三国志モバイル人物伝

[ホウ]羲Pang Xi

ホウギ
(ハウギ)

(?〜?)
漢左将軍営司馬

河南尹の人《劉焉伝》。劉璋の子劉循の岳父である《劉璋伝》。

はじめ官に仕えて議郎となっていたが、先祖代々の付き合いがあった劉焉の子劉範が馬騰とともに長安を襲撃し、敗北して殺されると、劉範の遺児たちを引き連れて蜀に入った《劉焉伝》。[ホウ]羲は和徳中郎将となった《華陽国志》。劉焉の死後、劉焉の子劉璋は漢中の張魯と仲違いし、しばしば[ホウ]羲・李異に張魯を討伐させたが勝てなかった。そこで興平二年(一九五)、[ホウ]羲を安漢に駐屯させ、巴郡太守に任じて張魯を防がせた《華陽国志》。

動乱に備えて漢昌の[ソウ]族をかり集めて私兵にしていたところ、叛逆の意ありと劉璋に讒言する者があった。建安六年(二〇一)に征東中郎将趙[是韋]の叛乱が鎮圧されると、[ホウ]羲は処罰を恐れ、実際に兵を挙げようとしたが、程畿が誠意をもって弁明するよう勧め、また[ホウ]羲が程畿の子程郁を人質に脅しても程畿が屈しなかったので、けっきょく劉璋に陳謝し、処罰を免れた《華陽国志・楊戯伝》。郡名が改称されて巴西太守となる《華陽国志》。[ホウ]羲は功績を誇って増長し、劉璋に従わなくなっていった《劉璋伝》。

建安十九年、劉備が益州を平定すると左将軍営司馬となり、麋竺・簡雍らと並んで賓客として遇された《先主伝・華陽国志》。同二十四年、劉備を漢中王に薦める上表文に名を列している《先主伝》。

【参照】簡雍 / 張魯 / 趙[是韋] / 程郁 / 程畿 / 馬騰 / 麋竺 / 李異 / 劉焉 / 劉循 / 劉璋 / 劉範 / 劉備 / 安漢県 / 河南尹 / 漢昌県 / 漢中郡 / 蜀 / 巴西郡(巴郡) / 営司馬 / 王 / 議郎 / 左将軍 / 征東中郎将 / 和徳中郎将 / [ソウ]族

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