三国志モバイル人物伝

[業β]Ye

ギョウ
(ゲフ)

[業β]城には七つの城門があり、そのうち鳳陽門・中陽門・広陽門の三つは南面にあった。真南に位置する中陽門は別名を章門ともいう。北門は玄武門といった《賈逵伝集解》。

城内には中常侍趙忠の邸宅があったが、その格式は身分を越えたもので、皇甫嵩の上奏により没収された。

建安九年(二〇四)二月(または三月)、袁尚が審配・蘇由を守備に残して遠征に出かけたので、曹操はその隙を突いて[業β]城を包囲した。曹操は蘇由・馮礼らを内応させて侵入しようとしたが、ことごとく審配に封じられた。五月、曹操は城の周囲に堀を作って[シ章]水を引き入れた。七月、袁尚が引き返してきて李孚を城内に潜入させ、包囲陣の内外から挟み撃ちにしようとしたが失敗、袁尚は曹操の攻撃を恐れて逃走した。八月までに城内では大半の者が餓死した。東門を守っていた審配の甥・審栄が曹操軍を導き入れたので陥落、審配は斬首された。

高幹が別働隊を派遣して[業β]を襲撃させたとき、それを察した荀衍は彼らをことごとく誅殺している。李典・臧霸・孫観・馬騰らは一族子弟を[業β]に移住させた。

【県侯】袁紹

【県令】甄邵 / 賈逵 / 楊沛

【典農】石苞

【県吏】趙元儒

【県人】霍 / 霍雋 / 李[コウ] / 台

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