三国志モバイル人物伝

韓若Han Ruo

カンジャク

韓猛

韓荀Han Xun

カンジュン

韓猛

韓〓Han Xun

カンシュン

韓猛

韓遂Han Sui

カンスイ
(カンスヰ)

(?〜215)
漢鎮西将軍・開府

字は文約。金城の人《武帝紀》。もとは韓約という名だった《後漢書董卓伝》。

初め同郡の辺允とともに西方で著名だった。辺允は督軍従事となり、韓約は計(報告書)を奉じて京師に参詣したが、大将軍何進はかねてより彼の名声を聞いていたので、特別に彼と会見した。韓約は宦官どもを誅殺せよと説得したが、何進が聞き入れなかったので帰国を願い出た《武帝紀》。

中平元年(一八四)十一月、先零羌および枹罕・河関の盗賊ども、涼州義従宋建・王国らが叛逆し、湟中義従胡北宮伯玉・李文侯を擁立して将軍とした。金城郡まで来ると降参したふりをし、涼州の大人であった故(もと)の新安県令辺允、金城従事韓約との会見を求めた。韓約は会おうとしなかったが、太守陳懿が行って来るよう促した。王国らがすぐさま韓約ら数十人を人質に取ったので、金城は混乱し、陳懿が城を出たところで王国らは彼の手を引いて護羌校尉伶徴の陣営に行き、伶徴と陳懿を殺したが、韓約・辺允は釈放され、軍帥に擁立されて軍政を委ねられた。隴西郡では私情によって封をしない手紙を出し、韓約・辺允の名を挙げて賊徒になったと言った。涼州が韓約・辺允に千戸侯の懸賞をかけたので、韓約は韓遂、辺允は辺章と変名した《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。

韓遂らは州郡を焼き払い、翌年三月には数万騎を率いて三輔地方に侵入し、宦官を誅殺するのだと言いながら園陵を脅かした。詔勅が下り、左車騎将軍皇甫嵩・中郎将董卓が討伐にあたったが、皇甫嵩は成果を挙げられず罷免された。八月、朝廷は改めて司空張温を車騎将軍・仮節とし、執金吾袁滂・破虜将軍董卓・盪寇将軍周慎を統括させ、諸郡の郡兵合せて歩騎十万人余りを美陽に駐屯させて園陵を守ろうとした《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。張温は上表して別部司馬孫堅を参軍事にしてくれるよう要請し、また武将として陶謙も参軍事になっている《破虜・陶謙伝》。

辺章・韓遂らも美陽に着陣し、張温・董卓らと戦って勝利を収めたが、十一月、夜中に火のごとき流星が陣中を照らし出したので、それを不吉に思って金城に帰りたくなった。翌日、董卓が鮑鴻らと合流して辺章・韓遂らを大破し、斬首数千級を挙げた。辺章らは楡中に敗走した。周慎がそれを包囲したが、辺章らは軍勢を分割して葵園狭に駐留させて糧道を断ち切ったので、恐怖した周慎は輜重車を捨てて逃げ去った《後漢書董卓伝》。

三年冬、張温が京師に徴し返されると、韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺し、十万人余りの軍勢を擁して隴西を包囲した。太守李相如は寝返って韓遂と連合した《後漢書董卓伝》。

四年四月、涼州刺史耿鄙が六郡の郡兵を率いて王国・韓遂らを討伐しようとした。傅燮が「軍勢を休息させて賊軍の油断を待つべきです」と諫めるのを聞き入れず、狄道まで行ったところで部下の寝返りによって殺された。韓遂らはそのまま進撃して漢陽郡を包囲し、太守傅燮を殺害した《後漢書霊帝紀・同傅燮伝》。耿鄙の司馬であった馬騰も叛逆して韓遂らと合流し、みんなで漢陽の王国を盟主に推戴して全軍を宰領させると、王国は「合衆将軍」を自称し、三輔地方を侵略した《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。

五年、王国らは陳倉城を包囲したが、左将軍皇甫嵩・前将軍董卓に敗れたので、韓遂らはまた王国を追放し、故の信都県令である漢陽の閻忠を誘拐し、諸軍を統括させようとしたが、閻忠は脅迫されたことを恥じて病死した《後漢書董卓伝》。その後、韓遂らは権力争いを始めて殺し合い、部曲はばらばらになった《後漢書董卓伝》。

