三国志モバイル人物伝

袁譚Yuan Tan

エンタン
(ヱンタン)

(?〜205)
漢車騎将軍・青州刺史

字は顕思。汝南郡汝陽の人。袁紹の長子、袁基の養嗣子《袁紹伝》。

初平三年(一九二)、公孫[王贊]が青州刺史田楷を派遣して斉の地を占拠させたので、袁紹は軍勢数万人を派遣して田楷と戦わせること二年、両軍ともに食糧が底を突き、士卒は疲労困憊した。そこで百姓たちを奪い合い、野原には青草がなくなる有様であった《後漢書公孫[王贊]伝》。

袁紹には袁譚・袁煕・袁尚と三人の子がいて、袁譚は年長でもあり恵みぶかく、袁尚は年少で美貌があった。袁紹の後妻劉氏は寵愛をえて袁尚を偏愛し、しばしば彼の才能を褒め称え、袁紹もその容姿を立派だと思って後継者にしようと考えた。そこで袁譚を兄袁基の後継者として青州に出向させた《後漢書袁紹伝》。

沮授が「万人が兔を追っていても一人がそれを捕まえれば貧しい者さえ諦めると言います。持ち分が定まったからです。年齢が等しければ賢明さ、徳行が等しければ卜占で決めるのが古代の制度です。先代の成敗の戒めを思い、兔の持ち分が定まる掟をお考えください」と諫めたが、袁紹は「吾は息子たちに一州づつ任せて能力を確かめたいのだ」と聞き入れなかった。沮授は退出して「災禍はここから始まるのか!」と言った《袁紹伝》。

『後漢書』で沮授は、袁紹に対して「災禍はここから始まりましょうぞ」と言ったことになっている。

袁譚は田楷と戦ったが、敗退して戻ってきた《後漢書公孫[王贊]伝》。袁譚は初めて青州に来たとき都督であり、まだ刺史ではなかったが、のちに曹操が青州刺史に任命した。その領土は黄河以西、ただ平原があるに過ぎなかったが、そのまま北進して田楷を追放した《袁紹伝》。建安元年(一九六)春、袁譚は北海国の相孔融を攻撃、夏のある夜、城は陥落して孔融は東山に逃走し、袁譚は彼の妻子を捕虜にした《後漢書孔融伝》。かくて軍威は海岸にまで輝いた《袁紹伝》。

そのころ百姓たちは君主がいなかったので喜んで彼を推戴したが、袁譚は小人どもを信任して浅薄な言葉を受け入れ、奢侈淫乱にふけって殖産の困難を省みなかった。華彦・孔順はみな邪悪な小人であったが信用して腹心とし、王脩は袁譚に招かれて治中従事になっていたが、ただ官職に就いているだけであった。その一方、賓客たちをよく待遇して名士を尊重したりもした《袁紹・王脩伝》。

妻の弟に軍勢を授けて城内に入れ、市井で盛大に盗みを働かせたり、城外で田畑を荒らさせたりした。また部将二人を諸県に下向させて兵士を募集したが、賄賂を出す者は見逃し、出さない者から取り込んでいった。貧しい者が数多くいて山野に潜伏したのを、兵を放って捕まえさせたが、あたかも鳥獣狩りのような風情であった。一万戸ある城でも戸籍には数百しか編入されず、賦役・租税収入は三分の一にもならなかった。賢者を招聘しても応じる者なく、徴兵期日に来ないで一族と暮らす者がいても、処罰することができなかった《袁紹伝》。

東[莱]郡では泰山・東海に接していたため、黄巾賊が平定されず豪族の多数が叛逆していたが、袁譚は彼らに官位を送って手懐けた《何[キ]伝》。

建安五年(二〇〇)、劉備が青州に逃走したとき、袁譚はむかし彼の茂才であったので歩騎を率いて出迎え、一緒に平原まで行って袁紹に使者を飛ばして報告した《先主伝》。また袁紹の命を受けて鄭玄に従軍を強要した。鄭玄はやむを得ず病身を押して元城まで行ったが、病気がひどくなって進むことができず、六月、卒去した《後漢書鄭玄伝》。

