三国志モバイル人物伝

北宮玉Beigong Yu

ホッキュウギョク

北宮伯玉

北宮伯玉Beigong Boyu

ホッキュウハクギョク

(?〜186)
漢湟中義従

湟中月氏胡の種族で湟中義従となった《後漢書西羌伝》。「北宮玉」とも書く《武帝紀》。

涼州刺史耿鄙が信任した治中従事程球は不正を働き、多くの人々の恨みを買っていた《後漢書傅燮伝》。中平元年(一八四)冬、北地郡の先零羌が枹罕・河関の盗賊どもとともに叛逆し、湟中義従の北宮伯玉・李文侯を擁立して将軍とし、護羌校尉伶徴を殺害した。北宮伯玉らは故(もと)の新安県令辺章・金城従事韓遂らを誘拐して軍帥として軍政を任せ、一緒になって金城太守陳懿を殺し、州郡に放火した《後漢書董卓伝》。

翌二年春、北宮伯玉らの軍勢は数万騎にも上り、表向きは宦官を誅殺するのだと言いながら、三輔地方になだれ込んで園陵を脅かした。詔勅によって左車騎将軍皇甫嵩・中郎将董卓が討伐にあたったが、皇甫嵩は功績を挙げられずに罷免された。こうして辺章・韓遂らはますます勢いづいた《後漢書董卓伝》。

八月、朝廷では張温を車騎将軍・仮節に任じて、執金吾袁滂を副将とし、破虜将軍に任じられた董卓、盪寇将軍周慎らを統率させ、諸郡から集めた歩騎十万人余りの軍勢を美陽に駐屯させ、園陵を守らせた。辺章・韓遂のほうでも軍勢を美陽まで進め、張温らと戦って勝利した。しかし十一月のある夜、尾が十丈余りもある火のような流星が落ち、辺章・韓遂の陣営を明るく照らして馬を激しくいななかせた。辺章らは不吉だと思って金城に帰ろうとしたが、それを聞いた董卓・鮑鴻らの追撃を受けて数千人が首を打たれた《後漢書董卓伝》。

辺章らが敗走して楡中城に楯籠ると、張温は周慎に三万人を預けて追討させた。参軍事孫堅が「賊の補給路を絶て」と諫めるのも聞かず、周慎は楡中城を包囲した。辺章・韓遂らは軍勢を分割して、葵園峡に進出して周慎の補給路を絶ちきった。周慎は恐怖を抱き、輜重車を棄てて逃走した《後漢書董卓伝》。

一方、張温は董卓にも三万人を預けて先零羌を討伐させていたが、董卓は望垣の北で羌族・胡族に包囲され、兵糧も乏しくなってしまった。そこで漁をするふりをして川の渡し場に堰を作り、その密かに堰の下から軍を渡らせた。賊軍が追いかけてくると堰を決壊させたので、軍勢を傷付けることなく逃れることができた《董卓伝・後漢書同伝》。

張温らは軍勢を長安に返して駐屯し、三年春には大尉に任じられたが、同年冬、京師(みやこ)に徴し返された。そのころ北宮伯玉は辺章・李文侯らとともに韓遂に殺害された《後漢書董卓伝》。

【参照】袁滂 / 韓遂 / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 周慎 / 孫堅 / 陳懿 / 程球 / 董卓 / 辺章 / 鮑鴻 / 李文侯 / 伶徴 / 園陵 / 河関県 / 葵園峡 / 金城郡 / 湟中 / 三輔 / 新安県 / 美陽県 / 枹罕県 / 望垣県 / 北地郡 / 楡中県 / 涼州 / 県令 / 護羌校尉 / 左車騎将軍 / 参軍事 / 刺史 / 執金吾 / 車騎将軍 / 従事 / 大尉 / 太守 / 治中従事 / 中郎将 / 盪寇将軍 / 破虜将軍 / 仮節 / 宦官 / 月氏 / 湟中義従 / 先零羌 / 流星

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