三国志モバイル人物伝

張裔Zhang Yi

チョウエイ
(チヤウエイ)

(?〜230)
蜀射声校尉・輔漢将軍・留丞相府長史

字は君嗣。蜀郡成都の人。

許靖が蜀の劉璋に仕えたとき「張裔は実務の才能があって機転が効く。北方の鍾[ヨウ]のような人物だ」と言ったので、孝廉に推挙されて魚復県長となり、のち州従事・帳下司馬に任じられた。張飛の益州侵攻を徳陽の陌下で防いだが敗北する。降伏の使者として劉備と会見し、劉璋主従の安全を約束させて帰還したので劉璋は降伏した。巴郡太守・司金中郎将に任命され、農機具や武器の鍛造を担当した。

益州の豪族雍[カイ]は恩徳と信義によって南方で知られていた。その支持者たちが益州太守を殺害すると張裔が後任となったが、雍[カイ]は服従せず、張裔を捕まえて身柄を呉に送った。劉禅が即位したとき諸葛亮は呉と同盟したが、同時に張裔の身柄引き渡しを求めた。孫権は張裔と面識がなかったので彼を引見してからかった。孫権「蜀の卓氏の女は司馬相如と駆け落ちしたが、それが蜀の風習なのか」、張裔「朱買臣の出世が待ちきれずに離婚した呉の女よりはましでしょう」。劉備に嫁いだ孫権の妹が呉に逃亡したことを言ったのである。孫権は機嫌良く談笑して張裔を立派だと考えた。張裔は退出して愚者のふりをすべきだったと後悔し、船に乗ると昼夜兼行して帰国した。孫権は彼を追跡させたが追い付けなかった。

蜀に帰還すると丞相諸葛亮は彼を参軍とし、益州治中従事を兼ねさせた。諸葛亮が漢中に駐留するようになると射声校尉・留府長史に進む。のち輔漢将軍を加官された。彼は若いころ楊恭と親しかったが、彼が若死にしたので数歳の遺児を引き取って養育し、実母に対するように楊恭の母に仕えた。楊恭の子が成長すると妻を世話してやり、田地や邸宅を買い与えている。建興八年(二三〇)に亡くなった。

【参照】許靖 / 司馬相如 / 朱買臣 / 諸葛亮 / 鍾[ヨウ] / 孫夫人(孫権の妹) / 孫権 / 卓氏 / 張飛 / 楊恭 / 雍[カイ] / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 益州郡 / 漢中郡 / 魚復県 / 呉 / 蜀 / 蜀郡 / 成都県 / 徳陽県 / 巴郡 / 陌下 / 県長 / 孝廉 / 参軍 / 司金中郎将 / 射声校尉 / 従事 / 太守 / 治中従事 / 帳下司馬 / 輔漢将軍 / 留府長史

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