三国志モバイル人物伝

辛評Xin Ping

シンピョウ
(シンピヤウ)

(?〜?)

字は仲治であろうか《袁紹伝》。潁川郡陽[タク]の人。辛毘の兄《辛毘伝》。

袁紹が冀州牧に就任したとき、辛評は弟辛毘を連れて袁紹に仕え、荀[イク]・荀[言甚]・郭図らとともに袁紹に任用された《辛毘伝》。しかし郭嘉は、辛評・郭図に「袁公は人物任用の機微を知らず、霸王の功業を成し遂げるのは難しかろう」と言って立ち去り、荀[イク]もまた去った《荀[イク]・郭嘉伝》。

官渡の戦いに敗れると、審配の子息二人が曹操に捕らえられた。孟岱は審配と仲が悪かったので、蒋奇に言い含めて「審配は専制的な立場にいて一族も多くて軍勢も強く、しかも子息二人が南方にいるのですからきっと叛逆の心を抱きましょうぞ」と言上させた。辛評は郭図とともにその意見に賛成した。しかし袁紹は逢紀の諫めを受け入れ、審配を罷免しなかった《後漢書袁紹伝》。

辛評・郭図は審配・逢紀と権力争いをしていて袁譚と親しく、審配らは袁尚と親しかった。建安七年(二〇二)五月に袁紹が亡くなると、審配らは辛評らの危害を受けることを恐れ、袁尚を擁立して後継者とした。袁譚は車騎将軍を自称して黎陽に駐屯したが、これにより袁譚・袁尚は仲違いすることになった《袁紹伝》。

九月、曹操が北進して袁譚・袁尚を征討せんとした。袁譚は黎陽で防戦し、袁尚はみずから彼を救援した。城下での激しい戦いは翌年二月まで続いたが、袁譚らは敗走して城内に楯籠り、曹操が包囲しようとすると夜中に逃走した《袁紹伝》。曹操は[業β]まで追撃して陰安を陥落させたが《袁紹伝》、郭嘉が「袁紹は二人の子を愛して後継者を定めず、郭図・逢紀がその謀臣となっておりますから、泳がせておけば争いの心を生じさせるでしょう」と述べたので軍勢を引き揚げた《郭嘉伝》。

袁譚が「我が軍は武装が充分でなかったため以前の戦いで負けたのだ。いま曹操軍が引き揚げておるが、人々は帰郷心にかられている。渡河の終わらぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ」と言ったが、袁尚は彼の真意を疑い、装備の新調も兵士の増員も承知しなかった。袁譚が激怒したところ、辛評は郭図とともに「先公(袁紹)が将軍を追い出して兄(袁基)の後継者にしたのは、みな審配の差し金ですぞ」と言上した。袁譚はその通りだと思った《後漢書袁紹伝》。

袁譚は軍勢を率いて外門で袁尚を攻めたが、敗北して南皮に帰った。袁尚が審配に[業β]の留守を任せて彼を追撃すると、袁譚は平原に入り、辛毘を使者に立てて曹操に救援を求めた《後漢書袁紹伝》。

九年五月、袁尚の不在を衝いて曹操が[業β]城を包囲した。八月、審配の甥審栄が夜中に東門を開いて曹操軍を導き入れると、審配は辛評・郭図のせいで陥落してしまったのだと怒り、牢獄に閉じこめていた仲治(辛評)の家族を殺した。このとき辛毘は曹操軍に従軍しており、開門と同時に駆け込んだが兄の家族を救い出すことはできなかった《袁紹伝》。

辛評は袁兄弟を仲違いさせたあとの消息が知れない。辛毘が曹操に従軍している以上、最後まで曹操軍に敵対したとは思えないので、おそらく曹操への使者として辛毘を送り出した、その前後に亡くなっていたのではないだろうか。審配が「仲治」の家族を殺したとあるが、まず辛評のこととみて間違いないだろう。

【参照】袁基 / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 郭嘉 / 郭図 / 荀[イク] / 荀[言甚] / 蒋奇 / 辛毘 / 審栄 / 審配 / 曹操 / 逢紀 / 孟岱 / 陰安邑 / 潁川郡 / 外門 / 官渡 / 冀州 / [業β]県 / 南皮県 / 平原県 / 陽[タク]県 / 黎陽県 / 車騎将軍 / 牧

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。