三国志人名事典 蜀志11

霍峻Huo Jun

カクシュン
(クワクシユン)

(177〜216)
蜀梓潼太守・裨将軍

字は仲邈。南郡枝江の人。

兄霍篤は郷里で数百人の私兵を集めていたが、荊州牧劉表は霍篤が死ぬと霍峻にその統率を命じた。劉表が没すると霍峻は兵を率いて劉備に帰服し、中郎将に任じられた。

益州平定にあたっては漢中への押さえとして葭萌関に残り、漢中の張魯が将軍楊帛を遣して霍峻を味方に誘ったが、霍峻は「私の首を取ることはできても、この城は奪い取らせないぞ」と拒絶し、楊帛は退却した。さらに劉璋の将軍扶禁・向存が一万余人の軍勢を率いて閬水を遡上し、霍峻を包囲すること一年以上になった。城中にはわずか数百人の軍勢しかなかったが、敵勢の油断を見計らって出撃し、向存の首を斬った。

益州が平定されると霍峻は軍功を評価され、広漢郡を分割して梓潼郡を設け、霍峻は梓潼郡太守・裨将軍に任命された。官に就いて三年、霍峻は四十歳で逝去した。遺体は成都城に送られて埋葬されたが、劉備は彼の死を大変惜しみ、自ら彼の葬儀に参列した。そのまま劉備は霍峻の墓の側で宿泊した。人々はこれを名誉だと讃えた。

【参照】霍篤 / 向存 / 張魯 / 扶禁 / 楊帛 / 劉璋 / 劉備 / 劉表 / 益州 / 葭萌関 / 漢中郡 / 荊州 / 広漢郡 / 枝江侯国 / 梓潼郡 / 成都県 / 南郡 / 閬水 / 将軍 / 太守 / 中郎将 / 裨将軍 / 牧

王連Wang Lian

オウレン
(ワウレン)

(?〜225?)
蜀屯騎校尉・丞相長史・平陽亭侯

字は文儀。南陽郡の人。

益州に入って劉璋に仕え、梓潼県令となった。劉備が益州侵攻を開始すると、王連は梓潼城の城門を固く閉ざして降伏しようとしなかったが、劉備はその忠義を評価し、あえて攻撃を加えなかった。

劉備は益州を平定すると王連を什邡県令とし、のち広都県令に移したが、それぞれの地で王連は業績を挙げた。司塩校尉に任命されて塩鉄の専売を任されたが、国庫への収入を大幅に増収させた。また有能な人物を属官として登用したが、このうち呂乂・杜祺・劉幹などはみな中央の高官に昇りつめている。司塩校尉の職務はそのままで蜀郡太守・興業将軍を兼官することとなった。

建興元年(二二三)、屯騎校尉・丞相長史に昇進し、また平陽亭侯に封じられた。このころ南方の諸郡が服従しないので諸葛亮は自ら平定しようと望んだが、王連はたびたび諫言したので、諸葛亮は長いあいだ出陣できなかった。

【参照】杜祺 / 劉幹 / 劉璋 / 劉備 / 呂乂 / 益州 / 広都県 / 梓潼県 / 什邡県 / 蜀郡 / 南陽郡 / 平陽亭 / 県令 / 興業将軍 / 司塩校尉 / 丞相 / 丞相長史 / 太守 / 亭侯 / 屯騎校尉 / 塩鉄

向朗Xiang Lang

ショウロウ
(シヤウラウ)

(?〜247)
蜀左将軍・光禄勲・顕明亭侯・特進

字は巨達。襄陽郡宜城の人。

若いころ司馬徽に師事し、徐庶・韓嵩・龐統らと親しく交わり、荊州牧劉表は彼を臨沮県長に任じた。劉表没後は劉備に従い、荊州南四郡が平定されると秭帰・夷道・巫・夷陵の四県の軍事と民政を委ねられた。益州が平定されると巴西太守に昇進し、のち牂牁太守・房陵太守を歴任した。

劉禅が即位すると歩兵校尉に昇任され、王連を継いで丞相長史となり、諸葛亮が南方に出征すると、都に残って丞相府の仕事を取り仕切った。建興五年(二二七)、諸葛亮に従って漢中に移る。しかし日頃から仲が良かった馬謖が逃亡したのを黙認したため罷免された。数年たったのち光禄勲の官を拝受した。諸葛亮が没すると左将軍に進み、過去の功績によって顕明亭侯に封じられたうえ、特進(大臣待遇)の地位を授かった。

