三国志モバイル人物伝

張温Zhang Wen

チョウオン
(チヤウヲン)

(?〜191)
漢衛尉・互郷侯

字は伯慎。南陽郡穣の人《後漢書董卓・竇武伝》。張敞の兄《後漢書竇武伝》、蔡諷の姉婿《劉表伝集解》。

中常侍曹騰の推挙によって取り立てられた《後漢書曹騰伝》。延熹年間(一五八〜一六七)、尚書郎の官にあって桓帝の竟陵行幸に随行した。雲夢を通過して[ベン]水に到達したが、百姓のうち見物に来ない者はなかった。ただ一人、田を耕して手を止めようとしない老父がいた。張温は不思議に思って、使者をやって訊ねさせた。「人はみな見物に来ているのに、老父だけが手を止めないのは何故かね」。老父は笑うばかりで答えなかった《後漢書逸民伝》。

張温は馬を降りて百歩先まで行き、自分で老父に訊ねた。老父「我は野人でして、お言葉を理解することができません。お訊ねいたしますが、天下が乱れたから天子を立てたのでしょうか、それとも治まったから天子を立てたのでしょうか?天子を立てるのは天下に父として仕えるためですか、それとも天下を働かせて天子に奉仕させるためですか?むかし聖王が世を治めていたころ、粗末な堀立て小屋にお住まいになり、万民は安寧に暮らしました。いま子(あなた)のご主君は人をこきつかって自分勝手なことをし、遊びほうけて恥じる様子もない。吾は子のために恥ずかしく思いますが、子はどうして屈辱に耐えてまで人を見物に誘うのですか!」。張温は大変恥ずかしく思い、老父に姓名を訊ねたが、彼はなにも語らずに去っていった《後漢書逸民伝》。

京師では趙[ヨウ]・賈彪・荀爽・李燮らと友人として付き合っていた。張温は潁川太守に任じられると荀爽に会い、賈彪も同席して論争したが、京師ではそれを話題にして優劣を言い立てた。張温は趙[ヨウ]に訊ねた。「徳公(李燮)はなんと言ってるんだい?」、趙[ヨウ]「無言だったよ」。張温は慨嘆して言った。「徳公のようにならんとなぁ。こわっぱどもを無闇に沸き立たせることもないか」。荀爽のほうも目が覚めて、心を入れ替えた《華陽国志》。

のちに尚書令となり、特別に上表して楊[王旋]を推薦し、彼を尚書僕射にしてもらった《後漢書楊[王旋]伝》。光和七年(一八四)夏四月、司空張済が罷免されたので大司農から司空に昇進した《後漢書霊帝紀》。張温は段[ケイ]・樊陵・崔烈らとともに功績・名誉があったが、それでも三公になるために財貨を支払わなければならなかった《後漢書崔[馬因]伝》。

南陽の黄巾賊張曼成が挙兵し、彼が攻め殺されると趙弘が軍勢を率いて宛城に楯籠った。鎮賊中郎将朱儁は宛城を包囲したが、六月から八月にかけて陥落させることができなかったので、担当役人が中央に召し返すように上奏した。張温は「秦は白起を用い、燕は楽毅を任じましたが、いずれも年を越してようやく敵に勝つことができたのです。開戦目前にして将軍を交代させるのは兵家の嫌うところです。その成功失敗によって責任を取らせましょう」と上疏した。そこで霊帝は朱儁の召し返しを中止し、朱儁は趙弘を斬ることができた《後漢書朱儁伝》。

その年の冬、北地郡の先零羌と枹罕・河間の盗賊どもが叛逆し、湟中義従の北宮伯玉・李文侯らを擁立して将軍とした。さらに金城の辺章・韓遂を誘拐して、彼らに軍政を専任させた。北宮伯玉らは護羌校尉[レイ]徴・金城太守陳懿らを殺害し、州郡を攻撃した。翌中平二年(一八五)になると数万騎を率いて三輔地方に侵攻した《後漢書董卓伝》。左車騎将軍皇甫嵩・中郎将董卓らが討伐にあたったが、皇甫嵩は同年七月に解任され、翌八月には張温が左車騎将軍・仮節となり、執金吾袁滂が副将となって北宮伯玉の討伐にあたった。董卓は破虜将軍となり、盪寇将軍周慎とともに張温に属した《後漢書霊帝紀・同董卓伝》。

