三国志人名事典 魏志15

劉馥Liu Fu

リュウフク
(リウフク)

(?〜208)
漢揚州刺史

字は元穎。沛国相の人。

戦乱を避けて揚州に住まいしていたが、建安年間(一九六〜二二〇)初め、袁術の将戚寄・秦翊とともに曹操に身を寄せたので、曹操は喜んだ。司徒に招かれて掾となった。

のちに孫策の任命した廬江太守李術が揚州刺史厳象を殺し、同郡の梅乾・雷緒・陳蘭らが軍勢数万人を集めて長江・淮水一帯の郡県を侵害したが、曹操はちょうど袁紹と事を構えており、劉馥ならば東南方面を任せられるだろうと考えて、揚州刺史に任命するよう上表した。

劉馥はただ一騎にて合肥の空き城に入り、そこを州の治府とした。南方に手を伸ばして雷緒らを手懐けると、みな彼の元に集まった。都への献上物は数年間欠かすことなく、恩徳ある教化は大いに行われた。百姓たちはその政治を楽しみ、流民どもも山や川を越えて帰服したが、その数は万単位に上った。そこで書生たちを集めて学校を設立し、屯田を実施、芍陂および茹被・七門・呉塘といった堤防を築いて灌漑を行ったので、官吏も民衆も豊かになった。

また木石を積み上げて城壁を高め、むしろを数千万枚作り、魚の油数千石を蓄えて戦争に備えた。のちに孫権が軍勢十万人を率いて合肥に攻め寄せたとき、むしろを被せて長雨をしのぎ、魚の油を燃やして敵の夜襲に備え、こうして百日以上も持ちこたえて孫権軍を敗走させられたのは劉馥のおかげなのである。

建安十三年に卒去した。

【参照】袁紹 / 袁術 / 厳象 / 秦翊 / 戚寄 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 陳蘭 / 梅乾 / 雷緒 / 李術 / 合肥侯国 / 呉塘 / 七門 / 芍陂 / 相県 / 茹被 / 長江 / 沛国 / 揚州 / 廬江郡 / 淮水 / 掾 / 刺史 / 司徒 / 太守

司馬朗Sima Lang

シバロウ
(シバラウ)

(171〜217)
漢兗州刺史

字は伯達。河内温の人。司馬防の子、司馬遺の父、司馬懿の兄。

父司馬防は厳格な人物で、司馬朗兄弟は成人したあとでも、進めと命じられなければ進まず、座れと命じられなければ座らず、指差して問われなければ口を利かず、父子の関係は厳粛そのものであった。

九歳のとき、父の字を呼ぶ者があったが、司馬朗は「他人の親を粗末にする者は自分の親を尊敬できませんよ」と言って、その人に頭を下げさせた。十二歳で経典の試験を受けて童子郎になったが、そのとき試験官は彼の大きな身体をみて年をごまかしているのだろうと問い詰めた。司馬朗は「司馬朗の両親はともに代々大柄の家系なのです。司馬朗は若輩者でありますが高望みする気持ちはありませんし、さばを読んで早い出世を求めるなど志すものではございません」と答え、試験官を感心させた。

初平元年(一九〇)、関東で義兵が立ち上がった。故(もと)の冀州刺史李邵は野王に住まいしていたが、山岳に近かったので温に移住しようと考えた。司馬朗は李邵に告げた。「唇歯のたとえは虞・虢に限りません。温・野王の関係も同じで、いま移住しても朝の滅亡を(夕に)遅らせるだけのことです。それに貴君は国人の仰ぎ見るところ。盗賊どもが来たわけでないのに移住なさるなら、山沿いの県では民心を動揺させ、犯罪を招く元になりましょう。郡のために心配いたしております」。李邵は聞き入れなかった。その結果、山沿いの民衆は混乱して内地に入り、中には略奪を働く者もあった。

そのころ董卓は洛陽に残ったまま、天子を長安に遷していた。父司馬防は治書御史として西方に向かうことになったが、四方が騒擾しているので、司馬朗に家族を本県へ連れて行かせた。「司馬朗が逃亡を企てている」と告訴する者があり、逮捕されて董卓の前に引き出された。「貴卿は吾の死んだ息子と同じ歳(の仕官)なのに、大それた裏切りをされるところだったわ」と、董卓は言った。

