三国志モバイル人物伝

文醜Wen Chou

ブンシュウ
(ブンシウ)

(?〜200)

袁紹の大将・将帥《後漢書袁紹伝》。

建安四年(一九九)、袁紹は精兵十万人・騎馬一万匹を選りすぐり、許を攻撃せんと企て、審配・逢紀に軍事を統括させ、田豊・荀[言甚]・許攸を謀主(参謀長)とし、顔良・文醜を将帥とした《後漢書袁紹伝》。文醜は顔良とともに袁紹軍の名将として知られており《武帝紀》、このとき曹操のもとにいた孔融は「顔良・文醜の武勇は三軍に傑出しており、(彼らが)袁紹の軍勢を統率しているのだから、勝つことは難しかろう」と評している《後漢書荀[イク]伝》。

翌二年二月、袁紹は顔良らに白馬城を包囲させたが、顔良は曹操の手の関羽・張遼に敗れて死んだ《武帝紀・関羽伝》。曹操が白馬の軍勢を引き揚げて西方に移動したので、袁紹軍は黄河を渡って延津南岸の砦を占拠し、文醜が劉備とともに騎兵五・六千人を率いて曹操を追撃した《武帝紀・荀攸伝》。

ちょうど白馬城からの輜重隊が曹操陣営に入ろうとしたので、文醜は軍勢を分割して輜重隊を襲撃させた。そこで曹操は攻撃命令を出した。徐晃らの活躍もあり、文醜は陣形が乱れていたため戦死した《武帝紀・荀攸・徐晃伝》。これに先立って荀[イク]が「顔良・文醜は匹夫の勇に過ぎず、一度の戦いで手取りにできよう」と語っていた通りになった《荀[イク]伝》。

【参照】袁紹 / 関羽 / 顔良 / 許攸 / 孔融 / 荀[イク] / 荀[言甚] / 徐晃 / 審配 / 曹操 / 張遼 / 田豊 / 逢紀 / 劉備 / 延津 / 許県 / 黄河 / 白馬県 / 将帥 / 謀主

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。