三国志モバイル人物伝

何[禺頁]He Yong

カギョウ

(?〜190?)
漢相国長史

字は伯求。南陽郡襄郷の人。

若いころ洛陽に遊学し、若輩ながら郭泰・賈彪らと交流して太学で名を知られた。友人に虞偉高という者がいて、父の仇討ちを果たせぬまま病気が重くなった。何[禺頁]が見舞いに行くと虞偉高は涙ながらに無念を訴えた。何[禺頁]はその義心に心打たれ、かれの代わりに復讐を果たしてやり、仇敵の首を虞偉高の墓に供えた。

何[禺頁]には人を見る目があり、同郡の張機、字を仲景という者がまだ総角だったころ、何[禺頁]を訪ねたことがあり、何[禺頁]は「君は思慮をこらすも風雅はよろしからず。きっと名医になるだろう」と言った。まさしくその言葉どおりになった《集解》。

曹操に会ったときは、ため息を吐きながら「漢朝は滅びんとしている。天下を落ちつかせるのはこの人物に違いない」と言った。またつねづね「潁川の荀[イク]は王佐の器である」とも言っていた。

陳蕃・李膺が失敗したとき、二人と親密であった何[禺頁]は宦官どもにあらぬ罪を着せられ、姓名を変えて汝南一帯に身を隠した。行く先々でその地の豪傑たちと交わり、荊・予の地方で名声を高めた。袁紹もかれを思慕して密かに往来し、「奔走の友」の契りを結んだ。

そのころ党錮事件が発生し、天下の人々の多くは危険から身を置こうとした。しかし何[禺頁]は毎年二・三回《荀攸伝》、いつも洛陽に潜入して袁紹のもとで謀議をこらし、逼塞困窮する者があれば求めに応じて救済してやり、捕縛された者があればさまざまに計略を考えて逃亡を助けてやったりしたので、命をまっとうできた者は非常に多かった。

ただ袁紹と名声を競っていた袁術とは仲が悪く、何[禺頁]がかれを訪ねていくことがなかったので恨みを買っていた。袁術は満座の席上で「王徳弥は名声徳義のある先達なのに伯求は軽んじている。許子遠は邪悪かつ不純な人物であるのに伯求は親しくしている。郭泰・賈彪は貧しく財産がないのに伯求は名馬・毛皮で着飾っている」と何[禺頁]をなじり、陶丘洪に「王徳弥は賢者ですが時事にうとく、許子遠は不純ですが危難を恐れません。それに伯求は虞偉高の仇討ちをしたことがあり、相手は資産家でした。もし伯求が痩せ牛に乗っていたら、仇敵の手で路上に倒されていたでしょう」と諭されている《荀攸伝》。

袁術はまた「何伯求は悪党だから殺してやるつもりだ」とも言っており、宗承に「何先生は英俊ですぞ。貴殿はかれを礼遇して天下に名声を馳せるべきです」と宥められた《荀攸伝》。

党人に対する禁錮が解除されると、何[禺頁]は司空府に招聘された。三府で会議が開かれるたびに、何[禺頁]の正しさを支持しない者はなく、昇進を重ねていって北軍中候となった《荀攸伝》大将軍何進は宦官誅殺を計画するにあたり、逢紀・荀攸らとともに何[禺頁]を招いて腹心とした《後漢書何進伝》。

董卓は政権を握るとむりやり何[禺頁]を長史に任命しようとしたが、病気にかこつけて就任しなかった。尚書鄭泰・侍中伍瓊とともに袁紹を勃海太守に任ずるよう進言した《後漢書鄭泰伝》。何[禺頁]は司空荀爽・司徒王允・黄門侍郎荀攸・議郎鄭泰・侍中[禾中]輯・越騎校尉伍瓊《荀攸伝》らとともに董卓殺害を計画していたが、荀爽は折あしく薨去し、何[禺頁]も董卓によって別件で投獄され、怒りと哀しみのあまり自殺して《荀攸伝》亡くなった。

ここでは長史に就任しなかったとあるが、他所ではすべて董卓の長史と呼ばれている。政権内部から董卓打倒を計画したと考えるのが妥当かと思われる。また『荀攸伝』では鄭泰とともに何[禺頁]を議郎としている。

荀[イク]は尚書令になると、使者を西方に出して叔父荀爽の遺体を取りよせ、同時に何[禺頁]の遺体も運んで、かれを荀爽の墓の傍らに埋葬してやった。

【参照】袁紹 / 袁術 / 王允 / 王徳弥 / 何進 / 賈彪 / 郭泰 / 許攸(許子遠) / 虞偉高 / 伍瓊 / 荀[イク] / 荀爽 / 荀攸 / 宗承 / 曹操 / [禾中]輯 / 張仲景(張機) / 陳蕃 / 鄭泰 / 陶丘洪 / 董卓 / 逢紀 / 李膺 / 潁川郡 / 荊州 / 襄郷県 / 汝南郡 / 南陽郡 / 勃海郡 / 予州 / 洛陽県 / 越騎校尉 / 議郎 / 黄門侍郎 / 司空 / 侍中 / 司徒 / 尚書 / 尚書令 / 太守 / 大将軍 / 長史 / 北軍中候 / 王佐之器 / 宦官 / 太学 / 公府(司空府・三府) / 奔走之友

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