三国志人名事典 蜀志9

董和Dong He

トウワ

(?〜220?)
漢掌軍中郎将・大司馬府事

字は幼宰。南郡枝江の人。

先祖は巴郡江州の人だったという。董和は一族を引き連れて益州に入り、牧劉璋により牛鞞・江原の県長、成都県令を任じられた。当時の益州の風俗は奢侈贅沢に傾いていたが、董和は率先して粗衣粗食に甘んじ、領民にも身分をわきまえぬ振る舞いを禁止したので、彼の統治した地域はみな治まった。しかし一部の豪族たちが彼を煙たがり、劉璋に根回しして巴東郡属国都尉に転任させようとした。ところが董和を慕う数千人の住民たちが留任を懇願したので、劉璋は二年間の留任を認めた。のち任期を終えて益州太守に栄転。異民族と協力しながら誠意を貫いた政治を行い、南方の人々は彼に信頼を寄せて尊敬した。

のち劉備が益州を平定すると掌軍中郎将に召し出され、諸葛亮とともに左将軍および大司馬の役所の仕事を担当した。善いことを勧めて悪いことを止めさせるような付き合いをして、諸葛亮と仲良くした。董和は官吏になってから、外向きには異民族の土地をよく治め、内向きには政治の中枢を担い、合わせて二十年以上になったが、彼が死んだとき家にはほとんど財産を残さなかった。

のちに諸葛亮が丞相に就任したとき、部下への命令の中でこう言った。「仕事をするからには人々の意見をよく聞いて批判を遠ざけてはならない。自分とは異なる意見を聞いて仕事を成し遂げるのは、破れた草履を棄てて珠玉を手に入れるようなものなのに、それができないのが人間というものだ。しかし徐庶だけは人々の批判をよく受け入れ、董和も七年間の仕事のうえで疑問があれば何度も考え直したり相談にやってきたりした。十分の一でも彼らの態度を見習うことができたら、私も過失を減らすことができるのだが」。「私は昔、崔州平と付き合ってたびたび欠点を指摘され、のちには徐庶からもいろいろと教えられた。董和と一緒に仕事をしたときは言うべき事を言ってくれたし、胡済には諫言してもらって間違いを改められた。私は愚か者なので全てを受け入れることはできなかったけれど、この四人とはずっと気があった。これというのも彼らが言うべき事を躊躇せず言ってくれたからだ」。

【参照】胡済 / 崔州平 / 諸葛亮 / 徐庶 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 益州郡 / 牛鞞県 / 江原県 / 江州県 / 枝江侯国 / 成都県 / 南郡 / 巴郡 / 巴東郡 / 巴東郡属国 / 県長 / 県令 / 左将軍 / 掌軍中郎将 / 丞相 / 属国都尉 / 太守 / 牧

劉巴Liu Ba

リュウハ
(リウハ)

(?〜222)
蜀尚書令

字は子初。零陵郡烝陽県の人。

若年にして名を知られ、荊州牧劉表よりしばしば招かれ、茂才にも推挙されたが出仕しなかった。十八歳のとき零陵郡に召し出されて戸曹史主記主簿に任命される。劉表が没して曹操が南進すると人々はみな劉備に従ったが、劉巴だけは曹操のもとに赴いた。丞相曹操の掾に任じられて長沙・零陵・桂陽郡への服従を求める使者となる。しかし劉備がこれらの郡を占領したため帰ることができず、そのまま南下して交州に逃れた。このとき諸葛亮から劉備に仕えるよう誘われたが、曹操から命令を受けた以上、途中で職務を放棄することはできないと断っている。

劉巴は益州に入って劉璋に仕えたが、彼が劉備を迎えようとすると「山林に虎を放つようなものです」と反対した。しかし劉備は益州平定後、兵士が劉巴を殺さないよう命令を出し、劉巴が現れると過去の罪を咎めず大喜びで迎えた。諸葛亮の推薦もあって左将軍(劉備)の西曹掾に任じられる。

あるとき張飛が劉巴の屋敷に宿泊したことがあったが、劉巴は一言も口を聞かなかったので張飛は激怒した。諸葛亮は「張飛は武骨者だが貴方を尊敬しているので大目に見てやって欲しい」と告げたが、劉巴は「英雄とならば付き合いたいが、軍人の相手はしません」と答えた。劉備は「わしは天下のため努力しているのに劉巴は邪魔ばかりしている。北に帰るつもりで利用しているだけなのか」と腹を立てた。これを聞いた呉の孫権は「もし劉巴が権勢に従って態度を変え、劉備に媚びへつらい、素行の良くない人々と付き合うなら立派な人間とは言えないだろう」と述べている。

