三国志モバイル人物伝

沮授Ju Shou

ショジュ

(?〜200)
漢奮威将軍・監軍

広平の人。沮鵠の父、沮宗の兄《武帝紀・袁紹伝・後漢書袁紹伝》。

若いころから大志を抱き、数多くの計略を有していた。州に出仕して別駕となり、茂才に推挙され、二県の県令を歴任した。また冀州牧韓馥の別駕従事となり、その上表によって騎都尉を拝命した《袁紹伝》。

初平二年(一九一)、韓馥がその地位を袁紹に譲ろうとしていると知り、沮授は、長史耿武・別駕閔純とともに諫めた。「冀州は田舎とはいえ武装兵は百万人、食糧は十年分あります。袁紹は孤立して窮しており、我らが鼻息を窺うばかりです。飢え死にさせることもできるのに、どうして州をくれてやるのですか?」。韓馥は聞き入れなかった《後漢書袁紹伝》。

『三国志』袁紹伝では沮授の代わりに治中李歴の名を挙げており、そちらの方が正しいとされるが《袁紹伝集解》、四人そろって諫言したのだとする説もある《後漢紀》。

袁紹は冀州牧の地位に就くと沮授を引見して別駕に任じ、そのとき彼に訊ねた。「いま賊臣が混乱を巻き起こして朝廷は遷都された。吾は代々恩寵を蒙っており、死力を尽くして漢室を復興したく思っておるのだ。しかし斉の桓公は夷吾がなければ霸業を成し遂げられず、越の句践は范蠡がなければ国土を保ち得なかっただろう。いま卿と同心協力して社稷を安んぜんと思うのだが、どうすれば解決できるのであろうか?」《後漢書袁紹伝》。

沮授が進み出て言った。「将軍は弱冠にして朝廷に登られ、海内に名声を広められました。廃立事件の折りには忠義を奮い起こされ、ただ一騎にて出奔されますと董卓は恐怖を抱き、黄河を渡って北進されますと勃海は帰服いたしました。一郡の士卒を率いて冀州の軍勢を収められ、威信は河北に震い、名声は天下に轟きました。もし軍勢を挙げて東方に向かえば黄巾を一掃し、転じて黒山を討てば張燕を滅ぼすことも叶いましょう。軍勢を北方に差し向ければ公孫[王贊]は必ず捕虜になります。夷狄どもを威圧して匈奴どもを平定し、大河の北岸を横行して四州を併合します。英雄たちを集めて軍勢百万を催し、長安から御車をお迎えして洛陽で宗廟を復活し、天下に号令なさって帰服せざる者を討たれれば、誰が防ぎえましょうや!このようにすれば数年で功業を成し遂げるのも難しくはございません」。袁紹は「それこそ吾の気持ちだ」と喜び、即刻上表して沮授を奮威将軍とし、諸将を監督させた《後漢書袁紹伝》。

『三国志』袁紹伝では沮授を監軍にしたとあり、『後漢書』でも後文において郭図から監軍と呼ばれている。ここでは原文「使監護諸将」とある『後漢書』説を採ったが、意味するところは「監軍」とほぼ同じであろう。ただ、この時点では特例として権限を分け与えるに留まり、後年になって正規の官職を置いたとも考えられる。いずれにせよ相当大きな権力である。また『後漢書』袁紹伝では彼の官位を奮武将軍とするが、それはすでに曹操の将軍号となっているため誤りであると思われる。なお、同じころ田豊が別駕従事に任じられており、沮授は奮威将軍を拝命するとともに従事職を解かれたらしい。

興平二年(一九五)冬、天子は曹陽亭で李[イ寉]に追い詰められていた。沮授は袁紹を説得する。「将軍(の御家)は代々、補佐の任に当たって忠義を施してこられました。いま朝廷は流浪して宗廟は崩壊し、州郡を見回せば、外面では義兵にかこつけながら内心では侵略しあっており、社稷を保って民衆を救わんとする者はおりません。いま州城はあらかた平定され、軍勢は強力で士人は帰服しておりますから、西方に車駕を迎えて[業β]に遷都され、天子を奉じて諸侯に命令し、蓄えた軍馬で不逞者を討伐すれば誰が防ぎえましょう?」《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁紹はその計略を採用しようとしたが、郭図・淳于瓊らが「漢室は衰退して久しく、今さら復興させるのは困難です」と反対した。沮授は続けた。「いま朝廷をお迎えするのは道義においても時機においても正しいのです。早く決断しなければ必ず先を越されますぞ。そもそも策略は時機を失わず、功績は拙速をいとわないもの。お考えくだされ」。天子が即位したのは袁紹の本意ではなかったので、結局、採用されなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

