三国志モバイル人物伝

成公英Chenggong Ying

セイコウエイ

(?〜?)
漢丞相軍師
魏参涼州軍事

金城郡の人。韓遂の将《張既伝》。「成公」は複姓《張既伝集解・後漢書戴就伝集解》。

中平年間(一八四〜一八九)末期、韓遂に仕えて腹心となった。建安十九年(二一四)になって韓遂は女婿閻行らに攻撃され、仲間はみんな逃げ去ったが、成公英だけは離れようとはしなかった。韓遂は歎息して「丈夫たる者が危難に遭ったというのに身内から禍が起こるとはな。西南に行って蜀に身を寄せるしかないだろうな」と言った《張既伝》。

成公英「自分の家を棄てて他人を頼ることはありますまい」、韓遂「吾は年を取ってしまった。子(あなた)ならどうする」、成公英「曹公(曹操)は遠征することができず、夏侯淵が来るだけです。夏侯淵の軍勢では我々を追撃することも長く留まることもできません。羌族たちの中で休息を取りながら彼らが去るのを待ち、むかしの仲間を呼んで羌族を慰撫してやれば、まだなんとかなるでしょう」。韓遂に従う男女はまだ数千人いて、かねてより羌族に恩を売っていたので羌族は韓遂を保護した《張既伝》。

同二十年、夏侯淵は閻行を留めて軍勢を帰還させた。そこで韓遂は羌族数万人を糾合して閻行を攻撃しようと企てた。ところが韓遂は暗殺されてしまい、成公英は曹操に降伏した。曹操は彼に会って非常に喜び、軍師に任じて列侯に封じた。

あるとき曹操は狩猟に出かけ、成公英がお供した。三頭の鹿が目の前を通りすぎたので、曹操は成公英に射るよう命じたところ、三発放って三発とも命中し、鹿は三頭とも弦音とともに倒れた。曹操は手を叩いて「韓文約(韓遂)だけに忠節を尽くすことができて、孤(わたし)では駄目なのかね」と言うと、成公英は馬を下りて跪き、「明公(とのさま)を騙すことはできません。もし元の主人がおりましたらここには参りませんでした」と涙を流して喉を詰まらせた。曹操は彼の旧主に対する厚い気持ちを評価し、彼を敬愛するようになった《張既伝》。

年号が延康から黄初に改められたとき、黄河西岸地域で叛逆が露見した。文帝曹丕は詔勅によって成公英を涼州刺史張既の参軍に任じて隴右を平定させた。この戦役において、成公英は千余騎を率いて賊軍を挑発し、わざと負けたふりをして退却した。張既はあらかじめ置いておいた伏兵三千人を立たせて賊軍の退路を断ち、前後から挟み撃ちにして大破し、斬首と生け捕りは一万人以上に上った《張既伝》。

のちに成公英は病没した《張既伝》。成公英の事跡は『魏略』「純固伝」に王脩・文聘らとともに立伝されている《王脩伝》。

【参照】閻行 / 王脩 / 夏侯淵 / 韓遂 / 曹操 / 曹丕(文帝) / 張既 / 文聘 / 金城郡 / 黄河 / 蜀 / 涼州 / 隴右 / 軍師 / 参軍 / 刺史 / 列侯 / 魏略 / 羌族

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。