三国志モバイル人物伝

胡軫Hu Zhen

コシン

(?〜?)
漢司隷校尉

字は文才《破虜伝》。涼州の大人《董卓伝》。

初平元年(一九〇)正月、反董卓の義兵が起こったとき東郡(または陳郡)太守を務めていたが、翌二年になって予州刺史孫堅が梁の陽人城に進出してくると、董卓は胡軫を大督護、呂布を騎督に任じ、歩騎五千人で攻撃させた。胡軫は性急なたちで、あらかじめ「今こうして軍を進めているが、とどのつまり青綬(太守)一人を斬れば静かになるのだ」と宣言していた。呂布以下の諸将は彼を憎んだ《破虜伝》。

陽人城まで数十里の広成に到着したとき、ちょうど日が暮れて人馬ともに疲労を極めており、董卓の指示通り、ここで野営して人馬に糧秣を取らせ、夜明けとともに城攻めをすべきであった。諸将は胡軫を憎悪していたので、いっそのこと敵が胡軫を撃ち破ってくれればよいと思った。そこで呂布は「陽人城内の敵はもう逃走した。追わなければ逃げられてしまうぞ」と言い、軍は真夜中に進軍した。城中の守備は万全で、陥落させられそうになかった。軍吏も兵士も飢えや渇きに苦しみ、人馬ともに疲労していた。そのうえ夜中に到着したので、塹壕も堡塁もなかった《破虜伝》。

鎧を脱いで休息していると、また呂布は「城内の賊が出てきたぞ」と兵士たちを驚かせた。軍勢は混乱して潰走した。みな鎧を棄て、馬の鞍を失い、十里余りも逃げてきて賊がいないことに気付いた。ちょうど夜明けとなり、また城攻めに戻った。武器を拾い、城を攻めようとしたが、城の守備は固く、塹壕も深く掘られていて、胡軫らは陥落させることができず撤退した《破虜伝》。軍は孫堅に敗れて都尉葉雄を失った《破虜伝》。

翌三年四月、司徒王允が董卓を誅殺すると、胡軫は王允に属した。五月、董卓の旧将李[イ寉]・郭[シ巳]らが軍を率いて長安に攻め上ると聞き、王允は胡軫と徐栄に防がせた《後漢書董卓伝》。もともと胡軫は王允と仲が悪く、李[イ寉]らが叛くと聞いた王允は胡軫と楊定を呼び、李[イ寉]らを説得して解散させようとしたが、優しげな表情を作らず「関東の鼠めは何をするつもりだ。卿らは行って呼んできなさい」と言った《董卓伝》。それを憎んだ胡軫と楊定は、新豊まで来ると李[イ寉]らに降伏し、徐栄は戦死した《後漢書董卓伝》。

のち司隷校尉となったが、もともと馮翊郡の功曹游殷と仲が悪く、無実の罪に陥れて死刑とした。それから一ヶ月余りすると病気になり、「罪を認めます。罪を認めます。游功曹が亡者を連れてきた」と言いながら死んでしまった《張既伝》。

【参照】王允 / 郭[シ巳] / 胡[禾中] / 徐栄 / 孫堅 / 董卓 / 游殷 / 葉雄 / 楊定 / 李[イ寉] / 呂布 / 広成聚 / 司隷 / 新豊県 / 陳国(陳郡) / 長安県 / 東郡 / 馮翊郡 / 予州 / 陽人城 / 梁県 / 涼州 / 騎督 / 功曹 / 刺史 / 司徒 / 司隷校尉 / 太守 / 大督護 / 都尉 / 青綬 / 大人

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