初平元年(一九〇)、朝廷の実権を握った董卓に対して、山東で義兵が立ち上がった。董卓は長安に遷都したいと思ったが、司徒楊彪らの反対に遭った。そこで董卓は「辺章・韓約から、朝廷には必ず遷都させるようにとの手紙が来ている。もし大軍が東進してきたら我は救援してやれないぞ」と言っている《董卓伝》。

三年、董卓が暗殺されると李[イ寉]・郭[シ巳]らが権力を引き継いだ。韓遂・馬騰は軍勢を率いて長安に参詣し、韓遂は鎮西将軍に任じられて金城に帰還し、馬騰は征西将軍に任じられて[眉β]に駐屯するよう命じられた《馬超伝》。

興平元年(一九四)、馬騰は私欲のため李[イ寉]に接近したが、何も得られなかったため腹を立て、侍中馬宇・右中郎将劉範・前涼州刺史[禾中]劭・中郎将杜稟らと軍勢を糾合して李[イ寉]を攻撃した。何日経っても勝負は付かず、韓遂はそれを聞いて両者を和解させようとしたが、けっきょく馬騰に合流することになった《董卓伝》。

三月、李[イ寉]が李利・郭[シ巳]・樊稠らを出して長平観の下で戦わせると、韓遂・馬騰は斬首一万余りを出す敗北となり、涼州を指して逃走した。樊稠らが追撃してきたが、韓遂は樊稠に人をやって「天下がどうなるかまだ分からないし、お互い州里は同じなのだから、今は些細な食い違いがあるとしても大きく見れば同じ立場だ。一言話し合おうじゃないか」と申し入れ、二人は馬を並べ、肘を交わしてしばらくのあいだ談笑した《董卓伝》。

涼州に帰還すると、韓遂は馬騰と義兄弟の契りを結び、初めは非常に親しくしていたが、後になると一転して部曲を率いて侵入しあう仇敵となった。馬騰の攻撃を受けて韓遂は逃走したが、軍勢を糾合して引き返し、馬騰を攻撃して彼の妻子を殺した。何度も戦って和解することはなかった《馬超伝》。

建安年間(一九六〜二二〇)初め、韓遂と馬騰が攻撃しあっていたときのこと。馬騰の子馬超は壮健であると評判であったが、韓遂の小将閻行もまた若いころから勇名があり、矛で馬超を突き刺した。矛が折れると、その柄で馬超のうなじを叩き、もう少しで殺すところであった《張既伝》。

二年、曹操は山東で問題を抱えていたので、関中での韓遂・馬騰の抗争を危惧し、鍾[ヨウ]を司隷校尉・持節・督関中諸軍として後方のことを委ねた。鍾[ヨウ]は長安に着任すると、馬騰・韓遂らに文書を配り、禍福について説明した。馬騰・韓遂はそれぞれ子息を朝廷に参朝させた《鍾[ヨウ]伝》。また鍾[ヨウ]や涼州牧韋端の仲介により、韓遂は馬騰と和解した《馬超伝》。

七年、袁尚が高幹・郭援に軍勢数万人を率いさせて匈奴単于とともに河東を侵略し、使者を派遣して馬騰・韓遂と連合しようとした。馬騰は密かに承諾していたが、あとで傅幹の説得に応じ、子息馬超に精兵一万人余りを預け、韓遂らの軍勢とともに鍾[ヨウ]に協力させたので、鍾[ヨウ]は郭援を大破することができた《鍾[ヨウ]伝》。韓遂は征西将軍、馬騰は征南将軍に任じられ、幕府を開くことを許された《後漢書董卓伝》。

十四年、韓遂が閻行を使者に立てて曹操のもとに行かせると、曹操は閻行を手厚く遇した。閻行は帰国して曹操の命令書を伝えた。「文約に謝す。卿がはじめ挙兵したのは追い詰められたからだということを、我はつぶさに明らかにしておいた。早く来なさい。一緒に国政をお助けしようぞ」。閻行はついでに言った。「閻行もまた将軍にお仕えして参りましたが、挙兵以来三十年余りになり、民衆も兵卒も疲弊して領土も狭くなっております。速やかにご自身から(曹操に)お味方なさいませ。以前、[業β]に参りましたとき、老父を京師に参詣させたいと自己申告いたしましたが、まことに将軍もまた一子を派遣して赤心をお示しなされませ」。韓遂は言った。「まず数年くらい様子を見てみよう!」。のちに韓遂は我が子を派遣し、閻行の父母とともに東へ行かせた《張既伝》。