袁紹は官渡において曹操軍と対峙していたが、曹操が淳于瓊を攻撃していると聞いて、袁譚に「曹操が淳于瓊を破るならば、吾は奴の陣営を落とすまでだ。奴めは帰る場所を失うぞ」と語り、高覧・張[合β]らに曹操の陣営を攻撃させたが、陥落させられなかった。二人は淳于瓊の敗北を聞いてそのまま曹操に投降した。そのため袁紹軍は大混乱となって潰滅、袁紹は袁譚らとともに幅巾のまま馬に乗り、ただ八百騎だけを連れて黄河を渡り、黎陽に逃げ込んだ《袁紹伝》。

七年夏、袁紹は薨去した。まだ後継者を定めていなかったが、逢紀・審配はかねて奢侈贅沢を袁譚に憎まれており、辛評・郭図がみな袁譚と仲が良く、審配・逢紀とは仲が悪かったため、人々が年長の袁譚を立てようとしたのに対し、袁譚が立てば辛評らに危害を加えられるだろうと恐怖し、袁紹の遺命を偽作して袁尚に後を継がせた《後漢書袁紹伝》。

袁譚は到着しても後を継ぐことができず、車騎将軍を自称して黎陽に進出した。袁尚はわずかな兵を与える一方、(目付として)逢紀を彼に付き添わせた。袁譚は兵力増強を要求したが、審配らは改めて協議したすえ承知しなかった。袁譚は腹を立てて逢紀を殺した《袁紹伝・後漢書同伝》。

九月、曹操が黄河を渡って攻撃してきたので、袁譚は袁尚に危急を告げた。袁尚はみずから袁譚救援に向かい、黎陽において曹操と対峙した《袁紹伝》。袁譚は郭援・高幹らに河東を侵略させたが、曹操は鍾[ヨウ]に関中諸将を率いさせてこれを打ち破った《[ホウ]悳伝》。翌年二月まで黎陽城下で大いに合戦したが、袁譚・袁尚方が敗退した。三月、曹操が黎陽を包囲しようとしたので袁譚らは出撃したが大敗、夜中に[業β]へと逃走した。四月、曹操が[業β]へ軍を進めるのを袁尚が迎撃、五月、曹操は賈信を黎陽に残して許へと引き揚げた《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

袁譚は「我が軍は甲冑が精巧でないため曹操に負けてしまったのだ。いま曹操軍は撤退しようとして兵士どもは帰郷の念にかられている。彼らが渡河を終えぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ。この機会を失ってはならん」と言ったが、袁尚は(彼を)疑って許可しなかった《後漢書袁紹伝》。

袁譚はかつて兵力増強を断られ、このとき甲冑補充も断られたため激怒した。郭図・辛評が「先公が将軍を兄の後継者に出したのも、みな審配の差し金ですぞ」と言うので、袁譚はうなづき、軍勢を率いて袁尚を攻撃、外門において戦った。しかし袁譚は敗北し、軍勢をまとめて南皮に帰還した。袁尚はさらに袁譚を攻撃してきた。袁譚は合戦のすえ大敗して南皮に楯籠ったが、袁尚の包囲が厳しく、平原へと逃走した《後漢書袁紹伝》。

袁尚が館陶に陣を布いたのをみて、袁譚はこれを攻撃して打ち破った。袁尚が敗走して険(要害?)に楯籠ったので、袁譚は追撃を加えたが、袁尚が設けていた伏兵が袁譚軍をさんざんに打ち破った。倒れる死体、流れる血は計り知れない。袁譚は平原に逃げ帰った《後漢書袁紹伝》。

郭図が進言した。「いま将軍の国土は小さく軍勢は少なく、兵糧は底を突いて勢力も弱い。顕甫(袁尚)が来れば長くは戦えますまい。愚考するに、曹公を呼び出して顕甫を攻撃させるのがよろしゅうございます。曹公が来ればまず[業β]を攻撃いたしますから、顕甫は救援に引き返します。将軍が軍勢を率いて西進すれば[業β]以北をみな獲得することができます。もし顕甫が敗北してその軍勢が逃げ散ったなら、拾い集めて曹公と対峙することができます。曹公は遠来しているのですから食糧が持たず、必ず撤退します。そうなれば趙国以北はみな我らの所有となり、曹公と敵対するには充分です」。袁譚ははじめ聞き入れなかったが、のちに採用して、辛毘を使者として曹操の元へ送った《辛毘伝》。

