三国志モバイル人物伝

審配Shen Pei

シンパイ

(?〜204)
漢冀州別駕従事

字は正南。魏郡陰安の人。陳球の故吏であった《袁紹伝集解》。

若いころより忠烈慷慨の士で、犯すべからざる節義を持っていた《袁紹伝》。その正直さのため、鉅鹿の田豊とともに韓馥に疎まれていたが、袁紹が冀州を領したとき、非常に信頼されて腹心の任務を委ねられ、治中従事となるとともに袁紹の幕府を総攬した《袁紹伝・後漢書同伝》。

建安三年(一九八)、曹操はついに袁紹と対立することになった。彼の元にいた孔融は「審配・逢紀は尽忠の臣であり、その事務を担当している。勝つのは難しかろうな!」と荀[イク]に語ったが、荀[イク]は「審配は専制的だが計略がなく、逢紀は行動力があるが自分の事しか考えない。その二人が留守として後方を仕切っているのだ。もし許攸の家族が法を犯したならば、きっと放ってはおけまい。放っておかねば許攸は必ず変事を起こすだろう」と答えている《荀[イク]伝》。

同五年、袁紹は精鋭十万人と騎兵一万人の軍勢を催し、審配・逢紀には軍事を統べさせ、田豊・荀[言甚]・許攸を謀主とし、顔良・文醜を将帥として許を攻めんとした《袁紹伝》。

沮授は主張する。「まず黎陽に進駐して、それからゆっくり黄河南岸に漸進しましょう。精鋭騎兵を分遣して辺境を荒らし回らせ、彼らを不安に陥れます。三年のうちに平定できましょう」、と。審配は郭図とともに「兵書に十倍なら囲み、五倍なら攻め、互角なら全力で戦えとあります。いま明公の神武、河北の強兵でもって曹氏を伐つのですから、掌を返すがごとくたやすきもの。今すぐ取らねばあとあと難しいことになりますぞ」と反論した《袁紹伝》。

沮授「義兵は無敵ですが驕兵は真っ先に滅びますぞ。曹氏は天子をお迎えして許都に宮殿を築いている。いま軍勢をこぞって南進するのは義に背くものであります。それに勝利を決する策略は強弱にあるのではない。曹氏の法令は行き届き、士卒は精練、公孫[王贊]がなすすべなく包囲されていたのとは違いますぞ。万全の策を棄てて名分のない兵を起こすとは…」、審配ら「武王が紂を征伐したのを不義とは言わぬ。ましてや曹氏に兵を差し向けるのが名分なしと言うのか!そもそも天の与うるを取らざればかえってその咎を受くもの。監軍(沮授)の計略は堅固さを求めるもので、時機をみて変化する計略ではございません」《袁紹伝》。

袁紹軍は官渡において曹操軍と対峙し、そのまま百日余りが経過した。許攸は「曹操の軍勢は少ないうえ全軍こぞって我が軍を防いでおり、許の城下に残っているのは足弱の者ばかりのはず。もし軽騎兵を分遣して背後を襲撃すれば、許を陥落させて曹操を生け捕りにすることもできましょう。仮に陥落させられないとしても、前後から翻弄することになり、彼らを撃破できること間違いありません」と進言したが、袁紹は聞き入れなかった。ちょうどそのころ許攸の家族が法を犯したので、審配は彼の妻子を逮捕した。許攸は思いを遂げられず、曹操の元に出奔した《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁紹軍は官渡の戦いに敗れ、審配の子息二人が曹操に捕らえられた。孟岱は審配と仲が悪かったので、蒋奇に言い含めて袁紹に言上させた。「審配は専政できる官位にあり、宗族は多くて軍勢は強く、そのうえ子息二人が南方にいるのです。必ず叛意を抱くでありましょう」。郭図・辛評もその通りだと主張したので、袁紹は孟岱を監軍とし、審配の代わりに[業β]を守らせることにした。護軍逢紀は審配と仲が悪かったのであるが、「審配は生まれついての烈直であり、発言や行動をするたび古人の節義を慕っております。子息二人が南方にいるからといって不義とは言えません。公よ、お疑い召されるな」と審配を称えたので、袁紹は審配の罷免を取り止めた。審配・逢紀はこれにより協力しあうようになった《後漢書袁紹伝》。

この一件に見えるように、審配は南征軍に随行せず[業β]に残っていた。かつ袁紹の幕府を総攬していたのであるから、ほぼ確実に兵糧輸送の任務に当たっていたものと思われる。孟岱は、この戦いで落命した淳于瓊の軍権を引き継いだのである。これは[業β]における審配の権限を取り上げるためには、それだけの軍事力が必要であったことを示唆する。

