三国志モバイル人物伝

郭[シ巳]Guo Si

カクシ
(クワクシ)

(?〜197)
漢車騎将軍・開府・美陽侯

張掖の人。「郭氾」とも書き、また別名を「郭多」という《董卓伝・後漢書同伝》。

郭[シ巳]は董卓の校尉となり、李[イ寉]・張済らとともに牛輔に属して陝に駐屯し、中牟で朱儁を破ったのち、軍勢を出して陳留・潁川の諸県を荒らしまわっていた《董卓伝・後漢書朱儁伝》。

初平三年(一九二)四月、董卓が司徒王允・呂布らに殺され、牛輔も部下に殺されると、郭[シ巳]らは軍勢を解散して郷里に帰ろうとしたが、賈[言羽]が「諸君らが一人で行くなら一介の亭長でも捕まえられるぞ。軍勢をまとめて長安を攻撃し、董公(董卓)の敵討ちをするのがよろしい」と告げると、郭[シ巳]らはこれに賛同した《董卓・賈[言羽]伝》。

郭[シ巳]らは長安に向かって西上しながら、みちみち軍勢を拾い集め、長安に着くころには十万人以上にふくれあがった。やはり董卓の部曲であった樊稠・李蒙・王方ら、また楊定・胡軫も合流して長安を包囲した《董卓伝・後漢書同伝》。郭[シ巳]は長安城を北側から攻撃していたが、呂布が軍勢を押し出して「軍勢を下げよ。一対一で勝負しよう」と言ったので、これに応じて呂布と戦い、矛を突き立てられたが、部下に助けられた《呂布伝》。

六月、十日間の戦闘で長安は陥落し、郭[シ巳]は李[イ寉]らとともに入城し、多くの高官を殺害した。天子が王允とともに宣平門に昇ったのを見て平伏し、「何をしようとしているのか?」との下問に、「董卓の敵討ちをしたいだけで、叛逆するつもりはございませぬ」と答えた。王允は進退窮まって城門から降りたが、郭[シ巳]は王允を一族十人あまりとともに殺害した《董卓伝》。

こうして大赦令を出させ、李[イ寉]は揚武将軍、郭[シ巳]は揚烈将軍、樊稠らは中郎将を自称した。[眉β]城で董卓の葬儀を行ったのち、九月、さらに李[イ寉]は車騎将軍・池陽侯・領司隷校尉・仮節となり、郭[シ巳]は後将軍・美陽侯、樊稠は右将軍・万年侯となり、朝政を専断した。張済は鎮東将軍・平陽侯となって陝に駐屯している《董卓伝・後漢書同伝》。

興平元年(一九四)三月、馬騰・韓遂らが長安に攻め寄せると、郭[シ巳]は樊稠・李利らとともに長平観で迎撃し、一万人余りを斬った。八月、樊稠とともに馮翊郡の羌族を撃破した。帰還すると郭[シ巳]・樊稠も開府の資格を加えられ、人事選抜にも参与するようになった《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

李[イ寉]はしばしば郭[シ巳]を招いて酒宴を開くことがあったが、郭[シ巳]を陣営に宿泊させて帰さないこともあった。郭[シ巳]の妻は、郭[シ巳]が李[イ寉]から婢妾を与えられて自分への愛が奪われるのではないかと思い、二人を仲違いさせようとした。李[イ寉]から食膳が贈られたとき、妻は味噌をこねて薬に見せかけ、郭[シ巳]が食べようとしたとき取り出して見せた。「一つの巣に二羽の雄鳥は並び立ちません。将軍が李公を信頼なさるのを疑っておりました」という妻の言葉を聞いた郭[シ巳]は、後日、李[イ寉]に招かれて泥酔し、毒薬を飲まされたのではないかと疑った。こうして二人は仲違いした《董卓伝》。

翌二年三月、郭[シ巳]は自分の陣営に天子を引き入れようと計画したが、配下の者が逃亡して李[イ寉]に告げたので、李[イ寉]は兄の子李暹に天子を脅迫して連れてこさせ、北塢に軟禁した。天子は大尉楊彪・司空張喜ら十人余りを使者として二人を和解させようとしたが、郭[シ巳]の方でも彼らを拘束し、李[イ寉]を攻撃しようと計画した。楊彪に「一方は天子を誘拐し、一方は公卿を人質にする。なんでそんなことをするのだ」と言われたので、郭[シ巳]は激怒して彼を殺そうとしたが、中郎将楊密たちが諫めたので手を止めた《董卓伝》。