この歳、武威太守張猛が涼州刺史邯鄲商を殺害したので、翌十五年、韓遂は自ら西上して張猛を討伐した。張猛は軍勢を動員して東方を防衛させたが、官吏・民衆は韓遂を畏怖しており、一緒に寝返って張猛を攻撃した。張猛は楼に登って自焼して死んだ《[ホウ][シ育]伝》。

そのころ鍾[ヨウ]は張魯を討伐しようとしていたが、丞相倉曹属の高柔は、いま妄りに大軍を動かすと韓遂・馬超が自分たちへの行動だと思い、煽動しあって叛逆させることになるから、まず三輔地方に招集をかけるべきで、三輔が落ち着けば檄を飛ばすだけで漢中は平定できるだろうと主張した。また衛覬も同じく鍾[ヨウ]の計画に反対していた《高柔・衛覬伝》。

建安十六年、鍾[ヨウ]が軍勢三千人を率いて関中に入ると《高柔・衛覬伝》、関中諸将は自分たちが襲撃されるのではないかと疑い《武帝紀》、馬超・侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩・楊秋・韓遂ら、合せて十の部曲が一斉に反乱した。その軍勢は十万、そろって黄河・潼関を占拠し、陣営を築いて連なった《馬超伝》。弘農・馮翊では多くの県邑がこぞって呼応した《杜畿伝》。

韓遂は張猛を討伐したとき、閻行を残して本営を守らせていたが、馬超らが謀叛を企てて韓遂を都督に擁立しようとした。韓遂が帰還すると馬超は言った。「以前、鍾司隷は馬超に将軍を討たせようとしました。関東の者どもは信用なりませぬ。いま馬超は父を棄てて将軍を父と致しまする。将軍も子を棄てて馬超を子としてくだされ」。閻行は韓遂を諫めて馬超に合力させまいとしたが、韓遂は言った。「いま諸将は図らずして一致した。天の定めのようじゃ」。そこで東進して華陰に赴いたのである《張既伝》。

曹操は曹仁を追討に派遣し、馬超らは潼関に駐屯した。曹操は諸将に命令した。「関西の軍勢は精悍である。守りを堅くして戦ってはならぬ」。秋七月、曹操は征西に赴き、潼関を挟んで馬超らと対峙した。曹操は激しく彼と対立する一方、密かに徐晃・朱霊らを送って夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河以西に陣取らせた。曹操は潼関から北へと黄河を渡り、甬道を作りながら黄河沿いに南進した。馬超らは渭口に後退して防いだ《武帝紀》。

曹操が蒲阪津を西へと渡るとき、馬超は韓遂に言った。「渭水北岸でこれを防げば、二十日も経たぬうちに河東の食糧は尽き果て、奴めは必ず逃走するでしょう」。韓遂は言った。「渡るのを見逃してやって、黄河の真ん中で追い詰めるのも愉快なことじゃないか!」馬超の計略は実行に移されなかった《馬超伝》。

曹操は多数の疑兵を設置する一方、密かに渭水上に浮き橋を作り、夜中、渭水南岸に陣営を作らせた。馬超らが陣営に夜襲をかけたが、伏兵によって撃破した。馬超らは渭水南岸に駐屯したまま、黄河以西の割譲を条件に講和を求めたが、曹操は許可しなかった。九月、曹操は軍勢を進めて渭水を(南へ)渡らせたが、馬超らが何度挑戦しても相手にしなかった《武帝紀》。

曹操が賈[言羽]の計略を採用して偽って講和に応じたところ、韓遂は曹操との会見を要求した。曹操は韓遂の父と同歳の孝廉であり、韓遂とも同じくらいの世代だったので、馬を交わして語り合い、軍事には言及せずに京都の昔話ばかりをし、手を打って談笑した。韓遂が帰ってくると馬超らは訊ねた。「公は何と言っていたのか?」韓遂は言った。「何も言わなかったが」。馬超らは彼を疑った。別の日、曹操は韓遂に手紙を送ったが、ところどころ墨で文字を塗りつぶし、韓遂が改竄したように見せかけておいた。馬超らはますます韓遂を疑った。曹操は庚戌の日に約束して会戦したが、まず軽騎兵によって挑戦し、しばらく戦闘が続いてから虎騎を放って挟撃したので、成宜・李堪らは斬られ、韓遂・馬超らは大敗して涼州へと敗走し、楊秋は安定へ奔走した《武帝紀》。

