三国志モバイル人物伝

李異Li Yi

リイ

(?〜?)

劉璋・孫権の将《劉璋伝》。

はじめ益州牧劉璋に仕えていた。漢中の張魯が劉璋と反目するようになると、劉璋はたびたび李異・[ホウ]羲に彼を討伐させたが勝つことができなかった《華陽国志》。

のちに征東中郎将趙[是韋]の配下になったが、建安五年(二〇〇)、趙[是韋]は蜀郡・広漢・[牛建]為をこぞって劉璋に叛逆し、劉璋配下の東州兵に撃退されて江州まで走った。翌六年、李異は[ホウ]楽とともに趙[是韋]を裏切って斬殺した《劉璋伝》。そうした経緯のためか、益州別駕張松の言葉では、李異は[ホウ]羲らとともに功績を誇っていたという《劉璋伝》。

その後、益州を出て孫権に仕えたようである。劉備が益州に入って劉璋を攻撃したとき、劉備に心を寄せていた軍議校尉法正は劉璋に手紙を送り、そのなかで「孫車騎将軍(孫権)は自分の弟と李異・甘寧らを派遣して劉備軍を支援させている」と述べている《法正伝》。

劉璋の部将と孫権の部将を別人とする説もあるが《集解》、法正が劉璋を脅迫した文書に、やはり益州出身の甘寧と並んで列名されていることから同人と考えた。

建安二十四年十二月、陸遜は呂蒙とともに関羽を滅ぼし、李異と謝旌に軍勢三千人を与えて劉備の将[セン]晏・陳鳳を攻撃させた。李異は水軍を率い、謝旌は歩兵を率いて、ともに要衝の地を押さえ、即座に[セン]晏を撃破して陳鳳を生け捕りにした《陸遜伝》。

黄初二年(二二一)七月、劉備軍の東下にそなえ、陸遜・劉阿にとともに巫・[シ]帰に駐屯した。しかし劉備の将軍呉班・馮習の攻撃によって撃破された《先主伝》。翌年六月、陸遜が[コウ]亭において劉備軍を破ると、李異は劉阿とともに追撃し、南山まで進出している《先主伝》。

【参照】関羽 / 甘寧 / 呉班 / 謝旌 / [セン]晏 / 孫権 / 張松 / 張魯 / 趙[是韋] / 陳鳳 / 馮習 / 法正 / [ホウ]楽 / [ホウ]羲 / 陸遜 / 劉阿 / 劉璋 / 劉備 / 呂蒙 / 益州 / [コウ]亭 / 漢中郡 / [牛建]為郡 / 広漢郡 / 江州県 / [シ]帰県 / 蜀郡 / 南山 / 巫県 / 軍議校尉 / 車騎将軍 / 征東中郎将 / 別駕従事 / 牧 / 東州兵

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