向朗は若くして学問を広く修めたが学者として振る舞うことはせず、実務に携わって評判を得た。のちに罷免されたときには二十年ものあいだのんびり暮らし、学問研究に打ち込んで飽きることがなく、八十歳を越えても書物を研究したり収集したことは当時でも最大であった。門戸を開放して若者に教育を授けたが、古典の解説をするだけで時事には触れなかったので評判となり、政治家から子供にいたるまでみな彼を尊敬した。

延煕十年(二四七)に亡くなった。

【参照】王連 / 韓嵩 / 司馬徽 / 徐庶 / 諸葛亮 / 馬謖 / 龐統 / 劉禅 / 劉備 / 劉表 / 夷道県 / 夷陵県 / 益州 / 漢中郡 / 宜城侯国 / 荊州 / 顕明亭 / 秭帰県 / 襄陽郡 / 牂牁郡 / 巴西郡 / 巫県 / 房陵郡 / 臨沮侯国(臨沮県) / 県長 / 光禄勲 / 左将軍 / 丞相 / 丞相長史 / 太守 / 亭侯 / 特進 / 牧 / 歩兵校尉

張裔Zhang Yi

チョウエイ
(チヤウエイ)

(?〜230)
蜀射声校尉・輔漢将軍・留丞相府長史

字は君嗣。蜀郡成都の人。

許靖が蜀の劉璋に仕えたとき「張裔は実務の才能があって機転が効く。北方の鍾繇のような人物だ」と言ったので、孝廉に推挙されて魚復県長となり、のち州従事・帳下司馬に任じられた。張飛の益州侵攻を徳陽の陌下で防いだが敗北する。降伏の使者として劉備と会見し、劉璋主従の安全を約束させて帰還したので劉璋は降伏した。巴郡太守・司金中郎将に任命され、農機具や武器の鍛造を担当した。

益州の豪族雍闓は恩徳と信義によって南方で知られていた。その支持者たちが益州太守を殺害すると張裔が後任となったが、雍闓は服従せず、張裔を捕まえて身柄を呉に送った。劉禅が即位したとき諸葛亮は呉と同盟したが、同時に張裔の身柄引き渡しを求めた。孫権は張裔と面識がなかったので彼を引見してからかった。孫権「蜀の卓氏の女は司馬相如と駆け落ちしたが、それが蜀の風習なのか」、張裔「朱買臣の出世が待ちきれずに離婚した呉の女よりはましでしょう」。劉備に嫁いだ孫権の妹が呉に逃亡したことを言ったのである。孫権は機嫌良く談笑して張裔を立派だと考えた。張裔は退出して愚者のふりをすべきだったと後悔し、船に乗ると昼夜兼行して帰国した。孫権は彼を追跡させたが追い付けなかった。

蜀に帰還すると丞相諸葛亮は彼を参軍とし、益州治中従事を兼ねさせた。諸葛亮が漢中に駐留するようになると射声校尉・留府長史に進む。のち輔漢将軍を加官された。彼は若いころ楊恭と親しかったが、彼が若死にしたので数歳の遺児を引き取って養育し、実母に対するように楊恭の母に仕えた。楊恭の子が成長すると妻を世話してやり、田地や邸宅を買い与えている。建興八年(二三〇)に亡くなった。

【参照】許靖 / 司馬相如 / 朱買臣 / 諸葛亮 / 鍾繇 / 孫夫人(孫権の妹) / 孫権 / 卓氏 / 張飛 / 楊恭 / 雍闓 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 益州郡 / 漢中郡 / 魚復県 / 呉 / 蜀 / 蜀郡 / 成都県 / 徳陽県 / 巴郡 / 陌下 / 県長 / 孝廉 / 参軍 / 司金中郎将 / 射声校尉 / 従事 / 太守 / 治中従事 / 帳下司馬 / 輔漢将軍 / 留府長史

楊洪Yang Hong

ヨウコウ
(ヤウコウ)

(?〜228)
蜀越騎校尉・忠節将軍・蜀郡太守・関内侯

字は季休。犍為郡武陽の人。

劉璋に仕えて諸郡の役人を務める。劉備が益州を支配すると犍為太守李厳は楊洪を功曹に任命した。李厳は郡役所を移転させたいと考えたが、楊洪は官職を返上してでも反対だと主張したので、李厳は彼を州に推薦した。楊洪は蜀部従事(蜀郡従事?)に任命された。