七年五月、袁紹が薨去したが、まだ後継者が決まっていなかった。審配・逢紀はかねてより傲慢・奢侈を袁譚に憎まれており、辛評・郭図はみな袁譚と親しく、審配・逢紀とは仲が悪かった。人々は年長の袁譚を擁立したく思っていたが、審配らは袁譚が立てば辛評に危害を受けるであろうと心配し、袁紹の遺書を偽作して袁尚を後継者に迎えた。袁譚は到着しても後継者になれず、車騎将軍を自称して黎陽に駐屯した。これにより袁譚・袁尚は仲違いしたのである《袁紹伝・後漢書同伝》。

九月、曹操が黎陽に進出して袁譚を攻撃すると、袁譚は袁尚に危急を告げた。袁尚は[業β]に審配を残し、軍勢を率いて自ら袁譚を救援した《武帝紀・袁紹伝》。翌年二月まで城下で戦ったが、袁譚・袁尚が敗走したので、曹操は南方に引き揚げようとした。袁譚は「我が軍の甲冑は精巧でなく、そのため曹操に負けたのだ。いま曹操軍が引き揚げようとしており、人々は帰郷の念にかられている。まだ黄河を渡りきらぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ」と袁尚に告げたが、袁尚は彼を疑って許可を出さなかった。袁紹はわずかな兵しか袁譚に与えず、そのうえ逢紀を袁譚に付けて(監視役とし)、袁譚が増兵を求めても、審配らが共謀して兵を与えなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

郭図・辛評が激怒する袁譚に「先公(袁紹)が将軍を外に出したのは、みな審配の差し金ですぞ」と告げると、袁譚もその通りだと思い、逢紀を殺し、軍勢を率いて袁尚を外門において攻撃した。しかし袁譚は敗北し、軍勢をまとめて南皮に引き揚げた《袁紹伝・後漢書同伝》。袁尚は別駕審配を[業β]の守備に残し、軍勢を出して平原を厳しく攻め立てた《袁紹・賈逵伝》。審配は袁譚に手紙を送り、「むかし先公は将軍を廃嫡して賢兄の後を継がせ、我が将軍を立てて跡継ぎとなされました。先公が将軍を兄の子をおっしゃられ、将軍も先公を叔父とお呼びしていたことは、海内において遠きも近きも知らぬ者がございましょうか?」と言っている《袁紹伝》。

別駕従事の田豊は袁紹に殺害されていたため、審配はその後任として別駕従事になったのだろう。任官時期は田豊の死んだ直後なのか、袁尚に代替わりしたあとなのか分からない。

十月、袁譚に救援を求められた曹操が黎陽に着陣したので、袁尚は平原包囲を解いて[業β]へと引き返した。曹操がまた撤退したので、翌九年二月(または三月)、袁尚は審配・蘇由を[業β]の守備に残し、ふたたび平原の袁譚を攻撃した《武帝紀・袁紹伝》。

曹操が[業β]を攻略せんと[シ亘]水まで軍勢を進めてきたので、蘇由が内応しようとした。その計画が発覚して城内で戦闘となり、審配は蘇由を打ち負かして城外に追い出した。曹操がそのまま進軍して地道を作ると、審配の方でも城内で塹壕を掘って対抗した。審配の将馮礼が突門を開いて曹操軍三百人を引き入れたが、審配がそれを察知して城郭の上から大きな石を落としたので、門が閉ざされて侵入者はみな死んだ《袁紹伝・後漢書同伝》。

武安の県長尹楷が毛城に屯して上党からの兵糧を繋いでいたので、四月、曹操は[業β]攻囲に曹洪を残して尹楷を駆逐した《武帝紀》。五月、曹操は土山・地道を破棄して包囲陣を完成させ、周囲四十里にわたって塹壕を掘ったが、飛び越えられるほど浅かったので、審配はそれを笑うばかりで妨害しようとはしなかった。曹操は一晩のうちに一気に掘り上げ、幅も深さも二丈にし、[シ章]水を引き入れて城を水浸しにした。五月から八月までに城内では大半の者が餓死した《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。

曹操は当初、城内に味方を作っておいて一気に攻め込むつもりであったが、それが難しいことを知り、兵糧攻めに方針を転換したのである。兵糧を供給していた尹楷を倒したのもその一環。また長期戦となれば、袁尚の援軍が背後を脅かすことを心配しなければならないが、深い塹壕を掘ったのはその解決策でもある。城内の兵を封じ込めて後顧の憂いをなくした上で、袁尚軍には全力をぶつけることができるという考えである。

