三国志モバイル人物伝

馬騰Ma Teng

バトウ

(?〜212)
漢衛尉・槐里侯

字は寿成。扶風郡茂陵の人《馬超伝》。

馬援の子孫である馬平が羌族の女とのあいだに生んだ子で、若いころは家業を営んでいなかったため貧しく、いつも彰山で材木を切って背負い、それを城市で売り歩いて身を立てていた。馬騰は身の丈八尺余りもあり、体が大きい上に面構えも雄大であった。しかし性質は賢明温厚であったので、人々の多くが彼を尊敬した《馬超伝》。

涼州刺史耿鄙が佞吏程球を治中従事として信任したため、中平元年(一八四)冬、北地郡の先零羌や枹罕・河関の盗賊ども、さらに北宮伯玉・李文侯・王国・辺章・韓遂らが叛逆した《後漢書霊帝紀・同傅燮・董卓伝》。耿鄙は民間人のうち武勇ある者を州内で募集し、討伐軍を編成したが、馬騰はそれに応募した一人であった。州郡の官吏は彼をただ者でないと思い、軍従事に任じて部曲を統括させた。馬騰は賊徒討伐の功績を立てて軍司馬に任じられる《馬超伝》。

同四年四月、耿鄙が部下の裏切りによって殺されると、馬騰は軍勢を率いて韓遂軍に合流し、王国を叛乱軍の盟主に擁立し、ともども三輔地方を荒らし回った。王国・韓遂らは五年十一月、陳倉城を包囲したが、翌年二月に左将軍皇甫嵩に敗れ、混乱のさなか王国が死亡している《後漢書霊帝紀》。その後は諸将が権力を争って殺し合い、ついに部曲はばらばらになってしまった《後漢書董卓伝》。

混乱を利用して董卓が朝政の実権を握ったので、初平元年(一九〇)正月、山東で義兵が立ち上がった《後漢書献帝紀》。このころ馬騰は[ホウ]悳らを率いて羌族・[テイ]族の叛乱を平定しており《[ホウ]悳伝》、その功績によるものか、偏将軍に任じられている《馬超伝》。

董卓の死後、朝廷の実権は李[イ寉]・郭[シ巳]が掌握したが、初平三年(一九二)、馬騰・韓遂らは軍勢を率いて長安に参詣し、馬騰は征西将軍(あるいは征東将軍)に任じられて[眉β]に駐屯し、韓遂は鎮西将軍に任じられて涼州に帰還するよう命じられた《董卓・馬超伝》。

『董卓伝』『馬超伝』では初平三年に征西将軍になったとし、『典略』では初平年間に征東将軍になったとするが、『後漢書劉焉伝』『三国志同伝』では興平元年のとき征西将軍だったとあり、『典略』は誤りなのだろう。

興平元年(一九四)、馬騰は入朝したのち霸橋に進駐した。李[イ寉]に私心を通じようとしたが、聞き入れられなかったので腹を立てた《後漢書董卓伝》。そこで益州牧劉焉と手を結び《劉焉伝》、侍中(あるいは諫議大夫)馬宇・右中郎将(あるいは左中郎将)劉範・前涼州刺史[禾中]劭・中郎将杜稟らとともに李[イ寉]襲撃を計画し《後漢書[禾中]払・同董卓伝》、西州には食糧が少ないため池陽で調達したいと上表して、屯所を長平岸頭に移した《馬超伝》。

池陽は李[イ寉]の封地である。『典略』では李[イ寉]との抗争に触れていないが、池陽移駐を対李[イ寉]戦の一環とみて、ここに挿入する。

馬騰は何日ものあいだ李[イ寉]と戦ったが、勝負を決することはできなかった。それを聞いた韓遂が軍勢を率いて両者を和解させようとしたが、結局ふたたび馬騰に合流することになり、李[イ寉]は郭[シ巳]・樊稠・李利を出して長平観の下で馬騰らと戦わせた《後漢書董卓伝》。また長平の将軍王承らが馬騰に危害を加えられることを恐れ、馬騰が出陣して防備のなくなったところを攻撃したので、馬騰は潰走した《馬超伝》。劉範・[禾中]劭が戦死し、斬首数万余りを出す大敗であったが、韓遂が樊稠と同郷であったため逃れることができた《後漢書董卓伝》。

馬騰と韓遂は涼州に帰還すると、韓遂と義兄弟の契りを結んだが、しばらくしてお互いに攻撃しあうようになった《後漢書董卓伝・馬超伝》。韓遂は馬騰に攻撃されて敗走したが、軍勢を糾合して反撃し、馬騰の妻子を殺した《馬超伝》。そのころ馬騰の子馬超は、韓遂の小将閻行と一騎打ちを演じている《張既伝》。

