三国志モバイル人物伝

朱霊Zhu Ling

シュレイ

(?〜?)
魏使持節・後将軍・高唐威侯

字は文博。清河国[兪β]の人《徐晃伝》。朱術の父《徐晃伝》。

はじめ袁紹の将軍であった。同郡の季雍という者が[兪β]県を挙げて叛逆し、公孫[王贊]が軍勢をやって彼を助けた。朱霊は袁紹の命を受けて季雍を討伐したが、敵は城内にいた朱霊の母と弟を人質にして朱霊を味方に誘った。朱霊は涙を流しながら「丈夫たる者、家を出て人に仕えたからには、また家を顧みることがあろうか」と言い、[兪β]城を攻め落として季雍を生け捕りにしたが、朱霊の家族はみな殺されてしまった《徐晃伝》。

曹操が陶謙を討伐したとき、袁紹の命により三つの陣営を率いて曹操を支援することになり、戦功を立てた。袁紹の将軍たちはみな帰還したが、朱霊だけは「多くの人物を観察してきたが曹公ほどの明君はなかった。もうどこへも行かぬ」と言って、そのまま曹操に仕えることにした。所属の兵も朱霊を慕い、彼と行動をともにした《徐晃伝》。

袁術が力を失い、袁紹を頼って徐州を通過しようとしたので、劉備・路招とともに袁術軍を掃討した。たまたま袁術が病死したので帰還したが、劉備は下[丕β]に留まって叛逆している《武帝紀・先主伝》。

曹操は冀州を平定すると、冀州の兵五千人と騎馬千匹を朱霊に与えて許都の南を守らせた。そのとき曹操は「冀州兵は今まで好き勝手を許されてきたのに、今は規律で縛られていて不満を抱いている。卿の名には威厳があるが、彼らを寛容に扱いなさい。さもなければ変事を起こしてしまうぞ」と朱霊に注意を与えていたが、彼が陽[タク]に着任すると、果たして中郎将程昂らが叛乱を起こした。朱霊は即座に程昂を斬って曹操に謝罪したが、曹操は[登β]禹の故事を引きながら彼を慰めた《徐晃伝》。

荊州平定戦にあたっては、于禁・張[合β]・路招らとともに都督護軍趙儼の管轄下に置かれた《趙儼伝》。

戦闘に参加することはなかったと推測される。このとき趙儼の管轄下にあった七人の将軍たちには荊州平定の功績が記録されていない。このとき楽進・徐晃が戦功を挙げているが趙儼管轄ではなかった。

建安十六年(二一一)に馬超が叛逆して潼関に布陣すると、朱霊と徐晃は夜中に蒲阪津で黄河を西に渡り、陣営を築いて曹操を迎えた。朱霊らが布陣していたため、馬超は黄河西岸に進出することができなかった《武帝紀》。さらに夏侯淵に従って[β兪]麋・[シ幵]の[テイ]族を平定する《夏侯淵伝》。同年十二月、夏侯淵・朱霊・路招らを長安に残し、曹操は[業β]に帰還した《夏侯淵伝》。

同二十年三月、曹操に従って張魯を征討する。このとき軍は陳倉から武都を経て漢中に入ることになったが、[テイ]族が道路を封鎖して進軍を阻んだ。朱霊は張[合β]らとともに[テイ]族の軍勢を撃破した《武帝紀》。夏侯淵は張[合β]・徐晃らとともに漢中に駐留したが、劉備軍に襲撃されて戦死した《夏侯淵伝》。

曹操は朱霊を憎むようになり、彼の軍勢を没収しようと考えた。そこで于禁に命令を授けると、于禁は数十騎を率いて朱霊の陣営に乗り込み、彼の軍勢を召し上げてしまった。朱霊は彼の威厳に恐れをなして抵抗しようとはしなかった。こうして朱霊は于禁の下に配属されることになった《于禁伝》。しかし于禁は曹仁救出のため樊城に向かい、大雨のため陣営が水没して関羽に捕らえられてしまう《于禁伝》。

この事件がいつごろのことかはっきりしないが、これまで朱霊は徐晃・張[合β]らとともに夏侯淵に属していたので、夏侯淵の危難を救うことができなかったことが曹操の恨みを買ったのではないかと考える。

朱霊は徐晃に次ぐ名声を得て、官は後将軍にまで昇った。群臣が漢朝からの禅譲を受けるよう魏王曹丕に勧めたとき、朱霊は使持節・後将軍・華郷侯であった《文帝紀集解》。曹丕は帝位に上ると彼を[兪β]侯に取り立てたが、朱霊の希望により高唐侯に転封した《徐晃伝》。

張遼・楽進・于禁・張[合β]・徐晃の五人は魏志十七巻にまとめて立伝され、いずれも名将として名高かったが、曹操が魏王になったとき将軍になったのは楽進・于禁の二人だけであった。張遼・張[合β]・徐晃がそれぞれ呂布・袁紹・楊奉の旧臣であったため未だ心情的に曹操と距離があり、なおかつ「不臣の礼」が取られたものと思われる。「不臣の礼」については『夏侯惇伝』に見える。曹丕が王位に即いたとき、張遼が前将軍、張[合β]が左将軍、徐晃が右将軍に任じられたが、朱霊もまた後将軍に任命され、漢朝からの禅譲を受けるよう曹丕に勧めている《集解》。原文では「朱霊は徐晃等に次ぐ名声を得た」とあり、『集解』が「等」を衍字として削っているが、これは『集解』の誤りで、朱霊が張遼以下五人の名声に次いだというのが陳寿の文意だったのではなかろうか。朱霊が高唐侯へ国替えを願い出たのは、故郷[兪β]県の住民が朱霊の家族を皆殺しにしてしまったからだろう。

太和二年(二二八)秋、大司馬曹休が[番β]陽太守周魴の偽りの降服を信じて孫権の領土に深く侵入した。曹休は石亭で陸遜らに敗北して撤退しようとしたが、敵軍が夾石で退路を遮断しようとしていた。ちょうど朱霊が北方から到着したので敵軍は逃走し、曹休は帰還することができた《満寵伝》。

朱霊は亡くなると威侯と諡された《徐晃伝》。正始四年(二四三)、朱霊は太祖の廟に合祀される《三少帝紀》。

太祖廟に合祀された功臣のうち、唯一朱霊だけが『三国志』に立伝されていない。そのため実際の地位・功績は張遼らに匹敵しながら、一般に名を知られていないのは残念なことである。

【参照】于禁 / 袁術 / 袁紹 / 夏侯淵 / 関羽 / 季雍 / 公孫[王贊] / 朱術 / 周魴 / 徐晃 / 曹休 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 孫権 / 張[合β] / 張魯 / 趙儼 / 程昂 / 陶謙 / [登β]禹 / 馬超 / 陸遜 / 劉備 / 路招 / 華郷 / 下[丕β]国 / 漢中郡 / 魏 / 冀州 / 許県 / [業β]県 / 荊州 / [シ幵] / 夾石 / 黄河 / 高唐県 / 徐州 / 清河国 / 石亭 / 長安県 / 陳倉県 / 潼関 / [番β]陽郡 / 樊城 / 武都郡 / 蒲阪津 / [兪β]県 / 渝麋県([β兪]麋) / 陽[タク]県 / 威侯 / 王 / 郷侯 / 侯 / 後将軍 / 使持節 / 将軍 / 大司馬 / 太守 / 中郎将 / 都督護軍 / 諡 / [テイ]族

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