司馬朗は答える。「明公は孤高の徳義を持って災難の時代に臨み、邪悪な者どもを一掃して賢者を推挙しておられます。これぞ虚心坦懐に配慮を巡らされている証、至高の治世は今にも勃興いたしましょう。威光は高まり功業は明らかでありますのに、兵乱が日に日に起こり、州郡は鼎のごとく沸き立ち、領内の民衆は家業に落ち着かず、住居を捨てて流浪しており、四方の関所を固めて刑罰を厳しくしても留まるところを知りません。それが司馬朗には気がかりです」。董卓「吾もそう思っておった。貴卿の言葉には重みがある」。

司馬朗は董卓の滅亡を予見した。引き留められることを恐れ、董卓の側近に賄賂を渡して財産を使いはたし、郷里に帰らせてもらった。郷里の父老に「この郡は京都に隣接しており、洛陽は東に成皋があり、北は黄河に面しておりますから、天下で義兵を起こした者は、進軍できなければ必ずこの地に駐屯いたします。ここは四分五裂の戦争の地なのです。道路が通じているうちに一族こぞって黎陽へ行くに越したことはありません。黎陽には軍勢があり、古くから姻戚関係のある趙威孫が監営謁者として兵馬を統率しておりますゆえ、主君と仰ぐには充分です」と告げた。

むかし光武帝が幽州・冀州・幷州の歩騎を率いて天下を平定したので、黎陽に陣営を作り、観察黎陽謁者に精鋭の歩騎千人を統率させていたという《後漢書百官志・司馬朗伝集解》。

父老たちは故郷を恋しがり、彼に従う者はなかった。ただ同県の趙咨だけは家族を連れて司馬朗とともに出立した。数ヶ月後、関東諸州の軍勢数十万が熒陽や河内に集結したが、諸将は仲違いし、兵を好き勝手にさせて略奪したため、民衆の半数近くが死んだ。

しばらくして関東の軍勢は解散し、太祖(曹操)が濮陽において呂布と対峙した。司馬朗は家族を連れて温へ帰ったが、その年、大飢饉に遭遇した。司馬朗は宗族をいたわって若者を教育し、世が衰えても家業をおろそかにしなかった。

二十二歳のとき太祖に召されて司空掾属となり、成皋の県令に任じられた。病気のため退官したが、また堂陽の県長に復帰した。その統治は寛容で恵み深く、鞭打ちの刑も行わないのに民衆は禁令を犯さなかった。かつて都内を充実させるために領民が移住させられたが、のちに県が艦船建造を割り当てられたとき、間に合わせられないのではないかと心配して、移住民たちが手を取り合って内緒で帰り、仕事を手伝った。司馬朗はそれほど愛されていたのである。

元城の県令に昇進したのち、中央に入って丞相主簿になった。司馬朗は「天下が崩壊したのは秦が五等の制度を廃止して郡国に軍備がなくなったからだ。いま五等を復活させるのは不可能だが、州郡に軍を持たせて内外に備えることは可能であり、計略としても優れている」と主張し、その提議は採用された。

また「井田の制度を復活すべきである。むかしは民衆それぞれが家業を代々受け継いでいて、途中で取り上げることが困難なまま現在に至っている。今日では大乱の後ということで民衆が分散し、土地の持ち主がおらず公田となっておるゆえ、この機会を利用して復活させるべきだ」とも主張したが、これは認められなかった。

ちくま訳では誤って「それらの意見は施行されないままであった」とするが、『杜恕伝』には「刺史には兵を宰領させることなく、民政に専心させるべきだ」とあり、施行されないのは井田制だけであったと分かる《集解》。

兗州刺史に昇進した。教化は大いに行われ、百姓たちは彼を称賛した。身は軍隊にあっても、いつも粗衣粗食に耐え、倹約を心がけて下の者を導いた。日ごろ人物鑑定と書籍を愛好し、郷里の人李覿らが名誉を集めていたときも、司馬朗はいつも彼らへの軽蔑を露わにしていた。のちに李覿が失脚したので当時の人々は感服した。

鍾繇・王粲は論文を著して「聖人でなければ太平の世を作れない」と主張したが、司馬朗は「伊尹・顔回といった人たちは聖人ではないが、もし数世代続いたなら太平の世を作ることができる」と反論した。のちに文帝(曹丕)は司馬朗の主張を評価し、秘書に命じてその文章を記録させた。

