三国志モバイル人物伝

張遼Zhang Liao

チョウリョウ
(チヤウレウ)

(169〜222)
魏使持節・前将軍・晋陽剛侯

字は文遠。雁門郡馬邑県の人。もともと聶壱の子孫だが匈奴の復讐を避けるため姓を改めた。

若いころ郡役人となり、武勇を見込まれて并州刺史丁原に従事として召し出される。兵を率いて都に赴き、大将軍何進のために河北で兵卒千人を徴募したが、帰洛したとき何進が宦官に殺されていたので董卓に属し、また董卓も敗れると呂布に属して騎都尉に任じられた。呂布が李[イ寉]に敗れて徐州に逃れると、魯国相となる。ときに二十八歳。曹操が下[丕β]で呂布を滅ぼすと軍勢を引き連れて投降し、中郎将・関内侯となった。のち武功を重ねて裨将軍に昇進する。袁紹が敗北すると魯国の諸県を平定した。

東海郡に拠る昌[豕希]を夏侯淵とともに包囲したが、数ヶ月のあいだ落とせず兵糧が底をつき、軍議の席で撤退について話し合いとなった。張遼は夏侯淵に「ここ数日、昌[豕希]は私の顔をじっと見つめて矢を射ようともしません。私に彼と話をさせて下さい」と言った。そこで使者をやると昌[豕希]は城を出て話し合いに応じ、張遼が「曹操様は徳義によって天下を治めておられる。今帰服すれば大きな恩恵を受けられるだろう」と言うと、昌[豕希]は喜んで投降した。曹操はこれを聞いて「大将のやることではない」と叱ったが、張遼は「明公の威信が天下に鳴り響いているので、昌[豕希]には逆らう勇気がないと思ったのです」と陳謝した。

袁譚・袁尚討伐のため黎陽に従軍し、行中堅将軍に任じられた。また[業β]の袁尚を攻撃したが、袁尚が堅く守ったので、曹操は許に帰還して、張遼と楽進は陰安を攻略して住民を黄河南岸に移した。また[業β]を攻撃して、これが陥落すると、趙・常山を平定し、黒山賊孫軽らを降伏させた。さらに袁譚攻撃に参加してこれを破ると、別軍を率いて沿海地域を攻略し、遼東の賊柳毅を撃破した。[業β]に帰還すると曹操は自ら張遼を迎え、手を引いて同じ車に乗せ、盪寇将軍に任命した。

また別軍を率いて荊州江夏郡を平定し、臨潁に戻って駐屯し、そこで都亭侯に封じられた。袁尚討伐戦に従軍して柳城に至ったが、突如[トウ]頓らが襲撃してきた。張遼は曹操に迎撃することを勧めたが、彼の意気軒昂たる様子を見て、曹操は指揮の旗を張遼に授けて戦わせた。張遼は賊軍と戦って撃ち破り、単于[トウ]頓の首を斬った。

長社に駐屯したとき、叛逆を企てた者が夜間に火を放ち、軍中が大いに混乱した。張遼は側の者に「みだりに動くな。叛逆者が騒ぎを大きくしているだけだ」と言って、軍中に静まるように命令し、張遼自身は数十人の供を連れて陣の中央に立つと、騒動は鎮まったので、叛逆者を捕まえて処刑した。

陳蘭・梅成が六・[セン]県をこぞって叛乱すると、于禁・臧霸が梅成にあたり、張遼は張[合β]・朱蓋を連れて陳蘭にあたった。梅成は一度于禁に降ったが再び背き、陳蘭とともに[セン]山に立て籠もった。山の中に天柱山という頂があり、その上に陳蘭らの砦があったが、そこまでの道は狭く険しかったので、将軍たちは「我が軍の数は少なく道は険しいので進むことができない」と言ったが、張遼「これは一騎打ちの道といって勇者なら進むことができるのだ」と言って侵入し、陳蘭・梅成らを攻撃して首を斬った。曹操はこれを賞して張遼の所領を加増し、仮節を与えた。

のちに楽進・李典ら七千人とともに合肥に駐屯して孫権に備える。曹操が漢中制圧のため西方に行ったので、孫権は軍勢十万を起こして合肥に攻め寄せた。曹操が事前に彼らに残した命令書には「張遼・李典は城外で戦え」とあったが、諸将はためらって同意しなかった。張遼は「公の救援を待っていたら我が軍は敗北するぞ。敵の包囲網が整わぬうちに攻撃してから守ればよい」と主張し、李典も賛成したので、勇気のある兵士八百人を募集し、牛を潰して彼らに振る舞った。