七月、袁尚は[業β]の危機を知り、軍勢一万人余りを率いて西山沿いに救援に駆けつけ、[業β]まで十七里、[シ釜]水の手前で松明をかかげて知らせると、城内でも松明をかかげた。審配は城北に出撃して包囲陣を袁尚と挟み撃ちにしようとしたが、曹操の反撃を受けて城内に引き返した。曹操が曲[シ章]の袁尚陣営を包囲しようとしたので、袁尚は恐怖を抱き、陰[キ]・陳琳を使者として降服を求めたが、曹操はそれを許さず、さらに包囲を固めようとした。袁尚は夜中に藍口に逃走し、さらに祁山に楯籠ったが、曹操の追撃に馬延・張[豈頁]らが投降したので、袁尚軍は大潰滅して中山へと逃走した。曹操軍が戦利品を見せびらかしたので、城内では意気消沈した《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》

審配は士卒たちに命令した。「堅守して命がけで戦え。曹操軍は疲労しているし、幽州勢がもうすぐ来るから主君がいないと心配することはないぞ!」。曹操が包囲陣の視察に出てきたので、審配の伏兵が彼に向けて弓弩を発射した。もうすぐ命中するところであった。審配は兄の子審栄を東門校尉としていたが、八月、審栄は夜中に城門を開いて曹操軍を引き入れた。審配は東南角の矢倉の上にいて曹操軍が侵入するのを見つけ、辛評・郭図が冀州を台無しにしてしまったと怒り、獄舎に人をやって辛評の家族を殺させた。審配は城内で抗戦したが生け捕りにされた《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。

審配が帳下に連れてこられると、辛評の弟辛毘が彼を出迎えて、馬の鞭で彼の頭を叩きながら「奴め、お前は必ず今日死ぬのだ」と罵った。審配は振り返りながら「狗め、お前の仲間のせいで我が冀州は破れたのだ。お前を殺せないのが心残りだよ!それにお前は今日、我を殺したり生かしたりできるのかね?」と言い返す《袁紹伝》。

しばらくして曹操が彼を引見した。曹操「誰が卿の城門を開いたかご存じかね?」、審配「知らぬが」、曹操「卿の子審栄なのだぞ」、審配「小僧め、役立たずぶりはここまで来たか!」。曹操はまた告げた。「先日、孤が包囲したとき、どうして弓弩をたくさん撃ったのかね?」、審配「それが少なかったのが残念だ!」、曹操「卿は袁氏父子に忠義であったので、そうせざるを得なかったのだろう」。(曹操は)心中、彼を生かしておきたく思っていたが、審配の意気は壮烈で最後まで屈服せず、また辛毘らが号泣してやまなかったので、とうとう彼を殺すことにした。それを見て歎息しない者はなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

冀州の張子謙が一足早く降服していたが、平素より審配とは仲が悪かった。張子謙が笑いながら「正南よ、卿は結局どれくらい我より優れておりますかな?」と言うと、審配は声を荒げて「お前は降人、審配は忠臣だ。たとい死んだとて、お前のように生きのびたりするものか!」と答えた。処刑が目前に迫ると、審配は刀を持った者を叱りつけ、(自分を)北に向かせつつ言った。「我がご主君は北におるのだ!」、と《袁紹伝》。

張子謙というのは張[豈頁]のことではないだろうか。

袁氏の政治は放漫で、官職にある権勢者の多くが蓄財に励んでいた。曹操は[業β]を陥落させたとき、審配らの家財・物資を没収したが、それは万単位に上った《王脩伝》。曹操が出した布令に言う。「袁氏の統治では、豪強には好き勝手させ、親戚には兼併させていた。下層の民衆は貧弱なのに租税賦役の供出を肩代わりし、家財を路上で売りに出しても命令に応じるには不足した。審配一門は罪人どもを隠匿し、逃亡者の君主になるまでに至った。百姓たちを懐かせて武装兵を盛強にしたいと思っても、どうして可能であろうか!」《武帝紀》。

【参照】尹楷 / 陰[キ] / 殷紂王(紂) / 袁基(袁紹の兄) / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 郭図 / 韓馥 / 顔良 / 許攸 / 公孫[王贊] / 孔融 / 周武王(武王) / 荀[イク] / 荀[言甚] / 沮授 / 蒋奇 / 辛毘 / 辛評 / 審栄 / 蘇由 / 曹洪 / 曹操 / 張[豈頁] / 張子謙 / 陳球 / 陳琳 / 田豊 / 馬延 / 馮礼 / 文醜 / 逢紀 / 孟岱 / 劉協(天子) / 陰安邑 / [シ亘]水 / 外門 / 河北 / 官渡 / 魏郡 / 祁山 / 冀州 / 許県(許都) / [業β]県 / 曲[シ章] / 鉅鹿郡 / 黄河 / [シ章]水 / 上党郡 / 中山国 / 南皮県 / 武安県 / [シ釜]水 / 平原郡 / 毛城 / 幽州 / 藍口 / 黎陽県 / 監軍 / 県長 / 護軍 / 車騎将軍 / 治中従事 / 東門校尉 / 別駕従事 / 故吏 / 突門 / 幕府 / 謀主

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