou

エキシュウ
(エキシウ)

領城17
戸数29,036
人口110,802

【太守】正昂 / 張裔 / 王士 / 楊戯

【郡人】爨習 / 雍闓 / 孟獲

【領城】滇池 / 勝休 / 兪元 / 律高 / 賁古 / 毋棳 / 建伶 / 穀昌 / 牧靡 / / 昆沢 / 同瀬 / 同労 / 双柏 / 連然 / 梇棟 / 秦臧

滇池Dian chi

テンチ

滇の音「顛」《漢書注》。

【県令】

【県人】

勝休Sheng xiu

ショウキュウ
(シヨウキウ)

【県令】

【県人】

兪元Yu yuan

ユゲン

【県長】

【県人】李恢

律高Lu gao

リッコウ
(リツカウ)

【県令】

【県人】

賁古Ben gu

ホンコ

賁の音「奔」《漢書注》。

【県令】

【県人】

毋棳Wu zhue

ブセツ

毋の音は「無」、棳の音は之悦の反切《漢書注》。

【県令】

【県人】

建伶Jian ling

ケンレイ

伶の音「鈴」《漢書注》。

【県長】爨習

【県人】

穀昌Gu chang

コクショウ
(コクシヤウ)

【県令】

【県人】

牧靡Mu ma

ボクマ

『漢書』は「収靡」と作る。靡の音「麻」《漢書注》。

【県令】

【県人】

Mei

マイ

味の音「昧」《漢書注》。

【県長】

【県人】

昆沢Kun ze

コンタク

【県令】

【県人】

同瀬Tong lai

ドウライ

【県令】

【県人】

同労Tong lao

ドウロウ
(ドウラウ)

【県令】

【県人】

双柏Shuang bai

ソウハク
(サウハク)

【県令】

【県人】

連然Lian ran

レンゼン

【県令】

【県人】

梇棟Long dong

ロウトウ

【県令】

【県人】

秦臧Qin zang

シンソウ
(シンサウ)

【県令】

【県人】

建寧Jian ning

ケンネイ

益州

永昌Yong chang

エイショウ
(エイシヤウ)

領城8
戸数231,897
人口1,897,344

【太守】韓当 / 雍闓

【領城】不韋 / 巂唐 / 比蘇 / 楪楡 / 邪龍 / 雲南 / 哀牢 / 博南

不韋Bu wei

フイ
(フヰ)

【県長】

【県人】呂凱

巂唐Sui tang

スイトウ
(スヰタウ)

【県令】

【県人】

比蘇Bi su

ヒソ

比の音は頻二の反切《漢書注》。

【県令】

【県人】

楪楡Ye yu

ヨウユ
(エフユ)

『漢書』では「葉楡」と作り、葉の音は弋渉の反切とある《漢書注》。

【県令】

【県人】

邪龍Ye long

ヤリョウ

【県令】

【県人】

雲南Yun nan

ウンナン

【県令】

【県人】

哀牢Ai lao

アイロウ
(アイラウ)

【県令】

【県人】

博南Bo nan

ハクナン

【県令】

【県人】

雲南Yun nan

ウンナン

領城不明
戸数不明
人口不明

【太守】呂凱 / 張休

【領城】

広漢属国Guang han

コウカンゾッコク
(クワウカンゾツコク)

領城3
戸数37,110
人口205,652

【都尉】

【領城】陰平道 / 甸氐道 / 剛氐道

陰平道Yin ping Dao

インペイドウ
(インペイダウ)

【県令】

【県人】

甸氐道Ying di Dao

ヨウテイドウ
(ヨウテイダウ)

甸の音「媵」または食証の反切《漢書注》。

【県令】

【県人】

剛氐道Gang di Dao

ゴウテイドウ
(ガウテイダウ)

【県令】

【県人】

陰平Yin ping

インペイ

領城不明
戸数不明
人口不明

【太守】廖化

【領城】

蜀郡属国Shu jun

ショクグンゾッコク
(シヨクグンゾツコク)

領城4
戸数111,568
人口475,629

【都尉】董扶

【領城】漢嘉 / 厳道 / / 旄牛

漢嘉Han jia

カンカ

元の名を「青衣」と言ったが、順帝の御代、改称される。

【県令】

【県人】

厳道Yan dao

ゲンドウ
(ゲンダウ)

【県令】

【県人】

Si

徙の音「斯」《漢書注》。

【県令】

【県人】

旄牛Mao niu

ボウギュウ
(バウギウ)

【県令】

【県人】

漢嘉Han jia

カンカ

領城不明
戸数不明
人口不明

【太守】黄元 / 司馬勝之

【郡人】王謀 / 張休

【領城】

犍為属国Jian wei

ケンイゾッコク
(ケンヰゾツコク)

領城2
戸数7,938
人口37,187

【都尉】

【領城】朱提 / 漢陽

朱提Zhu chi

シュシ

朱の音「銖」、提の音「時」または匕の意でいう「匙」《漢書注》

【県令】

【県人】

漢陽Han yang

カンヨウ
(カンヤウ)

【県令】

【県人】

朱提Zhu chi

シュシ

領城不明
戸数不明
人口不明

【太守】李豊

【郡人】朱褒 / 孟琰

【領城】

武都Wu du

ブト

武都