翌朝、張遼は自ら先頭に立って敵陣に突入し、二人の将と数十人の兵を斬り、名乗りを挙げながら孫権の本陣まで迫った。孫権らは驚いてなすすべなく小高い丘に逃れた。張遼は下りてきて戦えと叫んだが、孫権は敵の少なさを見て取って彼らを包囲させた。張遼は左右に斬り込んで、数十人の部下とともに幾重にも重なる包囲を切り抜けた。残された部下たちが「私たちを見捨てないでください」と叫んだので再び敵中に飛び込み、彼らを救い出してやった。こうして真昼まで戦い、孫権の軍勢はすっかり戦意をなくしてしまったので、張遼は合肥城に帰還した。孫権は十余日かけて城を落とせなかったので撤退したが、張遼はこれを追撃して孫権を捕える寸前まで大勝利を収めた。曹操は非常に感じ入り、彼を征東将軍に任じた。

建安二十一年(二一六)、曹操は孫権征伐のため合肥に駐屯したとき、張遼が戦った場所を巡り歩いて感歎した。張遼の兵を増やして居巣に駐屯させた。のち曹仁が樊城で関羽に包囲されたので張遼は救援に向かった。到着しないうちに徐晃が関羽を破ったので、摩陂で曹操に拝謁した。曹操は輦に乗って張遼の軍をねぎらった。孫権はすでに帰服していたので、陳郡に駐屯することになった。

曹丕が魏王に即位すると前将軍を拝命する。領地を兄張汎に分けられ、子が列侯に封じられた。再び孫権が叛逆したので合肥に駐屯し、都郷侯に封じられた。張遼の母に車が支給され、家族は官軍に守られて合肥に赴いた。彼らが到着すると、合肥に駐留する諸将軍吏は道に並んで挨拶をして出迎えた。

曹丕が帝位に即くと晋陽侯に進められ、千戸加増されて二千六百戸となった。翌黄初二年(二二一)に洛陽に参内したとき、曹丕は親しく孫権を撃ち破ったときのことを尋ね、感嘆して彼を「古の召虎である」と言った。また彼のために邸宅を建て、その母のために御殿を築いた。そして張遼とともに孫権と戦った兵士たちを召して虎賁とした。

孫権が臣礼をとったため駐屯地を雍丘に移したが、ここで病気に罹った。曹丕は侍中劉曄と太医を張遼のもとに派遣し、また虎賁たちも彼の病気を心配して道路に引きも切らなかった。曹丕は彼を行在所に召し寄せ、親しく見舞って手づから御衣を下賜した。また太官に命じて天子と同じ食事を贈った。こうして張遼の病気はやや治癒した。

孫権はまたも叛逆したので、張遼は舟に乗って曹休とともに海陵に駐屯した。このとき孫権は彼を恐れ、諸将に「張遼は病気だとはいえ油断してはならぬぞ」と命じた。張遼は孫権の将呂範を撃破した。張遼の病気はますます重くなって、江都にて亡くなった。曹丕は彼のために涙を流し、剛侯と諡した。

【参照】于禁 / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 何進 / 夏侯淵 / 楽進 / 関羽 / 朱蓋 / 徐晃 / 召虎 / 昌[豕希] / 聶壱 / 曹休 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 臧霸 / 孫軽 / 孫権 / 張[合β] / 張汎 / 陳蘭 / 丁原 / 董卓 / [トウ]頓 / 梅成 / 李[イ寉] / 李典 / 柳毅 / 劉曄 / 呂範 / 呂布 / 陰安邑 / 海陵県 / 合肥侯国 / 下[丕β]国 / 河北 / 漢中郡 / 雁門郡 / 許県 / [業β]県 / 居巣県 / 荊州 / 江夏郡 / 江都 / 徐州 / 常山国 / 晋陽県 / [セン]山 / 潜県[セン]県) / 趙国 / 長社県 / 陳国(陳郡) / 天柱山 / 東海郡 / 馬邑県 / 樊城 / 并州 / 摩陂 / 雍丘 / [各隹]陽県洛陽県) / 六県 / 柳城 / 遼東郡 / 臨潁県 / 黎陽県 / 魯国 / 王 / 関内侯 / 騎都尉 / 侯 / 剛侯 / 刺史 / 侍中 / 従事 / 相 / 征東将軍 / 前将軍 / 太医 / 太官 / 大将軍 / 中堅将軍 / 中郎将 / 盪寇将軍 / 都郷侯 / 都亭侯 / 裨将軍 / 諡 / 仮節 / 宦官 / 匈奴 / 行 / 黒山賊 / 虎賁 / 単于 / 輦 / 列侯

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