三国志モバイル人物伝

逢紀Pang Ji

ホウキ
(ハウキ)

(?〜203)
漢護軍

字は元図。袁紹の賓客《袁紹伝》。

本郡は分からない。南陽あるいは汝・潁あたりの人だろうか。

何進は朝政を掌握すると宦官誅滅を計画し、袁紹・袁術を厚遇するとともに、智謀の士として逢紀・何[禺頁]・荀攸らを召し寄せて腹心とした《後漢書何進伝》。そののち袁紹は董卓と仲違いして出奔し、許攸・逢紀とともに冀州に赴いたが、逢紀が聡明で計略の持ち主であったことから、とりわけ彼を寵愛信任し、共同して事業を興したのである《袁紹伝》。

初平二年(一九一)、逢紀は袁紹にささやいた。「将軍は大事業を興されながら他人の支給を当てにしておられます。一州まるごと領さねば我が身を守ることさえ叶いますまい」、袁紹「冀州の軍は強く、我が士卒は飢えておる。うまく解決できねば立つ瀬もない」、逢紀「公孫[王贊]と示し合わせて南方へ呼び寄せ、冀州を攻撃させるのがよろしゅうございます。公孫[王贊]は必ずや馳せ参じて韓馥に恐怖を抱かせるでありましょう。そこで使者をやって利害を説き禍福を述べさせれば、韓馥は必ずや謙譲の気持ちを起こします。そうなればその官位に居座るのも可能になるのでございます」《袁紹伝》。

袁紹がその進言を採用したところ、公孫[王贊]は思った通りやってきた。袁紹が高幹・荀[言甚]らに韓馥を説得させると、韓馥はもともと臆病な性質だったので、冀州牧の官位を袁紹に譲った《袁紹伝・後漢書同伝》。

建安三年(一九八)、曹操はついに袁紹と対峙することになった。孔融は「審配・逢紀は尽忠の臣であり、その事務を担当している。勝つのは難しかろう!」と歎いたが、荀[イク]は「審配は専制的だが無計画であり、逢紀は実行力があるが自分の事しか考えていない。その二人が残って後方を取り仕切っているのだ。もし許攸の家族が法を犯せば、放置しておくわけにもいくまいが、放置せねば許攸は必ず変事を起こすだろう」と答えている《荀[イク]伝》。

五年、審配・逢紀に軍事を統括させ、田豊・荀[言甚]・許攸を謀主とし、顔良・文醜を将帥とし、精鋭十万人、騎兵一万人を選りすぐって許を攻撃せんとした《袁紹伝》。袁紹は田豊が持久戦を何度も主張するのを聞き入れず、志気を阻喪させてしまったと怒り、彼を獄に繋いだ《袁紹伝》。逢紀が田豊の正直さを恐れはばかり、たびたび袁紹に讒言したため、袁紹は田豊を疎んじるようになっていたのである《袁紹伝》。

袁紹軍は官渡において戦いに敗れ、逃走した。軍兵たちはみな胸を叩きながら「あのとき田豊がいれば、ここまでひどくはならなかっただろうに」と泣いた。袁紹が「冀州の人々は吾が敗北したと聞けばみなが吾を心配してくれるだろう。だが田別駕だけは以前、吾を諫止してくれていて他とは違っていた。吾は彼に会うのが恥ずかしいよ」と告げると、逢紀が「田豊は将軍の敗北を聞いて手を打って大笑いし、自分の言葉が的中したと喜んでおりますぞ」と答えた。袁紹は田豊を殺害した《袁紹伝》。

逢紀が讒言したのは田豊一人だけである。次段の彼の言葉と合わせて考えると、田豊を陥れたのは国事のためということになる。果たしてそうなのであろうか。

はじめ審配が任用されたとき、逢紀は彼と不仲であった。孟岱という人も審配と仲が悪く、蒋奇に言い含めて彼のことを讒言させた。袁紹が護軍の逢紀に訊ねると、逢紀は「審配は生まれついての烈直であり、古人の節義を持っております。お疑い召されるな」と言った。袁紹が「君は彼を憎んでいたのではないか?」と問うと、逢紀は「以前争ったのは私情、いま述べているのは国事であります」と答える。袁紹はそれを褒め、審配の罷免を取り止めた。このことから審配と逢紀は協力しあうようになった《袁紹伝・後漢書同伝》。

七年、袁紹が亡くなった。袁紹は末子袁尚の美貌を愛し、彼を後継者にしようと思いながらも発表はしなかった。審配・逢紀は辛評・郭図と権力を争っていたが、審配・逢紀はかねて驕慢・奢侈を袁譚に疎まれており、袁尚と親しく、辛評・郭図は袁譚と親しかった。人々は年長の袁譚を擁立したく思っていたが、審配らは袁譚が立てば辛評らに危害を受けるであろうと恐れ、袁紹の平素からの気持ちを利用して袁尚を後継者に立てた。袁譚は到着しても跡を継ぐことができず、車騎将軍を自称した。こうして袁譚・袁尚は仲違いしたのである《袁紹伝・後漢書同伝》。

九月、曹操が北進して袁譚・袁尚を征伐しようとしたとき、袁譚は黎陽に布陣したが、袁尚は僅かばかりの兵を袁譚に与えるだけで、しかも逢紀を(監視役として)袁譚に従軍させた《袁紹伝》。曹操が勝利を重ねると、諸将は勝利に乗じてそのまま攻め込もうと主張したが、郭嘉は「袁紹は子息二人を愛して嫡子を立てておりませんでした。郭図・逢紀が彼らの謀臣となっているのですから、必ずや仲違いをいたします。追い詰めれば助け合いますが、泳がせれば争いの心を起こすでしょう」と述べ、まず南方を征するよう勧めた。翌年五月、曹操は許へと引き揚げた《武帝紀・郭嘉伝》。

袁譚は「いま曹操軍は引き揚げたが、人々は帰郷の念にかられている。彼らが黄河を渡りきらぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ」と言って袁尚に増兵を求めたが、袁尚は彼の真意を疑って許可しなかった。袁譚は激怒して逢紀を殺し、外門に攻め寄せて袁尚と戦ったが敗退、南皮に引き揚げた《袁紹伝・後漢書同伝》。

『三国志』袁紹伝が逢紀の死を建安七年とするのは誤り。『郭嘉伝』に見えるように、逢紀が殺されたのは翌八年五月、曹操軍が撤退したあとのことである。

袁尚がさらに進撃して南皮を包囲すると、袁譚は平原へと逃走した。九年三月、審配が袁譚に手紙を送っている。「凶悪なる臣下逢紀が蛇足を描き、言葉をねじ曲げて媚びへつらい、交誼を混乱させました。将軍は猛然とお怒りになり、時を措かず誅殺されましたが、我が将軍もまたご命令を奉じて(逢紀の家族の)処刑を行われたのであります」《袁紹伝》。

『後漢書』袁紹伝では「凶悪な臣下」を郭図のこととする。

【参照】袁尚 / 袁紹 / 袁術 / 袁譚 / 何[禺頁] / 何進 / 郭嘉 / 郭図 / 韓馥 / 顔良 / 許攸 / 孔融 / 公孫[王贊] / 高幹 / 荀[イク] / 荀[言甚] / 荀攸 / 蒋奇 / 辛評 / 審配 / 曹操 / 田豊 / 董卓 / 文醜 / 孟岱 / 外門 / 官渡 / 冀州 / 許県 / 黄河 / 南皮県 / 平原郡 / 黎陽県 / 車騎将軍 / 別駕従事 / 牧 / 宦官

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