三国志モバイル人物伝

孫夫人Sun furen

ソンフジン

(?〜?)

孫権の妹、劉備の夫人《先主伝》。

建安十四年(二〇九)、孫権は、荊州牧になった劉備を恐れ、自分の妹を嫁がせて友好関係を結ぶことにした。劉備は公安の劉郎浦で夫人の船を迎え、その南の繍林山で盛大に婚礼を挙げた。劉備が京へ赴いて孫権に会い、両家はいたく親密な間柄になった《先主伝・同集解》。

夫人は剛胆で目端が利き、兄たちと同じような風格を備えていた。百人余りの女中たちはみな手に手に刀を持って侍立したので、劉備は部屋に入るたび、内心、いつもびくびくしていた《法正伝》。また、北に曹操、東に孫権がいたうえ、懐で孫夫人がいて変事を起こしはしないかとも心配していた《法正伝》。

十六年、劉備は益州入りに際し、孫夫人が呉から連れてきた数多くの官吏兵士どもが不法行為を働くことに頭を悩ませ、留営司馬趙雲の厳格慎重さならばきっとうまく仕切ってくれるだろうと考え、特例として劉氏家中の仕事を委ねた《趙雲伝》。

孫権は劉備が西上したと聞いて、大船団を送って妹を迎え入れることにした。夫人は太子劉禅を連れて帰国しようとしたが、諸葛亮がそれを知り、趙雲に軍勢を授けて劉禅を取り戻すよう命じた。趙雲は張飛とともに軍兵を率いて長江を遮断し、ようやく劉禅を取り戻しすことができた《穆皇后・趙雲伝》。夫人は劉備と仲違いしたため、公安の西に城を築いて、そこに住まいした《先主伝集解》。

のちに劉備が益州を平定すると、孫夫人は呉へ帰国した《穆皇后伝》。

『集解』では孫夫人が劉禅を連れ去ろうとしたのを建安二十年に荊州の領有権をめぐって両家が争ったときのことと推定しているが、ここでは採らない。夫人は劉備と仲違いして公安に築城したというが、それはいつごろのことであろうか。建安二十年、趙雲らはすでに成都に入っていたから、『集解』に従えば夫人も同地にいたことになり、公安に城を築くいとまはない。また荊州が争われたときも公安附近は劉氏の勢力圏であって、やはり夫人が築城することはほとんど不可能だった。つまり『集解』に従うかぎり、夫人が公安に築城したとの記録に矛盾してしまうのである。夫人が劉禅を連れ去ろうとしたのは、劉備が益州入りして以後、趙雲らが公安を去る以前、公安で起こったできことであり、その事件のために不仲となり、公安に城を築いて別邸としたが、両国の戦闘が本格化したのに伴って退去したとみる方が自然ではないだろうか。

【参照】諸葛亮 / 曹操 / 孫権 / 張飛 / 趙雲 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 京 / 荊州 / 呉 / 公安 / 繍林山 / 孫夫人城 / 長江 / 劉郎浦 / 牧 / 留営司馬

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。