漢中領有をめぐって曹操との争いが起こると、前線の劉備は軍勢を派遣するよう本国の諸葛亮に要請した。楊洪は「漢中は益州の運命を握る要衝です。増援にためらうべきではありません」と言った。諸葛亮は法正が不在のあいだ彼に蜀郡太守を代行させたが、見事に職務をこなしたので正式に太守となり、のち益州治中従事に転任した。

劉備が東征に失敗して白帝城で危篤に陥ると、諸葛亮が見舞いのため首都を空けたが、漢嘉太守黄元は諸葛亮に嫌われていたので叛乱を起こした。楊洪は皇太子劉禅に言上し、将軍を派遣して鎮圧に当たらせた。人々は黄元が作戦に失敗して南方に根を張るだろうと言い合ったが、楊洪は「黄元は兇暴なので南方の人々が迎え入れるはずがない。鎮圧軍が南安峡を封鎖すれば手もなく逮捕できるだろう」と語り、はたしてその通りとなった。劉禅が帝位に上ると蜀郡太守・忠節将軍となり、関内侯に叙爵された。のち越騎校尉に任じられた。

若いころ張裔と親しかったが、その子張郁の過失を擁護しなかったので張裔は楊洪を恨んだ。建興五年(二二七)、諸葛亮は漢中に進駐すると張裔を留府長史に任じようとしたが、楊洪は反対して向朗を推薦した。人々は楊洪自身が留府長史になりたがって張裔の邪魔をしたものと思い、張裔も彼を憎んだ。のちに張裔は司塩校尉岑述と仲違いした。こうして人々は楊洪には私心がなく、ただ張裔の逆恨みであると考えるようになった。

楊洪はもともと学問を好まなかったが、忠義・清潔さ・誠実さ・明晰な頭脳を兼ね備え、国のことを自分のことのように心配した。また継母に仕えて孝行を尽した。建興六年(二二八)、在任中に亡くなった。

【参照】黄元 / 諸葛亮 / 向朗 / 岑述 / 曹操 / 張郁 / 張裔 / 法正 / 李厳 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 漢嘉郡 / 漢中郡 / 犍為郡 / 蜀郡 / 南安峡 / 白帝県 / 武陽県 / 越騎校尉 / 関内侯 / 功曹 / 司塩校尉 / 太守 / 治中従事 / 忠節将軍 / 部郡国従事(蜀郡従事) / 留府長史

費詩Fei Shi

ヒシ

(?〜234?)
蜀諫議大夫

字は公挙。犍為郡南安の人。

劉備が益州に入ったとき緜竹県令だったが、攻撃を受ける前に降伏した。益州が平定されると督軍従事に任じられる。一時外に出て牂牁太守となり、再び中央に戻って益州前部司馬に任命された。

劉備は漢中王になると関羽を前将軍に任じて辞令を費詩に届けさせた。しかし関羽は黄忠が後将軍になったと聞くと立腹して「老人とは決して同列にならぬぞ」と言った。費詩は諫めて言うに「むかし蕭何・曹参は若いころから高祖劉邦に仕えておりましたが、後から陳平・韓信がやってきて上位に就いたとき恨みごとは言いませんでした。漢中王と関羽殿は一心同体の間柄ですのに、官位の高低を気にして辞令をお受けにならないのは残念に思います」と。関羽は悟り、すぐさま拝受した。

劉備を帝位に推そうとする議論が起こると、費詩は反対し、永昌従事に左遷された。

のちに諸葛亮は孟達を味方に付けようと言った。費詩は反対して「孟達は小人物であり、劉璋に仕えて忠節を尽さず、また後に劉封と仲違いして叛逆しました。手紙を出す価値はありません」と言上した。しかし諸葛亮は未練を断てず、孟達に手紙を送った。たびたび連絡を取り合ったすえ孟達は魏に叛こうとしたが、司馬懿に襲撃されて殺された。諸葛亮もまた孟達を信頼できないと考えるようになっていたので救援しなかった。

蔣琬が国政を任されるようになると、費詩を諫議大夫に任命したが、費詩は自邸で亡くなった。

【参照】関羽 / 韓信 / 黄忠 / 司馬懿 / 諸葛亮 / 蕭何 / 曹参 / 陳平 / 孟達 / 劉璋 / 劉備 / 劉邦 / 劉封 / 永昌郡 / 益州 / 漢中郡 / 魏 / 犍為郡 / 牂牁郡 / 南安県 / 緜竹県 / 王 / 県令 / 後将軍 / 前将軍 / 前部司馬 / 太守 / 督軍従事 / 部郡国従事(永昌従事)