張温は諸郡から歩騎十万を集め、美陽に駐屯した《後漢書董卓伝》。朝廷に要請して議郎趙岐を長史に、議郎陶謙を司馬にしてもらい、やはり要請して別部司馬孫堅を陶謙とともに軍事に参画させた《後漢書趙岐伝・同陶謙伝・破虜伝》。公孫[王贊]も烏桓突騎の監督として従軍したが、烏桓族が叛逆したため幽州に帰国している《後漢書公孫[王贊]伝》。

かつて張温が司空を務めていたとき、礼をもってたびたび張玄を招いたものの断られていたことがあった。このとき出征するにあたって、張玄が夜着に帯だけを巻いて田の庵から出てきて、張温を説得した。「天下に雲のごとく賊が湧き起こっているのは、黄門・常侍の無道のせいではありませんか。明公(とのさま)は天下を総轄して威光は重く、官軍の要を掌握しておられます。もし金鼓を鳴らして布陣を整え、軍正を呼んで罪人どもを逮捕・誅殺し、軍勢を率いて都に駐屯して順番にそって宦官を取り除けば、天下の逆さ吊り状態は解決し、海内の恨みは晴らされます。そののち隠棲している忠義公正の士を登用するならば、辺章のような輩なぞ掌の上のようなものですぞ」。それを聞いた張温はわなわなと震えて答えることができなかった《後漢書張霸伝》。

しばらくして口を開き「子(あなた)の言葉が嬉しくないわけではないが、自分を顧みるととてもできそうにない。どうかね」と言った。張玄は歎息して「それをすれば幸福となりますが、しなければ謀叛人です。いま公とは永久のお別れになりました」と言って、薬を仰いで飲もうとした。張温は走っていって彼の手を止めた。「子は我に対して忠義だったが、我は用いることができなかった。これは私の罪であるのに、どうしてそのようなことをするのだ。それに口から出て耳に入った言葉は、いま誰も知らないのだから」。張玄は出奔して魯陽の山中に潜み住んだ《後漢書張霸伝》。

張温は勅命によって董卓を呼び戻したが、彼はしばらく経ってからようやくやって来た。張温は董卓を詰問したが、彼の応対は不遜なものであった。座にあった孫堅が進み出て耳打ちした。孫堅「董卓は罪をも恐れず、威張って大言壮語しております。すぐさまお召しに応じなかった罪により、軍法を述べて斬刑に処すべきです」、張温「董卓には昔から隴・蜀一帯で威名があり、今日彼を殺せば西方平定の拠り所がなくなってしまう」、孫堅「明公は親しく天子の軍勢を率い、威信は天下を震わせておられます。どうして董卓を頼ろうとなさるのですか?董卓の言葉を観察しましたが、明公を見下したうえ、お上を軽んじて無礼でありました。これが第一の罪です。辺章・韓遂は年をまたいで跳梁跋扈しておりますが、時期をみて討伐すべきだったのに、董卓はまだだめだと言って軍勢を意気沮喪させて惑わせました。これが第二の罪です。董卓は任務を受けたのに功績がなく、お召しに応じるのも先延ばしにしましたが、そのくせ意気軒昂として思い上がっています。これが第三の罪です。古の名将は鉞を手にして軍勢に臨み、断罪して威令を示さなかった者はありません。それゆえ司馬穰苴は荘賈を斬り、魏絳は楊干(の御者)を殺したのです。いま明公が董卓の言いなりになって誅伐を加えなければ、威信・刑罰はここに失われるのです」。張温は決断することができず、「君はひとまず帰りなさい。董卓に疑われることになるぞ」と言ったので、孫堅は退出した《破虜伝》。

十一月、美陽で北宮伯玉を撃破した《後漢書霊帝紀》。張温は趙岐に別働隊を率いさせて安定に駐屯させ《後漢書趙岐伝》、周慎は追撃して金城郡楡中で辺章・韓遂を包囲したが、董卓は状勢からみて彼が勝てないことを悟り、張温に「配下の軍勢をまわして後詰めをすべきです」と告げたが、張温は聞き入れず、彼に先零羌を討伐させた。やむをえず董卓は別部司馬劉靖に歩騎四千を率いさせ、安定に駐屯させて牽制をかけさせた。先零羌は軍勢を引き返して董卓の退路を断ちきろうとしたが、安定に数万の軍勢がいると思いこんでいたので、董卓が少し攻撃しただけで道を空けた。一方、周慎も孫堅の進言を斥け、自ら金城を包囲して外壁を破壊した。ところが賊軍は葵園峡に進出して退路を断ったので、周慎は輜重を棄てて敗走した《破虜伝》。結局いずれも勝つことができなかった《後漢書霊帝紀》。

