三国志モバイル人物伝

関羽Guan Yu

カンウ
(クワンウ)

(162?〜219)
蜀前将軍・襄陽太守・董督荊州事・漢寿亭壮穆公

字ははじめ長生、のち雲長。河東郡解の人。

故あって郷里を去り[タク]郡に逃亡。劉備が黄巾党討伐のため兵を集めていると聞き、張飛とともに彼に仕えた。劉備が平原相になると張飛とともに別部司馬に任命される。のち劉備が徐州牧になると呂布が徐州に入って劉備と同盟したが、このとき下[丕β]の守備を命じられた。呂布に裏切られた劉備らが許の曹操を頼ると、曹操殺害を勧めたが受け入れられなかった。

董承の曹操暗殺計画が露見すると劉備は小沛に逃れたが、関羽は下[丕β]の守備と統治を行った。徐州の統治を任されたともいう。しかし建安五年(二〇〇)、曹操が小沛・徐州を攻撃すると、劉備は敗れて袁紹を頼って亡命し、関羽は曹操に捕らわれた。曹操は関羽の人柄に感じ入り、彼を偏将軍に任じて厚遇を尽したが、関羽は「曹公の厚恩は有難いが死を誓い合った劉将軍を裏切ることはできぬ。必ず手柄を立てて曹公に恩返ししたうえで立ち去りたい」と張遼に告げた。曹操は張遼とともに袁紹の将軍顔良を撃たせたが、関羽は敵軍勢の真っ只中に斬り込んで顔良を討ち、大軍を物ともせず首級を提げて帰陣した。この功により漢寿亭侯に封じられた。関羽は曹操からの恩賞を封印して劉備のもとに去った。曹操は「主君のため忠義を尽しているのだ。彼を追ってはならぬ」と部下に命じる。

劉備とともに劉表に身を寄せたが、劉表が死んで曹操軍が南下すると別働隊として数百艘の水軍を預けられ、漢津まで来たところで長阪で敗れた劉備軍と出会い、彼らを船に乗せて夏口まで進んだ。赤壁の戦いののち劉備が荊州南四郡を攻略すると、襄陽太守・盪寇将軍に任じられて長江北岸に駐屯した。さらに益州が平定されると荊州の監督を一任される。

建安二十四年(二一九)に劉備が漢中王に就くと前将軍に任命され、節鉞を与えられた。曹仁が立て籠もる樊城を攻め、秋になって長雨が降ると曹仁の援軍として駆け付けた于禁の軍勢は水没し、于禁を捕虜とし[ホウ]悳を斬った。曹操は荊州に近い許を拠点としていたため関羽を恐れて遷都を諮ったが、司馬懿らの計略により孫権と関羽を仲違いさせた。また関羽は傲慢な性格だったため南郡太守麋芳・将軍士仁の恨みを買っていた。麋芳と士仁は支援を怠り、関羽の怒りを恐れて孫権に降った。さらに曹操も徐晃を遣して曹仁を助けたので関羽は敗北し、荊州江陵城は陥落して孫権のものとなる。孫権軍の攻撃を受けた関羽は臨沮の地で子の関平とともに斬られた。孫権は彼の首級を曹操に送り、曹操は諸侯の礼をもって関羽を葬った。

のち蜀が建国されて劉禅が皇帝のとき、関羽は壮穆侯と諡された。

【参照】于禁 / 袁紹 / 関平 / 顔良 / 士仁 / 司馬懿 / 徐晃 / 曹仁 / 曹操 / 孫権 / 張飛 / 張遼 / 董承 / 麋芳 / [ホウ]悳 / 劉禅 / 劉備 / 劉表 / 呂布 / 益州 / 解県 / 夏口 / 河東郡 / 下[丕β]国 / 漢寿亭 / 漢津 / 漢中郡 / 許県 / 荊州 / 江陵県 / 徐州 / 沛県(小沛県) / 襄陽郡 / 蜀 / 赤壁 / [タク]郡 / 長江 / 長阪 / 南郡 / 平原国 / 樊城 / 臨沮県 / 王 / 相 / 前将軍 / 将軍 / 太守 / 亭侯 / 盪寇将軍 / 都督(董督) / 別部司馬 / 偏将軍 / 牧 / 諡 / 黄巾党 / 節鉞 / 壮穆侯

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。