曹丕が即位したのは司馬朗の死後のことである。

建安二十二年(二一七)、夏侯惇・臧霸らとともに呉を征討し、居巣に着陣した。軍中で疫病が大流行したため、司馬朗はみずから視察してまわり医薬を与えてやったが、病気にかかり、卒去した。ときに四十七歳。司馬朗は死を迎えたとき将兵に告げた。「刺史は国恩を厚く蒙り、万里の彼方を監督することになったが、僅かな功績さえ立てられぬままこの疫病にかかってしまった。もはや自分を救うことさえままならず国恩に背くことになってしまった。身(わたし)が死んだら麻の衣と幅巾を着せ、季節に応じた衣服で殯(かりもがり)をしてくれ。吾が志に背くでないぞ」。州の人々は彼を偲んだ。

【参照】伊尹 / 王粲 / 夏侯惇 / 顔回 / 司馬遺 / 司馬懿 / 司馬防 / 鍾繇 / 曹操 / 曹丕 / 臧霸 / 趙威孫 / 趙咨 / 董卓 / 董卓亡児(董卓の死んだ息子) / 李邵 / 李覿 / 劉協(天子) / 呂布 / 兗州 / 温県 / 虢 / 河内郡 / 関東 / 冀州 / 居巣県 / 虞 / 滎陽県(熒陽県) / 元城県 / 呉 / 黄河 / 秦 / 成睾県(成皋県) / 長安県 / 堂陽県 / 濮陽県 / 野王県 / 雒陽県洛陽県) / 黎陽県 / 監営謁者 / 県長 / 県令 / 司空掾属 / 刺史 / 丞相主簿 / 治書御史 / 童子郎 / 秘書 / 監試者(試験官) / 五等 / 試経(経典の試験) / 人倫(人物鑑定) / 聖人 / 井田 / 論(論文)

梁習Liang Xi

リョウシュウ
(リヤウシフ)

(?〜230)
魏大司農・申門亭侯

字は子虞。陳郡柘の人。

郡の綱紀であったが、太祖(曹操)が司空になると、彼を召し出して漳の県長とした。乗氏・海西・下邳の県令へと昇進を重ねたが、至るところで治まった。中央に帰って西曹令史となり、西曹属に昇進した。

西曹令史を務めたときのこと、同僚に王思という者がいた。王思は当番の日、職務上の報告により太祖の怒りを買った。太祖は担当者を召し取って重罰を加えようと思っていたが、王思は出かけていて、梁習が代わりに出頭して逮捕された。王思が駆け付けて自分の罪を白状した。その罪は死刑に相当したが、太祖は梁習が沈黙を守ったこと、王思がけじめを付けたことに感歎して「吾が軍中に義士が二人もいたとはのう」と言った。

幷州が新たに帰服すると、梁習は別部司馬として幷州刺史を領(代行)した。このとき高幹の起こした騒乱の影響を受け、胡族・狄族が辺境にあって跳梁跋扈し、官吏・民衆の中には逃亡して彼らの部落に身を寄せる者もあった。武装豪族は軍勢を擁して侵害をなし、互いに煽動をくり返して私闘を構えることもたびたびあった。

梁習は着任すると、そうした豪族たちを厚礼でもって招き入れ、順番に推挙して幕府に参詣させた。豪族たちが片付くと、歳の順に徴兵して義従に組み込んだ。また大軍出征の折りには、分隊して剛勇の官兵になるように要請した。彼らが去ったのち、その家族を少しづつ鄴へ移住させたが、前後しておよそ数万人になった。命令に従わない者は軍勢を催して討伐し、斬首した者は千単位、帰服した者は万単位であった。

この辺り、やや難読。胡族らに追われた流民が豪族の部曲に組み込まれて戸籍から把握できなくなっていたのを、大軍出征を利用して豪族らの軍事力を分散させ、弱体化したところで鄴へ強制移住させて、武装豪族を解体するとともに戸籍に再編入したということらしい。

単于は恭順を示して名王は平伏し、部曲も、戸籍に編入されている者と同様に職務へ就いた。辺境は静まり、百姓たちは野に満ち、農耕養蚕に勤務させたところ、命令すれば行われ禁止すれば止まった。推挙した名士はみな出世した。太祖は彼を評価して関内侯の爵位を賜り、改めて真(の刺史)とした。長老たちは自分の聞き知った刺史の中でも梁習ほどの者はなかったと称賛した。

建安十八年(二一三)、幷州が冀州に編入されたので、改めて議郎・魏郡西部都督従事に任じられ、冀州および従来の部曲を統括した。また上党への使者に立ち、鄴の宮殿に供するための大きな木材を徴発した。屯田都尉を二人設置して人夫六百人を宰領させ、道路沿いに豆・粟を植えて人畜の費用に充てるようにと上表した。