韓遂は華陰から敗走して湟中に帰ってきた。韓遂は(人質に出した息子が殺されて)閻行の父だけが生きていると聞き、一緒に殺害されれば彼の心を固めることができるだろうと思い、むりやり幼い女を閻行に嫁がせた。閻行が拒みきれなかったので曹操は彼を疑った。ちょうどそのとき韓遂は閻行を派遣して西平郡を支配させていたが、夜中、閻行はその部曲を率いて韓遂を攻撃した。閻行は陥落させることができず、家族を引き連れて曹操に参詣した《張既伝》。

韓遂の部曲一党は逃げ散ってしまい、ただ成公英だけが残っていた。韓遂は歎息して「丈夫が困窮しているのに災禍が姻戚から起こるとはな!」と言い、成公英に告げた。「いま親戚が離叛して人数が少なくなったから、羌族の部落をつたって西南へ向かい蜀へと参ろう」。成公英「挙兵してから数十年になります。いま敗北したとはいえ、どうして我が一門を捨てて他人を頼るということがありましょう!」、韓遂「吾は年老いた。子(あなた)ならどう手を打つかね?」、成公英「曹公(曹操)は遠来することができず、ただ夏侯(が来る)のみです。夏侯の軍勢は我らを追うには不足しておりますし、長いあいだ留まることもできますまい。まず羌族の部落で息をつきながら彼らの立ち去るのを待ち、旧知を呼び寄せ、羌族・胡族を糾合すればまだ手はありましょう」。韓遂はその計略に従った。ときに随従する男女はまだ数千人おり、韓遂はかねてより羌族に恩を施していたので、羌族たちが彼を守護した《張既伝》。

十七年、韓遂は軍勢を失い、羌族の部落をつたって西平の郭憲に身を寄せた。人々は韓遂を縛り上げて功績にしようとしたが、郭憲は怒って「人が追い詰められて我を頼りにして来たのに、どうしてそれを危難に陥れられようか?」と言い、彼を擁護して厚遇した《王脩伝》。

閻行の離叛から郭憲に身を寄せるまで、事件の起こった順番がよく分からない。

十九年正月、南安の趙衢、漢陽の尹奉らが馬超を討ち、その妻子を梟首した。馬超は漢中に逃げ込み、韓遂は金城に引き揚げ、[テイ]王千万の部落に逃げ込んだ《武帝紀》。韓遂は羌族・胡族一万騎余りを率いて《武帝紀》顕親にいたが、夏侯淵がそれを襲撃しようとすると逃走した。夏侯淵は彼の軍糧を手に入れて略陽城まで追撃したが、諸将は二十里余り先にいる韓遂を攻撃したいと言ったり、興国の[テイ]族を攻めるべきと言ったりした《夏侯淵伝》。

夏侯淵は考えた。「韓遂の軍勢は精強、興国の城郭は堅固。攻撃してもすぐには陥落させられまい。長離の羌族どもを攻撃するに越したことはない。長離の羌族どもの多くが韓遂に従軍しており、必ずや引き返して我が家を救援しようとするだろう。(韓遂が)もし羌族(の部落)を捨てて単独で守るなら孤立することになり、長離を救援するならば官軍は野戦することができ、どちらの場合でも虜にできるぞ」《夏侯淵伝》。

夏侯淵は督将を残して輜重を守らせ、軽装の歩騎で長離へ行って羌族の屯所を火攻めにし、その軍勢を斬首捕獲した。韓遂に従軍していた羌族どもは、おのおの種族の部落に帰っていった。韓遂は果たして長離を救援しようと夏侯淵軍と対陣した。諸将は韓遂軍が大勢であるのを恐れ、陣営を築き塹壕を掘ってから戦いたいと望んだが、夏侯淵は言った。「我らは千里を駆け抜けてきたから、今また陣営塹壕を築くとなると士卒は疲弊して持ちこたえられない。賊軍は大勢といっても与しやすいのだぞ」。そこで太鼓を打って韓遂軍を大破し、その旌麾を奪い取り、略陽に引き返して興国を包囲した。[テイ]王千万は馬超のもとへ逃走し、残党は降服した《夏侯淵伝》。韓遂はそのまま西平まで逃走した《武帝紀》。