四月、李[イ寉]の部将張苞・張龍は郭[シ巳]と通謀しており、夜間、郭[シ巳]の軍勢が李[イ寉]陣営を攻撃すると、家屋に放火して軍勢を迎え入れた。郭[シ巳]軍が放った矢は天子の御簾の中まで飛んできた《後漢書董卓伝》。

天子は謁者僕射皇甫[麗β]を使者として李[イ寉]・郭[シ巳]を和解させようとした。郭[シ巳]はその勅命を受け入れたが、李[イ寉]は「郭[シ巳]は馬泥棒に過ぎないのに、どうして吾らと一緒になろうとするのか。それに郭[シ巳]は公卿を誘拐してるではないか」と言い、皇甫[麗β]が「郭[シ巳]は張済・楊定らと通謀し、政府高官も頼りにしております」と言うのも聞き入れなかった《董卓伝》。

郭[シ巳]と李[イ寉]はお互いに何ヶ月にも渡って攻撃しあい、死者は一万人を越えた《董卓伝》。

李[イ寉]は楊奉・宋果らの叛乱によって衰退したので、六月、陝から上京してきた張済の仲介によって郭[シ巳]と和解し、弘農の曹陽亭に駐屯した。七月、天子は洛陽に帰還したいと思い、即日長安を出立することにした。宣平門の橋を渡ろうとしたとき、郭[シ巳]の手勢数百人が行く手を遮って「これは天子か?」と問うた。天子が「なぜ至尊に迫ろうとするのだ?」と言ったので、郭[シ巳]の手勢は道を開けた《董卓伝》。

張済は驃騎将軍となって陝に帰還し、郭[シ巳]も車騎将軍に昇進した。八月、御車は郭[シ巳]・楊定・楊奉・董承らに守られて新豊・霸陵のあたりに到達したところ、郭[シ巳]は再び天子を誘拐して[眉β]に遷そうと計画したが、楊奉・楊定・董承はそれに反対した。十月、郭[シ巳]は部将五習に御車のある場所を焼き討ちさせたが、楊奉が天子を陣営に迎え入れて迎え撃ったので、郭[シ巳]は敗走して南の山に入った《董卓伝・後漢書献帝紀・同董卓伝》。

李[イ寉]もまた天子を手放したことを後悔していたので、郭[シ巳]と手を結んで一緒に追いかけていった。張済も楊奉・董承と仲違いし、李[イ寉]・郭[シ巳]に合流し、十一月、弘農の東の谷間で戦闘となった。楊奉は白波賊の韓暹・胡才・李楽らを迎え入れて迎撃させたが、十二月、弘農の曹陽亭で大合戦のすえ敗北した。李[イ寉]・郭[シ巳]らは兵士を放って公卿百官を殺し、宮女を誘拐した。《董卓伝・後漢書同伝》。

御車が陝から黄河を渡って安邑に到達すると、太僕韓融は弘農に赴き、李[イ寉]・郭[シ巳]らと講和し、公卿百官・宮女および車馬数乗を返還させた《董卓伝》。

建安二年(一九七)、李[イ寉]は謁者僕射裴茂に誅殺され、郭[シ巳]も部下の五習に襲われて[眉β]城で死んだ。張済は南陽で略奪を働いたため住民に殺害された《董卓伝》。

【参照】王允 / 王方 / 賈[言羽] / 韓遂 / 韓暹 / 韓融 / 牛輔 / 五習 / 胡才 / 胡軫 / 皇甫[麗β] / 朱儁 / 宋果 / 張喜 / 張済 / 張苞 / 張龍 / 董承 / 董卓 / 馬騰 / 裴茂 / 樊稠 / 楊定 / 楊彪 / 楊奉 / 楊密 / 李楽 / 李暹 / 李[イ寉] / 李蒙 / 李利 / 劉協(天子) / 呂布 / 安邑県 / 潁川郡 / 黄河 / 弘農郡 / 新豊県 / 陝県 / 宣平門 / 曹陽亭 / 中牟県 / 池陽県 / 長安県 / 張掖郡 / 長平観 / 陳留郡 / 南陽郡 / 霸陵県 / [眉β]県 / 美陽県 / 馮翊郡 / 平陽県 / 北塢 / 万年県 / 洛陽県 / 右将軍 / 謁者僕射 / 仮節 / 侯 / 校尉 / 後将軍 / 司空 / 司徒 / 司隷校尉 / 車騎将軍 / 大尉 / 太僕 / 中郎将 / 鎮東将軍 / 亭長 / 驃騎将軍 / 白波賊 / 府 / 領

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。