天子奉迎を郭図によるものとする説がある《袁紹伝》。しかし天子奉戴は沮授の元来の計略なので、ここでは沮授説を採用する。

袁紹には息子三人のうち末子袁尚を愛し、彼に後を継がせようと思っていた。そこで長子袁譚を兄の跡継ぎとし、青州刺史に出向させた。沮授が「一人が兎を捕まえれば万民が追うのをやめるといいます。持ち主が定まったからです。それに年齢が等しければ賢明さで、人徳が等しければ占卜で決めるのが古代の制度です。どうか過去の実例、兎追いの道義をお考えください。もし改めていただかねば災禍はここから始まりましょう」と諫めたが、袁紹は「息子たちにそれぞれ一州づつ任せて能力を見たいのだ」といって聞かなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁紹は精鋭十万人、騎兵一万人を催して許を攻撃することとし、審配・逢紀に軍事を統べさせ、田豊・荀[言甚]・許攸を謀主、顔良・文醜を将帥とした。沮授が進み出て言った。「近ごろ公孫氏を討ったばかりですし、何年も出兵が続いて百姓は疲弊し、倉庫に蓄えはなく賦役ばかりが増えております。これは国家の一大事です。まず天子に勝利をご報告して農作に努めるべきです。もし(使者が)到達できなければ曹操が邪魔立てしたのだと上表し、それから黎陽に進駐、ゆっくりと黄河南岸に陣を構えます。艦船・兵器を建造しつつ、精鋭騎兵を分遣して辺境を荒らし、彼らを不安に陥れながら我らは充足を図ります。さすれば三年で平定できるでしょう」《袁紹伝・後漢書同伝》。

郭図・審配が反対して「明公の神武、河北の強兵でもって曹操を伐つのですから、掌を返すがごとく容易きことです。今すぐ攻略せねばあとあと厄介になりましょう」と言う。沮授「義兵は無敵ですが驕兵は真っ先に滅ぶもの。曹操は天子を奉迎して許都に宮殿を建てており、いま軍勢を南進させるのは不義に当たります。それに勝利を決する策略は強弱にあるのではない。曹操の法令は行き届き、士卒は精練、公孫[王贊]がなすすべなく包囲を受けていたのとは違いますぞ。いま万全の策を棄てて名分なき軍勢を起こしておりますが、公のために危惧しておる次第です」《袁紹伝・後漢書同伝》。

郭図ら「武王が紂を伐ったのを不義とは言わぬ。ましてや曹操に軍を差し向けるのが名分なしと言うのか!公の軍勢は精悍で将兵は奮戦を誓っており、速やかに大業を完成させられます。天の与うるを取らざればかえってその咎を受くと言います。これこそ越が霸を称え、呉が滅亡した所以なのです。監軍(沮授)の計略は堅固さを求めるものであって、時機を見て変化する策略ではございません」。袁紹は郭図の言葉を受け入れた《袁紹伝・後漢書同伝》。

郭図らはことのついでに沮授を陥れた。「沮授は内外を総監し、威信は三軍を震わせております。もしつけ上がってきたらどうやって制御なさるのですか!そもそも臣下が君主に同意すれば栄え、君主が臣下に同意するようになれば滅ぶもの。これは黄石公の嫌うところです。外部で軍勢を統御しているのですから、内部に干渉させてはなりません」。袁紹はそこで沮授の軍権を分割して三都督とし、沮授および郭図・淳于瓊にそれぞれ一軍づつ仕切らせた《袁紹伝・後漢書同伝》。

建安五年(二〇〇)二月、袁紹はまず顔良に白馬を攻撃させ、袁紹自身は軍勢を率いて黎陽に着陣した。沮授はまた「顔良の人柄は性急ですから、驍勇ではありますが単独で任用してはいけません」と諫めたが、袁紹は聞き入れなかった。曹操が白馬の救援に駆けつけ、顔良は斬られてしまった。袁紹が黄河を渡ろうとしたとき、沮授は「勝負の変化はよく見定めなければいけません。今は延津に留まり、手勢を官渡に分けられませ。彼らが勝利してから(本隊を)出迎えても遅くはありませんし、もし彼らが困窮しても全軍が撤退することにはなりますまい」と諫めるが、やはり袁紹は聞き入れなかった《袁紹伝》。

