三国志モバイル人物伝

淳于瓊Chunyu Qiong

ジュンウケイ

(?〜200?)
漢右校尉

字は仲簡であろうか《武帝紀・後漢書袁紹伝》。袁紹の将、都督。

中平五年(一八八)八月、右校尉(あるいは佐軍校尉)に任じられ、蹇碩・袁紹・鮑鴻・曹操・趙融・馮芳・夏牟と合わせて西園八校尉と号す《後漢書霊帝紀・同何進伝》。動乱後は袁紹に仕えたようである。

興平二年(一九五)冬、帝の御車が曹陽で切迫していたとき、袁紹は沮授の進言によって奉迎しようとした。淳于瓊は郭図とともに「漢室はもう衰退して久しく、今さら復興させるのは不可能です。しかも英雄たちが州郡に割拠して軍勢を集めており、いわゆる秦が逃した鹿を捕まえた者が王になるという状態です。いま天子を奉迎すれば行動するたびにお伺いを立てねばならず、言いつけを守れば権威は軽くなり、守らなければ命令違反になってしまいます。良計ではありません」と反対し、袁紹に奉迎を取り止めさせた《後漢書袁紹伝》。

建安四年(一九九)、袁紹は四州を兼併して軍勢は数十万に上った。そこで精兵十万人を選りすぐり、沮授の管轄下にあった軍勢を三手に分け、沮授・郭図・淳于瓊を三都督として一軍づつ統括させた《後漢書袁紹伝》。

翌五年二月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を黄河南岸に渡して白馬を包囲させるとともに、袁紹自身も軍勢を率いて黎陽に向かい、そこから渡河しようとした。四月、曹操に揺動をかけられて手薄になったところ、顔良が張遼・関羽に斬られたので、袁紹軍は白馬の包囲を解いた《武帝紀》。

袁紹軍は黄河を渡って延津の南岸に塁壁を築き、さらに陽武に進出して官渡の曹操軍と対峙した。そのまま百日余りも対峙が続き、黄河南岸では疲労困憊して袁紹軍に寝返る者が相次いだ。冬十月、(軍勢が膨れあがったため)袁紹は淳于瓊らに一万人余りを授けて北方から兵糧を搬入させた《武帝紀・後漢書袁紹伝》。

淳于瓊が兵糧を輸送して烏巣まで来たとき、曹操が歩騎五千人を率いて夜中に接近してきた。淳于瓊は曹操が小勢であるのを見て陣営の外へと出た。そこへ曹操が急襲をかけてきたので淳于瓊は陣中に引き返したが、曹操が陣営に火を放ったため軍中は大騒ぎとなり、楽進以下、曹操軍の攻撃を受けて大敗した。兵糧は焼き尽くされ、[目圭]元進・韓[キョ]子・呂威[王黄]・趙叡らは斬首された《武帝紀・楽進伝・後漢書袁紹伝》。

淳于仲簡(淳于瓊?)は戦闘中に鼻を失い、夜中に曹操の手の者に捕らえられた。曹操が言った。「どうしてこんな有様になったのかね?」、淳于仲簡「勝負は天に従うもの。どうして質問することがあろうか!」。曹操は心底から殺すまいと思っていたが、許攸が「明朝、鏡を見れば、こいつはいよいよ他人(への恨み)を忘れますまいぞ」と言ったので、淳于仲簡は処刑された《武帝紀》。

【参照】袁紹 / 夏牟 / 郭図 / 楽進 / 関羽 / 韓[キョ]子 / 顔良 / 許攸 / 蹇碩 / 沮授 / [目圭]元進 / 曹操 / 張遼 / 趙叡 / 馮芳 / 鮑鴻 / 劉協(帝) / 呂威[王黄] / 烏巣 / 延津 / 官渡 / 黄河 / 秦 / 曹陽亭 / 白馬県 / 陽武県 / 黎陽県 / 右校尉 / 佐軍校尉 / 西園八校尉 / 都督

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