別駕従事の王脩が官吏・民衆を連れて青州から救援に訪れた。袁譚は「吾が軍を成り立たせているのは王別駕である」と喜んだ。劉詢らが[シ累]陰で挙兵して諸城がみな呼応したので、袁譚が「いま州を挙げて叛逆したのは孤の不徳のせいか」と歎息すると、王脩は「東[莱]太守管統は叛きません。必ずやってきます」と約束した。十日余りして、管統が妻子を棄てて来着したので、袁譚は改めて管統を楽安太守に任じた《王脩伝》。

袁譚は改めて袁尚を攻撃しようと思い、王脩に諮問したところ、王脩は「兄弟は左右の手です。それは人と戦おうとして自分の右手を切り、『我は必ず勝つぞ』と言うようなもの。だいたい兄弟を棄てて親しまないなら、天下の誰と親しむのでしょうか?近ごろ讒言者が双方で争って当面の利益を追求しておりますが、どうか耳を塞いでお聞き入れなきよう。もし佞臣数人を斬って(弟御と)仲直りし、四方を制御するならば天下を自由に往来できましょうぞ」と反対した。袁譚は聞き入れなかった《王脩伝・後漢書袁紹伝》。

荊州牧劉表は手紙を書いて袁譚を諫めた。「戦国時代以前には君臣・父子・兄弟が殺し合った例もありますが、王業を成し、霸業を定めたいと願っても、みな逆手で取って順手で守るというもので、繁栄は一代限りでありました。冀州(袁尚)どのが弟としての分を弁えておらぬとしても、仁君(袁譚)は気持ちを抑えて身を屈められ、仕事を成し遂げることを考えるべきです。百もの怒りを捨てられ、また本来の母子兄弟に戻られますように」《後漢書袁紹伝》。

十月、曹操が袁譚を救援すべく黎陽に着陣したので、袁尚は平原の包囲を解いて[業β]に引き揚げた。袁尚の将呂曠・高翔が曹氏に寝返ったが、袁譚は密かに将軍印を彫って呂曠・高翔に与えた。曹操は袁譚の企みに気付いていたが、袁譚の女を息子曹整の妻に迎えて彼を安心させ、軍勢をまとめて引き揚げた《後漢書袁紹伝》。

九年三月、袁尚が[業β]の守備に審配を残し、またも平原の袁譚を攻撃した。審配は手紙を書いて袁譚に告げた。「かつて先公が将軍を廃嫡して賢兄の後継者とされ、我が将軍を嫡統とされたことは天下みな知らぬ者はありません。どうして凶悪な臣下郭図なぞに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか。もしご改心なさらぬなら災禍は今にも参りますぞ」《後漢書袁紹伝》。袁譚は手紙を受け取ると城郭の上で泣いたが、郭図に脅迫され、たびたび矛先を交えていたため戦争をやめることができなかった《袁紹伝》。

五月、曹操が[業β]を包囲したので、袁尚は平原包囲を解いて帰還したが、曹操の迎撃を受けて中山に逃走した。曹操が[業β]を包囲しているうちに、袁譚はまた彼に背いて甘陵・安平・勃海・河間を奪い取り、中山において袁尚を敗走させ、彼の軍勢をことごとく手に入れた《後漢書袁紹伝》。袁尚の主簿李孚が主君とはぐれ、袁譚の元へ参詣した。袁譚は彼を改めて主簿に任じ、軍を返して龍湊に屯した《賈逵伝・後漢書袁紹伝》。

八月、曹操は[業β]を陥落させて審配を斬り、袁譚に手紙を送り、その違約を責めて婚姻を絶ち、彼の女を帰してから軍を進めた。十二月、曹操は袁譚をその陣門において攻撃した。袁譚は恐怖を抱き、夜中に平原を抜け出して南皮へと逃走し、清河を前に陣を布いた。曹操は平原に入城して諸県を平定する《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