劉備が漢中王になると尚書となり、法正が没すると尚書令を襲った。彼は質素な生活を心懸け、田畑を経営して財産を殖やそうとはしなかった。そして自ら進んで劉備に仕えたのではなかったので、忠誠を疑われないように慎みと沈黙を守り、公務が終わると他人と私的な交際は結ばないようにした。劉備が帝位に即いたとき神に捧げた文は彼の筆によるものである。

章武二年(二二二)に逝去した。魏の陳羣は諸葛亮に手紙を送って劉巴のことを尋ねたが、彼を「劉君子初」と呼んで敬意を示した。なお劉巴は諸葛亮・法正・李厳・伊籍とともに蜀の法律「蜀科」を制定している《伊籍伝》。

【参照】伊籍 / 諸葛亮 / 曹操 / 孫権 / 張飛 / 陳羣 / 法正 / 李厳 / 劉璋 / 劉備 / 劉表 / 益州 / 漢中郡 / 魏 / 荊州 / 桂陽郡 / 呉 / 交州 / 烝陽侯国 / 長沙郡 / 零陵郡 / 王 / 戸曹史主記主簿 / 左将軍 / 左将軍西曹掾 / 尚書 / 丞相 / 丞相掾 / 尚書令 / 牧 / 茂才 / 蜀科

馬良Ma Liang

バリョウ
(バリヤウ)

(187〜222)
蜀侍中

字は季常。襄陽郡宜城県の人。

馬良は眉の中に白い毛があった。五人兄弟はいずれも優秀で「馬氏の五常、白眉もっとも善し」と謳われた。劉備が荊州を支配すると従事に任命される。劉備・諸葛亮が益州攻略に出征したときは荊州に残り、手紙を書いて諸葛亮を励ました。左将軍(劉備)の掾に任命される。

のち孫権のもとに使者として赴くことになったが、諸葛亮の提案で馬良自身を紹介する書を自分で書いて、孫権に謁見した。孫権は彼に敬意をもってもてなした。

劉備が皇帝の位に昇ると侍中に任命される。東征の軍が起こると武陵郡五渓の異民族を手なづける役目となり、異民族たちはみな服従して印と称号を拝受した。しかし劉備は夷陵で戦いに敗れ、馬良は戦死した。ときに三十六歳であった。

【参照】諸葛亮 / 孫権 / 劉備 / 夷陵県 / 益州 / 宜城侯国 / 荊州 / 五渓 / 襄陽郡 / 武陵郡 / 左将軍 / 左将軍掾 / 侍中 / 従事 / 五渓蛮 / 馬氏五常 / 白眉

陳震Chen Zhen

チンシン

(?〜235)
蜀衛尉・城陽亭侯

字は孝起。南陽郡の人。

劉備が荊州牧になったとき従事となり諸郡を取り仕切った。劉備に随行して益州平定に従軍。蜀郡北部都尉となる。蜀郡北部が郡に昇格されて陳震は汶山太守となった。のち犍為太守に転任する。建興三年(二二五)、中央に召されて尚書に任じられ、やがて尚書令に進み、勅命を受けて呉への使者として赴いた。

建興七年(二二九)、孫権が帝号を称すると、衛尉に昇進して呉に赴き、孫権の即位を祝賀することになった。武昌の都に到着すると、呉帝孫権は陳震とともに祭壇に昇り、犠牲の血をすすって盟約を結び、徐州・予州・幽州・青州を呉の領有とし、幷州・涼州・冀州・兗州は蜀の領有とし、司州は函谷関を境界として東西に分割することとした。陳震は帰国して城陽亭侯に封じられた。

同九年、李厳が責任転嫁の発言をして罷免される事件があったが、諸葛亮は蔣琬・董允に手紙をやって「陳震は以前、李厳には腹のなかに棘を抱えていると言っていた。私は棘に触れないようにすればよいと考えていたが、李厳があのような嘘八百を言うとは思わなかった」と言っている。

建興十三年(二三五)、陳震は薨じた。

【参照】諸葛亮 / 蔣琬 / 孫権 / 董允 / 李厳 / 劉備 / 益州 / 兗州 / 函谷関 / 冀州 / 荊州 / 犍為郡 / 呉 / 徐州 / 城陽亭 / 蜀郡 / 蜀郡北部 / 司隷(司州) / 青州 / 南陽郡 / 汶山郡 / 武昌県 / 幷州 / 幽州 / 予州 / 涼州 / 衛尉 / 従事 / 尚書 / 尚書令 / 太守 / 亭侯 / 都尉 / 牧