翌三年二月、大尉張延が罷免された。霊帝は長安に使者をやって張温を大尉に昇進させた《後漢書霊帝紀》。三公が朝廷の外にいるのは、この張温が初めてのことである。その年の冬、張温は京師(みやこ)に帰還した。辺章・北宮伯玉・李文侯は韓遂に殺害され、皇甫嵩が左将軍に復帰して董卓とともに韓遂を討伐した《後漢書董卓伝》。このころであろうか、張温は互郷侯に封ぜられている《後漢書竇武伝》。

翌四年四月、大尉の官職を罷免されて崔烈が後任となったが《後漢書霊帝紀》、また司隷校尉に復職した。のちに討虜校尉蓋勲が宗正劉虞・佐軍校尉袁紹らとともに宦官誅滅の計画を進めていたときのこと、このとき張温は上奏文をたてまつって蓋勲を京兆尹に推挙している。霊帝は蓋勲をお側近くに置いておきたいと思ったが、宦官の蹇碩らは内心で蓋勲を恐れ憚っていたので、張温の上奏を認めるように勧めた。こうして蓋勲は京兆尹となった《後漢書蓋勲伝》。

のちに衛尉に異動した。董卓が朝廷の実権を握り、太師を自称したときのこと。張温は司徒王允とともに董卓暗殺を計画していたが、そのころ太史が気を観察して「大臣のうち刑死するものがありましょう」と言上した。かつて張温が董卓誅殺を孫堅から進言されたことを恨んでいた董卓は、人をやって「張温が袁術と内通している」と誣告させた。張温は市場で笞で打たれて殺害された《後漢書董卓伝》。初平二年(一九一)十月壬戌のことであった《後漢書献帝紀》。

【参照】袁術 / 袁紹 / 袁滂 / 王允 / 賈彪 / 蓋勲 / 楽毅 / 韓遂 / 魏絳 / 蹇碩 / 公孫[王贊] / 皇甫嵩 / 崔烈 / 蔡諷 / 司馬穰苴 / 朱儁 / 周慎 / 荀爽 / 荘賈 / 曹騰 / 孫堅 / 段[ケイ] / 張延 / 張玄 / 張済 / 張敞 / 張曼成 / 趙岐 / 趙弘 / 趙[ヨウ] / 陳懿 / 陶謙 / 董卓 / 白起 / 樊陵 / 辺章 / 北宮伯玉 / 楊干 / 楊[王旋] / 李燮 / 李文侯 / 劉虞 / 劉宏(霊帝) / 劉志(桓帝) / 劉靖 / [レイ]徴 / 安定郡 / 雲夢 / 潁川郡 / 燕 / 宛県 / 河間 / 葵園峡 / 竟陵県 / 金城郡 / 湟中 / 互郷 / 三輔 / 穣県 / 蜀 / 司隷 / 秦 / 先零 / 長安県 / 南陽郡 / 美陽県 / 枹罕 / 北地郡 / [ベン]水 / 幽州 / 楡中県 / 隴 / 魯陽 / 衛尉 / 仮節 / 郷侯 / 議郎 / 軍正 / 京兆尹 / 黄門 / 護羌校尉 / 佐軍校尉 / 左車騎将軍 / 左将軍 / 三公 / 司空 / 執金吾 / 司徒 / 司馬 / 常侍 / 尚書僕射 / 尚書令 / 尚書郎 / 司隷校尉 / 宗正 / 大尉 / 太史 / 太師 / 大司農 / 太守 / 中常侍 / 中郎将 / 長史 / 鎮賊中郎将 / 盪寇将軍 / 討虜校尉 / 破虜将軍 / 別部司馬 / 烏桓 / 烏桓突騎 / 鉞 / 宦官 / 黄巾賊 / 湟中義従 / 先零羌 / 望気(気を観察)

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