柳城の烏丸蘇僕延は五千騎を派兵して袁譚に加勢しようとしたが、曹操が牽招を柳城に送って説得させたので、蘇僕延は派兵を取り止めた《牽招伝》。

翌十年正月、曹操は南皮を包囲したが、袁譚が突出したため多くの士卒が死亡した。曹純が虎豹騎を率いて強襲をかけた。袁譚は出撃しようとしたが軍勢の集結が間に合わなかった。明け方から真昼まで戦って決着が付かなかったが、曹操がみずから枹を手にして太鼓を叩くと、すぐ打ち破ることができた。袁譚は髪を振り乱して馬を飛ばせたが、曹純麾下の騎兵が「只者にあらじ」とみて急追する。袁譚は落馬し、振り返りながら「ちょっと、我を見逃してくれたら富貴にしてやろう」と言いかけたが、その言葉も終わらぬうちに首は地面に落ちていた《武帝紀・曹仁伝・後漢書袁紹伝》。

南皮城内では降服することに決定していたが、まだ混乱が続いていて落ち着かなかった。李孚は馬に乗って曹操陣営に行き、「冀州主簿李孚、密かに申し上げたき儀あり」と叫んだ。曹操が彼を呼び入れると、李孚は「いま城内では強者と弱者が争って落ち着きませぬ。降服者のうち城内でも信頼されている者に、ご命令を伝えさせるのがよろしかろうと存じます」と進言した。曹操は「卿の考えによって伝えよ」と命じた。李孚が城内へ帰り、「おのおの本来の持ち場へ帰れ、でしゃばってはならぬ」と命じると、城内は落ち着きを取り戻した《賈逵伝》。

王脩は楽安にいて食糧輸送に携わっていたが、袁譚の危急を聞き、手勢と諸従事たち数十人を率いて袁譚の元へと急いだ。しかし高城まで来たところで訃報を受け、馬を下りて号泣、「主君なくして帰れようか」と言って曹操の元へ参詣する。曹操は袁譚を梟首して「哭する者があれば妻子もろとも処刑する」と命じてあったが、王脩は首級の下で哭泣し、全軍を感動させた。軍正が処刑にすべきと報告したが、曹操は「義士である」と言って赦免、王脩が「袁氏のご厚恩を受けておりますので袁譚さまのご遺体を葬らせてください。そのあと死刑にしていただければ恨みはございません」と訴えたので、埋葬を許可してやった《王脩伝》。

「高城」は原文「高密」。袁譚のいた南皮とは逆方向になるため上の通りとした。

【参照】袁基 / 袁煕 / 袁尚 / 袁紹 / 王脩 / 華彦 / 賈信 / 郭援 / 郭図 / 管統 / 牽招 / 公孫[王贊] / 孔順 / 孔融 / 高幹 / 高覧 / 淳于瓊 / 沮授 / 鍾[ヨウ] / 辛毘 / 辛評 / 審配 / 蘇僕延 / 曹純 / 曹整 / 曹操 / 張[合β] / 鄭玄 / 田楷 / 逢紀 / 李孚 / 劉氏 / 劉詢 / 劉備 / 劉表 / 呂曠 / 呂翔高翔) / 安平国 / 河間国 / 河東郡 / 関中 / 官渡 / 館陶県 / 甘陵国 / 冀州 / 許県 / [業β]県 / 荊州 / 元城県 / 黄河 / 高城侯国 / 湿陰県[シ累]陰県) / 汝南郡 / 汝陽県 / 斉国 / 清河 / 青州 / 泰山 / 中山国 / 趙国 / 東海 / 東[莱]郡 / 南皮県 / 平原郡 / 北海国 / 勃海郡 / 楽安国(楽安郡) / 柳城 / 龍湊 / 黎陽県 / 刺史 / 車騎将軍 / 従事 / 主簿 / 相 / 太守 / 治中従事 / 都督 / 別駕従事 / 牧 / 茂才 / 印 / 烏丸 / 軍正 / 黄巾賊 / 虎豹騎

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