鮮卑の大人育延はつねづね州から恐れられていたが、ある日、その部落五千家余りを連れて梁習の元へ参詣し、交易したいと願い出た。拒否すれば恨みを買うことになり、許可すれば州内で略奪されやしないかと懸念されたが、梁習は許可を下し、空き城に出向いて面会のうえ取引することとし、郡県に命令を出して、みずから治中以下の役人を連れて行き、軍勢を持ち場に就かせた。

取引が終わらぬうちに役人が一人の胡人を逮捕したので、育延の騎兵はみな驚いて馬に乗り、弓をつがえて幾重にも梁習を取り囲んだ。官吏・民衆は恐れおののいてなすすべを知らない。梁習はあわてる風なく市場の担当役人を呼び寄せて胡人を逮捕した理由を訊ねると、実際、胡人が他人に危害を加えていたのであった。梁習は通訳を通じて育延を呼び入れ、「汝ら胡人が自分から法を犯したのだ。官吏が汝を侵害したわけでないのに、汝はどうして騎兵を使って騒動を起こすのか!」と責めたて、彼を斬首した。残りはみな肝をつぶして身動きできなかった。それ以来、侵害はなくなった。

二十二年、太祖が漢中を攻略して諸軍が長安に帰陣したとき、騎督である太原烏丸王の魯昔を池陽に残して盧水に備えさせた。魯昔の愛妻は晋陽に住まいしており、魯昔は彼女を恋しがり、また帰国できないのではないかと心配し、とうとう部下五百騎を率いて叛逆して幷州へ帰り、騎兵を山間に残して、自分はただ一騎で晋陽に潜り込んで愛妻を連れ出した。州郡が気付いたときには彼はもう城外へ出たあとだったし、魯昔が弓術に巧みであったため追跡できる者は官吏にも民衆にもなかった。

梁習はそこで従事張景に命じて鮮卑族を募集し、魯昔を追跡させた。魯昔の馬は妻を乗せていたため足取り重く、まだ部下の軍勢に合流できないでいた。そこで鮮卑に射殺されたのである。太祖は魯昔の叛逆を聞いて北方で混乱が起こるであろうと危惧していたが、すでに彼が殺害されたと知って大いに喜び、梁習が前後して策略を立てたことを評価して関内侯に封じた。また、単于が入朝したとき西北に憂慮がなかったのは梁習の功績である。

関内侯に封ぜられたとの記載が重複している。

文帝が践祚すると幷州が復活されたので、再び刺史となり、申門亭侯に封ぜられた。食邑は百戸である。治績はつねに天下第一であった。太和二年(二二八)に中央に徴されて大司農に任じられた。梁習は州にあること二十年余り、家は貧窮そのもので、地方の珍品を取り込むことはなかった。明帝はそれを立派に思い、はなはだ手厚く賜り物を下した。同四年、薨去した。

【参照】育延 / 王思 / 呼廚泉(単于) / 高幹 / 曹叡(明帝) / 曹操 / 曹丕(文帝) / 張景 / 魯昔 / 海西県 / 下邳県 / 漢中郡 / 魏郡西部 / 冀州 / 鄴県 / 柘県 / 章県(漳県) / 乗氏侯国 / 上党郡 / 申門亭 / 晋陽県 / 太原郡 / 池陽県 / 長安県 / 陳国(陳郡) / 幷州 / 盧水 / 関内侯 / 騎督 / 議郎 / 県長 / 県令 / 綱紀 / 司空 / 刺史 / 従事 / 西曹属 / 西曹令史 / 単于 / 大司農 / 治中従事 / 亭侯 / 都督従事 / 屯田都尉 / 別部司馬 / 名王 / 烏丸 / 義従 / 胡族 / 鮮卑族 / 大人 / 狄族 / 幕府 / 部曲 / 領

張既Zhang Ji

チョウキ
(チヤウキ)

(?〜?)

字は徳容。馮翊郡高陵の人。

張氏は代々にわたる貧しい家柄であったが、容貌仕草が立派であり、若いころから書状を巧みに書いた。十六歳のとき郡の門下の小役人となり、実家は裕福になってたが、家柄がよくなったので思いどおりに栄達はできまいと思い、そこでいつも良質な刀と筆、それに木札を用意しておき、高官たちが不足するのを見つけるや、すぐに手渡し、こうして面識を得られるようになっていった。

のちに重役を歴任し、孝廉に推挙されたが受諾しなかった。

【参照】