沮授は出発にあたって宗族を集め、資産を彼らに分け与えて言った。「権勢があれば威令を加えられぬこともないが、さもなくば我が身を保つこともできぬ。哀しいことだ!」。弟の沮宗「曹操の軍勢なぞ相手になりませんよ。君はどうして恐れるのですか?」、沮授「曹[エン]州の賢明さに加えて天子を擁して助けにしているのだ。我らは伯珪(公孫[王贊])に勝ったとはいえ軍勢は疲弊している。それなのに君主も将軍も驕り高ぶっておる。軍の破滅はこの一挙にある。揚雄の言う『六国がおろおろするのは[エイ]氏のために姫氏を弱めてやることだ』とは、現在の状況だよ!」《袁紹伝・後漢書同伝》。

袁紹は黄河を渡って延津の南岸に防塁を築いた。沮授は船に乗ろうとしたとき「上の者は野心を逞しくし、下の者は功績に焦る。悠々たる黄河よ、吾はこれを渡るというのか!」と歎息した。そのまま病気を口実に引き返そうとしたが、袁紹は許可せず、彼を恨んで管轄下(の軍勢)を取り上げ、郭図に配属させた《袁紹伝・後漢書同伝》。

曹操が官渡に後退したので、袁紹は陽武に進出した。沮授はまた「北軍の方が多数ですが、精悍さでは南軍に及びません。南軍は食糧が少なく、貯蓄では北方に敵いません。南軍は短期決戦に有利、北軍は長期戦に有利です。ゆったり持久戦を構えて月日を稼ぎましょう」と告げたが、袁紹は聞き入れなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。

対峙したまま百日余りが過ぎると、黄河南岸の人々には困窮して袁紹に寝返る者が多かった。袁紹は淳于瓊らに一万人を授け、北方からの食糧輸送を護衛させた。沮授は蒋奇を別働隊として曹操の妨害に備えるべきと言上したが、袁紹は聞き入れなかった。淳于瓊らは四十里先の烏巣で宿営したが、曹操は歩騎五千人を率い、夜中に淳于瓊らを攻撃して彼を斬った《後漢書袁紹伝》。

袁紹軍は大潰滅し、沮授は曹操軍に捕らえられた。沮授は大声で「沮授は降服したのではない、捕らえられただけなのだ」と叫んだ。曹操は彼と旧交があったので出迎えて「巡り合わせが悪く、便りも途絶えておったが、今日図らずも再会できるとはなあ」と言った。沮授「冀州どのは策略を誤り、北方へ逃げる道を自ら選んでしまわれた。しかしまた沮授の智力も尽き果てました。こうして捕らえられたのも当然でしょう」、曹操「本初(袁紹)は無謀ゆえ、君の計略を用いなかった。いま動乱が訪れて国家は未だ安定しない。君とともに解決したいものだが」、沮授「叔父と母、弟が袁氏に命を捧げております。お目こぼしを頂けるなら、速やかに死なせてくださるのが幸いです」。曹操は歎息した。「孤が早いうちに会えていたら、天下のことも懸念に及ばなかったのに」《袁紹伝・後漢書同伝》。

曹操は彼を赦免して厚遇したが、ほどなく沮授が袁氏の元に帰ろうと企てたため、誅殺した《袁紹伝・後漢書同伝》。

【参照】殷紂王(紂) / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 郭図 / 韓馥 / 顔良 / 許攸 / 公孫[王贊] / 耿武 / 黄石公 / 周武王(武王) / 荀[言甚] / 淳于瓊 / 沮鵠 / 沮宗 / 蒋奇 / 審配 / 曹操 / 張燕 / 田豊 / 董卓 / 閔純 / 文醜 / 逢紀 / 揚雄 / 李[イ寉] / 劉協(天子・朝廷) / 烏巣 / 越 / [エン]州 / 延津 / 河北 / 漢 / 官渡 / 冀州 / 許県(許都) / [業β]県 / 呉 / 黄河 / 広平郡 / 周(姫氏) / 秦([エイ]氏) / 青州 / 曹陽亭 / 長安県 / 白馬県 / 陽武県 / [各隹]陽県洛陽県) / 黎陽県 / 六国 / 監軍 / 騎都尉 / 県令 / 刺史 / 長史 / 都督 / 奮威将軍 / 別駕従事 / 牧 / 茂才 / 匈奴 / 黄巾賊 / 黒山賊 / 謀主

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