董允Dong Yun

トウイン

(?〜246)
蜀侍中・尚書令・輔国将軍

字は休昭。南郡枝江の人。董和の子である。

蜀が建国されると皇太子劉禅のお付きとなり太子舎人を拝命、さらに太子洗馬に転任し、劉禅が即位すると黄門侍郎に昇った。

諸葛亮は北征にあたり、若年の皇帝劉禅のことを心配して「郭攸之・費禕・董允は先帝が選りすぐって陛下にお遺しになった者たちで、宮中の事は全て彼らにご相談くださいませ。もし御徳を高める言葉がなければ、董允らを処刑して職責を明らかになさってください」と上疏した。のちに諸葛亮は費禕を前線に呼び寄せ、また郭攸之はおとなしい性格だったため、劉禅に忠言を奉る役割は董允一人が担うことになってしまった。

皇帝劉禅は国中から美人を集めて後宮を満たしたいと考えたが、董允は前例をもって反対した。劉禅が宦官黄皓を寵愛するようになったが、董允は劉禅に善い行いを勧め、黄皓には厳しくあたったので、黄皓は思い切って悪事を働くことができず、官位も黄門丞までしか昇れなかった。

かつて董允は費禕・胡済とともに馬車に乗って遊びに出ようと約束したことがあった。しかし馬車の準備ができたところで、官位の低い董恢という若者が訪問してきた。董恢は馬車を見て出直そうとしたが、董允は彼を引き留め、馬車を片付けて彼を鄭重に迎えた。董允の相手の身分を問わぬ謙虚さはいつもこのようだった。

延煕六年(二四三)に輔国将軍を加えられ、翌七年には侍中・尚書令の身分のまま大将軍費禕の次官となった。

延煕九年(二四六)、董允は薨じた。人々は諸葛亮・蔣琬・費禕を董允を合わせて「四相」「四英」などと呼んでいた。

そののち陳祗が侍中となって宦官黄皓を政治の場に呼び込んだ。二人は劉禅に取り入ってご機嫌を取り、劉禅は董允を逆恨みするに至った。黄皓は中常侍・奉車都尉に昇進して権力を握り、ついに蜀を滅ぼしてしまった。

【参照】郭攸之 / 胡済 / 黄皓 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 陳祗 / 費禕 / 董恢 / 董和 / 劉禅 / 劉備(先帝) / 枝江侯国 / 蜀 / 南郡 / 黄門丞 / 黄門侍郎 / 侍中 / 尚書令 / 太子舎人 / 太子洗馬 / 大将軍 / 中常侍 / 奉車都尉 / 輔国将軍 / 宦官 / 後宮 / 四英 / 四相

呂乂Lu Ai

リョガイ

(?〜251)
蜀尚書令

字は季陽。南陽郡の人。

『三国志演義』では「呂義」の名で現れる。

父呂常は益州牧に任命された劉焉を送り届ける役目を負ったが、街道が閉ざされため帰国できなくなった。呂常が没したとき呂乂は幼かったが読書と音楽を愛好していた。

劉備が益州を平定すると塩府校尉の官を新設して塩鉄の専売を図ったが、のち塩府校尉王連は呂乂・杜祺・劉幹を召し出して典曹都尉に任じた。のち新都・緜竹の県令となったが、慈悲を第一に心懸けたので、住民は彼を愛して益州第一の政治だと評価した。

さらに巴西太守に昇進する。丞相諸葛亮は毎年のように北伐を繰り返し、諸郡から人員・物資を徴発したものの不足することが多かったが、呂乂は五千人を徴発して、彼らをいたわったり取り締まりをしっかりしたので、誰も脱走しなかった。漢中太守に栄転して督農校尉を兼任し、前線に兵糧を搬送する役目を不足なく果たした。

のち広漢・蜀郡太守を歴任。蜀郡は首都なので人口が多いうえ、諸葛亮の死後まもなくのことだったので、徴兵を免れんとした者が偽名を使って紛れ込むなど不正が多かった。呂乂は任地に着くと防止策をとって彼らを教育したので、数年のうちには不正を行った一万人の者が自分から出ていくようになった。

中央に呼ばれて尚書となり、さらに董允に替わって尚書令となったが、多忙な職務にも係わらず滞りはなかった。しかし法律を厳しく運用し、また法律万能主義の役人を多く登用したので、名声は太守時代より劣っていた。

延煕十四年(二五一)に逝去。呂乂は地方と中央の職を務めたが、質素倹約に努め、謙虚で無駄口をせず、仕事は簡潔にまとめて煩雑さがなかったので「清能」と評価された。

【参照】王連 / 諸葛亮 / 杜祺 / 董允 / 劉幹 / 劉備 / 劉焉 / 呂常 / 益州 / 漢中郡 / 広漢郡 / 蜀郡 / 新都県 / 南陽郡 / 巴西郡 / 緜竹県 / 塩府校尉 / 県令 / 尚書 / 丞相 / 尚書令 / 太守 / 典曹都尉 / 督農校尉 / 牧 / 塩鉄