曹操は山東で戦争を行っていたが、関中の混乱を憂慮し、鍾[ヨウ]を司隷校尉に任じて関中諸将を監督させた。鍾[ヨウ]は長安に赴任すると馬騰・韓遂に手紙を送り、利害を説いて子息を人質に出させた《鍾[ヨウ]伝》。鍾[ヨウ]や涼州牧韋端の仲介で韓遂と和解した馬騰は、召し返されて槐里に駐屯し、そこで前将軍・仮節・槐里侯となり、胡族や張白騎の侵入に備え、士人を厚遇して賢者を推挙し、民衆をいたわったので三輔地方の人々は非常に彼を愛した《馬超伝》。

前将軍補任をここに挿入したが、あるいは郭援らが敗北した後かも知れない。ソースの『典略』では建安初年、鍾[ヨウ]・韋端の仲介で韓遂と和解し、槐里に駐屯して前将軍に任じられた云々と続け、郭援の事件を記述しない。馬騰の官職および駐屯地の推移は、彼の生涯を通じて今一つはっきりせず、馬騰と鍾[ヨウ]とのやりとりも年代的に明瞭でない。

建安七年(二〇二)、袁譚・袁尚が高幹・郭援・匈奴単于を派遣して河東に侵略させた《荀[イク]伝・後漢書董卓伝》。馬騰と韓遂は彼らと内通していたが、鍾[ヨウ]が張既を派遣して馬騰らを説得し、また傅幹の説得もあって、馬騰は馬超・[ホウ]悳らに一万人を預けて鍾[ヨウ]を支援させたので、郭援らを破ることができた《鍾[ヨウ]・張既伝》。馬騰を征南将軍、韓遂を征西将軍に任じ、ともに幕府を開くことを許可した《後漢書董卓伝》。のちに張白騎・張[王炎]・衛固らの討伐にも馬騰は参加している《張既伝》。

十三年、曹操は荊州遠征にあたって、馬騰らが関中に割拠していることを危惧し、張既を派遣して部曲を解散して帰還するよう説得した。馬騰は承諾しつつも行動に移さなかったので、彼が心変わりすることを恐れた張既が諸県に命令書を送って食糧を用意し、太守を郊外まで出迎えさせたので、やむを得ず出立した《張既伝》。馬騰は朝廷に徴されて衛尉となり、馬超の弟馬休は奉車都尉、その弟馬鉄は騎都尉に任じられ、家族はみな[業β]に移住したが、馬超だけは留守に残して馬騰軍を宰領させた《馬超伝》。

十六年、馬超が韓遂・楊秋・李堪・成宜らと手を結んで叛乱を起こしたため《馬超伝》、翌十七年五月癸未、馬騰は三族皆殺しに処された《後漢書献帝紀》。

【参照】韋端 / 衛固 / 袁尚 / 袁譚 / 閻行 / 王国 / 王承 / 郭援 / 郭[シ巳] / 韓遂 / 高幹 / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 鍾[ヨウ] / 成宜 / 曹操 / [禾中]劭 / 張[王炎] / 張既 / 張白騎 / 程球 / 杜稟 / 董卓 / 馬宇 / 馬援 / 馬休 / 馬超 / 馬鉄 / 馬平 / 樊稠 / 傅幹 / 辺章 / [ホウ]悳 / 北宮伯玉 / 楊秋 / 李[イ寉] / 李堪 / 李文侯 / 李利 / 劉焉 / 劉範 / 益州 / 槐里県 / 河関 / 河東郡 / 関中 / [業β]県 / 荊州 / 山東 / 三輔 / 彰山 / 池陽県 / 長安県 / 長平観 / 長平岸頭 / 陳倉県 / 霸橋 / [眉β]県 / 枹罕 / 扶風郡 / 北地郡 / 茂陵県 / 涼州 / 右中郎将 / 衛尉 / 仮節 / 諫議大夫 / 騎都尉 / 軍司馬 / 軍従事 / 侯 / 左将軍 / 左中郎将 / 刺史 / 侍中 / 小将 / 司隷校尉 / 征西将軍 / 征東将軍 / 征南将軍 / 単于 / 前将軍 / 太守 / 治中従事 / 中郎将 / 鎮西将軍 / 偏将軍 / 奉車都尉 / 牧 / 夷(皆殺し) / 羌族 / 匈奴族 / 胡族 / 先零羌 / [テイ]族 / 府(幕府) / 部曲

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