二十年三月、曹操が張魯征討のため陳倉に赴くと《武帝紀》、夏侯淵は閻行を留守に残して引き揚げたので、韓遂は羌族・胡族数万人を糾合して閻行を攻撃したが、追撃する間もなく、ちょうどそのとき病没した《王脩・張既伝》。田楽・陽逵および西平・金城の麹演・蒋石らが韓遂の首を斬り、漢中戦線の曹操のもとに送り届けた《武帝紀・王脩伝》。挙兵から三十二年が経ち、このとき七十歳余りだった《武帝紀》。

これに先立つ十七年十二月、ほうき星が五諸侯に現れたことがある。益州の周羣は、西方で土地を占拠している者がみな領土を失うだろうと言った。翌年冬、曹操が副将を派遣して涼州を攻撃すると、十九年、枹罕の宋建は捕らえられ、韓遂は羌族の部落に逃げ込んで病死し、秋には劉璋が益州を失い、二十年秋には、漢中の張魯が曹操に降ったのであった《後漢書天文志・周羣伝》。

【参照】韋端 / 尹奉 / 衛覬 / 袁尚 / 閻行 / 閻忠 / 袁滂 / 王国 / 何進 / 夏侯淵 / 賈[言羽] / 郭援 / 郭憲 / 郭[シ巳] / 邯鄲商 / 麹演 / 侯選 / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 高幹 / 高柔 / 朱霊 / 周羣 / 周慎 / 徐晃 / 蒋石 / 鍾[ヨウ] / 成宜 / 成公英 / 千万 / 宋建 / 曹仁 / 曹操 / 孫堅 / [禾中]劭 / 張横 / 張温 / 張猛 / 張魯 / 趙衢 / 陳懿 / 程銀 / 田楽 / 杜稟 / 陶謙 / 董卓 / 馬宇 / 馬玩 / 馬超 / 馬騰 / 樊稠 / 傅幹 / 傅燮 / 辺章 / 鮑鴻 / 北宮伯玉 / 陽逵 / 楊秋 / 楊彪 / 李[イ寉] / 李堪 / 李相如 / 李文侯 / 李利 / 劉璋 / 劉範 / 梁興 / 伶徴 / 安定郡 / 渭口 / 渭水 / 益州 / 園陵 / 華陰県 / 河関県 / 河東郡 / 関西 / 関中 / 漢中郡 / 関東 / 漢陽郡 / 葵園狭 / [業β]県 / 金城郡 / 顕親県 / 黄河 / 興国 / 湟中 / 弘農郡 / 山東 / 三輔 / 蜀 / 新安県 / 信都県 / 西平郡 / 長安県 / 長平観 / 長離 / 陳倉県 / 狄道県 / 潼関 / 南安郡 / [眉β]県 / 美陽県 / 馮翊郡 / 武威郡 / 枹罕県 / 蒲阪津 / 楡中県 / 略陽県 / 涼州 / 隴西郡 / 右中郎将 / 合衆将軍 / 県令 / 侯 / 孝廉 / 護羌校尉 / 左車騎将軍 / 左将軍 / 参軍事 / 司空 / 刺史 / 持節 / 侍中 / 執金吾 / 司徒 / 司馬 / 車騎将軍 / 従事 / 将軍 / 小将 / 丞相 / 司隷校尉 / 征西将軍 / 征南将軍 / 単于 / 前将軍 / 倉曹属 / 太守 / 大将軍 / 中郎将 / 鎮西将軍 / 盪寇将軍 / 督軍 / 督軍従事 / 督将 / 都督 / 破虜将軍 / 別部司馬 / 牧 / 仮節 / 義従 / 羌族 / 匈奴 / 軍帥 / 虎騎 / 五諸侯 / 胡族 / 星孛(ほうき星) / 先零羌 / 大人 / [テイ]族 / 同歳 / 府(幕府) / 部曲 / 甬道 / 流星

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